八重山地震・明和の大津波スマトラ沖地震津波津波の注意標識稲むらの火防災講演台風の知識チリ地震津波奥尻島の津波山村武彦

津波の知識と教訓/文・写真:防災・危機管理アドバイザー山村武彦


東日本大震災犠牲者のご冥福をお祈り申し上げますと共に
ご家族と被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます

山村武彦の津波防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報」
 
地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することです。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、
「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。

3、「できるだけ早く高台へ、無理なら近くの高いビル」「車は使わず・遠くより、高く」一度避難したら戻らない。
 
「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、ビルの4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは条件付きで危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います)。いったん避難
したら、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。

海岸から約5Kmの岩手県宮古市山口にある石碑、碑文にある江戸時代のヨダ(津波)とは、慶長三陸大地震津波(1611年・M8.1)と推定される

津波とは?
 津波は 「TSUNAMI」と表される世界共通語です。現在の日本語では「津波(つなみ)」ですが、古くは「津浪」「海嘯」「海立」「震汐」などと書かれたものをすべて「つなみ」と読んで(呼んで)いました。地方によっては津波を「よだ」「ヨダ」「よた」「すず波」「あびき」などと呼ぶこともあったそうです。津波の「津」は、突端、船着場、港などの意味があり、港や湾を襲う波を津波と呼ぶようになったといわれます。ちなみに日本書紀の中で684年の白鳳・南海地震のときに発生した津波を「大潮高謄(おおしおこうとう)、海水飄蕩(かいすいひょうとう)」と表記しています。これは「海水が高く立ちのぼり、漂い流れた」という意味で津波を表しているといわれています。また、古い書物には「海水漲移・かいすいちょうい」「海水暴溢(かいすいぼういつ)、驚濤涌潮(きょうとうゆうちょう)」「海潮漲陸(かいちょうちょうりく)」「大波浪(おおはろう)」「大山のごとくなる潮」「大塩(おおしお)」「四海浪(しかいなみ)」などと記されており、15世紀以前は日本でも津波という言葉は使われていなかったようです。
 「津浪(波)(つなみ)」という言葉がはじめて表記されたと思われる文献は、徳川家康にまつわる出来事を側近が日記風に書いた「駿府記・すんぷき」にあります。慶長三陸地震(旧暦/慶長16年10月28日・新暦/1611年12月2日)の記述として「伊達政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」という文章があります。このころ(慶長16年(1611年)から津浪(波)という言葉が一般に使われはじめたものと思われます。津波に関する言葉がこれほど多くあるように、そして「TSUNAMI」が世界共通語になるほど、日本は繰り返し津波に襲われ続けてきた津波大国なのです。
「TSUNAMI」が世界共通語になったのは?
 昔、英語で津波は「tidal wave」で表されていました。しかし「tidal wave」というのは、主に干潮・満潮など潮の満ち引きを表す意味で、地震などによって引き起こされる津波とは意味が異なります、そこで学者たちは科学用語として津波のことをいうとき「seismic sea wave」を使っていました。その後1946年4月1日、アリューシャン列島周辺海底を震源とするM7.8のアリューシャン地震が発生。この地震により引き起こされた津波がハワイ諸島を襲い、ハワイ島ヒロ市を中心に諸島全体で173人もの死者を出します。ヒロ市は日系人が多く住んでいる地域で「Suisan(すいさん(水産)」と呼ばれる魚市場地域や、「Shinmachi しんまち(新町)」と呼ばれる地域が津波で壊滅的打撃を受けました。日系人が津波という言葉を頻繁(ひんぱん)に使うので「TSUNAMI」という文字が地方新聞にも掲載されました。その記事は他の新聞や米国本土にも転載されます。それから徐々に英語圏で津波を「TSUNAMI」と表すようになっていきます。1968年米国の海洋学者Van Dorn氏は、TSUNAMIを正式な学術英語とすることを提案しました。以後英語圏ではTSUNAMIという言葉が定着し、現在では、ロシア語・スペイン語等を含めほとんどの国の辞書にTSUNAMIが掲載され、世界的に通用する言語となっていったのです。
津波の波高さ
