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創価学会ノート

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2011-06-17

原発推進派の池田大作

 福島第一原発の事態は深刻さを増しており、沖縄を除く全国の電力会社が持つ原発の再稼働も目処が立たない。世論は原発に厳しい眼差しを向けており、全炉廃止という意見も日に日に強まっている。

 平和の党、環境の党を標榜する公明党は、もちろん、原発推進派である。それよりも何よりも、池田大作原発に大きな期待を寄せてきたのである。池田は最も誇るA・トインビー博士との対談の中で、以下のように発言している。

 「今後のエネルギー資源問題を考えるとき、原子力の平和利用が一つの重要な解決策になるものとみられています。1955年に、第一回原子力平和利用国際会議がジュネーブで開かれて、原子力平和利用への機運が世界的に盛り上がって以来、先進工業国では競ってその開発が進められています。原子力が、新たな、将来性あるエネルギー源として平和的に利用されることは、喜ばしいことだと思います。(中略)原子力といっても、むろん鉱物資源の一種である以上有限であり、将来いつかは枯渇する時がくるでしょう。しかし、世界的にはこれからといってよい分野であり、その単位当たりのエネルギー量からいっても、石油、石炭に代わる動力源として、大いに期待できると思います」(『二十一世紀への対話』下巻)。

 21世紀初頭に、今回のような人命を脅かす事故が起きたことは、皮肉にもならないほど重大事であるが、池田はどう見ているのだろうか。今となっては、そんなことが起きていることすらわからないかもしれない。池田大作の特徴として、時流にすぐに飛びつくということが挙げられるが、この原発にまつわる発言も、側近が調べた資料の中で「いける!」と思って取り上げたのだろう。

 彼の節操のなさは、たとえば、厚い友情を交わしたはずのパナマのノリエガ将軍が、麻薬ビジネスで逮捕されるとその痕跡をすべて消し去ったことでもわかるが、ルーマニアチャウシェスクについては、「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」(「聖教新聞」昭和五十八年六月十日付)、「大統領は若く、偉大なる指導者であり、独自の哲学をもち、また魅力をもった方であると認識しています。私はその大統領に将来見習っていかなくてはならないこともよく知悉しているつもりである」(昭和五十年三月二十五日、聖教新聞社で駐日ルーマニア大使のニコラエ・フィナンツー氏との会談)、はたまた、「大統領のような聡明な指導者をもったお国は幸せであると申し上げたい。もはや大国の指導者はみんな年輩者ばかりです。しかしお国は若い」(同)などと大絶賛した。しかし、チャウシェスク失脚、処刑後には、「民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を、私はもろ手を挙げて、祝福いたします。『民衆』が勝った。『人間』の叫びが勝った。私どもはもちろん、権力悪と戦う世界の民衆勢力に、強い勇気を与えてくれました」(「聖教新聞」平成二年一月七日付)、 「残念なことに、変革以前の貴国には独裁体制があり、その統治が強固なだけに、識者の間には、政権交代は暴力革命になるかもしれないとの指摘もあった。ところが、貴国の民衆は、混乱はあったものの、できる限り暴力の拡大を防ぎ、自由を勝ち取りました」(同)と、オツムを疑いたくなるこの一貫性のなさには開いた口がふさがらない。

 こういう人物の対談集だから、とりわけ人を唸らせるような視点や観点はまったくない。しかも、何人ものブレーンを使って調べ上げた情報と事実の羅列に過ぎない。そうではあるが、「世界的な知識人」「世界の指導者」を持って任じる池田にはきっちり落とし前をつけてもらいたい。以前の発言を撤回するのかしないのか。「信なき言論、煙のごとし」とは、戸田城聖第二代会長の言であり、池田や学会員が敵を攻撃する際に好んで使う言葉だが、そっくりそのまま彼らに言ってやりたいと思うのは、筆者だけではあるまい。

 創価学会日蓮正宗から破門される直前、今から20年前に池田はテレビの突撃インタビューにこう答えている(http://www.youtube.com/watch?v=U2Am-oAGZto)。「民主主義の時代ですから。民主、人間が根本ですから」と言っており、これがいつ何時も彼の言い訳となっているが、あまりにも軽く免罪になっていない。