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[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 Next_Calyx【完結済】
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:29

当作品は私の前作「シンジのシンジによるシンジのための補完」の後日譚にあたります。ネタバレ等もありますので是非、お先にそちらをお読み下さい。
 
 
- 作者の言い訳 -
 
当作品は前作を補足するものとして構成しました。
前作が表なら今作は裏。前作が本命・本道なら今作は大穴・抜け道・アンチテーゼ。前作が全力投球インハイストレートなら今作は暴投チェンジアップ。と言ってもいいでしょう。
エヴァ本編とはあまり関わりのないシチュエーションも多いですし、設定上、対使徒戦は楽勝で面白くありません。
いわば、この作品そのものが、前作の【おまけ】のようなものなのです(←ここ、重要です)。
純粋な続編として、前作と同様のテイストをお求めの方にはお奨めいたしかねますのでご了承ください。

また、主人公が27歳の主婦であるため、それなりのストーリー進行があります。直接的な描写はしませんから18禁というわけではありませんが、15歳以下の方にはお奨めしません。


なお、Arcadia様への投稿にあたり、当時一般公開しなかったエピソードなどを追加した増補版としてお送りいたします。

                   Dragonfly 2007年度作品


****



シンジのシンジによるシンジのための補完 Next_Calyx プロローグ


「…知らない天井だ」
 
気付けば、ベッドに寝かされていた。
 
消毒液のにおい。どこかの病院かな。
 
点滴やらカテーテルやら色々つながれていて、いわゆるスパゲッティ状態にされているようだ。
 

 
体が本調子ではないらしく、まぶたを開いていることすら億劫だった。
 

 
……
 
夢とうつつをさまよい、どれだけのあいだ、ぼぅっとしていただろうか?
 
なにやら地響きがすると気付いた途端。病室のドアが乱暴に引き開けられた。 
 
「おお!ユイ。ユイ。目を覚ましてくれたか!」
 
あれ?
 
…この人。
 
サングラスじゃないし、生え揃ってないところを見ると単なる無精ヒゲみたいだけれど…
 
父さん!?
 
しかも、若い!?
 
「お前がエヴァに取り込まれてしまったとき、俺は一体どうしたらいいか、どうすればいいか…」
 
うわっ、父さんが泣いてるよ。初めて見た。
 

 
えっあれっ?
 
父さんがユイって呼ぶこの体は、まさか…
 
傍らに置かれた医療機器のCRT、火の入ってない灰色の画面に映る面影は綾波に似て…
 

 
もしかして、今度は母さんの体~!!!
 
あっ綾波!よりによって、これはないと思うな。
 
なにか綾波の気に障るようなこと、したかなぁ?
 
だったら謝るから、こればかりは勘弁して欲しい。
 
 
 ― …楽な方がありがたい。碇君はそう言ったわ ―
 
えっ綾波? どこに居るの?
 
 ― …私はどこにでも居る。誰の前にも居る。遍し身だもの。けれど、心を開かなければ見えないわ ―
 
助けてよ
 
 ― …ダメ。この宇宙を枯らしたいの? ―
 
でっでも…
 
綾波を探して見渡した病室の片隅に、これ見よがしに活けられた紫陽花。
 
こころなしか花弁がひとつだけ枯れているように見える。
 
さっきまでは無かったような気がするんだけど…
 
 ― …自我境界線を乗り越えて還ってきた今のその体なら、エヴァを直接制御できる ―
 
えっ?
 
 ― …碇君がその体で初号機に乗って戦う気になれば、アスカは乗らなくて済む。私も生み出されずに済む ―
 
だけど…
 
じとりと傍らの父さんの顔を見る。
 
父さんと夫婦になるっていうのは、いくらなんでも…
 
 ― …そう、よかったわね ―
 
そういう言い方はやめてよ
 
せめて父さんと結婚する前とか、なんとかならなかったの?
 
 ― …そこまでは関知しないわ。最適の人物を最良の状態で選んだだけだもの ―
 
綾波ぃ…
 
 ― …干渉のしすぎはその宇宙に良くないから。じゃ、さよなら ―
 
あっ綾波。待って、置いてかないで~!
 
 ― …ダメ。碇君が呼んでも ―
 
 

 
うわっ、父さんが抱きついてくる。冗談きついよ。 
 
これも逃げちゃダメなの?
 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
 
…逃げたい。
 
 
そう云えば、あの世界で母さんがどうなっていたのか綾波に訊くの忘れていたなぁ。
 
やっぱり自分は薄情なんだ。だから、あの世界はあんなことに…
 

 
だから、もう逃げちゃダメなんだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。



逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。



逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。


 
逃げちゃダメだ。
 



… 
 
 
間近に迫る、父さんの顔。
 
 
ダメだ。
 
やっぱり逃げよう。
 
 


 
「…あなた、だれ?」
 

父さん、ごめん。
 
僕に母さんの役回りは荷が重いよ。
 
号泣しながら抱きつこうとする父さんを必死に押しとどめ、今後の算段を考える。
 
記憶喪失のふり。上手くできるといいけど…
 

                                       そこがえり



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:30


とっさに記憶喪失を装ってしまったが、あまり良い手ではなかったかもしれない。
 
特定のエピソード記憶だけを失う症例がなかったわけではないと思うが、だからと云って自分の配偶者のことだけすっぽりと忘れました。では、不自然極まりないだろう。
 
全生活史健忘で「ここはどこ? 私は誰?」では大袈裟すぎるし、なによりこれから行おうとしていくことに対して差し障りがありすぎる。
 
ある一定期間の過去を忘れる逆行性健忘が一番しっくりくるが、通常これは海馬の障害として、新しいことを憶えられない前向性健忘と併発することが多いので症例的に不審を招くかもしれない。
 
だが、綾波の言葉から察するに、今はおそらくエヴァとの接触実験の後だろう。初号機に取り込まれて還ってこないはずの母さんが、少なくともその肉体は返ってきた世界。ということだ。
 
ならば、エヴァに原因をなすりつけることで多少の不自然さは取り繕えるかもしれない。
 
 
 
号泣しながら抱きつこうとする父さんを必死に押しとどめていたら、開け放たれたままの戸口に人影がさした。
 
「ユイ君が目を覚ましたと聞いたので来たのだが、これは何の騒ぎかね?」
 
室内の様子を見て取って、初老の紳士がしかめっ面。いささかも動じてない様子なのは、さすがに年の功というところだろうか?
 
父さん同様に若干若く見えるが、間違いなく副司令だ。
 
「碇。嬉しいのは解かるが、節度は弁えてくれよ」
 
「冬月先生っ、大変です!ユイがっ、ユイが!」
 
涙はおろか、鼻水まで垂らして。父さんの狂乱振りは初号機を失ったとき以上だろう。
 
「ユイ君がどうかしたのかね。
 見たところ、1週間も意識が戻らなかった割には元気そうだが?」
 
「あの…」
 
冬月副司令と呼びかけそうになって、慌てて口をつぐむ。記憶喪失を装おうと決めたばかりなのに、つい。
 
「どうしたかね、ユイ君。碇がこのとおりでは話にならん。君から事情を…」
 
「失礼ですが…どちらさまですか?」
 
長口上を遮られた副司令が、酢でも飲んだかのように顔をしかめた。
 
「ユイ君。君のそういうところは人柄として好ましくないでもないが、時と場所は弁えてもらわないと…」
 
「初対面の方に名前で呼ばれるのは不本…
 あっ!? 形而上生物学の冬月教授でいらせられましたね。失礼しました。
 なにぶん入学式以来でしたもので…」
 
再び長口上を遮られてようやく、副司令もただならぬ事態だと認識したようだ。洗剤でも飲んだような表情を、自分に、父さんに。
 
「いっ碇。大変だぞ!」
 
「先ほどからそう申し上げてます!」
 
「大変だとしか言うておらんではないか!」
 
売り言葉に買い言葉で声を荒げた副司令が、ああ、いや待て。と半面を右手で覆った。
 
一瞬とはいえ、あの副司令がこうも感情をあらわにするとは。
 
「年甲斐もなく激昂してしまった。すまんな。そんなことをしている場合ではないだろうに」
 
「そのとおりです。冬月先生」
 
すっかり落ち着きを取り戻した副司令が、真剣な眼差しを向けてくる。
 
「ユイ君。冗談ならそろそろ勘弁してくれんかね。年寄りにはいささか堪えるよ」
 
あまりに哀れげに訴えかけられて、良心が痛い。あの世界で自分もずいぶん面の皮を厚くしたつもりだったのに、思わず謝りそうになってしまった。
 
「ご希望に添えませんで…」
 
そうか。と嘆息した副司令が、ゆっくりとかぶりを振る。
 
「ユイ君。…ああ、こう呼んでも構わないかね?」
 
頷き返したのを見て取って、副司令の表情が少し緩んだ。
 
「さて、ユイ君。…自身の名前は憶えているようだが…、今年は何年かね?」
 
「いやですわ、冬月教授。1999年になったばかりです」
 
顔に出さないようにして必死に母さんの記憶を漁った結果、選んだのは冬月副司令に出会う直前の時期だった。
 
案の定、沈痛な表情を見せた副司令は、こめかみを一度二度と揉んだ。
 
「ユイ君。驚かずに聞いて欲しいが、今年は西暦2004年。君は結婚していて子供もいる。其処に居るのが君の夫君で、碇ゲンドウだ」
 
言われて父さんの方に視線を向けると、壊れた首振り人形のように首肯を繰り返した。
 
父さん。本当に母さんのこと好きだったんだね。悪いことしたかなぁ。
 
驚いてみせると演技過剰でわざとらしくなりそうだったので、受け入れられずに呆然とした振りをする。
 
「とりあえず、そういうことで了承してくれんかね」
 
憶えの悪い生徒に噛んで含めるような口調。視線を戻して、あいまいな表情で応えた。
 
「君はどうやら記憶が混乱しているようだから精密検査を行うべきだと思うが、どうかね?」
 
「…お願いいたします」
 
 
****
 
 
その後、記憶喪失を装ったことを後悔するのに1時間とかからなかった。
 
頭部血管造影、頭部CTスキャン、脳波検査、血液検査、心理測定検査とありとあらゆる検査を施され、何度も何度も同じことを質問されたのだ。果てしなく繰り返される各種検査に、嘘をついた罰を受けているのかと挫けそうになること数度。
 
結果、精神汚染による逆行性健忘症と診断されたときには、安堵と開放された喜びで泣き出してしまった。
 
…やっぱり、逃げちゃダメなんだ。
 
 
 
案内された病室は続き間になっているようで、通されたのはソファなどを設えた応接間だった。品良く取り揃えられた調度類は高級品らしく、まるでホテルのスィートルームだ。じゅうたんの毛足もずいぶんと長くて、ちょっと落ち着かない。
 
窓からは夜の闇しか見えず、いったい何時間引き回されていたのか。
 
専属だという看護士さんに促されてソファに腰掛けると、冬月副司令と父さんが向い側に腰をおろす。
 
「落ち着いたかね、ユイ君」
 
頷きかけて、思い止まる。記憶喪失を装っていることを忘れてはならない。
 
「察するに余りあるよ。とりあえず君が書いた論文、研究報告を取り寄せておいた」
 
副司令が指し示す先に、キャスター付きのキャビネット。整理ダンス並みの筐体に詰め込まれたバインダーが、ずらりとガラス戸の向こうに見える。
 
「記憶を取り戻す助けになるやも知れないからね。落ち着いたら読んで見たまえ」
 
テーブルに置かれたクリップボードにはプリントアウトが数枚。こちらは碇ユイの身上調書らしい。
 
「まだ仕事が残っていてね。今日のところは、私どもはこれで失礼するよ」
 
「…冬月、後を頼む。俺はユイに付き添う」
 
「碇、よく考えろ。今のユイ君にとってお前は、見も知らぬ他人だぞ」
 
短く唸った父さんが、テーブルに肘をついていつものポーズを取った。メガネ越しに投げかけられる視線は優しく、哀しみに満ちていたのに、受け止めてあげられない。
 
「…そうだな」
 
父さん、ごめん。
 
申し合わせたように2人が立ち上がった。退室していく姿を目で追わないように努力する。
 
立ち止まり、振り向く気配を。…必死に黙殺した。
 
 
 
【 碇 ユイ 】
 
【 昭和52年3月30日 出生 】
 
身上調書に記された情報を足がかりに、母さんの記憶を浚えていく。
 
…大学入学、冬月副司令との邂逅とイベントが続いて、父さんとの出会いがあった。
 
母さんが父さんのことを可愛い人と捉えていたのには驚いたが、その記憶を覗いた今となっては意外さはない。
 
大学卒業、ゲヒルン入社、結婚と、記憶を追いかけて、母さんが父さんのことをとても愛していることを理解した。ただ、実感は湧かない。どんなに鮮明に思い出せようとも、所詮は他人の記憶なのだ。実際に体験した感動まで蘇ったりはしないのだ。
 

 
そして、どうしても視線を合わせられない1行に辿り着く。
 
そこに書かれているのは、来て早々に自分が犯した過失の象徴だった。いや、その理由が自らの感情と保身である以上、はっきり罪と言い切って良いだろう。
 
 
【 平成13年6月6日 長子 シンジ 出産 】
 
 
父さんの配偶者という現実から逃れるために採った安易な方法は、彼から母親を奪いかねない最悪の選択だった。
 

 
妊娠を知ったときの母さんの歓びようを思い出せる。出産の苦しみに耐える母さんの決意を知った。すくすくと育つ吾が子への想いに気付かされる。
 
自分が望まれて生まれてきたことに、これ以上はない形で示されておきながら。
 
自分が愛されていたことを、紛いようもなく見ておきながら。
 
彼のことなど一毫も思い至らず、己のことだけ考えていたのだ。自分は、なんて…
 

 
ぽとぽたと泪滴が紙面を叩く。【 シンジ 】の文字が、涙に溺れた。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:32

『 今回の事故の、唯一の被害者である碇ユイ主任だな 』
 
   正面に座るのはバイザーをかけた老齢のドイツ人。キール・ローレンツだったか。 
 
「はい」
 
 
『 では訊こう。被験者、碇ユイ主任 』
 
   翌朝、目を覚ました自分を待っていたのは、ゼーレによる査問だった。衛星回線を用いた多元ホログラム会議システムらしいが、立体映像とは思えない存在感がある。
 
 
『 先の事故、エヴァが君の魂を欲したのではないのかね? 』
 
   カン高い神経質そうな声は、左手奥の鷲鼻のフランス人。 
 
「残念ながら記憶にございません」
 
 
『 君の証言が正しいとすればな 』
 
「ポリグラフ検査では虚偽は認められませんでしたが?」
  
『 誤魔化しようは幾らでもある。確認は取れまい 』
 
   その通りだ。葛城ミサトであった時代、軍人のたしなみとして習得しておいた。
 
 
『 エヴァには人間の精神、心を与えねば制御できないと思うかね? 』
 
   左手手前に座るのはイントネーションからしてアメリカ人か。雑味のあるリリコテノール。
 
「その返答は出来かねます。ほかに類例がなく、比較検証が出来ませんから」
 
   YESと答えてやる義理はない。
 
 
『 今回の事故は、自我境界線を失った人体が量子状態から復元した実例でもある。これが予測されうるサードインパクトを無効化する可能性は?』
 
「南極の調査結果を鑑みるに、楽観論は否定されます」
 
 
『 さよう。取り払われた心の壁を再構築するのは容易ではない。それだけではな 』
 
「それはどう云うことなのでしょうか?」
 
 
『 君の質問は許されない 』
 
「はい」
 
 
『 以上だ。下がりたまえ 』
 
「はい」
 
 
接続が切れた瞬間。気が抜けてくずおれた。
 
病み上がりに立ちっぱなしで査問は、ちょっときつい。覚醒直後に呼び出されなかっただけマシなのかもしれないが、やはりこちらの都合などお構いなしか。
 
白人至上主義の宗教結社だと母さんの記憶に寸評があったが、黄色人種の健康状態など眼中にないのだろう。
 
 
背後で、ドアの開く音がした。
 
「ユイ君!大丈夫かね!?」
 
「ええ、冬月副…所長。少々疲れただけです」
 
見上げると、冬月副司令は眉根を寄せてなんだか残念そうだ。
 
差し出された手を取って立ち上がる。皺の多い手のひらは意外な力強さを優しく押し隠して、不思議な安心感があった。
 
あれ? 父さんはどこへ行ったのだろう? 来るときには居たのに。
 
「碇のヤツなら、君の後を継いで査問中だよ。君の査問にも付き添うと喰い下がっていたのだが、受け入れられなくてね」
 
さまよわせた視線の意味など、副司令にはお見通しらしい。
 
「時間がかかるだろうから、先に帰すように碇にも言われている。車を待たせてあるよ」
 
「あの…冬月副…所長」
 
「どうしたかね?」
 
先に立って歩き出そうとしていた副司令が怪訝顔で振り返る。
 
「…私の、…子供というのは…どちらに?」
 
「憶えてなくとも、やはり、気になるかね」
 

 
「…正直、よく判りません」
 
嘘だ。後悔のあまり、昨夜はほとんど眠れなかった。何のために自分がここに来たのかと、どれほど己自身をなじったことか。
 
「…でも、その子がどんな想いで過ごしているかと思うと…」
 

 
「何か良い刺激になるかもしれないね。保育所の方に寄ってみようか」
 
「お願いします」 
 
 
****
 
 
セカンドインパクト以降、女性の社会進出はめざましい。深刻な人手不足なのだから当然だが。
 
有名無実化していた男女雇用機会均等法も実情に合わせて見直し、拡充が図られて、働く女性を支援しているそうだ。
 
企業の多くも、保育園を併設するなどの企業努力で優秀な女性社員の獲得・確保に励んでいた。
 
人工進化研究所も御多分に洩れず、24時間体制の保育所を運営して女性職員の便宜を図っている。研究職に従事している職員になると、1週間以上預けっぱなしもザラだとか。
 
…母さんの記憶の受け売りだけど。
 
 
警備員に会釈して門を抜けたら、勝手が判らない振りをしてきょろきょろ。
 
冬月副司令は本当に勝手が判らないご様子。
 
「今の時間なら中庭だと思いますよ」
 
気の利く警備員さんだ。この人なら子供たちの安全を任せて大丈夫だろう。
 
御礼を言って、指し示された方へ向かった。
 
 
 
「ああ、あそこに居るな。ほら、向こうの砂場で、独りで山を作っているようだ」
 
言われるまでもなく、一目で見分けられたのは、母さんの体が覚えているからだろう。それを表に出すような真似はしないが。
 
 
作りかけの砂山は、ピラミッドだろうか。
 
額の汗を手の甲で拭った彼が、こちらに気付く。ぽとりと落ちるスコップ。
 
砂山を蹴り崩して駆け寄ってくる彼に、ふんわりと微笑んでやる。副司令に見られないように、母さんの体が憶えているままに。 
 
満面の笑みを途端に泣き崩して、体当たりするように抱きついてくる。3歳児の突進力は侮れない。双手刈りの要領で倒されそうになったのを副司令がささえてくれた。
 
「…申し訳ありません」
 
「構わんよ。それより、シンジ君を」
 
「はい」
 
しゃがみこみ、かかえるようにして抱きしめてやる。途端に、火がついたように泣き出す。
 

 
一緒になって泣き出してしまいたかった。たくさんたくさん謝りたかった。
 
子供には、無償の愛を与えてやらねばならない時期が存在する。今まさにその盛りの彼に接する機会を与えられたというのに、自分の身勝手で反故にするところだったのだ。
 

 
彼と、自分の心の両方が泣き止むまで、随分とかかった。
 
 
****
 
 
「もういいの? …そう、よかったわね」
 
まだアイスクリームの残っている器を押しのけたので、口元をおしぼりで拭ってやる。にぱっと笑顔に。
 
母さんの記憶によると、自分は随分と言葉が遅いらしい。そのため、その仕種や態度から色々と読み取れるようになったようだ。今の言葉も、彼の「もうお腹いっぱい、美味しかった」を表情から読み取っての会話だった。
 
 
保育所近くの喫茶店。
 
ここで引き離すのはあまりに可哀想だからと、冬月副司令の提案で彼を保育所から引き取ってきた。
 
「君が、コーヒーをストレートで飲んでいるのは違和感があるね」
 
「そうですか?」
 
いつ好みが変わったんでしょう? 出産前かしら。と嘯く。つい自分の嗜好でトアルコトラジャなんか注文してしまったけれど、母さんは紅茶党だった。
 
なるほどな。と副司令が顎をつまむようにして黙考。何とかごまかせたようだ。
 

 
「それで、どうだね? 何か思い出せたかな」
 
ふるふるとかぶりを振る。
 
やはり、父さんの配偶者としてやっていける自信が湧かなかった。
 
だが、彼を…、この子を放り出すつもりは毛頭ない。
 
「…ですけれど、なんだか放って置けないんです。この子も気付いてないようですし、できれば」
 
「母親として面倒を見る。かね?」
 
頷いた。
 
「出来るのかね?」
 
「料理を作ったり、機器を操作したりといった手続き記憶はどうやら残っているようなのです。ですから…」
 
手続き記憶は体が憶えるモノだからね。と、またもや顎をつまむような仕種。
 
「この子が1週間。どんな思いで居たかと想うと、とても見捨てられなくて…」
 
「君さえよければ、まあ問題はあるまい」
 
「ありがとうございます」
 
お礼を言われるようなことじゃないよ。と、照れ隠しか副司令がコーヒーをすすった。
 
 
「それよりも、君自身の去就の方が問題だろうね」
 
お腹がくちて眠くなったらしい彼を抱きかかえながら、目顔で問いかえす。
 
「順当に行けば碇のヤツと同居ということになるが、今の君では抵抗があるのではないかね?」
 
頷いた。偽っても仕方ない。
 
「別居するなら住宅の手配をするし、落ち着き先が決まるまで私のマンションを提供してもいい」
 
考える、振り。なぜなら、結論は昨夜のうちに出していたから。
 
加持さんとの関係を10年以上迷った自分に、父さんの配偶者という役割は荷が重すぎる。
 
だが、母さんの裡の父さんへの想いを知り、父さんの見せた母さんへの想いを見た今。いかに自分が薄情であっても、父さんを見捨てることは難しい。
 
「国連機関の所長が別居。となると、スキャンダルになりかねませんよね。
 痛くもない腹を探られたくはないですし、あまり波風を立てないほうがいいように思えます」
 
なにより、思ってたほど拒絶感が湧かないのだ。
 
それはおそらく、あの世界で父子ではなく、第三者として接しえたからだと思う。子供心に巨大な敵に見えたあの父さんは、違う立場から見れば憐れむべき1人の男でもあった。
 
「それに、出来るかぎり元の生活を維持した方が記憶も戻りやすいのではないかと」
 
「…ふむ。道理ではある」
 
やはり、顎をつまむような仕種。縦にした握りこぶしを顎に当てて親指で挟んでいる。そんな姿を可愛い。なんて思ってしまうのは、母さんの記憶の悪影響だろうか?
 
 
…あぅ。上下のまぶたが仲良くなりだして、彼がぐずりだした。
 
「あらあら、寝やご?」
 
優しくゆすって、寝かしつける。午睡には少し早いが。
 
「…君の郷里の言葉かね?」
 
「…いえ、そういうわけではないのですけど、気に入ってまして」
 
すっと口をついて出てきたのだから、母さんはよほどこの言葉を気に入っていたのだろう。
 
「解かる気がするよ。優しい言葉だからね」
 
ええ。と答えて、寝入ってしまった彼の頭を肩に載せる。
 
その様子を目を細めて見ていた副司令が、コーヒーを飲み干した。
 
「シェスタを人生の一大事と捉えている委員も居るから、そろそろ碇のヤツも開放された頃合だろう」
 
手を上げて、ウェイターを呼んでいる。
 
「話し合うというなら研究所に車を廻すが、どうするかね?」
 
「お願いします」
 
うむ。と頷いた副司令が、ウェイターに勘定書きを渡す。
 
恭しく下がろうとしたウェイターを身振りで押しとどめて、
 
「副所長、おねだりしてもよろしいですか?」
 

 
「なにをかね?」
 
意表を突かれたのか、副司令の問いには間があった。母さんの記憶から、それらしい頼み方を試してみたのだけど、違和感があっただろうか?
 
「時間が時間ですから、差し入れを」
 
病院から直接引き回されたので、手持ちが無いのだ。
 
「ふむ。そういうことなら構わんとも」
 
ありがとうございます。と涼やかな笑み。母さんの笑い方、こんな感じかな。
 
アイスコーヒーとアメリカンクラブハウスサンドを2人分、テイクアウトでウェイターに頼む。
 
「…2人前かね?」
 
「ひとつは運転手さんの分です」
 
悪びれもせずに笑顔で返す。こんな反応の仕方は自分では思いもつかないから、つくづく自分が父さん似であると実感する。
 
「記憶を失っても、ユイ君はユイ君だね。人の本質はそうは変わらないということかな」
 
差し入れは自分の考えだけど、副司令が違和感を持たなかったのなら、母さんもそういう人だと認識されているのだろう。
 
それはまた、自分の中にもしっかりと母さんが息づいているように思えて、少し嬉しかった。
 
 
****
 
 
「それは、家庭内別居だと受け取っていいか?」
 
無駄に広い所長室。いつものポーズで座る父さんの背後に、窓枠の影が十字架のよう。 
 
「…わがままを申します」
 
急遽、持ち込まれたパイプ椅子。寝入ってしまっているので、彼を抱きかかえたままで腰をおろしていた。
 

 
折角の差し入れは、まだ手もつけられていない。…当然かもしれないが。
 
「…歓ぶべき、だろうな」
 
「所長?」
 
唐突に目を見開いた父さんが、耐え切れなくなったのか視線を逸らす。
 
「冬月が言ったとおり、今の君にとって私は他人だ。シンジごと捨てられても文句は言えん」
 
口を挟もうとしたら、身振りで遮られた。
 
「だが君はシンジの母親として振る舞い、夫婦としての体裁を維持してくれるという」
 
視線を、合わせてくれない。
 
「…感謝すべきだろう」
 
「…申し訳ありません」
 
「君のせいではない。謝らないでくれ」
 
慢性的な寝不足なのだろう。目の下のくまは刻まれたように濃く、無精ひげもひどい。
 
本当に母さんを心配していた父さんを、自分はぬか喜びさせるだけさせておいて再び突き落としたのだ。
 
そのことが解かっていながら、母さんになりきることを選択できない。自分はやはり薄情な人間だった。
 
「…二つ。条件がある」
 
「おふたつ、ですか?」
 
ああ。と頷いた父さんが、ようやく視線を向けてくれる。
 

 
「ユイ。と呼んでいいか?」
 
間髪入れずに頷いた。
 
 
「…ユイ。人目のないところだけで構わん。…ゲンドウ、と呼んでくれ」
 
今、父さんが頬を赫らめなかった?
 
…ちょっと、可愛かったかも。
 

 
「…ゲンドウ…さん?」
 
とても気恥ずかしかったけど、せめて母さんの記憶のとおりに呼んであげた。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:31


『 主電源、全回路接続 』
 
『 主電源、接続完了。起動用システム、作動開始 』
 
『 稼動電圧、臨界点まで、後0.5、0.2、突破! 』
 
 
反対する父さんを押し切って、エヴァ接触実験の再試験をお膳立てた。
 
この体でエヴァを動かせるかどうかは重要な懸念事項だったので、早く確認したかったのだ。
 
綾波がああ言った以上、失敗することなどありえないが、念のためにシンジは連れてきていない。
 
 
…………
 
 
父さんとの同居を決めたその日。運転手さんにお任せして連れてこられたのは、かつて綾波が暮らしていた団地だった。
 
母さんの記憶にあったから驚きはしないが、直に目の当たりにすると妙に感慨深いものがある。
 
先ほどの差し入れが効いたのか、運転手さんの口数が多い。聞けば、研究所関連やジオフロント開発に従事する人員のために建てられた宿舎だという。急ごしらえなので、堅牢そうな見た目の割に耐用年数は短いのだとか。
 
 
上まで運んでくれるという提案を丁重に断って、寝入ったままの彼を抱いてエレベーターで最上階へ。
 
このあいだの3歳児検診で13kgだったか。ずしりと重い。
 
その重さを嬉しいと思う自分に、すこし驚きを覚えた。
 
 
 
起こさないように気を使いながら、彼をリビングのソファに寝かす。
 
母さんの記憶があるから間取りは解かるが、自分とは空間の把握の仕方が違う。擦り合わせるために、家中を歩幅を数えながら歩き回る。
 
父さんの書斎。母さんの書斎。主寝室。客間。あとは空き部屋だと思っていたら、奥の6畳間にシングルサイズのベッドが運び込まれていた。
 
主寝室で覚えた違和感の正体に気付き、確認するために引き返す。
 
驚いたことに、主寝室は施錠できるようにドアノブが交換してあった。
 
 
実際の手配は冬月副所長だろうが、指示したのは父さんだろう。
 
父さんが母さんをいかに大切にしているか、この一事だけで充分に窺い知ることができる。
 
本気で愛していなければ、こんな寂しい決断に耐えられないだろうに。
 

 
父さん。ごめん…
 
胸元で握りしめた左手が、むなしく空を掴んだ。
 

 
 
トイレ。ランドリースペース。バスルームと確認して、ダイニングを抜けてキッチンに向かう。
 
冷蔵庫を開けると、案の定、食材は壊滅状態だった。実験成功を祝してご馳走にするつもりだっただろう品揃え。萎びた白菜が哀れを誘う。
 
嘆息していたら、ふえっ。と泣き声がした。
 
ソファの上で、彼が何かを求めるように両手を差し上げている。目元に涙を浮かべているが、目が覚めたわけではない様子。
 
恐い夢でも見たのだろうか。エヴァとの接触実験を目の当たりにしたことが、トラウマになってなければ良いのだけれど。
 
そっと、抱きしめてやる。体同士が密着するように、隙間を埋めるように。
 
あーたん。と呟いた、彼の呼吸が落ち着いていく。
 
途端に湧いた暖かい感情を、なんと表現したらよいのだろう。自然と涙が頬を伝う。
 
母性本能などという言葉ではとても物足らないし、そもそもそんな本能は群性哺乳類にはない。
 
全幅の信頼を寄せられることへの歓喜。他者による己の全肯定。つまり、補完だった。
 
 
…シンジ。愛おしさを言葉に換えると、素直に彼の名が口をついて出る。
 
この幼い命を、全てをなげうってでも護りたいという願い。
 
使徒の襲来が予見される今。それはエヴァの完成という形で叶えるしかないのだろう。
 
毒を以って毒を制す。そのために。
 
 
…………
 
 
『 起動システム、第2段階へ移行 』
 
『 パイロット、接合に入ります 』
 
目を開ければ、LCLとガラスの壁越しに間近い…赤い光球。初号機のコア。
 
『 システムフェーズ2、スタート 』
 
『 シナプス挿入、結合開始 』
 
ガラスのシリンダーの中。頭上には、人間の脳幹を模した器械。ターミナルドグマにあったあの装置が、もとはエントリープラグの原型だったとは、この世界に来るまで想像もつかなかった。
 
『 パルス送信 』
 
『 全回路、正常 』
 
『 初期コンタクト、異常無し 』
 
透明な筒の中で、LCLに浮かぶ。
 
プラグスーツはまだないので、全身を覆うタイプの競泳用水着に無数のコードを貼り付けた姿。
 
 
…………
 
 
日付が変わるころになって、玄関の開く音がした。
 
ぱたぱたとスリッパを鳴らして、迎えに出る。
 
「お帰りなさい、…ゲンドウ…さん」
 
父さんの驚いた顔。というのも見たことなかったな。驚愕した顔ならともかく…
 
「…何故だ」
 
なぜ起きて待っていたか。と言うことなのだろう。本当に、不器用な人だ。
 
「こういうのも、妻の役目かと思いまして」
 
「お互い、こんな仕事だ。すれ違いも多い。余計な気遣いは不要だ」
 
すみません。と思わず頭を下げた自分の傍らを、父さんが通り抜けた。
 
「あの…お夕飯の仕度が…」
 
ぴたり。立ち止まった父さんの背中からは、その葛藤を推し量れない。
 
「お話したいこともあります」
 

 
「…夜食として、戴こう」
 
「はい。軽めにしますね」
 
 
…………
 
 
『 チェック2550まで、リストクリア 』
 
『 第3次、接続準備 』
 
光球の奥に、鈍い光が見える。
 
『 2580までクリア 』
 
『 自我境界線まで、後0.9、0.7、0.5、0.4、0.3…』
 
その顔を見てみたいと思ったが、近すぎて、エヴァの素体の全容を見ることは適わない。
 
『 エヴァンゲリオン、覚醒しました 』
 
『 ATフィールド、出力2ヨクトで発生します 』
 
ここまでは前回の実験と同じだ。
 
『 続いて被験者接触実験に移ります 』
 
何か、見えない壁が忍び寄ってくる気配。ATフィールドだろう。
 
包まれるというより、搦め捕られるといった感覚。精神汚染使徒の光にも似て。
 
『 ATフィールド、被験者に接触 』
 
スピーカーから漏れ出るざわめきは、前回の事故を思い起こしてか。
 

 
唐突に脳裏に拡がった光景は、オレンジ色の水をたたえた水面と赤い空。不自然なまでにまっすぐな、水平線。
 
広大な空間なのに、オレンジ色した水以外の何物をも存在しなかった。
 
これは、エヴァの心なのだろうか?
 
だとすれば、ここには何も莫い。沙漠に莫いのが水ならば、ここに無いのは心だ。
 
命はあるのに、心はない。それは、あまりにも巨大な虚無だった。
 
 
 
チルドレンが行うエヴァとのシンクロとは、エヴァに捧げられた人柱との同調だ。
 
だからA10神経を用い、近親者の情に訴えねばシンクロ率を維持できなかった。
 
 
もちろん、最初からこんな不安定な方法を目指したわけではない。
 
母さんの記憶と論文に拠れば、エヴァを直接制御することを目論んでいたようだ。
 
そのつもりで臨んだ実験が、あの結果だったわけだが。
 
この世界の母さんはかろうじて戻ってきた。だが、元の世界の母さんは還ってこなかった。
 
母さんの記憶を受け継いだ今、その違いがなぜ生じたのか理解できる。
 
…それは、選択の違いだった。
 
直接制御が適わないと知った母さんは、この世界ではやり直すことを、元の世界では居残ることを選んだのだ。
 
この世界の母さんは、直接制御の手法を研究しなおすために、戻ろうとした。
 
元の世界の母さんは、直接制御は不可能と諦めて、次善の策として間接制御を選び、自ら残った。
 
どちらが最善かを問うことは無意味だろう。
 
ただ、この世界の母さんは、エヴァのくびきから逃れることの難しさを見誤ったのだ。
 
 
…………
 
 
「エヴァとの接触実験…だと?」
 
メルルーサの西京焼きをきれいに平らげてから、父さんが口を開いた。
 
今の日本では、さわらは手に入らない。
 
「はい。…早急に」
 
空いたご飯茶碗に煎茶を注ぐ。
 
「君がする必要はない」
 
「経験者の私がしなくて、他の誰がするというのですか?」
 
父さんがお茶を飲み干す。
  
「今の君は、ユイであってユイでない。次の候補者は探している。だから…」
 
急須を手にしたら、身振りで遮られた。
 
「それもだ。君がする必要はない」
 

 
「…私は私です。5年の間に色々変わっていたかもしれませんが、私が碇ユイであることに変わりはありません」
 
行き場をなくした急須には、自分の湯のみにお茶を足させる。
 
「…自分の論文を読めば、判ります」
 

 
「どうしても…か?」
 
もちろんだ。ここで代わりの被験者など用意したって被害者が増えるだけだ。だから…
 
「…ゲンドウ…さんが、私の夫だと仰るなら、答えはお判りのはずです」
 

 
「そうして、今度は俺から何を奪えば気が済むのだ」
 
「そんなつもりは」
 
反駁は、身振りで押しとどめられてしまった。
 
「いや、いい。君は確かに碇ユイだ。ならば、止めても無駄だろう…」
 
「…申し訳ありません」
 
感情が表に出ぬよう、必死に眉根をしかめている父さんを見ていられなくて視線をそらす。今まで考えたこともなかったが、父さんの心もまた、ガラスのように繊細だった。
 
「…謝罪は、ナシだ」
 
 
…………
 
 
『 LCL変化、圧力、プラス0.2 』
 
『 送信部にデストルドー反応無し 』
 
『 疑似回路、安定しています 』
 
夢うつつに聞こえる外部の状況。順調らしい。
 
 
再び意識を戻せば、オレンジ色の水面と赤い空。不自然なまでにまっすぐな、水平線。
 
太腿の半ばまでを水漬かせる水面は、鏡のように波ひとつなく。
 
 
いや、何もないと思っていたこの世界に、幽かに感じる息遣い。
 
よほど注意深く観察せねば判らないほど薄い感情は、…母さんの心?
 
太平洋に赤インクを一適だけ垂らしたって、ここまで希薄にはならないだろうに。
 
 
LCLによく似たオレンジ色の水。両手で掬い取ると、記憶に共鳴して母さんの心が伝わってくるような気がする。
 
そう。やはり、人類の未来を護りたかったんだね。それが適わなくとも、せめて…?
 
心配はいらないよ。だから、おやすみ… 母さん。
 

 
消え去る母さんの気配を追うように流れ落ちた泪滴が、オレンジの水面に波紋を呼んだ。
 
 
…………
 
 
「なぜここに子供が、…シンジ君か」
 
父さんとの同居を決めたあの日から3日後。母さんの書いた論文を一通り読み終えた自分は、シンジを連れて出勤してきた。
 
「ええ、碇所長の息子さんです」
 
冬月副所長に応えたのは赤木ナオコ博士だ。リツコさんの、…お母さん。
 
「碇、ここは託児所じゃない」
 
「ごめんなさい冬月副…所長、私が連れてきたんです。しばらく、傍に居てやりたくて…」
 
意外にふてぶてしい。母さんの性格を推し量った自分の、それが素直な感想だった。葛城ミサトを経験した自分にとって、それはさしたる問題ではないが。
 
「ユイ君。もういいのかね?」
 
「はい。すっかり」
 
駆け寄ってきたシンジを抱き上げながら。
 
「それでも、もう少し休んでいた方が良かったのではないかね? 有給だって有り余っているだろう」
 
「そうしたいのは山々なんですけど、進めたい仕事がありますから」
 
「仕事…かね?」
 
「ええ。早急にエヴァ接触実験の再試験を行おうと思いまして」
 
 
…………
 
 
母さんの気配が解け去って、オレンジ色の水をたたえた水面と赤い空に虚無が戻ってきた。すべて呑み込まれ同化されてしまったのだろう。
 
「…」
 
今のは?
 
あまりにも小さすぎる呼びかけ。
 
あれほどに希薄だった母さんの気配にすら掻き消されるほどの、かそけき…鼓動?
 
聞こえてきたと思える方向へ、歩く。
 
この世界で物理的な移動にどれだけ意味があるのか判らないけど、それ以外の方法を知らない。
 
オレンジ色の水をざぶざぶと掻き分け、手のひらで漕いで、急ぐ。
 
そうしないと、今にも途切れてしまいそうな、そんな弱々しさだった。
 
 
オレンジ色の水中に、水面に写し取った月光のような優しい輝きが沈んでいくのを見つけて、あわてて掬い上げる。
 
あと数秒遅かったら、母さんの気配と同じように溶けきっていたのではないか。
 
ぽたぽたと落ちるオレンジ色の水に取り残されて、淡いきらめきが手のひらの上に、ぽつん。
 
これはいったい…
 
いや、これがなにか、今の自分なら判るような気がする。
 
かすかな鼓動は、命の証。
 
声ならぬ呼びかけは、意志の現れ。
 

 
きっと、これは… いや、この子は… 
 
母さんの体に宿っていた、新しい命。母さんすら気付いていなかった…、僕の…弟妹。
 
かつての世界では母さんごと取り込まれ、この世界では還って来れなかったか、生きる力を奪われたか…、生まれいずることもなく。
 

 
母さんばかりか、弟妹まで初号機に取り込まれていたのか。と熱くなった目頭の奥で、閃くものがある。
 
初号機に残ることにした母さんがサルベージを拒否したとすれば、代わりに掬い上げられたのは…もしかして、この子では?
 
…つまり、綾波は僕の妹だった?
 
 
         … あやなみ?
 

 
語りかけても、応えはない。
 
だが、そうだと確信した。理由はないけど、溢れる涙が肯んじてくれている。
 
ぽとぽたと降りかかった泪滴に熱を奪われたかのごとく、きらめきが瞬いて薄れていく…
 
ダメだ!こんなところで溶け消えては。
 
世界は優しくないけれど、つらいことも多いけれど…、それでも、知らないことすら知らずに消えちゃダメだ。
 
なのに、なのに。どうすることもできないまま、きらめきが滲んでいく。
 
思わず胸に掻き抱いた手の中で、温もりが溶けていった。
 

 
別に自分が何かを無くしたわけでもないのに、とてつもない喪失感を覚えて、膝を折る。
 
救けてやれなかった。何もしてやれなかった。
 
この世界の綾波は、生み出されずに済んだのだろう。だが、こんなカタチをそれで最善としていいはずがない。
 
…綾波。
 
僕が、君をつらい目に遭わせたくないのは確かだよ。
 
でも、つらいこと以上に嬉しいこともあると、教えてあげたかったんだ。この世界でも。
 
 
とてもとても寂しくて、自分自身を掻き抱いた。
 
 
…………
 
 
『 第3ステージに、異常発生! 』
 
『 中枢神経素子、過剰反応! 』
 
がなりたてるスピーカーがハウリングを起こして耳障りだ。気が散ってしょうがない。
 
 
何とか集中を保って、オレンジ色の水面に意識を戻す。
 
 
足元から這い登ってくる錯綜は、侵蝕使徒の葉脈にも似て。
 
 
爪先から徐々に溶かされていくのが、感覚で判った。
 
母さんだけでは物足りなくて、自分までも取り込もうというのか?
 
いや、取り込んだのは母さんの心だけだったから、体をも。ということか。
 
自分の心は行きがけの駄賃のつもりだろう。
 
 
だが、自分には、心を溶かされてしまった母さんの記憶がある。
 
そこから還ってきた肉体がある。
 
エヴァに乗って戦った痛みがある。
 
溶かされ取り込まれ、吐き出された体験がある。
 
精神汚染使徒の光に照らされ、あらがった経験がある。
 
 
そして、なによりも…
 
  自我の境界を見定める、意志がある。
 
 
エヴァンゲリオンよ。お前が広大な虚無なら。自分は小さな巌となって、その中心になろう。
 
お前もまた使徒ならば、他者の存在を他者のままで受け入れることなど思いも及ばないだろうけれど。
 
だが、教えてやろう。取り込むことなく共存し得る道を。その虚無を有意義な力に変える術を。
 
 
そのために、名前を付けてやろう。
 
福音の使者。エヴァンゲリオン、初号機、と。
 
 
そのために、使命を授けてやろう。
 
この世界の、今を護る戦いを。
 
 
言葉は、ヒトの力だ。初号機、シトたるお前の知らない力だ。この力を教えよう。補完する相手としてこの身を与えよう。…抱きしめてやろう。
 
さあ語りかけて来い。お前が新たに得た力で。
 

 
……
 
ざxscdvfbgんhj、k。l・;¥:」
 
 
音として聞けば、意味を持たない雄叫び。
 
それは初号機の、自我の産声だった。
 
お前が今、生まれたというなら。自分が見守ってやろう。自我を得てヒトとなったお前の親となろう。
 
子供を戦いに駆り立てる、酷い親だけど。ついて来てくれるかい?
 
 
あzsxdcfvgbhんjmk、l。;・:¥」
 
 
…そうか、ありがとう。
 
 
なんて答えたらいいか、だって?
 
こういう時は、「どういたしまして」って言うんだよ。
 
 
****
 
 
あとで聞いた話だが、制御室に向かって初号機が手を伸ばしたそうだ。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:32

ノートパソコンに向かい、本日の実験結果をまとめる。
 
連動試験は今日が最終日だった。明後日からはATフィールドの展開実験に入る予定だ。
 
それらに合わせて、各種レポートも上げなければならない。しばらく忙しくなるだろう。
 

 
一息ついて、コーヒーをすすった。
 
左手奥、リビングのソファからは、シンジの規則正しい寝息が聞こえてくる。ダイニングで仕事をしている間も目が届くように、そこで寝かしつけているのだ。たまに聞こえてくる寝言が可笑しくて、手が止まることも多いけれど。
 
ちらりと遣る視線の先で、綿毛布をはだけたシンジがよだれをたらしていた。
 
あらあらと席を立ち、キッチンに寄ってからリビングへ。
 
ガーゼで口元を拭ってやると、むにゃむにゃと寝言を言う。あまりに可愛らしくて思わず頬擦りする自分に違和感を覚えて、我に返る。どうやら、自然にそんなことをしてしまう程度には母親としての自覚が進んでいるらしい。
 
それは、歓迎せねばならぬことなのだが…
 
足元だけ出して綿毛布をかけなおす。小さな男の子は足の裏が暑がりなものだ。自分がどうだったかは憶えてないが、少なくともシンジはそうだった。
 

 
ダイニングに戻り、再びノートパソコンに向き直る。
 
続いて、零号機の開発終了、廃棄の申請書を書く。
 
初号機が起動した以上、試作機たる零号機の役目は終わったのだ。
 
かつての世界で零号機が現役だったのは、接触実験以降に初号機を迂闊に使えなかったからだろう。実験機としての役割も多分に担わされていたのだ。
 
このまま開発を進めて、予備として配備することも提案されたが、直接制御の可能性が極端に低いことを理由に退けた。
 
実際のところ直接制御は不可能なのだが、自分という例外が存在してしまった以上ゼロと言うわけにはいかない。それらしく0.000000001%などという起動確率を算出して見せたりした。
 
それもまた、正式にレポートに仕立てなければならないだろう。
 
 
 
 
日付が変わるころになって、玄関の開く音がした。
 
ぱたぱたとスリッパを鳴らして、迎えに出る。
 
「お帰りなさい、…ゲンドウ…さん」
 
「余計な気遣いは不要だと、言っておいた筈だが」
 
ああ見えて母さんは我の強い人で、父さんに言われたからと云って、はいそうですかと受け入れたりはしなかったようだ。たまたまこの点については母さんも同意見だったから、素直に従ってみせていたようだけど。
 
だから自分も母さんに倣い、己のやりたいように押し通すつもりだった。
 
「お目障り…ですか?」
 
「…そんなことはない」
 
乱暴に脱ぎ捨てられた靴を、跪いて揃える。
 
「でしたら、ご寛恕ください」
 
「…好きにしろ」
 
はい、そうします。と見上げた顔を、逆に見返された。嬉しいのか哀しいのか、判別のつきがたい表情は、すぐに逸らされる。
 
「食事は済ませてきた。シャワーだけ浴びて、休む」
 
寝室に使っている6畳間へ直行する背中から、それ以上の感情を汲み取るのは難しかった。
 
 
 
 
初号機を直接制御下に置いた今、その内包するS2機関を稼動させることは可能だろう。
 
だが、自分はその事実を公表しないことにした。
 
エヴァという常識外の兵器が無限の稼働時間を持ち得ることを世間に知らしめれば、要らぬ軋轢を呼び込むことになる。それは正直、御免こうむりたい。
 
もっとも、S2機関を稼動させただけでは、兵器としてのエヴァの稼動時間は延びないのだが。 
人間の制御下ではS2機関を徒に暴走させかねない。と結びの言葉を打って、S2機関に関する意見書を締めくくる。
 
 
ノートパソコンをシャットダウンしようとしていたら、シャワーを終えたらしい父さんがリビングに姿をあらわした。
 
無精ひげを剃る気配はなさそうだ。あのまま、伸ばすつもりなのだろうか。
 
「なにか、お淹れしましょうか?」
 
「…構わん」
 
サイドボードからブランデーを取り出した父さんが、それを無雑作にタンブラーに注ぐ。このところ、アルコールの摂取が習慣化しつつあるように思う。
 
母さんの記憶に拠れば、ナイトキャップであっても滅多に飲まない人だったのに。
 
 
そのまま、ダイニングを通り抜けようとした父さんが、テーブルに眼をやった途端に立ち止まった。
 
その視線の先に、マグカップ。
 

 
「…冬月副…所長も仰ってましたが、そんなに違和感がありますか? コーヒー」
 
「…そうだな。少なくとも俺は見たことがない」
 
コーヒーを嫌いになるような経験でもあったんでしょうか?…、と嘯く。
 
「敢えて経験したいとも思いませんが」
 
見上げた父さんの顔は、なんだか切なげで…
 

 
とっさに声をかけようとして、かけるべき言葉を持たないことに気付く。
 
それでもと口を開いた途端、父さんがタンブラーの中身を呷る。ブランデーを飲み下す間に閉じていたまぶたを、ついに開くことなく背中を向けた。
 
そのまま無言でリビングを後にする父さんに、結局かける言葉が見つからなかった。 
 
 
****
 
 
所内の空気が軽い。
 
予算獲得のために父さんが渡欧して1週間。皆、いい具合に肩から力が抜けているのだ。
 
そういう自分も、今は父さんが居ないことに安堵している。
 
自分を、…いや、母さんのこの身体を見るときの切ない眼差しから、開放されるから。
 
自身の薄情さを突きつけられることと、引換えだけれど…
 
 
 
「あら? 今日はシンジ君は連れてきてないの?」
 
休憩所の不味いカップコーヒーを持て余していたら、ナオコさんに声をかけられた。
 
「あれは、居なかった分の補填のつもりでしたから、」
 
1週間だけです。と紙コップを置く。
 
ナオコさんは自身の研究室から滅多に出て来ないから、ご存知でなかっただろう。
 
「あらあら、都合のいい時だけ母親面していると、子供に嫌われるわよ」
 
「そうなんですか?」
 
「ええ、ここに実例がありますからね」
 
何故か誇らしげに、ナオコさんが胸をそらした。
 
リツコさんが母親に対してコンプレックスを持っていたように、ナオコさんも娘に対して鬱屈を抱えているのだろう。だからこそ、その事を口にするときに却って軽々しい態度をとってしまうのではないだろうか?
 
さばさばした表情をしているのが、自虐の裏返しに思えるのだ。
 
「娘御さん、でしたか」
 
「ええ、いま第2で大学生やってるわ」
 
小銭を取り出して、迷うことなくコーヒーを選んでいる。
 
かこん。と紙コップの落ちた音。
 
「…嫌っているわけでは、…ないと思うんです」
 
MAGIの中でリツコさんと話したことを、思い出しながら。
 
「どういうことかしら?」
 
「あっ、すみません。生意気言ってしまいまして…」
 
「いいのよ。それより、貴女の意見を聞かせて?」
 
はい。と頷いて、あの時のリツコさんの様子を思い出す。
 
 ― 母さんのこと、そんなに好きじゃなかったから ―
 
その言葉とは裏腹に、リツコさんの雰囲気は柔らかかった。客観的な比較ができなくてコンプレックスを抱え込んでいたようだが、それがイコール嫌い、ではなかっただろう。
 
「…子供というものは親を独占したいものですから、それが充たされないことの不満と寂しさだと思うんです」
 
それは、シンジを見ていると実感する。
 
「…でも、子供は親を見て育つものですから、そのことは理解してくれます」
 
また保育所に預けるようになった時の、世界を護るための仕事だという言い訳を、シンジは懸命に呑み込んでくれたのだ。
 
「…だけど、その背中が大きすぎると子供にはプレッシャーになるのでしょう。自分は、この人の子供として誇ってもらえるだけの存在になり得るだろうかと」
 
居なくなった相手の、幻影との競争に神経をすり減らしている。それがリツコさんに対して自分が抱いた印象だった。
 
「…なんといっても相手は、人工知能研究の第一人者にして第7世代有機コンピュータ、人格移植OSの提唱者ですから」
 
「おだてても、なにも出ないわよ?」
 
抽出はとっくに終わっていただろうに、今ごろ紙コップを取り出したのは、真剣に聞いてくれたからだろう。
 
「おだてるだなんて、そんな…。私もそうですけど、きっと娘御さんも尊敬しておられると思いますわ」
 
「…貴女も?」
 
「ええ、尊敬してます」
 
「…そう、ありがと」
 
途端にそらされた視線を、どう解釈すればいいのだろう? もしかしてナオコさんはすでに…
 
「あら、もうこんな時間」
 
わざとらしく腕時計を確かめる仕種は、ナオコさんらしくないように思える。
 
「それじゃあお先に。シンジ君によろしくね」
 
「はい」
 
そそくさと立ち去るナオコさんを目で追うことはせず、紙コップを取り上げた。
 

 
父さんとナオコさんがただならぬ関係だったであろうことは、充分に予測できたことだ。
 
それがいつからで、どこまでの関係だったのかは、想像の範疇を出ないが。
 
母さん本人ならいざ知らず、自分にその事を非難する資格があるとは思えない。
 
気付いてない振りをして、成り行きを見るしかなかった。
 
 
****
 
  - AD2005 -
 
****
 
 
「葛城さん?」
 
「そっ、葛城ミサト、よろしくね♪」
 
背後で交わされる会話に、ちょっと涙ぐむ。
 
第2新東京市に来たのは、ちょっとした気紛れだった。
 
もしかしたら自分は、少し弱気になっているのかもしれない。
 
一方的にリツコさんに話しかけるミサトさんの姿を見ていたら、ちょっと元気が出てきた。
 
コーヒーの残りを飲み干して、席を立つ。
 
少し第2新東京市を散策してから、帰ろうと思う。
 
 
第2次遷都計画によって、第3新東京市と名付けられた街に。
 
 
****
 
 
こうして、碇ユイとしての1年目が過ぎた。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:32

「♪ふともも~ふともも~ふともも~を、みっがっけっ!」
 
ぷっくりとした太腿をボディスポンジでこする。きゅっと音のしそうな肌の張り。
 
「♪うちもも~うちもも~うちもも~も、みっがっけっ!」
 
内腿をこすってやると、くすぐったさにシンジが笑い声を立てる。
 
「♪すねっすね!ふくらはぎっふくらはぎ!かっかっと!かっかっと!あっしっの、こう~」
 
子供に語りかけてやることは大切なことだ。物には名前がついているということを併せて教えるために、こうして唄いながら体を洗ってやったりする。
 
「♪さいごに、あしのうら~」
 
シンジが身をよじって笑う。必死に抗うが、4歳児の抵抗など有って無きが如し。
 
「♪おしまいっ」
 
お湯をかけて泡を洗い流してやる。
 
「さあ温まりましょう。10まで数えられるかしら?」
 
頷いたシンジとともに湯船につかった。
 
 
自分は、少なくとも使徒襲来までは幸せに暮らせると思っていた。浅墓にも…
 
 
****
 
  
「ドイツでエヴァの接触実験って、どういうことですかっ!」
 
だんっと諸手を叩き付けたのは所長の机。睨みつけたのはその持ち主だ。
 
「どういうことも何も、君の言ったとおりだ」
 
「何故、とお訊きしているんです!」
 
父さんが、いつものポーズを取った。
 
「私との間に壁を作らないで下さい!」
 
虚を突かれた様子の父さんが、組んだ指を解いて背もたれに体重を預ける。
 
「何故と言うなら、話は簡単だ。君と初号機だけでは戦力として心許ない。と云うことだからな」
 
「でも…」
 
悔恨に、唇を噛む。無事に初号機を起動させたことに安心して、自分は積極的に行動を起こさなかった。
 
「初号機のポテンシャルと、予想されうる使徒の能力を比較したレポートは読ませてもらった」
 
手のやり場に困ったらしい父さんが、仕方なしに腕を組んだ。
 
「第2次遷都計画を隠れ蓑に、ここは迎撃都市となる。地の利を活かせば、初号機のみでの撃退も不可能ではないだろう…」
 
できれば、この地に第3新東京市の建設など、させたくはなかった。
 
しかし、様々な思惑が交錯し、現実的な試算の結果、カムフラージュとしての都市建設を行わざるを得なかったのだ。
 
「…とはいえ、万民を納得させられるわけではない」
 
「それは…そうですが…」
 
「君の希望は知っている。だが、此処の一所長に過ぎない俺に、どうしろというのだ」
 
…そうだった。ついネルフの総司令として父さんを見てしまうが、今は一研究機関の所長に過ぎない。多少のコネは有るにしても、他所の研究内容にまで口出しできるわけはなかった。
 
「君が以前出したレポート…、一昨年だが… に基づいてドイツでは間接制御の実験に移行するそうだ」
 
その先の言葉を聞きたくなくて耳を塞いだのに、父さんの言葉はするりと指の間をすり抜けてくる。
 
「選ばれたのは被験者のご令嬢、惣流・アスカ・ラングレィ。シンジと同い年のようだな」
 
皆まで聞かず、くずおれた。
 
この世界なら自分一人が戦えばいいからと、綾波が送り込んでくれたのに…
 
自分の覚悟が足らないから、自分の努力が不充分だから…
 
結局、アスカから母親を奪ってしまった。
 
エヴァに関わらせることになってしまった。
 
戦場に立たせることになってしまった。
 
自分は、自分は…何のために此処に来たというのだ。
 
 
泣いたところで、償いにはならない。
 
なのに、溢れ出る涙を押しとどめていられない。
 
むやみに過去を嘆いても、元には戻せない。
 
だけど、漏れ出る嗚咽を殺し切れない。
 
「…直接制御は、無理だと…」
 
何度も何度も床を叩いた。そのこぶしを受け止めてくれるものがある。
 
「それも、拙かった」
 
えっ? と見上げる先に、いつの間にやら机を廻りこんで来ていた父さんの顔。
 
「出来ないはずのことをやり遂げた者が居る。向こうはそのレポートを、此方の優位性を確保する為に打った策略、牽制と見たようだ」
 
「そんなっ!」
 
「そうでなくても、追試が必要だということでな」
 
差し伸べようとする父さんの手を振り払った。
 
「…ご存知だったんでしょう。なぜお教えくださらなかったのですか!?」
 
「知ってどうする。止めに行ったか?」
 
頷いた。
 
「無駄だ。対抗意識を煽るだけだろう」
 
「…でも」
 
「君に出来ることはないし、止めることも出来なかっただろう。…なにより、君のせいではない」
 
だからと云って、自分は…
 
「私は、…子供を戦わせるためにこの研究をしていたわけでは…」
 
また涙が込み上げてきて、背中を丸めるように顔を伏せた。
 
父さんが肩に手を置いてくれたが、その度に振りほどいて泣きつづける。 
 
「なんのために…、」
 
自分はこの世界に来たというのだ。
 
「なんのために…、」
 
綾波がこの世界に送ってくれたというのだ。
 
「なんのために…。」
 
ここでもアスカに母親を失わせるためか。
 
「なんのために…。」
 
エヴァに関わる不幸を拡げるためにか。
 
「なんのために…。」
 
子供を戦場に立たせるためにか。
 
「なんのために…、 なんのために…。」
 

 
……
 
呪詛のごとき言葉を何度呟いたことだろう。唐突に肩を掴まれ、強引に面を上げさせられた。
 
真剣な眼差しに、哀切な光を乗せて。父さんの表情がなぜか痛ましい。
 
「…すまなかった。…ユイ」
 
「…えっ?」
 
 
口を開きかけて躊躇した父さんは、一旦口元を引き締めた。
 
「君の思いを、その深さを。俺は軽んじていた…」
 
言葉を探すように、ひと言ひと言。
 
「記憶を無くした君に、そこまでの覚悟があるとは、考えもしなかった…」
 
言葉を切り、天井を、いや、天を見上げている。
 
「だから…、人類補完計画を提唱してしまった」
 
思わず胸元で握りしめた左手が、むなしく空を掴んだ。…もしかして一週間もの渡欧は、予算獲得のためなどではなく、実は…?
 
「それは…まさか…」
 
イヤだ。その先を聞かせないで。
 
「そうだ。行き詰まった人類を進化させる儀式」
 
「なぜ…?」
 
訊きたくないのに、なぜ自分は先を促すようなことを…
 
「ゼーレがそれをどうする気かは知らん。だが俺は、君の記憶を取り戻すために利用しようと…」
 
…たったそれだけのために、この人は全人類を道連れにしようというのか。
 
いや、そういう人だと、知っていたではないか。…いや、知っていたつもり、だったんだ。解かってなんかなかったんだ。
 
 
だから、…これは、自分が犯した罪の宣告だった。
 
自分の覚悟が足りないばかりに、この世界にむやみと危難を呼び寄せたのだ。
 
 
「儀式を完遂するために、エヴァンゲリオンの数が要る。ドイツの実験は、それ故だ」
 

 
なんのことはない。この世界の諸悪の根源は、自分ではないか。
 
 
爪が手のひらに喰い込んで、痛い。…いいや、もっと…もっと痛くないと、これが現実だって信じられなくなる。信じたく…なくなってしまう。
 
 … 逃げちゃ、ダメだ。
 
 

 
「すまなかった」
 
自分の表情をどう読み取ったのか、父さんが頭を下げた。
 
謝るべきは自分の方だ。父さんがどれほど母さんを愛しているか知っていたのに、応えてあげられなかったのだから。
 
こうなって当然だと判りそうなものなのに、目を逸らしていたのだ。
 
 

 
父さんの頭頂部を見つめながら、しかし、謝罪の言葉は出なかった。全てを告白するのでない限り、謝ったところで意味はない。
 
 
 … 逃げちゃ、ダメだ。
 
 
この事態をどう挽回すべきか、必死に考えをめぐらせる。
 
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
なにより、この人をこのまま野放しには出来ない。愛に迷って、今度は何をしでかすか。
 
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
だけど、どうしても父さんへの申し訳なさで心が充たされるのを止める事ができなかった。
 
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
いまさら、記憶が戻ったことになどできない。…したところで、アスカの母親は還って来ない。
 
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
 
それに、これ以上罪を重ねたところで、いかほどのことがあろうか?
 
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 
 
 … 逃げちゃダメだ!
 