 津波は海底地震、海底火山の噴火等海底の急激変異によって発生します。しかし、陸地が震源(震央)であっても断層が海底に続いている場合、津波が発生する可能性があります。その他、「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」といわれるような、周辺の火山噴火や地震などにより海に崩壊した大量の土砂や氷雪が一度に海に流れ込んだときにも発生すします。とはいっても、津波の発生原因の90%は海底地震による地殻変動によるものです。世界史上、津波による最悪の犠牲者数は、2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震津波で180、000人〜240,000人が死亡又は行方不明になったといわれています。日本最大の津波高さ(陸遡上高)は28丈2尺(85.4m)、この津波は1771年4月24日・八重山地震・明和の大津波(やえやまじしん・めいわのおおつなみ)で石垣島で記録されたもの。(死者約12000人)。日本・本州最大の津波高さは、38.2m(1896年の明治三陸地震津波、岩手県綾里村(いわてけんりょうりむら))で、日本最悪の犠牲者数も明治三陸地震津波で死者22,066人。
島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)
 江戸時代(新暦/1792年5月21日・旧暦/寛政4年4月1日)長崎県・雲仙普賢岳の大噴火およびその地震動などに誘発され、島原城下町背後の眉山が大規模な崩壊(山体崩壊・さんたいほうかい)を起こしました。その大量の土砂が島原の町を襲います(島原大変)。このときの死者は約5,000人といわれています。島原の町を突き抜けた土砂は一気に有明海に流れ落ちたのです。その衝撃によって発生した高波は島原の対岸の肥後(現在の熊本地方)を襲いました(肥後迷惑)。そして、肥後の海岸にぶつかった波は反射してまた島原を襲ったのです。この島原大変肥後迷惑地震は、15,000人もの死者を出すことになる大災害に発展します。この時土砂と一緒に海に流れ込んだ多数の岩塊は、島原海岸の浅瀬に岩礁群として残り、今は九十九島(つくもじま)と呼ばれています。
津波のスピード
 津波は海底地震や海底火山噴火などにより、海底が跳ね上がったり、陥没した時に発生しますが、津波が襲う(伝播)スピードは水深によって異なり、水深が深いほど陸に押し寄せるスピードが早い(津波の速度(秒速)=√9.8×水深(m))。例えば「チリ地震津波」の場合、1960年5月23日午前4時10分(日本時間)日本からすると地球の裏側・南米チリ沖で地震(M9.5)が発生。その22時間30分後、約17,500Km離れた日本の三陸沿岸に津波が押し寄せ61人が死亡し、多くの家屋や船舶が流失しました。太平洋の平均水深は約4000mなので、津波は約770Km/hの速度(ジェット機のスピード)で襲ってきた計算となります。このように、海外や遠隔地の地震でも津波の警戒を怠ってはなりません。また、湾や陸地の形状、海底の地形などにより、津波の高さは急激に変化する場合があります。特に湾の奥ほど津波は高くなる傾向にあり警戒が必要です。
津波予報とは?
 従来、津波は海底を震源とするM6.5以上の地震のときに津波が発生すると考えられてきましたので、2007年8月2日に発生したサハリン南部地震がM6.4だったため「津波なし」としました。しかし、26分〜42分後に20〜30cmの津波が留萌、稚内に到達しました。このように断層の向きや破壊の状況によってはM6.5以下でも津波が発生することが証明され、今後津波予報の再検討されることになりました。
 気象庁が出す津波予報は、全国の海岸線を66に分け、予想される津波高さ(潮位)によって発令されます。大津波警報の場合は、予想される津波高さを、高いところで4m、6m、8m、10mなどと発表されます。(地震発生場所が日本近海の場合、地震後2〜3分で発表)遠地地震津波については、太平洋沿岸諸国がITSU(太平洋津波警報組織)というネットワークに25の国と地域が加盟して太平洋地域の津波災害防止・軽減に努めている。そのキーステーションになっているのが、アメリカのPTWC(太平洋津波警報センター)、日本の北西太平洋地域津波センター(気象庁)、南西太平洋地域センター、東インド洋地域センターです。これらの役割は、地域ごとに地震・潮位に係る情報(予報・観測値)を迅速・詳細に提供し、お互いの情報を共有することにあります。(ITSUは、1960年のチリ地震津波を教訓にして、1966年UNESCOの政府間海洋委員会に設置されました)
 気象庁の潮位、津波監視体制はETOS(Earth Quake Tsunami Observation System)により、24時間体制で監視しています。このシステムは、全国の地震計と結び地震発生と同時に、震源地、規模、津波の有無などを瞬時に計算し、津波警報、注意報を発令する仕組みです。さらに、全国の検潮所、巨大津波観測施設、モニター検潮所、津波観測施設、遠地津波観測施設と結んで、リアルタイムに津波発生状況を監視しています。そのほかにもGPSブイ、GPS衛星、陸上基地局を結んで津波を洋上で監視するシステムも試験運用されています。
 津波は海底の崩壊状況によって、海水が一旦引いてから押し寄せるものと、いきなり押し寄せてくるものとあるので、海岸線では地震イコール津波警報と思って、揺れを感じたら迅速に高台に避難する事が大切です。もし、高台に避難するのが困難な場合は近くの鉄筋コンクリートビルの3階以上に避難させてもらってください。
繰り返し襲う境界型反射波
 日本海などのように、比較的陸地と陸地が接近している場合、対岸に押し寄せた津波が陸地境界に反射して戻ってくる反射波が繰り返し相互に襲う場合があります。北海道南西沖地震の際、韓国、ロシアなどの大陸を襲った波が、反射して再度奥尻島や北海道に押し寄せ、場所によっては1時間に3m以上の津波が13回も襲来したといわれています。そのほか湾・岬など陸境界の形状、海底形状などと、震源位置との関係や波の入射角度によっては、固有振動だけでなく共振波や相乗的反射波が生じ、第1波以降急激に波が高くなることもあります。ですから、地震発生後24時間(遠地津波の場合は48時間)くらいは津波警戒態勢を緩めてはならないと思います。


