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減災に挑む30のストーリー
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30 ずっと語り継ぐ

災害前

状況situation

明治29年の大津波で田老村では、1859名の方が亡くなった。生き残ったのはたったの36人と出稼ぎ中の人、合わせて約60人。

そして大正15年(1925年)4月には大火事で村の97戸が焼失する。その8年後、再び津波が三陸を襲い、田老では、またもや900名以上の犠牲者を出した。

災害続きの田老は「津波太郎」という汚名をもらう事となる。

事例case

「よっちゃんは、{田老はもういやだ…。海のない所にゆきたい。}とおもいました。」 紙芝居「つなみ」の主人公、よっちゃんこと、田畑ヨシさん(83)は自らの津波体験を紙芝居で語る。ヨシさんのおじいさん(留吉さん)は、明治津波で生き残った36人の中の一人である。津波の怖さを知らずに逃げなかったおじいさんは、津波に流されたが、不幸中の幸い命は助かり、ガレキの中から這い出して近所の家までたどり着いた。家族の中でたったひとり生き残った。

その後、おじいさんは、「地震が起きたら、一人でも裏の山に逃げるんだよ。」と孫のヨシさん達に語るにとどまらず、津波を知らない外から来た人達(警察や教師などの公務員)に津波の恐ろしさを伝え歩いたそうだ。ヨシさんは、子供心に話を聞かされるのが怖くて嫌だったという。

そして37年後の昭和8年、本当に津波がやって来た。その日、地震の揺れで飛び起きたヨシさん(当時8歳)は、おばあさんと裸足のまま裏山に駆け上がった。だが、後から避難してくる人はいなかったという。一度家に戻ったヨシさんは、親戚のおじいさんが「明治(津波)の時のように川や井戸の水がひかないから津波は来ないだろう」と話しているのを目にする。だが、おじいさんは、ひとりカバンに食料やたいまつなどを詰めて逃げる準備をしていたという。その後「ドーン」という音と共に津波が田老を襲う。

おじいさんから津波の話を5歳から何度も聞かされていたヨシさんは、一目散に逃げた。電灯から火災も発生し、錯乱して火に飛び込んだ人をヨシさんは目撃している。あちこちで悲鳴や叫び声も聞いた。まさに修羅場であった。

助かったおじいさんは、避難所のお寺で裸足で逃げて来た人達にワラで草履を作ってあげていた。怪我をしたお母さん(戸板で応急の担架を作り、20kmの山越えをして宮古の病院に運ばれた)が涙を流しながら運ばれている姿を見ながら、「心のなかでよっちゃんは、{海のバカヤロー}となんかいも、なんかいもさけびました。」紙芝居「つなみ」。。。

この体験をヨシさんは、1979年に紙芝居にする。当初は、盆、正月に帰ってくる我が孫に分かりやすく伝える為に作ったが、その後、各地で評判になり、「語り部」として紙芝居を使って子供たちに津波の体験をこの二十数年間語り続けてきた。

おじいさんが明治の津波を伝え歩いた事で「お蔭で助かりました。」という声を聞き、伝える事の大切さを知り、自分も「語り部」となるヨシさん。今では孫やひ孫、地元の園児、児童だけでなく外から訪れる修学旅行生、観光客にも紙芝居「つなみ」を読み聞かせている。

智恵wisdom

紙芝居の中には様々な教訓を見つける事ができる。津波体験者であるおじいさんが、日頃から津波の恐ろしさを子、孫の世代に、そして新住民に伝えていた事。過去の体験、言い伝えをそのまま鵜呑みにせずに検証の必要がある事。

紙芝居という形で子供たちに分かりやすく伝えようとしたヨシさんなりの防災教育。その他、救援隊が海から船でやってきた事など古老の語りの中に現代にも通用する智恵がたくさん詰まっている。

そして何よりもおじいさんからヨシさんへ、ヨシさんから孫たちへと自らの体験を次世代に語り継いでいく事。

その実体験から出てくる言葉の響きは力を持っている。過去の津波体験者が高齢化し、災害が人々の記憶の中から風化しつつある中、「伝承」のもつ防災力・減災力にも注目すべきである。