  …
 
 … だから、自分にできる覚悟の仕方を選択した。
 
 

 
「あなたは、私を愛してないのですね…」
 
驚いたように父さんが面を上げる。
 
「莫迦を言うな!俺がどれだけ君を愛しているか」
 
両肩を掴み、捲くし立てる父さんから、視線をそらし。
 
「なら…、なぜ人類補完計画など提唱したのですか…」
 
「だから、それは君の記憶を取り戻すためだと」
 
掴まれた両肩に力が篭められる。
 
ごめん、父さん。父さんにとっては濡れ衣だよね。
 
「それは、つまり… あなたとのことを憶えていない私には、価値がない。ということですよね?」
 

 
自分が放った言葉を、時間をかけて咀嚼していった父さんの顔が、蒼褪めていく。
 
「あなたが愛しているのは、私そのものではないのですよね…」
 
父さんの両手が、ぽとりと落ちた。
 
「俺は… 俺は…」
 
「あなたが私を愛してないのなら、それでも構いません。人類補完計画で私を消し去ってください。あなたの愛した碇ユイを取り戻してください」
 
自分の罪を、父さんになすりつける。その罪をも、背負っていこう。
 
 
「それでは俺は、君を二度も失うことになるのではないか…?」
 
「あなたは私を愛していないのですから、それは違います」
 
再び、父さんの両手が肩を掴んだ。
 
「違う。俺は君を愛してる」
 
「ならば、なぜ最初からやり直そうとしてくれなかったのですか」
 
 

 
「人を愛せることなど二度とありえないと思った。人から愛してもらえることなど金輪際ないと思ったのだ。だから…」
 
言葉とともに、父さんの面が下がる。
 
 
…なんて不器用な人なのだろう。母さんの気持ちが、今なら解かる気がする。この人は、誰かが愛してあげなければ、愛し方を知らずに一生を終えたに違いない。
 
そして、自分ならこの人を愛してあげられると思えば、可愛いとも感じられるのだろう。
 
「試しも…しないで、ですか」 
 
父さんが、顔を上げた。
 
「…ユイ?」
 
 
天井を、いや、天を見上げた。まぶたを閉じて、母さんの記憶を全て心の裡に受け入れる。
 
いまさら、こんな覚悟ができても遅いけれど。でも、自分は… いや、私は…
 
 

 
視線を戻して、ゲンドウさんの瞳を覗き込んだ。
 
「私は、あなたが碇ユイを愛していることを知っています。
 あなたがもう一度、私との思い出を積み重ね直してくださるというのなら、私は結んでみたい。
 …
 ゲンドウさん。あなたとの絆を」
 
唐突に、だが、そうされるだろうと解かっていたから、抱きしめようとするゲンドウさんを自然と受け入れた。
 

 
「…すまなかった。この愚か者を赦してくれ」
 
…ゲンドウさん。それは、私がすべき謝罪なんです。
 
 
                                         つづく
2007.04.16 PUBLISHED
.2007.04.19 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第六話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:32


♪ よ せては 返す さざなみの よに よ るのと ばりが まぶたを押 すよ
 
  き みよ こ の日を 思い出に 刻み ゆ めの まほろば 朝まで あ そぼ ♪
 
 …
 
♪ 欠 けては 満ちる 満月の よに きょうのこ の日が さよなら告げ るよ
 
  あ すの約束 指きり交わ せば な ごり惜し んで 流れ星 ひとつ ♪
 
 
興奮して寝付けなかったシンジが、ようやくまぶたを閉じた。
 
明日の運動会を、それはそれは楽しみにしていたのだ。
 
 
…………
 
 
一度動き出した計画を、無かったことにはできない。
 
だから、人類補完計画に協力する振りをし、利用しながら、最終的には阻止する。
 
と、いう風にゲンドウさんは約束してくれた。
 
まずは一安心である。
 
 
手始めに、ゼーレに潜りこませるスパイの人選を始めたそうだ。
 
折角なのでリストを見せてもらったが、加持さんの名前はなかった。
 
今はまだ大学生だから、当然だろうけど。
 
 
…………
 
 
シンジと手をつなぎ、ゴールを目指す。体格差がありすぎて、ペースを合わせることのほうが疲れるような、そんな駆けっこだった。
 
ゴールに駆け込むと、保育士の先生がプラスティック製の金メダルをシンジにかけてくれる。順位に係わらず誰でも貰えるから、まあ参加賞だろう。
 
ぴかぴかのメダルが誇らしいのか、跳ね回ったシンジが盛大に転んだ。
 
 
四季がなくなって久しいこの国でも、運動会はやはり秋に行われる。
 
ただ、昔のような晴天率とはいかないらしく、できたばかりの市民体育館を借りて、雨天の下での開催だったが。
 
そういえば、気象庁は過去のデータがまったく使えなくなって七転八倒しているとか聞いたことがあった。
 
 
汗を拭って、確保しておいた一角に座り込む。シンジはそのまま糸の切れた凧のように、いずこかヘ。子供というのは落ち着きのないものだ。
 
さて、これでとうぶん親の出番はなかったはず…とプログラムを開く。
 
核家族化も進み、片親しかいない家庭も多い昨今。こうした行事は休日に、雨天順延のないよう体育館などの施設を借りて行われるのが普通らしい。
 
それでも見渡せば、親が来れなかったらしく独り寂しく座っている子供の姿が目立つ。
 
おそらく、その中にはシンジのお友達も居るだろうに、名前も知らないことに気付く。迎えに行ってやれる時間が遅くて、お友達と遊んでいる姿を見たことがなかったのだ。
 
仕事が忙しいことは言い訳にしかならない。
 
自分の至らなさを思い知らされて、うなだれる。
 
「お疲れのようだね」
 
「冬月副…所長!?」
 
見上げると、副司令が好々爺然とした笑顔を浮かべて立っていた。スーツ姿にネクタイが、微妙に似合わない。
 
となり、いいかね? と問われて、慌ててレジャーシートから荷物をどける。
 
「こんなところに、どうなされたのですか?」
 
よっこいしょ。と腰をおろした副司令が、いや、なに。と前置きして。
 
「研究所直営の保育所だからね。名目上の責任者は私ということになってる。たまには顔を出さないと面目が立たないのだよ」
 
なるほど。とポットを手にとる。注ぐのは熱いほうじ茶だ。来客に出すような代物ではないが、それしかなかった。
 
「ああ、ありがとう」
 
受け取ったカップから美味そうに茶をすすり、副司令が館内を一瞥する。
 
気付けば周囲に人の気配がない。どうやって人払いしたのか、秘訣を聞いてみたいところだ。
 
「…碇のヤツから話は聞いたよ」
 
その顔を窺うが、副司令は正面を向いたままこちらを見ようとはしない。
 
「私は元々、碇のやろうとしていることを見届けたかっただけでね。何をしようが、それが失敗しようが、構わんつもりだった」
 
顎にあたる湯気を愉しむように、副司令が目を細める。
 
「ただ、計画の当初から…碇のヤツと君との間に…、ああ、いや。記憶を失う前の、だがね。…微妙な齟齬があるようには感じていた」
 
すすっ。と副司令は、実に上品にほうじ茶をすすって見せた。
 
「君が記憶を失って、その乖離が酷くなったのは当然だが…」
 
目で追っているのは、駆け回る子供たちだろう。運動会でさんざん走り回っているのに、トラックの外でも追いかけっこ。
 
「…そもそも、君たちの間にあった微弱な食い違いは、なんだったんだろうね」
 
視線を副司令から外して、私も子供たちを見た。追いかけっこの中にシンジの姿を見つけて、目が細くなる。
 

 
父さんと母さんの間の齟齬は、なにも計画に関してだけのことではないだろう。
 
こうして一緒に暮らしてみて気付いたのは、お互いが与えて受け取っていた愛情のカタチすら食い違っていたのではないか? ということだった。
 
だからこそ母さんは、時期尚早だったエヴァとの接触実験を躊躇わなかったように思える。
 
 
「エヴァ接触実験の再試験をおこなったとき…」
 
応えがあるとは思っていなかったのだろう。うん? と副司令が問い直すのを聞き流して。
 
「…私がエヴァに置き忘れた記憶の一部と出会いました」
 
つまり、母さんの心だが。
 
「そこから推測するに、二人の考えが著しく違っていたのは一点。サードインパクトが起きてしまった場合の対処です」
 
つまり、使徒に負けた場合かね。という問いに、頷きを返す。
 
「私はどうやら、そうなった場合でもエヴァを人のDNAの箱舟にして新たなエデンを探すつもりだったようです。
 そのために、さまよえるオランダ人のように、己が正気は失ったとしても」
 
「もしかして碇のヤツは、そのまま滅べばよい。と考えていたのか?」
 
あるいは、一緒に箱舟に乗るつもりだったか。と応える。
 
「それで合点がゆく。君がなかなか目覚めず、記憶まで失ったことを、あヤツはまるで見捨てられたかのように評していたからな…」
 
「私が記憶を失った後に、あの人が起こした行動を考えると、…副所長が思っていらした以上に二人の間の齟齬は大きかったのかもしれません」
 
ふむ。と副司令がこちらを向く、気配。
 
「それで、君は今。どう考えているのかね」
 

 
あっ、シンジが転んだ。思わず浮かしそうになる腰を、叱りつける。
 
友達に助け起こされ、涙を見せることもなく再び駆け出した、その姿に安堵。
 
「…サードインパクトも、人類補完計画も必ず阻止します。もし失敗しても…」
 
「失敗しても?」
 
「リリスの分身たる初号機によるフォースインパクトを狙います」
 
「サードインパクトを起こした使徒を斃した上で、ファーストインパクトを再現しようというのか」
 
ええ。と副司令の顔を見返した。
 
「直接制御下に置いた初号機なら、アダムを見限ったリリスの代役足りえますから」
 
なるほどな。と副司令が視線を再び運動会の様子へ。
 
「…正直、君が失った記憶に私も未練があった。だからこそ、碇のヤツに協力していたのだがね」
 
ずずっ。と、とうに冷めたであろうほうじ茶を、今度は行儀悪くすすっている。
 
ぬるいな。と妙に嬉しそう。
 
「記憶を失ったことすら、君にとって必要な過程だったならば、それを尊重する以外に道はない…」
 
ぐっと飲み干して、空になったプラスチックカップを返された。
 
「喜んで協力しよう。人は、その生きていこうとするところにその存在がある」
 
どっこらしょ。と立ち上がった副司令が、とんとんと腰を叩く。
 
「頼りにしてます」
 
立ち上がったことが何かの合図ででもあったのか、周囲に人の気配が戻ってきた。
 
老骨なんだ、労わってくれたまえ。と立ち去る後姿に、頭を下げる。
 

 
頭を上げた途端に、おなかすいたー。と突進してきたシンジを受け止めるハメになった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第七話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:33


****
 
  - AD2006 -
 
****


ドイツにおける弐号機の開発は難航しているらしい。
 
実験機たる初号機が怪我の功名的に直接制御を成功させてしまったので、生かすべき教訓が存在しないからだろう。
 
いまや弐号機は、間接制御の実験機と呼ばれてもおかしくない状況におかれている。
 
個人的な感情としては、このまま弐号機が陽の目を見ないほうが嬉しい。アスカを、戦わせたくないから。
 
しかし、ゼーレがそれを許してくれなかった。
 
試作機である零号機は適合者が居ないこともあって廃棄が可能だったが、弐号機はそうもいかない。なにより、無謀な実験で適格者を作ってしまったドイツは、意地とメンツにかけて弐号機を完成させようと躍起になっている。
 
それに、母親を失ってしまったアスカから、エヴァまで取り上げるわけにはいかない。
 
ならば、アスカのためにも弐号機を使えるようにしてやりたいと思う。ドイツから正式な要請が来ることはないだろうが、こちらでできることを進めていた。
 
 
 
インターフォンを押す。
 
「碇ユイです」
 
『入りたまえ』
 
ドアを開けると、無駄に広い所長室に、ゲンドウさん一人。
 
机の前まで進むと、ここに至る廊下よりよほど歩かされた気にさせられる。
 
「ユイ…。君を拒むドアなど持ってない。勝手に入ってくればいい」
 
いつものポーズのゲンドウさんが、臆面もなさげに。
 
「意外に女ったらしなんですね。碇所長?」
 
途端に頬を赫らめたゲンドウさんが、視線をそらした。
 
「…君だけだ」
 
どうでしょうかねぇ。と受け流したら、拗ねたのか黙り込む。意外にからかい甲斐のある人なのだ。
 
こういうところを可愛いと、母さんは感じていたのだろう。今ならそれに同意できる。
 
からかったり、からかわれたり。そうした普通の恋人としての関係がしっかりとあったことを、母さんの記憶が教えてくれていた。
 
 
そうやってゲンドウさんとの絆を育んでいきたいのは山々だが、手の中の書類の重さが現実に引き戻してしまう。せねばならないことが山積みなのだ。
 
「口説き落とされるのでしたら、勤務時間外のほうが嬉しいですわ」
 
そうか。と視線を戻したゲンドウさんの、眼光の鋭さが所長のものに。
 
「弐号機の、機体制御の検討案をまとめてきました」
 
「ご苦労だった」
 
差し出したプリントアウトの束を一通り眺めてから、添付したメモリデバイスごと抽斗の中へと。
 
「問題は…、ドイツが受け入れてくれるかどうかですが…」
 
「それは俺と冬月の仕事だな。なに、制御方法が違うとはいえ、こちらには実績がある…」
 
ぐっとメガネを押し直して。
 
「やりようはある」
 
「お願いします」
 
一礼して退出しようとしたら、背後でドアの開く音。
 
「碇。人材登用基準の見直しが行われたぞ」
 
どうやら、副司令を拒むドアもないらしい。
 
「お疲れ様です。冬月副所長」
 
書類に目を落としながら歩いてきた副司令が、顔を上げる。
 
「おや、ユイ君。ちょうど良い。君も見ていきたまえ」
 
「よろしいのですか?」
 
二度手間になるからね、老体の仕事を減らしてくれたまえ。と書類をゲンドウさんに手渡している。
 
「無用な人材の登用をおさえ、組織の冗漫化を防ぐ。…という名目なのだがな、」
 
ざっと一瞥したゲンドウさんが、書類を渡してくれた。
 
「…ああ、実際は嫌がらせ…いや、警告だな」
 
「警告…ですか?」
 
うむ。と頷いて、いつものポーズに。
 
「このところの新規採用を俺や冬月の周辺から集めすぎた。ゼーレはそれを、俺のシンパ作り。勢力拡大の目論見ととったようだ」
 
それは間違いではないがね。と副司令。こちらは顎をつまむような仕種。
 
「研究職の採用基準が、厳格化されたのですね」
 
見ると、博士の学位が必須条件にされている。これに従うとマヤさんはおろか、リツコさんすら採用できない。
 
「学位ばかりが能力の基準ではないのに…、困ります」
 
「ああ、それは問題ないよ」
 
ほら。と指し示された個所に、附則事項。
 
「所長権限による、特別枠ですか…」
 
「人数の制限がないだろう。ゼーレの裁可が必要になった。というだけでね」
 
「…嫌がらせレベルに過ぎん」
 
なるほど。人事にも目を光らせているぞ。という警告なわけか。
 
かつて、葛城ミサトであった時代には、このような採用基準ではなかった。
 
それはつまり、ゼーレとゲンドウさんの関係が微妙に変化したことへの反作用なのだろう。
 
 
****
 
 
「♪ちょっきん、ちょっきん、ちょっきんな~♪」
 
充電式のバリカンを手に、シンジのうなじから刈り上げていく。
 
「こ~ら、動かないの」
 
「だって~」
 
てるてる坊主みたいな格好にされたシンジが、バリカンから逃れようとする。
 
お尻の先を、虫でも這ってるようなくすぐったさが襲っているのだろう。それは解かるけれど。
 
「おとしなくしてないと、いつまで経っても終わらないでしょう」
 
う~。と短く唸ったシンジが、諦めて椅子に座りなおした。
 
良く晴れた昼下がり。ベランダから見渡す空がすがすがしい。
 
この国から四季がなくなって、唯一ありがたいと思うのは、こうして時期を気にせずに子供の頭を刈れることだろう。
 
「くすぐったくなく、してね」
 
「努力しましょう」
 
どう努力していいのか、解からないけど。
 
一所懸命に歯を食いしばり、くすぐったさを堪えようとするシンジのうなじに、またバリカンを当てる。
 
「こ~ら、動かないの」
 
「だって~」
 
先ほどから何度繰り返したか知れないやりとりを、また繰り返して。
 
「シンジが終わらないから、お父さん、待ちぼうけよ?」
 
指さす先はリビングへ続くガラスの引き戸の向こう。律儀に順番を待っているゲンドウさんの姿。
 
「だって~」
 
両手でお尻をかばっている。頭を刈られているのにお尻がくすぐったくなることが、不思議でならないのだろう。
 
「早く終わらせてくれないと、お母さん、おやつの仕度ができないわ」
 
 
おやつは、できるだけ手作りするようにしている。
 
そうしてやりたいと思う愛情が前提なのはもちろんだが、出来合いのお菓子は高いという実利面も無視できない。
 
ゼーレの肝煎で国連から資金投入されている日本は、その目的が目的だけに、ずいぶんと歪な好景気を呈しているのだ。
 
その影響をまともに受けるのが物価で、工業製品などの価格の割に、食料品と人件費が高かった。
 
かつて自分もSDATのような高機能オーディオ機器を所持していたが、この時期に生産された製品を安く手に入れることができたからだ。
 
この偏りが是正されるには、あと数年を要するだろう。つまり、第3新東京市の建設が一段落するまで、ということだが。
 
 
「…きょう、なに?」
 
「バナナのパンケーキと、チョコレートのクレープ。どっちがいい?」
 
う~ん。と悩んで。
 
「ばななちょこのぱんけーきっ!」
 
…そうきますか。
 
「はいはい。我慢できたらね」
 
「わ~い」
 
再び神妙な顔で椅子に座りなおしているが、バリカンのスイッチを入れただけで及び腰だ。
 
「こ~ら、動かないの」
 
「だって~」
 

 
嘆息
 
 
****
 
 
あと数回そういったやりとりをした結果、ゲンドウさんの番になった途端に電池が切れた。
 
  
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第八話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:33


ダイニングのテーブルに、器材を並べる。
 
リビングで子供用チェロを弄んでいたシンジが、目を輝かせて駆け寄ってきた。
 
5歳になったら何か習い事を、とシンジに持ちかけて、結局チェロを選んだのには驚いたものだったが。
 
「なに? なに?」
 
小麦粉、たまご、牛乳と食材を取り出す。
 
「今日はショートケーキ」
 
わあい。と喜んだシンジの顔が、不審でゆがんだ。
 
「…とまと、なににつかうの?」
 
「もちろん、ケーキに使うのよ。今日はトマトのケーキだもの」
 
えー!っと驚くシンジの顔が、実に可愛らしかった。
 
 
子供の好き嫌いをどうこうする気は、自分にはない。
 
単なる食わず嫌いや好き嫌いならば、他の食品で補えるのだからたいした問題ではないのだ。それに、子供のうちの嗜好などいくらでも変わる。私も、小学校に上がるまではトマトが食べられなかった。
 
食べることは生きることと同義だから、もう少し大きくなればそれなりの躾をするつもりではある。だが、まだそういう段階ではない。
 
 
気紛れにミニトマトのショートケーキを作ってみる気になったのは、たまたま葛城ミサトであった時代にその存在に出会っていたからだった。…思い出の品、と言っていい。
 
それでシンジの好き嫌いが治れば御の字である。
 
 
 
綾波やアスカと一緒に作ったときもそうだが、レシピは完全に推測の産物だ。ほうれん草を練りこんだ生地を焼いている間に、ホイップクリームの準備をする。
 
製作手順を見守るシンジの表情は複雑だった。ケーキを作ってくれるのは嬉しいが、ミニトマトは食べたくない。葛藤が解かりやすくて、ついつい頬がほころぶ。
 

 
焼きあがった土台を上下に切り離し、間に刻んだミニトマトを混ぜ込んだ生クリームを盛る。表面は普通のホイップクリームで覆い、トッピングだけはイチゴで飾った。
 
 
5号だから小さいものだが、ホール丸ごとのまま、シンジの前に置く。丁度おやつの時間だ。
 
「どう?」
 
「…これ、ぜんぶ?」
 
「もちろん。だって、シンジのために作ったんですもの」
 
今までもおやつを手作りしてやったことはあって、そのうちのいくつかはケーキだった。
 
だけど、ホール丸ごとのケーキ。というのは初めてだ。その驚きが、トマトへの嫌悪感に勝てるかどうか。
 
フォークを受け取ったシンジが、ためつすがめつ、突付いてみたりしている。
 
見ていると吹きだすのを我慢できそうになかったので、一時キッチンに撤退。…何とか笑いを噛み殺す。
 
コップにオレンジジュースを注いで戻ってみたら、フォークに刺した欠片を前に葛藤を繰り返していた。
 
ここで笑うと台無しだ。コップをケーキの横に置いてやり、身体の陰で手の甲をつねって耐える。
 

 
 ……
 
  ………
 
延々と逡巡するシンジの様子は実に可愛らしいが、これはいったい何の拷問だろう?
 
 …
 
目前のケーキの欠片とにらめっこしていたシンジが、ふとこちらを向いた。
 
笑いを堪えているのが、バレたのだろうか?
 
その小さな頭の中に、どんな考えが巡っているのか。本人だったことのある私でも、ちょっと窺い知れない。
 

 
唐突にまぶたを閉じたシンジが、意を決してケーキを口の中に放り込んだ。
 
必死の形相で咀嚼するが、一噛みごとに表情が和らいでいく。
 
こくん。と呑みこんで、ちょっと呆然。
 
「…おいしい」
 
「…そう…、よかっ…たわね…」
 
笑いを堪えすぎて涙ぐんだのは、初めての体験かもしれない。
 
 
フォークで不器用にケーキを切り取っては、その小さな口に運んでいる。実は製作過程で見せつけたほどにはミニトマトは入ってないのだ。
 
食べ物の好き嫌いなんて、その心構えで幾らでも変わりうる。そのきっかけになれば充分だった。
 
 
****
 
 
「なんだ、これは」
 
人工進化研究所の所長に休みなどない。今日もゲンドウさんは午前様すれすれだった。
 
「今日作ったんです。ミニトマトのショートケーキ♪」
 
「…」
 
「シンジったら、ミニトマト食べられるようになったんですよ。すごいでしょう」
 
「…そうだな」
 
ゲンドウさんが、微妙に引き気味。実はトマトが嫌いなのだ。
 
母さんの記憶に有ったから知っているが、わざと知らない振りをしている。
 
「せっかくですから、ゲンドウさんにも召し上がっていただきたくて…」
 
「いや、俺は…」
 
「…」
 
敢えて口に出さず、上目遣いで訴えてみた。
 
「…今日はもう遅い」
 
「…」
 
ケーキが視界に入らないように視線をそらしている。シンジ用と違ってトッピングもちゃんとミニトマトだ。
 
「…トマトなぞ食わなくても生きていける」
 
「…」
 
懐からレンズ拭きを取り出したゲンドウさんが、メガネをはずす。
 
「…ヨーロッパに伝わった頃、トマトには毒が有った。貧困層の食糧事情の改善に、200年に渡る品種改良でむりやり食用にしたが、まれに先祖がえりで毒を持つことがあるそうだ」
 
「…」
 
レンズを拭きながらそれらしい御託を並べているが、もちろん嘘だ。ゼーレと対峙しているときも、今みたいにしれっと嘘をついているのだろう。
 
「人はトマトを食べられるようにはできておらんのだ」
 
「…」
 
ゲンドウさんが脂汗を流しだした。…そろそろ潮時か。
 
「…確かに今日はもう遅いですね。朝にでも召し上がってください」
 
「ああ…そうさせてもらおう」
 
とりあえず問題を先送りできたことに安堵して、ゲンドウさんが大息をついた。
 
 
****
 
 
翌朝
 
ミニトマトのショートケーキは、本人のたっての希望でシンジの朝食になった。
 
その様を、ゲンドウさんが感謝の眼差しで眺めていたことは、言うまでもない。
 
 
**
 
 
「ゲンドウさん。そろそろ仕度しないと会議に遅れますよ」
 
「ああ」
 
保育所のバスにシンジを預けて帰ってきてみれば、新聞を広げ持ったゲンドウさんは、まだパジャマ姿だった。ひげが伸びているところをみると、顔も洗ってないだろう。
 
嘆息してから食器を下げ、食器洗い機に放り込む。
 
弁当箱にフタを被せ、ナプキンで包んでからダイニングに戻る。
  
「君の支度はいいのか?」
 
「はい、いつでも」
 
弁当箱の包みをテーブルに並べた。
 
「…多く、ないか?」
 
「ひとつはナオコさんの分です」
 
びりっと音を立てて、新聞の折り目が少し裂ける。
 

 
「…何故だ」
 
声が少し上ずっている。この人でも動揺することがあるんだ。と変に感心。
 
「今日から共同研究ですから」
 
「…そうか」
 
目を合わせようとしない。どうやら二人の関係は確定的で継続中らしい。
 
別に、当てこするようなつもりではなかったのだけど。
 
 
**** 
 
 
ヒトの精神を溶かし込んだエヴァが、その近親者と同調し得ることは、ドイツでの実験で証明された。
 
問題は、同調することと、思うとおりに操れることとの間には深くて広い溝があったことだ。
 
そこで、エヴァに溶けたヒトの精神を統合し、簡易な人格を再構成してその肉体を制御させることになった。
 
それによってインタフェースを簡素化できれば、操縦性の向上が図れると見込まれている。
 
アプローチはまったく逆だが、人格移植OSの応用と云えるだろう。
 
ドイツへの技術供与にあたり、エヴァへの最適化を行うためにナオコさんに協力することになった。
 
場合によっては、ナオコさんにはドイツに行ってもらわねばならないかもしれない。
 
 
****
 
 
「…お弁当? 手作りの?」
 
案の定、怪訝な顔をされてしまった。
 
「ええ、支給のお弁当にも飽きたんじゃないかと思いまして」
 
実際には、葛城ミサトであった時代にリツコさんを通して聞いていたことだが。
 
「…ご迷惑、でしたか?」
 
探るような目つきを、無視して。
 
「いいえ、戴くわ」
 
「よかった♪」
 
紙パックの煎茶を取り出して、渡す。こちらは支給品だ。
 
いただきます。と手を合わせるナオコさんから、余計な感情は読み取れない。
 
はい、どうぞ。と煎茶のパックにストローを通す。
 
弁当箱のフタを取ったナオコさんの表情が、少し複雑。嬉しさの仮面で隠したのは妬みと疑い、だろうか?
 
2人して同じ中身の弁当をつつくさまは、はたから見れば呉越同舟だろう。私にそんなつもりはないのだけど。
 

 
「美味しいわ。佳い奥さんを持って碇所長は幸せ者ね」
 
危うく、出汁巻き卵を気管に詰まらせるところだった。ナオコさんから、こんな直球で探りを入れられるとは思わなかったのだ。
 
なんとか平静を装って呑み下す。
 

 
「…そうは思えません。私の記憶は戻る気配もありませんから、夫婦とは名ばかりです」
 
実は、そうでもない。覚悟を決めたあと、…ずいぶんと時間はかかったけれど、私はゲンドウさんを受け入れた。
 
その上で2人の関係が続いているのだとすれば、それはゲンドウさんに何らかの意図があるのだろう。
 
母さん本人ではない私にゲンドウさんへの独占欲はないから、そのこと自体を咎めだてしようとは思わない。
 
ただ、それはつまり私がゲンドウさんを愛してないことの、ゲンドウさんを利用するために愛を騙っているに過ぎないことの裏返しでもあったが…
 

 
「…貴女の認識の上では、碇所長は単なる同居人といったところ?」
 
ためらいがちに、といった風情で頷いてみせた。
 
よほど勘の鋭い女性でも、傍証もなしにこの2人の関係を見抜くことは難しいだろう。
 
事実、知っていて観察していたのに、そんな素振りは微塵も見受けられなかったのだ。リツコさんもそうだったが、ナオコさんも実に用心深かった。
 
だから、私は2人の関係に気付いてはならない。リツコさんの時のような失敗は二度と御免だ。
 
そうなると当然、ゲンドウさんの真意も問い質せない。
 
…とすれば、私にできるのは、せいぜいその意図を邪魔しないようにすることだけだった。
 
「…離婚とか、考えなかったの?」
 
それはない。とは答えられないから、
 
「…子供には、関係のないことですから」
 
表向きの理由だが、ナオコさんなら深読みして自分の都合のいいように解釈してくれるかもしれない。子供が独立したら…、とか。
 
「解かる気がするわ。子育てに失敗した身としてはね」
 
リツコさんは貴女を越える科学者として名を馳せてます。と反駁しそうになって、口をつぐむ。
 

 
黙り込んでしまった私をどう解釈したのか、ナオコさんが言葉を継いでくれる。
 
「早く記憶が戻れば、円満なのにね」
 
思ってもないことを口にしているなどと、顔にだすような人ではない。額面通りに受け取ってはならないだろう。
 
「それはそれで怖いんです。今の自分がなくなってしまいそうで…」
 
記憶を失った人が、1度は抱く不安らしい。
 
「そういうものなのかしら」
 
ただ単にナオコさんと親睦を深めたかっただけなのに、どうしてこうも腹の探りあいのような会話を続けなければならないのか。
 
 
私にとって、まだまだ女性は向こう岸の存在だということなのだろう。
 

 
 
                                         つづく



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX2
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:33




  - AD2006 -
 
 
自分が食べたことのない味を思い出して無性に食べたくなる。という衝動は、葛城ミサトであった時にもよく経験した。
 
ミサトさんの時はUCCオリジナルだったり本場ドイツのビールだったりしたが、母さんの場合それは、ひろうすらしい。
 
ひろうすと云うのは、こちらで云うところのがんもどきと同じ料理だ。飛龍頭と書き、ポルトガルの揚げ菓子が起源だとか。京都生まれ、京都育ちの母さんは、ギンナン入りのひろうすが大好物だったらしい。秋になると大阪の親戚の家に泊まりに行って、御堂筋に落ちてる公孫樹の実を拾ったりしていたようだ。
 
 
母さんのプロフィールを読んで慌てたのは、京都出身だということを知って、京言葉を話すべきではなかったか? ということだった。落ち着いて母さんの記憶を浚ってみて、母さんがごく普通に標準語を使っていたことを確認して安堵したが。
 
これは旧首都圏に暮らしていた人には意外かも知れないが、地方出身者はけっこう上手に標準語を使う。学校教育やテレビの普及で、違和感なく身に馴染んでいるのだ。
 
これは近年に限ったことではなく、近世江戸時代でも謡曲や浄瑠璃言葉が共通語として機能していたらしい。…母さんの記憶の、受け売りだけど。
 
 
それはそれとして、いきなりひろうすが食べたいなんて感じられても、対処のしようがない。常夏の日本、特に復興期の今は、おでん屋さんなどというものはないのだから。
 
とりあえず、帰り道を変える。図書館にならレシピが載った本が置いてあるかもしれない。
 
 
                                         終劇
2007.10.18 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 碇ユイの人物像を肉付けするために出身地を設定するも、ユイが京大で京言葉を話してなかったので、不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第九話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:34


「適格者の調査選抜…機関ですか?」
 
「ああ、ゼーレに提唱しようと思う」
 
タオルケットを引き寄せながら、上半身を起こした。
 
人類補完計画は、阻止する約束だったはずだが。
 
「…どういう、おつもりです?」
 
常夜灯の薄明かりの下では、ゲンドウさんの表情は読み取れない。
 
「今から話す。まずは落ち着け」
 
言われて、サイドテーブルの水差しから水を一杯。
 
俺も一口貰おう。と起き上がったゲンドウさんに、飲み残しを渡した。
 
「…ぬるいな」
 
「そのほうが、体にいいんです」
 
こっちの顔色を窺うような視線を、ふいっと逸らす。
 
ふっ。と苦笑する気配。最近、ゲンドウさんにゆとりが見られるようになった。それはとても良いことだと思う。
 
「ゼーレが世界中に作ったダミー企業、ペーパーカンパニーはあまりにも膨大で、その全容が掴めない」
 
返されたグラスを、サイドテーブルに戻す。
 
「そこで、適格者の調査選抜という大義名分を与えてやる」
 
「大義名分ですか?」
 
「ああ、ややこしい口実をその都度一々でっち上げなくても、国連から堂々と金を引き出せるようなヤツをな」
 
それは解かるが。
 
「その為に、ゼーレは手持ちのダミー企業をこぞってその機関に登録するだろう」
 
なるほど。
 
「…ゼーレの資金源とルートを、炙り出すんですね」
 
「そうだ」
 
まあ、一部だろうがな。と、押し直そうとしたメガネが目元にないことに、ゲンドウさんが気付く。
 
「ゼーレが、乗るでしょうか?」
 
「ゼーレの資産は莫大だが、これまでそれを表立っては使えなかった。
 この案は、マネーロンダリングにもうってつけだからな」
 
なるほど。とサイドテーブルから取ったメガネを、ゲンドウさんに。
 
「こちらの要求として、日本国内のダミー企業の収益と、実質的な適格者選抜の権利を要求しておく」
 
つるを開いて、メガネをかけて。
 
「金は有るにこしたことはないが、まあ目眩ましだ」
 
確かに、欲得ずくだと思われたほうが却って疑念を持たれないだろう。
 
「適格者選抜の権利を押さえておけば、弐号機パイロットのような事例を防止、牽制できる」
 
味方につけたとき、この人ほど頼りになる人は居ないかもしれない。
 
「…その機関の名は?」
 
やつらの流儀に合わせるまでもあるまいからな。と、にやり。

「マルドゥック機関と名づける」
 
あまり聞きたくない名称だったせいか、肩口に粟が立つ。
 
四季がなくなったとはいえ、暦の上では冬の、夜気が肌に冷たかった。
 
 
****
 
 
「熱も退いたし、ポツポツさんも減ったし、もう大丈夫そうね。焼きリンゴさん、食べる?」
 
「うん」
 
冬月副司令のお見舞いに紅玉が入っていたので、焼いてみたのだけど…。よかった。食欲が出てきたようで。
 
 
 
「はい、あ~んして」

「あ~ん♪」
 
 
…………
 
 
子供というものは、きちんと早めに寝かしつけておけば早起きなものだ。
 
シンジも、6時になるかならないかの頃合からベッドの中でごそごそし始める。目覚まし代わりにちょうど良かった。
 
ところが、その日の朝。珍しいことに我が家の目覚し時計が仕事をしたのだ。
 
アラームを止め、怪訝に思ってシンジを探す。寝相が悪いので、下手をすると足元で逆さまになっていたりするからだ。
 
薄闇の中で目を凝らすと、あにはからんや私の隣りできちんと寝ている。ただ、その呼吸が荒い。
 
首筋に手を差し込み、延髄で熱を測る。少々熱が出ているようだ。
 
呼吸音に喘鳴がないから、喘息などの呼吸器系の疾患ではないと思う。
 
掛け布団を捲ってみると、小さな腕にポツポツと発疹が見られた。
 
「…何事だ」
 
「あら、ゲンドウさん。起こしてしまいましたか?」
 
「問題ない。それで?」
 
シンジの掛け布団をかけなおす。
 
「シンジが病気のようです」
 
「なんだとっ」
 
跳ね起きたゲンドウさんが、まじまじとシンジの様子を観察する。
 
「いかん。すぐ病院に搬送だ」
 
今にも飛び出さんばかりのゲンドウさんの腕を掴み、引き寄せた。
 
「落ち着いてください。まだ6時ですよ」
 
「たたき起こせば済むことだ」
 
こうして一緒に起居するようになって驚いたのは、ゲンドウさんが意外に子煩悩、というか親莫迦だということだ。ミニトマトの一件以来、特に距離が縮まっているように見受けられる。
 
その不器用さを受け止めてくれる者が居るなら、この人なりに他者を愛せる。と言うことなのだろう。
 
その事を一目で見抜いたらしい母さんの、人を見る目には恐れ入るばかりだ。
 
「ですから、落ち着いてください。大した病状ではなさそうですよ」
 
「そっ、そうか?」
 
ええ。と頷いて。
 
「発疹がありますから水疱瘡だと思います。ゲンドウさんは?」
 
「ああ、小学生の時にやっている」
 
「それなら大丈夫ですね」
 
あれ? 母さんの記憶によると、シンジは2歳の時に水疱瘡に罹っている筈だけど…?
 
「今日は在宅勤務に切り替えて、私が病院に連れて行きます」
 
「そうか…、後は頼む」
 
「はい」
 
 
****
 
 
病院で診察してもらったところ、シンジの病気は手足口病というらしい。 
 
その名のとおり、手足や口腔内に水疱性の発疹が出る病気で、5歳までの幼児に多いそうだ。
 
調べてみるとコクサッキーA16などがひきおこす急性ウィルス性感染症で、去年、今年とマレーシアやシンガポール、カリマンタン島などで猛威を振るったらしい。
 
コクサッキーウイルスと云えば夏風邪の原因の一つくらいとしか認識していなかったので、幼児相手にこんな症状を起こさせるとは意外だった。
 
大した病気ではないが、口内にできた発疹が痛いらしくて、食欲が減退しているのが可哀想でしょうがない。もっとも本人は案外けろりとしていて、私が傍に居ることを歓んでいたようだが。
 
 
結局、3日間ほど在宅勤務にして付き添った。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:34


****
 
  - AD2007 -
 
****
 
 
西暦 2007年 10月 4日は、私にとって忘れられない日になるだろう。この日を大切に思うのが、私だけでなければ、うれしいのだけれど…
 
 

 
痛い、痛いとさんざっぱら脅かされていたが、そんな段階はあっという間に過ぎていまや下半身の感覚がない。
 
おそらく、脳内麻薬が出まくっているのだろう。
 
グリップを握りしめすぎたのか、両手の感覚までなくなってきた。そんなことに体力を使ってはいけないのに、つい。
 
感覚がないからといって苦しくもないか? と云うと、そうではないところが騙されているような気分になる。痛覚は麻痺しきっていても、内臓感覚は残っているのだろう。
 
誤解を恐れずに言えば、この苦しみは、股間を打ちつけたときの痛みに似たところがある。言葉で説明できない。という一点に於いて、だが…
 
襲ってくるさしこみに、耐えようとして息を詰めてしまう。
 
いけない、いけない。腹式呼吸を心がけねば。
 

 
 
こんな苦しみをいったいどれほど味わわされているのか、時間の感覚がなくなって久しい。
 

 
 ……
 
 
突き放されるような唐突さで、体が楽になった。
 
いや、まだ苦しいことに変わりはないが、先ほどまでと較べれば、天国と地獄。
 
道が出来てる。とはよく言われたが、確かに一旦降りてしまえば後はあっという間だったように思う。初産は、もっと大変なのだ。
 
 
…ふぇ。という泣き声に気を取られて視線を下げると、看護士さんが枕元にやってきた。
 
「珠のような女の子ですよ」
 
おとなしい子ねぇ。と、アフガンで包まれた赤子を、私の胸元に寝かせてくれる。
 
荒い息で弾む胸元に、心地よい重み。ほのかな温もりが布地越しに染みこんできて、なぜか胸を締めつける。この温もりが、ついさっきまでこの胎内にあったなんて嘘のようだ。
 
疲れきった腕を叱りつけるようにして、その頬をなでた。
 
ピンク色のおくるみから覗き見ることのできる顔は驚くほど赤く、赤子という言葉の由来を実感する。アルビノという訳ではなさそうだが、頭髪の色が随分と薄い。目はまだ開いてないが、もしかして赤かったりするのだろうか?
 
 
すぐ傍に、立ち尽くすゲンドウさんの姿。陣痛室と分娩室が続き間になっているので、なし崩し的に立ち会わされてしまったのだ。忙しい身だというのに、いったい何時間付き添ってくれていたのだろう。…胸元で握りしめているガーゼは、脂汗を拭ってくれていたらしい。余裕がなくて気付かなかったけれど、…ありがとう。
 
「…お名前、決めてくださいました?」
 
疲れ果てていて、蚊の鳴くような声しか出せない。
 
「ああ、女の子だと判っていたからな」
 
ぐっ、とメガネを押しなおして。
 
「…レイ、と」
 
 
…………
 
 
ここしばらくの間、寝る前の習慣になっているのが、翌日分のコーヒーを準備することだった。
 
ゲンドウさんが買ってくれた水出しコーヒーメーカーは業務用で、その気になれば30人分を抽出できる。1日分とはいえ30杯も飲まないので、水タンクは片肺で使用しているけれど。
 
ドリッパーにガラスフィルターをセットして、今日挽いてきたばかりのコーヒー豆を取り出す。挽きたてのコーヒー豆の香りは格別だから、待ちきれない。
 
封を切って、コーヒーの香りを胸いっぱいに充たす。途端、むせた。
 
焦げくさい匂いに喉の奥を刺激され、流しに駆け寄って胃の内容物をぶちまける。
 

 
己の吐瀉物の匂いに誘われて、吐く物がなくなるまで戻しつづけた。
 
それでもまだ吐き足りないのか、胃が自らを搾り上げる。
 
キリキリとした痛みに、涙がにじんだ。
 

 
 ……
 
水を流して、口をゆすぐ。
 
この感覚は母さんの記憶にあったので、確かめるためにカレンダーを見た。
 
前回、月よりの使者が来たのが1月の中ほど。シンジを産んで以来、28日周期で安定していたこの体にしてみれば、もう3週間も遅れていることになる。
 
仕事などで無理をしている時など、体調の加減か1回くらいはスキップすることもあったから気にしていなかったけれど…、これは…
 
 
 
この胎内に宿った新しい命。
 
この子が綾波でも、生まれ得なかった妹でもないことは百も承知している。
 
でも、いつか産んであげたかったから、バースコントロールなど考えたこともない。
 
とうぜん覚悟していたはずなのに、それでも小さからぬ衝撃があった。
 
 
   ― あらゆる災難の中で、最初で、しかも、もっとも ものすごいもの ―
 
…などと出産を皮肉ったのは稀代の冷笑家だが、果たしてこの言葉は誰を指すのだろう。生まれる者か、産む者か、はたまた産ませる者か?
 
 
****
 
 
もはや意外でもなんでもなかったけれど、ゲンドウさんはこのことを喜んでくれた。
 
愛しい人に自分の子供を産んでもらえる。という経験は私にはないけれど、男にとってはそれこそが最大限の補完なのではないか、と思わせるほどに歓んでくれたのだ。
 
気持ちは解からないでもない。
 
記憶を失い、一度は他人同然となった相手が再び自分を受け入れてくれたのだ。それも決定的な形で。ゲンドウさんの心にも、良い変化が訪れてくれるのではないか、と思う。
 
私の決意が足りていれば、余計な寄り道をせずに済んだであろうことを考えると、罪悪感に心が痛んだが。
 
 
 
出産することに不安がない。と言えば嘘になるだろう。
 
だが、この体は経験者のものだし、その記憶もある。
 
さらには、母さんがシンジを産んだときはラマーズ法だったということが、併せて心を静めてくれた。現在主流になりつつあるソフロロジーは、ラマーズ法に較べてはるかに楽に出産できるらしいからだ。
 
母さんの記憶をさらってみると、ラマーズ法が耐える出産と呼ばれる所以が実感できる。
 
陣痛促進剤を投与されながら、長時間に渡る陣痛を堪えての出産。全力でいきむから体中筋肉痛で疲労困憊。会陰切開の縫い痕が痛くてドーナツ座布団が手放せず。歩くのも困難なのに母子別室で、産んだばかりの吾が子に会うのに必死の思いで新生児室へ歩いていっていたのだ。
 
記憶だけで、その時の痛みや苦しみが再現されたわけでもないのに、なぜか身震いしてしまった。
 
母親教室で知り合った経産婦さんたちの話によると、それでも子供が生まれればそんな苦しみは一瞬で忘れ去ってしまったそうだから、この身の特殊性ゆえのことかもしれないが。
 
 
一方ソフロロジーは、出産中にリラックスできる精神力を養うことで、その苦しみを乗り越えてしまうのだという。
 
ヨガや座禅を取り入れたイメージトレーニングを行ったり、事前に分娩台に乗ってみてリハーサルをしたりする。習うより慣れろ。と云うことなのか。
 
意外なことに、前の世界で精神汚染使徒に掘り起こされた、生まれた時の記憶が役に立った。イメージトレーニングでは、赤ちゃんがどんな状態で生まれてくるかを認識することが重要なのだ。そのことを憶えているなら、これ以上はない。
 
 
良い先生に巡り会えたのも大きいだろう。
 
最初の母親学級で開口一番、「お産が初めてでも、女性なら陣痛の痛みを知っているから大丈夫ですよ」と言ってのけたのだ。
 
「生理痛なんです」
 
生理痛というのは、不要になった子宮内膜をはがそうと子宮が収縮するときの痛みだ。陣痛も同じで、赤ちゃんを出そうと子宮が収縮するときの痛みなのだとか。
 
「妊娠中は生理がありませんから、そのぶんの10ヵ月分の痛みだと思ってください。あら久しぶり、ってなもんですよ」
 
飄げた口調で言い放たれて、参加者一同の雰囲気が和らいだ。
 
どの経験者に訊いても、お産の苦しみを説明できる人はいなかった。言葉では説明できないから、未知への恐怖で実際以上の痛みを感じてしまうのかもしれない。
 
言葉で説明できていないことに変わりはないのに、こうして、知っている感覚で置換されて説明されてしまうと、なんだか、なんでもないことのように思えてくるから不思議だ。
 
 
 
妊娠中に困ったのは、コーヒーが飲めなくなったことと、自分の感情をコントロールできなかったことだろう。
 
シンジの時には、悪阻が酷い代わりに精神状態は悪くなかったようだから、ひとつとして同じ出産はないという産科医の言葉を実感する。
 
自分でも説明できない不公平感に襲われて、何度ゲンドウさんに当り散らしたことか。
 
さんざん当り散らして。では気が晴れたかというと、今度はそのことを自己嫌悪して落ち込むから始末が悪い。それを慰められれば怒りだし、放っとかれれば泣きだしと手に負えなかったことだろう。
 
マタニティブルーを前向きに乗り越えるのもソフロロジーの一環なのだが、なぜかそちらの方では効果がなかったのだ。
 
そのため、7ヶ月間に渡ってゲンドウさんは生傷の絶えない生活を強いられることになった。所長の威厳まで傷つけるわけにはいかなかったので、顔を避けたのが私に残された数少ない理性だったのかもしれない。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:34


…ふぇ。という泣き声で目を覚ます。
 
2ヶ月もやっていると慣れたもので、自分はまぶたを閉じたまま、赤ん坊は寝かしつけたままで授乳できるようになる。
 
こればっかりは母さんの記憶があるからといって、すぐに実践できるものではなかったのだが。
 

 
飲み終わったのか、飲み疲れたのか。乳首を放されたので、ガーゼを取ってレイの口元と自分の乳首を拭った。作業する手の動きを、涅色をしたその瞳で追っていることだろう。
 
一気に起き上がる気力がないので、腕立て伏せの要領でゆっくり起き上がった。軍人であった時代に睡眠不足への耐性をつけたつもりだったが、さすがにこう細切れに起こされると堪える。
 
レイを抱え上げ、肩に頭を置くようにして起こして抱くと、背中をさすってやるまでもなく、けぷっと可愛いげっぷをした。
 
 
レイは、本当におとなしい、しよい子供だった。
 
必要最低限しか泣かないし、むずがらない。ほとんど寝ているのは乳児としては当然だが、起きている時でも抱っこをせがんだりしない。
 
授乳とオムツ換え以外では泣かないその姿を見ていると、任務で仕方なく泣き声を上げているように思えてしょうがないが。
 
 
一方、母さんの記憶によると、シンジは手間のかかる赤ん坊だったようだ。指折り数えてみる気にもならないほどに。
 
孤立無援で難敵にあたっていた母さんの苦労を思うと、しよいレイのありがたみと、母さんへのすまなさが湧きあがってくる。親の苦労は、子供を持つまで解からないものだと実感した。
 
 
レイを寝かしつけ、ブラのカップを直す。ナーシングブラジャーは、着けたままで授乳できるので便利だ。就寝時にまで着けているのは窮屈だけど、母乳が漏れるので仕方ない。
 
授乳期用のパジャマの、胸元の裾を戻して、私ももう一寝入りしよう。
 
3時間もすればまた起こされるだろうけれど。
 
 
世の母親たちは、本当に大変だ…
 
 
****
 
 
【 12/18 今日、おともだちを味見しました。最近、増えているようにお見受けします 】
 
味見。というのは、つまり噛んだということだ。
 
シンジの保育所の連絡帳には、その日にあったことや保育士さんの所見が書かれている。
 
ここ2、3ヶ月でシンジに問題行動が増えているようだ。
 
 
いや、よくよく思い出してみれば、その兆候は妊娠初期には見られていただろう。
 
6歳の幼児とはいえ、男の子の力は侮れないものがある。なにより、力加減を知らず常に全力だ。
 
無意識にお腹を庇う私の態度をどう思っていたか、その時点では慮ってやる余裕がなかった。
 
独りでできるようになっていた着替えを嫌がる。やたらと抱っこをせがむ。おもちゃやお菓子を我慢できない。数の数え方をワザと間違えたりする。
 
感情任せに怒ってはならないと自分に言い聞かせたが、かと云って冷静に叱れるような精神状態ではない。
 
きちんと叱ってやることもできないまま、その夜にゲンドウさんの生傷が増えるのだ。
 
感情がコントロールできないから、些細なシンジの行動が癇に障っていたのだろうと思っていたが、シンジはシンジで不安だったに違いない。
 
そうして、レイが生まれるにいたって、ついに他者への攻撃衝動を抑えきれなくなったのだろう。
 
妊娠中には漠然としていた不安が、生まれてきたことで明確な形を得たのだ。両親を盗られる。自分の居場所を奪われた。脅威が現実のものとなったことで、防衛反応が行動を伴うようになったのだろう。
 
それでも、攻撃の矛先が直にレイに向かないところに、シンジの優しさを見ることができるが。
 
その懊悩を実感としてよく解かってやれないのが、つらい。自分自身を含め、弟妹の居る人生を経験したことがなかった。
 
 
ただ、解決の糸口は判っている。本当に仲の良い兄妹を知っていたから。
 
育児にも慣れ、レイの首も据わった今。ようやく、それが実行できそうだった。
 
 
さてシンジは? と見れば、リビングで画用紙を広げている。
 
ソファに座った私を見上げたシンジの顔が曇った。ベビースリングで胸元に抱かれたレイが目に入ったのだろう。
 
おいで。と手招きして、膝の上に座らせる。
 
「シンジも、6年前はこんなに小さかったのよ」
 
「ぼくも? こんなに?」
 
ええ、と頷いて。
 
「赤ちゃんは、独りではご飯も食べられないし、トイレにもいけないの。
 だから、みんなで面倒を見てあげるのよ」
 
右手で、シンジの頭を撫でる。
 
「シンジが赤ちゃんの時は、面倒を見てあげられるのが、お父さんとお母さんだけだったから、とっても大変だったのよ」
 
「たいへんだった?」
 
そうよぉ。と頬を撫でてやる。記憶しかないけど。
 
「レイも…たいへん?」
 
「と~っても♪」
 
笑顔で答えられては、とても大変そうに見えないだろう。
 
「とっても大変だけど、可愛い赤ちゃんのためだから、つらくはないの」
 

 
「ぼくも…かわいかった?」
 
「今でも可愛いわよ」
 
ぎゅっと抱きしめた体は、まだまだ小さい。
 
「大きくなって、赤ちゃんみたいに面倒を見てあげる必要はなくなったけど、シンジは可愛くて大切な、お母さんとお父さんの子供よ」
 

 
 
肩口で、シンジがすすり上げた。
 

 
「ごめんね、シンジ。お母さん、いいお母さんじゃないから、寂しかったでしょ。悪いお母さんで、ごめんね」
 
泣きながら、頭を擦り付けるようにしてかぶりを振っている。
 

 
弟妹ができることで、親の愛が減ると感じてもらいたくはなかった。
 
子供のおのおのに与える親の愛は、それぞれ別のものだ。子供が増えたから割り当てが減るような、有限のものではない。
 
子供の数だけ増える。親の愛は無限だと、二人目を産むことで教えられた。
 

 
……
 
あったかい。と呟くシンジの体が温かい。
 
人というものは、実際の体温差に関係なく他者の体温を温かく感じるものなのだろう。
 

 
ようやく落ち着いたらしいシンジが、目元を拭ってから見上げてくる。
 
寝不足で目の下には隈が浮いているだろう。きれいなお母さんで居てあげられないのが、つらい。
 

 
「ぼくが…レイのめんどうみるの、てつだったら… たいへんじゃなくなる?」
 
「手伝ってくれるの?」
 
シンジが、ためらいがちに頷いた。
 
「レイちゃん。聞いた?」
 
いや、寝てるけれど。
 
「お兄ちゃんがお世話、手伝ってくれるって」
 
おにいちゃん? とシンジが目を丸くしている。
 
同じ親から生まれた兄妹の間で、ことさら上下関係を作るつもりはない。
 
だが、子供のアイデンティティーを形成する上で、兄とか姉といった立場は重要なファクターとなりうる。トウジや洞木さんを見ていると、特にそう思う。
 
「レイったら、いいなぁ。こんなに優しいお兄ちゃんが居て、羨ましい」
 
子供を褒める時は、わざとらしいくらいで丁度いい。いや、むしろそれぐらいしないと伝わらない。
 
「こんな優しいお兄ちゃん、そうそう居ないわよぅ。こんの幸せ者ぅ」
 
おっと、ミサトさんが入っちゃってるよ。自主規制、自主規制。
 
誤魔化すために、照れまくっているシンジを抱きしめた。
 
「シンジ、ありがとう。お母さん、本当に嬉しい」
 

 
……
 
 
お互いの体温が溶け合いそうなほど抱きしめて、ようやく開放する。
 
「それじゃあ手始めに、レイを抱いてみる?」
 
「だいて…いいの?」
 
ベビースリングを外し、左腕だけでレイを抱きかかえた。
 
「もう首も据わったし、シンジなら大丈夫」
 
右腕でシンジを抱き寄せ、シンジの体の前に左腕ごとレイを廻す。
 
あ、そうそう…とレイの額。眉間の上を指さした。
 
「ここはまだ塞がってないから、触らないこと。お約束できる?」
 
「…ふさがって…ない?」
 
そうよ。とシンジの額を指先でつついてやる。
 
「ここに硬い骨があるの、判る?」
 
自分でも額をつついてみたシンジが、こくんと頷いた。
 
「この硬~い骨が、頭を護ってるの。だけど、赤ちゃんにはまだここに骨ができてない」
 
「…ぴくぴく、してる」
 
指さす先、レイのひよめきを見たシンジが、ぽつりと。
 
「だから触ってはダメなの。お約束できる?」
 
うん!と元気なお返事。
 
乳幼児の泉門は頭蓋に大小6ヶ所もあるけど、この大泉門以外はそれほど気にしなくてもよいだろう。
 
なにより、乳児がか弱い存在だってことをシンジが理解してくれさえすれば、それで充分。
 
 
「それじゃあ、まず、右手でレイの首の下を支えて」
 
普段、大人がやっているのを見ているのだろうか? 危なげない手つきで右手を差し入れている。
 
「その右手の下に左腕を通すの」
 
肘の裏に頭を置き、掌でお尻を支えれば片手で抱けるようになるが、シンジの体格ではさすがに無理だ。
 
「右手を抜いて、お尻を支える」
 
重そうではあるが、なんとか様になっている。
 
「重かったら、右手を足の上に載せちゃいなさい」
 
シンジがそうした途端、レイが目を覚ました。
 

 
その涅色の瞳でじっと、シンジの顔を見つめている。
 
全体的に色素の薄いレイだけど、綾波のようにアルビノというわけではない。ただ、その瞳は深い黒の奥に煌くような赤を隠して、底知れない。
 
見つめられると、引き込まれそうになるのだ。
 
「お名前、呼んであげて」
 
「…レ イ 」
 
 
驚いたことに、きゃっきゃ。と声を上げて笑い出した。生まれてこの方、レイのこんな笑い方は初めてだ。
 
 
「…レイも、お兄ちゃんが好きなのね」
 

 
お返しのように、じっと。シンジがレイを見つめている。
 
「レイは、ぼくがまもる」
 

 
これは、トウジみたいな兄莫迦になりそうだ…
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:35


「遠隔操作の人型ロボット。…ですか?」
 
連日、深夜遅くの帰宅。遅すぎる夕食を摂ったあとで、こうして打ち明け話をされることが多い。
 
できれば、一緒に食べてあげたいと思う。ゲンドウさんはそれほど気にしてないようだが。
 
「ああ、日本重化学工業共同体が主体となって計画が進んでいるそうだ」
 
つまり、ジェットアローンのことか。
 
「一応は使徒対策、ということらしいが」
 
「エヴァがありますのに…」
 
「エヴァがあるからだろう…」
 
空いたご飯茶碗に、番茶を注ぐ。
 
「エヴァ関連の利権にあぶれた企業。リベートを欲しがる政治屋。税金を使い切りたがる官僚。理屈倒れの科学者。腕を持ち腐らせていた技術者。兵器としてのエヴァに危惧を覚えた軍人
 様々な思惑が絡み合って、このくだらん玩具の計画が陽の目を見たのだ」
 
「…なんとか、潰せませんか?」
 
食器を片付けていた手を止めて、ゲンドウさんの目を覗き込む。
 
かつて、ジェットアローンを買い取ったのは、完成していたそれを無駄にしたくなかったからだ。
 
作業機械としてはそこそこ使えるが、費用対効果は悪いし、放射線被害や炉心融解の危険性に見合うはずもない。造らずに済めばそれにこしたことはなかった。 
 
「一研究所の権限では、難しいな」
 
きっちり残されていたミニトマトを頬張る。ちょっと酸っぱい。
 

 
「エヴァのスペックを漏洩してはどうでしょう?」
 
「要求仕様を見たが、比べ物にもならん。…荒唐無稽すぎて、捏造だととられるだけだ」
 
何も手を止める必要はないと思い至り、食器を片付けながら、考える。
 
「やらせておけばいい。どうせ使い物にはならん」
 
「そのために無駄になるモノが、多すぎます」
 
軽く睨みつけてやった。
 
JAには確か、下手な国なら数年分の国家予算に匹敵するほどの資金が投入されたはずだ。それだけあれば、どれだけの子供が飢えずに済むか。JAの開発中止がそのまま人道支援に繋がるわけはないだろうが、無駄遣いするよりはいい。
 
ふむ。とゲンドウさんがいつものポーズ。心を閉ざしたわけではなくて、考え事をしだしたのが、瞳の動きで判る。
 
本気で対策を検討してくれているのだろう。その間に食器を下げ、布巾を持ってきてテーブルを拭く。
 
 
「…初号機の、デモンストレーションを行う」
 
なるほど。実物を見せれば諦めるかもしれない。しかし…、
 
「ゼーレが許しますか?」
 
「この件は、そもそもゼーレ内部の不協和音によって招来された疑いがある。
 派閥争いの余波、エヴァの抑止、ゲヒルンへの牽制、技術力の偏りへの懸念、資金源の争奪。そういったものが折り重なった結果。と言ったところか。
 その出鼻を挫く。となれば、老人どもはそれを好きなように利用するだろう。それぞれの思惑でな。
 表向きは国連への中間報告・成果発表とすれば、エヴァ関連の予算獲得にも使える。問題ない」
 
言い切ったゲンドウさんが何を思いついたのか、にやり。と嗤う。
 
「内容の検討と、エヴァの準備は君の仕事だ。やって貰うぞ」
 
嘆息
 
「当然ですね」
 
根回しや開催までの手続き、運営の統括はやってくれるつもりなのだろう。その間、所内でも会う機会が増える。それが嬉しいのかますます、にやりと。
 
「そっちは承りましたけれど、子供の前でその笑い方するの、止めてくださいね。嫌われますよ」
 
途端にゲンドウさんがひきつった。
 
 
****
 
  - AD2008 -
 
****
 
 
勝手知ったる構内を、突っ切る。
 
近所の主婦が近道のために横切るような開放的なキャンパスだが、さすがに赤子連れは珍しいらしい。ちょっと注目を集めてしまったようだ。
 
心当たりがあったから、目当ての人物を見つけるのに苦労はなかった。
 
「赤木リツコさんですね」
 
染められた金髪を揺らして、リツコさんが振り向く。
 
「…はい。そうですけど」
 
「ゲヒルン人工進化研究所の碇ユイと申します。はじめまして」
 
 
****
 
 
「…E計画部門責任者…でいらっしゃる?」
 
渡した名刺を読み上げて、リツコさんが確かめるように。
 
隣りに座ったミサトさんが覗き込んでくるのを、押し戻しながら。
 
ええ。と頷いたところで、ウェイターがオーダーを取りに来た。この食堂は職員向けで、食券制ではないしホール係も居る。
 
それぞれ、コーヒーを注文した。
 
「ゲヒルンへの入所なら、お断りしたはずですが」
 
慌てて第二東京大学まで来た理由。それは、本年度の入所内定者のリストに、リツコさんの名がなかったからだ。
 
「そこをまげていただきたくて、参ったんです」
 
リツコさんがゲヒルンに入所しない。なんて事態は想定してなかったから、人事部による通り一辺倒のスカウトに任せっきりにしていた。
 
医学部の一学生に過ぎないからか、赤木ナオコの名前が良くない方向に輝いたのか、人事部はリツコさんを重要視しなかったらしい。入所を断られた旨の報告すらなかったのだ。
 
再対応を依頼すれば大事になる可能性があったし、リツコさんにこだわる理由を説明できるわけもない。
 
だからこうして、自ら出向くことにした。
 
「たかが学生をスカウトに来たかと思えば、今度は責任者直々にですか」
 
「それだけ、あなたに期待しているんですよ」
 
「信じられません。ゲヒルンの研究職に採用されるには、博士の学位取得が必須のはずです」
 
徐々に険のこもりだした口調に反応してか、ベビースリングで抱いていたレイが目を覚ます。それに気付いたらしいミサトさんが、なんだか嬉しそう。
 
「例外があるんですよ。プロジェクトマネージャーが推薦すれば、特例として…」
「ゲヒルンには入ります!でもそれは、大学院を修了して採用基準を満たしてからです!」
 
とうとう声を荒げたリツコさんに驚いたわけでもあるまいに、ふぇ。とレイが泣いた。
 
いや、むしろ驚いたのは私のほうだ。ミルクとオムツ以外でレイが泣いたのは、生まれてこのかた、初めてだろう。
 
よしよしとあやすと、嘘のようにぴたりと泣き止んだ。
 

 
「…配慮が足りませんでした。申し訳ありません」
 
らしくないわよぉ。などと空気を読まずに肘鉄を食らわすミサトさんを無視して、リツコさんの視線はレイに向けられている。
 
「こちらこそ、子連れで来たりして、真剣味が足りませんよね」
 
「いえ、」
 
…。なにやら呟いた言葉は口中に消えて聞き取れなかったが、その瞳に非難の色は見えない。
 
それにしても、リツコさんは何故こうまで入所を拒むのだろう。採用基準に拘っていたようだが、プライドだろうか?
 

 
いやいや、待て待て。
 
人の気持ちや考えを、自分勝手に推測してしまうのは私の悪い癖だ。
 
相手との間に一線を画して距離をおくならまだしも、そうでないならすべきでない。
 
 
コーヒーを運んできたウェイターが下がるのを待って、切り出す。
 
「なぜ入所を拒まれるのか、理由をお訊きしても?」
 
カップを持ち上げていたリツコさんは一旦手を止めて迷ったあと、一口だけすすった。
 
「…親の七光りは不本意です」
 
なるほど。入所資格を充たしてないのに招かれたことを、ナオコさんの計らいだと考えたのか。
 
母親と自分を比較しつづけていたリツコさんにとって、ナオコさんの手助けで特別扱いされるのは我慢がならないだろう。
 
がちっ。と鳴ったカップはソーサーに噛み付いたかのようで、リツコさんの心の裡が見えるようだ。
 
興味深げにリツコさんを眺めていたミサトさんが、思い出したようにコーヒーをすする。
 
 
誤解に過ぎないのだから、対処は簡単だ。
 
「リツコさんを推薦したのは、わたくしですよ」
 
えっ? と向けられた視線を受け止めて、微笑む。
 
「人造人間エヴァンゲリオン。ゲヒルンは、サードインパクトを防ぐための汎用人型決戦兵器を開発中です」
 
ご存知でした? との問いかけに、いいえ。と2人とも。だけど、リツコさんの視線がそれたのを確かに見た。…ナオコさんが話すとは、思えないのだけれど。
 
粉ミルクや紙オムツを掻き分けて、デイパックの中から綴じたレポート紙の束を取り出す。
 
表紙に銘打たれた【 A10神経の励起にみる他者との交感の定量化 】とのタイトル。記された名は、もちろん赤木リツコ。
 
「拝読させていただきました。素晴らしい論文ですね」
 
いえ。とリツコさんが謙遜。
 
「ドイツで開発中の先行量産型は、脳波操縦による制御法がまだ確立していません」
 
ナオコさんとの共同研究の結果、弐号機自身による肉体の制御は目処がついた。
 
だが、それをパイロットの意志の下に行わせるには、まだまだ同調誤差が大きすぎるのだ。
 
 
レポート紙の束を、これ見よがしにリツコさんの方に差し出す。
 
「あなたの仮説を、エヴァという人造人間で臨床実験してみたくはありませんか?」
 
スカートを絞るような力強さで、リツコさんが両手を握り締めた。
 
科学者に対しては、最高の殺し文句だと思うけれど。
 

 
「…時間を、下さいますか?」
 
「構いません。じっくり考えてください」
 
それにしても、こんな苦労をすることになろうとは。
 
碇ユイとして生き、ゲンドウさんを味方に引き入れたことで生じた反作用が、いたるところから跳ね返ってきているような、…そんな感じがする。
 
それが、覚悟の足らなかった私への罰だというのなら、甘んじて受けるしかないが。
 
 

 
あのぅ…。とミサトさんが小さく挙手。
 
「ちょっち、質問いいですか?」
 
えぇと、葛城さんだったかしら。と、ちょっとわざとらしかっただろうか。
 
小首をかしげたのを了承の合図と受け取ってか、ミサトさんが身を乗り出してきた。
 
「サードインパクトを防ぐというのは…、セカンドインパクトを起こしたモノと戦う…というコトでしょうか?」
 

 
少し、悩む。だが、この人なら情報の有無や過多など乗り越えて辿り着くことだろう。
 
周囲に人影がないことを、これ見よがしに確認してみせて、頷く。
 
「それは、アタシでも使えるモノでしょうか?」
 
一応は察したらしいミサトさんが、小声で。
 
「起動確率は0.000000001%、オーナインシステムと呼ばれています。おそらく…」
「可能性はあるんですよねっ!」
 
首を振って見せたのに、ミサトさんは諦めきれないようだ。気持ちは解かるが。
 
「可能性があるなら…アタシ…」
 
こうなると、適格性検査ぐらい受けさせないと納得してくれないかもしれない。と考えて、自らが葛城ミサトであった時代に思い当たる。
 
もしかして、こうして諦めさせるために形ばかりの検査を受けさせて、実際の適合性など調べもしなかったのではないだろうか? 当時のリツコさんは。
 
 
そうして考えた先で、恐ろしい推測に行き当たって、…身震いする。
 
 
それを勘違いしたらしく、困ってらっしゃるじゃない。とリツコさんがミサトさんに肘鉄を食らわした。
 
ゴメン、余裕ないのねアタシ。と謝るミサトさんに、私に謝っても仕方ないでしょ。とリツコさん。
 
こちらに頭を下げようとしたミサトさんを身振りで押し止めて、伝票を手に立ち上がる。
 
私は、よほど酷い顔をしているらしい。見上げるリツコさんが随分と心配げだ。
 
「それでは、よい返事をお待ちしてますね」
 
むりやり笑顔を作って、その場を辞した。
 
 
 
 
もし、適格性検査が形だけのものであった場合。私は、あの世界で母さんの魂を見殺しにしてしまったことになるのではないだろうか?
 