津波予報の種類
気象庁では、地震に伴う津波の発生が予想されるときに、津波予報を発表しています。発表される津波予報は、予想される津波の高さに応じて以下の3種類があります。
予報の種類 予報文 発表される津波の高さ
津波警報 大津波 高いところで3m程度以上の津波が予想されますので、厳重に警戒して下さい 3m, 4m, 6m, 8m, 10m以上
津波 高いところで2m程度の津波が予想されますので、厳重に警戒して下さい 1m, 2m
津波注意報 津波注意 高いところで0.5m程度の津波が予想されますので、注意してください 0.5m
津波警報または注意報が発表されると、66の予報区別(沿岸別)に予想される津波の高さ、津波の到達時刻が発表されます。
但し、予報として発表される津波高さは、あくまで想定波高さです。湾の形状や海底の状況によっては想定津波高さの数倍以上の高さになる可能性もありますので、地震の揺れを感じたら「津波警報」と思ってただちに高台に避難を開始してください。高台に避難できないときは堅固な鉄筋コンクリートビルの3階以上に避難させてもらってください。


津波避難シェルター(和歌山県印南町)

稲むらの火津波心得||津波注意・警告表示板奥尻島津波東海地震東南海・南海地震スマトラ沖地震津波災害

津波災害の教訓(三陸の津波災害跡を訪ねて)

本州津波史上最大波高、38.2m(岩手県大船渡市綾里)
 上の写真は明治29年(1896)6月15日に発生した「明治三陸地震津波」(死者22,066人)で、岩手県綾里村(現在の大船渡市三陸町綾里)を襲った津波がここまで来たことを表す三陸大津波水位表示板は、38.2m(一説には50m以上)の本州津波史上最大高さを示しています。
・明治三陸地震津波での主な津波高さ
・三陸綾里湾奥/38.2m
・吉浜村/24m
・綾里村白浜/22m
・宮古市重茂村姉吉/18.9m
・田老町/14.5m
・北海道襟裳岬/4m
・ハワイ/2.4〜9.1m

明治三陸大津波伝承碑(大船渡市三陸町綾里)

