- 田畑ヨシ(ヨシばあちゃん)-
1925(大正14)年1月6日生まれ。
1933(昭和8)年の昭和三陸大津波を、岩手県下閉伊郡田老町(現宮古市田老)で被災。
1979(昭和54)年、その体験をもとに紙芝居「つなみ」をつくり、地域の小中学校や修学旅行生らに読み聞かせてきた。
東日本大震災で被災後、5月から、再び読み聞かせ始める。
(「おばあちゃんの紙しばい/つなみ」より)


【ヨシばあちゃんとの出会い】

ヨシばあちゃん(田畑ヨシさん)との出会いは、2010年の夏。
当時、映画の主題歌や挿入歌、劇中の音楽を担当していたので、宣伝活動のために岩手の宮古市を訪れました。

その時、ヨシばあちゃんと出会いました。

失礼かもしれませんが、85歳の肌つやではなく(笑)、目の輝きも、握手したときのすごいオーラも、ものすごくて。
仏のようで、それでいて人間臭い温かさや深さがあり、、会って握手しただけで「なんだこの人!」って正直思いましたが、
ヨシばあちゃんの生きてきた軌跡を聞くと、、このオーラの意味がわかりました。

8歳で大津波を経験し、母親を亡くし、津波の恐ろしさを子供たちに伝える為に、つなみの紙芝居を始めたこと。
「命てんでんこ」って言葉をヨシばあちゃんから聞きました。自分の命は自分で守んなきゃダメなんだっていう意味なんだけど、
津波が来て逃げようとした時、家族を探しに戻ることで多くの人が波にのまれたそうです。

今回の3・11の大震災で津波が来た時も、こういう形で多くの方々が亡くなったそうです。

その怖さを、ヨシばあちゃんは知っていたから、いつ来るかもわからない津波の話をちゃんと家族で話して、
例えはぐれても、安全な高台に一人で逃げることができるよう、家族が集合する場所など確認し合い、
ちゃんと決めておかないといけないんだということを教えてくれました。

家族を信じて、自分の命をまず守ることが結果、家族を助けることになるのだと。
僕も、3・11までは本当に何か他人事のように聞いていたのかもしれませんが、
海に囲まれた、この日本で生きていくのであれば、絶対に大人たちは、子供たちに伝えていかなくちゃいけないことだと思いました。

東日本大震災が起こり、東北で起こってることが、まるで現実の世界として受け止められない自分がいました。
悶々としながらも、何も出来ませんでした。
ふと、テレビをつけると、そこには、津波からどうにか逃げることができたヨシばあちゃんが、テレビに映っていました。
手が震えるくらい、心から良かったと思っていたのですが、おばあちゃんの言葉で、その震えもピタッと止まりました。

「これで、大津波に会うのは2度目、もうここには住みたくない」

田老の子供たちや、海で暮らす人の為に、津波の恐ろしさを伝えてきたんです。
8歳で未曾有の大震災大津波を経験し、いろんなものをなくしたんです。
それでも海が好きで、田老が大好きで暮らしていたおばあちゃんが、もうここには住みたくないと言った。。
僕は息ができなくなりました。

「俺、何してんだ、ここで」

震災直後、個人で被災地に行くことは不可能でしたが、調べたら支援バスというものがあったので、そのバスで岩手に行くことを決めました。

でも、被災地に行くことに反対されることもわかっていました。

もしまた震災が起きて、お前が死んだらサスライメイカーはどうすんの?