 
すぐ近くのお手洗いに駆け込んで、水道の蛇口をひねった。
 
水の冷たさを手に受けて、なんとか最後の一線を守りきる。こんなところで泣き叫ぶわけにはいかない。
 
 
…あゔ。とレイが声を上げた。
 
普通この時期の乳幼児はのべつ幕なしに喃語を発してるものだが、レイには当て嵌まらない。サイレントベビーではないかと疑うほど静かなのだ。
 
だけど、だからこそ…レイが口を開いた時は、…
 
 
「心配…してくれるの?」
 
大丈夫よ。と見上げた鏡の中に、自分が殺したかもしれない人の、顔があった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:35


手に持たせた木製のおもちゃを、渋々といった態でレイが口にくわえた。
 
おしゃぶりを嫌がったレイのことだから歯固めも拒むかと思ったが、さすがに歯茎のむず痒さに負けたらしい。はくはくと噛みしめている。
 
そろそろ、乳歯が生え始める頃合なのだ。
 
木目を縞模様に見立てた木のお魚さんを伝って、よだれが垂れた。スタイの類いをほとんど必要としなかったレイには珍しい。ガーゼで拭いてやったら、なにやら眉根が寄る。
 
美人が台無しよ。と眉間を揉んでやると、さらに皺が寄るから始末に負えない。
 
… … ……
 
募らせた諸々の不満を、木のお魚さんにぶつけることにしたのだろう。はくはくとかじりたおすレイが、なんだか可愛らしかった。
 
 
****
 
 
初号機のデモンストレーションは、メインシャフトの遮蔽工事が終わったあと、本部棟外郭のこけら落としと同時に行うことになった。
 
あと2週間もない今、E計画部門は灰神楽の立つような慌しさだ。
 
余計なことを考えなくて済むその忙しさが、今は嬉しい。
 
 
歩きながら初号機の簡易儀装の担当者と打合せを行い、私の執務室の前で別れる。
 
視認性の関係で、初号機は黄色く塗られる予定だ。当然、肩のウェポンラックもないから、改装前の零号機を彷彿とさせる姿になるだろう。
 
書類をめくりながら、ドアを開いた時だった。
 
「碇ユイ博士」
 
呼びかけに振り向くと、染められた金髪が目に入る。目もとの泣きボクロ。リツコさんだ。
 
「今日からE計画勤務になりました。赤木リツコです」
 
きっちりと腰を折ってお辞儀しているのが、実にリツコさんらしい。
 
「お待ちしておりました。立ち話もなんですから、中へどうぞ」
 
「失礼します」
 
 
 
机に書類を置いて、リツコさんに椅子を勧める。応接セットなどないから、打合せ用に持ち込んでいるパイプ椅子だけれど。
 
執務机脇のベビーベッドを覗き込むと、見計らったようにレイがまぶたを開いた。
 
珍しく手を伸ばしてきたので、よいしょっ。と抱きかかえてやる。
 
「お子さん連れで、ご出勤されているのですか」
 
「ええ。この時期は、少しでも母親の傍に居るのが良いですから」
 
 
個室だし、レイはおとなしいし、迷惑にはならないだろうと踏んでベビーベッドを持ち込んだ。
 
予想外だったのは、レイが女性職員のアイドルになってしまったことだった。
 
愛想はないが人見知りもしないレイは、来るものは拒まず去るものは追わずで誰でも抱っこできる。口コミであっという間に噂が広がって、お昼休みや休憩時間などに女性職員が来室するようになったのだ。
 
特に、子育てが一段落した年頃の奥様方に人気が高い。訊いてみると、この時期の子育てが一番大変だったけれど、もっとも充実していたと口を揃えて言う。他者から全てを託され、全身で求められるのはこの時をおいて他にはないのだとか。
 
自分独りで大きくなったような顔して、文句ばっかり言うんだから。と目を三角にしていた年配の女性職員が、レイを抱いてるうちに聖母のような微笑みを浮かべるのだから、その言葉は事実なのだろう。
 
 
母子は、それだけで完結した最小単位の人間関係のひとつだった。
 
案外、ゼーレのメンバーに数人でも本気で子育てをしたことのある者が居れば、人類補完計画など採択されなかったのかもしれない。
 
 
 
「リツコさんも、抱いてみますか?」
 
「私ですか!? 私…子供なんて、」
 
途惑うリツコさんに問答無用でレイを押しつけておいて、コーヒーを淹れに冷蔵庫へ向かう。
 
「あの…赤木リツコです。その…」
 
よほど泡を食ったらしい。乳児相手に自己紹介ってのは、リツコさんらしいのかもしれないけれど。
 
「レイ。です」
 
「よろしく。レイ…ちゃん」
 
…あゔ。と上がったレイの声は、きっと返事のつもりなのだろう。
 
グラスにコーヒーを注ぎ、ボトルを冷蔵庫にしまう。
 
 
予想外と云えばもうひとつ。所内の女性職員の出生率が上昇しそうなのだ。
 
この執務室へレイを抱っこしに来る女性職員のうち何人かが、2人目、3人目の出産を決めたという。中には、かなりの高齢出産に踏み切ることにされた方も居る。
 
その際、産休を最小限にして、私と同様に子連れで出勤したいとの相談が数件、上層部に寄せられたのだ。
 
執務室を与えられている者には無条件で許可。その他の者は上長と執行部の判断ということになるだろう。これは案外大きな問題になるかもしれないよ? とは冬月副司令の弁だけど、ただ頭を下げることしか出来なかった。
 
場合によっては、保育所から人員を廻してもらって所内に出張所でも作るべきかもしれない。
 
 
 
執務机にグラスを置いてから見やると、ちょっと慣れてきたのだろう、リツコさんが危なげない様子でレイを抱えていた。
 
向けられた視線が、とてもやさしい。
 
レイも、お返しのようにその涅色の瞳でじっと、リツコさんの顔を見つめている。
 
なんだか嬉しくて眺めていたら、気付いたリツコさんがなにやら顔を真っ赤に。赤ん坊を抱いて微笑む自分というのは、リツコさんの本人像には無かった姿だっただろう。
 
そういう未来もありうると、考えてくれれば良いのだけれど。
 
 
さあて。と手を伸ばす。
 
「お仕事の話しをしますから、おとなしくしててね」
 
レイを受け取って、ベビーベッドに帰す。
 
…ゔむ゙ぅ。と若干不機嫌げな声は、きっと抗議のつもりなのだろう。自分がおとなしくなかったことがあるか、との。
 
 
 
いただきます。とアイスコーヒーを口にしたリツコさんが、意外そうな顔をする。
 
ウォータードリップだとの説明に、納得顔。コーヒーの味にはうるさいからなぁ、リツコさん。
 
「大学院に進まれるおつもりだったのに。強引にお誘いして、ご迷惑だったでしょう」
 
「いえ、通信制もありますし、…自分の論文そのままの環境で実験できるなんて研究者冥利に尽きますから」
 
あの殺し文句、即死寸前でした。とリツコさんがはにかんで。
 
…こういう笑い方もできる人なんだ。
 
人というのは、いくら付き合っても理解しきれるものではないのだろう。だからこそ面白いのだという加持さんの言葉を、心の底から実感する。
 
「学位を取った後に入所したからといって、母と較べられることに変わりはないのですから、浅墓でした」
 
その笑顔に翳りはない。本当に吹っ切れているように見えた。
 
つまらぬゼーレの牽制で要らぬ手間を強いられたが、それでリツコさんの鬱屈の種がひとつ減ったと思えば易いものだったか。
 
「リツコさんには、2週間のオリエンテーションの後、ドイツでの弐号機の開発に加わってもらうことになりますけど」
 
「はい。伺っています」
 
ここに来てドイツに人員を派遣することになったのは、初号機のデモンストレーションと無縁ではない。儀装はまだとはいえ機能的にはほとんど完成といっていい初号機に対して、弐号機はまだろくに動かないのだ。
 
おそらく弐号機の開発は、今までの世界と較べてかなり遅れているだろう。零号機はなく、初号機も参考にならないのでは、仕方がないのだが。
 
ドイツが本心から要請してきたとは思えないから、ゼーレの肝煎りではないかと思う。
 
 
「ドイツは、日本への対抗意識が強いから苦労すると思いますが…」
 
「その代わり、赤木ナオコの娘と色メガネで見られることもないでしょうから」
 
そのことへの不安はなさそうだ。
 
実に涼しげな表情で、アイスコーヒーをすすっている。
 
本当に、そういう面ではタフな人だなぁ。と改めてリツコさんを見直した。こっちが心配するようなことは、自分でも想定済みなのだろう。
 
ならば、あとはリツコさんの手腕に任せるだけだ。
 
メモリデバイスを取り出して、差し出す。
 
「これは…?」
 
「E計画の全てが収められています」
 
さすがのリツコさんでも、これには驚いたらしい。受け取った指先が、一瞬こわばった。
 
いくら特別枠で招かれたといっても、入所したての新人である。機密も機密、あらゆる組織が喉から手が出るほど欲しがっている情報を、ぽんと手渡されるとは思っても見なかっただろう。
 
リツコさんの実力と活躍を知っている者にとってみれば、当たり前すぎる処遇だが。
 
「あなたには、人工進化研究所の看板を背負ってドイツに行ってもらわねばなりません」
 
あっ、ついゲンドウさんのポーズ、真似しちゃった。
 
「そこでE計画について知らないことがあれば、軽んじられて、ひいては計画の遅延を招きます。それは人類の破滅をも意味しますから」
 
ごくり。と固唾を呑むリツコさん。というのは初めて見ただろう。
 
「オリエンテーションの方も、通り一辺倒な入所案内ではなくて、私と各担当者でみっちりレクチャーをします」
 

 
まるで爆発物でも扱うかのようにメモリデバイスを置いたリツコさんが、面を上げた。
 
「…あの、そこまで私に期待なされる。…その理由はなんなのでしょう?」
 
そうか。私には自明のことだが、リツコさんにとっては自分の実力すら未知数なのだ。疑念も尤もだった。
 
「人を見る目には自信があるのですけど、それでは…?」
 
かぶりを振られる。当然か。
 

 
全てを見透かしてる。と言わんばかりの力を篭めて、リツコさんを見詰めた。
 
「…あの論文がエヴァに応用できることが、ただの偶然だとは私は思っていません」
 
リツコさんは、目を逸らさなかった。だが、逸らすまいとする意志が見える。
 
「ナオコさんが漏らすとも思えませんし、漏らした処で、あなたが素直にそれを受け入れるようには見受けられませんでした…」
 

 
問い質すように、間。リツコさんは応えないが。
 
「…とすると、あなたが独力で手に入れたと考えざるを得ません」
 
ゲヒルンなどとは比べ物にならないセキュリティを誇っていたネルフの機密を、一中学生に過ぎないケンスケが手に入れることができていた。ケンスケの父親のセキュリティ意識が、いかに低かったにしてもだ。
 
今、似たような立ち位置にあるリツコさんに、それができないはずがない。
 
「それらはつまり、あなたにそれだけの能力と野心があることの証拠でしょう」
 
違いますか? との問いに、観念したかのようにかぶりを振る。
 
「あなたの予想以上に早く、その論文が私の目にとまったということです」
 
そこに関しては自分の方からも手を回した。などと言う必要はない。
 
「私がどれだけあなたに期待しているか、お判りいただけました?」
 
肩をすくめて見せたリツコさんが、参りました。と言わんばかりに頷いた。
 
親友として過ごした10年は伊達ではない。その手練手管は知り尽くしているのだ。
 
「それでは、よろしくお願いしますね」
 
差し出した右手を、ちょっと複雑そうな表情で握り返された。
 
 
****
 
 
自分には、桜の季節という実感がない。
 
それでも、受け継いだ記憶の数々から、舞い散る花びらを連想してしまう。
 
それが入学式というものだった。
 
 
ちらちらと、落ち着きなく振り返る様子に苦笑いで返す。いや、シンジだけでなく、ほとんどの新一年生がそうなのだが。
 
特別な行事のときにしか使わないというブレザーを私服の上に着て、子供たちに緊張感はない。
 
セカンドインパクトの混乱期、各地の小学校では制服が復活していたようだ。着せる服にも困るような時代には、お仕着せが効率的だっただろう。
 
だが、さすがに復興してきたのか、それともここが第3新東京市だからか、ここ第壱小学校では制服は採用されてない。
 
並んだ上級生の中にはブレザーすら着ていない子供もいて、じつに奔放な感じがする。
 
それが良いことなのか悪いことなのか、ちょっと判断がつかないけれど。
 

 
校長やら来賓やらの長話はここでも定番らしく、大人たちでさえ退屈する。子供たちに耐えろ、というのは難しそうだ。
 
それでも懸命に我慢している姿を見ていると、名状し難い温もりが胸を充たす。
 
母さんも、あの晴れ姿を見たかったのではないだろうか。と思うと、目頭が熱くなった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:35


お湯につけたレイの身体を、やさしくガーゼで拭う。
 
もちろん、例の【身体洗いの唄】を口ずさむのは忘れずに。ランドリースペースで待ち構えているシンジが、たどたどしく唱和するのが可愛いらしい。
 
ベビーバスに張ったお湯を色付けるのは、沐浴剤代わりの煎茶の出涸らしだった。お手軽で、適度な殺菌力があって、お肌に優しいのだ。
 
レイの涅色の瞳は、私の口元を見詰めているのだろう。なんだか、随分と真剣そうだった。
 

 
「はい。よろしくね、シンジ」
 
「うん」
 
タオルを広げて待っていたシンジに、レイを手渡す。そのまま身体を拭いてやりながらタオルで捲いた。
 
レイを抱えたシンジが、危なげなくランドリースペースを後にする。抱きかたも堂に入ったものだ。
 

 
お湯を捨てたベビーバスを、重曹で磨く。
 
こうしてゆっくりと後始末を行えるのも、シンジのおかげだ。
 
 
乳児は肌が弱いので、衣服との摩擦ですら肌荒れの原因になりうる。だから、湯浴み後のオイルマッサージは大切だった。それも、湯冷めしないよう手早く行わなければならない。
 
その都度ドタバタしていた私のせわしなさを見かねてか、シンジが手伝うと言い出したのだ。
 
と云うわけで、1週間ほど前からレイのオイルマッサージを担当して貰っている。
 
兄莫迦の限りを尽くすシンジに、湯浴み担当ごと取って代わられるのも、時間の問題かもしれないけれど。
 
 
****
 
 
エントリープラグとは名ばかりの単なる筒の中で、充たされたLCLに浮かぶ。
 
直接制御とはすなわちエヴァと一心同体になる操作方法だから、インダクションレバーもスクリーンも必要ない。
 
だからこそ、この短期間でデモンストレーションの準備が整ったのだ。
 
 
リフトに持ち上げられる上昇感は、初号機が感じている風の肌触りも込みで。
 
若干離れた場所に設えられた観覧席で湧いたどよめきを、その聴覚が捕えた。混ざり合ったうねりとして捉えず、個々の音声を個別に認識するものだから、かしましいことこの上ない。
 
人間よりはるかに高性能で鋭敏な感覚器官から送り込まれる情報は洪水のようで、毎回のごとく酔う。
 
使いこなせれば、集音器代わりに使えて便利かもしれないけれど。
 
 
さて、まずは運動性能の披露だ。
 
英国紳士のような気取った会釈をして見せて、軽く走り出した。
 
 
****
 
 
ジオフロントにはまだアンビリカルケーブルが敷設されてないし、内部電源の容量も少ない。ゲインモードもまだ試験搭載に過ぎないので、午前の部のデモンストレーションは僅かに1分間だ。
 
さらには機体の排熱機構もテスト段階なので、熱を持った初号機を冷ましてやる必要がある。いったんケィジに下がって、その間に私も休憩しよう。
 
 
ある意味、精神汚染されきってしまったと云っても過言ではない直接制御は、それ以上の精神汚染の心配やハーモニクスなどの諸問題とは無縁だった。
 
その代わり、身体感覚の違う肉体を直に操ることは実に神経を使う。
 
例えばその質量。エヴァは人間の20倍以上の身長だから、その質量は単純計算で8000倍にもおよぶ。一方、筋力の指標となる筋肉の断面積は400倍でしかない。
 
その体格に見合う以上の筋力があるから重いと感じるわけではないが、かかる慣性が桁違いなので筋肉の使い方が人間とは異なるのだ。
 
案外、参号機や量産機が前傾姿勢なのは、そういったことと無縁ではないかもしれない。…そちらの方が効率的だったとしても、真似したいとは思わないけれど。
 
 
  
…ぷかぷかとLCLに浮いたまま、待った。
 
実験段階だから、エントリープラグは固定されている。自動的にプラグごと搬出など、望むべくもない。
 
LCLの圧力が減ったので、ゆっくりと振り仰いだ。仄暗いプラグの中、見上げる先に二十六夜月のような外光。
 
重い水密ハッチが開かれる瞬間の、この光景は嫌いではない。
 
バイタルモニターに取り付けられたコード類に引きずられ、水面へと顔を出す。待ち構えていたスタッフたちが、上半身が出るまで引っ張ってくれる。
 
手際よくうつ伏せにされたところで、キャットウォークの床面に肺の中のLCLをぶちまけた。一緒になってぽとんと落ちたのは、外れたマウスピースだ。
 
それが終わるのを見計らって、スタッフたちが体を引きずり出してくれる。初号機を動かしたあと、しばらくは自分の体をうまく扱えなかった。電力を消費して動けなくなった初号機の感覚を、肉体が麻痺として受け止めているのだろう。
 
 
「お疲れ様でした」
 
床にへたり込んでいたら、なにやら羽織らせてくれた気配。声からするとリツコさんだが、顔を上げるのも、返事をするのも、今は難しい。
 
「肩をお貸ししましょうか?」
 
視界の端に、跪いたらしいリツコさんの膝。
 
初号機を直接制御下に置くようなプロセスを経て、ようやく自分の体の感覚がよみがえる。慣れてきて、これでも随分早くなったのだ。
 
もう大丈夫です。と言った、自分の声がかすれた。
 
 
キャットウォークは、初号機の延髄に接するように張り出している。8畳間ほどのスペースに長椅子を持ち込んだのは、接触実験の直後だったか。
 
引き摺るように身体を運んで、だらしなく長椅子に寝そべる。体は動かせるようになったが、疲れきっていることに変わりはない。
 
「本当に大変なんですね」
 
「…制御方法の確立していない弐号機も、似たような状況にあると思われます。
  小指一本動かすのにも、全身全霊を篭めてると報告がありましたから」
 
ささやくような声に、リツコさんが耳を寄せてきた。
 
「それを何とかするのが、私の仕事ですね」
 
「…期待しています」
 
LCLが冷えて、肌寒い。初号機を冷却する必要があって、ケィジそのものも冷房が効いているのだ。
 
更衣室に戻らなくては。と思いつつ、全身を襲う倦怠感に負けて、まぶたを閉じる。
 
ちょっと失礼します。との言葉は、ちゃんとリツコさんに届いただろうか。
 
 
****
 
 
目を覚ますと、周囲が随分と暖かい。
 
体を起こしたら、大判のタオルがはらりと落ちた。リツコさんが掛けてくれたらしい。
 
気配を感じたのだろう。初号機を見上げていたリツコさんがこちらを向いた。
 
「…先ほどから、周囲の気温が上昇したのですけれど?」
 
「ええ、初号機がじゃれ付いてるんです」
 
「初号機が、ですか?」
 
はい。と頷く。
 
 
非常に未熟ながら自我を持った初号機は、その肉体を動かすことを好む。赤子が、己の体を動かすことそのものを娯楽とするように。
 
だが、弐号機と違ってOSとして意識の統合を図っていない初号機は、己の意志では満足に体を動かせない。私が乗り込んで操ることで初めて、その能力を発揮できるのだ。
 
1分間も運動した後だというのに、私がその傍らを離れないものだから、また乗ってもらえるかもしれないと期待しているのだろう。散歩の時間を待ちわびる仔犬のように。
 
「ATフィールドを伸ばして、早く乗って欲しいと催促してるのでしょう」
 
では、この温もりは。とリツコさんが初号機を見上げた。
 
「ATフィールドの、いえ、初号機の心のぬくもりです」
 
資料にあるから、初号機に自我があることは知っていようが。
 

 
「…猫を。お飼いになったこと、おありですか?」
 
初号機を見上げたままの、リツコさんの目元が優しい。
 
「いいえ」
 
「祖母のところに預けてきたのですけど、うちの仔。自分の持ち物にマーキングするんです。こう、頭を擦り付けて…」
 
右手の握りこぶしを、左の掌にこすりつけて。その所作を見守る視線は、己が手を通して何を見ているのだろう。
 
「タンスや柱とかにする時と違って、好きな人にする時だけ喉を鳴らすんです。ごろごろと、」
 
一歩。踏み出したリツコさんが、初号機の首元に触れた。
 
「…その時感じていたような気持ちに、なりました」
 
 
****
 
 
できれば、この場でATフィールドを公開したかった。
 
使徒に対抗できるのはエヴァだけだと証明するのに、これ以上の存在はないのだから。
 
だが、使徒と同じ能力を持つことが知られれば、その出所を探られることになるだろう。それでエヴァが使徒のコピーだと露見すれば、全てはゲヒルンの自作自演と見做される恐れがあった。
 
今の段階で、それは拙い。
 
権限もあり非公開組織であるネルフならば、やりようもあるのだろうけど。
 
 
それに、ATフィールドではデモンストレーションにならない可能性もある。
 
現にJAの披露会のとき、責任者はATフィールドを問題視していなかった。それを、無知ゆえの暴言と切り捨てるのは容易い。荒唐無稽すぎて過小評価しているのでは? と当時は思ったが、JAの影にゼーレの思惑がちらつく以上、楽観視は危険だ。
 
それに、あの責任者は、時間の問題だとも言っていた。どうするつもりかは想像もつかないが、あの無謀な設計も、ATフィールドの搭載を前提としているならありうる選択だろう。
 
 
もっとも、初号機の完成度や技術力の格差だけでJAを開発中止にできるとは思っていない。このデモンストレーションの真意は、ゼーレ内部の互いに対する牽制を激化させることにある。
 
だから、このデモンストレーションの主役は、観覧席でそれとなく立ち回るゲンドウさんと冬月副司令だった。
 
 
 
午後の部のデモンストレーションでは、まずエヴァの作業能力をお披露目する。派手に動き回ることはないから、ケィジからケーブルを延ばして対応することにした。
 
手にしたH鋼は、長さ12メートルの鉄の柱だ。断面がHの字型をした鋼材は重量にして2トンを超えるが、初号機にとっては重いものではない。
 
それを、あらかじめ掘ってあった穴に差し込んで、立てる。
 
5メートルほど離れた場所にも、もう一本。
 
続いて手にしたのは、5メートル×2メートルの鉄板だ。プラスティックでコーティングしてあるが、厚さは5センチほど。
 
横向きに立てたそれを、2本の柱の間に差し入れていく。H字型の、溝を利用して。
 
あと3枚。同じようにして積み重ねた。
 
まるで乗馬競技用の障害物だな。と冬月副司令が評していたか。
 
 
作業を終え、観覧席に向かって一礼する。
 
さて、これからが本番。
 
 
履帯をきしらせて会場に現れたのは、国連軍の74式戦車だ。3輌が横一列になって進んでくる。
 
若干距離をおいて、停車した。
 
向かって右端の車輌の、砲塔から姿を見せているのは部隊長さんだろうか? 会場に向けて敬礼している。
 
続けてこちらにも敬礼してきたので、初号機で敬礼を返した。
 
しゃがみこみ、左の手のひら全体を使って、後ろから鉄板をささえる。
 
準備OK。と手を振った途端に、74式の105mm砲が火を噴く。
 
殺到した徹甲弾が、鉄板の表面ではじけた。 …様に見えただろう。実際にはじいたのはATフィールドだ。
 
 
エヴァに採用が予定されている特殊装甲素材の試作品だと、観客には説明されている。
 
もちろん本当は、プラスチックでコーティングしただけの単なる鉄板だ。
 
ATフィールドを披露できない代わりの苦肉の策が、このインチキ芝居だった。これを真に受けてエヴァに対抗しようとすれば、装甲の厚さがとんでもないことになるだろう。
 
 
砲撃が終わったのを見て取って、柱の間から鉄板を抜き取る。
 
もっとも着弾が集中した、上から2枚目の鉄板を持って、観覧席に向かった。
 
傷ひとつない表面を、観客に見せつける。機密だと嘯いて、手の届かない距離から。
 
 
驚嘆の表情で見上げる観客の中に、JAの完成披露会で見た顔があった。
 
 
****
 
 
抱き渡されたレイの手足が暖かい。
 
どうやら、おねむの時間のようだ。このまましばらく抱いて寝かしつけ、それからベビーベッドに運ぶとしよう。
 
 
オリエンテーションの間、リツコさんには我が家に逗留してもらっていた。
 
初号機のデモンストレーションを控えていたので、所内でそれだけにかかりきりになっている暇がなかったのだ。
 
少しでもレクチャーを進めておきたい。そのための処置だった…のだが。
 
「リツコおねぇちゃん。あしたからドイツにいってしまうの?」
 
「ええ、そうよ」
 
「ええ~!おねがい、リツコおねぇちゃん。ずっとここにいて~」
 
シンジが、すっかりリツコさんに懐いてしまったのだ。
 
まあ、リツコさんが実は面倒見のいい性格であることは知っていたから、子供に好かれるだろうことは予想の範疇だったけれど。
 
頭の中にMAGIを飼っているリツコさんは、レクチャー内容を整理。予習復習をしながら、シンジがねだるままにゲームの相手や絵本を読んでやったりする。これは余人には真似のできない芸当だ。
 
子供にしてみれば、自分のわがままを全部聞いてくれる相手なわけで、得難い遊び相手だっただろう。
 
初対面の時に、染められた金髪に怖気づいていたことが嘘のような懐きようだった。
 
今もそのスカートにしがみついて、シンジが懇願し続けている。
 
「リツコお姉ちゃんが困ってるでしょう。わがまま言わないの」
 
「い~だ。おかあちゃんのいじわるぅ」
 
きら~い。とシンジが、リツコさんの影に隠れた。
 
親離れが一気に進んで、それはそれで歓ばしいことではあるけれど。
 

 
リツコさんと目があって、お互いに苦笑した。
 
 
                                         つづく
2007.05.18 PUBLISHED
2007.05.21 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:36


ゲヒルン・ジャパンの翌年度採用者名簿に、葛城ミサトの名前がなかった。研究職ではないのだから、採用基準を充たさなかったと云うわけではないと思うのだが。
 
リツコさんの時のように第2新東京市まで行こうかと考えて、そうすべき理由がないことに気付く。リツコさんならともかく、葛城ミサトにこだわる理由がないのだ。…碇ユイにとっては。
 
なにかこじつけてでも様子を見に行きたいところだったが、それでミサトさんを迎え入れることになった場合、この時期からでは人事部に余計な干渉を行うことになる。
 
昨年リツコさんの採用で無理を押し通したばかりだし、人事にも目を光らせているらしいゼーレの関心を惹きたくない。なにより、もしミサトさんが使徒への復讐をあきらめたと言うのなら、敢えて巻き込む必要はないではないか。
 
様子を窺うために書き始めたメールを、本来なら知らないはずのアドレスへ送信する直前に、消した。
 
 
…こういう時、自分が薄情なんだと思い知らされる。
 
 
****
 
 
「…なんだ、あれは」
 
ゲンドウさんの声に振り向くと、その視線はガラス戸越しにベランダの床のほうへ。
 
「…プランターですか? ミニトマト、ですわ」
 
「それは、見れば判る」
 
食糧事情はかなり改善されてきているとはいえ、生鮮食料品はまだまだ高価い。育成が容易なミニトマトはベランダ栽培されることも多いのだが、これまで我が家では手を出していなかった。トマト嫌いが2人も居たし、1人は現在進行形で見るのも嫌がるからだ。
 
子供と違って、大人の好き嫌いは治しづらい。教育に良くないから、子供にそういう姿を見せずにすむよう気をつけてはいるけれど。
 
「【壱年ノ科學】の教材なんですよ。ミニトマトの栽培セット」
 
「…そうか」
 
ガラス戸に映りこんだその目が、据わったような気がする。瞳だけで見下ろして、…ああ云うときのゲンドウさんは、良くないことを企んでるに違いない。
 
それが何かは判らないが、とりあえずその矛先は逸らしておいた方がよさそうだ。忙しい人だから、目先の危機を回避するので手一杯になるだろう。
 
「熟したらケーキに、と申し付かってますわ。お父さんにも食べて欲しいそうですよ」
 
「…ああ」
 
鋭い視線を途端にさまよわせて、ゲンドウさんの応えは呻くようだ。
 
夜闇に、まだ青い実が照り映えて見えることだろう。ゲンドウさんが微妙に後退った。
 
 
****
 
   - AD2009 -
 
****
 
 
ありえないと知りつつ、使徒への復讐をあきらめていて欲しいと願わずに入られなかった。…虚しい願いだったけれど。
 
 
ミサトさんの消息は、意外なところからもたらされた。ドイツに出向中のリツコさんからだ。
 
どうやら、直接ゲヒルン・ドイツに就職したらしい。自分が葛城ミサトであった時代は、ゲヒルン・ジャパンに採用されてドイツの勤務に廻されたのだが…。
 
その差異が気になって、リツコさんにそれとなく確認してもらった。
 
それによると、以前リツコさんを勧誘した時の私の言葉とリツコさんが出向していることから、エヴァ開発の本場がドイツだと勘違いしたらしい。それで直接ゲヒルン・ドイツの採用試験を受けたようだ。
 
いずれ日本に向かわせることが判ってるアスカのための採用。と云うことなのだろう。
 
エヴァを見せてくれと、毎日のようにせがまれて辟易している。とメールが結ばれていた。
 
 
将来の作戦部長候補ということで、それなりの任地に廻すようドイツに要請しておくべきだろうか? せめて、使徒殲滅の最前線に立てるようにするために。
 
 
****
 
 
E計画責任者の、帰宅は早い。
 
仕事を持ち帰ることを前提にして、18:00には研究所を後にするのだ。
 
 
人工進化研究所が運営している保育所は、就学児の学童保育も実施している。つまり、放課後の面倒を見てくれるわけだ。そのまま泊り込んで、そこから通学する児童も居るのだとか。
 
だが、後付けの都市計画に則っているわけはないから、行政区画と折り合いがつかない。平たく言えば、第壱小学校から遠かったのだ。
 
なので、シンジが小学校に入学してからは、地域で運営している児童館で面倒を見てもらうことにした。19:00までしか見てもらえないから、早く帰宅できるように工夫が要る。
 
 
「来て…ないんですか?」
 
ええ。と頷くのは、今日の当番らしい非常勤の指導員。
 
毎朝、集団登校とはいえ歩いて通っている道だから、自力で帰ることもできるだろう。万が一のために、家の鍵も持たせている。
 
しかし、一人きりで留守番させることになるから児童館に預けることにしたのに…
 
指導員さんにお礼を言って、児童館を辞する。
 
 
 
一方レイはといえば、1歳の誕生日を機に保育所に預けることにした。手元に置けないのは寂しいが、社交性を養うには同世代とのふれあいが必要なのだ。
 
 
もしや。と思いつつ保育所の門をくぐる。
 
案の定、シンジがレイを迎えに来たそうだ。今日は私が遅くなるからと、嘘までついて。卒園生ということもあって、保育士の先生がシンジの言うことを鵜呑みにしたらしい。
 
それにしても、小学校から保育所経由で我が家まで、子供の足では小1時間はかかるだろうに。
 
 
 
ただいま。と靴を脱ぐのももどかしく駆け込んだリビングで、シンジがレイに絵本を読み聞かせてやっていた。
 

 
思わず、へたり込んでしまう。
 
「あっ、お母さん。おかえりなさい」
 
こちらに気付いたらしいシンジが、能天気に。
 
「…」
 
レイは、言葉が遅いのか無口なのか、まだよく判らない。
 
「…ただいま」
 
気をとりなおして立ち上がる。ダイニングのテーブルの上に、食べ散らかしたお菓子の空き袋。
 
「シンジ。お母さんちょっとお話があるの、こっちに来てくれる?」
 
手招きすると、バッタが跳ねるような勢いでソファから降りた。
 
「レイはちょっと待っててね」
 
こくん。と頷くレイを確認して、シンジを連れてリビングを後にする。
 
 
奥の6畳間に入り、扉を閉めた。
 
「どうして、レイを連れて帰ってきたの?」
 
ひざまずいて、目線の高さを合わす。
 
「…かわいそうだと、おもったの」
 
かわいそう? と小首を傾げると、うん。と応え。
 
「…ほいくしょに行ってたとき、お母さんをまっているの、ぼく、さびしかった…」
 
だから。と続けるシンジの目元が、たちまち潤んで。
 
「レイも寂しがってると、思ったのね」
 
頷いたはずみで流れ出した涙に驚いたのか、目を見開いて。
 
ひくっ。と、しゃくりあげたシンジを抱きしめた。
 

 
こんな、声を押し殺すような泣き方を、この子はいつ憶えたのだろう。
 
おそらくは、守るべき存在があると自覚をした、その後のことだろうが。
 

 
ようやく落ち着いてきたシンジの体を、優しく引き剥がす。
 
「…シンジは、本当に優しいお兄ちゃんね」
 
もし、自分に妹ができたとして、この子のようにこんなに優しくなれるだろうか?
 
「…保育所まで迎えに行って、家まできちんと連れて帰って。とっても偉いわ」
 
守るべき者ができたくらいで、こんなに毅くなれただろうか?
 
「おやつもきちんと食べさせて、一緒に良い子にして、お留守番してくれていたのね」
 
うん。と頷く姿は、照れながらも誇らしげで。
 
本当に自分は、この子と同じ可能性を持った存在だったのだろうか?
 
 
…とてもそうは思えない。
 
確かに、その行動の端々に、当時の自分の姿を見ることができる。だが、それ以上に自分との違いを見て取れた。
 
今日の、この行動のように。
 

 
自分との同一面よりも、そうした自分との違いのほうが愛しい。と感じていることに、気付く。
 
この感情は、母さんの記憶に有った。己の一部を受け継いでなおかつ、己とは違う可能性を秘めた存在を言祝ぐ気持ち。…親の愛。
 
いま自分は、過去の自分への憐憫ではなく、一人の親としてこの子を…見ている?
 
同情ではなく、愛を与えようとしている?
 
騙ることのない、愛を…?
 

 
「お母さん!どうして、ないてるの!?」
 
涙? 私、泣いてるの?
 
「なにが、かなしいの?」
 
いいえ。とかぶりを振る。
 
「…嬉しくても、涙が出ることがあるのよ」
 
サマーセーターの袖で涙を拭う。
 
「うれしくても、なくの…?」
 
ええ。と応えた。
 
「シンジが妹思いの良い子に育ってくれて。お母さん、本当に嬉しかったもの」
 
そのことを、心底から嬉しいと思えたから、嬉しいのだけれど。
 

 
親の自覚ができたから、次にやるべきことも判った。
 
「だけど、お母さんに相談せずにこんなことをして」
 
…優しいだけが、親の愛じゃないから。
 
「保育所の先生に、嘘までついて」
 
シンジの体を引き倒し、膝の上にうつ伏せにする。
 
「お母さんが、どれだけシンジのことを心配したか…」
 
振り上げた右手を、容赦なくそのお尻にたたきつけた。
 
ぴっ!と悲鳴を漏らしたシンジの、表情は見えない。
 
「途中で事故に遭ってないか」
 
手加減なしに、もう一撃。
 
「ごめんなさい!ごめんなさい!おかあちゃん、もうしません!ごめんなさい」
 
2年生になってしばらくして、ある日突然、お母さんと変わった呼び方が、戻っている。
 
「知らない人に着いて行ったりしてないか」
 
ズボン越しの打撃音は鈍く、ばすん。と…
 

 
盛大に泣き叫ぶシンジをかかえ起こした。
 
「お母さんがどれだけシンジのことを心配したか…」
 
わんわんと、なにものも憚らぬ子供らしい泣き方に、なぜか安堵する。
 
ごめんなさいぃ。と、しゃくりあげるシンジを、思い切り抱きしめた。
 
嘘いつわりのない涙の、目尻から溢れるままに。
 
 
****
 
 
結局、翌週からシンジも、放課後に人工進化研究所運営の保育所で預かってもらうことにした。
 
夕方に迎えに行くのを、レイと一緒になって待っている。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾六話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:36


「アイスコーヒーですけど、いかがですか?」
 
私の椅子を勧めておいて、冷蔵庫へ向かう。
 
「…貰おう」
 
ボトルを取り出して、コーヒーをグラスに注いだ。
 
「珍しいですね。ゲンドウさんが私の執務室にお見えになるなんて」
 
ターミナルドグマに程近いこの執務室は、ジオフロント地上施設内の所長室から遠い。
 
「たまには現場を見ないとな」
 
ネルフの設立準備が進められている今、ゲンドウさんには政治的な仕事が多いのだろう。家に帰って来れない日が増えてきていた。
 
どうぞ。とグラスを差し出して、私は予備のパイプ椅子に座ることにする。
 
一息にコーヒーを飲み干したゲンドウさんが、グラスを置いた。
 
 …
 
怪訝げな、視線を向けてきて。
 
「…訊かないのか?」
 
「なにをです?」
 
ちょっと居心地悪げに身じろぎしたゲンドウさんが、メガネを押し直した。
 
「お代わりが、要るかどうかを…だ」
 
「あら。ご不要とお見受けいたしましたけれど?」
 
「…なぜ、判る?」
 
すっと手を伸ばして、グラスを取り上げる。
 
「グラスの位置ですわ。飲み足りない時は、もっとご自分寄りに置かれますもの」
 
ゲンドウさんの正面。私との中間位置にグラスを置いて見せた。
 
「…そうか」
 
無くて七癖。
 
実は、シンジにも同じ癖がある。食べたくなかったり食べ飽きたりすると、器ごと遠ざけるのだ。それがゲンドウさん譲りであることに気付いたのは、つい最近なのだが。
 
では何故、私にその癖がないのか? と思い返してみると、子供の頃には有ったようなのだ。どうやら先生のところに居たときに、矯正されたらしい。
 
 
「…お訊きしたほうが、宜しかったですか?」
 
小首を傾げて訊ねたら、顔を逸らしたゲンドウさんが意味もなくメガネを押しなおした。
 
「…いや、問題ない」
 
なにか、思考を反芻するかのように、ゲンドウさんの視線が遠い。…不機嫌ではなさそうだけど。
 
空いたばかりのそのグラスを手元に引き寄せ、半分ほどコーヒーを注ぎ足す。怪訝げなゲンドウさんの視線をやさしく無視して、一口。喉を湿らせる。
 
「それで、ご用件は?」
 
「うむ」
 
グラスの動きに連動していたゲンドウさんの視線が、所長の鋭さをもって据えられた。
 
「ゼーレが、オートパイロットの開発を命令してきた」
 
「エヴァの、無人化ですか?」
 
そうだ。と頷くゲンドウさん。メガネが光を反射して、その表情が読めない。
 
「儀式に、パイロットの意識など邪魔なだけだからな」
 

 
そういえば私は、オートパイロットの開発事由など深くは考えなかった。いわんや、その要求元のことなど。
 
儀式。そのための白いエヴァ。そのためのオートパイロットだったのか。
 
だが少なくとも前回、水槽の中から9人もの綾波が消えた事実はない。つまり、あの白いエヴァを動かしていたのは、別の何かだったわけだ。
 
それが、本部で完成したダミープラグと同じ物なのかどうか、あるいはその成果を利用したものかどうかまでは判らない。ゼーレが独自に開発した可能性は否定できないが、だからといって手助けしてやる理由はないだろう。
 
「…儀式を行うつもりはないが、それで君が使徒と戦わずに済むのなら、やってみる価値はある」
 
窺うような視線は、私の口元に注がれていて…?
 
無意識にゲンドウさんのポーズを真似していたようだ。あわてて指を解く。
 
「ゼーレと敵対した時。それと戦うのは私ですよ」
 
「そうか…、そうだな」
 
納得したらしいゲンドウさんが、私と入れ替わるようにいつものポーズに。
 
「では、この件はナシだ。偽装データであしらう。任せていいか?」
 
「はい。承りました」
 
返答を確認して、ゲンドウさんが立ち上がった。
 
「ゼーレには了解の旨、伝えておこう…」
 
退出すべくドアへと向かったゲンドウさんを、見送るべく付き従う。
 
そうだ。とスイッチにかけられた手が、ふと止まり。
 
「日重主体で進んでいた例の巨大ロボット計画が、白紙撤回されたそうだ」
 
初号機のデモンストレーションが効いたのだろうか。まずは一安心。
 
「…予算の受け皿はどうです?」
 
「推進派の議員が発言権を失って、国会の勢力図が書き換わったからな。
 これまでの経緯とあいまって、人権擁護派が勢いづいているらしい。
 このままだと、難民の支援や孤児の育成などに使われる公算が高いだろう」
 
…よかった。
 
思っていたより良い方向へ向かいそうだ。苦労してデモンストレーションを開催した甲斐があった。
 
ぐすっ。…安堵と喜びで、涙腺が緩む。
 
目前の背中は、この研究所で一番多忙な人のものだ。
 
だから、余計なことで煩わせてはいけない。
 
なのに、ゲンドウさんを見送り終わるまで、耐えることができなかった。
 
 
****
 
 
シンジを保育所での学童保育に預けるようになって、まっさきに考えたのが引越だった。
 
第壱小学校から保育所までが遠すぎるのだ。
 
そこで、なるべく保育所に近い物件を探すことにした。 
 
そうすれば、集団下校を利用して家までは帰れるし、そこから保育所までもいくらかは安心できる。学校からは遠くなるが、シンジも賛成してくれた。兄莫迦もここまでくれば、いっそ天晴れだろう。
 

 
そうして探した物件の中にコンフォート17の名を見出した私は、数拍の逡巡の後、そこに決めた。
 
 
****
 
 
初号機の後頭部を見上げるキャットウォーク。
 
リツコさんは、この場所が好きだという。特に、私と一緒の時は。
 
空調の関係で寒いはずのターミナルドグマは今、初号機の周囲だけ暖かい。 
 
 
リツコさんが帰ってきたのは、昨日のことだ。
 
1ヶ月前に間接制御実験を成功させ、出向予定を大幅に繰り上げての帰国だった。
 
 
考えてみれば、オートパイロットの開発命令は、間接制御実験の成功を見越してあのタイミングだったのかもしれない。
 
 
「…ドイツは如何でしたか?」
 
「日本への対抗意識が強くて、苦労しました」
 
こともなげな口調だけど、リツコさんは随分とやつれたように見える。染める暇もないほど忙しかったのだろう、頭髪が途中まで黒かった。
 
私のせいで要らぬ苦労をかけたかと思うと申し訳ないが、その溌剌とした様子を見るに、なにか得るところがあったのだろう。
 
「そんな状況にも関わらず短期間で結果を出す。その秘訣を教えてくださいません?」
 
期待に応えようと必死でしたから…。と前置きして、リツコさんは未だ黄色いままの初号機を見上げた。
 
「最初の一ヶ月間は、人間関係の把握に努めました」
 
何気なく初号機に歩み寄って、そのうなじに手を這わしている。
 
「碌な情報も貰えず、言いなりに研究させられているスタッフには情報を与え、」
 
少し気温が上がったのは、初号機がそれを心地よいと感じたからだろう。
 
「権勢欲ばかりで実力の伴わない責任者には研究成果を渡して、手柄を上げさせ…」
 
リツコさんが愛しげに目を細めた。初号機が猫にでも見えているのではないだろうか。
 
「結果、生じた溝に入り込んだんです」
 
「…お見事ですね」
 
その手腕に、舌を巻いた。組織を内部分裂させる離間策の応用だろう。
 
それにしても、人間関係に長けてるとは云いがたいリツコさんが、最初からそんな姦計を弄するとは。
 
くるり。と振り向いたリツコさんが、ぺろり。と舌を見せる。こんな仕種をするような人ではなかったはずだから、先程より驚いた。
 
「実は、私の手柄ではないんです」
 
私の表情をどう読み解いたのか、リツコさんは悪戯のネタばらしをする悪童のような顔で。
 
「向こうに知り合いが居まして、全て彼の入れ知恵なんですよ」
 
彼ということは、ミサトさんではないわけか。いや、そもそも時期が合わない。
 
「お知り合い…ですか?」
 
「ええ、学生時代の友人がドイツに留学していたんです」
 
他にリツコさんの知り合いといえば加持さんくらいしか思いつかないが…
 
「葛城ミサトを憶えていらっしゃいますよね?」
 
ええ。と頷く。
 
「彼女がドイツに来てから大変だったんです。その二人は付き合ってた時期があったものですから…」
 
すると、やはり加持さんなのか。
 
かつて、自分が葛城ミサトだった時代。この時期の加持さんの行方は知らなかった。いったい、どのような違いが加持さんの存在を炙り出したのだろう?
 

 
それにしても、ドイツでの3人の様子を話すリツコさんに屈託がない。
 
学生時代のメンバーが揃ったことが、リツコさんを支えたのかもしれなかった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾七話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:36


****
 
  - AD2010 -
 
****
 
 
「あら、今あがりですか?」
 
「ええ、ミサトが帰ってきてるので、飲みにいくんです」
 
薄暗い通路で出会ったのは、リツコさんだった。本稼動にはまだ程遠い本部棟は、照明もまばらなのだ。
 
「お疲れさま。愉しんできてくださいな」
 
「はい。それではお先に失礼します」
 
リツコさんを見送って、発令所へと歩を進める。
 
 
MAGIが完成したこの日。それは、ナオコさんが転落死した日だった。
 
 
****
 
 
「お疲れさまでした」
 
薄暗い発令所。コンソールの椅子に深く腰掛けたナオコさんに声をかける。
 
「あら、ユイさん。ターミナルドグマから出てくるなんて、珍しいわね」
 
「MAGIが完成したとお聞きしましたから…。おめでとうございます」
 
深々と頭を下げる。
 
…ありがと。とナオコさんは素っ気ない。
 
MAGI完成の記念すべきこの日に、何故この人は自ら命を絶ったのだろう。こうして見ていても、そんな気配はなさそうなのだが。
 
たしかに疲れきっているようには見える。だが、自らの研究成果が形になったことへの満足感に溢れ、とても死を望んでいるようには感じられない。
 
…とすると、事故か、事件か。
 
事故なら、私が付いていれば防げるかもしれない。事件なら、ここから引き離すことで避けられるかもしれない。
 
「…宜しければ、祝杯を揚げに参りませんか?」
 
「…祝杯を?」
 
はい。と頷く。予想外だったらしく、ナオコさんが呆けた。
 
「画期的なスーパーコンピュータが完成したというのに、祝賀パーティーの一つも予定されていないんですよ。なんだか寂しいじゃないですか」
 
「…だから、せめて?」
 
いま私を見上げた視線はなんだろう。諦念? 侮蔑? 嘲笑?  …警戒?
 
とっさに判断しかねて、ええ。と頷く声がかすれた。
 
「…気持ちは嬉しいけど、そんな気分じゃないの」
 
椅子を回して背を向けたナオコさんの、声が心なしか震えているような…?
 
やはり、なにか鬱屈を抱えていたのだろうか? 先ほどまでの態度は虚勢で、何か思い詰めているのだろうか?
 
「そう仰らずに」
 
周り込んで顔を覗き込むが、視線を逸らされて、その表情が読めない。
 
「随分と、余裕ね…」
 
「え? ええ、リツコさんが帰ってきてくれて、ずいぶん楽になりましたから」
 
たしかに色々と大変だが、今のペースなら充分、使徒対策は間に合うだろう。
 
「こうしてMAGIも完成しましたし、少しくらい息抜きをしてもバチはあたらないと思うんです」
 
ナオコさんの両手を、握りしめる。
 
「気分転換に、是非。ちゃんと軍資金も戴いてきたんですよ」
 
途端、睨みつけるように見上げられ。
 
「…所長から?」
 
「え?…」
 
何故そこでゲンドウさんの名が出てくるのか解からなくて、口篭もった。いや、2人の関係を忘れたというわけではないが、しかし…だからと云って…
 
その沈黙をどう受け取ったのか、まなじりを吊り上げてナオコさんが手を振りほどいた。
 
「あの人の差し金で来たんでしょう!…本当にエゴイスト」
 
「あの? ナオコさん?」
 
何か、とてつもない誤解をされているような気がする。まさか、ナオコさんが自殺するきっかけとなった出来事を今、私が引き起こしているのでは?
 
「あのっ…落ち着いてください。誤解です!」
 
いけない!動揺して声を荒げてしまった。
 
「完成した途端にアンタを寄越すなんて!!」
 
差し伸べようとした手をはたき返され、引っ込める。
 
「…あからさま過ぎて涙も出ないわ」
 
肩を怒らせ俯いたナオコさんの、背後に怒気が揺らめいているようで…
 
「…なんて、酷い人…」
 
ゲンドウさんと、ナオコさん。…おそらく、2人の関係は続いていたのだろう。
 
そんな素振りを微塵も見せずに数年。もしかしてとっくに解消されているのでは? と思わされるほど完璧に隠し切って。
 
リツコさんの時のような失敗を恐れて、知らない振りを装った。それは、大きな間違いだったのだろうか。
 
 
「…」
 
2人の関係を知らないことを貫けば、できることがない。
 
2人の関係を知っていることを明かせば、火に油を注ぐ。
 
だから、かける言葉を見出せなかった。
 

 
「単なる同居人ですって!? 聞いてあきれるわ!子供まで作ってっ!」
 
見上げた視線が、私を捉えて細くなる。怒りの矛先がこの身に向けられたと、解かった。
 
「…そう。夫婦揃って、嘲嗤ってたってわけね」
 
ゆらり。と立ち上がる様はまるで陽炎のよう。倒れた椅子の立てた音が、なぜか遠い。
 
ゆっくりと踏み出された足に気圧されて、後退る。
 
「…誤…解です」
 
目前に迫る、ナオコさんの顔。彼女のほうが背が高いはずなのに、なぜか見上げるように睨みつけられて…
 
「…アンタなんか、」
 
伸び上がってきた両手を、躱すことができなかった。
 
「アンタなんか死んでも代わりはいるのよ…」
 
とっさに顎を引いて気道を喉の奥に隠す。首に力を篭めて頚動脈を守るが、この体では非力すぎて抗いきれそうにない。
 
こういう場合の対処方法はもちろん知っている。それこそ、ピンからキリまで。だけど、ナオコさんの表情を、その目を見てしまっては、この上さらに彼女を傷つけることが出来なかった。
 
…憎しみに顔をゆがませながら、なぜこの人はこんなにも哀しそうなのだろう。
 
「…ナ…オコ …さ 」
 
あまりに哀しくて、見えないだけの涙を拭うべくその頬に手を伸ばす。
 
女の細腕とは思えない膂力で首を絞められ、徐々に、徐々に抵抗力が失われていく…
 
「 ん… 」
 
足に力を入れていられなくなって、膝を折る。
 
見下ろしてくるその顔の、頬に手を添えて、なでた。
 
「…私と同じね」
 
最後の砦と首に篭めていた力が抜けた瞬間。ナオコさんが息を呑んだ。
 
いきなり開放され、支えを失った体が頽れる。
 
激しく酸素を求める肺と、締め付けられた反動でえずく喉がせめぎあって、床に向かって咳き込んだ。
 
「私は…っ!」
 

 
嫌な気配に突き動かされて見上げた視界の中で、ナオコさんが今まさにコンソールを跳び越えようとしていた。 
 
酸素不足で言うことを聞かない体を、初号機にそうするように叱咤して立ち上がる。
 
ナオコさんのためらいのなさを証明するように、力いっぱい振りぬかれた腕の、その手首をなんとか掴んだ。
 
引き止められたナオコさんの体が、重力に引かれるままに発令所躯体の側壁にたたきつけられる。
 
「くっ」
 
ナオコさんの全体重を加速度込みで引き受けて、右肩がみしりと鳴った。…よく脱臼しなかったものだ。
 
コンソールから乗り出すようにして、両手でナオコさんの腕を掴む。
 
「…手を放して、私は…」
 
憑き物が落ちたように、ナオコさんの声はか細い。
 
「…絶対に、放しません」
 
顔を上げたナオコさんが、哀れげに呻いた。
 
「…このうえ貴女に救けられたら、惨めさが増すばかりだわ…」
 
何もかも諦めきった表情でまぶたを閉じたナオコさんが、
 
「…それもまた嘲嗤おうって言うの?」
 
くすり。と嗤った。
 
 …
 
  自分自身に向けた嘲りが、こんなにも哀しいなんて。
 
 
こんなことで死んでいい人ではないのに。
 
こんなことで死ぬような人ではないのに。
 
人の心がロジックじゃないからといって、その終わり方まで不合理でなくてはならないのか。
 

 
この体では、ナオコさんの体を力づくで引き上げることができない。彼女を翻意させ、力を合わせなければ救けられないだろう。
 
この人に、…心残りがあれば…  …  …いや、無ければ作ってでも!
 
 …
 
「…リツコさんを置いて、こんな死に方して…いいんですか!?」
 
驚いたように目を見開いたナオコさんが、しかし視線はそらした。すこしは心の琴線に触れえたか。
 
「…あの子はもう大人よ。それに…好かれてないもの」
 
「そんなことはありません…」
 
カスパーの中での、リツコさんの様子が脳裏をよぎる。
 
「今、あなたを失えば、あの子はきっと惑います…」
 
リツコさんはあの時より毅くなったように見えるが、その本質まで変わったわけではあるまい。
 
「…燦然たる功績を持つ母親をこんな形で失って、あなたをどう理解していいのか判らず、あの子はきっと迷います」
 
かつてのリツコさんとゲンドウさんの馴れ初めは知らないが、そこに母親の影があったことは確かだろう。親子揃って大莫迦者だと言っていたのだから。
 
脂汗が額を伝い、目に流れ込む。
 
「死にたいというなら、そのことを止めはしません」
 
痺れはじめた両手に力を篭めなおし、ナオコさんの腕を握り締める。
 
「でもその前に、リツコさんと話をして下さい。あなたを理解させてからにして下さい」
 
「どうして…そんなに…」
 
視界がかすんで、ナオコさんの表情が読めない。
 
「…私だって、母親ですよ」
 
食い縛った歯の間から押し出すようにして、
 
「子供を顧みない、こんな死に方は赦しませんっ」
 
よく見えないままに睨みつける。
 

 
「母親でしょっ!応えてっ!!」
 
怒鳴り声に言い返すように、掴んだ腕を握り返された。
 
コンソールに膝を突き、全身を使って引き上げる。
 
左手を伸ばしたナオコさんが、側壁の縁を掴んだ。
 
その右手首は左手で掴んだまま引き手にして、体を持ち上げようとするナオコさんの襟元を右手で掴んで引き上げた。
 
右手もコンソールにかけたのを確認して、スカートのベルトラインを握る。
 
この身体は鍛えてないから、握力がもう限界に近い。
 
 叩き込むように引き込んだその反動を支えきれず、踏んだ白衣の上で膝が滑った。
 
 ナオコさんを押し込んだ反作用と、滑って失った重心の併せ技で、あっさりと発令所から放り出される。
 

 
 …
 
  伸ばした手は、何も掴めなかった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾八話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:36


「やだな。またこの天井だ」
 
つい、そんな口調で独り言ちてしまったのは、見上げた天井に見覚えがありすぎたからだと思う。
 
 
気付けば、ベッドに寝かされていた。
 
消毒液のにおいに、真新しい建材のにおいが混じっている。かつて見慣れた天井は、本部棟内の医療部だろう。まだ、本稼動してないはずなのだが。
 
点滴やらカテーテルやら色々つながれていて、いわゆるスパゲッティ状態にされているようだ。
 

 
体が本調子ではないらしく、まぶたを開いていることすら億劫だった。
 
 …
 
頭と右肩に左手、それに両足首が疼く。…そう云えば、発令所から落ちたんだったか…
 
 
…………
 
 
眼下に拡がるのは、MAGIのフロア。…なのだろう。視界が滲んで判然としない。
 
このままでは、バルタザールのフロアに顔面から叩き付けられてしまう。
 
傍らを通り過ぎようとしたカスパーのフロアの側壁に、反射で手を伸ばす。
 
しかし、鍛えてないこの体で、そんな芸当は無理だったのだろう。何も掴むことができず、ただ左手を打ち付けるだけに終わる。
 
だが、体勢を立て直すことができた。足から落ちることができれば、生存率が随分と違う。
 
着地と同時に脚を折り曲げ、衝撃を逃がす。葛城ミサトであった時代に身につけた体捌きを、この身体がかろうじて再現してくれている。
 
そのまま受身の要領で転がろうとしたところでパンプスが滑った。
 
 
…………
 
 
おそらく、そこで頭を打ったのだろう。ずきずきと痛い。
 

 
痛みから意識を逸らそうと、どれだけのあいだ、ぼぅっとしていただろうか?
 
なにやら地響きがすると気付いた途端。病室のドアが乱暴に引き開けられた。 
 
「おお!ユイ。ユイ。目を覚ましてくれたか!」
 
 …
 
なんだか、既視感を覚える。
 
そう。この世界で目覚めた時にそっくりだった。
 
 
あのとき、私に覚悟があれば、この世界はもっと優しくなったのに…
 
あのとき、安易に逃げなければ、誰も苦しめずに済んだのに…
 
叶うことなら、もう一度やりなおしたい。
 
 …
 
嘆いたところでどうにもならないのに、涙が溢れた。
 
「どうしたユイっ!どこか痛いのか」
 

 
この人の罪は、すべて愛ゆえだ。
 
私が安易に逃げたために、この人は幻影を追いかけたに過ぎないのだから。
 
だが、犯してしまった罪を無かったことにはできない。
 
この人に押し被せた罪を、そしらぬ振りをせねばならぬのだ。
 
それに見合う何物も、私はこの人に与えられないというのに。
 
 …
 
いや。ひとつだけ、返せるものがあった。
 

 
枕元のリモコンを手にする。
 
ベッドのリクライニングを起こすと、体の痛みがいや増して…
 
 
「結婚して…10年になるのですね。ゲンドウさん」
 
おろおろとナースコールを連打していたゲンドウさんが、私の顔を見つめる。
 
「ユイ?」
 
痛みすら伴いそうな視線を優しく受け止めて、微笑む。
 
「…ええ、思い出しました」
 
 

 
 
喜んでくれると思ったゲンドウさんは、つらそうに顔をしかめた。
 
肩を震わせ、こぶしを握り締め。
 
失った顔色を補うかのように首筋は赤いのに、指先は篭った力で白く。
 
瞳に映った私の姿が徐々にぶれて、遠くなり。
 
そらされた視線に取り残されて、ついに落ちる …涙。
 
「…」
 
あまりの痛切さに、声をかけることすらためらわれた。
 
…俺は… 
 危うく… …またしても
   詰まらぬ… 
 …小賢しい  …くだらぬ…
    これが …  報い …
 …
 
食い縛った歯の間から漏れる言葉はあまりにも断片過ぎて、その内心を窺う手懸りにならない。
 
ただ、酷く後悔している。そのことだけが、その表情から読み取れた。
 

 
「っ…」
 
ひときわ強い痛みに耐えかねて、こめかみを押さえる。
 
気付くと、ゲンドウさんに見つめられていて…
 
開きかけた口をやはり閉ざして、揺れる瞳は何をためらってのことか。
 
結局そらされた視線が、何を見つけてか釘付けに… ジェルパッドで覆われた私の左手のようだ。
 
がくんと、くずおれるように膝を折ったゲンドウさんが、おそるおそる手を伸ばす。
 
まるでこの痛みを写し取ろうとでも云うかのように、ジェルパッドの輪郭を…、なぞる。
 
「…痛むか?」
 
「…ええ、少し」
 
左手を軽く浮かせると、シーツとの狭間にゲンドウさんの右手が滑り込んできた。
 
「君が記憶を取り戻したと告げた瞬間。…たしかに嬉しかった」
 
挟むように乗せられる、左手。
 
「だが、君の意識が戻ったと聞いたときのほうが、はるかに嬉しかった」
 
ジェルパッドは分厚く、人のぬくもりを伝えてくれない。
 
「…失われた君の記憶に拘ったことが、如何に詰まらぬ執着であったか。俺は今、ようやく気付いたのだ」
 
その手を握り締めてあげようと左手に力を篭めたら、たしなめるように軽く叩かれた。
 
「記憶を取り戻しても君が変わらぬように、記憶を失っても君であることには変わりがなかった。というのにな…」
 
おとなしく力を抜いた左手を、委ねる。
 
確かめるように落とされた視線は、重ねられた掌に注がれて。
 

 
ふっ。と肩ごと落とすような嘆息は、何かを吹っ切るかのように短い。
 
 …
 
「…物理法則を覆す儀式の実行には、それを受け入れえる人工頭脳の存在が不可欠だった」
 
「MAGI…ですね?」
 
「そうだ」
 
もし、2000年の南極にMAGIがあれば、セカンドインパクトはもっと違った形の、穏やかなものになっただろう。あの白いエヴァがダミープラグで動いていたのなら、その制御はMAGIコピーが行っていたはずだ。つまり、あの儀式を取り仕切っていたのもMAGIコピーと言うことになる。そうやってサードインパクトを遂行してみせたのがMAGIシステムならば、アダムをも制御しきれたかもしれない。
 
 
「計画の要としてMAGIを推薦した時から、主導権を握ろうとしてゼーレは、開発者にアプローチを続けている」
 
表向きはE計画のため、対使徒戦のために建造されるMAGIの開発者を抱え込むには、搦め手しかないからだろう。
 
「補完計画を乗っ取るために、MAGIを掌中にすることは必須だった。だから…」
 
ぎゅっ。と力の篭ったゲンドウさんの両手の中で、私の左手がみしり。と鳴った。
 
「彼女を此処に引き留め続けるために、俺は…、」
 
ゲンドウさんの左手の上に、右手を添える。
 
「ナオコ君と…」
 
面を上げたゲンドウさんが言い終わる前に、静かにかぶりを振った。
 

 
「私が記憶など無くさなければ、補完計画など提唱しなかった?」
 
頷くのを確かめて、
 
「補完計画がなくとも、そんな関係になりましたか?」
 
「か…」
 
いったん開いた口を、しかし閉ざして。訴えかけようとした何を呑みこんだと云うのだろう。ゲンドウさんは、私の目を見ないままにかぶりを振った。
 
どうやらナオコさんとの関係は、私が考えてる程度の単純なものではないらしい。
 
 
…だけど、私にとってそれはどうでもいいことだ。
 
 ゲンドウさんが、それで自分の心にけりをつけられるのなら。
 
 
「…ならば、あなたの罪は私の罪です。ゲンドウさん」
 
  …
 
「それでも、俺が君を裏切った事実に変わりはない」
 
つらそうに言い切ったゲンドウさんが、とても憐れだった。なんとか慰めようと突き動かされた右手が、しかし止まる。…自らの薄情さを、再確認したような気がして。
 
私は今、ゲンドウさんに同情している。それはつまり、私の中にあるのがゲンドウさんへの愛ではなくて、情に過ぎない。ということの証拠のように思えた。愛しているならば嫉妬し、怒り、詰るべき場面なのではないか。
 
世界を護るために愛を利用している。ということなら、私とて同罪だった。
 
…自分には結局、偽りなしに人を愛することなどできないのだろうか。ゆえに世界を滅ぼしたのかと考えると、無性に寂しくなってくる。
 
ぐすっ。とすすり上げた。 いけない。自分なんかのために泣いている場合じゃないのに。
 

 
ゲンドウさんの腕ごと、自分の両手を引き寄せて。いま一度、かぶりを振った。
 
「裏切ったというなら、失敗の危険性を知りつつ初号機の実験を行った私のほうが先に、あなたを裏切ったのです」
 
全てを心の奥底に隠して、せめて偽りが見えないようにと願う。
 
これで、おあいこですよね。と微笑んだ。
 
 
****
 
 
人の泣き声は頭痛に障る。
 
泣き伏すゲンドウさんを宥めるのに精神力を使い果たし、うたた寝していたらしい。
 
やらねばならぬことがある。とゲンドウさんが病室をあとにした途端、転げ落ちるように眠ったのを憶えている。
 
目が覚めてもしばらく、ベッドのリクライニングに背を預けたままぼうっとしていたので、戸口に人影があることに気付かなかった。
 
「おかげんいかが?」
 
私がどれくらい昏睡していたのかよく判らないが、対照的にナオコさんはその間ろくに寝てないように見受けられる。見た目にも憔悴が酷そうだ。
 
だが、その表情に翳りはない。さばさばとした笑顔は吹っ切れた証だろう。つられて微笑む。
 
「たったいま、よくなりました」
 
「…案外、冗談が上手いのね」
 
くつくつと笑われてしまった。
 
口元を隠しながらベッドサイドに歩み寄ってきたナオコさんの、指先に幾多の判創膏。
 
いっそ、あっけらかんと評してよいほど明朗な態度を見せられるようになるまでに、どのような過程を踏んできたというのだろう。
 
長袖の下、手首に包帯が見えて、思わず声を出しそうになった。ナオコさんは右利きなのだから、私が想像したようなことではあるまい。掴んだ時に痛めただけだと思う。
 
 
「どうぞ」
 
ありがと。と、勧めた椅子に腰をおろすナオコさんの挙動は精彩さに欠ける。疲れが隠し切れないようだ。
 

 
「碇所長… じゃなかったわね、もう」
 
口元を押さえて苦笑。
 
「昨日付けでゲヒルンは解体。特務機関ネルフが結成されたのよ。だから、昨日から碇司令」
 
とすると、私は2日間ほど昏睡していたわけか。ゲンドウさんはさぞかし忙しかっただろう。
 
「その碇司令がさっき、私のところに謝罪に来たわ」
 
見つめているのは左手のジェルパッド。どうにも目を惹くらしい。
 
「何もかも洗いざらいぶちまけて、すまなかったと頭を下げたの」
 
昨日までは、掴みかからんばかりの勢いで罵り合っていた相手だというのにね。と嘆息。
 
それは初耳だ。詳しく聞きたいところだが、口を差し挟むのは控える。
 
「その変わりようが、なんだか悔しくて。保留にしてやったわ」
 
くすり。と笑った口元に、邪気は見えない。
 
その言い方からするに、ナオコさんはもうゲンドウさんを赦しているようなのだが。
 
ちらり。と、こちらの表情を窺ったナオコさんが、膝に両手をついて肩をすくめた。
 
「昨晩ね。リっちゃんと語り明かしたのよ」
 
何を思い出したのか、ふんわりと、笑顔。
 
「あの子の本音をたくさん聞けたし、今回のことでいっぱい叱られたわ」
 
手元を見下ろす視線は遠く、思い出を反芻しているのだろう。子供の成長に思いを馳せる時の顔だと、今だから判る。
 
「…でも、私の気持ちも解かる様な気がする。って言ってくれたの」
 
目尻の潤みを、そっと拭き取り。
 
「男に利用されることを許容するくせに、筋違いな恨みを抱くことがないとは言えない。って擁護してくれるのよ」
 
ろくに男とつきあったこともないはずなのに、無理して自己分析してね。と見せた苦笑は自嘲めいていて、あながちリツコさんだけに向けられた言葉ではないかもしれない。
 
 ターミナルドグマで泣き伏した姿を知っている身では笑えない分析結果に、男と女はロジックではないんだとの思いを新たにする。
 
それでもきっちり謝って来いってあの子は言うんだけど…。と自らの左手を支えに頬杖ついて、ナオコさんが小首をかしげた。
 
「私、貴女に謝るべきかしら?」
 
 …
 
単刀直入な物言いに虚を突かれたが、考えるまでもない。いいえ。と、かぶりを振る。
 
謝罪してもらうべきなにものも、この身にありはしないのだ。
 
何もかも洗いざらい告白できるのなら、…むしろ、謝りたいのは私のほうだった。
 

 
「…貴女なら、そう言ってくれるような気がしてたわ」
 
にやり。と口の端を吊り上げた微笑みは、同類を見つけたと言わんばかりの獰猛さで、妙に嬉しそう。
 
…なんだか、請われて殴った後にトウジが見せた笑顔に似ているような気がする。
 
 ナオコさんの年齢からすれば、更年期障害が始まっていてもおかしくない。その影響下で精神的な男性化が進んでいるとすれば、私の裡に沈めた男の部分と呼応することもありうるだろう。これが、いわば男の友情と云われるものに近しいとすれば、ひどく皮肉な話だけれど。
 
 
だからね。と立ち上がったナオコさんが、居住まいを正した。
 
「…ありがとう。ユイさん」
 
きっちりと腰を折って一礼してから、右手を差し出してくる。
 
「補完計画潰し、協力は惜しまないわ」
 
「頼りにしてます」
 
握り返した手のひらは冷ややかだったが、その微笑みは暖かだった。
 
 
 …
 
 
そういえば結局、なぜナオコさんが転落死したのか、本来の理由は判らずじまいのままだ。
 
 
                                         つづく



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX3
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:37



  - AD2010 -
 
 
暇だろうから。という理由でリツコさんが置いていってくれたノートパソコンで眺めているのは、MAGIによるニュースリリースだった。
 
稼動を始めたばかりのMAGIはまだ教育期間中で、今は情報収集に努めさせているらしい。そうした白紙状態に近いMAGIの初仕事が、集めた情報を興味を持ちそうな人に配信するこのニュースリリースなのだそうだ。
 
 
「どうぞ」
 
控えめなノックの音に応じると、一拍置いてドアが開いた。
 
「どうやら大事に至らなかったようで、一安心だよ」
 
「冬月先生…」
 
つい、そう呼んでしまったのは、冬月副司令が白衣なんか羽織っておられたからだろう。
 
「…っ、すみません。なんだか記憶が雑然としてまして」
 
「いやいや、構わないよ」
 
確かに記憶が戻ったと、おかげで確認できたよ。と歩み寄ってきた副司令に席を勧める。よっこいしょ。と腰をおろした副司令の、目線がなんだか遠い。
 
「ほんの3日前から、副司令なんて呼ばれる身分になってしまったがね。どうしてこんなことになったのか、首を傾げることしきりだよ」
 
だからだろうね。と、顎をつまむ仕種。
 
「古きよき時代。ユイ君と出会った頃を思い出して、少々嬉しかったよ」
 
少々と言うには、口元がほころびすぎているような気がする。副司令もまた、母さんとの思い出を大切なものとしているのだろうか?
 