田老町、日本初の「津波防災の町宣言」
 岩手県閉伊郡田老町(現 宮古市田老)では、平成15年の町議会で「津波防災の町宣言」を決議しました。
田老町は慶長、明治、昭和の三陸津波地震で多くの被害を出してきました。1896年(明治29)6月15日19時32分ごろの地震は弱震でしたが長くゆったりとした揺れが続き、その約20分程度経過して引潮が始まる。そしてさらに10分ほどたったころ田老地区を約15mの津波が襲いました。この明治三陸地震津波で、田老町全人口の73.1%にあたる1,859人が津波で死者行方不明となり、一家全滅が130戸にものぼる大惨事となりました。平田の集落では生存者はたった36人という凄まじい被害でした。
 1933年(昭和8)3月3日午前2時32分に強い地震が発生したあと引潮があり、その約30分後に田老地区を約10mの津波が襲いました。このの昭和三陸津波地震で田老町では死者行方不明911人、一家全滅66戸、漁船流失909隻の甚大な被害を出しました。こうした過去の教訓を生かし、津波による被害をなくすため、町ぐるみで津波防災に取り組んでいます。町が発行した地域ガイドはサブタイトルが「津波と防災〜語り継ぐ体験」となっている。田老町の田畑ヨシさんは手作りの「つなみ」紙芝居で、子供たちに津波の恐ろしさを語り継いでいます。
津波てんでんこの真実「津波哀史」
 三陸地方には、繰り返し襲われてきた過去の悲惨な津波被害の教訓として、「地震・津波の時は、親が子を子が親を探していたら逃げ遅れるぞ。てんでばらばらに逃げろ」という教えが「津波てんでんこ」という防災文化として残っています。危機に際し親が子を子が親を慮るのは人の心情としても自然の感情・行動です。しかし、それを否定せよというこの悲しい教訓にはもうひとつの切実な願いが込められているのです。それは、明治三陸津波地震で130戸、昭和三陸津波地震で66戸もの一家全滅という悲劇があったからなのです。代々積み重ね続いてきた家系や血統が一家全滅で絶えてしまうことを懸念し、親が子を子が親を探していたら一家全滅の憂き目にあるかもしれない。家系を絶やさないためにてんでバラバラに逃げろ「津波てんでんこ」となったいったのです。「津波てんでんこ」は。津波哀史から生まれたぎりぎりの住民たちの哀しい叫びなのです。
田老・万里の長城(田老防潮堤)の真実
 昭和29年には当時30万円を投じて「津波警報器」が設置され、その後の津波に対して大きな威力を発揮しました。この津波警報器はその後防災行政無線にバトンタッチされました。役場と消防田老分署及び漁協に基地局を設け、ここで放送されたものが無線により伝達され町内37ヶ所の子局から町内全域に流される。聞き取りにくい世帯には個別受信機も備えています。
 昭和津波地震発生の翌年1934年に着工した工事は1958年(昭和33年)に第1期、延長135m、高さ10.65mの防潮堤が完成し、途中 日中戦争などでの中断をしながらも第2期、第3期と1979年(昭和54年)に完了します。二重になって町を守る総延長2,433m、高さ(海抜)10m大防潮堤となります。この防潮堤の樋門附近には「田老海岸堤防」という石黒岩手県知事直筆サイン入り金属板がはめ込まれています。
 しかし、この防潮堤の真の役割は全ての津波を撃退することではないのです。田老を襲った明治三陸津波地震の津波波高15mや、慶長津波地震の推定波高22mの津波が襲った場合、10mの堤防では防ぎきれないことは明らかでした。とはいっても高さ20mの堤防を築堤してしまったら、町には風は入らず地底のように湿気などで生活環境が悪化してしまいます。そこで田老防潮堤の目的は、津波の衝撃を和らげること、住民が避難する時間を少しでも稼ぐことが目的なのです。このことは町の防災担当者などから繰り返し説明されてきました。「日本一の防潮堤があるからといって油断してはいけない」と訓練の度に話されています。しかし、そうした防潮堤の真の目的が住民全体に浸透していたかは疑問です。
ハードだけでなくソフトとシステムも
 ハード面だけでなく、津波大惨事を忘れないために昭和三陸地震津波が発生した3月3日午前2時30分に毎年津波避難訓練を実施されています。また、明治の津波発生時、道路が狭く避難路を失って一ヶ所に集合したため混雑をきたし、多数の人命を失った教訓を生かし、国道に併行する路線数本を基線として、基線と交差して高台へ続く避難道路を格子状に整備し、交差点の角は隅切りをするなどの工夫もなされました。高台に通じる避難路には階段や手すりを取り付け、さらに夜間の避難を想定して太陽電池による照明灯も整備しました。また、避難しやすいように曲がり角は隅切りをしたがこれは交通安全にも役立っています。このような防災対策が功を奏したのは、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震のときで、津波による損害は極めて軽微でした。現在、田老町では気象衛星を使って津波予報をダイレクトに受信する緊急情報衛星同報受信装置を設置し、さらに東京大学や岩手大学の協力を得て地震発生後2〜3分で津波を予測する津波予測システムを試験、研究中です。


