本と映画と政治の批評
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「震災から半年」のマスコミ報道の欺瞞と大越健介の厚顔
このところ、「震災から半年」という節目の企画特集が新聞やテレビの報道を埋めている。そこで指摘されているのは、被災地の失業者の増大と人口流出の現実だ。9/6の朝日の1面には、岩手・宮城・福島3県のハローワークに登録した被災求職者のうち、7月末までに就職できた者が2割にとどまると報じた記事が載っていた。そうした人々への失業手当が来月中旬から切れ始めることへの懸念が触れられている。これは厚労省が書かせた記事で、3次補正に関わる一種の布石情報だろう。NHKは9/7のニュースで、震災以降の岩手・宮城2県の人口流出が1万8791人に及んでいると伝えた。岩手県の大槌町では、全人口の1割近い1345人が減っている。朝日の記者は、「政府は、第3次補正予算で復興事業を拡大するなどして被災地の雇用増を目指す」などと書いているが、第3次補正が国会に出るのは10月中旬だ。盛り込まれた事業内容が発効するのは来年だろう。私は、ずっとブログの記事で、政府は被災3県から労働力を首都圏に追い出す思惑で、原発事故で脱出した中国人労働者の穴埋めをさせる狙いだろうと言ってきた。政府官僚は、三陸の被災地を復興する気など最初からないのだ。人が住まない廃墟にしてしまえば、道路や鉄道の復旧も不要だし、病院も学校も要らないし、地方交付金(税金)を削ることができる。被災地から人を減らし、町を潰したいのである。
 

兵糧攻めにして、見限って東京に出て来いと言っているのだ。政府の手口は残酷だが、この「半年特集」を報道しているマスコミも、あまりに欺瞞的で、卑劣で、腹立たしくて言葉にならない。昨夜(9/7)の報ステの三浦俊章は、社会保障の方で本格的な増税論議が控えているから、復興財源での増税には慎重であるべきで、時間をかけて議論すべきだという旨のコメントをしていた。時間をかけて財源を議論していたら、復興予算がいつまで経っても組まれないではないか。この3次補正も、本来は2次補正であり、当初は6月に上げる予定で政治の課題になっていたものだ。私は、増税を早くしろと言っているのではない。本来は被災地の復旧復興を目的とした政治が、本末転倒して増税論になり、増税の是非や中身に関心が集中していることが根本的な間違いであり、欺瞞だと怒っているのである。朝日などマスコミは、被災地のために早く予算を上げろと言いつつ、増税には国民的議論が必要だから時間をかけろと言い、矛盾した主張をその場その場で使い分けている。三浦俊章がどこまで欺瞞を自覚しているかは不明だが、官僚の方は、きわめて狡猾で周到な「挟み撃ち」の作戦を展開していて、早い復興措置を選ぶなら増税を飲めと迫り、増税が嫌なら被災地はこのまま廃墟だと、その二者択一を国民と被災地に押しつけているのである。どちらに転んでも都合のよいプログラムに仕上げているのだ。

復興については、住宅、工場、道路などインフラ被害だけで25兆円に上ると、震災から13日後の時点で内閣府が試算を出していた。地震と津波で破壊されたハードを作り直すだけで、これだけの費用がかかるのであり、当然、瓦礫の撤去だとか仮設住宅だとかの費用は25兆円の中には入っていない。1次補正の4兆円の中で、この被害額の埋め合わせに相当するのは、「災害復旧等の公共事業」で組まれた1兆2000億円のみだ。つまり、失われたハードウェアを元に戻すだけで、本当は残り24兆円を要するのである。雇用助成金とか、就職支援とか、言わばソフトウェアの部分を含めれば、必要な復興予算は40兆円を超えるだろうし、そういう大きな話を4月頃は亀井静香なども言っていた。しかし、第3次補正でも規模はわずか13兆円で、しかも今後5年間というしみったれた矮小な計画であり、再建するインフラの構想そのものがダウンサイジングしてしまっている。デフレベースの復興計画になっている。これでは、とても三陸の人々が夢を持つことはできないだろう。本当は逆なのだ。国債を発行して現地にドカンをカネを落とし、被災地を復興需要で殷賑させ、三陸をゴールドラッシュの状態にしなくてはいけないのである。三陸に行けば儲かる、カネが入る、仕事がある、職が見つかるという景気期待環境にして、東京から若者を呼び寄せないといけないのだ。それが経世済民の要諦であり、国を預かる指導者の仕事である。

大越健介は、昨夜(9/7)のNW9で、三陸の失業者の窮状と人口流出の問題について、「こうなることは最初から分かっていたことですよね」と言い、恰も、誰かが過失をして、この事態をもたらせたように言っていた。この言葉を聞き、私は憤りがこみ上げ、大越健介に対する殺意に近いものが浮かぶのを隠せない。こうなることが最初から分かっていたのは誰だ。こうなるように、復興論議を増税論議にスリ替えたのは誰だ。震災復興にペイアズユーゴーを持ち込んだのは誰だ。半年間、復興予算を被災地に入れないように邪魔したのは誰だ。国債で財源を作ろうとする勢力を叩き、将来世代にツケを回すなだの、国家財政が破綻するだのと出鱈目を言いまくって、国債発行を阻止したのは誰だ。そのイデオロギーを国民視聴者に塗り込め、世論を思いのまま操って、復興事業を頓挫させ、被災地の人々を諦めに追いやり、被災地をここまで荒廃させたのは誰だ。大越健介、お前じゃないか。お前と財務官僚じゃないか。「最初から分かっていたことですよね」などと、他人事みたいに言うなよ。お前にそれを言う資格があるのか。それは、確かに「最初から分かっていたこと」だ。だが、放置すればこの惨状になることを最初から予想し、それを防ごうとしたのは、財政出動の立場の者たちであり、財務官僚とNHK報道のペイアズユーゴー(自己責任論)を批判してきた者たちだ。大越健介こそが、まさに作為的なこの問題の責任者だ。