それはともかく…
 
「あの…?」
 
「ん?…ああ、これかね?」
 
さっきから気になっていたのは、副司令が手にされておられるカゴの中身だった。
 
「トマトだよ。いいフルーツトマトが手に入ったのでね」
 
お見舞いだよ。と差し出された1個を、ありがとうございます。と受け取る。声音がなんだか上の空っぽくなってしまったのは、ご愛嬌だ。…いや、確かに美味しそうだけれど、お見舞いに?…。
 
「魔除け代わりにいいんじゃないかと思ってね。…さて、」
 
などと冗談めかして口にした副司令が、残りをカゴごとサイドテーブルに置いて、立ち上がろうとする。
 
ネルフが発足した以上、副司令もこんなところに長居できるほど暇ではないはずだ。スケジュールの合間を縫ってお見舞いに来てくださったのだろう。だけど…
 
「あの、冬月副…司令」
 
「なにかね?」
 
私の呼びかけに再び座りなおした副司令は、なんだか残念そうだ。
 
「実は…もっと、いただきたいお見舞いがあるのです」
 
ちょっと意外だったらしい。副司令の眉根が上がった。
 
確かに母さんは意外にふてぶてしい面があるが、いただいたお見舞いにケチをつけるほど不躾ではない。
 
でも、だからこそだろう。私の真剣さを感じ取ってか、副司令が身を乗り出してきた。
 
「なにかね」
 
実は…。と差し出したのは、MAGIのニュースリリースが映るディスプレイだ。
 
「この研究がはかどるように、便宜を図っていただきたいのです」
 
「耐塩性イネ…塩害対策かね」
 
セカンドインパクトによる海水面上昇や、地下水脈の枯渇によって起こる塩害への対策は、耕地激減に悩む人類にとって、存亡に係わる急務と言っていいだろう。
 
土壌改良や河口堰など成果をあげている例もあるが、費用も嵩むしどこでもできることではない。そのため、最初から塩に耐性のある農作物の開発が求められていた。
 
しかし、環境耐性は複数の遺伝子に支配されているため、特定の耐性変異系統を育成することは難しいとされる。出来たはいいが、塩に耐えられる代わりに食べられない。では話にならないのだ。
 
「国からの助成も、国連からの支援も充分あるみたいじゃないかね?」
 
この研究では、重イオンビームを使って突然変異を誘発したらしい。従来のガンマ線照射やX線照射などに較べ、極低線量照射でも高い変異率を有する重イオンビームは処理植物に障害を与えにくい。
 
「塩害対策程度なら、確かに充分だと思いますが…」
 
だが、その程度では焼け石に水だと思う。なにしろ、耕地そのものが激減しているのだから。
 
「ゆくゆくは、海上での耕作を目指すべきだと思うのです」
 
「海上…かね」
 
メガフロートや海上空港を始めとして、海上での建築は日本の十八番だ。セカンドインパクト後でもその技術を失ってないことは、第3新東京国際空港を見れば判る。
 
その技術と、完全な耐塩性イネが組み合わされば、食糧事情はずいぶんと向上するだろう。それに、もともとイネは、小麦の2倍以上の収穫倍率を誇る。この計画にうってつけなのだ。
 
「確かに魅力的な計画だが、ネルフが口出しできることではないよ」
 
「存じてます。ですけど…」
 
ふむ…。と、顎をつまむような仕種。力が入っているらしい指先は、真剣に方策を検討して下さっているのだろう。
 
ところが、それを邪魔するようにノック。
 
「おや、もうこんな時間か」
 
時計を確認した副司令が席を立つ。
 
「さいわい理研にも、ゼネコンにもツテがある。新事業の可能性ということで渡りをつけてみるが、それでよいかね?」
 
「はい。ありがとうございます」
 
期待しないでくれ給え。と、病室を後にする副司令に、頭を下げた。
 
 
                                          終劇
2007.10.23 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 発令所転落後のお見舞いネタ第2弾の予定だったが、ネルフの肝いりで耐塩性イネが大々的に成功してしまうとキーポイントとしての人類滅亡が弱くなってしまうので不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第拾九話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:37


「あのね。リツコお姉ちゃんの車、おもしろいんだよ」
 
「…」
 
あんな高さから落ちたにしては、私の負傷は大したことがなかったようだ。しばらくは松葉杖が手放せないにしても、僥倖だったと云う他はない。葛城ミサトであった時代に身に染みこんだ体捌きが、運動に慣れてないこの体をして軽傷なさしめたのだろう。これで葛城ミサトだった時の半分も鍛えてあれば、無傷で済んだかもしれない。…いや、そもそも落ちたりしないか。
 
意識も戻った今、さほど長く入院する必要はないだろう。
 
だが、それでもと、リツコさんが子供たちを連れてきてくれたのだ。
 
「前のところがぜ~んぶドアになってて、ハンドルとかもそっちについてるんだ」
 
「…」
 
よほど面白かったらしい。シンジの身振りが大仰だ。
 
そういえばリツコさんは、ドイツ出向中に使っていたイセッタが気に入って、持って帰ってきたと言っていた。あの可愛らしいフォルムと独特な構造は、子供にとって見ればそれは面白いだろう。
 
 
「…」
 
レイは、というと。ぴたりと寄り添うようにベッドの上に座り込み、私の顔を見上げている。なんだか非難めいて見えるのは、私が負い目を感じているからだろうか。
 
 
開きっぱなしにしているドアの代わりに壁をノックして、リツコさんが病室の戸口から顔を出した。
 
「シンジ君、レイちゃん。今日は此処に泊まる?」
 
「いいの!? リツコお姉ちゃん」
 
ええ。と頷いたリツコさんが、ベッドサイドまで歩いてくる。手にしてるのは、職員食堂のメニューだろう。もうじき夕ご飯、という頃合なのだ。
 
基本的に、設備の整った野戦病院に過ぎないネルフの医療部には、足りないものがたくさんある。給食施設はその一例だった。…あったとしても、まだ稼動してないだろうけれど。
 
「一応病院だから、大人しくするって、お約束出来るならね」
 
「うん!する。約束する!ありがとうリツコお姉ちゃん!!」
 
さっそく大騒ぎしているシンジを苦笑で見下ろして、リツコさんの嘆息が複雑そうだ。子供の前だからそんな素振りは見せないけれど、幾ばくかのわだかまりを抱えてるように見受けられる。医療部にはまだ勤務医が居なかったから主治医を引き受けてくれたらしいが、そうでなければ距離をおきたかったことだろう。
 
「…ありがとう」
 
「どういたしまして」
 
見上げるレイに笑顔で返して、リツコさんが手にしたメニューを広げた。
 
「あんまり大した物はないけれど、食べたい物があるかしら」
 
わざわざベッドを廻りこんでリツコさんの傍まで駆け寄って行ったシンジが、引っ付くようにしてメニューを覗き込む。レイは…、関心が無いように見えるが、シンジに任せておけば間違いないと思っているのだろう。
 
「ご飯が済んだら、お風呂に行きましょうね。出来たばっかりの此処のお風呂、広いのよ」
 
「ホント!?」
 
ええ、泳げるぐらいよ。と微笑むリツコさんの、その瞬間だけ笑顔に曇りがなかった。
 
 
****
 
  - AD2011 -
 
****
 
 
【 使徒対策室 】と書かれたプレートを貼り付け、扉から少し離れて眺める。
 
どうやら傾いてないようだ。出来栄えに満足して、一人頷く。
 
 
E計画部門責任者の座をリツコさんに譲り渡して私が立ち上げたのが、この使徒対策室だった。
 
裏死海文書を解析して、現れうる使徒の能力を推測、攻略法の検討を主業務とする部署だ。もちろん使徒戦を経験している私にとってそれらの能力など自明のことだから、実業務はないに等しい。
 
それに、補完計画の立案時に検証されているように、すでに来るべき使徒の数と大まかな属性は解析済みで名前まで与えられているのだ。
 
だから、この人事はネルフ内部で一定の権限を保持するための方便。口実だった。使徒を迎撃するための組織であるネルフで、使徒対策に関わらない業務というのはあまりない。どこの部署にも口出しできる。監査部のような位置付けと云えるだろう。
 
 
場所もケィジと発令所の中間ぐらいを確保し、本日の発足となったわけだ。
 
 
「恐れ入りますが…」
 
てっきり通り過ぎるものと思っていた人影が、おそるおそるといった感じに声をかけてきた。
 
高めの背丈と、正面で分けてサイドにたらした髪型。まだそれほど伸ばしてはないから違和感があるが、青葉さんだ。
 
そういえば、本年度の採用者リストに名前があったか。
 
「碇ユイ博士ですか?」
 
はい、そうですが。と応えると、青葉さんが居住まいを正した。
 
「本日付で司令部に配属になりました。青葉シゲル三尉であります」
 
「そうはどうもご丁寧にありがとうございます。それにしても、こんなところまで挨拶回りですか?」
 
「いえ、冬月副司令に、実質上の上司は碇博士だと伺いましたので」
 
なるほど。現状ではトップ二人の仕事は政治向きのものがほとんどで、司令部としての仕事は多くない。たとえあっても、トップダウンのこの組織では単なる使い走りになってしまう。
 
それに、ネルフそのものを統括する司令部と、ネルフの任務のほとんどに関わる使徒対策室はその業務分掌において重なる点が多い。
 
今ネルフの内政を勉強するなら、私の下に居た方が確かに良いだろう。
 
その分こちらに仕事を廻して楽をしよう。というのが副司令の本音かもしれないけれど。
 
「判りました。それでは初仕事を差し上げますから、発令所に向かいましょう」
 
「はい。お願いします」
 

 
 … …
 
コンパスが随分と違うのだろう。こちらの歩幅にペースを合わせるのが難しいらしく、青葉さんの歩き方がぎこちない。
 
顔に似合わず、女性の扱いは不得手かもしれない。などと加持さんと較べてみたりする。
 
 …
 
…比較対象が悪いか。
 
 
「それにしても、本当にここは迷路みたいですね」
 
「ええ。ネルフはテロの対象になりえますからね」
 
なるほどなぁ。と唸った青葉さんを尻目に、エレベーターのボタンを押す。
 
テロ対策は嘘ではないが、実際の仮想敵は戦略自衛隊である。前回のようにATフィールドが間に合うとは限らないからだ。
 
「青葉君。携帯端末は持っていて?」
 
エレベーターに乗り込み、歩みが止まった時点でそう切り出す。
 
はい。と頷くのを確認して、自分の携帯端末を取り出した。
 
「IDを貰えるかしら」
 
「はい」
 
青葉さんが自らの携帯端末を操作すると、受信したIDコードを元にMAGIから青葉さんの情報が送られてくる。いくつかの権限事項をチェックして返信した。
 
「ジオフロント内要人追跡システムの利用権限と、ナビゲーションのレベルを上げました」
 
「ありがとうございます」
 
本部棟の内部構造は、セキュリティ対策もかねて公開されていない。用心を重ねて初期設計とも異なるし、数年ごとに改装を行って内情を掴みにくいように努めている。かつてミサトさんが惑った迷路は、いまや迷宮といっていい。その本部棟の現状をきっちり把握しているのは、MAGIを除いてはトップから5人までと云ったところだ。
 
当然、各人に提供されている棟内ナビゲーションもその職責によって制限を受けている。三尉である青葉さんは最低限のレベルで設定されていたのだが、それでは司令部は勤まらないだろう。
 
 
エレベーターを降りて、廊下に沿って2回道を折れると発令所だ。テロ対策の一環で、まっすぐに歩ける廊下など本部棟にはない。 
 
IDカードを取り出すことなく、発令所の扉をくぐる。
 
MAGIが完成したことで、ナオコさんはMAGIフロアと研究室を往復することが多くなった。その都度受けねばならないセキュリティチェックを面倒くさがって、対人監視システムと連動させた自動認証システムを組み上げてしまったのだ。
 
技術者というものは、手間を減らすために労力を費やす人種だというのは、リツコさんを見ていて知っていたけれど…認識が甘かったらしい。作った本人はMAGIコピーのセットアップのために、間もなく日本を後にするというのに。
 
「一人で入るときは、きちんとセキュリティを通してくださいね」
 
当然ながら、対象者は限られるのだ。
 
 
トップ・ダイアスも収納され、本稼動もまだの発令所に人影はない。かすかに聞こえてくる話し声は、MAGIフロアか副発令所だろう。
 
見ていて恥ずかしくなるのは、コンソールの奥に設置された転落防止用の安全柵。私は過失で転落したことになっているので、対策として増設されたのだ。もうあんなことはありえないと何度も言ったのに、ゲンドウさんは取り合ってくれなかった。
 
 
「こちらが、あなたのコンソールになります」
 
指し示したコンソールは新品で、ビニールカバーがかけられたままになっている。
 
注がれた青葉さんの視線は熱く、新しい玩具を買い与えられた子供のようだ。
 
「あなたの初仕事はこのコンソールの立ち上げ、そして習熟です」
 
MAGIのサポートを受ければコンソールの立ち上げなど数分とかからない作業だが、それでは意味がない。
 
いざMAGIが使えないという時に、何もできなくなるからだ。
 
「操作マニュアルは書庫にあります。なにか質問はありますか?」
 
「コンソールの習熟ということは、つまり発令所の機能を掌握せよ。ということで宜しいでしょうか?」
 
「話が早くて助かるわ」
 
ゆくゆくは本部棟はおろか、ジオフロントや第3新東京市の機能まで把握してもらうことになるが。
 
 
****
 
 
「「「おばあちゃん、なんておおきなウデをしてるの?」」」
 
「それは、お前をより強く抱きしめられるようにさ」
 
台詞を言い終えた園児たちが舞台の袖に下がると、2番目の組が前に出てくる。
 
「「「おばあちゃん、なんておおきなアシをしてるの?」」」
 
「それは、お前の元により早く駆けつけられるようにさ」
 
保育所の生活発表会。
 
「「「おばあちゃん、なんておおきなミミをしてるの?」」」
 
「それは、お前の声がよりしっかり聞こえるようにさ」
 
レイのクラスの出し物は童話劇だった。
 
「「「おばあちゃん、なんておおきなメをしてるの?」」」
 
「それは、お前の姿がよりよく見えるようにさ」
 
赤い頭巾を被った女の子たちが全員、もたもたと舞台の前に整列する。
 
「「「「「「「「「「「「おばあちゃん、なんておおきなハをしてるの?」」」」」」」」」」」」
 
「それは、お前を食べるためさ!」
 

 
てんでばらばらに逃げ惑う赤頭巾ちゃんを12人、狼がたいらげるには時間がかかった。
 
ネルフの職員数は人工進化研究所の比ではない。運営母体の移管に伴って、園児も倍増しているのだ。
  
 
ただでさえ少子化の進んでいた日本を襲ったセカンドインパクトは、その加速度に拍車をかけた。
 
復興が進み始めた2004年から2009年にかけて幾分か回復したそうだが、減少傾向に歯止めはかからず、昨年度の合計特殊出生率はついに1を割り込んだのだとか。
 
複数の子供を産み育ててゆけるだけの経済的基盤を確立できない家庭が多いのだという。
 
必然的に一人っ子が多くなり、すべてを一人の子供に託した親は、こうした行事で吾が子が脇役になることを嫌うのだ。
 
前世紀からそういった傾向はあったらしいが、気持ちは解からないでもない。
 
 
舞台には15人のハンターが登場して、保育士の先生扮する狼を蜂の巣にしたところだった。銃身に【ますい】と書いてあるけれど、致死量を越えていると思う。
 
「…レイ、楽しそうだね」
 
「シンジも、解かる?」
 
うん、口のこのへんが。と自分の口の端を指して、
 
「2ミリも上がっているもの」
 
 
舞台の下手側奥に、ぽつねんと打ち抜きの木が立っている。
 
くり抜かれた穴から顔を出したレイは、両手を枝に見立てて微動だにしない。なかなかに誇らしげな枝ぶりだった。
 
 
お腹を裂かれた狼から、12人の赤頭巾が数珠つなぎになって出てくる。そろそろフィナーレだろう。
 
結局のところ、レイは舞台に出ずっぱりで、たくさん居るために印象の薄い赤頭巾たちよりよほど目立っていた。…というのは親の欲目だろうか。
 
「お父さんも、来れるとよかったのにね」
 
「…そうね」
 
まあ無理だろう。ネルフの総司令官にそんな時間はない。
 
それに、威厳を出すためにと生やし始めた髭を見て、園児がひきつけでも起こしたらコトだし。 …あらゆる意味で …
 
 
レイが嫌がるのでビデオ撮影はできないから、せめて写真に収めるべくデジタルカメラを構えた。
 
 
                                         つづく
2007.06.04 PUBLISHED
2007.06.08 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:38


膝枕に載せたレイの、頭髪の感触を愉しみながら、耳掃除をしてやる。
 
家族でないと判らない程度に微笑んでいるレイは、微動だにしない。痛い痛いと大騒ぎするシンジとは大違いだ。
 
 
こうして子供たちの耳掃除などしていて気付いたのは、エヴァのパイロットを長くやっていると飴耳になる。ということだった。
 
飴耳というのは、耳垢が湿っぽい人をさす。リツコさんなどは猫耳だと言う。猫は遍く飴耳なのだとか。
 
かつて私が碇シンジだった頃、第3新東京市に来てしばらくしてから飴耳になった。環境が変わって体質が変わったのだと思っていたが、この体も、初号機との接触実験が度重なる前はさらさらの耳垢だったのだ。
 
あまり頻繁にLCLに漬かっていると、外耳道が乾く暇がないのかもしれない。
 

 
向かいのソファで気ぜわしそうにしているゲンドウさんは、自分も耳掃除をして欲しいのだろう。
 
きちんと口に出して「して欲しい」と言わないと、してあげませんよ?
 
子供の、特にレイの教育に悪いですからね。
 
 
****
 
 
司令官室でゲンドウさんから渡された資料をめくりながら、執務室へ戻るべくエレベーターを呼び出した。
 
3枚目に、よく知った顔が印刷されている。…加持さんだ。
 
総勢20枚ほどの紙の束は、スパイとして抱き込む人物の候補だった。
 
MAGIが制御しているエレベーターは、効率よくゴンドラを配置して無駄がない。あっという間にドアが開いた。
 

 
 『 こんちまたご機嫌斜めだねぇ 』
 
そんな言い草を思い出したのは、それを聞いたのが、ちょうどこのエレベーターだったからだろう。
 
思えば自分は、加持さんが死なないように努力はしたが、なぜ彼が危険な道を選んだのか、その心の裡を慮ることはなかった。
 
相手が望んでいるかどうかも判らない目標に血道を上げて、その原因を顧みることなど思いもしなったのだ。
 
【葛城ミサト】という位置は、それを知るにこれ以上はないほど適していただろうに。
 
  なんてことはない。それでは自己満足に過ぎないではないか。
 
加持さんが死ぬのが嫌だから、自分のために努力していただけなのだ。
 
 
胸元で握りしめた左手が、むなしく空を掴む。ここしばらくは、この癖を思い出さずに済んでいたというのに。
 
あの、鈍い痛みが恋しかった。
 
 
 ……
 

 
体に過重が戻ってくるのを感じて、見上げる。
 
目的のフロアはもっと下だから、誰か乗ってくるのだろう。
 
あわてて目尻を拭うが、泣き腫らした目元までは誤魔化せそうにない。
 
扉が開くやいなや、顔を合わせないようにして飛び出した。
 
 
 …
 
 
駆け込んだ化粧室には、幸いなことに人影がなかった。
 
ずらり。と並んだ鏡を見ないようにして、ハンカチを濡らす。
 
 
…鏡を見るのが、怖かった。
 
そこに映る顔を見れば、自分はその人のことを考えずには居られなくなるから。
 
見殺しにしてしまったことに、向き合わねばならなくなるから。
 
  だから、鏡を見ない。
 
 魂が存在するかどうかはわからない。と自分を誤魔化して。
 
 その世界で犯した罪は、この世界には関係ない。と己を偽って。
 
 自分のせいではない。と信じてもない言葉で自らを弁護して。
 
  もう、何年も鏡を直視していなかった。 
 
 
逃げちゃダメだと解かってはいるが、何もかも背負えるほど自分はやはり毅くなれない。
 
 
濡らしたハンカチで目元を押さえ、泣くまいと、泣くまいと、 した。
 
 
 …
 
 
落ち着くのに、それほど時間は要しなかっただろう。…私は、薄情だから。
 
 
折畳み式の小さな手鏡を取り出して、目元を確認する。腫れも退いたようだ。
 
鏡を見なくてもできるような基礎化粧とスキンケアを除いて、私はほとんどノーメイクになった。口紅すら滅多に引かないのだから、葛城ミサトであったとき以上に化粧っけがないだろう。
 
メイクの必要があるときなどはこうして、玩具のように小さな手鏡を覗き込むのだ。顔を見ないで、すむように。
 
 
カツコツ。と近づいてくるヒールの音。
 
白衣のポケットに両手を突っ込みながら入ってきたのは、リツコさんだった。
 
「あら、…」
 
若干とまどい気味なのは、私の転落事故以来、ずっと。どう接していいのか判らないのだろう。無理もない。
 
「…ユイさん。おはようございます」
 
そういう心の裡を表にだすような人ではないのだが、ちょっと心の準備が整ってなかったのだと思う。
 
「おはようございます。リツコさん」
 
あら? と屈んだリツコさんが、書類を拾った。
 

 
ハンカチを取り出したときにでも落としていたらしい。
 
「…加持…君?」
 
一瞬、致命的な失敗をしでかしたのではないかと思って恐慌をきたしかけたが、よくよく考えればリツコさんに隠し立てる必要はなかった。加持さんがスパイであることを知る時期が、幾分か早まった。というだけのことだ。
 
無駄に跳ねた心臓を服の上から押さえていると、怪訝な表情でリツコさんが書類を差し出してくる。
 
「…あの、これは?」
 
「その件で、今お伺いしようと思っていたところです」
 
口から出任せも甚だしい。階数表示など碌に確認していなかったのだから。
 
 
***
 
 
「スパイ…ですか?」
 
ええ。と頷いて、コーヒーを一口すする。久しぶりに飲むが、リツコさんの淹れてくれたコーヒーはやはり美味しい。
 
話が話なので、リツコさんの執務室に場所を移したのだ。
 
「彼は内務省に就職活動をしていますね。そこでスカウトされて、就職浪人を装ってドイツへ留学。そこで改めてゲヒルンに就職しています」
 
…そう云えば。と思案顔したリツコさんが、…随分ナンパな理由だと思っていたけど…、単なる口実だったのね。と、納得顔に。
 
「ゼーレの思惑がどの時点からあったのかは不明ですが、彼は内務省からの命令内容をゼーレに報告するようになったそうです」
 
ぱたぱたと書類を振ってみせる。
 
「スパイをダブルスパイにするのは大変ですが、ダブルスパイをトリプルスパイにするのは難しくありません。
 これは、そのリストなんです」
 
引き込むのですか? との問いに、頷く。
 
「危険ではないですか?」
 
「もちろん危険です。ですから、ほとんどは使い捨てるか、撹乱情報を撒くのに使います」
 
でも…。と続けた言葉がかすれたので、コーヒーを一口。そのままカップで口元を隠した。
 
「トリプルスパイの顔をして見せたまま、完全に取り込める者なら、話は別です」
 
「…それが、加持君だと?」
 
「可能性がある。というだけの話ですけど」
 
ついに考え込んでしまったリツコさんを放置して、コーヒーを飲み干す。
 
いかにリツコさんとはいえ、そう簡単に答えは出せまい。ロジックではないのだから。
 
「何か良い手がないか、考えて置いてくださいね」
 
手にしたマグカップごと、リツコさんの執務室を後にする。給湯室のシンクで水に浸しておけばいいだろう。
 
 
****
 
 
交通量の多い大通りで、横断歩道のたもとに立つ。
 
建設ラッシュの続く第3新東京市。主だった道路は朝早くから、ダンプカーなどの工事車輌が走り回っていた。
 
「「「「 おはようございま~す 」」」」
 
「おはよう。気をつけて渡ってね」
 
黄色い旗を差し出して、横断歩道を渡っていく子供たちを見守る。
 
交通指導当番。いわゆる緑のおばさんだ。
 
「ちゃんと手を挙げて」
 
高学年の児童が、渋々手を挙げている。
 
 
第壱小学校の父兄で構成される各種委員会の中で、最も人数が多いのが交通安全委員会だった。
 
理由は簡単で、こうして月に1度ほど緑のおばさんをすれば義務を果たせるからだ。
 
時間があれば、もっと積極的に学校の運営に参画できる委員に立候補するのだけど。
 
 
「「「「「 おはようございま~す 」」」」」
 
「おはよう。気をつけて渡ってね」
 
集団登校のグループに、シンジの姿があった。そしらぬ顔をしている。
 
友達の前で、親子として会話するのが恥ずかしいのだろう。そういう年頃になりつつあったのか。
 
苦労してこちらを見ないよう努めている姿があまりにも不自然で、笑いを堪えるのが大変だ。
 
緩む頬を押さえつつ、横断歩道を渡っていく姿を見守る。
 
渡りきったシンジが、ちらりとこちらを振り向いた。
 
自分が取った態度に、思うところがあったのだろう。窺うようなその顔に、微笑んでやる。
 
いってらっしゃい。
 
 
                                         つづく



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX4
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:38



  - AD2011 -
 
 
湯船につかって身体を伸ばす。ぬくもりが身に沁みこんできて、風呂が命の洗濯だと実感する瞬間だ。
 
伸ばした両腕をそのままに、お湯の中で指先を曲げ伸ばし。あまり無理をせずに握力を鍛えるには、このエクササイズがいい。
 
お風呂で温まるついでにできるし、慣れると、水を掴んだような感覚が経験できて愉しい。
 
 
発令所から転落することになったあの事件で痛感した、体力のなさ。初号機を操縦する時には関係ないとはいえ、基本的な身体作りくらいやっておくべきだったと反省することしきりだった。
 
とはいえ、本格的なトレーニングに時間を割けるはずもないから、早朝のジョギングとこのエクササイズぐらいしかできることはないのだけれど。
 
荒事を専門とする分野での握力の最低ラインは、自分の体重の80%くらいとされているから、とりあえずそれが目標だ。
 
私の体重からすると、低いハードルのはずなのだけど…
 
 
「ユイか?」
 
ランドリースペースからガラス戸越しに確認してきたのは、ゲンドウさんだろう。遠慮がちに距離を置いているらしく、そのシルエットが判然としない。
 
「あら? 今日はお戻りになれなかったはずではないですか?」
 
「ああ、そのつもりだったのだがな。担当者が何人か倒れかねなかったので、スケジュールを延期することにしたのだ」
 
少しタイトに組みすぎたかもしれん。との呟きには、ずいぶんと反省の色がにじみ出てるように感じる。
 
「お疲れ様でした」
 
心からそう思ったから、続く言葉は素直に口をついた。
 
「よろしかったらご一緒しませんか。お背中くらい、お流ししますわ」
 
「…」
 
絶句した気配。それは予想できた反応だけれど。
 
「ゲンドウさん?」
 
「ああ、いや。思ったよりも疲れているようだからもう休む。君はゆっくりしていてくれ」
 
まるで捨てゼリフを残すような勢いで言い切って、ゲンドウさんがランドリースペースから立ち去った。まさしく、逃げたと形容していい素早さで。
 
実は、私が来てからはおろか、その前でも、一緒に入浴したことがないのだ。
 
何を今さら。と私でも思うというのに、ゲンドウさんは首を縦に振ってくれない。なにかコンプレックスを抱えてるようにも見受けられないのに。
 
案外、幸せに導くための努力を最も振り分けてあげるべきは、ゲンドウさんなのかもしれない。
 
 
                                          終劇
2007.10.25 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 発令所転落後の体力強化ネタ第2弾およびカスパーの落書きが減ってる理由の伏線の予定だったが、ゲンドウとの夫婦生活に好感触が少なかったので割愛。それに合わせてエヴァシリーズとの決戦でコアを握り潰す時に、握力について言及していた部分を削除。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:39


汗で湿った衣類を洗濯機に放り込み、バスルームへ。
 
早朝にジョギングすることを習慣づけて、もう1年になる。
 
発令所から転落することになったあの事件で痛感した、体力のなさ。初号機を操縦する時は、その瞬発力や反射神経を使えるから問題ないが、持久力のなさはいかんともしがたかった。
 
最寄の公園まで往復して息切れしないようになってきたから、距離を伸ばそうかと思っている。
 
 …
 
葛城ミサトを装っていたときと違って頭髪が短いので、朝早くから汗を掻くことを厭わなくてすむのがありがたい。
 
 
シャンプーの泡を流していたら、ばくんと音がしてバスルームのドアが開いた。
 
「…わたしも」
 
挨拶もなしに入ってくるのは我が家に一人しか居ない。
 
「レイ。朝、顔を会わしたら?」
 

 
涅色の瞳で、じっと見上げてきて。
 
「…おはよう」
 
「はい。おはよう」
 
夜のお風呂はシンジと入ることが多いから、朝のシャワーの時間にこうして乱入してくることがあるのだ。
 
「レイもシャンプーする?」
 
おっと、いけない。子供の発言を先取りしてしまった。親が子供の意図を汲んで先回りすると、子供は自身の欲求を上手く表現できなくなるそうだ。爺ちゃんっ子婆ちゃんっ子は三文値打ちが下がる。というのはそう云うことだろう。…レイは、お兄ちゃんっ子だけど。
 
ふるふるとレイがかぶりを振っている。案の定、身振りだけで返されてしまった。
 
反省して、小首をかしげて待つ。
 

 
「…からだ、あらってほしい」
 
「はい、承りました。じゃあ、ここに座って」
 
子供用のお風呂イスを差し出して、スポンジを手にする。
 
「…うた、つけてくれる?」
 
「もちろん」
 
汗を流したいのは口実で、ふれあいを求めているのだろう。
 
「♪最初は首!ぐる~ぅっと、首!の~どは念入りに♪」
 
体が冷えないように流しっぱなしにしたシャワーの音を伴奏に、念入りに磨いてあげた。
 
 
****
 
  - AD2012 -
 
****
 
 
「失礼します」
 
本部棟内の電力供給ラインに対する改善案を組んでいたら、ドアが開いた。
 
「あら、リツコさん。いらっしゃい」
 
自動認証システムの応用で、特定の人物に対してはドアが自動で開くようにして貰っている。なので、リツコさんがインターフォンを鳴らすことはない。
 
「プラグスーツの素材の、サンプルをお持ちしました」
 
リツコさんは、何かと報告しにこの執務室を訪れる。多分、水出しコーヒーが目当てではないだろうか。
 
「お疲れ様です。一服されていかれませんか?」
 
「お言葉に甘えます」
 
執務机の上に灰皿を出しておいて、コーヒーの仕度をする。
 
健康志向の昨今、本部棟内で気兼ねなく喫煙できるスペースはあまりない。初めて灰皿を差し出してあげたとき、リツコさんは随分と驚いていたっけ。
 
冷蔵庫からボトルを出したところで、ライターが灯される音。
 
長い吐息は、おそらく紫煙を伴って。
 
「以前から気になっていたんですけど…」
 
珍しく、リツコさんの歯切れが悪い。
 
「なんでしょう?」
 
「…なぜ、バーミキュライトが?」
 
執務室の片隅に、重袋がいくつか立てかけてある。一番手前のそれに、そう書いてあるのだ。
 
「ああ。それ、カイロの材料です」
 
「懐炉…、ですか?」
 
 
常夏の日本で困るのが、暖房器具が手に入りにくいことだった。特に、カイロの類は全くと言って良いほど出回ってない。
 
 
「私、症状が重いんですよ」
 
葛城ミサトであった時代とは逆に、この体は28日周期で安定している反面、何かと辛かった。
 
薬にはあまり頼りたくないので、腰と下腹部を暖めるのに意外と切実な問題だったのだ。
 
 
…なるほど。と、納得したらしい声音。
 
いや、そもそも、暖めると楽になると教えてくれたのはリツコさんなんだけれど。
 
コーヒーの仕度で背を向けてなければ、思わず緩ませてしまった口元を見咎められたことだろう。
 
「それにしても、この量は?」
 
「第3新東京市の建設資材から廻してもらいましたから」
 
もとより、使い捨てカイロを手作りすることを思いついたのは、第3新東京市の建設資材に還元鉄粉があることに気付いたからだ。
 
粉末冶金やガス切断などに使われる還元鉄粉は、取引単位が大きすぎて一般人が購入するのは難しい。
 
一方バーミキュライトは、土壌改良用に園芸用品として売っているので入手は容易だが、流通経路の関係で建設資材用のほうが安かった。
 
そこでそれぞれ、小分けにして融通してもらったのだ。
 
あとは、水と塩、高分子吸収体と活性炭があれば使い捨てカイロを作ることができる。
 
因みに、高分子吸収体はサニタリーナプキンから抜いているが、作り始めた当初はちょうど余っていた紙オムツから採っていた。
 
 
冷蔵庫にボトルを仕舞って、両手にグラスを持つ。
 
「てっきり、ジオフロントで農園でも始めるのかと」
 
加持さんじゃあるまいし。でも…、
 
「それも良いかもしれませんね」
 
先回りしてスイカ畑を作っておいたら、加持さんはどんな顔をするだろう?
 
くすくすと漏らした笑いを勘違いしたのか、リツコさんが大きくタバコを吸った。自分の発想が少し、恥ずかしかったのだろう。
 
誤解は…、解くまでもないか。こういう他愛もない会話が、あってもいい。
 
 
「どうぞ」
 
ゆっくりと紫煙を吐き出したのを見て取って、グラスを置いた。
 
「いただきます」
 
 
机の上に置かれたバインダーを手にする。
 
表紙をめくると、【#1】との見出しとともに素材の構成比や特徴をまとめたプリントアウト。
 
LCLの透過性を追求したタイプらしい。
 
詳細な試験データを3枚ほどめくって、添付されたサンプルが現れる。
 
厚紙の枠に挟まれた光沢のある生地は、以前着ていたプラグスーツの肌触りにそっくりだ。
 
【#2】は反対に、保温力や伸縮率など快適性を高めた組成になっているようで、着心地もよさそう。
 
【#3】はパイロットスーツとしてのアプローチを試みて、積層構造らしい。耐衝撃性や耐G機構の組み込みなどを考慮しているようで、かなり厚みがある。国際防刃規格の切創性能試験でHigh値を示したとあるが、いったいどんな事態を想定しているやら。
 
「2番が良さそうですね」
 
LCLに濡れたプラグスーツ姿が寒かったことを思い出しての選択だ。代謝の活発な14歳の男の子ならともかく、三十路も半ばを越えたこの体はあまり冷やしたくない。
 
「LCLの透過率が、20%以上落ちますけど?」
 
「直接制御では、さほど問題にはならないでしょう」
 
間接制御ならそれで5%はシンクロ効率が下がるだろうが、直接制御にはそもそもシンクロ率という概念がないのだ。
 
そうですが…。とリツコさんは不満そうにコーヒーをすすった。科学者としては、最善の選択をしたいのだろう。
 
冷え性なんです。と言い訳するが、リツコさんの反応は薄い。
 
濡れた水着に白衣を羽織っただけで空調の効いた本部棟内を歩き回るリツコさんに、冷え性の苦労は解かって貰えないか。
 
リツコさんの拘りようから見て、1番の素材に心血を注いだのだろう。その努力を無駄にしたくないのは山々なのだが。
 
なにか、いいアイデアはないだろうか…
 

 
さまよわせた視線の先に、リツコさんが手にする煙草。その円柱形に思うところがあって、ポケットからハンカチを取り出した。
 
見るのは、製品表示のタグ。
 

 
「1番の素材を中空糸に加工できますか?」
 
中空糸とは、その名のとおり芯の部分に穴が開いたマカロニのような繊維のことだ。
 
「…可能だと、思います」
 
その揮発性の高さを利用してハンカチなどに使われているが、逆の利用法も可能ではないだろうか。
 
「中空糸の空洞部に気体を封入すれば、LCLの透過率を維持したままで保温性の向上が見込めないでしょうか?」
 
生地内の気泡の保温力で体温の低下を防ぐ、要はウエットスーツと同じ原理である。
 
「…伸縮性に難が出るかもしれませんが…やってみる価値はありますね」
 
よかった。その気になってくれたようだ。
 
「お願いします」
 
中空糸の形成割合が秘訣ですね。などと真剣に検討し始めたリツコさんの手の中で、煙草が焼け落ちていった。
 
 
****
 
 
リビングのソファに、珍しくレイが一人で座っている。
 
クッションを抱きしめ、眉根を寄せて。ずいぶんとご機嫌斜めに見えることだろう。
 
シンジが京都に修学旅行に行ってから2日間。ずっとこの調子なのだ。
 
日程は3泊4日で、レイが生まれて以来、2人がこれほど離れたことはなかった。
 
 
その目の前まで歩いていって、屈みこむ。
 
「デザート、食べないの?」
 
ダイニングのテーブルの上で、ミルクプリンが待ちぼうけを喰っている。
 
…ふるふると、レイがかぶりを振った。
 
「じゃあ絵本、読む?」
 
デザートが終わった後で、絵本を読むのだ。いつもは、シンジが読み聞かせてやっていた。
 
テレビ横のラックには、お気に入りの絵本が幾冊か。
 
そちらに視線をやったレイの、目尻が潤み始めた。
 
ようやく感情を表に出すことができたらしい。誰に似たのか、不器用なことだ。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:39


「反対する理由はない。やりなさい」
 
「ホント!?」
 
ああ。と、ゲンドウさんはダイニングのテーブルでいつものポーズ。息子相手に、好意を向けられているのに、身構えてしまう。この人の弱さが、悲しい。
 
「やるなら徹底的にやれ。中途半端はいかん」
 
「お父さん、ありがとう」
 
思わず身を乗り出したシンジが、ゲンドウさんの手を握りしめた。虚を突かれて照れたらしいゲンドウさんも、さすがに目を逸らすことはしなかったようだが。
 
「今夜はもう遅い。早く寝ろ」
 
「うん。ありがとう、お父さん」
 
喜びで眠気を吹き飛ばしたシンジが、それでも言いつけに従ってダイニングを後にする。名残惜しそうに振り返って、小さく手など振りながら廊下へと消えていった。なんだか、チェシャ猫みたいに笑顔だけ残していきそうな風情だ。
 
 
「ユイ…、君の差し金だな?」
 
「私はただ、そんな大切なことはお父さんに相談すべきだと申しただけですわ」
 
なんだか視線を感じるけれど、そらとぼけて見せた。冬月副司令ばりに横で立っていたのが、おあつらえ向きだ。
 
「居ても居なくても変わらぬような父親だ。立てることなどない」
 
そんな物言いに顔を向けた時には、ゲンドウさんはこちらを見ていなかった。
 
「…、拗ねないで下さいな」
 
「…」
 
絶句した気配。よほど心外だったらしい。さぐるように見上げてきた視線を微笑みで受け止めてあげると、…拗ねてなどない。などと嘯きながら目を逸らす。少し頬が赤く見えるのは見間違いではあるまい。
 
家庭を顧みれないでいることを、自分がそもそもそういう人間だと思い込むことで諦めようとしているのだ。欲しいのに、欲しくないと言う。それを拗ねてると言わないで、なにを拗ねてると呼べるだろうか。…本当に不器用な人だった。
 
「わざわざ立てたりしなくても、傍に居るだけで子供は勝手に背中を見てくれますわ」
 
そう。まずは傍に居ることが大切なのだ。不器用だろうが弱かろうが、傍に居れば理解もできる。理解できると感じられれば、赦せることだってある。
 
立ててない。と言えば嘘になるが、それは些細なことだった。
 
「そうか?」
 
「そうです」
 
ふむ…。と考え込んだゲンドウさんの肩を優しく叩いて、遅い夕食の仕度にキッチンへ足を運んだ。
 
 
 
セカンドインパクトで失われたもの、廃れたものは沢山あるが、七五三という風習はその最たるものだろう。神社仏閣の類が多く失われたことも原因だろうが、そんな余裕がなかったことのほうが大きいように思われる。被害の少なかった京都などでは、よく似た習俗である十三詣りが復活してきているらしいけれど。
 
シンジがそうした風習を知ったのは、学校の授業でのことらしい。第3新東京市の小学校には、そうしたインパクト前の習俗を学ぶカリキュラムがあるのだとか。
 
副読本の中に七五三の様子を見出したシンジが、レイの振袖姿を見たいと言い出したのが先週のことだった。自分自身は祝われてないというのに、レイの七五三を祝ってやりたいと言うのだ。レイ本人の意向は確かめもしないことといい、兄莫迦もここに極まれりだろう。
 
 
問題は、女の子は5歳には祝わないということだったが、そこには目を瞑ることにした。授業ではそこまで習わなかったらしいし、なによりシンジがとても乗り気なのだ。
 
髪置や紐落といった儀式の意味をないがしろにするべきではないとは思うが、こう云った事柄は気持ちが大切だと割り切ることにした。
 
おそらく千歳飴は手に入らないだろうけれど、それくらいは赦してくれるだろう。 
 
 
夜遅いこともあって、ゲンドウさんの夕食は軽いものが多い。今夜はリクエストもあって、お茶漬けだった。
 
シンジに、ゲンドウさんに相談するよう言ったのは、それが少しでも父子の会話の足しになれば。と思ったからである。
 
もともと忙しい人だったが、ネルフ発足以降、ゲンドウさんはまともに帰宅することすら覚束ない。最近では、第3新東京市に居ることすら稀だった。そういう意味では、シンジとゲンドウさんの会話量は、かつての自分と父さんのものとほとんど変わらないだろう。
 
ならば2人の間の心の距離も同じように離れているか? と云えば、それは違う。と答えることができる。ことにシンジの側は、比べ物にならないくらい父親を身近に感じているように見受けられた。
 
やはりそれは、傍に居るということが大きいのだと思う。
 
ゲンドウさんには、何よりもそのことをこそ実感して欲しかったのだ。
 
 
お茶の蒸らし具合を見計らってダイニングに戻ったら、ゲンドウさんが指を解いた。なにやら考えがまとまったらしい。
 
「ユイ…。子供用の紋付袴も手配しろ」
 
なるほど。女の子の5歳を祝おうというのだから、男の子の11歳を祝ったからといってどれほどのこともないだろう。毒を喰らわば皿までという発想が、この人らしさかも知れない。
 
「はい。心得ました」
 
 
****
 
 
「それでは確かにお預かりしました。っと」
 
様々なサンプル、資料を詰めたトランクを閉じて、加持さんが立ち上がる。相変わらずの無精ヒゲ、緩めたネクタイ姿。
 
なにか、このスタイルに主張でもあるのだろうか?
 
 
ゲンドウさんの主導により、単なるトリプルスパイとしての加持さんのスカウトは成功していた。こうして、ドイツに送る各種試料の受取人として加持さんが来日したのがその証拠だ。これまでの世界でもそうだっただろうから、そのことへの心配はなかったが。
 
問題は、完全にネルフ本部側に取り込むための方策が見出せなかったことにあった。
 
 
「それでは失礼します」
 
リっちゃん、またな。と、にやけ面でウインク。こういうところ、変わらないなぁ…
 
 …
 
ドアが閉まるのを見届けて、リツコさんと顔を見合わせて嘆息する。
 
「置き土産、大丈夫かしら?」
 
声をひそめながら指さすのは、先ほどまで加持さんが座っていた椅子。
 
「ここはノイズ対策に電磁波遮蔽してますから、盗聴器程度なら」
 
歩みよって、座面の裏を検める。オセロゲームの駒のような代物が貼り付けられていた。敢えて外すような真似はせず、目顔でリツコさんに。
 
頷いたのを確認して、そのままその椅子に腰をおろしてしまう。
 
「結局、何もできませんでしたね…」
 
「ええ…」
 
 
スカウトしに行ったゲンドウさんの見立てでは、加持さんの動機は好奇心らしい。ゼーレとネルフが一枚岩でないことを匂わしただけで跳びついてきたそうだから、正しい評価なのだろう。
 
スパイは、盲目的な愛国者がなる。ダブルスパイは、知りたがりがなる。と云うのがゲンドウさんの持論らしいが、「その典型だな」と斬って捨てられてしまった。
 
それが、金目当てとかの理由だったなら、どんなに嬉しかったことか。…その方がはるかに御しやすかっただろうから。
 
 
ノートパソコンを開いたリツコさんが、この部屋の監視カメラの映像を呼び出している。
 
「あきらかに…」
 
見せてくれたのは幾つかのサーモグラフィーの画像だ。
 
「会話の端々に混ぜた単語の幾つかに反応して、体温が上昇しています」
 
特に…。とリツコさんが操作を加えると、ウィンドウ内の画像が動き出した。
 
… …  ……
 
『セカンドインパクトの再来を防ぐには必要なことってわけだ』
 
『そうね』
 
 …あんな真似しなくても、人類は…
 
 … …  ……
 
「ここの、ユイさんの呟きに顕著に反応しています」
 
「…そのくせ、問い質したりはしなかった」
 
ええ。とリツコさん。普通の画像を表示させて、
 
「視線すら寄越してないんだから、たいしたものだわ」
 
などと妙に感心している。
 
「好奇心が動機なのは間違いないでしょう。できれば、その源泉を知りたいところですが…」
 
「彼はミサトと交際していました。セカンドインパクトに遺恨のある彼女のためかも…」
 
その可能性は考えてみた。しかし、かつての加持さんの去就に疑問が残る。おそらく自身の知っていたであろう真実を彼女に伝えておいて、なぜ見届けもせずに姿を消したのだろう。彼女のためと言うのなら、出来ることはもっと沢山あったはずだ。彼ほどの能力なら。
 
それに、自分が葛城ミサトであったときの説明も付けづらい。
 
で、あれば… 葛城調査隊の生き残りと出会ったことは単なるきっかけに過ぎず、そうなるべき理由をその裡に秘めていたのだろう。
 
そして、きっと己の退場すら利用して見せたに違いない。今となってはそれが何かは判らないが、…そういう人だと、思うから。
 
「…ミサトから、説得させます?」
 
かぶりを振った。
 
【葛城ミサト】が交渉材料になりえることは判っているが、そのためには彼女の安全の確保が前提だ。それに、そもそも…
 
「葛城さんは、冷静に説得できるタイプ?」
 
今度は、リツコさんがかぶりを振る。
 
「加持さんにしろ葛城さんにしろ、ドイツの手の内に居るうちは不用意に情報を与えるべきではないでしょう」
 
加持さんには情報を漏洩される恐れがあるから。ミサトさんは無謀な行動を起こして身の危険を招きかねないからだ。
 
「今は、単なるトリプルスパイとして働いてもらった方が安全。…ということですか」
 
頷いた。不本意だが致し方ない。
 
「こちらにも、探るべき秘密が相応にあることを嗅ぎ取ったことでしょう。
 それへの好奇心が、彼を繋ぎとめてくれることを期待するしかありません」
 
 
…少なくとも前回。自分はできるだけのことをやったつもりでいた。
 
だが、その多くが対症療法に過ぎなかったことに気付く。原因を取り除くことは不可能だからと、それ自体の追求は疎かにしていたのだ。
 
あの世界で知り得たであろう情報があれば、この世界で予防医療だって施せたであろう。例えば、人類補完計画の提唱者が誰であるか知っていれば、おのずと自分の覚悟も違っていただろうに。
 
 
葛城ミサトであった時代には、自ら戦っていた時の怠惰さを嘆き。今また、そのときの迂闊さを呪い。
 
 自分は、ぜんぜん成長していなかった。
 
 
                                         つづく



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX5
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:39



  - AD2012 -
 
 
あっ!
 
「っつぅ…」
 
あわてて布地から指先を離す。白い布だから、血でも付いたら台無しだ。
 
口にくわえた指を吸うと、ほのかに鉄サビめいた味がする。たいしたケガではないけれど、布を汚したくないからバンソーコーを貼っておこう。
 
 
来週、シンジの小学校で学習発表会がある。
 
シンジのクラスはソプラノリコーダーの発表をするそうで、そのリコーダーを仕舞う肩掛けのケースが要るのだそうだ。
 
白い布で。と指定されたそれを作るべく、裁縫道具を取り出したまではよかったのだけれど…
 
家事の類は大体こなせるのだが、どうにも上達しないのがお裁縫だった。出来ないわけではないが、時間がかかるしケガもする。もともと素質がないところへ持ってきて、ミサトさんも母さんも苦手だったらしくほとんど経験がない。
 
セカンドインパクト前は、雑巾すら市販品が出回っていたのだから仕方がないが。
 
 
「なにをしている」
 
戸棚から救急箱を降ろしていたら、ダイニングの戸口に人影がたった。
 
「あら、ゲンドウさん。呼び鈴くらい鳴らしてくださいな。お出迎えくらい、させてください」
 
「不要だ」
 
それより。と目顔で指し示すのは、私がかかえた救急箱。
 
「お裁縫をしていたんですけど、…指を縫ってしまいまして」
 
私の視線を追ってテーブルを見やったゲンドウさんが、なにやら納得顔に。
 
「君は、…意外なところで不器用だったな」
 
救急箱から取り出したバンソーコーを横取りしたゲンドウさんが、しみじみと口にした。きっと、新婚当時のことでも思い出しているのだろう。
 
「…どこだ」
 
バンソーコーの剥離紙をめくって待ち構えてるゲンドウさんなんて、ここに来るまで想像もできなかった。
 
「すみません」
 
差し出した左手の中指に、実に手際よくバンソーコーを巻いてくれる。
 
「ありがとうございます」
 
気にするな。と、視線を逸らしたゲンドウさんが、剥離紙を握りつぶしてゴミ箱に投げた。
 
「夕食を摂り損ねた。茶漬けかなにかでいい。用意してくれるか」
 
「はい」
 
救急箱を戸棚に戻し、キッチンへ入ってエプロンをかける。お茶漬けも悪くないが、いいワサビをいただいたので、うずめ飯なんかどうだろう。
 
作り置きの出し汁を小鍋にとって火にかける。そこへ夕ご飯の残り物のしいたけの含め煮、人参、木綿豆腐、カマボコをサイの目に切って投入。
 
とっておきのハバノリ。今の日本ではもう手に入らないそれを、軽く炙ってから荒く揉みほぐした。
 
ワサビをおろして、小鉢をかぶせて寝かせておく。これで下準備は完了だ。
 
 
今のうちにテーブルを拭いておこう。
 
台拭きを手にダイニングへ戻ろうとして、足を止めた。
 
器用に玉止めをしたゲンドウさんが、糸の残りを糸切り歯にかけたところだったのだ。
 
一人暮らしが長かったゲンドウさんがそこそこ家事をこなせることは、母さんも聞いたことがあったらしい。それがどれほどのものか、目にすることはなかったようだが。
 
こうしてその手際を見る限り、針仕事に限っては確実に私以上だろう。
 
…いや、針仕事が上手とかそういうこと以前に、誰かのためにそれを行なってくれていることが、嬉しい。
 
そっと踵を返して、煮立つ寸前の小鍋の火を止めた。
 
今夜は少し、お酒に付き合ってあげてもいいかもしれない。…そんな気持ちだった。
 
 
                                         終劇
2007.10.29 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 キャラ作りの基本は弱点作りと云う事で、お裁縫が苦手と云うことにしてみたが、ミサトはともかく、シンジにユイまで3人も不得手というのは不自然なので不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:40


「ぅわああああああっ!」
 
素っ頓狂な悲鳴はシンジだろう。
 
「お母さんお母さんお母さんお母さん」
 
何事だろうかと出向くまでもなく、キッチンに駆け込んできた。自分で自分の手を握りしめるようにして、その中に何を奉っているのだろう。
 
「大変大変大変大変大変大変大変大変大!」
 
京都で買ったというタンクトップの、【平常心】というプリントが空々しい。なにが気に入って外国人観光客向けの土産物を買ってきたのか、自分の時の理由はすでに記憶の彼方へ。
 
「レイが、レイの、レイからっ!」
 
何が起きたかは判らないが、それが大したことではないだろうと見当がついた。レイのことになると、シンジは冷静で居られないのだ。
 
エプロンで手を拭きながら跪く。
 
「落ち着いて、シンジ」
 
これが落ち着いていられるかとばかりに足を踏み鳴らすシンジが、恐る恐る手を開いて見せた。
 
「…レイの、歯がぁ」
 
シンジの手のひらの上に、小さな白い塊。門歯のようだが、歯根がない。そうか、レイももうそんな年頃なのか。
 
「落ち着きなさい、シンジ。乳歯、子供の歯よ」
 
えっ。と呆けるシンジの向こうに、とことことレイ。
 
「シンジも去年、最後の子供の歯が抜けたばっかりだったでしょ」
 
「そういえば…」
 
首をひねるシンジの隣りに並ぶように、レイが立ち止まった。こちらはいたって平然としている。
 
「レイ。お口、いーってして見せて」
 
「…」
 
無言で唇を引き開けるレイの、上の歯列に一箇所、空洞があった。若干の出血が見受けられるが、それは問題あるまい。
 
「あーってして見せて」
 
可愛らしい歯が、小さな口の中で整列している。離乳時期を遅めに、うっかり口移しなどしないように気をつけておいたレイは、シンジと違って虫歯とは無縁だった。
 
覗き込むと、歯ぐきの奥に白いものが見える。永久歯に押されて、自然に抜け落ちたのだろう。
 
「大丈夫、問題ないわ」
 
横手から割り込むように覗きにきたシンジが、手にした乳歯とレイの口元を見比べている。その肩を軽く叩き、
 
「上の歯が抜けたら、どうしたら良かったかしら?」
 
「…うめる」
 
ぎゅっ。と乳歯を握りしめ、シンジがレイの手をとった。
 
「レイ。この歯、公園にうめに行こう」
 
…こくん。と頷いたレイを半ば引きずるような勢いで、シンジがキッチンを後にする。
 
「いってきまーす!」
 
おやおや。口をゆすがせようと思っていたのだが、止める暇もない。
 
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 
はーい。との応えは、どうやら玄関あたりでなされたようだった。
 
 
****
 
  - AD2013 -
 
****
 
 
左手首のスイッチを押すと、負圧がかかって生地が密着する。プラグスーツを着るのは、実に久しぶりだ。
 
姿見の中の、自分の顔を見ないようにして眺める。
 
 
素材や制御方法の違いから、プラグスーツの形状は記憶にあるどれとも異なっていた。
 
特に目を惹くのは、胸部を覆うプロテクターのようなパーツだろう。肩部、腹部にも独立したユニットが装着されていて、いささか武骨な印象を与える。
 
直接制御である初号機は、機体そのものから得られるテレメトリーデータより、パイロットの状態をモニターしたほうが簡便である場合が多い。もちろん、双方を組み合わせれば精度も上がる。そのために各種センサーが大量に、スーツ内に分散配置されているのだ。
 
それに、インタフェースヘッドセットがない。間接制御と違って、神経パルスをピックアップする必要がないからだ。かつては、スーツを着ないことはあってもヘッドセットを着けないことはなかったから、なんとなく心許なかった。
 
白を基調に、モノトーンでまとめられたプラグスーツ。リツコさんにお任せにしていたら、ほぼ真っ白にされてしまったのだ。着てしまえば拒絶感は少ないが、やはり少々落ち着かない。やはり色彩に関してはトラウマがある。今度作るときは中間色で染めてもらおうと思う。蘇比色とか木賊色などとリクエストしたら、リツコさんは怒るだろうか?
 
 
まだ体温調節機能のスイッチを入れていないのに、肌寒さを感じない。
 
リツコさんは、中空糸の空洞部に耐熱緩衝溶液を改良した液体を封入することで、スーツの保温性と放熱性をバランスよく実現してしまった。液体を封入したことで体温調節機能の効率も上がり、そのぶん長保ちするらしい。さらには布地の表面を特殊加工して、LCLを流れ落ちやすくしたのだとか。水の表面張力を壊すことで気化を促進するお風呂タイルがあるが、その逆バージョンといえるだろう。なんでも、ハスの葉の表面構造を再現した布地が商品化されたばかりで、渡りに船だったらしい。水滴が育ちやすく気化しにくいから、LCLに濡れても寒くないだろうとのお墨付きだ。
 
 
手足の関節を曲げてみて、着心地とフィッティング度合いを確認する。伸縮率に難が出る。とリツコさんは言っていたが、カッティングと素材の組合せできちんと解消してあった。
 
よし。と、己自身に頷いてケィジへ向かう。それがどんなデザインであれ、プラグスーツを身に纏うと気が引き締まる。
 
 
…………
 
 
一口に更衣室と呼んではいるが、パイロット専用のそれは、各種施設を組み合わせた巨大なクリーンルームだった。
 
エントリープラグに入ってLCLを呼吸することは、パイロットに多大な感染症のリスクを強いる。普通の生活をしていれば入ることなどありえないような病原菌類が、易々と肺にまで潜りこむからだ。
 
そうした危険性を少しでも減らすべく、エントリープラグに乗るまでに入念な手続きが用意されていた。
 
 
インターロックの2重扉とその間のエアシャワーをくぐって、まず入室するのが脱衣室。そこで衣服を全て脱ぎ、併設されたシャワーブースで身体を流す。緊急時にはまっさきに省略されるけれど。そのまま入り口の向い側の出口から、やはり2重扉を抜けエアシャワーを浴びつつ退出。
 
ほんの5メートルほどの通路は10cmほどの深さで消毒液に充たされ、歩いている途中にやはり消毒液のシャワーを浴びせられる。残り2メートルほどで消毒液を洗い流すための純水のシャワーに切り替わるが。
 
また2重扉を抜けエアシャワーを浴びながら着衣室に入ると、きぃん。と耳鳴り。病原菌などが入り込まないように、気圧を高めてあるのだ。かつて碇シンジであった時代には、耳抜きを教えてもらうまで悩まされた憶えがあった。
 
パスボックスの扉を開いて、ビニルパックされたプラグスーツを取り出す。2重のガラス戸越しに、向こうで作業している職員の姿が見えることもある。
 
プラグスーツを着て出口をくぐると、やはり5メートルほどの通路。ただし、ここで浴びせかけられるのは紫外線とLCLだ。
 
最後の扉を抜けて、ようやくエントリープラグへの搭乗口となる。
 
本来ならここには、天井クレーンに吊るされたインテリアが待ち構えているのだが、初号機のインテリアは急を要しないこともあって、まだ完成していない。
 
壁に設置されたパネルを操作して、床のハッチを開く。その下にエントリープラグがあるのだ。
 
 
 
プラグスーツと、挿入型エントリープラグを用いての初号機起動試験。
 
このところATフィールド展開実験ばかりだったから、初号機を動かしてやれるのは久しぶりだった。
 
 
****
 
 
リビングから、たどたどしい旋律が流れてくる。
 
5歳になったら何か習い事を、とレイに持ちかけて、ヴィオラを選んだのには驚いたものだったが。
 
よく解からないが、レイなりのこだわりが有ったらしい。ほとんど即答だったのだ。
 
 
おや、また途切れた。まあ始めて半年ほどでこれだけ弾けるのだから、大したものだと思う。
 
自習に付き合ってやっているシンジが、なにやらアドバイスしているらしい。そういえば、レイがヴィオラを習い始めて以来、シンジはチェロの練習がおろそかになっているような気がする。兄莫迦なのはよろしいが、それでは示しがつかないのではないだろうか?
 
 
さてさて、あまり根を詰めるのも良くないだろうから、そろそろ休憩にさせないと。
 
珍しいからと蕎麦粉をいただいたのは良いのだが、蕎麦など打てないから少し持て余していた。レシピを取寄せてガレットでも焼こうかと思っていたけれど、ここは蕎麦掻きにでもしてみようか。甘味をつければ立派なおやつになるし、なにより、けっこう楽しいから自分たちで捏ねさせたら喜ぶかもしれない。たしか、とっておきの阿波和三盆があったはずだ。
 
 
****
 
 
派手なお祝いは苦手だと知っていたから、ささやかにコーヒーゼリーなど作って持ってきた。
 
「え~っ!先輩、博士号をお取りになったんですかぁ」
 
居るだろうと思ったから、多めに作っておいて正解だ。
 
マヤさんは、第2東京大学を卒業して今年採用したばかり。サークルの後輩だそうで、在学中に面識はないはずなのにリツコさんを先輩と呼ぶのは、この世界でも同じらしい。
 
「ええ、通信制でね」
 
「仰っていただければ、盛大にお祝いさせていただいたのに~」
 
リツコさんに非難の眼差しを向けながら、身を捩っている。器用なことだ。
 
「よして頂戴、たいしたことじゃないわ」
 
「そんなことないですぅ」
 
そうですよね、ユイ博士。と、同意を求めてきた。
 
「ええ、とても真似できないわ」
 
本心からそう思う。ゲヒルンに入所し、エヴァの開発を手がけながら通信制で博士の学位を取得してしまうなど、とても余人の及ぶところではない。
 
「ユイ博士もこう仰ってるじゃないですか、今からでも遅くありません。ネルフを挙げて祝いましょう!」
 
…あっ、リツコさんがこめかみを押さえてる。
 
「伊吹さん。リツコさんはそうやって喧伝したくないのよ」
 
でもですね。と反駁しかけたマヤさんを、まあまあと身振りで黙らせ、
 
「そう云った奥ゆかしさもリツコさんの魅力だと、思わない?」
 
などと嘯いてみる。
 
「…そっ、そのとおりですぅ」
 
目を輝かせたマヤさんは、胸の前で指を組んでリツコさんに熱い視線を送り出した。頬まで紅潮させて、まるで恋する乙女だ。…いや、恋する乙女…なのか?
 