今お前が行っても迷惑なだけ。

今、音楽は必要ない。
いろんな言葉を聞き、頭がぐちゃぐちゃになりました。

本当に無意味なのか?
何度も考えました。
何度考えても反対する誰かを説得する言葉など見つけられませんでした。
でも、ここで行かないことで、僕は一生後悔することだけはわかってました。

僕の想いに賛同してくれたファンの皆さんや、ライブ会場のスタッフの方々、
そしてメンバーのおかげで、1日だけで集めたとは思えないほど、たくさんの義援金と、たくさんのその時必要だった物資が集まりました。
それを持ってバスに乗り込んだ僕は、この人達の想いをちゃんと届ける責任感と同時に、
迷惑だの無意味だのの言葉が頭の中をぐるぐる回り、
正直、僕を支えていた気持ちがグラグラになって急に、すごく怖くなったことを憶えています。

田老に着いて僕がみた景色は、まるで異次元の世界でした。

家やビルは形をなくし、海からのヘドロが町に流れ込んでいて、船や車がおもちゃのように転がっていました。
そしてなにより、テレビではわからなかった、臭い。
塩と何か腐った臭いが混ざって、何度も吐きそうになりました。

こんな場所で、人が暮らせるのか?

皆さんから協力いただいた義援金と物資を田老役場へ届け、
その足で、高台で津波の被害からまぬがれた家に避難している方々に会いにいきました。

東京からの負の気持ちを捨てられないまま、恐る恐る民家の玄関の前に立ち、なかなかそのドアを開けることができませんでした。
そこには、家族を亡くされ、行方不明のまままだ安否が確認できない方々がたくさんいらっしゃると聞いていました。

東京からバスに乗るときの、「とにかく絶対力になれる」って想いは、どんどん萎縮していきました。

そのまま立ち尽くしていると、ガラガラと玄関が開いて、
「よく来たね、どうぞ入って」と本当に普通の本当に普通の笑顔で迎えていただきました。
家の中では、本当にたくさんの笑顔があり、ここにいる人は本当に被災された方なのか自分の目をうたがいました。

でも、肩にはいっていた、ガチガチの負の力は、すーっと抜けたんです。

現状や震災時のお話をたくさん聞き、改めてこの震災の恐ろしさを感じました。

「よしっ」と覚悟を決めて、届けたかった「歌」を歌いました。

あれだけ歌うことに緊張したのは、人生で初めて路上ライブをしようと、
広島の流川という飲み屋街で、ギターケースを開き、ギターをもって2時間全く歌えなかった時以来でした。

さっきまでの笑顔は消えて、家の中が自分の歌とギター以外無音になり、家にいた皆さんは、ただじーっと僕を見ていました。
もう、 よけいなことを考えるのはやめて、目をつぶり伝えたかった言葉を、ただメロディーにのせました。

歌い始めてから終わるまでの記憶はほとんどなくて、そんな経験も初めてなのですが。。。
終わって、ゆっくり目を開けると、目の前にはたくさんの涙がありました。

その時初めて気づきました。

泣けなかったんだってことを。

この状況の中でも、生きていくためには、涙じゃなく、前をむく笑顔だったんだと思いました。
でも、歌を聴いて、泣いてもいいんだって思ってくれたんだと。
気づいたら僕もたくさん涙が出ていました。
どんどん出てきて、最後には笑泣きでした。

来てよかった。間違ってなかった。
被災にあった方々全員がそんな思いでいることなんてないこともわかってる。
でも、今ここにいる方々の心を少しでも軽くすることができたことが、なにより嬉しかった。

震災から5ヶ月が過ぎ、9月17日のライブで震災後4度目の岩手での支援ライブとなります。

今回は、僕たちにとっても、特別なライブとなります。

ヨシばあちゃんから託された言葉に、サスライメイカーが曲をつけ演奏した「海嘯鎮魂の詩」が
本当に多くの皆さんの力を借りて、CD化することができました。
やはり、初めに届ける場所は岩手でありたかったので、9月17日のライブで発売することとなりました。

ヨシばあちゃんや、津波により亡くなられた方々、被災された方々のすごく大切な想いを、
僕たちは受け止めながら、この詩を日本で生きる方々に、未来を生きる子供たちに歌い繋いでいこうと思います。

そして、田老の復興、岩手の復興、もちろん、福島も宮城も、被災したすべて地域の復興を願い、
少しでも力になれるよう活動していこうとおもいます。

サスライメイカーVo磯部俊行

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