筆者うしろのがけ中腹、白い標識は上が明治三陸大津波(約15m)、下が昭和三陸大津波(約10m)の高さ(岩手県宮古市田老)
明治三陸津波:田老村死者1,859人(死者率83%・全戸流失)、昭和三陸津波:田老町死者911人(死者率44%・362戸中358戸流失)


田老港の防潮堤の一部には女子美術大学(神奈川県相模原市)生による壁画が描かれている


防潮堤・防潮扉の横には津波避難階段(照明付き)が設けられている(宮古市田老)


完成直後、防潮堤海側には漁具小屋以外の建物はなかったが、今は多くの家が建っていいて災害が風化しつつあるように見える(宮古市田老)


高台への避難経路(宮古市田老)

津波避難場所入口標識の隣に急傾斜地崩壊危険区域の標識
大地震では津波だけでなく急傾斜地崩壊も想定すべき。津波避難場所の設置条件にも多角的配慮が期待される

津波避難場所表示(大船渡市) チリ地震津波水位表(大船渡市)

夜間照明付津波避難場所表示板(大船渡市) 津波避難所表示板(釜石市唐丹町)

明治三陸津波の碑(宮古市浄土が浜) 津波碑(三陸町吉浜)

津波記念碑(田老町) 海嘯碑(大船渡市)

津波供養塔(田老町) 津波記念碑(釜石市唐丹)
 1896年(明治29)6月15日、午後8時ころ三陸東岸一帯を襲った明治三陸地震津波は唐丹村(現在は合併して釜石市唐丹)に多数の犠牲をもたらせました。唐丹村総人口2,807人中、実に2,100人が死亡しました。また、流失家屋は341戸という壊滅的な損害をこうむった。33回忌の昭和3年に建立された慰霊碑は、現在本郷堤防の南側に犠牲者を悼むようにひっそりと建っています。

明治三陸地震津波(小さな揺れで巨大津波)
 