「…とにかく、ゲヒルン時代の採用条件に博士の学位が必須だったから、博士号なんてここじゃ珍しくないわ」
 
ちらり。とこちらを見たリツコさんに釣られて、マヤさんの視線もこちらに。
 
「碇司令はもちろん。副司令は京大の教授だったし、ユイさんも、母さんも…」
 
などと、指折り数えるものだから、あわてて遮った。
 
「私の学位、数に入れちゃダメです」
 
…何故ですか? とマヤさんが小首をかしげて。
 
「…私、論文博士なんですよ」
 
普通、博士の学位は大学院の博士課程を修了した上で得るものだが、国によっては論文の提出だけでも博士号を認める場合がある。それを区別するために論文博士などと呼ぶ。国内ならともかく、国際的には何の権威もないのだ。
 
大学卒業と同時に結婚し、子供を産み育てた母さんの選択を非難するわけではない。だが他のメンバー、特に働きながら通信制で修了してしまったリツコさんなどと同列に扱われるのは、どうにも気恥ずかしかった。
 
いや、そもそもその学位ですら、自分が取得したわけではないのだから。
 
「…ですから、親しい人は誰も私のことを博士とは呼びません」
 
嫌がるんですもの。と、リツコさんが肩をすくめて見せる。
 
「え…と、では何てお呼びしたらいいんでしょう?」
 
「ユイと呼んでくれると嬉しいわ」
 
「はい。では私もマヤって呼んでください」
 
嬉しそうに姿勢を正して破顔するさまは、まるでぴょんと跳ねるウサギのようだ。
 
「じゃあ、お近づきのしるしに、今日の夕食は我が家で如何でしょう? もちろん、リツコさんもご招待するつもりですけど?」
 
指と指を軽くかみ合わせて合掌。にっこりと笑って提案する。
 
「先輩と一緒に♪ ぜひお伺いします」
 
全身これ喜びの塊りと化したようなマヤさんの隣で、リツコさんの表情はさえない。
 
私は…。と口篭もったのは、断る口実を探しているのだろう。ナオコさんとゲンドウさんの関係を知って以来、リツコさんが我が家に足を踏み入れることはなくなっていた。
 
「シンジも会いたがっているわ。大好きなリツコお姉ちゃんに」
 
「…大きく、なったんでしょうね」
 
なんだか、遠い目をしている。あの2週間ほどの逗留は、リツコさんにとってもいい思い出のようだ。
 
「来年には中学生になるのよ」
 
本当に、子供が大きくなるのは早い。リツコさんが入所したときには小学校に上がったばかりだったというのに。
 
「あんまり不義理していると、嫌われますね…」
 
なんだか諦めたような風情で、リツコさんが溜息をついた。
 
「お言葉に甘えて今晩、お伺いします」
 
よかった。
 
この3年あまり、我が家への招待は断られ続けだったからダメモトだったのだけど、マヤさんと一緒ということが精神的な負担を軽くしたのかもしれない。
 
これが、良いきっかけになると嬉しいのだが。
 
 
今晩はとっておきの焼酎を出そう。貰い物の【山ねこ】があったはずだ。
 
 
                                         つづく


 



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX6
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:40



  - AD2013 -
 
 
「…め?」 
 
「残念。ぬ、だよ」
 
保育所からの帰り道。
後部座席に納まった子供たちがしているのは、対向車のナンバープレートでの、ひらがなの勉強だった。
 
昨日は同じようにして足し算の勉強をしていたし、明日は引き算の勉強だろう。
 
そのうち、同じようにして漢字の勉強…は、ないか。公用車を除けばみんな湘南ナンバーだから、勉強には使えまい。
 
 
第3新東京市は治外法権ではあるが、だからと云ってなにもかもネルフ、国連直轄で賄うのは無理がある。そこで、旧来の行政をそのまま受け入れていることが多い。自動車登録番号標はその代表例で、第3新東京市は湘南自動車検査登録事務所の所轄となる。
 
 
赤信号で停車すると、目の前の横断歩道を歩行者が横切りだす。なんとはなしに眺めていたその流れの中に、見知った顔を見つけて思わず我が目を疑った。
 
「…ナオコさん?」
 
そんなバカな。ナオコさんはMAGIコピーのセットアップで、今はソ連のはずだ。予定ではあと3ヶ月は帰れないはずで、こんなところに居るはずがない。
 
「ナオコさん!?」
 
ウインドウを開けて呼びかけると、はたしてその人物が立ち止まった。間違いない、ナオコさんだ。
 
こちらに気付いたナオコさんは、バレちゃった。とでも言いたげに舌を見せると、人差し指を唇に当ててウインク。じゃあね。と、ばかりにひらひらと左手の指先だけ閃かせたナオコさんは、笑顔のままに横断歩道を渡りきってしまう。ほどなく雑踏の中へ消えてしまった。
 
「お母さん、知ってる人?」
 
「…ええ、リツコお姉ちゃんのお母さんよ」
 
えー!とシンジが驚いているが、信号が青に変わらなければ一緒になって叫んでいたことだろう。
 
 
 
翌日。なんだか疲れた様子のリツコさんに話しを聞くと、帰宅したら夕食の支度を整えてナオコさんが待ち構えていたらしい。そのまま土産話を延々と聞かされたのだとか。
 
では、何故ナオコさんが3ヶ月も予定を繰り上げて帰ってきたかというと、カラクリがあった。
 
5台目のMAGIコピーセットアップということで、ナオコさんはその作業を全てMAGIに任せたのだそうだ。松代のMAGIコピーを監督役に、各地のMAGIコピーを総動員してセットアップ作業をさせたらしい。
 
MAGIコピーが4台稼動してようやくできた最速の布陣だと、ナオコさんは言う。それに、これからはわざわざ現地に行かなくて済むわね。と笑っていた。
 
せっかく予定が空いたのだから、しばらく羽を伸ばそうかしら。とはナオコさんの弁だけど、あのタイプの人が、大人しく体を休められるはずがない。3日もしないうちに白衣の袖に手を通していることだろう。
 
 
                                         終劇
2007.11.1 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 タイミング的に、イジメ篇直前のエピソード。雰囲気が軽すぎてなんだかそぐわないので不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:40


「…それでは本日の講義はこれで終わります」
 
「ありがとうございました」
 
教壇代わりの演台に立つ日向さんに向かって、深々と一礼する。臨時の教室にしているのは、内装が整ったばかりのブリーフィングルーム。
 
日向さんは青葉さんと同期だが、本配属されたのは今年からだった。作戦部での採用なので、入所と同時に国連軍に出向していたのだ。現在、発令所に居る人員の中では唯一の従軍経験者ということで、将来のエヴァパイロットたる私の教官に就任してもらった。
 
「それにしても、ユイ室長は憶えが早いですね」
 
それはそうだろう。葛城ミサトでもあった私にとっては、どれも常識も同然なのだ。
 
だが、その知識をひけらかすわけにはいかない。碇ユイに従軍経験はないのだから。そのためにこうして、軍事知識を習ったという既成事実が必要だった。
 
「先生が良いからですわ」
 
「そんなことはありません。砂地が水を吸うように、というのはユイ室長のような方を云われるのでしょう」
 
日向さんは謙遜するが、たった2年の従軍経験を元に、教本や戦訓を体系だててまとめ上げるのは容易ではない。
 
なにより教える才能というものが存在することを、私は初めて実感したのだ。もし私に軍事知識がなくても、日向さんの指導だけで充分にそれを理解できただろう。
 
「おだてても、今日のおやつの割り当ては増えませんよ?」
 
休みの日には子供たちにおやつを手作りするから、その翌日はそのお裾分けなどをしたりする。
 
いや、そんなつもりは…。などと慌てる日向さんが、ちょっと可愛い。
 
それにしても、この才能を使わない手はないだろう。来年度からの入所者教育は日向さんに任せてみようか?
 
…シンジの家庭教師とか、引き受けてくれないかな?
 
 
****
 
 
「つまり、そんな事実はないと?」
 
「はい」
 
ダメだ。この男は教師ではなくサラリーマンだ。己が生活を維持するために学校を職場に選んだだけで、人を育む立場にあるということを理解していない。事なかれ主義だから、何の調査もなくその場で断言などできるのだろう。
 

 
担任が宛てにならないとすると、もっと抜本的な対策が必要になる。このまま学校に長居していても時間の無駄だった。
 
 
…………
 
 
その兆候に気付いたのは、つい最近のことだ。
 
 
自分の部屋も勉強机もあるのに、シンジはダイニングのテーブルで宿題をする。幼い頃に、リビングで寝かしつけながら私がダイニングで仕事をしていたことの影響だろうか。
 
日曜など、母子そろってダイニングテーブルで作業していることも少なくなかった。
 
場合によっては、シンジに促されたレイも一緒にテーブルに着いて、お絵かきしたり絵本を読むこともある。迷惑そうな、それでいて嬉しそうな、複雑な表情のレイが可愛らしい。
 
 
ふと気付いたのは、シンジのペンケースが新しくなっていることだ。
 
それだけなら別に気にすることではない。前に使っていたキャラクター物のドアが幾つもあるような筆入れは6年生のシンジには似合わなくなりつつあるし、2年以上使っていて流石にくたびれてきていた。
 
問題は、先々週ぐらいにシンプルなデザインの缶ペンケースを買ったばかりだったことだ。どうやらレイに選んでもらったらしく、ずいぶん大事にしていたように見受けられた。
 
ところが、いま使っている布製のペンケースは垢抜けないイラストがプリントされた野暮ったい安物で、おざなりに選んだとしか思えない。
 
 
物をないがしろにするような子供ではなかっただけに、違和感を覚えたのだ。
 
 
「シンジ、筆入れ代えたの?」
 
「あっ…うん」
 
口篭もり、視線をそらした先にレイが居て、さらに逸らして。
 
「…落として、壊しちゃって」
 
僕ってドジだから…。と白々しく笑ったシンジが痛々しかった。
 
 
…………
 
 
気付いたきっかけと、学校でのいきさつをかいつまんで話す。
 
ふーむ。と唸ったナオコさんが、脚を組んで思案顔。
 
身近な人間で、こういうことを相談できそうな人を他に思いつかなかったのだ。日本に帰ってきたばかりでお疲れだろうから心苦しいのだけど、母親業の先輩としてナオコさんなら力になってくれると思う。
 
「本人には確認してないのよね?」
 
「はい。話してくれないのは、話したくないか、話せないか、…いずれにせよ、親が先回りして問い質しては、本人の意思を踏みにじりかねませんから」
 
なんでもかんでも親に話すような、そんな年頃は卒業しつつある。話さないのは、シンジなりの思惑があるからだろう。
 
「案外、スパルタなのね。転んだら起き上がるのを待つタイプ?」
 
少し考えて、頷く。甘やかすばかりが愛ではない。
 
「…でも、やっぱり、何とかしてやりたいんです」
 
さもありなん。という風情で頷いたナオコさんが、ノートパソコンを手元に。
 
「まずは、事実関係を確認するべきね」
 
「どう、なさるのですか?」
 
かたかたとキーボードを鳴らして、ナオコさんがコマンドを打ち込み始めた。リツコさんと較べるとずいぶん遅いが、そのぶん一つひとつの動作に深みを感じさせる。
 
リツコさんが軽快なマリンバ奏者なら、ナオコさんは重厚なパイプオルガン奏者だろうか。
 
「今時、どこの学校も24時間警備で監視カメラが入っているわ。業者と繋ぐ回線のインフラは、もちろんMAGI監督下の第3新東京市の物」
 
つまり。と息をついて、ひときわ高い打鍵音。
 
「そこのホストから監視画像を戴いてくるのも、朝飯前」
 
「職権濫用では…?」
 
と言うか、犯罪行為だと思う。…それでも黙認しつつあるところが親の弱さと云うものか。
 
「第3新東京市の市政は、MAGIが執っているわ。教育委員会も然り。
 すなわち、イジメ問題もMAGIが懸案すべき事項なのよ」
 
それは事実だ。市議会は形骸…、いや、成立過程を考えるとむしろ偽装に近い。
 
「たまたまシンジ君の事例がきっかけになるというだけで、けっして私用じゃないわ」
 
ナオコさんの言い分は正しい。なのに、なんだか、舌先三寸で丸め込まれているような気分になるのは何故だろう?
 
それに。と、ナオコさんが脚を組み替えた。
 
「MAGIにとっても、いいケーススタディになるしね」
 
もしかして、それが本音ですか? ナオコさん。
 
さてさて。と、両の手のひらをこすり合わせたナオコさんが、舌なめずりしそうな笑顔でノートパソコンに向き直る。
 
「シンジ君を画像認識させて、ここ数ヶ月の監視画像を洗わせてみたわ」
 
こちらに向けてくれたディスプレイの、複数表示されたウィンドウの中に、物陰で複数の児童に囲まれたシンジの姿がいくつも。
 
 …
 
一瞬、血液が逆流したかと思った。
 
自分が当事者だとしても、こうまで憤りを覚えたかどうか。こんな気持ちで初号機に乗ったら、暴走させること請け合いだ。
 

 
落ち着け、落ち着け。感情的になっても何も解決しない。
 
「こっちは、シンジ君の席の定点観測から」
 
そんなわけはないから、監視画像から選り抜いた結果だろう。
 
シンジが居ない隙を狙って、特定の児童が何人か悪戯してるようだ。ペンケースの件も、こういうことなのか。 
 
そうした中に、幾人か見知った顔を見つけた。
 
…たしか、シンジの誕生日パーティに招いた友達の中に居たように思う。
 
そのときはそんな素振りは見受けられなかったから、この事態はそれ以後のことではないだろうか?
 
 
かつて、自分が小学生の時には、こんなあからさまなイジメを受けた憶えはない。社交性がなかったから友達もなく、クラスメイトから半ば無視されていたくらいで。
 
この差異は、なにゆえだろう?
 
確かに家庭環境は異なるが、それが元で悪化する理由がよく判らない。
 
ちょっと待ってね。と引き戻したノートパソコンに、ナオコさんがコマンドを追加する。
 
「あらあら、バルタザールだけのつもりだったのに、メルキオールとカスパーまで関心を示したわ」
 
口元を隠し、くつくつと笑うナオコさんは実に愉しそうだ。
 
「中心になっている子供らの口元を解析して、何を言ってるか解読してみたわ。まあ読唇術ね」
 
見せて貰ったディスプレイの中に表示されたテクストは、意外に少ない。そもそも、有意に採取できたサンプルそのものが多くないのか。
 
 …
 
発言を要約すると、シンジは嘘つきだと思われているようだ。
 
両親が世界を護るために働いていると、言ったか知られたかしたのだろう。一部の児童にホラ吹き扱いされていた。
 

 
なんのことはない。ここでも諸悪の根源は、私ではないか。
 
保育所に預ける時、泣き縋るシンジを宥めるためにかけた言葉。情に流されて不用意に教えた事実が今、シンジを苦しめている。
 
思わず胸元で握りしめた左手が、むなしく空を掴んだ。
 

 
「下のウィンドウ、出してみて」
 
言われて表示させた画像は、線画の模式図。ぱっと見た印象は、徳利?
 
「クラスの勢力図。上がイジメっ子、真ん中がシンジ君。下が無関心層」
 
そこに。と身を乗り出してきたナオコさんが、コマンドを叩く。
 
「親の職業を加味すると、構図が見えてくるわ」
 
赤をネルフ関係者、青をそれ以外に指定して色付けされた模式図は、ほぼきれいに上下に塗り分けられた。
 
上が青く、下が赤い。もちろん、いくつかの例外は見受けられるが。
 
なるほど。徳利のような図式になるわけだ。今の第3新東京市にネルフと利害関係のない者など、そうは居ない。
 
「…スケープゴート」
 
まさか意図的に人身御供に出したわけではないだろうが、結果的にネルフの子弟を庇う矢面に立たされているのだ。
 
「これだけの証拠があれば、なんとでもなるわ。
 …学校に、捻じ込んでみる?」
 
 …
 
考えて…、かぶりを振った。
 
「証拠を突きつけて、イジメっ子を叱って。
 それで一時は、なりを潜めるでしょう」
 
でも。と見上げる天井。
 
「先生や親を呼び込んだことを逆恨みされて、酷くなるかもしれません」
 
何を思いついたのか、ナオコさんがノートパソコンを引き戻してキーボードをたたき始めた。
 
「親ごと、叱ることもできるわよ?」
 
やはり、かぶりを振る。
 
「触らぬ神に祟りなし。で、今度は無視されるようになるでしょうね」
 
かたかたと打鍵音。タイミングとストロークから察するに、私の発言を書きとめているらしい。
 
「ネルフの存在を、公表してみる?」
 
考える、…までもないか。こんなことを理由にそんな真似は出来ないし、なにより…
 
「イジメっ子がイジメられる側になるだけで、根本的な解決ではありません」
 
すこし眉を寄せて、ナオコさんが脚を組み替えた。
 
「卒業まであと3ヶ月ほど…、このまま泣き寝入り?」
 
それも、かぶりを振る。
 
「親として、それだけはできません」
 
しかし…、
 
「何ができるかは、…判りませんが」
 
具体的な対策は何も思いつかなくて、俯く。
 
「不謹慎だとは思うけど、MAGIがこの件に興味を示しているの」
 
面を上げた私の前で、ナオコさんが頬杖をついていた。
 
「シンジ君の個別の問題としてではなくて、教育委員会の案件としてMAGIに対策を練らせてみるわ」
 
こちらを見つめる視線はとても優しくて、それだけで泣き出してしまいそうになる。
 
「貴女は、家庭内で出来るケアを考えなさい」
 
口を開くと、嗚咽しか出そうになかったので、ただただ、頭を下げた。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:40


リフトアップされたカスパーの躯体を覗き込む。のたうち這いまわるパイプ類は相変わらずボイラー室か何かのようで、これが世界屈指のスーパーコンピュータの内部とはとても思えない。
 
月に2回行われるMAGIの定期検診。86回目となる今回は第1四半期の最終検診でもあるから、MAGIによる自己診断だけでなく各部部品の目視検査も行うのだ。
 
実際の作業は技術部の人間とMAGIのオペレーターが行っているが、監督として見守る必要があった。同様にバルタザールにはナオコさんがついてるし、メルキオールにはリツコさんがついている。この監督役はローテーションを組んでいて、今回私はカスパー担当だった。
 
携帯端末に表示させた進行表を睨んで、チェック項目を埋めていく。
 
【のるな!へこむ】って書いてあるパイプが目に入って、思わず苦笑。ところ狭しと貼り付けられたメモ用紙が、裏コードびっしりなのも相変わらず。
 
そう云えば。と探した視界の中に、【碇のバカヤロー!】との書き殴りがなかった。あれが誰によって書かれたものかは知らないが、今回それほどには恨まれてないのかもしれない。
 
…それとも、これから書かれるのだろうか?
 
 
****
 
  - AD2014 -
 
****
 
 
結局のところ、本人から要請されなくてもできるイジメ対策など、ありはしないのだろう。有効なケアなど思いつかないまま年を越して、久しい。
 
親という存在がこうも無力だとは、自分が子供だったときには思いもしなかった。もっと絶対的な存在だとばかり感じていたものなのに。
 
 
MAGIからの報告では、冬休み明けでも状況は変わってないらしい。シンジが打ち明けてくれないのは、やはり親として私が頼りないからだろうか…。
 
 
リビングでは、TVゲームに興じるシンジの背中にもたれて、レイが絵本を開いていた。
 
「…ひと よりも おお きなね この おな かに ね ころが つて ほ んをよ むほど」
 
「寝転がって本を読むほど、だよ」
 
「…ねころがって ほんをよむほど ここ ち よ いこと は あ りま せん」
 
…ここちよい? と呟くレイに、気持ちいいってことだよ。とシンジが答えてやっている。
 
 
兄妹で仲良く過ごしている2人の姿を見ていられなくなって、ダイニングを出た。かといって行く宛てがあるわけもなく、ランドリースペースへ逃げ込んだ。
 
洗面台の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
 
タオルで拭いて、面を上げた。ここ数年、まともに見れなかった鏡の中の、己の姿。
 
…本物の母親なら、簡単に解決できるのだろうか?
 
恐れと期待で、虚像を見据える。
 
母さんに応えてもらいたい、という期待。
 
見殺しにした罪を詰られるかも、という恐れ。
 
 …
 
その罪を認めることは恐ろしいが、それがシンジのためになるのなら… 応えて、欲しい。
 
 

 
 ……
 
…?
 
見据えつづけた鏡の中の姿に、違和感を覚えた。…いや、ちがう。違和感を覚えなさすぎた。そこにあるのは、皺ひとつない、顔。最後にまともに鏡を見た時と、寸分変わらない…姿。
 
思わず手をやって確かめる。張りのある頬は瑞々しく、とても40歳目前の肌とは思えなかった。
 

 
この体…、歳をとってない?
 
気付いた事実に恐れをなして、鏡から離れる。すぐに戸棚にぶつかって、それ以上は下がれなかったが。
 
逃げ場などいくらでもあるのに、下手に逃げ出すと鏡の中身が残りそうで、恐い。視線を逸らすことすら許されないまま、否応なしに見せられる若いままの、母さんの姿。
 
 …
 
そう見えるだけだ。
 
   …そう見えるだけだ。
 
       …そう見えるだけだ。
 
 
己に言い聞かせようとする言葉が、虚しい。
 
葛城ミサトであったときには、きちんと年相応だった。目じりに寄り始めた小ジワなどを、それなりに気にしたものだ。
 
何故この身体は、年を重ねたように見えないのだろう。
 
 …
 
  もしかして…
 
この世界で目覚めた時のまま年齢を重ねてないその姿は、母さんの糾弾ではないのか?
 
 この体を奪い取ったことを忘れさせないための、呪いではないのか?
 
  この10年間。鏡の向こうから怨みごとを言い続けていたのではないか?
 

 
膝から力が抜けて、へたりこむ。
 
視界から母さんの顔が消えて、安堵のあまり涙腺が緩んだ。
 
ついた溜息が長い。息をすることすら出来ないでいたのか。
 
 …
 
「お母さん?」
 
居ないことに気付いたのだろう、探し回っているらしいシンジの声。
 
ダメだ。タオルを引っ掴んで目元を拭った。説明できない涙など、子供に見せてはならない。
 

 
「お母さん、どうしたの?」
 
「シンジ?」
 
いま気付いた。という風情を演じて、それらしい理由を嘯く。
 
「そこにゴキブリが居たの。お母さん、びっくりしちゃって」
 
えっどこ? と探す仕種。自然と私をかばう位置に来る。
 
「もう逃げたみたいだよ」
 
振り返ったシンジを、攫うように抱き寄せた。
 
「お母さん? 大丈夫、もうゴキブリいないよ」
 
じたばたと暴れるのは、驚きと気恥ずかしさからだろう。
 
ふと気配を感じて、横を見る。シンジの後を追って来たらしい、レイの姿。左腕を開くと、何も言わずにその中に納まってくれた。
 
 …
 
恐る恐る見上げる、鏡。この角度では天井しか映らない。
 
だが、いまさら何を臆することがあるだろう。自分はいつだって、償いきれぬ罪を背負っているではないか。
 
…母さん。
 
母さんが僕のことをどう思っているか知らないけれど、僕は、僕に出来る方法でこの子たちを護るよ。
 
どんなに詰られようと、立ち止まったりしない。なにを敵に廻そうと、ためらいはしない。
 
 
腕の中のぬくもりを確かめるように、力を篭める。
 
胸の裡に湧き上がる愛おしさが、すべての答えだった。
 
 
****
 
 
休日でも、ノートパソコンは立ち上げっぱなしにしている。
 
カレンダーに関わりなく働いている職員は数知れず、そうした職員が決裁待ちしていることも多い。大抵はゲンドウさんや冬月副司令が対応してくれるが、決裁を待つ書類はいつも山積みだった。
 
メールのやりとりや決裁など、ちょっとした合間にできる仕事も少なくないのだ。
 
 
ケーキの土台にするスポンジが焼きあがるまで、時間がある。パスワードを入れてサスペンドを解除した。
 
 
青葉さんからは、コンソールの改装を願い出る申請書。インターフォンを4つに増設したいらしい。そう云えば、耳には自信があると言っていたな。発令所の備品については私にも権限があるから、裁可する。
 
続いて初号機の正式な儀装の開始、インテリアの最終レイアウトなどの技術部E計画班、マヤさんからの報告。すでにリツコさんの裁可が入っている書類の、使徒対策室の欄に電子サイン。今年度中に初号機は、あの見慣れた姿になるだろう。
 
第3新東京市における迎撃システム構築の進捗度の報告は、日向さんから。驚いたことに、それを踏まえた各種テストの実施案まで提出されていた。日向さんらしい緻密で無駄のない提案だけど、それだけに迎撃システムだけでは勿体ない。司令部と連携をとって、第3新東京市とジオフロントの機能テストの一環として組み込むよう指示する。幸いゲンドウさんも副司令もまだ目を通してないようだから、青葉さんが閲覧できるよう手配するだけで良さそうだ。
 
 
最後に開いた稟議書を読んで、眉をしかめる。件名に、【 局地戦用D型装備、及び耐熱プラグスーツ開発の要 】と書いてあったからだ。起票者はもちろんリツコさん。
 
極限環境下に現れる使徒の可能性は示唆しておいたから、当然の備えとして提案したのだろう。それは解かるが、無駄な装備の製作は、やはり避けたかった。
 
許可のサインが並ぶ中、却下にチェックを入れて電子サイン。これだけ大掛かりで費用を要する案件だと、一人でも反対があれば即座にリジェクト扱いになる。なるべくひっそりと闇に葬りたかったので、敢えて理由は添えないでおいた。納得がいかなければ、リツコさんの方から訊きに来てくれるだろう。そのときに説得すればいい。
 
回議ラインに戻すべく、決裁ずみフォルダーに放り込んだ。
 
 
****
 
 
本日のおやつは、ゴボウのショコラケーキである。例によってレシピは推測の産物だが。
 
レイの頬についたチョコクリームを、シンジが拭ってやっている。ごく自然な動作に、お兄ちゃんっぷりの年季が見て取れるだろう。
 
もし、自分にレイのような妹がいたとして、こんなにかいがいしく面倒を見られるだろうか? と考えて、即座に否定する。
 
シンジは、あらゆる意味で、かつての自分とは違う。優しくて毅く、よく気が付く。
 
先ほども、ごく自然と私を気にかけて、実にさりげなく私をかばった。
  
かつての自分と同じ可能性を持った存在だという感覚が消えて、久しい。
 
今もまた、憂いなど微塵もないような笑顔で、レイのコップにジュースのお代わりを注いでいる。
 
これが自分なら、イジメを苦にして悩み、とても妹の世話などに気が回らぬだろう。
 
それほどまでに違うのだ。と考えて…、思い至る。シンジの内面。
 
つい自分を基準にして、つらいだろう。などと思っていたが、これほどまでに違うシンジが、同じように感じていると考えるのは間違いだったのではないか?
 
 
イジメというのは、心の問題だ。
 
イジメっ子を擁護するわけではないが、虐められる側の心の持ちようでその深刻さは違う。
 
 
自分と比較して、つらさを隠せるところにシンジの毅さがあると考えていた。
 
だが、つらさそのものにすら耐えられる精神力を、シンジは持っているのではないだろうか?
 
なにせ、まだ小学生である。つらいことを隠しとおせるほどの演技力があるとは思えなかった。
 
 
ノートパソコンを引き寄せて、メーラーを開く。
 
ナオコさんに送るメールの文面は簡潔に、【シンジがイジメを苦にしてない可能性は?】とだけ打った。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿六話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:41


サイレンが鳴り止むと、メインブロックのビル群が沈み始める。スクリーンの中だからたいした迫力でもないが、それでも初めてのこととあって、嘆声が発令所を充たした。
 
第6次建設までが終わって、第3新東京市は迎撃要塞都市としての体裁を整えつつある。本日は、防災訓練と称してその機能試験を行っているのだ。
 
今頃シンジは学校の、レイは保育所近くのシェルターに避難していることだろう。
 
ビルが全て沈みきると、兵装ビル、武器庫ビルがシャッターを開く。中身はまだないが。所々でエヴァ用の遮蔽防御壁が起き上がっている。射出口や回収スポットもそれぞれ動作確認中だ。
 
引き続き第7次建設が行われているが、目に映る町並みはすでに、あの見慣れた第3新東京市だった。
 
前面ホリゾントスクリーン内に分割表示されている進行状況を睨んで、青葉さんに次の作業を指示する。
 
 
今日は、帰りがけにあの高台に寄ってみようと思う。
 
 
****
 
 
MAGIが収集した各種画像を検分して、シンジがイジメをさほど苦にしてないことを確信した。
 
「特にこの日、昨年の11月17日から顔つきが違うわね。前日に何かあった?」
 
ナオコさんに言われて記憶をたどるが、さすがに思い出せない。手懸りを求めて画像の日付表示を睨む。11月17日は…月曜日か。その、前日? 特に何かあったようには…
 
いや、待てよ。前々日の土曜日には珍しくゲンドウさんが昼まで休みを取っていて、その時に…
 
「15日に、レイの入学の話をしました。今度一緒にランドセルを見に行こうって…」
 
「シンジ君は、大変な妹思いだって聞いてたけど…」
 
妹を護らなければならないという思いが、シンジを毅くしたのだろうか? 
 
「この日を境に、イジメの質が変化しているわ。物理的被害が出始めたのもこの後ね」
 
「シンジが気にしなくなったことで、ムキになってエスカレートした?」
 
でしょうね。とナオコさん。
 
いま一度、画像の中のシンジの表情を確認する。積極的に抗うわけではないが、毅然とした態度を崩さず、悠然と事態を受け流していた。
 
それでも、全くつらくないわけは無いだろう。だが、これから入学する妹に、学校が嫌なところだと思わせたくなかったに違いない。
 
それにしても…
 
「護るべき者が居たからといって、小学6年生が、こうまで毅くなれるものでしょうか?」
 
ふむ。と唸ったナオコさんが、キーボードをたたきながら。
 
「ネルフのことをシンジ君に話したのはユイさん、貴女だったのよね?」
 
頷く。保育所に預ける時、泣き縋るシンジを宥めるためにかけた言葉だった。
 
「なら、シンジ君にとって護る対象はユイさんなのよ。貴女を信じているから、耐えられる」
 
「私、ですか?」
 
ディスプレイの表示を追っていた目を、一瞬こちらに寄越して。
 
「学校では貴女の為に耐え、家庭ではレイちゃんの為に耐えている。と云ったところかしらね」
 
レイのために、と云うのは解かる。シンジは本当に妹思いだから。だが、
 
「イジメにもなかなか気付かず、気付いても何もしてやれない親ですよ?」
 
「気付いただけマシだし、話そうとしないシンジ君の意志を尊重するんでしょ」
 
その嘆息が、長い。ナオコさんが挙げてくれた具体策を、それを理由にほとんど退けているのだ。呆れられて当然か。
 

 
これが本物の母親なら、なりふり構わず学校に捻じ込んで強引に解決してしまうのだろう。吾が子だけを一途に思いつづける。それが母親の愛というものだ。
 
だが私には、シンジの意志を踏みにじってまで、自分の愛を押し付けることができない。それが、私が偽者であるが故だとしても、母親としての愛し方ではないとしても。
 
私の愛し方でそっと見守るしかないのだ。人格は装えても、愛を偽ることは出来ないのだから。
 
 
胸元で握りしめていた左手を、そっと開いた。その仕種を読み取ったかのように、ナオコさんがディスプレイを向けてくれる。
 
「教育委員会のイジメ対策として、MAGIが挙げた方策が5万跳んで384件」
 
凄い数ですね。と驚きを言葉にすると、ナオコさんがかぶりを振った。
 
「まだ人間ってモノを解かってないからよ。限度もね。
 【イジメをなくそう】なんてお題目を唱えるような無意味なものから、教師の数と報酬を3倍増するなんて無理なものまで有象無象。
 提案するということでは、MAGIもまだまだね」
 
表示された一覧を眺めてみると、「1クラスあたりの定員を3分の1にする」などといった大本のアイデアの単なるバリエーションも多くて、そもそもの有効件数も少なそうだ。
 
「その中で、比較的マシなのが16824番と、41924番ね」
 
16824番は、MAGIによる校内の常時監視らしい。エレベータ内の異常を画像から感知するシステムがあるが、その応用で、それらしい兆候を報告するそうだ。イジメのケーススタディが揃わないと精度が上がらないだろうし、どこに報告してどう対処するかが抜けているが。
 
41924番は、児童および生徒の性格分析を基に、MAGIがクラス編成を行うのか。そのクラス編成が妥当かどうか判断がつかない上に、最長1年は放ったらかしだ。
 
なにより、いずれもMAGIに頼らなければならないのはどうかと思う。
 
「人間ってロジックじゃないから、まだまだMAGIの手には負えないのよ」
 
こちらの表情を読んでか、ナオコさんが溜息。
 
科学者として、母親として、女として。それぞれの視点だけでは読み解ききれないのかもしれない。ヒト、ことに人間関係は。
 
「その代わり、面白い事例を見つけてきているわ」
 
身を乗り出してきてキーボードを操作、テキストファイルを表示してくれる。
 
「…ピア・サポート?」
 
それは、前世紀のイギリスの事例らしい。児童の中から有志のボランティアを募り、イジメられっ子の相談役に宛てるのだそうだ。子供同士だけに相談しやすく、解決策が押し付けがましくないから効果的だという。
 
…しかし、
 
「日本で、ボランティアが根付くでしょうか?」
 
「その辺はアレンジするしかないでしょうね。内申書が良くなるとか」
 
それは賛成しかねる。利害が絡むと、それ自体がイジメの温床になりかねないから。だが、純粋なボランティアでは力不足なのは確かだ。
 
内申書などの報酬を前提にしたとして、システムの悪用・堕落を防ぐ手段か…。
 

 
イギリスでは教師がコーディネートしているようだが、一歩推し進めてみてはどうだろう?
 
「各学校に専任のカウンセラーを配置して、統轄させてはどうでしょう。
 サポートにMAGIの監視を併せれば、不正防止にもなるかも」
 
ふむ。と頷いたナオコさんが、ノートパソコンを引き戻してキーボードを叩き始める。
 
専任でカウンセラーを置くとして、コーディネートだけでは勿体ないか。授業時間中は暇だろうし。
 
「カウンセラーには、イジメに対する啓発セミナーやディスカッションなども開催させましょう。
 MAGIの監視情報を提供し、早期にメールなどでケアさせても良いでしょうし」
 
今回の件で判ったことは、イジメを解決するにはまず顕在化させることが必要だということだ。
 
シンジのように一人で抱えてしまったり、相談する勇気を持てない子供だって居るだろう。
 
…とすると、打ち明ける機会は 多く、広い 方がいい?
 
「学校外にも、相談できる施設を作れれば一番なのですが…」
 
ナオコさんの眉が寄った。恒久施設の設置は予算的に厳しいか。
 
「不定期にでも、公民館などでイジメられっ子のための講演会、相談会とか開けないでしょうか?
 MAGIが見つけたそれらしい子供には、ダイレクトメールを装って招待状を出したり」
 
「MAGIに分布や閾値を分析させて、それによって臨機に開催日・開催地を決定すれば効果的かもね」
 
 
イジメは、人間の本能と社会性に根差した問題だという。
 
ならば、無くすことは不可能なのだろう。それこそ、補完でもしない限り。だが、他者と同一化し、単一化することで問題そのものを無かったことにするのが最良の解決策とは思えない。
 
困難があって、それを乗り越えてこその進歩であろう。
 
それに、多くの生命が生殖を基本とし、群を成すのは、状況などいくらでも変わりうる環境の中にあって、生き延びる可能性を模索しようとするからだ。
 
いかに強大で、自己進化すら可能であろうと、単体生命に可能性はあるまい。
 
ならば、人はヒトのまま、努力していくべきなのだ。生き残るために。
 
 
イジメは無くせない。
 
だが、減らすことは可能だと信じて、できることをやっていこう。
 
 
****
 
 
ぼすぼす。ふすまのノックは間抜けだ。
 
「シンジ、ちょっといい?」
 
『…お母さん? いいよ』
 
ふすまを開ける。
 
「夜中にごめんね」
 
ううん。とかぶりを振ったシンジが、ベッドから降りた。
 
今まさに就寝しようとしていたのだろう、あとは布団を掛けるだけの態勢だったようだ。
 
歩みより、差し出すのはシンプルなデザインの缶ペンケース。
 
「寝る前に、これを渡そうと思って」
 
「これ…」
 
子供たちの行動範囲内の文具店では品切れで、同じデザインのものを探し出すのは苦労したが。
 
「たまたまお店で見つけたの。気に入ってたみたいだったから…」
 
ペンケースを受け取ったシンジは、何か言おうとして果たせず、目を逸らした。
 
そっと、抱きしめる。
 
最近は、了承を得ずに抱きしめると嫌がるようになっていたのに、シンジはおとなしく腕の中に納まった。
 
「つい、こないだ小学校に入ったと思っていたのに、もう中学生になるのね」
 
背丈もずいぶん伸びて、もう頭ひとつ分ほどの差もない。追い抜かれるのも時間の問題だろう。
 
「…お母さん」
 
「なあに? シンジ」
 
シンジが、抱きしめ返してくる。
 
「お母さんとお父さんの仕事、世界を守るための大切な仕事なんだよね」
 
「ええ、そうよ」
 
きゅっ。と、篭められる力。
 
「秘密…、なんだよね」
 
「ええ。人類を狙う未知の敵の存在は秘密にされているわ」
 
かつては、実際に使徒が襲来し始めても、ネルフの存在が公開されることはなかった。第3新東京市近郊に住んでいなければ、使徒なぞUMA程度の認識だっただろう。
 
「秘密なのに、僕に話してもいいの?」
 
「シンジのこと、信じているもの」
 
腕の中で、シンジの体がぴくりと跳ねた。
 
かつての自分にはとても言ってやれないような言葉でも、この子になら素直に言ってやれる。いや、言ってやれるような存在に成長してくれたのだ。
 
もし、この子がエヴァに乗せられたとしても、かつての自分のような破滅の道を選ぶことはあるまい。
 
すすりあげる仕種を、耳ではなく肌で聴きながら、その頭をそっと撫でる。
 
 
いじめられてる。助けてくれと言ってくれれば、何を差し置いてでも守るのに…
 
子供が毅くなろうとしているときに、親がこれほど無力だとは、思いもしなかった。
 
徐々に、徐々に激しくなっていく震えを全身で受け止めながら、必死で涙を堪える。理由のない涙は子供に見せられない。
 
 
シンジは日々成長している。母親の前で泣くこともなくなるだろう。こうして涙を受け止めてやるのも最後かもしれないと思うと、それがまた鼻腔の奥を熱くした。 
 
 
                                         つづく



[29636] [IF]シンジのシンジによるシンジのための 破譚 NC #EX7
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:41



  - AD2014 -
 
 
「レイ。箸の持ち方、正しくないよ」
 
珍しく4人揃った朝食の席。
 
食事の手を止めたシンジが、レイに寄り添って箸の持ち方を正そうとしている。
 
確かにレイの箸の持ち方、使い方は正しくない。
 
箸のヒントになったという渉禽類に喩えるなら、上のくちばしを動かすのが正しい使い方だが、レイは下のくちばしを動かしている。
 
渉禽類にとってみれば、下のくちばしを動かすのが正しいだろうけれど。
 
それはそれとして、正しく箸を使うにはそれなりの手の大きさ、箸の長さを必要とする。人差し指と親指が垂直になるように開いたとき、それぞれの指先を結んだ斜辺の長さを疋と呼ぶ。その1.5倍が箸の理想的な長さなのだそうだ。ただ、自在に使いこなすには、必要最低限な長さというものが存在するらしい。
 
レイの手はまだ小さすぎて、無理がある。
 
「シンジ。レイの手はまだ小さいから、難しいわ」
 
そう?と、悪戦苦闘していたシンジが顔を上げた。
 
「お母さんと初めて一緒に箸を選びにいったのがいつか、憶えてる?お母さんが、箸の持ち方を注意するようになったのは?」
 
首をひねったシンジの、視線の先は自分の箸。それは、一緒に箸を選ぶようになってからなら3代目だ。
 
「小学校の…2年生のとき…?」
 
そうね。と頷いた。
 
「レイはシンジより手が小さいみたいだから、もうすこしかかるかも知れないわね」
 
自分の手とレイの手を見比べて、なにやら得心したように頷いている。
 
「ごめん、レイ。僕が悪かった」
 
…いい。と、かぶりを振って見せたレイは、しかし、無理に正しい持ち方をしようとし、あまつさえそれでサトイモの煮っ転がしを摘もうとした。
 
 …
 
無謀な挑戦は当然の帰結として失敗し、レイの箸を逃れたサトイモは跳ねるように器の外へ逃亡。
 
そのままテーブル外までの高飛びを成功させようとしたサトイモを水際で逮捕したのは、広げた新聞紙の向こうから伸びてきたゲンドウさんの手だった。
 
そのまま、何ごともなかったかのようにサトイモを口に。
 
汚れた指先を持て余しているらしいゲンドウさんに、とりあえず台拭きを渡した。
 
新聞紙を少し下げ、レイを見やる視線がやさしい。
 
「レイ…、物事には段階がある」
 
「…はい」
 
頷いたレイが素直に箸を持ち直すのを見届けて、また新聞紙を持ち上げている。
 
さきほどより高いように見えるのは、照れ隠しなのだろう。らしくもなく父親ぶってしまった。などと思っているのかもしれない。
 
 
箸の持ち方。と云えば、思い出すのはシンジを身ごもった頃の母さんの記憶だ。
 
箸の持ち方を教えてくれるような人を持たなかったらしいゲンドウさんは、やはり箸の持ち方が間違っていた。
 
はっきりと思い出せるわけではないが、レイの持ち方と同じだったような気がする。
 
 
それはさておき。
 
当時、子供ができたことを知ったゲンドウさんは、母さんに教わって箸の持ち方を矯正したのだ。
 
子供が真似をしたら困る。と言って。
 
 
そのことを思い出しているのではないだろうかと見やった視線が、ゲンドウさんの視線と出会う。
 
途端に新聞紙の向こうへと隠れてしまったが。
 
綻びそうになる口元を引き締めるのに苦労した。
 
 
                                         終劇
 
2008.1.2 DISTRIBUTED

ボツ事由 タイミング的に、イジメ篇直後のエピソード。雰囲気が軽すぎてなんだかそぐわないので、ゲンドウとの夫婦生活の割愛も含めて不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿七話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:42


****
 
  - AD2015 -
 
****
 
 
くしっ。と隣りから、可愛らしいくしゃみが聞こえた。篩っていたココアパウダーでも吸い込んだのだろう。見やれば、任務優先と言わんばかりに篩を固守したレイが、洟水が垂れるのもお構いなしにココアパウダーを篩いつづけている。
 
拭ってやりたいが、チョコレートを練っていてパレットナイフから手が放せない。たまたま手に入ったマーブル台を使ってみたくて、大理石法によるテンパリングに挑戦していたのだ。
 
普段ならシンジが見過ごさないのだが、バレンタインデーのチョコ製作ということでキッチン・ダイニングともに男子禁制だった。
 
ココアパウダーを篩う作業より優先順位が低いらしく、自分で拭う気はなさそうだ。
 
嘆息
 
…女の子として、それはどうかと思う。
 
「そのままでいいから、お顔だけ、こっち向いて」
 
案外素直にこちらを向いてくれたので、すっと身をかがめてその洟水をすすった。どうせなので、そのまま鼻腔の中身も吸い出して、併せて飲み下す。
 
「…ありがとう」
 
なんだか不満げなのは、どうでもいいと思っていたからだろう。
 
「どういたしまして」
 
おろそかになっていた手元に意識を戻し、テンパリング作業に集中する。
 
 
乳幼児は自力で洟をかめないから、吸い出してやらなければならない。だから赤ん坊の洟水は、母親が口ですする。と耳にしたときは、やはり抵抗を覚えた。
 
だが、実際にお腹を痛めて産んだ吾が子が鼻を詰まらせて苦しんでいるのを見た瞬間に、自然と吸い出していたのだ。レイの洟水を呑み下した後になって、自分の行動に驚いた憶えがある。
 
記憶を漁れば、母さんもやはりこうしてシンジの洟水を吸い出していたらしい。母親という存在の、慈愛の深さを実感させられたものだ。
 
 
ふと見ると、リビングから一部始終を見ていたらしいゲンドウさんが、顔を逸らした。わざとらしく新聞を掲げて視線を遮ったのは、照れ隠しだろう。
 
一度吾が子で実践してしまえば、ハードルが低くなるのかもしれない。2年程前だったか、酷い風邪で寝込んだときに吸ってあげたのだ。洟水を。
 
 
****
 
 
「戦術シミュレーション、…ですか?」
 
着任早々のミサトさんを連れてきたのは、MAGIと同じ階層にある個室のひとつだった。
 
「ええ」
 
MAGIのコンソールを1台持ち込んでセキュリティを上げ、即席のシミュレーションルームをでっち上げたのだ。
 
「使徒とエヴァの戦闘に、従来の戦術が通用するとは思えませんが?」
 
それは一理ある。他ならぬ自分自身が、戦闘ではなく格闘だと評したことがあった。
 
だが、人類が相争うために研鑚してきた方法論は、未曾有の存在を相手取っても有効足りえる。相手と対等に渡り合える存在、エヴァがあるのだから。
 
「もちろんです。ですから、これは使徒対策ではありません」
 
「…はい?」
 
意表を突かれたのだろう。真面目な顔を崩さないまま左肩がかくんと落ちた。器用なことだ。
 
「ありていに言えば、葛城さんの指揮権をどこまで認めるか、そのためのテストですね」
 
「…どういうことですか?」
 
ミサトさんの目付きが少し剣呑になる。自らの職権がこんなもので決められると聞いて、軍人が黙っていられるわけがない。
 
「葛城さんの戦力は、当分初号機のみ。そのパイロットは私です」
 
おわかりですね。と言わんばかりに軽く身を乗り出して見せると、承知している。とばかりにミサトさんが頷く。
 
「一方、私は使徒対策室の室長で、作戦部の権限に掣肘を加えられる立場にあります」
 
それは知らなかった。という顔でミサトさんがうめいた。…それはどうかと思うが。
 
「これをこのまま放置していると、いざという時に困ります」
 
「指揮系統の混乱ですね」
 
ええ。と頷いて、権限枠の規定を細分化して調整しようとしましたが…、と続ける。
 
「結局、その時々のケースによって変動し得ることを事前に規定するのは無理があります」
 
嫌そうに眉毛をしかめてたミサトさんが、安堵してか頷いた。
 
…細かい規定でがんじがらめにされると思った時点で拒絶反応起こして、そのあとで否定して見せたものだから思わず頷いちゃったんだろうなぁ。
 
あらゆる事態を想定して決めておくからこそ規定なのであって、そこをないがしろにしては自らの職分などまっとうできるわけがないのだが。
 
ミサトさんには悪いが、いざという時のためにグレーゾーンのままにしておきたい。
 
「そこで明快な基準として、葛城さんがどれだけ信頼できる指揮官かを測ろうってわけです」
 
「…これで、ですか?」
 
指さすのはMAGIのコンソール。
 
「はい。このシミュレーションには、想定されうる50種類の使徒が用意されています。難度調整はエヴァの強さと数、使徒の出現間隔で行います」
 
シミュレーション画面を呼び出し、各種パラメータを表示させた。
 
「最難レベルは、ATフィールドをやっと使える程度のエヴァが1機、使徒が毎日出現するレベル1。
 最易レベルだと、ATフィールドを完璧に使いこなせて連携もばっちりのエヴァが2機、使徒が月1体出現するレベル14400ですね」
 
パラメータを変更すると、それに合わせて難易度表示が変わる。
 
「ちなみに、ユイさんはレベル、おいくつなんですか?」
 
「私は開発に携わっているので参考にならないでしょうけど、700くらいです」
 
それは、現状での初号機を1機だけ使った場合のスコア。それも、できるだけ見た目の派手さを抑えた戦法でのものだ。
 
「それを超えれば、指揮権はアタシのモノですか?」
 
きらん。と眼を光らせるミサトさんに、かぶりを振ってみせた。
 
「私が、軍事的には素人同然だと云うことを差し引いてくださいね」
 
ミサトさんを騙すようで心苦しいが、嘘は言ってない。
 
「レベル500を超えられるようでしたら、指揮権を完全に委ねてよいだろうと考えています」
 
負けず嫌いのミサトさんを焚きつけるには、この方法が一番だろうと思う。案の定、やる気を出してコンソールに襲いかかったミサトさんを残して、即席シミュレーションルームを後にした。
 
 
孫子に曰く、彼を知り己を知れば百戦殆うからず。彼を知らずして己を知るは一勝一敗す。彼を知らずして己を知らずは戦えば必ず破れる。
 
 
正体不明の奇想天外な連中を相手取って最後の最後まで戦い抜いたミサトさんは、正直凄いと思う。同じ状況に置かれたとして自分にあの真似ができるか、と問われれば、不可能。と答えるしかない。 
 
そのミサトさんに難があるとすれば、使徒を常識外の存在として割り切りすぎた結果、慎重さに欠け、後手に回ることが多かったことと、ティーンエイジャーを指揮するにはあまりにも大雑把で不器用過ぎたことだ。
 
前者については、シミュレーションに手を加えることで意識を変えてもらおうと思う。
 
オリジナルで作成した使徒のほとんどは、ぶっつけ本番で対峙すると予想もしない攻撃方法で奇襲を行い、ほぼ一撃でゲームオーバーになるように仕込んである。UN軍やエヴァの威力偵察で化けの皮を剥がしておかないと、とても戦闘にならないのだ。
 
もちろん、実在する使徒もそれとないカムフラージュを施して紛れ込ませてある。
 
後者は今回、指揮下に入るのが私だからさほど問題はないだろう。
 
 
信頼できる戦力と、しっかりした敵の情報。この二つを与えられたミサトさんがどのような指揮を執るか、観てみたかった。
 
 
****
 
 
「ぬわんでアンタが「リツコ姉さん♪」で、アタシは「葛城さん…」なのよぉ」
 
ヱビチュビールを一気に呷って、ミサトさんがリツコさんに詰め寄る。
 
「付き合いの長さね」
 
しれっとした顔で、リツコさんが尾戸焼のべく杯を干した。
 
べく杯というのは、飲み干さずに手を放せば酒がこぼれるように作られた盃のことだそうだ。リツコさんが手にしているのは、すり鉢状で高台がない上にご丁寧に穴まで開けてあるタイプで、なぜかお歳暮に清酒とセットで送られてきた物だった。
 
その杯を置かなかったので、シンジがお代わりを注ぐ。六光年とかいう大吟醸だそうだが、お酒の銘柄はよく判らない。
 
 
 
どうせ碌な食生活をしないだろうと踏んで、ミサトさんを夕食に招待した。意外にも尻込みしたミサトさんが、リツコさんを巻き添えにしたのだ。お陰でシンジは大喜びだが。
 
こうして傍らに寄って甲斐甲斐しく酌などをしているのを見れば、どれだけ懐いているか窺い知れるだろう。
 
レイは? と見れば、リビングで温泉ペンギンと戯れていた。ソファに並んで腰かけ、…そう。クワワ。と、禅問答のようにぽつぽつと受け答えしている。
 
こちらはこちらで大喜びのようだ。…とてもそうは見えないだろうが。
 
 
 
ミサトさんを招いたのは理由がある。他ならぬアスカのことを聞きたかったからだ。
 
ところが、ドイツでは担当者とは名ばかりで、あまり接点がなかったらしい。日本語での話し相手ということでお茶の時間を一緒に過ごした程度で、訓練や教育のカリキュラムに携わることはなかったそうだ。
 
自分の時との違いは、いったい何に根差すのだろう?
 
 
「シンちゃ~ん、アタシのことも【お・ね・え・さ・ん】って呼んで♪」
 
リツコさんを押しのけるようにしてシンジの方へと身を乗り出したミサトさんは、おそらく、ワザと胸元を強調している。
 
初顔合わせも早々にちゃん付けとは、実にミサトさんらしい。
 
…?
 
いや、いくらあのミサトさんでも、初対面でいきなりちゃん付けはありえないだろう。
 
 
― 一つ言い忘れてたけど、あなたは人に褒められる立派なことをしたのよ。胸を張っていいわ。おやすみ、シンジ君。がんばってね ―
 
かつて、初めて会った日の、最後にかけられた言葉を思い出せば明白だった。
 
 
その違いの原因を探ろうとして、そんな必要がないことに気付く。屈託なく喜怒哀楽を顕わにするミサトさんが、そこに居たのだ。
 
お姉さん悲しいわぁ。などと嘯きながら、シンジの顔をその胸元に沈めている。視界を遮られたリツコさんが、こめかみを押さえていた。
 
一切のわだかまりがないから、すぐさまにちゃん付けにできたのだろう。何の利害も確執もない、幸せな出会い方をした2人の関係がそこにあった。
 

 
鼻の奥に熱いものを感じて、キッチンへ逃げ込む。
 
切り分けたカラスミが、塩辛くならなければいいけど。
 
 
****
 
 
2週間が過ぎて、ミサトさんのレベルは平均3780だそうだ。
 
ランチェスターの法則に従って数を揃えようとするのはいいのだけれど、ATフィールドを軽視するから効率が悪く被害が大きいらしい。もちろん深淵使徒や精神汚染使徒にはなす術もなく敗退している。
 
最低限、敵に通用するだけの質が要るのだけれど…
 
それにエヴァの連携能力を最大限に要求しているようだが、それを維持するのが自分の仕事だと解かっているのだろうか?
 
 
とりあえず使徒の外観をリニューアルし、その能力もシャッフルする。これで威力偵察の重要さを再認識してくれるだろう。
 
ぬゎんてインチキ!と叫ぶミサトさんの姿が、目に浮かぶようだ。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿八話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:42


山越えの自動車道の途中で、車を停めた。
 
「あれが、母さんたちが戦おうとしているモノ?」
 
「そう。人類の敵、とされる者よ」
 
遠目に見える光槍使徒が、国連軍のVTOL機を叩き落したところだ。
 
ちらり。と助手席のシンジを覗き見るが、その胸中は窺い知れない。
 
ネルフが非公開組織であることは変えようがないが、両親が嘘を吐いていたわけではないことだけは見せてやりたかった。
 
「…」
 
後部座席のチャイルドシートで、レイは児童書を読んでいる。車中では読むなといってあるのに、酔わないからと言って取り合ってくれない。
 
使徒には一切関心がないようだ。
 
 
****
 
 
子供たちをシェルターに預け、カートレインでジオフロントに降りる。
 
ことの推移を携帯端末で確認しながら、悠然と発令所に顔を出した。
 
 「爆心地に、エネルギー反応!」
 
 「なんだとぉっ!」
 
ちょうど、N2地雷による電波障害からセンサーが回復したようだ。
 
「どこにいらしたんですか!今なら絶好のチャンスだったのに」
 
こちらの入室を見止めるなり、つかつかと詰め寄ってきたミサトさんが声をひそめて。
 
N2地雷で弱ったところを、初号機でトドメと言いたいのだろう。
 
「指揮権が移ってないうちに、初号機は出せませんよ」
 
ですけど。と言い募ろうとしたミサトさんを押しとどめるように、青葉さんの声。
 
 「映像、回復します」
 
  「おお…」
 
  「なんてことだ…」
 
  「我々の切り札が…」
 
  「化け物めっ!」
 
トップ・ダイアスを占領した国連軍の高官たちが、次々に悪態をつく。
 
 「予想通り、自己修復中か」
 
 「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」
 
珍しく発令所のフロアに、ゲンドウさんと冬月副司令。
 
映像が、光槍使徒の新たに現れた顔をクローズアップした。途端、両眼が発光して、砂嵐に。
 
 「ほぅ、たいしたものだ。機能増幅まで可能なのか」
 
 「おまけに、知恵もついたようだ」
 
2人で会話するには、ちょっと声が高い。遠回しに国連軍を非難しているのだろう。仲良くするにこしたことはないのだから、お手柔らかにお願いします。
 
 
ミサトさんを手招きして、発令所の外へ。
 
ドアを開けたまま、スクリーン上の使徒を親指で指し示して。
 
「どう、見ます?」
 
「武装は手から打ち出す杭と、眼から怪光線、みたいですね。
 今のところATフィールドを張っている様子はありませんが、N2地雷でもあの通りです」
 
国連軍の攻撃を威力偵察と見做して、きっちり観察できたらしい。
 
目顔で続きを促すと、一瞬眉を寄せた。
 
「ATフィールドを張ってないとすれば、遠距離からの攻撃が有効かもしれません」
 
女性としては結構な長身なのに、見下ろされるような感じがしないのは、顎をしっかり引いた上で見据えてくるからだろう。
 
「ATフィールドをガイドレールにしてナイフ投擲、できるんですよね?」
 
頷いた。アスカが見せてくれた応用法は、もちろん習得している。
 
「どこを狙いましょう?」
 
「あの赤い光球が、コア…なんですか?」
 
そうだ。と言いたいところだが、さすがに断定して見せるわけには行かない。携帯端末からMAGIにアクセスして見せた。
 
「…蓋然性は、89.4247パーセント…ですね」
 
「では、そこを」
 
頷いて、念のために質問を重ねる。
 
「それで斃せなかったら?」
 
虚を突かれたらしく呆けるが、それも一瞬のこと。
 
「ウェポンラックのとは別に、ナイフを持って出て貰えますか? いざとなったら格闘戦に移行してもらいます」
 
ほぼ、私が考えていたのと同じ結論に辿り着いたようだ。これで心置きなく作戦指揮を委ねられる。
 
「プラグで待機します。タイミングと位置取りはお任せします」
 
「解かりました」
 
私がしてみせた海軍式の敬礼を、不思議そうにミサトさんが見送った。
 
 
****
 
 
『最終安全装置解除、エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
 
直接制御下にある初号機は、私の身体そのものだ。拘束を解かれても猫背にはならない。
 
『もうじき、使徒が外輪山の稜線から見えるはずです』
 
日向さんの報告に、まぶたを閉じる。外輪山の向こう側に、ゆっくりとした足音を感じた。
 
エヴァの聴覚は高度な分解能を有し、構造的にはヒトと変わらないはずなのに、音波を立体的に拾うことができる。
 
慣れれば、パッシブソナー代わりに使えて便利だった。
 
 
 『ニィやぁん。ドコおんねやぁ!』
 
突然飛び込んできたこの声は、ナツミちゃんか…
 
ビルの陰で直接見ることは叶わないが、初号機の感覚をダイレクトに共有する直接制御なら、音だけで位置特定が可能だ。
 
いくつものフィルタリングを経ているから、発令所には届いていまいが。
 
発令所に指示して保護させようと思った途端、声の主が増えた。
 
 『…なに、してるの?』
 
 『あっ!レイちゃんやんか。あんな、ウチんくのニィやん、さがしてんねや』
 
 『…あなたのお兄さんなら、もう、ひなんしてる』
 
 『ホンマに?』
 
 『本当だよ。避難者登録を確認したから、間違いないよ』
 
シンジも居たのか。考えてみればいくらレイでも、小学2年生が一人で抜け出せるような施設ではない。
 
中学生なら抜け出せる。というのは問題かもしれないが、どうしたものか。
 
 『せやけど、シェルターの中はさがしてんねんで?』
 
 『鈴原君が避難したの、僕らのとは違うシェルターなんだよ』
 
後で聞いた話しだが、シェルターに落ち着いたレイは、一度見かけたクラスメイトの姿がなくなってることに気付いたのだそうだ。ナツミちゃんは、地上隔壁が閉ざされる前に抜け出したのだろう。
 
念のためシンジに頼んでトウジの行方を調べさせた後、こうして追いかけてきたのだとか。
 
 『そっちのシェルターは定員一杯だったから、とりあえず僕らと一緒に避難しよ?』
 
 『おおきに。そないさせてもらいます』
 
 『…』
 
レイがついた嘆息にどのような感情が篭められていたのか、さすがに読み取れなかった。
 
 
 
 『ユイさん』
 
押し殺した声に、まぶたを開く。水中スピーカーが律儀に、ミサトさんの緊張まで伝えてくる。
 
プラグ内の画像に、使徒の居所を示すレチクル。まだ外輪山の向こう側だから、山肌を飾っているにすぎないが。
 
敢えて視界をそのままにして、待つ。初号機の視覚では赤外線だのX線だのが見えて、それらを見分けるのが煩わしいのだ。
 

 
外輪山の稜線に、変化。山影に隠れたコアが視界に入るのも、時間の問題だろう。
 
静かに、手にしたシースからプログナイフを引き抜いた。
 
 
****
 
 
夕刻間近な第3新東京市を見下ろす高台で、生えていく高層ビルを眺める。
 
「この光景が好きなんです」
 
それは、かつてミサトさんが見せてくれたからかも知れない。
 
時間を見計らってミサトさんを連れ出したのは、その様子を窺いたかったからだ。
 
久しぶりに、その乱暴な運転に揺られてみたい。というのもあったが。
 
「あなたが護った街ですよ」
 
「私が…?」
 
ミサトさんの反応は芳しくない。
 
「ええ。あなたが立案した作戦で、あなたが指揮して使徒を斃したんです」
 
 
…………
 
 
円筒形に編んだATフィールドを、光槍使徒まで伸ばす。
 
真空化、重力遮断されたガイドレールに沿って、初号機の膂力で投擲されたプログナイフは、使徒のコアを完膚なきにまで粉砕した。
 
斃すだけなら、こうまで念を入れずとも良かっただろう。
 
だが、できるかぎりコアのサンプルを残したくなかったのだ。アメリカ第2支部の消滅に、白いエヴァ。S2機関がもたらしたモノを、できれば再現したくない。
 
エヴァのデータがある以上、無駄な足掻きかもしれないが、しないよりマシだと思う。
 
 
…………
 
 
…のに、嬉しくないのね。との語尾を、かろうじて耳にする。
 
なにか、確かな手応えを欲してか、その右手が握り締められた。
 
その顔には、一片の充足感も見受けられない。
 
 
やはり、この程度では使徒への復讐心を滅却することは適わないのだろう。
 
その心の裡をよく知っていながら、してあげられることがなかった。
 
 
****
 
 
使徒戦の疲れも拭いきれないその日のうちに、弐号機がヴィルヘルムスハーフェンを出港したと聞いた。
 
一緒にやってくるであろうアスカの姿が脳裏に浮かんで、身震いする。
 

 
この世界で、もっとも顔を会わせるのが怖いのが、アスカだった。
 
私が犯した罪の、最大の被害者に向き合うべき時が、とうとう来るのだ。そんなはずはないと解かっているのに、会った途端に糾弾されるのではないかと想像してしまう。
 
それに、ドイツでの教育方針や訓練内容について、不穏な報告が加持さんからあがってきていた。
 
このままだと、従来通りに海中使徒と鉢合わせる頃に到着するのだろう。
 
できれば、いますぐ逃げ出したい。それが正直な気持ちだった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第廿九話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:43


初号機の聴覚が捉えたのは、重い隔壁を開く音。
 
気をとられたその一瞬を、光鞭使徒は見逃さない。たちまち足首を絡みとられて、投げ飛ばされた。アンビリカルケーブルのちぎれた感触が思っていた以上に不快で、眉をしかめる。
 
 ≪ アンビリカルケーブル、断線! ≫
 
 ≪ エヴァ、内部電源に切り替わりました ≫
 
 ≪ 活動限界まで、あと4分53秒 ≫
 
展開したATフィールドの空気抵抗で速度を殺し、体勢を立て直す。
 
空中に固定したフィールドを足場にして、静かに地面に降り立ったから、3人に被害はなかっただろう。
 
 『シンジ君とクラスメイト!?』
 
 『なんでこんなところに?』
 
バーチャルウインドウに身元照会が廻されてくるが、見るまでもない。シンジと、その悪友2人だ。
 
マルドゥック機関が今まで以上に形骸化しているこの世界で、第壱中学校は選抜候補者たちの生簀ではない。ただ、ゼーレへのブラフとして、書類上はそう云うことになってはいる。零号機はなく初号機も直接制御化している今、その重要度は限りなく低いが。
 
ではなぜ、トウジとケンスケがシンジのクラスメイトなのか。と云うと、MAGIの仕業だった。イジメ対策の一環としてMAGIが行なっているクラス編成は、昨年の試用期間を経て今年から本稼動なのだ。
 
もっとも、3週間前までは単なるクラスメイトに過ぎなかったらしい。ナツミちゃんの一件で急速に親しくなったようで、今では名前を呼び捨てあう間柄になっていた。
 
 
滑るように初号機を追ってきた使徒が、宙に浮いたままに光の鞭を振るう。
 
「くっ」
 
初号機の視覚と反射神経なら、その鞭を掴み取ることなど造作もなかった。痛いのは我慢するしかないが。
 
  ≪ 初号機活動限界まで、あと3分28秒 ≫
 
『ユイさん、そこの3人を操縦席へ!』
 
 『許可のない民間人を、エントリープラグに乗せられると思っているの!?』
 
 『アタシが許可します』
 
 『越権行為よ!葛城一尉!』
 
光の鞭を握りしめたまま、初号機を座らせる。
 
 
  ≪ 初号機活動限界まで、あと3分 ≫
 
第3新東京市のシェルターに問題があることは、解かりきっていたことだ。それを放置していたのは、この状況を再現できるかもしれないと、心のどこかで期待していたのだと思う。
 