けれども、その憤りを正常な言論にできず、政策や政治の精緻で説得的な理論に組み立てられず、粗暴な感情の噴出にしかできないのは、私の無能と育ちの悪さのせいもあるけれど、それとは別の理由もある。それは、被災地の人々が、いつまで経っても、あの村井嘉浩を代表者にしたまま、それに代わるシンボルを対置せず、プロテストを言語にしないことだ。被災地の人々を責めることはできない。しかし、しかし、そうじゃないだろう、村井嘉浩じゃないだろうと、私は激しく思ってテレビの前で歯噛みする。何で、あの男をシンボルに立てたまま、あの男に被災地の言説と要望を収斂させて、そのまま黙って認めているのか。村井嘉浩の主張は、財務官僚と同じであり、大越健介と同じであり、三者は政治的に一心同体だ。役割が違うだけである。被災地が、財務官僚の策謀を見抜き、このままでは廃墟にされると感じ、国の復興政策を切り換えさせ、国債の資金を被災地に入れさせるためには、被災地自身が村井嘉浩を否定しなくてはいけない。シンボルの座から引き摺り降ろさなくてはいけない。この男は自分たちの代弁者でも代表者でもないと、違うと、そう全国に向かって宣告しなくてはいけない。オルタナティブの運動を作らなくてはいけない。本来の要求を掲げ、政治に働きかけなくてはいけない。そういう声や動きが見えないのである。宮城や岩手に。村井嘉浩に吸収されている。だから、大越健介の発言が正論になる。財務官僚の路線を崩せない。

最近、ずっと辺見庸の『水の透視画法』を読んでいる。舌を巻きながら。こういう具合に表現ができるから、文学者はいいなあと羨ましく思う。思念を言葉にして、発見と知識を伝え広げ、共感を得ることができる。政治学は何ができるのかと思い、呆然となる。言葉として有効なものは、おそらく今は何もないか、少なくとも、意味のある分析や展望を垂れている政治学者は一人もいない。丸山真男が生きていれば、呆然とすることなく何を言うだろう。否、そうではないと思う。今は理論のときではないのだ。行動なのだ。過去の省察のときではないのだ。被災地から、どうして村井嘉浩に対する反発が上がらないのだろうと、その理由を考えても仕方がないような気がしてならない。無力感に苛まれる。被災地の人々を責めても意味はない。村井嘉浩は、被災地のシンボルを独占し、消費税増税しろ、薄く広く負担に応じろと、財務官僚に成り代わって説教と指示を言う。古舘伊知郎も、「まずお金を出すのが先です。財源はその後です」と正論を言えなくなった。官僚はほくそ笑んでいるだろう。古舘伊知郎が悪いのではない。トーンダウンを非難できない。被災地の代表者である村井嘉浩が、消費税増税と漁港集約の旗を振るものだから、誰もそれに異を唱えられないのである。「公正中立」は村井嘉浩の軸になる。陸上自衛隊から松下政経塾を出た村井嘉浩が、復興政策の正統性を独占していて、それに誰も歯を立てることができない。抵抗の拠点を築けるのは、宮城と岩手の人間だけなのだ。

辺見庸は言葉を発することができる。宮沢賢治、石川啄木、太宰治、井上ひさし、藤沢周平。言挙げせぬ寡黙な東北人から、キラ星の如く天才文学者が輩出され、日本語の珠玉の古典を近現代に生み出し続けるのは、ひょっとして心の遺伝子の中に、日本語と蝦夷語という文化の先天的な緊張感があり、奥底で火花が散っていて、それが日本語を掘り刻み、精緻で透徹した芸術品にするのかしらと、そんな妄想を勝手に抱く。社会科学は、言葉が最終目的の終着駅ではないのだ。言葉を残せばいいのではないのだ。現実を変えないといけない。つまり、簡潔に言えば、体制にぶち当たる吉田松陰の勇気と矜持と情熱だけが必要なのである。政局論は空しいと言うが、政策論もまた空しい。どれだけ政策論を言い、マスコミ報道で流れる政策論を批判し、そのイデオロギー性(虚偽性)を暴露し、説得的な論理を構築できても、言うだけでは自己満足だし、届くリーチがマスコミの千分の一では、なお惨めになるだけだ。同意と共感を広げ、政治勢力を作り、対抗勢力として可視化されるところにまで持って行かないと、政策論が現実に影響を与えるということはない。頭の中の体操だ。とは思いつつ、悲嘆しつつ、私は他力と他力後を信じ、呟き事を続けるしかないと、そう自分を慰める。ブログは9月から8年目を迎えた。8年目に入った所信を書こうとしたら、心配なのは健康のことだというショボい下書きになったため、正書の記事にするのを止めた。辺見庸が脳出血に襲われたのは60歳のときだった。まさかと本人は思っただろう。

誰でも不死身ではなく、年を重ねて身体は機能不全に近づいている。



by thessalonike5 | 2011-09-08 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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