三陸という呼び名は、旧国名の陸前、陸中、陸奥の総称。1896年(明治29年)6月15日は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎え、三陸の村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわでした。またこの日は旧暦の端午の節句でもありました。男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいる最中の午後7時32分、小さな揺れを感じた。この地方は3月頃から小さな地震が続いていており、井戸水が枯れたり、水位が下がったり、いわしの大群が連日押し寄せマグロの大漁が続くなど、沿岸の漁村では例年と違う不思議な現象が起こっていました。
 その日も、朝に弱い地震があり、何回も続いた後にこの地震が発生して、それは5分間ほど揺れた。そして、その10分ほど後にもまた揺れました。が、春以来の地震の中でも小さいほうであったので誰もあまり気にもしていなかったし、震害もありませんでした。
しかし、その地震は三陸沖約150Kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震だったのです。
 ところがこの地震発生後35分たった午後8時7分に津波の第一波が三陸沿岸に襲来、続いてその8分後の午後8時15分に津波の第二波が襲いました。第一波で残った家もすべてさらって流し去ったのです。その時間はちょうど満潮と重なっていたため、一段と波高を高くし、リアス式海岸が波のエネルギーをさらに高めて襲来するという悪条件が重なりました。
 最初に海の異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた海産物問屋の若者たちであったといわれます。海の遠雷のような怪音が聞こえ、船が大きく傾き、いままで海底にあった岩がむき出しになるのが見えたといいいます。
最大の津波は綾里村で実に38.2mという想像を絶する高さでした。普通津波での死者は溺死と思われますが、はじめに掲げた綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には「綾里村の惨状」「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き、足を折り名状すべからず」と書かれているように、犠牲者は打撲が多く、原型を止めないほど遺体が損傷する悲惨なものです。地震の揺れによる被害はまったくないにもかかわらず、これほどの津波が襲うと誰も考えていなかったのである。また、この地震でハワイにも2.4m〜9.1mの津波をもたらせ多くの被害を出しました。
この津波に関するエピソードが行政資料刊行会編の防災総覧に掲載されています。
1、津波が押し寄せてきたとき、ちょうど入浴中であったため、風呂桶ごと山に打ち上げられて助かった娘さんが居た
2、田野畑村では、実に21mの津波が襲来し98人の死者を出したが、20トン以上もある大岩が、海面から20mもの高さに運ばれて、海辺から200mも奥にある畑に打ち上げられた。などなど
この津波で、死者22,066人、流失家屋8,891戸に上った。小さな揺れの地震でこれほど大きな津波が襲った歴史は例はありません。以来、地震による震害より津波被害の多い災害を地震津波と称するようになりました。しかし、地震にしても津波にしても過去の事例にだけとらわれていると危険です。常に最悪を考えて行動する必要があると、この災害は教えてくれています。
三陸地方を襲い被害をもたらせた過去の地震を調べてみると
1、1611年(慶長16年)M8.1
2、1677年(延宝5年)M8.0
3、1896年(明治29年)M8.5
4、1933年(昭和8年)M8.1
5、1960年(昭和35年)チリ地震
6、1978年(昭和53年)M7.4
このように、三陸地方にはある周期で地震が発生し、津波が襲来している形跡があります。そして、発生した地震及び津波すべてで大きな災害に発展しています。

昭和三陸地震津波
 
1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分、岩手県沖250Kmの海底を震源とするM8.1の巨大地震が発生し、北海道から近畿地方までの広い範囲で揺れを感じました。宮古、仙台、石巻、福島で震度5を記録しました。この地震は日本海溝直下の太平洋プレート内で発生した正断層型の巨大地震である。地震による被害は壁に亀裂が入った程度であったことと、釜石町で火災が発生して249戸が焼失したという被害が震害でした。
 しかし、地震発生から30分〜1時間経過した頃、北海道、三陸沿岸に大津波が襲来し、1896年の明治三陸地震津波以来の甚大な被害をもたらすことになります。大津波は6〜7分から30分ほどの周期で数回から10数回にわたって押し寄せ、各地で大きな被害をだした。流失船舶7,303隻、流失家屋4,972戸、死者行方不明者3,064人という大惨事に発展しました。特に死者の内、半数以上の1,542人が行方不明という記録が残っています。これは引き波の激しさを物語っています。県別の死者行方不明者は岩手県2,713人、宮城県308人、青森県30人、北海道13人と、犠牲者は岩手県に集中している。中でも三陸地方の三つの村は壊滅的な被害を受けています。
1、田老村/972人
2、唐丹村/359人
3、綾里村/181人
田老村(現在の田老町)では明治三陸地震津波のときにも壊滅的な被害を出したが、この昭和三陸地震津波でも戸数513戸、人口2,950人のうち、流失倒壊個数303戸(60%)、死者972人にも達しました。
津波は23〜29m(綾里)もの高さで襲ったといわれている。津波はアメリカ西海岸にも達し、ハワイ島コナで3m、南米チリで20cmだったと記録されています。


山村武彦の津波防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報」
 
地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することです。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、
「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。

3、「できるだけ早く高台へ、無理なら近くの高いビル」「車は使わず・遠くより、高く」一度避難したら戻らない。
 
「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、少しでも海岸から離れたビル4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは条件付きで危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います)。いったん避難
したら、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。

 
宮城県南三陸町の津波避難ビル

 
 明治、昭和三陸地震津波などの資料や津波の体験ができる津波体験館(宮城県唐桑町)

 許可なく画像の転載、複写、使用はご遠慮願います