『3人を回収したのち、残時間で使徒殲滅。できますか?』
 
今、戦闘継続を打診されたこの場面で、かつては後退を命令された。
 
その違いがつまり、子供を戦わせていることへの後ろめたさだったのだろう。やはり、ミサトさんはやさしい。不器用すぎるけれど。
 
「ええ。やってみせるわ」
 
『…お任せします』
 
それに、多少は苦戦して見せるのも必要なことだった。光槍使徒戦があまりにも楽勝だったので、エヴァ関連への予算が縮小されそうな気配があるのだ。それが即そのまま、人道支援に使われるというなら大歓迎だったが、それはない。というのがゲンドウさんの見立てだった。ならばネルフで取れるだけ取っておいて、後日の備えにしておく方がマシだと思う。
 
さらには、初号機の能力はできるだけ隠匿しておきたかった。最終決戦のことを考えると、ゼーレを下手に刺激したくはない。
 
 
  ≪エヴァは現行命令でホールド、その間にエントリープラグ排出、急いで!≫
 
直接制御はエヴァとシンクロするわけではないので、神経接続カットなどの手順を踏まずともプラグの排出が可能だ。
 
だが、敢えて映像を落として、プラグ内を暗くした。
 
 
   ≪ そこの3人、乗って!早く!! ≫
 
 
 …
 
 「 なんや、水やないか! 」
 
 「 カメラ、カメラが… 」
 
 「 うえっ、気持ち悪い… 」
 
聞き憶えのある言葉と、言い憶えのある言葉に、少し苦笑。LCL越しなのにMAGIの補正もないから、少し違和感はあるけれど。
 
映像を回復させて、プラグ内を明るくする。
 
「我慢なさい。男の子でしょう」
 
「えっ? 母さん?」
 
シンジが、インテリアを伝うようにして顔を出してきた。押しのけられたらしい2人の抗議の声を引き連れて。
 
微笑んでやって、背後を指し示す。
 
「後ろで、大人しくしてなさい」
 
今の初号機はインテリアがシンプルだから、3人でも狭くはないだろう。
 
  ≪ 神経系統に異常発生! ≫
 
 『 異物を3つもプラグに挿入したからよ! 』
 
間接制御ではないから、神経パルスにノイズが混じってるわけではない。単に、初号機が好奇心で気を散らしているだけだ。特に、シンジの存在に心惹かれているらしい。
 
シンジをその心の裡に招こうとする初号機をたしなめて、光鞭使徒を見上げる。
 
 
 ≪ 初号機活動限界まで、あと30秒 ≫
 
 
重力軽減ATフィールドとタイミングを合わせて、光鞭使徒を蹴り上げた。もともと宙に浮いてた使徒は予想以上に軽く、後退るザリガニのように天高く。掌中に残された光の鞭が、輝きを失っていった。
 
わざわざ距離をおいたのは他でもない。悠長に突き刺していては、コアを残しかねないからだ。
 
左肩ウェポンラックからナイフを抜いて、落下し始めた光鞭使徒めがけて投げつけた。
 
 
****
 
 
会議室のドアを開けると、床に正座させられたシンジたちが顔を上げる。頭髪が妙な光り方をしているところを見ると、LCLがそのまま乾いたのだろう。シャワーを浴びさせても貰えなかったらしい。
 
その背後を練り歩くミサトさんは、ジャージと竹刀が実に良く似合いそうだ。
 
できるだけ急いで駆けつけたが、プラグを降りてから小一時間は経っている。その間ずっと正座させられていたのなら、さぞや足もしびれたことだろう。シャワーを浴びて着替えて、各種検査を後回しにして貰えるようリツコさんを説得していたら、思ったより時間を取られたのだ。
 
 
向かって右端に座っているシンジの前へと歩み寄り、跪く。正面から見据えた視線を受け止めきれずに、シンジが目を逸らした。
 
こうなる可能性を解かっていてシェルターの不備を放置していたのだから、3人を叱る筋合いは私にはない。
 
だが、それはそれ、これはこれだ。子供の行く先々に先回りして、何もかも用意するのが親の役目ではない。第一、もう中学生ではないか。
 
今のシンジなら、ケンスケをも止めえると、少しは期待していたのだけれど。
 

 
右手を翻し、その頬を打った。濡れた雑巾を落としたような間抜けな音がする。
 
驚愕に目を見開いたシンジの目に、涙が浮かぶ。レイを連れて勝手に帰宅したあの時が、シンジに手を上げた最後だったから当然か。
 
その涙が溢れるかと見えた瞬間、シンジの背後から伸ばされたミサトさんの手が、私の右手首を掴んだ。
 
見上げるその表情が、厳しい。
 
抵抗するだけ無意味そうだったから、されるがままに手首を返した。
 
…思っていた以上に、手のひらの火傷は酷そうだ。
 
シンジを叩いたことで、焼け爛れた表皮がほとんどめくれている。ぴりぴりと、空気すら痛い。所々から滲み出てきた血が、剥き出しになった真皮を徐々に覆い隠していった。
 
直接制御下では、初号機の負傷はすなわち私の負傷だ。痛みを感じるだけの間接制御とは、比較にならない。
 
 …
 
手首を放してくれたミサトさんが、視線を逸らした。
 
「…そうだと、聞いてたのに」
 
 
叩かれたことに驚いていたシンジが、我に返って自らの頬に手を伸ばす。その指先が掻きとったのは、こびりついていた私の手のひらの…表皮だ。
 
「…母さん?」
 
恐る恐る手を伸ばして、捧げ持つように私の右手に触れた。手のひらを覗き込むように顔を伏せる。
 
ぽとぽたと落ちる泪滴が冷たくて、熱を持ち始めた手のひらに心地いい。
 
「…ごめんなさい」
 
涙の味を、後悔で変えて。シンジの肩が震えている。
 
「もう、シェルターを抜け出したり、しないわね?」
 
伏せた顔をそのままに、シンジが頷いた。
 
抱きしめてやりたいところだが、友達の前でそれは嫌がるだろう。
 
左手をその頭において、撫でてやる。皮膚を破かないように気をつけたが、LCLで撫で付けられた頭髪は滑らかで、その気遣いは無用だった。
 
 …
 
落ち着いてきたのを見て取って、視線をトウジ、ケンスケと、
 
「鈴原君に、相田君も、約束してくれる?」
 
「…すんまへん」
 
トウジが、床に頭突きせんばかりの勢いで土下座した。
 
「…ごめんなさい。僕がむりやり誘ったんです…」
 
ケンスケもうなだれる。
 

 
この様子なら、二度とシェルターを抜け出したりしないだろう。そう確信して、立ち上がった。
 
「それでは葛城一尉。責任をとって、この子たちの精密検査に付き添ってくださいね」
 
「へっ?」
 
「泥だらけの格好で汚染されたLCLを呼吸しているんですよ」
 
そう云えば。という顔でミサトさんがうめいた。…それはどうかと思うが。
 
それなりの時間はかかるだろうが、これくらいのお灸は据えておいてもいいだろう。
 
 
****
 
 
一足先に会議室を辞して、廊下へ出る。
 
途端、疲労に負けて壁にもたれかかった。光槍使徒戦後も感じたが、あまりにも消耗が激しい。
 
直接制御下では、初号機の疲労もまた私の疲労だ。使徒と対峙することで感じる初号機のストレスすら共有せねばならない。この、たんなる人間の体で。
 
これから激化していく使徒戦。このままでは、早晩この体が保たなくなるだろう。
 

 
なにか、根本的な対策を立てなければ。そう決意して、歩む脚を気力だけで支えた。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:43


「目標のレンジ外、超長距離からの直接射撃ですか?」
 
発令所近くのミーティングルーム。使徒の能力を検証するために、ミサトさんと2人で詰めていた。さっきまで補佐役として付き従っていた日向さんは、天蓋部の防御指揮を行うために発令所へ向かったところだ。
 
スクリーンには要塞使徒のアップをメインに、ATフィールドを展開する姿。熔かされる兵装ビル。地面を掘りぬくボーリングマシンのライブ映像などが表示されている。
 
「そうです。目標のATフィールドを中和せず、高エネルギー収束帯による一点突破しか方法はありません」
 
様々な威力偵察を試した結果、ミサトさんが出した結論がそれだったらしい。
 
「初号機のATフィールドなら、あの荷電粒子砲を防げますよ」
 
「…それは存じています。ですが、こちらのほうがより安全に殲滅できます」
 
平気で衛星軌道から攻撃してくるような連中相手に、6㎞程度の距離が安全なわけがないが、それはまあいいだろう。
 
手近なコンソールを操作して、MAGIにアクセスする。
 
「賛成2、条件付き賛成が1。なのに勝算はたった8.7%、でもですか?」
 
「…最も高い数値です」
 
ミサトさんの歯切れが悪い。
 
シミュレーションではもっと過激な作戦を立案していたのに、ここにきて何故、こんな消極的な方法なのだろうか。
 
コンソールから身を起こして、腕を組む。その動きに釣られてか、ミサトさんの視線が泳いだ。
 
その挙動が気になったので、組んだ腕を後ろ手に組み直してみる。無意識に追っていたらしい視線が、視界から対象が消えたことで行き場をなくしたのだろう。我に返ったミサトさんが、目を逸らした。
 
人造人間たるエヴァを擁するネルフの、医療レベルは高い。ことに再生医療の分野では随一だろう。リツコさんが直々に診察、治療を施してくれたこの掌は、1週間を待たずして完治したのだ。私のこの両手からジェルパッドが取れたのは昨日だったから、ミサトさんがクローン再生の青白い皮膚を見るのは今日が初めてのことになる。
 
ちらりと向けられる視線が、とても痛々しい。ずっと気に病んでいたに違いなかった。そのこと自体は純粋に嬉しいと感じるが、それでは本末転倒だと思う。
 
「1億8千万kW。それだけの大電力を、どこから集めてくる気ですか?」
 
「…日本中からです」
 
解かりきっていることを、相手を否定するために敢えて訊き質さないとならないのは、すこしつらい。
 
「私の権限で却下します。
 電力の供給を絶たれることで発生する経済的損害もそうですが、ICUやCCUなど、電力供給なしには支えられぬ人命だってあります」
 
反駁しようとしたミサトさんを、身振りで黙らせる。右の掌をこれ見よがしにかざしたのは、弱みに附けこんだようで気が引けるが。
 
「葛城さん。本当にその作戦が、ベストですか?」
 
逡巡を視線で表して、ミサトさんが顔を伏せた。
 

 
伏せた顔をそのままに、ゆっくりとかぶりを振っている。
 
 
そっと歩み寄って、ミサトさんの手を取った。
 
「葛城さんの気持ちは嬉しいわ。でも…、覚悟して戦場に赴いている者に、その優しさは失礼ですよ」
 
跳ねるように面を上げたミサトさんの目尻に、潤み。
 
「…アタシは、自分の望みのためにエヴァを、あなたを…」
 
その苦しみはよく知っていたから、皆まで言わせずに抱きしめた。やはり、自らが前線に立てないことを気にしていたのだ。今も、おそらくかつても。
 
「承知の上です。誰があなたを作戦部長に任命したと思っているんですか」
 
嗚咽を押し殺そうとするミサトさんの、肩がとても小さかった。
 
 
****
 
 
 『最終安全装置解除、エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
 
第3新東京市からもっとも離れたこのゲートは、攻撃の意志さえ見せなければ要塞使徒が反応しない、ぎりぎりの位置だ。
 
安全を優先するなら、前回と同様に地下から攻撃すべきだと思う。ただ、自我を持ち直接制御でもある初号機には、厳密な意味での無起動状態というものがない。エヴァの気配が地下で動き回った場合の要塞使徒の反応は、少し読みがたかった。
 
なにより、ミサトさんの立案した作戦で使徒を斃してあげたかったのだ。
 
 
万が一のためにとリツコさんが用意してくれた盾を左手で掲げ、完成したばかりのポジトロンライフルを構えた。
 
 『 目標内部に、高エネルギー反応! 』
 
 『 円周部を加速、収束していきます! 』
 
使徒の攻撃意志に反応した初号機の緊張が、私の鼓動までも高鳴らせる。
 
落ち着け、落ち着け。お前なら大丈夫。
 
「フィールド、全開」
 
襲い掛かってきた光の奔流を、ATフィールドが楽々と受け流した。戦車の避弾径始よろしく角度を持たせたATフィールドの表面を滑って、荷電粒子が初号機の頭上を駆け抜けていく。
 
念のために5段重ねの析複化を施しておいたが、その必要はなかっただろう。今の手応えからするに、たとえ真っ向から受け止めても、躱すぐらいの時間なら稼げそうだ。
 
ほら、大丈夫。
 
 
いくつかの監視カメラの映像をヴァーチャルウィンドウに呼び出し、状況を確認する。
 
背後の外輪山の稜線を削って、荷電粒子が空の彼方へと吸い込まれていっていた。少々、角度が浅すぎたらしい。
 
 
…… 
 
絶対に防げると請け負った私の言葉を受けての、ミサトさんの提案はしごく単純だった。
 
ATフィールドで防ぎつつ、ポジトロンライフルで攻撃。ただ、それだけだ。
 
だが、そのためには、通常兵器による威力偵察では測りきれなかったこの使徒の実力を、もう少し暴いておく必要があった。
 
 
 『 27番、発射ぁ! 』
 
ミサトさんの号令に、使徒をはさんで初号機とは反対側の兵装ビルがミサイルを発射する。新たな脅威の出現に備えようと荷電粒子砲が途絶えたので、盾を捨てて走り出した。ミサイルの着弾に合わせてATフィールドを中和。さらにポジトロンライフルを撃ち込んでやる。
 
放たれた陽電子が、要塞使徒の表面を穿つ。綾波ほどの射撃センスがないこの身体では着弾が散ってしまうが、効いているようだ。ミサイルの方は…?
 
 『ミサイル、効果ありません』
 
…さもあらん。
 
フィールドを中和された状態で攻撃を受けた使徒は、自分がどうすべきか瞬時に判断を下したらしい。初号機に向かって、再び荷電粒子砲を放ってきた。エヴァが一番の脅威だと認識して、ほかの攻撃を無視してでも初号機を釘付けにするつもりだろう。制動をかけて立ち止まらせ、こちらもATフィールドを張り直して受け流す。
 
 
先だっての威力偵察で、兵装ビルによる挟撃を行ってみた。2方向からのミサイル攻撃に対し、要塞使徒は荷電粒子砲を時間差で照射することで迎撃した。
 
そこで判ったのは、要塞使徒はその側面スリットのどこからでも荷電粒子を照射できるということと、粒子を加速させたままで必要量だけを攻撃に使用できるということだ。通常物質で建造した粒子加速器には真似できない芸当だから、要塞使徒は粒子加速にもATフィールドを利用してると思われる。
 
そこで、荷電粒子砲による攻撃中はATフィールドを張れないかもしれないと推測されたが、それが証明できてない。要塞使徒は、攻撃と防御を巧みに使い分け、攻撃中の隙を突かれるような失策を決して犯さなかったのだ。使徒のその振る舞いこそが傍証だという意見もあったが、希望的観測で作戦を立ててはならない。
 
 
 『 28番、続けてっ! 』
 
ミサトさんの号令で、再びミサイル攻撃。噴煙たなびかせて使徒の後背に殺到するが、その直前でことごとく四散した。ATフィールドで防がれたようだ。やはり、攻防同時も可能だったか。空中浮遊のためにもATフィールドを使っているはずだから、できて当然だろうとは思っていたが。
 
要塞使徒にとって僥倖だったことに、ヒトの心で制御しているエヴァは、ATフィールドを複数同時に使いこなすことができない。こうして荷電粒子砲を防いでいる間は、使徒のフィールドを中和できないのだ。
 
ともかく、これで、ATフィールドで防ぎながらポジトロンライフルで攻撃するというわけにはいかないことが判った。
 
 
『…ユイさん』
 
通信ウィンドウの中のミサトさんに、頷いてみせる。
 
次に試すのは、最強の矛と最堅の盾の、どちらが強いか。と云うことだった。
 
……
 
荷電粒子を受け流しているATフィールドの形を、徐々に変える。その奔流を包む、円筒形へと。併せて、長さも伸ばす。全長4㎞ほどのATフィールドのチューブが完成するのに、さしたる時間はかからない。ガイドレールの形成にも、ずいぶん慣れた。
 
ここからが正念場だ。
 
荷電粒子を導くガイドレールと化したATフィールドを、慎重に、慎重に枉げていく。水の勢いで暴れるホースを押さえ込むような手応えが、ちょっと恐い。
 
 …
 
かなり時間をかけて、ようやくチューブの出口を上空へと向けた。監視カメラの映像の中で、きれいなカーブを描いた荷電粒子が、そのベクトルを捻じ曲げられて垂直に立ち昇っている。
 
なんとか、コツを掴めたようだ。ここからは一気にいけるだろう。
 

 
ぐるり。とループを描かされた荷電粒子は、芦ノ湖の湖水を盛大に蒸発させ、第3新東京市に溝を穿ちながら、要塞使徒そのものを切り裂かんとした瞬間に、途切れた。
 
さすがに自分の攻撃を喰らうほど、使徒も間抜けではないか。
 
すかさずフィールドを中和して攻撃しようと思ったが、それを許してくれるほど要塞使徒も甘くない。間髪入れずにスリットの別の場所から荷電粒子を放ってくる。こちらもATフィールドを張り直して受け流す。ただし、その展開範囲は長めに、使徒の至近にまで延ばしておく。
 
見れば、荷電粒子を放つ位置がゆっくりとだが移動していた。さっきみたいに悪用されないよう、用心しているのだろう。
 
 
「次を試します」
 
通信ウィンドウの中で、ミサトさんが頷く。
 
やる気をなくした。とでも言わんばかりにライフルの銃口を下げる。ATフィールドの強度を上げられるだけ上げて、しゃがみこむ。
 
要塞使徒相手に篭城戦を仕掛けることになるとは、思いもしなかったな。
 
 『 撃てぇい! 』
 
牽制の砲撃が、要塞使徒のATフィールドに阻まれる。それ自体に効果は望んでいない。まずは少しでも使徒の気が逸れれば上等だ。2射、3射と続く。
 
心を知らぬ使徒に心理戦を仕掛けることは、基本的に無意味だろう。
だが、状況に応じて行動を変えることができる以上、その中枢にはなんらかのプログラムがあって、判断基準の更新すら行なっているはずだ。そうして獲得したルーチンは、機能増幅の一環として短時間で最適化されるに違いない。
 
つまり、使徒は状況に慣れる。
 
そして、使徒といえども生物なのだから、最低限の労力で最大の効果を得ようとするだろう。こちらのATフィールドの使い方を見たあとなら、なおさらだ。
 
 
単調で間隔の長い砲撃は、その殺伐極まりない爆音を別にすれば、まるで鹿脅し。
 
当初ATフィールドを張りっぱなしだった要塞使徒は、徐々にタイミングを合わせて張りなおすように、ついにはピンポイントで防御しだした。
 
ちらり。と視線をやった先に、ポジトロンライフルのチャンバー内の状況表示。フル稼働で生成された陽電子が、もう少しで満杯になる。そろそろ頃合だ。
 
 
攻撃力は向こうが上。防御力はこちらが上。しかし、相手は攻撃しながら防御できる。この前提条件を示されたミサトさんは、悩みぬいた上でこう言った。
 
 
        ― 盾を、攻撃にも使えばいい ―
 
 
35射目の砲撃が防がれた瞬間。荷電粒子砲を受け流しているATフィールドを、あたう限りの速度で押し出した。角度を持ったATフィールドの体当たりを受けて、要塞使徒がつんのめる。乗用車に轢かれた人間が、ボンネットに乗り上げるように。結果、荷電粒子砲が第3新東京市の地面を穿つ。
 
いかに使徒といえど、常にATフィールドを張りつづけているわけではない。要塞使徒は他の使徒と較べても格段に早い反応と展開速度を誇っているが、それでも意表は突ける。そのために、消極的な撃ちあいをしかけているように見せたのだ。
 
すかさずフィールドの中和に切り替えて、駆け込みながらポジトロンライフルを連射する。要塞使徒が体勢を整え直すまでが勝負だ。
 
チャンバーエンプティの警告音。陽電子を撃ち尽くしたライフルを振り落とし、プログナイフを抜く。疾走の勢いをそのまま乗せて、対消滅が抉った破口めがけて突き入れた。
 
 …
 
 『 パターン青、消滅。使徒殲滅を確認しました 』
 
 『 ぃよっしゃあっ! 』
 
威勢のいいミサトさんの歓声に、苦笑。
 
これでダメなら重力軽減ATフィールドで跳ね上げたりしようと思っていたが、そこまでせずに済んだようだ。
 
 
****
 
 
加糖のコンデンスミルクを缶ごと2時間ほど茹でると、お手軽ミルクジャムができあがる。
 
セカンドインパクトからの復興期。生乳の手に入りづらい時代に比較的入手が容易だったのが、スキムミルクとコンデンスミルクだった。とはいえ、コンデンスミルクなどはそれほど使い道があるわけではない。苦肉の策で考え出したのが、こうしてジャムにしてしまうことだったのだ。
 
本来は冷ましてから使うのだが、熱々のうちにパンに塗って食べるのをシンジが好んだ。シンジがすれば、レイも真似をする。
 
今もそうして、はふはふとミルクジャムを塗ったトーストにかじりついていた。
 

 
かつての綾波と、レイを同一視してはいけない。
 
だけど、この子が美味しそうに熱いものを食べているのを見ると、なんだか嬉しくなってくるのだ。
 
 
「…今日、学校くる?」
 
「ええ、もちろん。授業参観は、何のお勉強をするの?」
 
「…おんがく。鈴原さんとがっそう」
 
そう、楽しみにしてるわね。と微笑みかける。
 
「レイの授業参観、何時から?」
 
2枚目のトーストに取り掛かって、シンジだ。
 
「…10時」
 
「僕も観に行って、いい?」
 
…こくん。とレイが頷いた。
 
運動会などがそうであるように、授業参観なども休日の催行が常だ。その代わり、翌日などが代休になる。
 
「あら、じゃあ一緒に出発する?」
 
「トウジを迎えに行くから、いいよ」
 
なるほど。トウジも、ナツミちゃんの授業参観を観に行くのか。シンジの情報源はそのあたりだろう。
 
一足先に登校しなければならないレイが、…ごちそうさま。と手をあわせる。使った食器をキッチンに下げて、仕度をしに自室へと消えた。
 
 
「…いってきます」
 
ランドセルを背負っているというより、ランドセルに背負わされているといった態のレイが、ピアニカを抱えて、廊下から。
 
「「いってらっしゃい」」
 
 
復興が進んできたのか、カラーランドセルが流行りだしたのはここ数年のことだ。
 
レイのランドセルは白。そうした色が売ってないわけではないが、市販品ではない。
 
リツコさんとナオコさんが入学祝いとして染めてくれたのだ。プラグスーツの染色技術を使い、65536色のカラーバリエーションの中から、レイの好みの色で。
 
蘇比色とか深木賊色とか言われたことを思えば、簡単なものです。とはリツコさんの弁だ。
 
 …
 
ベランダに出て、集団登校の列に加わるレイを見届けた。
 
サイレントホワイトは落ち着いたやさしい白で、感情表現豊かとは見えないレイの、裡に秘めたるものを表しているかのようだ。
 
その白いランドセルが、角度によって翼に見える。…飛んでいったり、しなければいいけど。
 
 
                                         つづく
2007.07.13 PUBLISHED
2007.08.01 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:43


「ハロゥ、ミサト。元気してた?」
 
オーバーザレインボーの甲板の上で、サンライトイエローのワンピースが、まばゆい。
 
「まぁねー。あなたも、背、伸びたんじゃない?」
 
見たところ、アスカの様子に変わったところは見受けられない。まずは一安心といったところ。
 
「そ。ほかのところもちゃんと女らしくなってるわよ」
 
一歩前へ進み出たミサトさんが、半身を引いて姿勢を正した。
 
「紹介します。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、ザ・チャイルド、惣流・アスカ・ラングレィです」
 
間接制御の適格者はこの世に一人しか居ないから、ナンバリングはされてないのだ。
 
「アスカ。こちらが初号機パイロット、碇ユイさんよ。こっちの彼女は技術部の伊吹マヤちゃん」
 
ワンピースの裾が捲れるのもお構いなしに歩み寄ってきたアスカが、胸を張って仁王立ち。
 
「よろしく、アスカちゃ…」
「制式型の弐号機と、正式な訓練を受けたワタシが来た以上、アンタと初号機はお払い箱よ。
 せいぜいベンチでも暖めてることね」
 
言いたいことはそれだけだ。と言わんばかりに踵を返したアスカが、立ち止まる。おざなりに振り向かせた顔の、視界の片隅でこちらを捉えて、すぐに逸らした。
 
「なれなれしく、ちゃん付けなんかで呼ばないでよね」
 
アイランドに向けて一直線に歩きだしたアスカに恐れをなしたらしく、屈強な甲板整備員さんが道を譲っている。
 
「ちょっとアスカっ!」
 
あまりの成り行きに呆然としていたミサトさんが慌てて追いすがるが、アスカはとりあわなかった。
 
 
ドモらずにちゃん付けで呼べるようになったのにな…
 
 
本部への対抗心を隠そうともしないドイツ支部は、アスカの教育もその方針で臨んだらしい。加持さんの報告に拠れば、敵愾心と呼んで差し支えないレベルで叩き込まれたようだ。
 
その一方で、惣流・キョウコ・ツェッペリンが直接制御に失敗したことを聞こえよがしにあげつらっていたのだという。
 
母親の不名誉を濯ぐために、アスカは懸命に証明しようとしているのだ。弐号機のほうが強く、自分のほうが優秀であると。
 
 
初号機を持ってこなくて良かった。このうえ初号機の姿など見たら、アスカの対抗心はとどまることを知らなかっただろう。
 
 
「あの、ユイさん?」
 
気付くと、マヤさんが心配そうな顔で覗き込んでいた。アスカとミサトさんはとっくの昔に艦内のようだ。
 
考え込んでしまっていたのを、アスカの言葉にショックを受けたと勘違いされたのかもしれない。
 
「私ったら、ぼんやりしてました。参りましょうか」
 
 
実際のところ、あの程度の言葉ではとても足らないのだ。
 
弐号機が造られたのも、アスカの母親がエヴァに囚われたのも、アスカがパイロットに選ばれたのも、すべて私の罪だった。
 
そうと知っていれば、あんなものでは済まなかっただろう。出会い頭になぶり殺しにされたっておかしくなかったのだ。
 
 
****
 
 
「おやおやチャーリーズ・エンジェルスのご登場かと思っていたが、それはどうやらこちらの勘違いだったようだな」
 
「ご理解いただけて幸いですわ、艦隊司令」
 
あらかじめ釘を刺しておいたので、ミサトさんが艦隊司令を艦長と呼び間違えることはない。
 
「いやいや、私の方こそ、久しぶりに子供たちのお守りができて幸せだよ」
 
「このたびはエヴァ弐号機の輸送援助、ありがとうございます」
 
「こちらが非常用電源ソケットの仕様書です」
 
書類の束を差し出す役は、マヤさんにお願いしてあった。
  
「はん!だいたい、この海の上であの人形を動かす要請なんぞ聞いちゃあおらん!」
 
「申し訳ありません。こちらの配慮が足りませんでした」
 
艦隊司令との交渉については、事前に打合せをした上で一任している。この場はミサトさんに任せて、入り口を見張った。
 
案の定、そう経たないうちに加持さんの姿が現れる。
 
目敏くこちらに気づいた加持さんに、眉を顰めてみせた。艦隊司令との交渉中だ。邪魔されたくない。
 
察したらしい加持さんが、肩をすくめて壁にもたれかかる。
 
歩哨に立っている海兵隊員が、あからさまに不機嫌な顔になった。
 
 
****
 
 
『オセローより入電。エヴァ弐号機、起動中』
 
「なんだと!」
 
予め警戒態勢を強化してもらえたため、所属不明潜行物体の発見は早かったのだろう。先ほどまで居た航海艦橋から1フロア下の戦闘艦橋に移動して、久しい。
 
ミサトさんが、マヤさんからヘッドセットインカムを受け取っている。
 
「アスカ、その場で待機」
 
省電力モードで。と私が付け足すと、マヤさんが携帯端末から弐号機内部電源の操作を始めた。今回はアドリブではない。
 
艦隊が襲われた場合の対処法も、弐号機の現状でシミュレーションを重ねてある。ここもミサトさんに一任だ。
 
 
「こんな所で使徒襲来とは、ちょっと話が違いませんか?」
 
「使徒相手に、そんな約束できませんもの」
 
邪魔にならないよう艦橋の隅で壁の花になりながら、加持さんを捕まえておく。アダムのサンプルを持ってきていることは承知の上だが、またぞろ敵前逃亡まがいに逃げ出されては堪らない。
 
 
ミサトさんの指示で、弐号機がアンビリカルケーブルを接続した。あらかじめ輸送船を伴走させてもらっていたから、ちょっと手を伸ばすだけだ。
 
併せて持ってきておいたN2爆弾を腰部ラックに取り付けさせ、両腕の手首ラックには電磁柵形成器を仕込ませる。
 
 
ポジトロン20Xライフル開発の過程で派生した副産物が、電磁柵形成器だ。
 
陽電子をコンパクトにパッケージ化することは、エヴァの火力向上を考える上で必要不可欠だった。電磁柵形成器は、そうして完成した陽電子カートリッジを用いて対消滅を起こし、発生したガンマ線を柵状に形成する。
 
この棹状の装備はかつて分裂使徒戦で使ったことがあるし、無防備使徒戦で使った捕獲器は電力供給によって電磁柵を維持するタイプだっただろう。
 
使徒を拘束できるほどの出力は期待できないが、起動時の一瞬だけプログナイフ並みの切断力を発揮する。もっとも、ATフィールドを中和していてなおかつあれほどの防御力を誇る帯刃使徒には通用しないだろうし、発動までにタイムラグがあるから憑依使徒ほども機動力があれば素直には喰らってくれないだろう。なにより、最低でも2本一組で扱わねばならず、おのずと効果範囲も狭いから運用が難しい。
 
だが、陸上での動きが鈍くて、ATフィールドさえ中和してしまえば通常兵器で斃せてしまう海中使徒相手なら効果が見込めるだろう。
 
 
 …
 
 
海中使徒は、襲いかかった弐号機に力づくで受け止められ、輸送船の甲板上で身動きが取れなくなったところを電磁柵形成器によってその図体に盛大な切り込みを入れられた。さすがに切断にまでは至らなかったが、筋肉を大幅に分断されて、その抵抗力はかなり減衰したようだ。
 
それでも暴れる使徒を巧みに押さえ込んで、弐号機が左肩ウェポンラックを開く。
 
『コアってのはドコよ!』
 
いさぎよく泣き別れにしてやろうと云うのだろう。プログナイフを装備して、使徒の傷口を抉り始めた。悠長に捌いてる暇があるとも思えないが。
 
「…おそらく、体内と推測されます」
 
『「体内って…」』
 
マヤさんの報告に、ミサトさんまで困惑の表情を向けてきた。
 
自分の口元を指差し、…わ? と唇を開いて見せる。
 
「アスカ、使徒の口、開けてみて」
 
 …
 
結果、海中使徒は口腔内にN2爆弾を放り込まれて沈黙、ナイフで止めを刺された。
 
コアの残骸がいくぶんか原形をとどめてしまったようだが、致し方ない。
 
使徒のフィールドを中和できさえすればそれでよいと考えているドイツは、その応用をあまり重要視してなかった。それを前提に弐号機で採りうる作戦は限られていたのだ。
 
 
****
 
 
「弐号機の指揮権が本部にないって、どういうことよ!」
 
あまりの大声に、注目を浴びる。日本語だったから、ギャラリーには意味が通じてなさそうだけど。
 
新横須賀まで時間があるから、食堂でティーブレイクだったのだが。
 
「やっ、俺に言われてもなぁ。…ほら、委員会の勅書」
 
破きかねない勢いで加持さんから奪い取った書類を、ミサトさんが食い入るように見つめた。
 
「委員会直属で一尉待遇の上に、弐号機の作戦行動の自由を保障する。ですって~!」
 
横から覗き見るに、アスカが本部の命令に従わなくていいというわけではなくて、弐号機パイロットの作戦立案への発言権が大幅に強化された。と云うことらしい。とはいえ作戦部長と同格なのだから、あまり無下にもできない。作戦中に行動を掣肘できるのは初号機だけだし、委員会直属ということは処罰の類いも難しいから、実質フリーパスみたいなものだ。
 
実戦用の制式機体と正式な訓練課程を修了したパイロットが居るのだから、実験機は引っ込んでいろ。と、まあそういったようなことが理由としてずらずら書かれていた。
 
そんなお題目が建前に過ぎないことは判っている。…ゼーレの真意はなんだろう?
 
どうにも信用できないネルフ本部に対して牽制をかけてきたのだろうが、やり口があまりにも横紙破りだ。弐号機が使徒に敗れてしまえば、元も子もないだろうに。
 
「今日はまあB型装備で不安だったからノってあげたけど、今後、指揮官面して指図すんじゃないわよ。ミサト」
 
「ぁんですってぇ~!」
 
大人気なくアスカに掴みかかろうとしたミサトさんを、懸命に押さえつける。見境をなくしたミサトさんを止めるのは至難の技だ。体格が違う上に、軍隊生活で鍛えられているのだから。
 
かかる事態を招いたのも己の自業自得なんだろうとは思うが、こみあがる徒労感を拭いきれなかった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:44


「なんで惣流がっ!」
 
シンジの驚愕は、なんだか悲鳴に近い。
 
「…」
 
興味ないだろうと見やったレイは、意外にも児童書から目を上げてアスカを見つめていた。
 
「うるさいわね。仕方ないでしょ、作戦なんだから」
 
不機嫌を全身で表現したアスカが、その体を叩きつけるようにしてソファに沈んだ。
 
 
初号機の援護をきっぱりと断って突出した弐号機は、案の定、分裂使徒に撃退されてしまった。
 
なんとかできるか? とのミサトさんの問いかけに、初号機だけでは難しそう。などと答えてしまったのは、この事態を望んでいたからだ。
 
そう。ミサトさんが、ユニゾンの特訓を言い出すのを。 
 
 
「第7使徒の弱点は1つ!分離中のコアに対する二点同時の荷重攻撃、これしかないわ」
 
こぶしを振り上げて力説するミサトさんを、シンジが白い目で見ている。
 
「つまり、エヴァ2体のタイミングを完璧に合わせた攻撃ね」
 
フォローに入れた解説を耳にして、アスカがそっぽを向く。
 
「そのためには2人の協調、完璧なユニゾンが必要だって云うんでしょ。耳にタコができたわよ」
 
ミサトさんによる説得工作はもっと難航するかと思っていたが、アスカは意外にあっさりと了承した。使徒撃退を失敗したことに、責任を感じているのだろう。
 
不機嫌さは隠そうともしないが、公私は混同しない。アスカの本質は変わってないようで少し、嬉しかった。
 
「そこでね。しばらく惣流さんに、ここで生活してもらうことになったの」
 
「えぇ~っ!?」
 
美少女と同居。ということになって歓ぶ、とまでは思っていなかったが、こうまで嫌がるとは実に予想外だった。
 
いったい学校で、どのような関係になっているのだろうか?
 
「だからって、どうして、こうなんのかっ」
 
シンジの態度が癇に障ったらしく、アスカが手近にあったリモコンを引っ掴んで振りかぶる。
 
「訊きたいのはワタシのほうよ!」
 
狙いあやまたずシンジの額にクリーンヒット。するかに見えたリモコンを何気なく掴み取って、ミサトさんがアスカの前へ。
 
「使徒は現在自己修復中。第2波は6日後、時間がないの」
 
…そんなことは判ってるわよ。と、そっぽを向いた、アスカの体が酷く小さく見えた。
 
 
****
 
 
「弐号機に、ブラックボックスがある?」
 
「はい。開封できないよう、厳重にシーリングされた物体が組み込まれていました」
 
リツコさんが、プリントアウトの束を差し出してくる。
 
位置的には延髄のあたり、エントリープラグにもほど近い脊髄の中らしい。掌に載るような小さな部品で、リツコさんでなければ気付かなかっただろう。
 
「…どう、見ます?」
 
「不定期に電波を発していることと、位置的に、何処かへテレメトリーデータを送信しているのではないかと思いますが」
 
初号機が寂しがるから。という理由で、ケィジのセンサー類は常にフル稼働している。MAGIとリツコさんが計測結果をリアルタイムで監視していなければ見過ごしただろう。子供部屋に寝かせた赤ちゃんの泣き声を送信するベビーモニターという商品があるが、それをヒントに行なっていた処置がこんな形で役に立つとは思わなかったが。
 
ともかく、ゼーレが弐号機を使って何かを企んでいることが、これではっきりした。
 
「設置場所が気になりますね。弐号機のコントロールを奪うような機能があったり、しないでしょうか?」
 
「現状では、なんとも」
 
取り外してしまうのが最も安全だが、そうした場合のゼーレの出方が判らない。
 
「ダミーを、仕込めませんか?」
 
「発信している電波を解析して、エミュレーションを組めと?」
 
ええ。と頷くと、リツコさんが眉を顰めた。
 
「弐号機の修復期間を2日、延ばせれば」
 
となると、分裂使徒を迎え撃つのは結局ここ、第3新東京市になってしまうか。弐号機だけを修復すればよかった分、早めに迎撃態勢を整えられる予定だったのだが…
 
「お願いします」
 
 
****
 
 
アスカとのユニゾンを体験したことのある私にとって、この特訓そのものには意味がない。ぶっつけ本番でも合わせられるだろう。
 
それに、以前と違って何もかも生活のリズムを合わせるわけには行かないのだ。アスカに家事をさせるつもりはないし、使徒対策室長としての職務もある。
 
ただ、すこしでもアスカとの接点を増やしたかったのだ。そうして多少なりとアスカの心を解きほぐせないかと、期待して。
 
 
失念していたのは、この肉体は反射神経や瞬発力で大きくアスカに劣る。ということだった。
 
 
耳障りなビープ音が、神経を逆なでする。
 
「実験機のパイロットなんかに合わせてレベルを下げるなんて、うまく行くわけないわ!どだい無理な話なのよ!」
 
ヘッドホンを床に叩きつけて、憤懣やるかたない様子のアスカが座り込んだ。
 
「ごめんなさい」
 
日課のジョギングのお陰で、スタミナは問題ない。だが、基本的な身体能力と年齢差は如何ともしがたかった。
 
「これは作戦変更したほうがいいかもね」
 
ぼりぼりと頭を掻いて、ミサトさんが困り顔。
 
「そうすりゃいいのよ。このロートルパイロットを外してね」
 
なっ。と声を荒げて立ち上がったのは、リビングを占拠されて否応なしに見学させられていたシンジだった。珍しく肩を怒らせて、アスカに詰め寄っていく。
 
「惣流に合わせようって気がないからだろ!」
 
こんな風にアスカに食ってかかるなんて、かつての自分では考えられないことだ。自己主張ができるから、学校でも対等な喧嘩相手らしいのだが。
 
「最低限のレベルにも達してないのに、合わせようもないわよ!」
 
「母さんの様子を窺うことすらしてなかったじゃないか。自分勝手に突き進んでおいて、相手のせいにばかりするなよ!」
 
猫も杓子もアスカ、アスカな状況にあって、男子の中では一人シンジだけが遠慮なくアスカに文句をつけるらしい。いわく、協調性が足りない。いわく、ヒトを見下すな。等々…
 
密かに女子の人気が高いらしいシンジが真っ向から噛み付いて見せるものだから、アスカに対する女子の反感がやわらいでる。というのがMAGIの分析結果。
 
むしろ、男子生徒と口角泡を飛ばして口喧嘩するアスカに親しみを覚えるらしく、却って女子の好感度も高まってきているのだとか。それに、男子生徒が寄越す好奇の視線も、間近で堂々としているシンジに引け目を感じるのか、減少傾向だという。
 
おそらく、シンジ君は狙ってやってるわね。とはナオコさんの弁だ。
 
「目指すべき高みってヤツを、このロートルパイロットに教えてあげてんのよ」
 
「それが協調性がないってことなんだよ。まずは合わせることが大切だろ」
 
こうして遠慮仮借なく口論しているのを見ると、さすがに買い被りすぎではないかと思わないでもないが。
 
「アンタ、バカぁ!? どんなにピッタリだって、ちんたらやってたんじゃ焼け石に水じゃない。レベルが高いほうにあわせるのが当然でしょ!!」
 
「その考え方が独善だって言うんだよ!レベルが高いほうが好き勝手やってたら、いつまで経っても追いつけるわけないじゃないか!!」
 
あ、いや。弁護してくれるのは嬉しいけれど、ずいぶん過熱してきて、このままではどちらかが手を上げかねない。
 
一触即発の2人の間に、割って入る。
 
「シンジ。ついていけない母さんが悪いの…」
 
「…それはそうかも知れないけど、
 今まで独りで戦ってきて、今だって頑張ってる母さんに、あんな言い方は酷いよ」
 
そう言ってくれるのは、親の姿をきちんと見て育ってくれたからだろう。
 
ありがとう。と、その二ノ腕をなでる。人前でなければ抱きしめたのに。
 
「ああっもう、イヤッ!やってらんないわ!」
 
唐突に立ち上がったアスカが、一直線にリビングを飛び出していった。
 
なにごと? とミサトさんに目顔で訊ねるが、肩をすくめるばかり。
 
叩きつけるような物音は、苛立ち紛れにスイッチを殴りつけたのだろう。心なしか玄関ドアの開閉音まで荒々しく聞こえる。…などと、のん気に感想を抱いている場合じゃない。とにかく追いかけなくては。
 
「…わたしがいく」
 
ぱたりと児童書を閉じたレイが、戸口に消えた。
 
 …
 
玄関ドアのスライドする音で、我に返る。
 
レイがアスカを気にしていることは、薄々感づいていた。だが、よもやこの場面で追いかけるとは思いもしなかったのだ。慌てて後に続こうとする私を、待って。と遮ったシンジの顔も、まだ呆気にとられていた。
 
様々な思いで揺らした瞳を据えて、わずかしかない身長差を見上げてくる。
 
「僕が行ってくる」
 
今のこの子を見ていると、かつて自分が碇シンジであったことが信じられなくなりそうだ。それほどまでに、違う。
 
もはや、この子が、どうアスカに向き合おうとしているのか、想像もできなかった。
 
当然、どうするつもりかも判らない。だけど、いや、だからこそ任せてみよう。
 
「喧嘩しちゃダメよ」
 
「判ってるよ」
 
俯き加減に応えたシンジが、リビングを後にする。ゆっくりとした足取りは、おそらく意識的に。
 
 
 
麗しき親子愛…か。と溜息混じりの呟きに、はっとミサトさんの顔を見た。
 
アスカに親子の絆を見せつけたのだと、非難されたかと思ったのだ。
 
開け放たれた戸口を見つめるミサトさんの目元は自嘲に満ちて、そんな意図がないことを教えてくれる。
 
だが、アスカを傷つけた事実に変わりはない。
 
幸せにしてやりたいと願っているのに、自分の何気ない行動や選択が次々とアスカを傷つけていくのだ。
 
…なし崩し的に同居に持ち込もうと思っていたが、考え直すべきだろう。前回とは状況が違うということへの認識が薄かった。
 
今なら、かつて自分を捨てた父さんの気持ちが解かるような気がする。このまま自分の傍らに置いていては、どれだけ傷つけることになるのか、怖い。
 
ミサトさんの胸元で鈍く光るロザリオを、この手の中に感じたかった。
 
物欲しげな視線を見咎められるのを恐れて、キッチンに逃げ込んだ。
 
 
****
#1
****
 
 
ペンペンが、ペンギン背負って入ってきた。
 
ダイニングテーブルの反対側にレイを見つけると、ぺたぺたと歩み寄って背中を向ける。
 
たすき掛けに括りつけられているのは、皇帝ペンギンのぬいぐるみだった。縮尺は実物の半分ほどで、ペンペンよりわずかに低い。ただし、デフォルメが効いてるぶん丸っこくて、容積ではペンペンより大きいだろう。
 
「…ありがとう」
 
ク~ワクワワクワっ。とペンペンが応じていると、迎えに出たシンジにへばりつくようにしてミサトさんが入ってきた。
 
「誕生日おめでと~♪」
 
手にしていた雛のぬいぐるみを差し出す。親子セットらしい。
 
…ありがとう。と、はにかむレイを撫でまわしている。綾波とミサトさんが幸福な出会い方をしていたとしたら、こんな光景が見られたのだろうか。
 
 
「ノンキなものね…」
 
壁の花とばかりに遠巻きに眺めて、アスカの視線は厳しい。なのに歯切れが悪いのは、純粋に不快だと思っているわけではないのだろう。
 
「不謹慎なのは判っているわ」
 
正直、レイの誕生祝いを行うことも、そこにアスカを招くことも、…かなり躊躇した。使徒の再進攻は目前なのだ。
 
「でも、私たちは、こうした日常を守るために戦っているの。…かけがえのない、人々の営みをね。私は、そのことを確認するために、こうしている」
 
…そうね。とアスカはすげない。だけどその呟きには、なにか芯でも入っているような確かさが感じられた。
 
 
両手でペンギン親子を抱えた…というより、ペンギン親子にしがみついてるといった態のレイが、口元をほころばせたままやってくる。よほど嬉しいらしい。
 
「そう。よかったわね」
 
しゃがみこみ、その頭をなでてやってると、アスカもまた屈みこんだ。
 
「誕生日オメデト。悪いわね、急な話だったからプレゼント用意できなかったわ」
 
ペンギンの谷間から顔をのぞかせて、レイがふるふるとかぶりを振った。
 
「…もう、もらったから」
 
もう…って? と、まばたきを繰り返したアスカの、しかし当惑は長くない。
 
「あんなんで、いいの?」
 
こくりと頷くレイに、アスカがとても優しい眼差しを向けている。飛び出したアスカと追いかけたレイの間に、いったい何があったのだろう。
 
いや、それを知る手段が、無いわけではない。コンビニで話す2人の姿を、MAGIの監視網が収めていたそうだから。なにを話しているか解析する? というナオコさんの申し出を、しかし私は断った。
 
エヴァパイロットであることに誇りを持っているアスカは、監視されてることすら割り切っている。だから、レイとの会話を私が知っていたところで、驚きもしないだろう。
 
だけど、だからこそ知っておくべきではないと思うのだ。たとえそれでアスカの心を理解できたとしても、それではアスカが心を開いてくれるわけがない。
 
 
「判ったわ、任せときなさい」
 
今回は果たせそうにないけどね。と呟いたアスカの口ぶりは一転して重苦しく、ずいぶんと思い詰めているように見えた。
 
 
****
 
 
『いいわね、最初からフル稼動、最大戦速で行くわよ』
 
結局、最後の最後まで2人の呼吸が合うことはなかった。
 
「わかってるわ。62秒でケリをつけましょう」
 
だが、それで良いとアスカには伝えてある。
 
実戦では初号機が補ってくれるから、私の目標はアスカの呼吸を知ること、アスカを見ることだと話したのだ。
 
アスカはただ、思うままに戦えばいいのだと。
 
面映そうに聴いていたアスカが、可愛らしかった。
 
  『目標、ゼロ地点に到達します!』
 
  『外部電源、パージ。発進!』
 
 
実際問題として、この使徒を斃すのに完璧なユニゾンなど目指す必要はないのだ。回避や防御、韜晦行動などまで一致させる意義などない。攻撃の一瞬だけタイミングが合えばいい。重要なのは要所要所でのハーモニーなのだから、ポリフォニーで充分だ。
 
初号機の知覚と、かつてアスカとともに戦った経験があれば、それは不可能ではないだろう。
 
 
全く違う行動をしながら、攻撃の瞬間だけはぴたりと一致する。
 
最初は途惑っていたアスカも、異なる旋律が合わさる時に生まれるハーモニーにノリ始め、攻撃オプションを増やしていく。
 
アスカが膝蹴りを決めれば、初号機はエルボーを叩き込む。弐号機がニードルショットを放てば、私はハンドキャノンを3点射する。そのどれもが同時に使徒のコアに届くのだ。
 
これならどう? これはついてこれる? と語る弐号機の背中は無防備で、不可思議な一体感に夢中になっていることが判った。
 
アスカにとって、戦いの最中こそが安息なのは哀しいけれど、それでも無いよりマシだ。と己に言い聞かせる。
 
アスカが望むなら、最高のステージを用意してやるまでだ。今はそれでいい。
 
 
弐号機の踵落とし、初号機の足刀蹴りを喰らって、吹っ飛んだ使徒が融合し始めた。
 
空高く跳ねた弐号機を追いかけることはせず、使徒のコアとコアの間にプログナイフを投げつける。そんな必要はないと思うが、コアの融合が遅れればそれだけ殲滅しやすくなるだろう。
 
地に伏せるようなダッシュ。タイミングと力加減を見計らって、弐号機と同時に蹴りつけた。
 
 
                                         つづく
2007.07.20 PUBLISHED
2007.07.23 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:44


リビングのソファに、珍しくレイが一人で座っている。
 
児童書も読まず、すっかりお気に入りになったペンギン親子のぬいぐるみも傍に寄せ付けないのは、相当にご機嫌斜めなのだろう。
 
シンジが自室で、修学旅行の荷造りをしているのだ。
 
前回はただ寂しくて、それが傍目には不機嫌なようにしか見えなかったのだが、今回は違う。寂しいのはもちろんのようだが、それをどうしていいか判らない自分に、そのことを解かっていて行ってしまうシンジに、怒りにも近い感情を抱いているらしい。
 
お土産はなにがいい? と訊ねるシンジに、…なにもない。と答えるレイの不器用さは変わらないが。 
 
どう声をかけてあげたものか。
 
もし、ここにアスカがいれば、お子ちゃまねぇ。と、からかったことだろう。
 
…どうしてそういうこと言うの? とレイが口を尖らせれば、なぜかレイのことになると勘の冴えるシンジが、そういう言い方はないと思う。と文句をつけに飛んでくるだろうに。
 
そうして盛大な口ゲンカが始まったら、割って入るのだ。おやつにしましょう、と。
 

 
望むべくもないことは判っている。今のアスカがここに居ても、疎外感を与えるだけだということは。
 
私が葛城ミサトであった時代。ニセモノの家族だったときには与えることのできたモノが、今、本当の家族を得たことで成し得なくなっている。
 
かつて、本物の母親になれるものならと希求した。そうなることで得られなくなるモノのことなど、気付きもせずに。
 
何かを得れば、何かを失う。

何かを失っても、何かが得られるとは限らないのに。

世界は、やさしくない。有形無形のあらゆるモノが、ヒトの生涯を搾取している。
 
 
****
 
 
リツコさんが持ってきてくれたのは、弐号機に組み込まれていた例のブラックボックスの解析結果だった。
 
「いただきます」
 
グラスを傾けるリツコさんを尻目に、書類の束に目を通す。
 
「弐号機のテレメトリーデータの蓄積・送信のほかに、操縦を阻害する機能がありましたか…」
 
かつて、なぶり殺しにされたことを思えば、ゼーレが弐号機に何か重要な役目を負わせているとは考えにくい。
 
だから、テレメトリーデータの送信は純粋なデータ収集だと思える。問題は、何故ことさらにそんなデータを欲しがっているかということだ。この程度のデータを捏造・歪曲するほど、こちらも暇ではないのに。
 
水出しコーヒーを飲み下して、リツコさんがシガレットケースを取り出した。
 
「仰られていたような、弐号機のコントロールを奪うような機能は見受けられませんでした」
 
考えてみれば、ダミーシステムもダミープラグも、装置構成としてはかなり大掛かりだった。こんな小さな部品では、そこまでの機能は無理だろう。
 
可能なら組み込んできたかも知れないが、そもそもダミーシステムそのものを開発してないし、渡しているデータはでっち上げだ。
 
 
…ちょっと待て。ダミーシステムのデータが嘘だらけだとゼーレが気付いたとしたら、こちらから送っているデータはすべて虚偽だと警戒しているのではないだろうか?
 
正しいデータを得るために、あるいは突き合わせて検証するために、弐号機にこの装置を仕込んだ?
 
だとすると、より多くのデータを収集するためには弐号機が最前線にいたほうが都合が良いだろう。
 
つまり、アスカに与えた作戦行動の自由の保証と、初号機への対抗心を植え付ける教育は、そのための布石ではないか?
 
弐号機が、戦い続けるための。
 
 
…なんてことだ。ここでもまた、私はアスカを追い込んでいたのだ。
 
私は、アスカを傷つけるためだけにこの世界に来たというのか。
 
「ユイさん?」
 
思わず泣き伏しそうになった私を、リツコさんが現実に引き戻してくれた。
 
ああ、申し訳ありません。と言い訳しようとした私を、内線のコール音が救ってくれる。目顔で断りを入れて、受話器を取った。
 
「はい。使徒対策室」
 
内線は、発令所に詰めている青葉さんからだ。
 
「…はい? 浅間山の葛城一尉から、A-17の要請ですか?」
 
そう云えば、火口内の影を確認するのに現地入りしてもらっていたか。
 
「私の権限で却下します」
 
リツコさんがもの惜しげな顔をするが、丁重に無視した。
 
「え?…自分からは言いにくい? …わかりました、外線3番ですね」
 
秘匿回線になっているのを確認して、ビジネスフォンを操作する。ネルフ権限による資産凍結など、噂が流れただけで大恐慌だ。
 
「ユイです。A-17は却下です」
 
『…。使徒を捕獲する、またとないチャンスなんですよ!!』
 
間があいたのは、却下されるとは思っていなかったからだろう。その反動とばかりの大声に、受話器を耳から離す。
 
「そんなもの拾ってきて、誰が世話すると思ってるんですか。捨ててあったところに返してらっしゃい」
 
『…そんな、犬猫じゃあるまいし』
 
「世話の仕方がわかる分、犬猫のほうがマシです」
 
どうせ、捕獲なんか出来はしないのだ。くだらない準備をしている間に孵化してしまうだろう。
 
それに、万が一捕獲できてしまっても、やり場に困る。ゼーレは歓んで引き取るかもしれないが、それではコアを残さないようにしてきた自分の苦労が水の泡だ。
 
「…」
 
「単独生命体たる使徒の1体をいくら調べても、他の使徒の参考にはなりません」
 
これはまあ、詭弁だが。
 
「いずれにせよ、一度こちらに戻ってください。捕獲にせよ殲滅にせよ、準備が要りますから」
 
『…わかりました』
 
実に不本意そうな声音を残して、回線が切れた。
 
 
「ちょっと、惜しくはないですか?」
 
リツコさんには、まだ未練があったらしい。
 
「危険すぎます。生きた使徒をいったい、どこで飼うんですか。
 今までに斃した使徒の残骸すら、復活するかも知れないと思うと恐くて仕方ないのに」
 
今までの経験からそんなことはないと思えるが、可能性としてありえない話ではない。
 
「…だから、使徒のコアを執拗に破壊しているのですか?」
 
「ゼーレの手に渡さないことの方が重要ですが、それもあるかもしれませんね」
 
なるほど。とリツコさんが頷く。可能な限り徹底的にコアを破壊しようとする私の方針に、理由を見出したように思っているのだろう。
 
コアを手に入れても、それをゼーレに渡さなければそれで良い。とリツコさんは考えているのかもしれないが、ゼーレがそんなに甘いとは思えない。
 
考え込み始めたリツコさんは放っといて、もう一つの問題に取りかかるべく再び受話器を取る。内緒で使徒を殲滅したとなれば黙ってないだろう人物が、沖縄に行っていた。
 
 
****
 
 
「出撃しないって、どういうことよ」
 
沖縄への修学旅行に参加していたアスカは、連絡を受けるやいなや駐日国連軍の基地に押しかけて超音速戦略偵察機を徴発してしまったのだ。
 
それにしても、前世紀末で退役していた機体だと思っていたが、セカンドインパクトの混乱期に復帰していたとは知らなかった。
 
「使徒がATフィールドを張っていないことが判ったから、N2爆雷で済まそうと思って」
 
「エヴァの存在意義はどうなるのよ!ワタシが行くわ」
 
足元の映像を指差して、アスカが声を荒げる。
 
「1300メートルもの熔岩を潜って、使徒に近づく手段がないのよ」
 
D型装備を作っておけばねぇ。と続けて、リツコさんが嘆息。
 
「なによ。黙って指くわえてろって言うの!?」
 
できれば、これで諦めてくれると嬉しいのだが。
 
「ミサト!ほんっとぉに、手がないの?」
 
「えっ? いや、そのぉ…ないこともないかも知れないけど…」
 
急に振られてうろが来たミサトさんが、助けを求めるように視線を寄越した。それを見過ごすようなアスカではない。
 
「あるんでしょ!」
 
まなじりを吊り上げて詰め寄ってくるアスカに、諦める様子など微塵もなかった。
 
やはり、戦場でしかアスカの餓えは充たされないのだろうか。
 
「どうしても…?」
 
「あたりまえでしょ。なんのためにエヴァがあるのよ」
 
いずれにせよ、作戦行動の自由を保障されているアスカは、何の策もなくても出撃してしまう恐れがあった。それなら、こっちの作戦下で行動してくれた方がマシだ。
 
「…エヴァの出撃準備を始めましょう」
 
 
****
 
 
「あは♪アスカの肌って、すっごくプクプクしてて面白ーいぃ!」
 
「やぁだ!くすぐったぁいぃ!」
 
こういうとき、ミサトさんのフレンドリーさを羨ましいと思う。
 
「じゃ、ここはー?」
 
「ぁはは!そんなとこ触んないでよぉ!」
 
「いぃじゃない、減るもんじゃないしぃ」
 
露天風呂という開放感も手伝ってはいるのだろうが、ミサトさんだからこそアスカから屈託のない姿を引き出せるのだろう。
 
 
網代垣の向こうに、浅間山が見える。
 
………
 
初号機のATフィールドに囚われて火口底まで引きずり出された無防備使徒は、その途中で孵化を果たした。
 
しかし、熔岩の海を泳ぎまわることを前提とした構造だったために、ATフィールドのステージ上ではやはり無防備だったが。
 
液体窒素を使った戦闘はあまりにもあっけなく、N2爆雷に任せて沖縄でバカンスを愉しんでた方がマシだったわね。とアスカに言わしめるほどだった。
 
それで、少しでもエヴァへのこだわりが減ってくれれば嬉しいのだけれど。
 
………
 
その姿態を惜しげもなく夕焼けにさらして、ミサトさんもまた浅間山を眺めていた。
 
「ああ、これね? セカンドインパクトのとき、ちょっち、ね」
 
胸元の傷を見つめるアスカに気付いて…見せる、さばさばとした微笑。その裡に、苦笑めいた気配を感じるのは私だけだろうか。
 
「…知ってるんでしょ、私のことも、みんな」
 
「ま、仕事だからね…。お互いもう昔のことだもの。気にすることないわ」
 
…ミサトさん。自分を偽るための言葉では、相手に届きませんよ。
 
案の定、落胆を隠しきれない様子でアスカが視線を逸らしている。
 
かつてのように、アスカに声をかけてやりたかった。だが、今の関係ではとても聞き入れてはもらえないだろう。
 
だから、せめてこの雰囲気を有耶無耶にすることにした。
 
「…今頃、シンジは何してるのかしらね」
 
肩まで漬かっていたアスカが、器用にも座ったままで足を滑らせる。
 
「ななななんで、急にシンジなんかのこと…」
 
「どーしちゃったのー? そんなに慌てちゃったりしてぇ」
 
獲物の足音を聞きつけたフクロウが顔ごと振り向くように、全身を好奇心の塊に変えてミサトさんが喰いついた。
 
えっ、あっ、いや…。とアスカの応答は言葉にならない。
 
「ひょっとして、アスカ…」
 
オバさん臭く口元を隠したミサトさんが、にんまりと笑った。
 
「ち、違うわよ!」
 
「まったまた、テレちゃったりしてぇ♪」
 
 
こういうとき、ミサトさんのフレンドリーさを羨ましいと思う。
 
 
**** 
 
 
後日、A-17が発動されると早とちりして株式証券などを投げ売りした人々が居たという話を聞いた。さぞや大損しただろうが、さすがにそこまでは責任もてません。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:44


警告音が鳴って、カウンターの表示が減り始めた。電源供給が途絶えたらしい。
 
活動限界まで、あと4分53秒。
 
そのタイミングは良く知っていたので、テストと称して予め初号機に乗り込んでおいたのだ。
 
バーチャルコンソールを呼び出し、こちらの電力で通信回線を確保する。MAGIにアクセスしてみると、生き残っている電力供給ラインは研究所時代からの旧回線。割合にしてたったの1.2パーセントらしい。
 
 
『発令所、青葉です』
 
現状で連絡が取れるのは、MAGI経由で発令所だけだろう。
 
「初号機のユイです。何事ですか」
 
もちろん何が起きたかは知っている。白々しさが出てなければ良いけれど。
 
『判りません。突然、給電が途絶えました』
 
「了解しました。本部棟の電源モードを臨時に切り替えて、制御ルーチンPSFE-01をロード、供給元パラメータを第1ケィジにして下さい」
 
『はっ? はい。本部棟の電源モードを臨時に切り替え…、制御ルーチンPSFE-01をロード…、供給元パラメータを第1ケィジに…、実行しました』
 
具体的な指示が出るとは思っていなかったのだろう。一瞬戸惑ったものの、青葉さんの反応は早い。
 
「ご苦労様でした。後はこちらで行いますから、とりあえずMAGIとセントラルドグマの維持に努めてください」
 
と言うより、古いこの回線で無理なく電力が供給できるのはその辺りだけなのだが。
 
『全館の生命維持に支障が生じますが…』
 
『構わん!最優先だ!』
 
おや、冬月副司令もいらっしゃったのか。ならば、向こうは任せておいて大丈夫だろう。
 
『頼んだよ、ユイ君』
 
「はい」
 
 
こうなることを知っていて特に予防策を講じなかったのは、そうすることで相手の出方が読めなくなることを恐れたからだ。それに、復旧ルートごときで推測できるほど、今の本部棟の構造は単純ではない。さらには第7次建設の終了を目処に、棟内の改装を行う予定もある。縮小された侵入者邀撃の予算を、密かに他から補填して。
 
だから、やりたいというのなら、やらせておけばいいのだ。
 
 
初号機の内部電源が、残り1分を切った。
 
あっいや、つい癖で確認してしまったけど、活動限界なんかどうでもいい。
 
 
まぶたを閉じて、心を静めていく。意図的に稼動させるのは初めてなので、さすがにちょっと緊張する。
 
心の裡に見えるのは、オレンジ色の水面と赤い空。不自然なまでにまっすぐな、水平線。
 
だが、もうここに虚無はない。幼いながらもはっきりとした、初号機の意思があった。オレンジ色の水面に立つさざなみが、初号機の息吹。心の動きなのだ。
 
 
それでは 始めようか
 
「S2機関、始動」
 
 
コアに発生した膨大なエネルギーを熱として感じて、胸の奥が熱い。煮えたぎる奔流が出口を求めて荒れ狂っている。
 
エネルギーの迸るままに、思うさま力を振るいたい。
 
溢れ出る力のかぎりを、目に映る全ての物にぶつけたい。
 

 
狂おしさに身悶えしそうになる体を、初号機ともども叱りつけた。
 
ここで初号機が吼えでもしたら、それだけで大騒ぎになってしまう。ATフィールド実験の名目で人払いはしてあるが、隔壁の1枚や2枚では障子紙ほどの役にも立つまい。
 
 …
 
  ……
 
イグニッション直後の過剰稼動が治まって、ようやく息をつく。初号機もS2機関も、何とか暴走させずに済んだらしい。
 
コアを充たすエネルギーを徐々に全身に浸透させていき、初号機の筋肉を使って電気に変換する。S2機関から発生したエネルギーは電気ではないから、そのままでは初号機の駆動以外には使えない。そこで、電気モーターを手回しして発電機にするような感覚で、電流を発生させたのだ。
 
 
なぜ、こんな真似が出来るか。と云えばカラクリがある。
 
というのも、そもそもエヴァは電気で動いているわけではないからだ。そうでなければ、ゲイン利用とはいえ搭載バッテリ程度の電力で5分間もの長時間、エヴァのような巨体を動かせるわけがない。第一、もし電気で動いているのなら、運動量に係わらず時間制限なんてありえないではないか。
 
 
エヴァが何で動いているかはよく判っていない。おそらく、コアから発生するエネルギーだろう。それはきっと、ATフィールドを構築しているものと同源の、人類にとってはいまだ不可知のエネルギー。
 
それに、どう動かしているかもよく判らない。ただ、人体とほぼ同じ構造をしているエヴァを、無理やり動かす方法ならあった。その神経組織を、電気パルスで刺激してやればいいのだ。原理は低周波治療器、いわゆる電気マッサージ器と変わらない。
 
さらには、どう刺激していいかもよく判らない。だからこそのコアへの人格の封入。だからこそのチルドレンだった。これが私たちの科学の限界ってわけ。
 
 
そして、ゲインシステムの出番だ。エヴァは人体とほぼ同じ構造だから、収縮させた筋肉の反対側に弛緩する筋肉がある。その運動と神経組織を利用した、いわば回生ブレーキ式の発電システムをエヴァは備えているのだ。
 
筋肉の弛緩すら能動的に行なう高機動モードでは使えなくなるし、戦闘中の限られた状況では発電効率も悪い。だが、こうしてエヴァを動かさずにS2機関を稼動させれば、筋肉の振動でかなりの電力を発生させられるだろう。
 
つまり、エヴァは発電所になる。
 
 
その電流を、そのままアンビリカルケーブルへ流し込んだ。
 
こういうこともあろうかと、本部棟内の電力供給ラインは改善済だった。初号機から逆流していく電力は、ルーチンを目安にMAGIが棟内に配分してくれる。
 
問題は、ヒトの制御下ではどうにもS2機関の出力が安定しないことだ。こればかりは仕方がない。心臓の鼓動をコントロールしようとするようなものなのだから。
 
インバーターやサージプロテクタも兼ねてUPSを設置してはあるが、それとて限界がある。その範囲で収まるように、努力するしかないだろう。
 
 
****
 
 
本部棟の機能を確保できたので、電源の復旧までにさほどの時間はかからなかった。
 
その間に襲ってきた溶解液使徒も、弐号機によってあっさり撃退されたらしい。
 
らしい。というのは、人伝てに聞いただけだからだ。
 
使徒ならぬヒトの身でS2機関を制御したこの体は、その負荷に耐え切れずに倒れた。一時は過呼吸の発作まで起こし、今も熱が退ききらない。
 
見覚えのある天井に、溜息をつく。
 
 
「なんだ。目、覚めてるじゃない」
 
ドアを薄く開けて様子を窺っていたらしいアスカが、景気よくドアを開け放して入ってきた。
 
「停電でプラグに閉じ込められて熱出したって、ホント?」
 
頷く。アスカを含め、事情を教えられない職員には、そう説明してある。
 
「アンタが呑気に閉じ込められている間に、ワタシが華麗に使徒を殲滅しといたわ。
 ロートルパイロットとテストタイプなんて、居るだけムダなのよ。さっさと引退しなさい」
 

 
アスカに、何があったというのだろう。
 
確かに、高い自負をもってエヴァパイロットたらんとするアスカは、それゆえに他者に厳しいところがある。だが、だからと云って、こんな憎まれ口まで叩いて辞めさせようなんてことをするような娘ではなかったはずだ。
 
そもそも、なぜ私を辞めさせたいのだろう。エヴァパイロットというステイタスを独り占めしたいのだろうか?
 
いや、それは無い。アスカは常にナンバーワンであろうとしていたが、オンリーワンになろうとしたことはなかった。ナンバーワンになるための努力を放棄して安易に己を確立した気になるほど、アスカは傲慢ではない。そう断言できる程度には、アスカのことを知っているつもりだ。
 
 
言葉もなく見上げると、居心地悪げにアスカが身じろぎした。
 
よく観れば、アスカの視線がせわしない。瞳の色に力がないのは、内心の不安を映してか。この状況で素直に勝ち誇れないのは、何かわだかまりを抱えているのだろう。
 
尊大そうな態度と裏腹に、その体がとても小さく見えて、居ても立ってもいられなかった。
 
 
力の入らない筋肉に鞭打って、体を起こそうとする。
 
「ちょっ!無理すんじゃないわよ!」
 
慌てて押しとどめようとしたアスカの体を、抱きしめた。
 

 
「なっ!なに勝手に抱きついてんのよ!」
 
荒げる声とは裏腹に、むりやり振りほどこうとはしない。
 
何がアスカを追い込んだというのか。判らぬままに、ただ、ただ哀しくて。
 
「…アスカちゃん」
 
「気安くちゃん付けにすんじゃないって、何度言わせたら気が済むのよ!」
 
怒り任せに突き放されて、ベッドに沈む。私のあまりの弱々しさに怯んだのか、突き放した格好のままでアスカが固まった。
 
のたのたと上半身を起こし、引き寄せるようにして再び抱きしめる。
 

 
 ……
 
「…なに抱きついてんのよ」
 
ぼそり。と紡がれた言葉に、しかし険は少ない。
 
「ごめんなさい」
 

 
「なに、なれなれしくちゃん付けしてんのよ」
 
「ごめんなさい」
 
 …
 
「そうやってすぐ謝って!ほんとに悪いと思ってんの?」
 
だって、今の自分には…
 
「…謝ることしか、できないもの」
 
  …
 
「条件反射で謝ってるようで、不愉快なのよ」
 
「ご…」
 
今、なんだか物凄く睨まれたような気がする。
 
 …
 
そういえばアスカには、謝ってばかりだとよく怒られたものだ。自分に非があるかどうか考える前に謝罪していたのだから、却って誠意が見受けられなかったことだろう。
 
今は…、明らかに非があって、釈明することすら叶わないのだが。
 

 
でも、誠意を見せることは出来るかもしれない。たとえ偽りでも、傍に居てやることが大切だと結論付けたではないか。
 
「仲良くなりたいから、アスカちゃんって呼びたいの。ダメ?」
 
「なぜ、仲良くなりたいのよ」
 
 
少し、間を置いて。
 
「制御方法の違いはあれ、私たちは世界に2人しか居ないエヴァのパイロットなのよ。
 誰よりもお互いを理解しあえる可能性があるわ。
 
 友達に、なれるかもしれない 」
 
「…友達なんか要らない。私は一人で生きるの」
 
 …
 
アスカが壊れたことを、忘れることができない。
 
今ならそれが、エヴァに全てをかけていたアスカの脆さだったと判る。正反対の存在でありながら、自分とアスカは、エヴァという一点を挟んで対称的な、精神的な双子だったのだ。
 
エヴァなんかを、心の拠りどころにさせてはおけない。
 
「どうして、そんな寂しい道を選ぶの?」
 
「!っ…、そんなことアンタに関係ないじゃない!」
 
アスカの脇の下に両腕を差し入れて、腕の自由度を奪う。
 
放しなさいよ!と突き放そうとする手を、差し込めないように体を密着させた。
 
「私は欲しいわ。エヴァで戦うことのつらさを、解かってくれる人が、解かってあげられる人が」
 
「そんなのっ!アンタが弱いだけじゃない」
 
「そうよ、弱いわ。ヒトは誰しも、独りでは弱いモノだもの」
 
「ワタシは違う!」
 
抗うアスカの、力をいなす。…いや、アスカはまだ本気を出していないのだろう。いくら葛城ミサト時代に身につけた技術があっても、今の私ではアスカを押さえこみ続けられるはずがない。
 
「自分の弱さを認められないのは、毅さなんかじゃないわ」
 
「ワタシが弱いって言うのっ!」
 
「そうよ。他人の弱さを赦せないのは、自分の弱さを認められないからだもの」
 
「!っ…」
 
アスカの体から力が抜けて、内心で安堵する。もう少しで振りほどかれるところだったのだ。
 
「…だから、心配なのよ」
 
「アンタに、ワタシのナニが解かるって言うのよ」
 
「解からないわ。ヒトは永遠に解かりあえないもの。…でも、解かりあおうと努力はできる」
 
この世界で、アスカは孤独なのだ。私が孤独にした。
 
チルドレンという存在を生み出さずに済んだはずの世界の、たった一人のチルドレン、ザ・チャイルドとして。
 
アスカの孤独を、誰も理解できないだろう。葛城ミサトだった時代の自分を、誰も理解できなかっただろうことと同じく。
 
「アスカちゃんを解かろうとワタシが努力していることを、アスカちゃんは判っているでしょう?」 
 

 
応えを促す、間。
 
アスカの身じろぎは、頷いてくれたように感じたのに…
 
「同情なんか、まっぴらよ」
 
紡がれたのは憎まれ口だった。
 
「解かりあえないヒト同士にとって、他者を理解する唯一の手段が同情なのよ。
 相手の気持ちを慮ることは、つまり己の心の中にその人を住まわせるということ。
 ヒトがヒトにしてあげられる、唯一で、最高の手段なの」
 
確かめるように、その背をなでる。
 
「それは虚像に過ぎないかもしれないけれど、あなたのことを心の中に刻もうとしているの」
 
居心地悪そうに、再びアスカの身じろぎ。
 
「…そんなことして欲しいなんて、頼んでないわ」
 
「本当に?
 誰からも顧みられず、誰からも褒められず、誰からも理解してもらえず。
 ただ使徒を斃すために使われる道具として、いいように操られて、アスカちゃんは生きていけるの?」
 
「ワタシは道具じゃないっ!」
  … !
 
眼窩に引っ掛けようとしてきた親指を、慌てて避ける。こんな剣呑極まりない手段で引き剥がそうだなんて、何がアスカを本気で怒らせたというのか。
 
「ワタシは道具じゃ…、」
 
一歩、こちらの手の届かない距離まで後退したアスカは、てっきり睨みつけてくるものと思ったのに…
 
「…いいように操…」
 
あや、アヤ…。と、うわごとを繰り返しだした。徐々に広がる瞳孔は、底なし沼のように何もかも呑みこんで、その秘めるものを見せない。
 
「アスカちゃん…?」
 
ぴくり。と体を震わせたアスカが、目の焦点の合わないままにこちらを見た。
 
私の姿になにを見出したというのか、口元に貼り付いた微笑みが薄ら寒い。にじり寄ってくる足取りは夢遊病患者のようにおぼつかないのに、差し出してくる両手は力の篭めすぎで震えてる。
 
アスカの身から迸る殺気を全身に浴びて、…なのに恐怖は湧かなかった。それでもいい。と、思ってしまった。
 
だから、避けない。だから、目を逸らさない。
 

 
 ……
 
のろのろと差し伸ばされてきたアスカの両手は、しかし私の首ではなく、この胸先で見えない何かを掴み取った。
 
何かが切り替わったかのような唐突さで跳びすさるや、振り上げたソレを床に叩きつける。
 
「こんなのっ!ワタシじゃない!」
 
見えない何かを踏みつけて、顔を上げた時には、アスカの瞳に感情が戻っていた。狂おしいまでの光を乗せて、睨みつけてくる。その瞳に映るのは、紛うことなき私の姿。なのに、見られている実感が湧かない。
 
「ワタシはっ、人形じゃないっ!」
 
アスカの母親は、人形と心中したという。
 
アスカは、その人形を憎んでいた?
 
「ワタシはワタシ!誰のモノでもない!」
 
いや、むしろ羨んでいたのではないか。
 
自分と母親を天秤にかけて、自らの矜持を選んだアスカは、何も考えずに母親についていったその人形が羨ましかったのではないだろうか。
 
「…いいように使徒退治に使われていたら、人形も同然よ」
 
夢から覚めたようにまばたきを繰り返したアスカが、すすり上げた。泣くまいとして懸命に気を張り詰めている気配が、とても痛々しい。
 
「じゃあ、アンタが顧みてくれるって云うの?」
 
「今こうして、アスカちゃんを見ているわ」
 
その左の頬に、
 
「じゃあ、アンタが褒めてくれるって云うの?」
 
「ええ、アスカちゃんはとても頑張っているもの」
 
その右の頬に、
 
「じゃあ、アンタが理解してくれるって云うの?」
 
「努力してるわ」
 
流れる涙に、気付いている様子はなく。
 
「なんで、アンタなんかにっ!」
 
こうも激しく、しかし無自覚に。
 
「私だからよ。同じエヴァのパイロットである私だから、最も近しい位置に居るの」
 
こんな泣き方をする娘だったとは。
 

 
いや、違うか。この世界のアスカは、かつてのアスカに較べて、はるかに孤独なのだ。反発するしかなかったとはいえ、境遇を共有し得るチルドレンすら居らず。さんざんに対抗心を植え付けられたその本部に、たった一人で放りこまれたのだから。
 
アスカを使い捨てにするつもりのゼーレは、その心を脆いままに保っておく気だろう。あるいは、もはや初号機は使い物にならないとして、いざというときの予備にアスカと弐号機を使う気でいるのかもしれない。
 
 
だが、あまりに孤独すぎたアスカの臨界点は、予想以上に早かった。…ということではないだろうか?
 
そして、早すぎたからこそ条件が揃わず、崩壊には至らなかった?
 
 …
 
ぽとぽたと、したたる泪滴が床を叩く。
 
自分が涙を流していることに驚いて、アスカがようやく泣き顔になった。
 
「ワタシ、…弱いの?」
 
かぶりを振る。
 
「弱いというより、脆いわ」
 
「脆い?」
 
「純粋で美しい、ガラスのナイフのようだわ。切れ味は鋭いけれど、罅が入ったが最期…」
 

 
とどめようのない涙を懸命に拭いながら、その視線は私から外さず。
 
「毅く、なれる?」
 
頷いた。
 
「折れず、曲がらず、良く斬れる日本刀はね、不純物だらけの砂鉄から作るの。手間と時間をかけてね」
 
両手を開いて、アスカを促す。
 
「毅くなりたければ、不純物を取り入れることから始めるのよ」
 
ためらいつつも踏み寄ってきたアスカの手を取って、優しく引き寄せた。揺れるアスカの心を、招き入れようと。
 
「そのためには、泣きたい時には泣くの。思いっきり」
 
抱きしめるまでもなく、アスカは飛び込んできて。
 
おそらくは10年分の、涙を流した。
 
 
                                         つづく
2007.07.27 PUBLISHED
2007.08.24 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:44


エヴァが使う増設バッテリは、当然のことに常に充電されている。万が一の事態に備えて枚数も多いから、全て合わせるとその電力量は莫迦にならない。
 
改善済の電力供給ラインを利用して、初号機を仲介にケィジ内から電力を供給した。と報告書に書き記す。
 
ゼーレに、こちらの手の内を明かしてやることはない。
 
 
結局、今回の停電騒ぎがどこの差し金だったのか、それは判らなかった。心当たりが多すぎて、特定に至らないのだ。その代わりと云うわけではないが、当初の目論見どおり不審者は山のように見つかっている。
 
充分な電力を確保したMAGIに対し、ナオコさんは対人監視システムだけを復旧させたそうだ。人力で弐号機を起動させているゲンドウさんたちを尻目に、不審な行動を起こす者たちが後を絶たなかったらしい。もっとも、そうやって弐号機が注目を浴びた結果、ブラックリスト筆頭のはずのドイツ移籍組技術者の動きが封じられたのは皮肉というしかないが。
 
 
迅速な復旧によって不審者を絞り込めたので、内通者やスパイなどの炙りだしにかかる。と報告書を締めくくった。暗に、白状するか引き上げさせるか決めておけと匂わせておいたわけだが、素直に聴いてはくれないだろう。
 
 
****
 
 
軍に出向していたのはずいぶんと昔のことなのに、今でもつい購買部をPXと呼んでしまう。さすがに口に出すような真似はしないが。
 
お茶請けを切らしていたことに気付いて、お菓子を買いに来たのだ。
 
あっ。と声がしたので振り向いてみると、ミサトさんが立っていた。慌てて手にしたアルミ缶を隠そうとしている。
 
嘆息。それを買おうとしていたことにではなくて、その量と隠し立てしようとしたことに対してだったけれど、ミサトさんは勘違いしたらしい。
 
「ちっ違います。これは残業時に飲もうと思って…」
 
缶ビールの6本パックが、しかも3つ…。いや、うち2つはエビチュじゃなくてBOAビールだから、その他の雑酒というヤツか。
 
セカンドインパクト直後の混乱期に出回ったのが、カストリ焼酎とその他の雑酒だった。復興に伴って、法に抵触するカストリ焼酎は鳴りを潜めたが、その他の雑酒の方は第3、第4のビールとして定着したようだ。
 
主に税金対策として誕生した発泡酒と違い、純粋に原料不足から産み出されたその他の雑酒は、特定の作物の作柄に影響を受けずに済む。供給が安定していて価格も安いので、よく売れているらしい。
 
 
最近、酒量が増えてるようだと、聞いてはいた。だが、あのミサトさんが、よりによって大好きなビールを、質より量のその他の雑酒に切り替えなければならないほどとは思っていなかったのだ。
 
いや、思い起こしてみれば、かつてのミサトさんも途中からBOAビールに切り替わっていっていた。やはり、酒量が増えていたのだろう。一時は葛城ミサトでありながら、それが葛藤の現れだったと気付いてあげられなかったなんて…
 
自分がお酒を飲まないと云うことなど、何の言い訳にもならない。
 
やはり、自分は…
 

 
沈みこむ一方の気持ちを、きらめきが引き止めた。居心地悪げに身動ぎしたミサトさんの、その胸のロザリオが光を反射したらしい。
 
その胸の裡は知っているが、敢えて心を鬼にする。
 
「葛城一尉、一つ減らしてきなさい」
 
しょんなぁ~。と怨み目がましく、しかし案外素直にミサトさんが引き返していった。
 
飲みすぎていると、自覚があるのだろう。
 
 
酒量が増えている。と云えば、気になるのがゲンドウさんだった。
 
ゲンドウさんは案外わかりやすい人で、気鬱がたまると眠れなくなる。あのサングラスは隈隠しに居眠りにと大車輪の活躍らしいが、それにも限度があろう。そこで仕方なく、酒でむりやり寝ているのだ。最近、それに拍車がかかってきてるように見受けられる。
 
南極に行くための荷造りが終わったあと、気付くとサイドボードから3本もブランデーが消えていた。行程から考えると、あきらかに飲みすぎだろう。
 
酒に溺れるような人でないのは解かっている。酔って喧嘩したから懲りた。とは本人の弁だ。
 
だが、そもそも酒を手放せなくなりだした時期が問題だった。
 
光槍使徒戦、つまり私が戦いだしてからだと、判っているのだから。
 
 
 
時期。と云うことで思い至ったが、ミサトさんの酒量が増えだした時期が若干遅いような気がする。かつては、無防備使徒戦の頃にはすでに、その他の雑酒に切り替わっていたように思うのだ。
 
ほんの些細な違いに過ぎないが、わずかなりと心を慰められるかもしれない。
 
 
私が清算を済ませたところで、ミサトさんが戻ってきた。
 
諸手に抱えた缶ビールの上に、三佐の階級章を載せてやる。昇進時には、新しい階級章を自分で買うのが慣わしなのだ。正式な辞令はこれからだけど、内示ということで構わないだろう。
 
「明日、それのお祝いで飲ませてあげますから、今晩は控えなさい」
 
へっ? と、まぬけ面をさらすミサトさんを残して、PXを後にする。
 
 
かつて葛城ミサトだったことがあるから、ミサトさんの鬱屈はよく解かるつもりだ。問題は、それをどうやって晴らさせてあげればいいかと云うことなのだが…
 
 
****
 
 
それは、被害を押さえるためだけの作戦だった。
 
 
セカンドインパクトによる海水面上昇で、平野部が水没した日本の海岸線は複雑で遠浅になっている。
 
落下使徒が行う試射。それによって引き起こされる津波は、今の日本の地形では無視し得ない被害を捲き起こすのだ。
 
そこで、これを迎撃することにした。
 
かつて精神汚染使徒のときに使った下水管の迫撃砲を用意して、N2爆雷で使徒の試射弾を撃ち落としたのだ。
 
正確には、大気圏突入の瞬間を狙って爆圧を当て、弾き飛ばしたのだが。
 
反跳爆撃よろしく水切り現象を起こした試射弾は、どれも宇宙の彼方へ飛び去っていった。
 
 
ここまではいい。シナリオどおりだ。問題ない。
 
 
『こんな作戦。だ~れが考えついたのかしら』
 
20回目の迎撃を終えて、アスカの嫌味も疲労で力ない。
 
インダクションモードが使える分、間接制御の弐号機のほうが射撃において命中率が高い。そこでアスカには、射撃手として出撃してもらったのだが。
 
「ごめんなさい。私もまさか、こんなことになるとは思わなかったの」
 
試射を妨害された落下使徒は、延々と試射を繰り返したのだ。
 
『文句言うのも疲れたわ。ワタシ、このまま休むからシンクロ切ってくれる?』
 
  『 …判ったわ 』
 
ほぼ不眠不休で指揮に当たっているミサトさんも、疲れきっている。
 
弐号機が下水管製の砲身を下ろすと、その四ツ目が輝きを失った。それに合わせて、下水管を保持していた初号機のATフィールドを解消する。
 
『ユイさんもお休みください』
 
「葛城三佐も、休んだ方がいいわ」
 
『…そういうわけには』
 
軌道上の使徒への有効な攻撃方法が思いつかないミサトさんは、そのことを気にかけているらしい。戦自から自走式陽電子砲を徴発するのと、初号機が直接迎撃に行くのを禁じ手としているから、仕方ないのだが。
 
将来を見越して初号機の実力を隠しておきたい私としては、あまり早い時期に手の内を晒したくなかった。策はあったが、それらATフィールドの応用を使うまでもない。と踏んでいる。
 
「発令所のみんなに押さえつけさせて、赤木博士謹製トランキライザーを注射させますよ?」
 
ミサトさんが左を向くと、日向さんと青葉さんが、右を向くとマヤさんが頷いた。発令所の面々は随時休憩を取らせていたが、ミサトさんは頑として聞き入れなかったのだ。
 
思わせぶりに内懐に右手を差し込むリツコさんにたじろいだミサトさんが、短く呻く。
 
『…わかりました』
 
諦めた様子で日向さんに持ち場の申し送りを始めたので、通信を切った。
 
初号機ごと寝転がって、私も仮眠を取ることにしよう。寝返りを打たないようにして眠るのは、レイが産まれたときに慣れている。
 
 
****
 
 
『強力な電波撹乱で、目標をロストしました』
 
それは、私たちが休んだ直後のことらしい。少しでも休ませたくて、報告は差し控えたのだとか。
 
気持ちは嬉しいが、後できっちりお灸を据えなくてはなるまい。
 
 『来るわね、多分』
 
 『次はここに、本体ごとね』
 
ミサトさんとリツコさんの会話は淡々としている。疲労で、感情が麻痺しているのではないだろうか。
 
『どうするの?』
 
【FROM EVA-02】の通信ウインドウが開いた。そこそこ休めたのか、アスカの血色は悪くなさそうだ。
 
「私がATフィールドで受け止めて、アスカちゃんが殲滅。これでどう?」
 
『いいけど、大丈夫?』
 
「20回も試射をして、あの使徒の質量は出現時の3分の2もないわ。大丈夫よ」
 
自らの身体を削って試射を続けていた使徒は、当然のように痩せ細っていった。
 
このまま試射を続けて磨り減っていくよりはと、乾坤一擲の賭けに出たのだろう。時間をかけて回復するという選択肢は、知らないのか、採らなかったのか。…出来ないわけではない、と思うのだけど。
 
『判った。無理すんじゃないわよ』
 
「ええ、ありがとう」
 
溶解液使徒戦のあとから、アスカの人当たりが優しくなってきた。徐々にではあるが、その心を開きつつあるように思う。
 
 
 
南西の空から落ちてきた使徒を、重力軽減・遠隔展開ATフィールドで受け止める。
 
試射を邪魔されたのが祟ったのか、第3新東京市への直撃コースではなかった。それでも外輪山の内側に落ちてきたのは、落下に特化したこの使徒の面目躍如といったところだろう。
 
「目標まで、ATフィールドをスロープ状に展開中」
 
『了解!』
 
目に見えぬATフィールドの坂道を、ケーブルを切り離した弐号機が駆けていく。構えたソニックグレイブを片羽の翼のように伸ばして、飛び立ちかねない勢いだ。
 
陸に上がった魚も同然の落下使徒に、弐号機に抗する術などなかった。
 
 
****
 
 
前回といい、今回といい。この使徒とは相性でも悪いのだろうか?
 
うずたかく積まれた書類の山に、溜息を漏らす。
 
結局、40時間以上に渡って発令されつづけた特別宣言D-17。それは日本の経済活動を局所的に麻痺させ、ちょっとした恐慌を引き起こしてしまったのだ。
 
たかだか半径50kmと高を括っていたが、莫大な予算が投入されている第3新東京市の経済規模というものを失念していた。銀行決済が遅れて利息差損が発生したり、急落する相場を手をこまねいて見ているしかない企業が続出したらしい。
 
自由主義経済とは泳ぎつづけないと溺れてしまうマグロのようなものだそうで、2日もの時間的空白がいかに致命的か、広報部に説教されるハメになった。
 
将来を見越した外交対策の一環で、ネルフは寄せられたクレームを無下にしない。ただでさえ広報部の負担が大きいところへもってきて今回のこの騒ぎでは、広報部の面々が殺気立つのも当然だろう。
 
今回の作戦は私の発案だったから責任をとることにしたのだけど、ちょっと安請け合いだったかもしれない。
 
「関係各省からの抗議文と被害報告書。で、これが周辺企業からの損害賠償請求。広報部からの苦情も正式な書類がきたわよ」
 
なぜかこの執務室に出向いてきて、ナオコさんが書類を追加する。ほんの五分前、そこに立っていたのはリツコさんだった。
 
「ちゃんと目、通しといてね」
 
似たもの親子だなぁ。という感想が、書類の重さに押しつぶされそうだ。
 
「…MAGIを貸してください」
 
「私の目の黒いうちは、そんな下らないことには使わせないわよ」
 
…やはり、この使徒は鬼門のようだ。
 
 
                                         つづく
2007.07.30 PUBLISHED
2007.08.01 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗六話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:45


弐号機に、ただ突出することだけを望んだドイツは、アスカに戦術というものを教えてない。ゼーレにとって必要なのはデータ収集 ―下手をすると使徒に撃退されるものすらも― であって、使徒殲滅そのものは初号機に押し付けるつもりかもしれなかった。
 
疑いだすときりがないもので、弐号機の補修用部品が潤沢なのすら、なんだか勘繰ってしまう。先行型とはいえ量産機なのだから、部品の調達が容易なのは当然なのに。
 
 
アスカにはせめて偵察の重要性だけでも認識してもらおうと思って、戦術シミュレーションをカリキュラムに組み込んでみたのだが。
 
「なによこれ~!」
 
ディスプレイを壊さんばかりの勢いで、アスカが平手を叩きつけた。
 
「バッカねぇ~。威力偵察もなしに突っ込んだら、そうなるのはあったりまえでしょ~」
 
にやにやと緩んだミサトさんの頬を抓り上げる。この握力ではたいして痛くもあるまい。
 
怒りに肩を震わせていたアスカが振り返るが、ミサトさんのまぬけ面を見て気が抜けたようだ。
 
「履歴の一番古いやつ、リプレイしてくれる?」
 
ゑぇ、ウイひゃんひょれふぁ…と、ミサトさんが騒ぐが、無視。
 
頭上に浮かべた? マークを!に変えて、アスカがコンソールに向き直った。
 
ひょれはダメ~。と駆け出したミサトさんの、脚を引っ掛けようとして、やめる。
 
そこまでしなくても、もうディスプレイに表示されていたのだ。
 
「なによこれ~!」
 
先ほどとはニュアンスを変えて、わざとらしくアスカが声を張り上げた。
 
「こんなんで、偉そうな口きいてたの?」
 
よよよ。と頽れたミサトさんを見下して、にたり、とアスカ。なんだか芝居がかっているのは、この二人の付き合いの長さもあるのだろう。
 
恨み目がましく見上げてくるミサトさんを無視して、コンソールに歩み寄った。
 
 
 
ミサトさんの長所にして短所は、そのフランクさにある。正確には、その延長としての部下の扱い方だが。
 
彼女は誰とでも打ち解け、対等と見做して扱う。その延長として、部下の自主性を重んじ、最低限の干渉しかしない。
 
これが上司と部下として、大人同士ならいい。部下の能力を認め、権限とか職権とかを無視してでも能力を発揮することを容認してくれるのだから。
 
実際、日向さんなどはかなりミサトさんに心酔しているようだ。
 
 
だが、14歳の少年少女に、それは重い。
 
できるものと勝手に期待されて、失敗すれば叱責される。子供たちには、そう見えることだろう。ろくな指示も与えずに、文句ばかり言っていると。微妙な時期の子供たちは、自分はもう大人だと思っているだけに却って耐えられないのだ。
 
大人扱いせざるを得ない事情はあるし、子供扱いするよりはマシだろう。
 
だが、それではダメなのだ。
 
 
ミサトさんは、きっといい保母さんになれるだろう。もしくは、いい上司として、部下たちに慕われるだろう。だけど、そうした年頃の子供たちの扱い方だけは知らなかったのだ。思春期を2年間も失ったがために。
 
 
ディスプレイに、ミサトさんの初期の戦績を表示させる。
 
最初はにやついて眺めていたアスカが、徐々に真剣さを取り戻していった。使徒のとんでもなさ、情報なしにそれに相対することの恐ろしさを理解し始めたに違いない。
 
なにより、ミサトさんの成長をそこに見出したであろう。
 
それらを見て取れぬようなアスカではないはずだ。
 
「…ホントに、こんなとんでもない使徒が来るの?」
 
「MAGIの予想だから確かではないけれど、前回落ちてきたヤツのこと、思い出してみて」
 
そうね。とコンソールに向き直ったアスカが、再びシミュレーションに取り組みだした。
 

 
こうなれば、アスカは心配いらない。自力で研鑚して、答えを見出すだろう。ミサトさんを促して、即席のシミュレーションルームを後にする。
 
 
大人であって子供でもある14歳の少年少女の扱いは実に難しい。自分にも、そんな時期があったにもかかわらずだ。
 
ミサトさんも思うところがあるのか、ちょっと沈んでいるように見えた。
 
 
****
 
 
  『 警報を止めろ! 』
 
  『 け、警報を停止します! 』
 
微細群使徒が第87蛋白壁から発生したことは知っていたから、搬入された時に抜き打ち検査と称して調べた。
 
だが、何も発見できなかったのだ。これもまた、私たちの科学の限界。ということだろうか。
 
 
  『 誤報だ。探知器のミスだ。日本政府と委員会にはそう伝えろ 』
 
  『 は、はい! 』
 
「あっ、今のナシです」
 
 …
 
 『…何故だ。ユイ』
 
訝しげに通信ウインドウを開いてきたゲンドウさんに、耳打ちするように。
 
「 どうせ隠し通せません。それより、蛋白壁の納入先から何か辿れるかもしれませんわ 」
 
ふむ。と唸ったゲンドウさんが、にやり。と嗤った。
 
『ゼーレの老人どもに嫌味を言ってやるとするか』
 
ネルフの取引先の大半が、ゼーレの息のかかった企業だ。蛋白壁の納入先も、その例に漏れない。
 
  『 先刻の命令は取り下げる。総員、第一種戦闘配置だ 』
 
  『 了解。総員、第一種戦闘配置 』
 
とりあたって私に出来ることがないのは判っていたから、地底湖に向かうことにしよう。
 
蛋白壁に異常がなかったからといって、模擬体を使った擬似エントリー実験を行ったのは拙かったかもしれない。
 
 
****
 
 
前面ホリゾントスクリーンに追加されたアラートが、発令所を赤く染める。
 
「模擬体が、破壊活動を始めましたっ!」
 
「なんだとっ!」
 
ナオコさんの手によって頻繁にブラッシュアップされているMAGIオリジナルにとって、微細群使徒はさほどの脅威ではなかった。メルキオールがハッキングされ始めた時点でロジックモードの変更を提案したこともあり、早々に退けられたのだ。
 
目論見を挫かれた微細群使徒は、模擬体で直接暴れることにしたのだろう。
 
メルキオールすら碌に支配できず、今回は変われなかったらしい。
 
「初号機で出ます」
 
「ワタシも行くわ」
 
「ダメよ!」
 
ついてこようとしたアスカを、リツコさんが止める。
 
「弐号機はコアのセッティングを変えているから、すぐには出られないわ」
 
アスカの説得はリツコさんに任せることにして、発令所を飛び出した。
 
微細群使徒は扱いに困る相手の一人だが、ATフィールドで捕縛して模擬体ごとN2爆弾で焼けば殲滅できるだろう。
 
万が一を考えてアダムの隠匿場所は再考を促しておいたので、遠慮なく暴れられるのが不幸中の幸いだろうか。
 
 
****
 
 
暇そうにしていたから、台所を手伝わせてみたのだけれど。
 
「シンジ。怒りながらダイコンをおろすと、辛くなるわよ?」
 
えっ? と不思議そうな顔。自分でも気付いてなかったらしい。
 
「怒ってなんかないよ」
 
眉根を寄せて、あれだけ力を入れていては説得力がないが。
 
ざしゅざしゅと、恐ろしい勢いでダイコンがちびていっていたのだ。
 
「そう? ならいいけど。あまり辛くてアスカちゃんに文句言われても知らないわよ?」
 
途端にすっぽ抜けたダイコンが、流しの食器カゴを直撃した。
 
なななっ。と、うろたえたシンジに代わって、レイが流しに向かう。
 
「なんで惣流が」
 
「なんでって、夕ご飯に招待したでしょう?」
 
忘れていた。というよりは、気付かなかった。という顔をしてシンジが呆然と。
 
 
溶解液使徒の一件以来、アスカが夕飯の招きに応じることが多くなってきていた。それでも気後れはするのか、普段なら他の誰かと一緒ということが多い。
 
もっとも、今日はミサトさんも加持さんも居ないので、アスカ一人のご招待になったが。
 

 
あれ?
 
リツコさんも加えてあの3人が友人の結婚式で居ないということは、アスカはもしかしてデートの日か。
 
もしや。とシンジの表情を盗み見るが、こればかりは流石にわからない。
 
 
「…なぜ、からくなるの?」
 
取ってきてくれたダイコンを、とりあえず受け取った。
 
「力を込めておろすと、ダイコンの細胞がよく壊れて、それだけ辛み成分が生成されるからよ」
 
もっとも、今の日本では年がら年中夏ダイコンだから、常に辛いのかもしれないが。
 
…そう。と呟いたレイがなにを思ったのか手を差し出したので、ダイコンを返してやる。
 
シンジの手からおろし金を取り上げて、実に丁寧にすりおろし始めた。別の器を用意したのは、自分用にするつもりだろう。
 
レイは、刺激物をあまり好まなかった。
 
 
****
 
 
LCL生産プラント・第3循環ラインは、その名称とは裏腹に気軽に立ち入ることのできない施設だ。
 
ネルフ本部でも5人しか開けることのできない隔壁が、いま開こうとしている。
 
「あら、こんなところでデート?」
 
「ユイさん!?」
 
思わずこちらに向けてしまった銃口を、ミサトさんが慌てて逸らす。
 
さすがに予想外だったらしく、加持さんの表情が硬い。
 
友人の結婚式の翌日にここまで侵入してくることは知っていたから、ちょっと待ち伏せてみたのだ。
 
「…なんで、こんなところに?」
 
おそるおそる。といった態で、ミサトさん。学生の質問じゃあるまいし、手なんか挙げなくても。
 
「使徒対策室長が、使徒の様子を観に来るのは当然ですよ」
 
日課ですから。と嘯いて、背後のリリスを親指で指し示して見せた。つい先日ロンギヌスの槍を刺したばかりなので、様子を観に来たというのはあながち嘘でもないが。
 
その白い巨体をようやく認識したミサトさんの表情を、なんと表現したらよいのだろう。
 
「これはエヴァ?…まさか!」
 
目顔で問いかけてくるミサトさんの視線を、受け渡すようにして加持さんを見た。
 
「…そう。セカンドインパクトから全ての要であり始まりでもある。アダムだ」
 
「アダム。あの第1使徒が、ここに…」
 
驚愕に打ち震えるミサトさんを尻目に、加持さんを観察する。かつては判らなかった、その胸の裡。だが、今は違う。加持さんがその真実に辿り着いたことを、知っているのだから。
 
…これがアダムだと告げた時に、一瞬、ミサトさんから逸らされた視線。
 
加持さんは少なくとも、これがアダムだと云うことに疑いを持っていたのだろう。実際に目の当たりにすることで―さらには、これをミサトさんに見せることで、そのことへの確証を得ようとしたに違いない。そうしてミサトさんが誤認したことで、第1使徒アダムと同格である者の存在を確信したのではないか?
 
 
もう少し、もう少しで態勢が整う。それまで、加持さんの気を惹ければ… 
 

 
「ところで加持君は、トリプルスパイを辞める気はないの?」
 
「…バレバレですか」
 
途端ににやけ面に戻った加持さんが、顎をしごく。
 
リリスに驚いていたところに加持さんの正体を聞かされて、ミサトさんが固まった。自分もそうだったが、せいぜいダブルスパイだと思っていたのだろう。
 
「加持君の説得は、葛城さんに一任するわ。上手く説得できたらエビチュ1年分ね」
 
「ずいぶん、安かありませんか?」
 
ミサトさんの1年分がどれほどの量か、加持さんなら知っているだろうに。
 
「副賞ですもの。
 正賞は、ゼーレも教えてくれなかった秘密でどうかしら」
 
「そいつぁ興味深いですね。例えば?」
 
飄げた態度を微塵も崩さず、何気なく訊いてくるから侮れない。
 
「それはもちろん、トリプルスパイを辞めてからのお楽しみ」
 
ひらひらと手を振って見せて、踵を返した。
 
 
余人では到底知りえない情報を知っている今の私にとって、加持さんの重要性は低い。
 
だから、トリプルスパイとして引き込む人材のリストにその名を見つけたときには、適当な理由をでっち上げて撥ねようとした。ネルフとかゼーレとか、関わらずに済めばそれが最善だと思ったのだ。
 
だが、それでは結局この人の安全を確保できないだろう。純粋なゼーレのスパイとして送り込まれてきては、却って危険性が増す。
 
こうして取り込んでしまうのが一番だというのが、哀しかった。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗七話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:45


尋常な手段では斃しようがないということにおいて、深淵使徒の右に出る者はいないだろう。威力偵察でその途方もなさを確認したミサトさんも、打つ手なしのようだ。
 
さすがに相手のしようがないことを認めて、アスカがバックアップに下がってくれたのが幸いだった。
 
 
この使徒を普通にエヴァで斃せるかどうかは、結局のところ判らない。
 
ただ、斃し方はあるはずだ。これまでの2回とも、暴走した初号機によって斃されたらしいことが、唯一の手懸りだった。
 
 
直接制御下の初号機は、暴走中のそれとそれほど能力差があるわけではない。試せるだけのことを試してみようと思う。
 
最悪、呑み込まれるだけ呑み込まれて、中で暴走させればいいだろうと覚悟を決めて、深淵使徒に向かって手をかざした。
 
唐突に姿を消すゼブラパターンの球体。いや、使徒を貫かんと飛来した弾丸を、初号機は見た。位置的に、遅れて届く発砲音。
 
 『アスカっ!』
 
ミサトさんの声に、慌てて視線を遣る。
 
漆黒の底なし沼に、すでに太腿まで呑まれた弐号機の姿があった。
 
『わっ、ワタシ…あんなのどうしようもないって判ってたのに…』
 
通信ウィンドウの中に、呆然とした様子のアスカ。
 
『…こないだも、何もできなくて』
 
「ATフィールド張って!アスカちゃん!」
 
沈んでいく弐号機に向かって駆け出した。…後から考えれば、私はずいぶんと動揺していたのだろう。そんなことをさせてないこのアスカに、ATフィールドの応用を要求するなんて。
 
『こいつもワタシでは斃せないと思ったら、急に悔しくなって…』
 
ハンドキャノンを構えた格好のままで、弐号機が沈んでいく。
 
エントシュ…。と呟いたアスカが、かぶりを振る。
 
『…ゴメンナサイ』
 
全力で駆けつけたのに、その手を掴むことができなかった。
 
 …
 
そのまま黒円の上を駆け抜けて、振り向く。
  
ゼブラパターンの球体が、何事もなかったかのように浮いていた。
 
やり場のない怒りに固めたこぶしを、しかし解く。怒りをぶつけるべきは己自身ではないか。
 
 
溶解液使徒の一件以来、アスカにはずいぶんとゆとりが出来てきていたように思っていた。夕飯の招きに、一人で応じることも多くなってきていたのだ。
 
だが、ずっと葛藤していたことは疑いようがない。
 
だって、あのアスカが謝ったのだ。ごめんなさいって言ったのだ。
 
頭では理解できても、感情が伴わずに苦しんでいたのだろう。意識せずにやってしまったから、哀しげに謝るしかなかったのだ。
 
微細群使徒戦ではつんぼ桟敷に置かれ、今また獲物をおあずけにされて。自己のアイデンティティーの置き所に悩んでいたに違いなかった。
 
気丈な娘だから、内心の動揺を大人なんかに見せることなどないと、知っていたはずなのに。
 
もっと、しっかり見守ってやるべきだったのに。
 
 
「10番に増設バッテリを載せれるだけ、急いで!」
 
場合によっては、弐号機のために必要になる。
 
『ユイさん!?…』
 
ミサトさんは明らかに制止しようとしていたから、皆まで聞かず。
 
「アスカちゃんを救出に行きます。早く!」
 
深淵使徒を斃すほうを優先すべきかと、考えないでもない。ただ、そうした場合に弐号機がどうなるか、見当もつかなかった。
 
 
『…ユイ』
 
増えた通信ウインドウに、ゲンドウさん。最近は、私相手でもサングラスをかけていることが多い。目の下の隈を見せたくないのだろう。…これ以上心労を重ねさせることは、本意ではないけれど…
 
「必ず、帰ってきます」
 
…すべてをレンズの奥に押し込めて、ゲンドウさんが頷く。トップ・ダイアスから飛ばす指示の声が、かつてのように硬い。
 
 …
 
わずかな作業時間を待ちきれず、つい武器庫ビルの前をうろついてしまう。
 
ようやく開いたシャッターももどかしく、板ガム状の増設バッテリを取り出した。
 
まずは肩部ウェポンラックに1枚ずつ接続する。パレットライフルがケースごと用意されていたが、無視だ。どうせ役には立たない。
 
続いて4枚ほどをまとめて小脇に抱え、ハンドキャノンを手にした。
 

 
ケーブルを切り離して向かうのは、悠然と浮かぶゼブラパターンの球体の、その真下だ。
 
 
****
 
 
深淵使徒に呑みこまれて最初にしたのは、念のためにACレコーダーをカットすることだった。一切記録に残さずに機能停止できるよう、細工済みだ。
 
 
続いてレーダーやソナーを試すが、やはり反応がない。
  
かつては空間が広すぎるせいだと思っていたが、いくらS2機関とはいえ無限の空間を支えられるほどの出力が有るはずがない。
 
有限だとしても、生命維持モードで16時間近く粘ったことを思い出せば、初号機を中心にして半径8光時以上の球形の空間があることになる。木星軌道を楽々収められるほどの空間を、保持できるものだろうか?
 
…もっとも、そんな広大な空間を精査できるほどの性能を、初号機のレーダーが備えているはずもないが。
 
 
ディラックの海を扉代わりに他の宇宙へ連れてこられたかとも考えたが、背景放射すらなさそうだから可能性は低いように思う。
 
 
考えれば考えるほど、この空間の存在を疑いたくなる。
 
なにか誤魔化されているような、そんな感覚が付きまとって離れないのだ。
 
 
試しに、深淵使徒に呑みこまれるために使ったハンドキャノンを放り投げる。 
 
しばらくして放ったレーダー波は、返ってこなかった。
 
 
この距離を探知できないのは、…もしかして、電磁波が急速に減退させられているのではないだろうか?
 
だとすれば…
 
 …
 
ATフィールドを中和した上で放ったレーダー波が、至近のハンドキャノンを捉えて返ってくる。やはり、ATフィールドの応用だったか。相手が使徒なのだから、もっと早く試してみるべきだった。
 
…いや、内向きのATフィールドとはこういう意味だったのだろう。外ではなく、使徒の裡にこそ充満しているのだ。
 
ぐるり。と見渡した視界の中で、初号機が赤外線を感知した。他に熱源はなさそうだから、弐号機だろう。初号機の空間把握能力が、弐号機までを1光秒あまりと教えてくれる。
 
 
ここが本物の宇宙なら、ATフィールドでダークマターを漕げるかどうか試したところだが、やるだけ無駄だろう。確実な移動手段から試してみるか…
 
S2機関を始動させる。
 
膨大なエネルギーの迸るままに、顎部装甲を引き千切って咆哮。震わせるものなど何もない空間で、無音の叫びが虚しい。
 
全身を使って発生させた電力が、必要な個所に供給されるように手配する。増設バッテリは、温存しておくに越したことはないだろう。
 
背後に展開したATフィールドを蹴りつけて、弐号機の元へ向かった。
 

 
 ……
 
初号機に搭載されている加速度計は大気圏内用で、振り切れてしまって久しい。ジャイロコンパスの履歴や、レーダーで計測したハンドキャノンとの距離を突き合わせて、初号機の速度を算出させてみる。
 
 ― 秒速で5.2㎞あまり。大気のない空間ではあまり意味がないが、マッハにするなら約15。
 
ATフィールドを蹴りつけて加速していけば、もっと速度を出せると考えていた。それこそ、理論的には光速に近づくことだってできるはずだ。
 
見込み違いだったのは、ある程度より速くなると、さすがに初号機の反射神経でもATフィールドを蹴りつけられないことだった。そもそも、タイミング良く足元にATフィールドを張るのが難しいのだ。
 
…このままでは、アスカが生命維持モードで粘っていたとしても、間に合わないかもしれない。
 
 
思わず、不吉な未来絵図を想像してしまう。
 
 
弐号機を生み出し、母親を奪い、戦場に放り込み。…今また、その命まで奪おうとしている。深淵使徒の闇の中、孤独なままにアスカを殺してしまう。
 
 
それだけは、
 
 それだけは、嫌だ。
 
あまりの絶望に、この手でアスカの首を絞めたことだってある。自分を受け入れてくれない者を憎悪して、なにより他人という存在に耐えられなくて。もう1度会いたいと願った、その舌の根も乾かぬうちに。
 
 その弱さ故に、今ここに自分がいるのだとしても。
 
  あの感触を思い出すのは、二度と御免だ。
 

 
 
アスカを、救けたい!
 
この狂おしさに囚われたか、初号機が吼えた。S2機関が唸りをあげて、胸を焦がす。全身を駆け巡った奔流が、出口を求めて背中を突き破った。
 
 …
 
あまりの痛みに、一瞬意識が飛んだらしい。背中から内蔵を掻き出されるようなその痛みが継続していなければ、気絶したままだっただろう。
 
 
何事かと首をめぐらせれば、目に入ったのはまばゆい輝きを放つ光の帯。いや、翼か。
 
初号機の背中から、あまりにも長大な一対の翅が伸ばされているのだ。セロハンを張り巡らせたようなその姿は、カゲロウのそれを思わせる。
 
初号機の鋭敏な知覚が、微弱ながら加速度の増加を感じだした。S2機関で産み出したエネルギーを、ATフィールドの翼で光子に変換し、推進力をあがなおうというのか。
 
爆発的な加速を得られるわけではないが、たゆまず加速しつづければ最終到達速度は莫迦にはできまい。
 
 
この想いに、応えてくれたんだね。…ありがとう、初号機。
 
 
****
 
 
減速するために光子を前方へ放射し始めて、暫時。大幅に時間を短縮して、弐号機が目の前だ。
 
光の翼を解くと、光源を失って全てが闇の中に。
 
体重移動で姿勢を変え、前方に展開したATフィールドに着地。全身をばねのように使って勢いを殺す。スケール比で考えても、発令所から落ちたときなどとは比べ物にならない衝撃があっただろう。だが、初号機の運動神経は葛城ミサトであったときの経験を十全に活かして、無理がない。
 
かすかな赤外線を頼りに、ATフィールドを蹴った。胎児のように身を丸めた弐号機に近づき、慎重に接触。その肩部ウェポンラックに増設バッテリを接続する。自動でモードが切り替わり、外部電源優先に変わったはずだ。通信を妨害されないよう、エヴァ2体を包むようにATフィールドを張った。
 
「アスカっ、…アスカちゃんっ!」
 
 …
 
返事がない。
 
生命維持モードでは音声回線しか開けないから、アスカの様子がよく判らなかった。内部モニターに有線接続で強制介入して、バイタルチェック。…良かった、眠っているだけだ。
 
『… マ マ』
 
思わず、弐号機ごと抱きしめた。
 
どんな夢を見ているのだろう。いい夢だと良いのだけれど。
 

 
このまま、寝かしたままの方が良いだろうか? と悩んでいたら、アスカのうめき声がした。
 
「…アスカちゃん」
 
 …
 
夢うつつに通常モードに変更したのだろう。開いた通信ウインドウの中で、状況を理解してないらしいアスカが視線をさまよわせている。寝惚け眼をこするさまが、実に可愛らしい。
 
ウインドウの中にこちらを見つけただろうに、アスカはしばらく認識できないようだった。
 

 
『えっ? なんで? どうしてアンタがここに居るのよ?』
 
「なんでって、アスカちゃんを救けに来たに決まってるじゃない」
 
『バカっ!』
  
寝起きだというのに一瞬でトップギアをいれて、アスカの罵声が耳に痛い。
 
『ココがどんなところか判ってんの!』
 
よく知っている。とは言えず、まあなんとなく…。と語尾を濁した。
 
『アンタ、バカぁ!? こんなところに策もなく乗り込んできて共倒れになったりしたら、誰が人類守んのよ!』
 
考えナシだの、ナッツヘッドだの、ドゥムコプフだの、立て板に水を流すように喚き散らされる罵詈雑言を、さも神妙そうに聞いてみせる。アスカの文句を真に受けて謝ったりしたら、火に油を注ぐようなものだ。
 
 …
 
言うだけ言って気が済んだのか、単に疲れただけなのか、アスカが大息をついた。
 
「…だって、アスカちゃんが心配だったんですもの」
 
バカ…。と呟いたアスカが、何かを隠すように顔を逸らす。
 
「それ以上の理由なんか、ないわ」
 
アンタにっ!とウインドウに向き直ったアスカは、その怒声とは裏腹に切なげで。
 
『…アンタにナンかあったら、レイやシンジになんて言えばいいのよ!』
 
そういえば、分裂使徒の時にレイやシンジと何を話したのか訊いてないけれど、そう云うことなのだろうか?
 
「大丈夫。勝算はあるから」
 
『ヴィルクリッヒ?』
 
「ええ。今から始めるから、弐号機を起動させて初号機にしがみついていてくれる?」
 
わかったわ。と頷いたアスカがシンクロ手続きを始めた。
 
『…Anfang der Bewegung Anfang des Nerven anschlusses.Ausulosung von  Rinkskleidung.Synchro-Start』
 
…ここでバゥムクーヘンなんて言ったら、怒られるだろうなぁ。
 
おそらく、CTモニターに切り替えたのだろう。弐号機から発せられるマイクロ波が、初号機の視界で眩しい。
 
腕の中で途惑いがちに身じろぎした弐号機が、おずおずと手を回してくる。右手を脇の下から、左手を首にかけて、背中で指を絡ませたようだ。直接アスカに触れるような心持ちで、やさしく抱きしめ返してやった。
 
「それじゃあ、始めるわね?」
 
ウィンドウの中でアスカが頷くのを確認して、まぶたを閉じる。
 
…S2機関、全開!
 
迸るエネルギーに猛って、思うさまに叫ぶ。震わせるものなど何もないはずなのに、溢れ出るエネルギーが物理的な衝撃波となって放たれるのが判った。
 
『な…?』
 
アスカの声が通信越しに聞こえてくるが、今は人の体のほうへ意識を回せない。
 
『ワタシ、こんな物に乗っているの…?』
 
 
直径680メートル、厚さ約3ナノメートル。その極薄の空間を内向きのATフィールドで支えたディラックの海。虚数空間がこの使徒の正体だと、リツコさんが推測した。
 
ATフィールドで支えているからといって、中和すれば斃せるというものではないのは身に沁みて知っている。そもそも本体の虚数回路が閉じている間に中和しても、なんの効果もないのだ。その間、使徒はATフィールドを張っていないのだから。
 
かといって、虚数回路が開いている状態ではどうかというと、中和しようとした瞬間に影たる球体は消え、虚数回路を閉じるだろう。さきほどレーダーを使うために中和した時、外界ではゼブラパターンの球体がいきなり消えて騒ぎになったかもしれない。もし深淵使徒が移動していたら、余計な被害が出ているかも。
 
 
このディラックの海を打ち破るには、ATフィールドを中和せねばならない。しかし、尋常な方法では中和のしようがないのだ。
 
だが、裏死海文書を読み、その基礎研究資料を手に入れ、セカンドインパクトのデータからサードインパクトというものを、あの儀式で行われたことを推測できる今なら…
 
 
…アンチATフィールド、展開!
 
 
ATフィールドの中和とは、自身のフィールドの全てを以って、相手のフィールドを消し去る行為である。つまり、相殺だ。だが、壁をぶつけて相手の壁を壊そうが、その瓦礫は残る。こちらがその意図を放棄した時点で、すぐさま再構成されてしまうだろう。
 
ATフィールドを展開できる能力があるうちは、その中和など一時凌ぎでしかない。
 
それと同様に、中和のしようがないというなら、そもそもATフィールドを張らせなければいいのだ。
 

 
漆黒の空間が悲鳴をあげるようにひしゃげたかと思った瞬間、生暖かいモノに取り囲まれていた。
 
『…なっナニ、ここ』
 
生肉の風呂に浸かっているような感触に、アスカが弐号機ごと身震いしている。暗闇で何も見えないことに変わりはないから、よけいに気色悪いのだろう。
 
赤外線が見える初号機の視覚も、周囲を熱源に囲まれてはさほど役に立たない。もっとも、その熱量が急速に失われつつあるように見受けられたから、この使徒は案外、もう…
 
「おそらく、使徒の本体の中よ」
 
右の抜き手を、正面に突き立てる。いまプログナイフを出そうとすると、弐号機の頭を直撃してしまうのだ。
 
肉を断つ感触が不快だった。
 
 …
 
つらぬき通したその向こうから、光が差し込んでくる。
 
そこへ向かって、弐号機も左手を差し入れていく。
 
力を合わせて、使徒の肉体を抉じ開けていった。
 
 
                                         つづく
2007.08.06 PUBLISHED
2007.08.10 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗八話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:45


S2機関を長時間に渡って全力稼動させた私は、案の定、倒れた。
 
どうやら、3日間も昏睡していたらしい。
 
また、肩甲骨のあたりに重度の火傷を負っていたそうで、10日間の絶対安静を言い渡されてしまった。
 
背中に大判のジェルパッドを貼られ、点滴やらカテーテルやらで半ばベッドに括りつけられている。…それにしても、ムートンのシートやエアーマットなんて、医療部の備品にあったんだ。
 
しばらくは面会謝絶です。と、リツコさんの仰せだったのだが…
 
 
「目、覚めた?」
 
「…アスカちゃん」
 
本部棟内の宿舎を拠点に、気紛れにホテルを泊まり歩いているというアスカは、この3日間、頻繁に様子を見にきていたらしい。チャイルドは、身分・報酬ともに保証されているので、そういった真似も可能なのだ。
 
学校は、…サボっているのだろう。学歴としては大学まで卒業しているアスカに、強要はできない。
 
 
ベッドのリモコンを探し当て、リクライニングを起こす。
 
パイプ椅子を引き寄せて座ったアスカは、何か言おうとして目を合わせた途端に押し黙った。
 

 
 ……
 
逸らした視線をたっぷりとさまよわせ、再び見つめてくる。
 
酸素の足りない鯉みたいに口を開け閉めしたアスカが、顔を伏せた。
 
「…救けに来てくれて、ありがと」
 
ぼそりと、しかし聞き間違えようのない口調で言い切ったアスカは、どんな顔をしているのか見せてくれない。
 
「どういたしまして」
 
小さくかぶりを振ったアスカが、向けた視線を、開けた口を、
 

 
やはり逸らした、やはり閉ざした。
 
 …
 
今にも泣きそうな顔で、何を訴えかけようとしたのだろう。
 
そっと右手を伸ばして、手のひらをアスカに差し出す。
 
ちらり。と視線を寄越し、伝い登るように顔色を窺ったアスカが、おずおずと左手を載せてきた。
 
その上に左手を重ねてやって、頷く。
 
アスカがその裡に秘めた思いを、解かるつもりだ。その芯が純粋だと、知っているから。
 
殻を破れずに啼く雛のように、心の奥底の一番繊細な部分が苦しんでいるのだろう。
 
だけど、無理しなくていい。急がなくて、いいんだ。
 
憑き物が落ちたように肩を落としたアスカが、こくんと頷いた。
 

 
なのに、すぐさま思い詰めた様子で表情を硬くして。
 
「…エヴァってなんなの?」
 
それは、先ほどまでとは違う葛藤だろう。
 
どうやら、アスカを過小評価していたらしい。殻が破れないのなら、別の場所を試す。アスカは、予想以上に毅くなっていた。
 
 …
 
だが、それを聞いたアスカがどうなるか、正直予想がつかない。
 
最悪、全てを失ってあの時のように壊れるだろう。
 
しかし、睨みつけるようなアスカの眼差しは真剣で、とても誤魔化せるような雰囲気ではなかった。
 

 
「…毒を以って、毒を制す」
 
それだけでアスカは察してくれたらしい。いや、予想の範疇だったのかも。
 
「弐号機も、ああなるの?」
 
深淵使徒戦で見せた、暴走まがいの初号機の姿のことだろう。
 
ゆっくりと、かぶりを振る。
 
「先行量産型の弐号機は、より制御しやすい形で開発されているから…」
 
実際、弐号機の暴走というものを自分は見たことがない。
 
そう。と呟いたアスカが、ゆらり。と立ち上がった。
 
夢遊病患者のような足取りで出て行こうとして、振り向く。
 
「教えてくれて、ありがと」
 
あるべき自分を見失ってか、その顔に表情がなかった。渦巻く感情が出口を見失い、取り繕っていたことすら忘れているのだろう。
 
立ち去るその背中に、かける言葉がなかった。
 
 
 
「教えてしまって、よろしいんですか?」
 
入れ替わるように、加持さん。
 
どうやら、感傷に浸る時間ももらえないらしい。
 
「それでエヴァに乗れなくなるというのなら、願ってもありません」
 
加持さんに続いて入室してきたミサトさんの、視線が揺れた。
 
面会謝絶のはずなのに、千客万来だ。 
 
 
 
 
「…シンジが失恋、ですか?」
 
ええ。と頷くのは、ミサトさん。隣りに座る加持さんも、意外なことに神妙そうだ。
 
「どういうことです?」
 
どこから話したもんでしょうかね…。と語尾を濁す加持さんに、ミサトさんの肘鉄。
 
「最初から話しゃ、いいのよ」
 
…そりゃそうなんだが。と加持さんの歯切れが悪い。
 
「まっ、出し惜しみしても仕方ない」
 
太腿をぱんっと叩いた加持さんが、にやけ面に戻る。
 
「陸上軽巡洋艦トライデントを、ご存知ですか?」
 
 

 
 
加持さんの話を要約すると、戦略自衛隊はずいぶんと前から二足歩行の巨大ロボットを開発していたらしい。
 
もちろん重大な軍事機密だったのが、単なる巨大な戦車だと思われていたことと、海外出兵という純粋な軍事利用が目的だったためにネルフの諜報網からは外されていたのだそうだ。
 
戦自内でも白眼視されていたらしく、そのままでは完成しなかったでしょう。と加持さんは言う。
 
「転機は2008年に訪れました」
 
エヴァに対抗しようとした愚かな計画が潰れたのだ。原子炉を積んで使徒に格闘戦を挑もうとした、ジェットアローンの開発計画が。
 
問題は、それに注ぎ込まれるはずだった資金や技術や人材の、流入先だった。
 
「その予算は難民の支援や孤児の育成に回されたと、思っていましたが…」
 
加持さんが、かぶりを振る。
 
「戦自の少年兵部隊はご存知ですね?」
 
頷いた。戦略自衛隊は、自衛とは名ばかりの普通の軍隊だ。なので旧陸軍と同様に、幼少時から幹部候補生を育成するための教育機関を持つ。
 
たしか、戦自奨学育英会だったか。
 
子供に軍事教練を施すことの是非を、親権者の判断ということで有耶無耶にするために奨学生制度を採っているが、幼年学校そのものだった。
 
セカンドインパクト以降、子供を養育しきれない親が増えたため、その受け皿が必要だったということもある。
 
「その存在に、目をつけた人がいたんでしょうね」
 
孤児の救済策として、早々に入隊基準の引き下げを行っていたらしい。もちろん、孤児の育成という美名の下に、戦自に資金を引き込むために。
 
最初は微々たる金額だったのだろうが、この世界は実績が物を言う。JA計画の頓挫によって宙に浮いた予算を、まんまとせしめることができたのだそうだ。
 
付随して、それらに関わった人脈とのパイプが構築されたことで陽の目を見たのが、陸上軽巡洋艦トライデントということらしい。
 

 
JA計画を潰したことが、こんな反動を生むなんて…
 
…自分独りで何でも出来るなどとは思っていないが、自分の出来る範囲で打った手が裏目に出ると、正直つらい。
 
 
「偶然のいたずら。と言うしかありません」
 
何に思いを馳せたのか、めまいでも振り払うような仕種で。意外なことに、加持さんは本気でこの事態を嘆いているように見える。
 
 
擱座したトライデント2番艦から救出された少年兵。
 
ネルフの内偵に送り込まれた少女。
 
その2人が戦自少年兵の同期生でなければ、この第3新東京市が事件の舞台となることはなかっただろうと言う。
 
 
差し出された調書に、目を通す。
 
 
霧島マナというその少女は、任務を放棄して同僚を救うために奔走。シンジは彼女に協力しようとしていたらしい。
 
「シンちゃんの力になってあげたかったのに…、アタシ何も出来なくて」
 
ミサトさんがうなだれた。
 
戦略自衛隊病院からのカーチェイスの挙句、霧島マナという少女はゲンドウさんの手によって国連軍に引き渡されたそうだ。
 
なぜそこでいきなり国連軍が出てくるかというと、第3新東京市周辺がネルフ直轄のために治外法権だからである。
 
その割に演習場から近いという理由だけで市内に病院を設立していたりするのは、日本政府とネルフの仲の良さを喧伝するための政治的パフォーマンスだそうだが。
 
ともかく、ネルフの縄張りに虎の子の秘密兵器が逃げ込んでしまって困った戦自が頼ったのが、国連軍だったわけだ。
 
そもそも戦略自衛隊は、国連軍に編入された自衛隊を再構築するように作られた組織で、交流も少なくなかった上に、JA→トライデントの下りで太いパイプが出来たらしい。
 
治安維持の名目で国連軍が出動するのは、他愛のないことだっただろう。
 
 
少女を手に入れた国連軍は、このあと、どう動くだろうか?
 
調書によると、どうやらトライデント1番艦のパイロットも彼女の同期らしい。
 
…とすれば、まずは潜伏中のトライデント1番艦の居所を聞き出そうとしての尋問だろう。
 
その後で、トライデントをおびき出す餌にされるかも。 
 
 
このまま手をこまねいていて良いはずがない。彼女たちも、私の被害者だ。
 

 
なにか、なにか良い案はないか。
 
手懸りを求めて、手にした調書をめくる。
 
第壱中学への転入時に受けた健康診断の結果はいいとして、どこをどうして手に入れたのか戦自病院のカルテまで取り揃えられていた。これが加持さんが積極的に動いた成果であるならば、日本政府にもさまざまな思惑が渦巻いているということだろう。
 
それにしてもこの娘、ずいぶんと体を壊してるようだ。…ああ、もともとはパイロット候補だったのか。訓練過程で自律神経を損なってリタイア、投薬のみのおざなりな治療が祟って内臓まで悪くしているらしい。リツコさんの所見は短いが、ヤブ。と言わずもがなな悪態で締めくくられているところに憤りが感じられた。
 
戦自は、使い捨てるつもりだったのではないだろうか? 彼女を。
 
 
それに2番艦のパイロットの方は、たかだか擱座したくらいで意識不明とは、あまりにも重篤すぎる。
 
…このトライデントとか言うロボット。操縦者に過酷すぎるのでは?
 
 …
 
「第壱中学の校医とカウンセラーの連名で、国連に提訴させましょう。
 この娘が転校以前に受けた扱いは、子どもの権利条約に抵触する恐れがあるわ」
 
戦自と正面きって事を構えるつもりはないから、搦手で行くしかない。
 
「国連が動きますかね?」
 
この件がJAの流れを汲んでいるのなら、それはゼーレの派閥争いの結果。ということになる。ならば、口実さえ与えてやれば、それを利用しようとするだろう。それに、
 
「汚名を返上したくてうずうずしている司令官が一人、居るでしょ?」
 
苦渋の決断だったに違いないのだ。私情と使命を秤にかけて、断腸の思いでシンジの願いをはねのけたことだろう。この時点で戦自と事を構えるわけにはいかないのだから、当然の判断ではある。今のゲンドウさんならその理由をしっかりシンジに説明しただろうし、今のシンジならそれを呑み込んで見せただろう。だが、ロジックじゃないのが人間だ。
 
ゲンドウさんはほとんど帰宅しないから顔を会わすことはないだろうが、それでわだかまりを感じないというものでもあるまい。
 
多少強引な手段だが、ゲンドウさんは、きっと出来るだけのことをしてくれるだろう。
 
 
****
 
 
トライデントをおびき出す餌として少女が晒し者にされようとした、まさにそのとき。戦自奨学育英会にユニセフの査察が入ったそうだ。
 
あまりに早い対応は、アメリカとドイツの肝煎りなのだとか。国連本部の第2新東京市への移転に最後まで反対したこの2ヶ国は、日本政府に嫌がらせができるこの機会を最大限に活用するつもりらしい。
 
子どもの権利条約を締約していないアメリカが、急先鋒の一角だというのが実に不条理だが。
 
 
それに、国連の権限の強いこのご時世にあって、ユニセフもまた強権化している。セカンドインパクトから復興しきってない国々ならともかく、日本のような先進国での児童虐待を見過ごすつもりはないのだろう。
 
また、この件で国連軍内の旧自衛隊派と、戦略自衛隊との癒着が取り沙汰された。今回の在日国連軍の行動は明らかに独断専行であるし、何らかの是正が行われるものと期待している。
 
 
 
「あなたが、霧島マナちゃんね」
 
「はっはい、はじめましてっ」
 
思わず敬礼しそうになったのだろう。慌てた娘が、全身を使ってお辞儀した。
 
実に快活そうで、見ているこちらまで元気がでてきそうだ。ただ、体を壊してることは間違いないようで、皮膚にうっすらと黄疸が認められる。そうと知らなければ見逃して…いや、手足に較べて顔の黄疸が薄く見えるのは、ファンデーションで隠しているからだ。ただでさえ肌荒れが酷いだろうに、追い討ちをかけるように化粧?…諜報活動への従事にあたってそう指導されたのだとすれば、戦自は本気でこの娘を使い捨てにするつもりだったのだろう。
 
 
戦自奨学育英会は、一時的にユニセフの監督下に置かれるらしい。おなじ国連麾下の組織のよしみで、この娘の身柄はネルフが預かることになった。ゲンドウさんの働きかけだろう。
 
「そして、ムサシ・リー・ストラスバーグ君」
 
色黒の少年兵はちらりとこちらに視線をやると、またすぐに逸らしてしまった。仏頂面を隠そうともしていない。おそらく、ネルフをまだ信用してないのだろう。
 
その態度が気にくわなかったらしいマナちゃんに肘鉄を喰らって、ムサシ君が不承不承に頭を下げる。
 
彼女の証言から芦ノ湖の湖底で見つかったトライデント1番艦は、そのまま戦自に引き渡された。そのパイロットであるムサシ君は第3新東京市に潜伏していたところを加持さんによって発見され、こちらは秘密裏にネルフで保護することになったのだ。
 
 
「ネルフ、使徒対策室長の碇ユイです。
 療養中なので、こんな格好でごめんなさいね」
 
「いえ、戦傷とお聞きしてます。お気になさらないで下さい」
 
マナちゃんの応答に、ムサシ君が一瞥をくれる。
 
 
パイロットを確保できたのだから、ついでにトライデントを接収しようとする意見もあったようだ。幸い、ゲンドウさんが保留にしてくれていたから、あとで改めて却下すればいいだろう。
 
純粋に軍事目的で作られたトライデントは、ジェットアローンと違ってエヴァと競合しない。ここで余計な色気を出しては、ヤブヘビになりかねなかった。
 
もしネルフがトライデントを召し上げれば、その実用性に国連がお墨付きを与えたことになる。JAの時と違って、トライデントはまだその有用性が否定されてないのだ。
 
それだけならまだしも、量産が効きパイロットも選ばないトライデントに脅威を覚えたと勘繰られては、何かとまずい。通常兵器で代替が効くと侮られては、エヴァ、ひいてはネルフがないがしろにされてしまう。それで使徒戦に支障でも生じたら、本末転倒も甚だしい。
 
熱核型原子炉を推進器化してしまった熱核タービンエンジンは、水中での稼動も可能というから興味はある。だが、トライデントが使徒戦で役に立たないことに変わりはないのだ。
 
 
「あなたたちの身柄は、ネルフが預かることになりました」
 
預かることになったのはいいが、彼女らを監督できる部署がない。諜報部が名乗りを上げていたが、このうえ捕虜扱いさせるわけには行かなかった。私がでしゃばったことで、軋轢が生まれなければいいのだが。
 
「しばらくは不自由な思いをさせると思うけれど、理解していただけると嬉しいわ」
 
いえ、とんでもありません。と、かぶりを振ったマナちゃんが、しかし心配げにまなじりを下げた。
 
「私たち、これからどうなるんでしょう? やっぱり戦自に連れ戻されるんでしょうか?」
 
「それは、これからの成り行きによります。
 2番艦のパイロット、浅利ケイタ君はユニセフに保護されて加療中ですから、彼の快復を待って少年兵部隊そのものの是非が問われるでしょう」
 
どうやら、友人の安否を聞いていなかったようだ。喜色を隠そうともしないマナちゃんの隣りで、ムサシ君まで雰囲気をやわらげている。
 
聞いた話では、第2東京大学付属病院での主治医はリツコさんの先輩だそうで、有能かつ信頼できる人物らしい。
 
「それによって少年兵部隊が良くなるなら復隊もよし、ここに残って普通の中学生として暮らすもよし。…ああ、マナちゃんはご両親のもとに帰るという選択肢もあるわね。
 いずれにしても、なるべく希望に添えるよう努力します」
 
よろしくお願いします。と頭を下げたマナちゃんが、ムサシ君の頭を掴んでむりやり下げさせていた。
 
「マナちゃんは、このままここに入院してもらうことになるわ」
 
 
残り1週間近くあった療養生活は、マナちゃんのお陰で退屈とは無縁だった。
 
 
****
 
 
そうして退院の時を迎えたその日、アメリカ第二支部が消滅したと報告があった。
 
ゼーレにS2機関のサンプルが渡らないよう努力してきたが、無駄だったようだ。
 
 
                                         つづく
2007.08.10 PUBLISHED
2007.08.20 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第丗九話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:45


それで事が済む。というのなら、できれば参号機はどこかに埋めてしまいたかった。
 
実際、この世界に来たばかりの頃はそうしようかとも思っていたのだ。
 
だが、弐号機といいトライデントといい、様々な局面で自分の判断は裏目に出ている。参号機を封印することで憑依使徒がどんな行動に出るか読めずに、起動試験を行わざるを得なかった。
 
 
  ≪ 参号機、起動実験まで、マイナス、300分です ≫
 
プラグの水中スピーカーから聞こえてくるのは、松代からの中継だ。
 
  ≪ 主電源、問題なし ≫ 
 
事前のチェックでは何の異常も発見されなかったし、本部のケィジも空いている。だけど、微細群使徒の例があるから油断はできない。
 
  ≪ 第2アポトーシス、異常なし ≫
 
そのためにこうして、松代で起動試験を行っているのだ。
 
  ≪ 各部、冷却システム、順調なり ≫
 
ただ、今回は特に念を入れて、参号機には誰も乗っていない。最終的にはオートパイロットを試すと嘯いて、パイロットの選出すら行っていなかった。
 
  ≪ 左腕圧着ロック、固定終了 ≫
 
試みているのは、本部棟からの遠隔起動。微細群使徒が襲来してきた時に実験していた擬似エントリーの応用、発展形と言えるだろう。模擬体のエントリープラグと初号機のコアを使い、参号機のプラグは空のままにその機体の起動を行うのだ。
 
もちろん、コアを覚醒させない以上、参号機は動かない。エネルギー源がないのだから。
 
憑依使徒対策を兼ねて異なる実験を加えてみたわけだが、名目上は機体チェック、安全対策の一環ということになっている。四号機と素性を同じくしているということが、各所に負担増となるこの手順を受け入れやすくしてくれたらしい。
 
これが成功して初めて、参号機コアの覚醒を促す予定だった。
 
 『了解だ。Bチームは作業を開始したまえ』
 
手間が増えれば、人手が要るのが道理だ。現地入りしたリツコさんに代わって、本部棟側の指揮は冬月副司令が執っていた。オブザーバーとして、ナオコさんも立ち会ってくれている。
 
  ≪ エヴァ初号機とのデータリンク、問題なし ≫
 
危険性を考えれば、リツコさんを松代に向かわせるべきではなかっただろう。だけど、筋金入りの現場主義者を翻意させることは難しかったのだ。
 
  ≪ パルス送信。グラフ正常位置。リスト、1350までクリア。初期コンタクト問題なし ≫
 
 『了解だ。作業をフェイズ2へ移行する』
 
これ以上、子供を戦場に立たせたくない。そのためもあって準備してきた遠隔エントリー実験は、順調に推移している。
 
  ≪ オールナーブリンク、問題なし。リスト、2550までクリア。ハーモニクス、すべて正常位置 ≫
 
  ≪ 絶対境界線、突破します ≫
 
途端に鳴り響くアラーム。ヴァーチャルディスプレイに映したソレノイドグラフの勢いが止まらない。
 
そんな!? そのコアはまだ目覚めてもないと云うのに。いや、だからこそ、憑依使徒のほしいままにされたのか?
 
 『実験中止、回路切断!』
 
  ≪ だめです、体内に高エネルギー反応 ≫
 
松代からの通信が、切れた。
 
 
**** 
 
 
参号機、いやエヴァ憑依使徒が捲き起こす爆発の威力は身を以って知っていたから、松代での備えに抜かりはない。
 
充分に距離を取らせておいた現地指揮所との通信が回復したのが10分後、全員の安否が確認できたのがその30分後だった。
 
 
 『 活動停止信号を発信。エントリープラグを強制射出 』
 
 『 だめです。停止信号およびプラグ排出コード、認識しません 』
 
出撃準備を整え、夕闇迫るこの野辺山の地で、パターンオレンジの移動物体を待ち受けること小1時間。
 
  ≪ 目標接近! ≫
 
惜別に燃える太陽を背に、黙然とエヴァ参号機が姿を見せた。
 
『エヴァが、使徒に乗っ取られてるなんてね…』
 
【FROM EVA-02】の通信ウインドウのなかで、アスカの表情が苦々しい。
 
『アレ、ホントに誰も乗ってないんでしょうね?』 
 
「ええ、プラグは通信用のダミー。無人よ」
 
ゼーレに提出してきた、でっち上げのオートパイロットの開発経過。その全てが丸っきりの嘘というわけではない。こうして実用にこぎつけた遠隔操作は、ダミーシステムの前段階と言っていいだろう。
 
そう、それなら…。とアスカの視線が外れたのでこちらも目標を見やった途端、参号機の姿が消えた。
 
『きゃあぁぁぁっ!』
 
初号機の動体視力でも追いつかないような速度で飛び跳ねた参号機が、前転でもするように半回転して弐号機に襲いかかったのだ。あまりの速さに、ATフィールドを張る間もない。
 
激突の勢いで、2体のエヴァがもつれ合いながら田畑を削っていった。
 
「アスカちゃんっ」
 
『大丈夫…よっ!』
 
参号機を蹴りのけた弐号機が、起き上がりざまにソニックグレイブを振るう。
 
横薙ぎに払われたそれをブリッジの要領で避けた参号機が、その体勢そのままにこちらに這いよってくる。
 
早い!
 
逆さになって睨め上げてくる頭部を狙って、捻じ込むようにローキック。空振りした、と思う間もなく参号機の靴底が視界を塞いだ。これはドロップキック? バック転のように身を翻し、足元から飛び込んできたらしい。
 
もんどりうって吹っ飛ばされた初号機に、何とか受身を取らせる。とっさに肩をそびやかして首を護ったが、さすがに厳しい。
 

 
かぶりを振って、ダブつく視界を振り落とす。
 
彼方で、参号機の背後から襲いかかろうとしていた弐号機が、振り向きもせずに伸ばされた右腕に喉笛を掴み取られた。
 
すぐさま立ち上がり、駆け寄る。
 
 
それにしても、こんなに強い使徒だっただろうか? トリッキーな動きは相変わらずだが、トウジのときもケンスケのときも、こんなに早くはなかったはずだ。
 
…まさか、パイロットが居ないが故の、このスピード?
 
 
悠然と振り返った参号機が、左手をも弐号機の喉にかけた。その背後から左腕を回し、チョークスリーパーをかける。
 
トウジのときは何が起きてるか漠然としか判らなかったから、ケンスケのときは嫌というほど記録映像を見返した。
 
今になって思えば、違和感はあったのだ。ダミーシステムが仕掛けたネックハンギングツリーに、参号機が怯んでいたことに。呼吸などしないエヴァが、使徒がなぜ。…と。
 
それは、パイロットをも取り込んだがために使徒が抱えてしまった弱点だったのだろう。
 
…その証拠に、この参号機は怯まない。
 
『…ユイっ!』
 
アスカの言葉を、救援を求めてのものだと思った私は、たちまちその過ちに気付かされた。
 
っつ!
 
参号機の首に巻きつけた左腕に、熱湯でも掛けられたかのような痛みが走る。途端に、この左腕を這いずり登る葉脈。初号機をも乗っ取ろうというのか。
 
ならば、それが過ちだと云うことを、すぐさま教えてやろう。自我境界線を乗り越えて還ってきたこの肉体を、溶かされ取り込まれ、吐き出された体験を持つこの心を、その直接支配下にある初号機を、そう簡単には奪い取れないと云うことを。
 
赤とオレンジ色の水平線に意識を移す。普段はさざなみ程度の水面が、波頭を持ち上げてうねっていた。侵入者の存在に、肉体を奪おうとする無礼者の闖入に、初号機が怒っているのだろう。気をしっかり持たないと、私まで追い出されそうだ。
 
 『 初号機、左腕に使徒侵入!神経節が侵されて行きます! 』
 
かすかに聞こえてきたのは、通信越しの発令所の様子か。意識を移している今、ヒトの肉体への反応は薄い。
 
 『 左腕部切断。急げ! 』
 
えっ。と思う暇もなかった。
 
左腕を付け根から弾き飛ばした爆圧に、参号機が怯んだ。その隙を突いて、弐号機が巴投げを仕掛ける。
 
そんなことを冷静に見ていたのは、あまりの痛みに痛覚が麻痺してしまっていたのだと思う。ヒトが感じられる許容量というものを、一瞬でも超えていたのではないだろうか。
 
一拍遅れて、ずるり。と、プラグスーツの中で左腕がずり落ちた。
 
!!!!!
 
呼気に全てを託して悲鳴をあげたつもりだったのに、食い縛った歯がLCLを堰き止める。
 
なのに、叫んでいた。声すら出せない私に代わって、初号機が。顎部装甲を引きちぎって。
 
『ユイっ!』
 
それが誰の声だったのか、男女の別すら判らないくらいすべてが真っ白の中、視界が端から赤く染まっていく。
 
それが現実の視界をたなびく赤い流れだと気付いて、慌てて左腕を押さえた。
 
!!!
 
塩を擦り込まれたほうが、まだマシだっただろう。爆砕ボルトで吹き飛ばされた傷口を、重ねあわそうとすることに比べれば。
 

 
プラグスーツはLCLを透過させるのだから、血液も素通しのようだ。などと悠長な感想が脳裏をよぎるのは、脳内麻薬が分泌されてきたに違いない。
 
 …
 
胸の奥に熱を感じて、振り仰いだ。S2機関が始動している? 
 
使徒である初号機は、痛覚を苦痛と感じることはない。だが、この身と一体化することで痛みを知り、それ故の生存本能をも覚えつつあった。
 
猛り狂うエネルギーで痛みを打ち消そうと、初号機が吼える。
 
ダメだ。初号機!痛いのは解かる。辛いのも解かる。一心同体だもの。だけど、お前が無軌道に暴れたら、ここは屍山血河の地獄絵図と化してしまう。だから…
 
『きゃあぁぁあぁぁぁっ!』
 
悲鳴に見やった通信ウィンドウには、砂の嵐。すぐさま自動でカットされた。
 
「…アスカちゃん?」
 
いつの間に離れていたのか、彼方で参号機が弐号機を叩き伏せていた。途端に興味を失ったらしく、ゆらりと振り返る。
 
夕陽に染まる参号機の姿を見て、初号機が目を細めたのが判った。
 
 
弾け跳ぶような初号機のダッシュに、視界が真っ黒になる。
 
大量の血液を失っていた私には、体内の血流の偏りに耐えられなかった。
 
 …
 
  ……
 
 
****
 
 
いい加減見飽きたこの天井には、感想を言う気にもなれない。
 
代わりに、溜息をついた。
 
どうやら、左腕は無事に縫合されたようだ。元通りに動かせるようになるには、時間がかかるだろうけれど。
 
麻酔でも消しきれない疼痛が、脈打つごとに苛む。…いや、肉体的な苦痛はいい。ネルフの医療レベルなら、いつか癒せるだろうから。
 
問題は、今回もまた私は判断ミスを犯したのではないか? ということだ。
 
今になって思えば、以前と比べて憑依使徒の侵蝕が妙に早かったような気がした。零号機のときは、もう少し余裕があったように思う。
 
唐突に思い至ったのは、参号機の起動試験だった。初号機のコアによって起動した参号機の機体は、初号機と機体特性が似る。当然、侵蝕しやすくなっただろう。
 
それだけではない。
 
生命体である以上、エヴァといえど運動神経の向上には経験が要る。神経組織そのものは最初から発達したものを用意することが出来るが、そこを伝わる情報の質は経験で磨くしかないのだ。…それを幾段階か省くためにも、コアへ人格を封入するわけだが。
 
参号機の機体は初号機のコアの支配下に置かれたことで、神経組織の最適化が行われてしまったのだろう。それを使いこなして見せることで、憑依使徒は格段に強くなったのではないか。
 
 
 … 今となっては検証のしようもないが、おそらく間違いないだろう。
 
 
 
 
視界の端で、そっとドアが開いた。
 
立ち尽くす黒い影は、ゲンドウさんのようだ。
 
こちらの視線に気付いて、目を逸らしながら歩み寄ってくる。
 
 
「…すまん」
 
小さな子供が、叱られるのを怯えるような。そんな謝り方だった。
 
「俺の…判断ミスだ」
 
大きな体を小さく縮めて、このまま消え去りたいとでも言わんばかりに。
 
客観的に見れば、ゲンドウさんの対応はミスとは言い切れない。シンクロを補助する必要のない直接制御用のプラグスーツは、ことバイタルモニターにおいては間接制御用のそれを上回る。発令所では私の状態が手にとるように判っただろうし、初号機の状態と引き比べてみれば、それがただならない事態だと思ったことだろう。
 
初号機を、しかもこの私ごと、奪われるかもしれない。侵蝕が胴体に及べば、取り返しがつかないのだ。ためらっていられる時間が、どれほどあったか。
 
 
だけど、この人のことだ。当然の決断すら、自分のせいにして苛んでいるのだろう。己の傍に置いておけば傷つけるだけだなどと、考えていなければいいのだけど…
 
あなたの…。掠れた声は、ろくに空気を振るわせられず。聞き取れなかったらしいゲンドウさんが、身を寄せてきた。
 
「…あなたのミスなら、私のミスです。私たち、夫婦でしょう」
 
「それは…、しかし…」
 
ゲンドウさんの頬に右手を沿わす。左手を添えてはくれたが、視線はそらされて。
 
「それにそもそも、使徒を殲滅できたなら、それで充分ではないですか」
 
「君を失っての勝利など、勝利ではない!!」
 
思わず声を荒げたゲンドウさんが、誤魔化すように2度3度と咳払いをする。つい口を滑らせたのは、それだけ気に病んでいるからに違いない。
 
「参号機の動きに惑わされて戦い方を誤った、私が悪いんです」
 
遠間からATフィールドで取り押さえてしまえば、侵蝕を試みることすらさせずに済んだだろう。なにより、トップ・ダイアスで見守ることしか出来ないゲンドウさんの心に気付きながら、どうすることもしてあげられなかった私が至らなかったのだ。
 
それでも言い募ろうとするゲンドウさんの首に手を回し、引き寄せた。…ちょっと姿勢に無理があって、傷に響く。
 
 … 
 
たっぷり時間をかけて黙らせてから、開放する。今は、こんな風に誤魔化すことしかできない…
 
「司令官でしょう? しっかりしてくださいな」
 
苦笑ながら、ゲンドウさんがようやく笑顔を見せてくれた。
 
「こんな姿を見せるのは、君だけだ」
 
「それならよろしい」
 
いかめしく頷いて見せて、堪え切れずに2人でくすくすと笑った。
 
 
                                         つづく
2007.08.13 PUBLISHED
2007.08.15 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:46


ベッドサイドの椅子に腰かけたマナちゃんが、梨を剥いてくれている。軍人は自分の身の回りのことができてようやく半人前だから、烹炊などは修練済みなのだろう。
 
「エヴァって、過酷な兵器なんですね」
 
包帯とギプスでがんじがらめにされた左肩を見て、マナちゃんが呟いた。どうぞ。と、八つ割りにした梨を差し出してくれる。
 
「そうね。生身で戦っているのと、感覚的には変わらないと思うわ」
 
ありがとう。と爪楊枝を手にして、梨にかじりつく。食用品種の中で唯一の青梨である20世紀梨は、その砂利のような歯応えが特徴だ。しゃりしゃりと心地よい。
 
「欠陥兵器ってことだろ。そんなモンの内偵に、マナもご苦労だったよな」
 
こちらは梨を丸かじりにして、ムサシ君だ。ベッドから距離を置いて、背中を壁に預けて立っている。
 
「少しは遠慮してよ」
 
困ったように眉根を寄せて、マナちゃんがムサシ君を睨みつけている。
 
「いいじぇねぇか、そんなにあんだし」
 
おざなりに寄越した視線は、サイドテーブルの上の見舞いの品に。
 
「そうじゃなくてぇ…」
 
言いたいことが山ほどある。との非難の眼差しだけで済ましたのは、病室で騒ぐことを遠慮したからだろう。
 
だが、ムサシ君が憎まれ口を叩きたくなるのも解かる。彼らはもう何週間も医療棟に軟禁状態なのだ。少年兵部隊の去就がはっきりするまで何も決められないし、なにより私自身が療養中で身動きが取れなかった。
 
それに、マナちゃんが言うほどムサシ君は無遠慮ではない。警戒を解いていないということもあるだろうが、距離を置いているのも梨を丸かじりしているのも、害意がないと暗にアピールしているのだ。話しをはぐらかしたのも、彼なりの気の使い方だろう。
 
「そうそう。遠慮しないで、残りも全部持って帰ってくれると嬉しいわ。こんなにあるんですもの」
 
ありがとうございます。と頭を下げたマナちゃんは、しかし、さほど嬉しそうではない。
 
やはり長い入院生活が気鬱にさせているのだろう。なにか、気晴らしになるようなことでもあればいいのだが。と、思った途端に景気よくドアが開け放たれた。
 
「ユイっ!シンジたちを連れてきてあげ…た…わ、よ?」
 
関係者の家族でも、気軽にジオフロントには立ち入れない。
 
今回の入院は特に長くなりそうだから、シンジたちを連れてきてくれるようアスカに頼んだのだが。
 
「アンタっ!戦自の!ナンでここにっ」
 
一瞬で臨戦体勢をとったアスカに呼応して、ムサシ君がマナちゃんのカバーに入る。
 
当のマナちゃんはというと、アスカを通り越してその視線はシンジに注がれているのだろう。
 
「…シンジ君」
 
応えるようにシンジが何ごとかを呟いたかと思えば、振り返ったアスカがシンジにゲンコツを喰らわした。
 
「ワタシは「惣流」って呼ぶくせに、ナンであの女は「マナ」なのよ!」
 
ああ、そう云うことか。
 
「そんなのは僕の勝手だろ!」
 
途端に仲間割れ(?)をおこした二人に気が抜けたのか、ムサシ君が壁際に戻った。もっとも、先程までとは重心が違うようだが。
 
言い争うシンジとアスカを押しのけて、レイ。とことことベッドサイドまでやってくると、慌てて席を譲ったマナちゃんに代わって、ちゃっかり座り込んだ。
 
「…」
 
レイは何も言わないけれど、なんだか非難されているような気がする。2ミリほど寄ったその眉根は、さすがに微妙すぎて判断しづらい。単純に心配してるだけと見えないこともないけれど、本当のところはどうなのだろう?
 
 
毒気を抜かれたらしい二人が、諍いを治めて入室してきた。  
 
そもそも霧島マナという少女は、アスカに接触するために送り込まれてきたのだそうだ。中学生ということもあって、女の子同士のほうが接近しやすいだろうとの判断らしい。
 
ところが当時のアスカは精神状態が芳しくなかったし、そもそも相性があまり良くないのだろう。邪険に扱われていたのを見かねて声をかけたのがシンジだったそうだ。
 
結果、アスカの方は脈ナシと見て、ネルフ関係者の家族であるシンジに目標を変更したのだとか。
 
…そうなると気になるのが、いつぞやの、アスカのデートの相手だった。男の子ではうまくいかなかったから、その後にマナちゃんを送り込んできたのかもしれない。念のため、背後関係を洗っておいたほうがいいだろう。取り越し苦労なら…いいのだけれど。 
 
 
その後の経過についての加持さんの報告を、かいつまんで説明する。
 
「…そういうこと」
 
不承不承に頷いたアスカが、不機嫌そうにマナちゃんを睨めつけた。その視線の延長線上に、アスカと同じような目つきのムサシ君。こちらの視線はシンジ宛てのようだ。
 
凶悪な視線に挟まれて、シンジとマナちゃんが近況を報告しあっている。もっとも、話しかけているのはもっぱらシンジのほうで、マナちゃんにはいつもの快活さがない。戦自はシンジの誘拐まで計画していたというから、マナちゃんが気後れするのも当然だろう。
 
「ねぇ、アスカちゃん」
 
「なに?」
 
シンジとマナちゃんから視線を外さずに、体だけ寄せてくる。普通の中学生が煩うような日常生活は、アスカにいい影響を及ぼすだろう。エヴァ以外のことで思い悩む時間があっていい。
 
「みんなを、プールに連れて行ってあげてくれない?」
 
「みんなって…、こいつらも? ナンで?」
 
本部棟内で、レクリエーションに使えそうな施設はプールくらいなのだ。
 
本当は私が連れて行ってあげたかったんだけど…。と左肩をなでる。
 
「プールねぇ…」
 
思索に泳いだアスカの視線が、マナちゃんで止まった。なにやら不遜な目つきは、いったい何を値踏みしているのやら。
 
それにね。とアスカの袖を引いて耳打ち。
 
「えっ!? シンジ、泳げないの?」
 
向けられた視線にたじろいだシンジは、しかし、かろうじて踏みとどまった。一瞬マナちゃんに視線をやったみたいだが…、
 
「人間は浮くようにはできていないんだよ!」
 
…開き直ったらしい。
 
「そう云うことなら、特別にこのワタシがコーチしたげる」
 
つかつかとシンジに歩み寄ったアスカが、その腕をとった。
 
「余計なお世話だよ」
 
いくら訓練を積んでいるとはいえ、抵抗する同世代の男の子を引き摺っていけるほどのパワーがあるわけがない。関節を極めれば問答無用で拘引できるだろうが、そこまでする気はないようだ。
 
アスカがてこずっていると、シンジの反対側の腕を、ムサシ君がとった。こちらは容赦なく関節を極めている。
 
「協力しよう」
 
一瞬の間に、どんなアイコンタクトが行われたというのだろう。…まあ、少なくとも後ろめたさは半減するのだろうけれど。
 
「ダンケ」
 
「礼には及ばねぇよ」
 
なにやら利害が一致したらしい。共同戦線を張った二人の兵士は、一般的な中学生に過ぎないシンジをあっという間に連れ去っていってしまった。
 
「あの…?」
 
「本部棟の中で申し訳ないけれど、マナちゃんも楽しんでいらっしゃい。スクーバもできるわよ」
 
マナちゃんらしい笑顔を、今日初めて見ただろう。
 
「シンジく~ん!私も教えてあげる~♪」
 
つむじ風のような勢いで、後を追いかけていった。
 
戦自式で~♪と言っていたのが、…若干気になったけれど。
 
 
****
 
 
来るタイミングは判っていたから、黙って医療部を抜け出した。主治医の許可を取れるような余裕が、あるわけもないし。
 
マナちゃんとムサシ君の協力があったことは、内緒。
 
 
  ≪ 総員第一種戦闘配置、地対空迎撃戦用意 ≫
 
IDも携帯端末も持ってないが、発令所のドアは開いてくれる。自動認証システムさまさまだ。
 
 
「18もある特殊装甲を一瞬に」
 
「エヴァの地上迎撃は間に合わないわ。弐号機をジオフロント内に配置、本部施設の直援に廻して!」
 
トップ・ダイアスを挟んだ反対側の入り口から駆け込んできたらしいミサトさんが、指示を出し始めた。
 
走ると、左腕の繋ぎ目に響くから、ゆっくりと歩く。
 
「アスカには、目標がジオフロント内に侵入した瞬間を狙い撃ちさせて!」
 
袷せの病衣に腕を吊った私の姿は目立つはずだが、第一種戦闘配置の慌しさで誰も気付かないようだ。いや、トップ・ダイアスの2人は気付いたのだろう、驚いたらしい気配。
 
ちらりと振り仰いで、唇に人差し指を添えた。司令官がうろたえた姿をさらしては、士気にかかわる。気持ちは解かるが、立場をわきまえてもらわなくては。
 
 
そろそろと、リツコさんの横へ進み出た。
 
「赤木博士。使徒のあの攻撃は荷電粒子砲ですか?」
 
「第5使徒みたいに円周加速を行っている様子はない…って、ユイさん!」
 
光学観測できないところを見ると、ガンマ線レーザーの類かしら? とリツコさんの解説をさらって、やはり驚いている日向さんの方へ歩み寄る。
 
「ジオフロント内の湿度を、最大限に上げて下さい。それと、最下層の吸熱槽内の耐熱緩衝溶液を散布」
 
日向さんが、目顔でミサトさんに確認してから、指示を出し始めた。
 
もし本当にガンマ線レーザーだったとしたら、耐熱緩衝溶液に水銀でも混ぜておけば一財産になったかもしれない。…などという益体もない考えを、脳裏から追い払う。
 
青葉さんが差し出してくれたヘッドセットインカムをつけて、振り返る。
 
「マヤちゃん、初号機は?」
 
「ATフィールド中和地点に、配置されています」
 
まさか!? と珍しく声を荒げて、リツコさんの口調が厳しい。
 
「左腕の再生がまだなんですよ!」
 
監督していた弐号機の起動手順を放り出して、詰め寄ってきた。E計画責任者として、主治医として、出撃など許可できないのだろう。
 
だが、あの使徒はアスカの手に余る。単独での迎撃など、させるわけには行かない。
 
リツコさんの非難の眼差しを無視して、ミサトさんを見据えた。
 
「初号機で、出撃しましょう」
 
ミサトさんの視線が、この左腕に注がれる。その様子があまりにも痛々しくて、この肩の痛みなど忘れてしまいそうだ。
 

 
様々な感情を押し隠して、ついに頷いた。
 
決断すると、ミサトさんの行動は早い。
 
「さっきの指示はキャンセル。アスカには、威力偵察に徹するように」
 
『片腕のない半端な機体を待てって言うの!?』
 
「そうよ」
 
たちまちアスカと押し問答を始めたミサトさんをとりあえず残して、直通リフトへと向かう。その途中で、ゲンドウさんと目が会った。
 
…いつものポーズ。
 
司令官らしくどっしりと構えて見せてはいるが、レンズの向こうで瞳が揺れている。
 
 …
 
今気付いたことだが、この体はウインクが下手みたいだ。
 
 
****
 
 
直通リフトでケィジへと降りる最中に、ヘッドセットインカムのスイッチを入れた。…アスカとミサトさんは、まだ押し問答を続けているらしい。
 
「アスカちゃん」
 
『 ユイ!? アンタそんな体で出撃しようっての!? 』
 
ものすごい剣幕だが、その根差すものを解かるつもりだ。
 
「アスカちゃんが私のことを心配してくれるように、私もアスカちゃんのことが心配なの」
 
『 … 』
 
レイもシンジも、そのことについて話してはくれないけれど。
 
「無理はしないわ。だから、ね?」
 
『 …わかった。その言葉、忘れんじゃないわよ 』
 
ええ。と頷いて、アスカちゃんも。と言葉を継ぐ。
 
「第3使徒みたいに近接格闘兵器を隠し持ってるか、第4使徒のように展開するかもしれないから、気をつけてね」
 
ケィジのフロアについたリフトから降りて、更衣室に向かう。もう一基のリフトの作動音を背中で聞き流して、開閉スイッチを押した。
 
 
****
 
 
ジオフロントに上がった途端、耐熱緩衝溶液の雨がやんだ。ちょうど消尽したらしい。だが、チャフ弾や電磁波高吸収繊維まで動員する必要はないだろう。
 
「フィールド展開!」
 
今まさに弐号機を断ち割ろうとしていた帯刃が、見えない壁に流された。戦車の避弾径始よろしく角度を持たせたATフィールドは、最小限の出力で使徒の攻撃をいなす。
 
むなしく空を泳いだ使徒の腕を、蹴りつけるようにして初号機の足の裏が捉え、踏みおろした。それを見た弐号機も、もう片方の使徒の腕を同じように。
 
孤立無援で使徒と対峙していた弐号機は、すでに満身創痍だ。持っていたはずのスマッシュホークはすでに無く、構えた盾も所々熔け、断ち斬られている。
 
『ユイ!?…』
 
【FROM EVA-02】のウインドウが開かれた。通信をつないできたアスカは、一瞬絶句したらしい。初号機のパイロットシートに紅いプラグスーツが座ってることの意味が、認識しがたかったのだろう。
 
『…タンデムエントリープラグ!? 完成していたの?』
 
「つぅい、先日ね~」
 
応えるミサトさんの、口調とは裏腹に、声音が重い。
 
自らの手で使徒を斃せる機会が来ても、手放しでは喜べないようだ。…その気持ちは解かる。
 
 

 
光槍使徒戦、光鞭使徒戦と、あまりの消耗に危惧を覚えた私は、いくつかの対策案を考えてきた。
 
だが、ことが直接制御の構造的問題と、初号機の心である以上、根本的な解決策など見出しようもないのだろう。
 
悩みに悩みぬいた結果、私が選んだのが初号機の複座化、タンデムエントリープラグによる負担の分散だった。この私をコアに封じた人格になぞらえて、私は初号機の制御に徹する。パイロットは私にシンクロして、間接的に初号機を操縦するのだ。
 
 
もちろん、パイロットが限定されるという点では、間接制御と違いはない。この計画を打ち明けた時、リツコさんの脳裏にはシンジがパイロット候補に上がっていたことだろう。
 
だが、かつて葛城ミサトであった私には、ミサトさんとシンクロできる自信があった。なにより、その手で使徒を討ち斃させてあげたかったのだ。
 
その目論見どおり、模擬体を使った擬似エントリー実験でも、参号機の遠隔起動でも、ミサトさんはかなり高いシンクロ率をたたき出した。アスカが下り調子である今、追い抜くのも時間の問題だろう。
 
ありえないわ。と訝しがるリツコさんを、コナン・ドイルの言葉で誤魔化すのは無理があったかもしれないが。
 
 

 
そうして、タンデム用のインテリアが完成した今。ミサトさんは私の前のシートに納まり、おそらくは使徒を睨みつけているのだろう。彼女の希望で深紅に染めたプラグスーツが、なんだか血の赤に見えた。
 
 
右手にまとめて掴んでいた兵装から、器用にソニックグレイブだけを投げ渡し、初号機がスマッシュホークを肩に担ぐ。
 
「いい? アスカ。左右から挟み撃ちにするわ。初号機が向かって左に、」
 
もう必要ないと判断したんだろう。盾を投げ捨てた弐号機が、受け取ったソニックグレイブを両手で構える。
 
『ワタシが右ね』
 
踏みつけた使徒の腕を花道に、初号機が駆け出した。すかさず目を光らせた帯刃使徒が、衝撃に身をのけぞらせる。5段重ねの析複化ATフィールドをプリズム代わりに、そっくりそのままお返ししてやったのだ。
 
 …
 
怪光線の衝撃から立ち直った帯刃使徒は、エヴァ2機に挟まれた状況に途惑ったように見える。
 
あきらかに一瞬、動きが止まったのだ。
 
のたのたと弐号機の方に回頭しようとするが、もちろんアスカはそれに合わせて回り込む。無防備にさらした背中に、スマッシュホークが叩き込まれた。
 
もそもそと初号機に向き直ろうとするが、アスカが許すわけがない。ソニックグレイブの一撃が、使徒の左腕を斬り飛ばす。
 
『さんざん、いたぶってくれたじゃない…』
 
にやり。ウインドウの中に夜叉が居る。
 
「やはり、小回りは利かないみたいね」
 
きっとミサトさんも、同じような顔をしているのだろう。その声音が、酷くアスカに似ていた。
 
 
その絶大な火力と、強烈な近接戦闘能力。それらを織り交ぜた手数の多さに惑わされて、動作が鈍いという弱点を見過ごしていたらしい。
 
こうして懐に入ってしまえば、ろくに攻撃もできないような相手だったとは…
 
かつて、苦労して斃したことが莫迦らしく思えてきて、戦闘中だというのに溜息をついた。
 
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世壱話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:46


帯刃使徒を斃したあと、精神汚染使徒が現れるまで時間があることに、今回ほど救われた思いになったことはないだろう。
 
おかげで、左腕の治療の目処が立つのだから。
 
組織の癒合が確認されて、昨日ようやくギプスが外された。まだ動かせないし当分はサポーターのお世話になるだろうが、開放感が違う。
 
リツコさん曰く、リハビリに入るこれからが地獄らしい。断裂した筋繊維は、再生の過程で周辺の部位に癒着する。それをむりやり、引き剥がさねばならないそうだ。
 
…手術後、神経の接合を確認するために4日間も麻酔無しで過ごした私に、それ以上の地獄があるとも思えないが。
 
 
来客がドアをノックしたのは、朝ご飯前の一仕事に、備品購入の申請をしていたところだった。…もっとも、承認するのも私なのだけど。
 
購入するのは、超音波振動カッター。
 
昨日、ギプスを外す時に使っていたギプスカッターは、刃こそ小さいが電動丸ノコそのもので、けっこう恐かった。ホッケーマスクの怪人に襲われた人の気持ちを、理解できたと思う。
 
たまたま見学していたアスカは、ワタシにやらせて。と、わがまま言い出すし…
 
 
「本日、わたくし霧島マナは、午前6時に起きてこの制服を着てまいりました♪」
 
似合いますか? と、一回転してみせるマナちゃんの隣りに、やはり第壱中学の制服姿のムサシ君。今日から学校に通うことを報告するのに、こうして病室に寄ってくれたのだ。
 
「ええ、とっても」
 
えへへ♪と、はにかむマナちゃんを尻目に、ムサシ君はそれほど嬉しそうでないのが気にかかる。
 
第2新東京市で加療中の浅利ケイタ君は、意識を取り戻したそうだ。とはいえ、退院できるのはもっと先になるから、当然ここには居ない。そのことを、気にかけているのだろうか?
 
 
一時的にユニセフの監督下に置かれていた戦自奨学育英会は、少年兵の除隊が任意に行なえることを条件に存続することになった。
 
さすがに国連といえど、主権国家の内政に強く干渉するわけには行かない。それに、日本政府への嫌がらせ程度と云うことなら、この辺が限度でもあるのだろう。
 
ムサシ君と浅利ケイタ君は本来脱走兵として引き渡さなければならないはずなのだが、ゲンドウさんは彼らを亡命者だと言い張って国連の保護下に置いてしまった。
 
不思議なのは、日本政府がこのことについて「まことに遺憾」と表明したきり、特に行動を起こさなかったことだ。まさか、日本政府がタダで引き下がったはずはないだろう。いったいどのような裏取引を行なったのか、ゲンドウさんは話してくれない。
 
 
マナちゃんの回復は順調そのもの。ファンデーションなどで隠さなくても、そうと知らなければ判らない程度に黄疸も薄れている。そうとなればこんな所に閉じ込めておいてもいいことは何もないから、リツコさんのお墨付きが貰え次第、学校に行けるよう手配しておいたのだ。病は気からとも言うし、学校生活を楽しめれば回復もより早まるだろう。
 
それでは行ってきます。と、やはり敬礼しそうになった手を泳がせたマナちゃんが、誤魔化すようにムサシ君の襟を掴んだ。
 
「こら、マナ。引っぱんじゃねぇ」
 
文句を言うムサシ君を問答無用で曳っぱって、マナちゃんが退室する。見かけ以上にマナちゃんが力持ちなのか、言葉とは裏腹にムサシ君が無抵抗なのか、さてはて?
 
 
****
 
 
その日、ネルフに潜りこんでいたスパイは驚いたことだろう。
 
全員が全員。まとめて閑職に左遷されたのだから。
 
 
イジメ対策としてMAGIが行っている学内監視は、その副産物として不審者括出システムを産み出していた。
  
監視カメラの映像から、イレギュラーな行動を起こしている人物をピックアップするのだ。
 
もちろんセクハラや横領など、スパイとは関係のない単なる不正行為も多く見受けられた。だが来歴や通信記録、溶解液使徒戦時の行動などを併せて洗わせることで、高い蓋然性でスパイを炙り出すことができたと思う。
 
その筆頭に載っていた加持さんの名を、苦笑しながら削除したものだ。
 
 
スパイへの最終処分を委員会へ依頼する一文で、報告書を締めた。
 
当然、ゼーレからのスパイも沢山いるだろう。そのことをそらとぼけていけしゃあしゃあと処分のお伺いを立てる自分も、ずいぶんと性格が悪くなったような気がする。
 
 
ともかくこれで、数日後に行われるはずだった冬月副司令の拉致事件は防げると思う。もちろん、しばらくの間は警護を厳にするつもりだが。
 
 
****
 
 
「聞こえる? アスカ。シンクロ率8も低下よ。いつも通り、余計な事は考えずに」
 
『やってるわよ!』
 
インターフォンを切りたかったけれど、とても間に合わなかった。ギプスが外れてけっこう経つが、左腕を庇う癖がついていて、とっさの行動が遅い。
 
較べる相手が居なかったから特にシンクロ率に対する通達を出していなかったが、考えが甘かったようだ。今からでは遅いが、やらないよりはマシだろう。明日にでも回覧しなくては。
 
何か声をかけてやろうとして、やめる。下手な慰めはアスカの神経を逆なでするだけだ。
 
「最近のアスカのシンクロ率、下がる一方ですね」
 
それは、深淵使徒戦以降のことだった。エヴァが使徒のコピーだと知ったアスカの煩悶が、シンクロ率となって現れているのだと思う。
 
こうなることが予測できなかったわけではない。いや、むしろ望んでいたといってもいいだろう。このままアスカがエヴァから離れてくれるなら。
 
なのに、苦悩しているアスカを見ると、心苦しくて仕方ないのだ。
 
こういう時、自分が偽善者だと思い知らされる。
 
 
****
 
 
実に久しぶりに立ったキッチンで、やはり久しぶりにシフォンケーキを作っていた。
 
リハビリにちょうど良いと選んだシフォンケーキは、バターなどが手に入りづらかった復興期には良く作ったものだ。
 
 
「それで、誰に教えてもらっているの?」
 
「 …アスカ 」
 
リビングからシンジの返事。いつの間にか、呼び方が変わっているみたいだが…?
 
「マナちゃんじゃなくて?」
 
「 マナは…、スパルタなんだ 」
 
思い出したくない。といった風情で、シンジの声音が震えていた。いったい、どんな仕打ちを受けたのだろう。
 
「それで、泳げるようになったの?」
 
「 …顔をつけて浮いていられるようにはなったけど 」
 
たいした進歩だ。幼少時から様々な訓練を施されたアスカは、正しいトレーニングの仕方を知っている。無理のないステップで丁寧に教えてくれたのだろう。
 
「 アスカとマナが水泳対決を始めちゃったりして、放っぽっとかれることもあるけどね 」
 
因みに私は、と云うと、葛城ミサトであった時代にその記憶を受け継いだので泳げるようになった。カンニングみたいで、ちょっと気が引ける。
 
 
攪拌した卵黄に米糠オイルをなじませていく。食糧事情の悪かった復興期、サラダ油といえば米糠オイルだった。最近あまり見かけなくなってきたが、ビタミン類が豊富で優れた抗酸化作用を持つ米糠オイルは子供のおやつ作りには最適だと思う。
 
水、薄力粉と混ぜていく横では、レイが卵白を泡立ててくれている。電動泡立て器もあるのに、なにが気に入ったのか手作業で。うっすらと額に汗まで浮かべ、真剣さのあまり口がへの字になっていた。…まあ、楽しんでいるのなら、それがなによりだけれど。
 
 
「レイは、今日どうする?」
 
シンジは今日これから、みんなと市民プールで水泳の練習だそうで、リビングで準備中。
 
集まるメンバーはその都度違っていて、前回などトウジやケンスケにナツミちゃん、洞木さんにその妹と、総勢10人だったとか。
 
因みに、その帰りがけにミサトさんと出会って、そのまま夕食に招かれたそうだ。インスタントやレトルトかと思っていたら特製カレーライスだったと言うので、聞いた途端に冷汗が出た。
 
だけど意外なことに、3回もの作り直しでさんざん待たされたカレーライスは、なかなか美味しかったらしい。
 
 
「…いい」
 
答えるために上げた顔の、その鼻先にメレンゲが付いている。どうしてやろうかと見ていたら、視線に気付いたレイが慌てて拭い取ってしまった。
 
どうやらレイも、微妙な年頃らしい。 
 
 
****
 
 
衛星軌道上の精神汚染使徒に対して、なまじっかな攻撃など何の役にも立たないことは判っている。かと云って初号機の実力は見せたくない。
 
だから、光波遮断ATフィールドで防御している間に、弐号機がロンギヌスの槍で殲滅することにした。サードインパクトを防ぐために、早めに処分しておくに越したことはないし。
 
ただし、いきなり槍を使っては猜疑を招くので、最初は通常兵器で攻撃を行う。それが、光の鳥のごとき使徒に対して立案し、今また実行中の作戦だ。
 
 
 ≪ 初号機、ライフル残弾ゼロ! ≫
 
予想外だったのは、精神汚染使徒がミサトさんにまでその食指を伸ばしてきたことだった。
 
「自分に絶望なんて、とっくにしてるわよ!」
 
「落ち着いて、葛城さん!」
 
直接制御下の初号機が展開する光波遮断ATフィールドは、間接制御時より緻密で強力なはずなのに、精神汚染使徒の光を防ぎきれない。
 
おそらく、あの光は使徒にとって攻撃手段ではないのだろう。害意がないから完全には拒絶し難いのだと、初号機と一心同体の今なら解かる。
 
「そうよ、選んだわけじゃないわ。ただ、逃げてただけ」
 
使徒はやはり、人の心を知ろうとしているのだと思う。今回も私を標的にしたのは、この世界ではイレギュラー的な存在で、サンプルとして面白いのかもしれない。
 
 
てっきり母さんが現れるかと思っていたが、アスカが、私の望むままに私を罵倒している。つまりは、その人が最も怖れているモノに向き合せて、その反応をこそ観察しているのだろう。
 
だが、それで打ちのめされるような可愛げが、今の自分には残っていなかったのだ。いや、それが誰であれ、望んでいた結果を恐れたりはすまい。見たくて観たホラー映画が怖かったからといって、文句を言う人間が居ないように。
 
 
問題は、私とシンクロしていることで巻き込まれた、ミサトさんの方だった。
 
「…嫌いで別れたわけじゃないわ、自分の弱さが怖かったから、自分の弱さを認めたくなかったから…」
 
心の傷を抉られる痛みのままに、ミサトさんが、初号機がのたうち回る。
 
シンクロを切ろうにも、ミサトさんの心に同調した初号機は半ば暴走状態で、手がつけられない。こんな状態で強引に繋がりを断っては、どのような悪影響があるか知れたものではなかった。
 
「すべて父親のせいにして、父親を殺した使徒のせいにして、突き放してきたのに。
 この手で使徒を斃してみて、初めて解かったのよ。そんなことをしたって、自分が毅くなったわけじゃないって事にっ」
 
なにより、葛城ミサトであったことのある自分には、その痛みが良く解かる。一緒になって慟哭したいという衝動を、押さえ込むので精一杯だ。
 
 
 『 弐号機、2番を通過、地上に出ます! 』
 
待ちに待った報告は、青葉さんの声で。
 
『ミサト、ユイ。大丈夫?』
 
「…私は大丈夫。でも葛城さんが保たないわ、急いでアスカちゃん」
 
『判ってる』
 
【FROM EVA-02】の通信ウインドウの中で、アスカが決然と頷く。
 
 
 『 弐号機、投擲体勢! 』
 
 『 目標確認、誤差修正よし! 』
 
 『 カウントダウン入ります。10秒前、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ! 』
 
引き絞るように構えた弐号機の腕の中で、ロンギヌスの槍が天を貫く螺旋と化す。
 
『いっけーーーー!!』
 
弾かれたか、それとも吸い寄せられたか。おおよそ投擲とはかけ離れた勢いで、ロンギヌスの槍が一直線に。雨雲を吹き飛ばして、もう見えない。
 
 …
 
 『 目標、消滅! 』
 
 『 エヴァ初号機、開放されます 』
 
使徒殲滅とともに泣き崩れたミサトさんが、その瞬間に何を見たのか。シンクロしている私でも、知りようがなかった。
 
 
****
 
 
泣き伏したまま加持さんに連れて行かれるミサトさんを、アスカが眺めていた。更衣室の内壁にもたれかかり、視線だけでその姿を追っている。
 
その瞳に様々な光を去来させながら、さほど不機嫌そうではない。
 
「今日は、彼を貸してあげてくれる?」
 
「別に加持さんは、ワタシのモノじゃないわ」
 
…でも、と言葉を継いだアスカは、少し寂しげで。
 
「狙われたのがワタシだったら、あんな風に加持さんは慰めてくれるかしら」
 
かつて、アスカが狙われた時には、すでに加持さんは行方知れずだったから想像するしかない。慰めてあげるのは間違いないとしても、それがミサトさんと同じ方法ではないだろう。…第一、
 
「ああいう慰め方を、アスカちゃんは望んでいるの?」
 
虚を突かれた様子のアスカは、彼らが消えた戸口を見やった。
 
「…そうね。大人になることは強くなることだと思っていた。だから早く大人になりたかった。
 大人になりたくて、大人だと証明したくて、だから、大人の人と…加持さんと、…そういう付き合いが出来れば…と思ってたわ」
 
言外に、これから彼らが向かうであろう場所を含ませていたのに、アスカは別の捉えかたをしたようだ。
 
「でも、大人でも弱いのね。弱いからああやって支えあう。
 アンタが言ってたヒトの弱さっていうものを、あのミサトを見てようやく解かったような気がするわ」
 
かつては、縒りを戻した2人を不潔な大人の付き合いだと罵ったのに…
 
「それが嫌って訳じゃない。自分も弱いって自覚したもの。
 でも、弱いからって寄りかかるのは嫌なの。弱いなら弱いなりに、毅くあろうとしたいの」
 
その言葉に、アスカの本質が在るように思う。 
 
強さを求めて、弱い自分が嫌いで。でも強くなれなくて、壊れるしかなかったアスカ。
 
そのアスカと、今のアスカに、本質的な違いはないのだろう。ただ、己の弱さを認めることが出来ただけで。
 
「もし加持さんと付き合うことになったら、ワタシは加持さんにもたれかかっちゃう。
 加持さんを支えているつもりになって、無自覚に寄りかかっちゃう」
 
だけど、たったそれだけのことで、アスカは毅くなった。かつて壊れてしまった時より、しなやかになっている。
 
「それはイヤ。ワタシのプライドが赦さない」
 
そのことを素直に喜べないのが、哀しい。
 
「…加持さんにとって、ミサトこそ支えあいたい相手なんだと思う」
 
この世界では他ならぬ自分こそが、アスカを放り込んだのだ。毅くなれなければ、壊れるしかない修羅の道に。
 
だから…。と、ドアから引き剥がした視線が、力なく落ちて。
 
「ワタシは、ワタシと一緒に成長してくれる相手を探すわ」
 
毅くなったがゆえの寂しさを満身で感じてか、アスカの体が小さい。
 
そっと、隙間を埋めるように近づいていく。私の影が視界に入っただろうに、身じろぎ一つしなかった。…だから、遠慮なく抱きしめる。
 
言葉が要らない場合があることを、今ほど感謝したことはない。
 
 
これも失恋かなぁ。と呟くアスカの、頭をそっとなでた。
 
 
                                         つづく
2007.08.20 PUBLISHED
2007.08.22 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世弐話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:46


ねえ、このパジャマ…。との声に振り向くと、濡れ髪をタオルで巻いて、アスカがダイニングに入ってきたところだった。
 
おろしたてのパジャマ姿。
 
紅染めのグラデーションは、染め残された裾から徐々に色味を増していき、襟元で八汐紅に至る。八回も染め重ねられた紅は古の禁色で、目の醒めるような鮮やかさだ。
 
燃え上がるような匂い染めが、アスカに良く似合っていた。
 
 
K・O!との人工音声にリビングを見やると、TVゲームをしていたはずのシンジが呆然とアスカを見やっている。
 
「シンジも、お風呂入ってきなさい」
 
うん。と生返事したシンジが、ゲーム機の電源を切って立ち上がった。表示を切り替えられたテレビが映し出すのは、ありきたりの情報バラエティだ。
 
いい湯だったわよ。と話しかけるアスカに、ああ。とすげなく返して、シンジがダイニングを通り過ぎる。
 
シンジの態度をさほど気にするようでもなく椅子を引いたアスカが、キッチンに視線をやった。一足先にお風呂から上がっていたレイが、口元を拭いながら出てきたのだ。湯上りにミルクを一杯飲むのが習慣になっている。
 
そのレイの視線も、アスカのいでたちに注がれていた。微妙に見開かれた双眸から察するに、あまりに似合っていて驚いたのだろう。そこはかとなく下がった眉尻は、羨ましいのかもしれない。育ち盛りの子供に特注品を買ってやるわけにはいかず、レイにはまだ市販のパジャマなのだ。
 
とてとてとダイニングテーブルを廻りこんで、レイがアスカの隣りに座る。
 
「…アスカ。にあってる」
 
「そう? アんガト」
 
ぽつりと呟くレイと、おざなりに応えるアスカからでは判らないかもしれないが、いつの間にやらこの2人は仲良くなっていた。今も一緒にお風呂に入っていたし、今夜はおそらく一緒に寝るつもりだろう。以前、レイがダイコンをおろすのを買ってでたことがあったが、あれもアスカのためだった。
 
ああ見えてアスカは、辛いのが苦手だったりする。かつて、タマネギはもっとよく炒めろと文句を言われたりしたものだ。そんなことまで教えあっているならば、分裂使徒の一件で生まれた絆は、ずいぶんと育まれていたのだろう。
 
 
「パジャマ、気に入ってくれた?」
 
「そりゃあ、まあ…」
 
そっけない言葉のわりに、裾や袖を見下ろす目元はほころんでいる。まんざらでもなさそうで、嬉しい。
 
「本当は、誕生日のプレゼントにしたかったんだけど…」
 
「誕生日って、何週間前の話よ」
 
パーティそのものはお願いするまでもなくシンジが取り仕切ってくれていたが、用意していたプレゼントは渡しそびれていたのだ。
 
「ごめんなさい。だって、このところ入院続きだったでしょう?」 
 
両手を合わせて、謝る。リハビリの成果がでてきて、左腕もずいぶん動くようになってきた。
 
そうだったわね。と嘆息したアスカが、でも…。と視線を逸らす。
 
「…ダンケ」
 
照れくささに染めた頬が、隠し切れてなかった。
 
「どういたしまして」
 
頷いて見せて、気のない風にキッチンへ足を運ぶ。ああ見えてアスカは照れ屋だから、あまり見つめていると照れ隠しに怒り出すだろう。
 
 
 
「ナンで、ワタシにはミルクなの?」
 
「コーヒーの方が良かった?」
 
そういうわけじゃないけど…。とグラスを眺める視線が不服そう。子供扱いされたと、勘違いしたかな。
 
テーブルにアイスコーヒーを置いて、自分の指定席に落ち着く。
 
「アスカちゃんは、多分ミネラルが足りてないわよ」
 
「どういうこと?」
 
向けてきた視線に猜疑の色はない。保安部がアスカの一挙手一投足を報告していることを、ごく自然に受け入れているのだ。
 
「日本は軟水だから、ドイツと同じつもりで食生活を送っているとミネラル不足になるのよ」
 
かつて、自分もドイツで暮らしたことがあるし、アスカの栄養管理をやったこともあるから判ることだが。
 
ああ、そういうこと。とグラスを手にしたアスカが一気飲み。ミルクで濡らした上唇をなめとって、バスルームのほうに視線をやった。
 
 …
 
「レイ。悪いケド、少しアンタのママと話がしたいの」
 
こくんと頷いたレイが、とてとてとリビングへ。テレビの近くに陣取って、児童書を開く。目元をこすっているのは、もう小学生が起きているにはつらい時刻だからだろう。使徒戦の後片付けもあって、今日は夕飯が遅くなったのだ。
 
「今ならいいでしょ」 
 
ええ。と頷いて、コーヒーを一口。
 
「今日見たアレ、ナンなの?」
 
ロンギヌスの槍を取りにいくために、アスカはターミナルドグマに降りている。当然リリスの姿を間近に見ただろう。いや、そう仕向けたわけだが。
 
落ち着いた後でアスカは、そのことへの疑問を投げかけてきた。
 
その返答を引き延ばし、我が家に連れ込んだことにたいした意味はない。ただ少しでも、アスカとこうして過ごしたかったのだ。
 
「…使徒よ」
 
予想の範疇だっただろうに、アスカの頬がひきつった。
 
「…ナンで?」
 
「他の使徒を、誘き寄せるため」
 
そう。と俯いたはずみで、頭に巻いたタオルが解ける。
 
「もしかして、エヴァって…?」
 
「そう。アレのコピーよ」
 
正確には、弐号機はそうではないが。
 
タオルと前髪に隠れて、アスカの表情は見えない。
 
上半身しかない体の、断面から生える無数の小さな脚を見ただろう。傷口から流れつづける赤い体液を見ただろう。
 
弐号機が槍を抜いた途端に、一瞬にして下半身が再生した。記録映像で見た私ですら驚いたのだから、目の当たりにしたアスカがどれほど衝撃を受けたか想像もつかない。
 
ワタシ、あんなのの…。と、アスカの呟きは力なく。
 
 …
 
コーヒーをすする。
 
カップを置いた音に驚いて、アスカが面を上げた。
 
聞きたいことが、まだまだあるのだろう。瞳に希求の光を乗せて、アスカの眼差しが痛々しい。
 
小首を傾げて見せるが、アスカは喉もとまで出かかった言葉を何度も何度も呑み込んだ。
 
「ドイツでは、知りたいことに応えてなんかもらえなかった。
 …ナンで、アンタはこんなこと教えてくれるの?」
 
それは、本当に訊きたい事ではないように思う。その程度のことが見抜けるくらいには、アスカのことを解かっているつもりだ。
 
ただ与えられるだけの情況を、矜持が許さないのか。…素直になりきれないのが、アスカの弱さの最たるものなんだけど…
 
「アスカちゃんが人形じゃないのなら、自分で考えて、自分で行動することになるわ。そのためには、情報が要るの。
 自分が何に乗り、何と戦っているか。何のために戦っているか。アスカちゃんには考えて欲しかったのよ」
 
そう…。と、アスカが力なく立ち上がる。
 
「ワタシ、今日はもう疲れたから…」
 
「ええ、前に使ってもらったお部屋、そのままにしてあるわ」
 
うん、ありがと。と立ち去る背中が、とても小さかった。
 
ついていこうとするレイを引き止めようとして、やめる。こちらが余計な気などまわさなくとも、イヤならイヤと、アスカはきちんと意思表示をするだろう。
 
 
アスカは、毅くなろうと足掻いている。その手助けをすることはやぶさかではない。
 
ただ、アスカにとっては不本意であろうことに、私はアスカをエヴァから降ろしたいと考えているのだ。エヴァなんかをアイデンティティーの拠りどころにしていては、かつての自分の、なによりアスカ本人の二ノ舞になりかねない。
 
こんな強引なやり方で弐号機から心を引き剥がすのは心苦しいが、あの憔悴したアスカの姿だけは二度と見たくなかった。
 
 
****
 
 
  「 おはようございま~す♪ 」
 
玄関ドアのスライドする音と同時に、元気な挨拶。マナちゃんだ。
 
このマンションの下層階には、独身者向けのワンルームや1DKの住戸がある。マナちゃんとムサシ君には、それぞれに1室ずつ手配してあった。
 
私が退院してからは、こうして朝ご飯や夕ご飯を食べに来させているのだ。
 
もうしばらくすれば、ムサシ君もやってくるだろう。
 
「おはようございますっ!」
 
ダイニングに駆け込んできたマナちゃんが、鞄を置くのもそこそこにキッチンに顔を出した。
 
「おはよう。マナちゃん」
 
化粧っけのない素肌に、黄疸の気配はない。もう外見からでは、この娘の健康状態を推し量ることは出来ないだろう。治療はまだ、続けなければならないようだが。
 
「何か、お手伝いしましょうか?」
 
「そうね。お皿を出してくれる?」
 
は~い♪と元気な返事が、こころなしかドップラー効果を起こしているような?
 
鼻歌に交じって、食器を並べる音が心地よい。…そうだ。今朝は1人多いことを言っておかなくては…
 
 「 シンジ君、まだ寝てるんですか? そだっ!わたし、起こしてきま~す♪ 」
 
またしてもドップラー効果を引き摺りそうな勢いで、マナちゃんがダイニングから消えた。
 
 …
 
  「 へぇ、シンジ君ブリーフ派だぁ♪ 」
 
  「 えっ…? …マナ? 」
 
どうやら、シンジは着替えの最中だったらしい。
 
  「 肌、灼けてきたね♪あんなに白かったのに 」
 
  「 みっ見ないでよ! 」
 
  「 あっアンタ、そんなトコでなにしてんのよ! 」
 
アスカが、バスルームから出てきたようだ。…いや、騒ぎを聞きつけて出てきた。かな?
 
  「 あっ惣流さん、おはよっ 」
 
  「 オハヨウ…じゃなくて、ワタシの質問に答えなさいよっ! 」
 
  「 朝ゴハンいただきに来たの 」
 
  「 そんなコト判ってるわよ。シンジの部屋の前でナニしてるかって言ってんの! 」
 
失礼します。と、落ち着いた口調。ムサシ君が来たらしい。
 
  「 …ナニやってんだ、オマエら? 」
 
  「 いいからドア閉めてよ!! 」
 
…賑やかなことだ。
 
 
「おはようございます」
 
廊下での騒ぎを見限ってか、ムサシ君がダイニングに顔を出した。
 
「おはよう。ムサシ君」
 
「先週の業務報告、送付しておきました」
 
「はい。ごくろうさま」
 
彼らの生活はユニセフによって保障されていて、第3新東京市で暮らすことに不都合はない。ただ、すっかり軍人気質に染まりきっている彼らは、命令に拠らず、無目的な中学生の生活と云うものに言いようのない不安を募らせていたようだ。
 
そう感じているのは孤児組で戦自歴の長いムサシ君だけかと思ったら、マナちゃんもそうだと言うから軍事教練というやつは侮れない。
 
そこで、校内での要人警護、非常時のエスコートをアルバイトとして提案してみた。
 
もちろん、そんな必要があるわけではない。ネルフ要人の子弟が通う以上、市内の学校には様々な形で諜報部や保安部の人間を派遣してあるし、MAGIの監視もある。
 
だが、マナちゃんたちはかなり真剣に取り組んでいるようだ。銃器の支給の有無や、監視体制を訊かれたりしたし、保安部との顔つなぎを上申してきたり、街で見かけた不審者の報告まで上がってくる。ムサシ君など、ここにご飯を食べに来るのですら任務の一環と認識していることだろう。
 
不本意ではあるが、彼らにもリハビリが必要なのだと割り切ることにした。
 
 
****
 
 
立ち並ぶのは、石板のような意匠のホログラム。
 
『 ロンギヌスの槍、回収はわれらの手では不可能だよ 』
 
1、4、9、で始まる等比数列は、無限なる存在の性質を解き明かす手懸りだそうだ。無限とはすなわち神をあらわし、有限なる事象からそれを推し量ろうとした者たちの成果なのだとか。その比率で描かれるこの石板は、有限から無限へ至る生物の進化を象徴しているという。補完計画で人類を強制進化させようとするゼーレには、うってつけの意匠なのだろう。
 
…主婦業に慣れた目には、カマボコの板と同じ比率にしか見えないが。
 
『 なぜ使用した 』
 
リリスの覚醒を促した今、サードインパクトを制御し得るロンギヌスの槍は邪魔だった。おそらく、かつてもそうだったのだろう。格好の口実だったのだ。
 
『 エヴァシリーズ。まだ予定には揃っていないのだぞ 』
 
「使徒殲滅を優先させました。やむを得ない事情です」
 
応えるのは、いつものポーズのゲンドウさん。カメラの死角に居る私の姿は、仮想会議室には現れない。
 
『 已むを得ないか。言い訳にはもっと説得力を持たせたまえ 』
 
『 最近の君の行動には、目に余るものがあるな 』
 
ぢりんぢりんぢりん。と、議員の声を遮ってインターフォンがなった。
 
「冬月、審議中だぞ! …分かった」
 
受話器を下ろし、抽斗をしまう。
 
「使徒が現在接近中です。続きはまた後ほど」
 
『 その時、君の席が残っていたらな 』
 
ホログラムの石板たちが掻き消えた。
 
「…ユイ」
 
サングラスを外して見上げてくる視線を、やさしく受け止める。
 
この左腕の治療中、ゲンドウさんの飲酒量は飛躍的に増えていったらしい。ヤツを可愛いと言った君の言葉が実感できたよ。などと、お見舞いに来てくれた冬月副司令が洩らしていた。知らない方が幸せだった…とは断言できんがね。と苦笑した副司令も、なんだか可愛いらしかったのだけれど。
 
私のギプスが外れたその夜。潰れるまで泥酔したゲンドウさんは、それを機に酒を止めたのだとか。その代わり、リツコさんに睡眠導入剤を処方してもらっているようだ。おかげで目の下の隈は消えたが、とても喜べない。
 
「ええ、行ってまいります」
 
 
***
 
 
更衣室に向かう途中の休憩スペースに、アスカの姿があった。
 
見つめるモニターに映っているのは、今まさに強羅絶対防衛線を通過しようとする光のリング。エヴァ侵蝕使徒だ。
 
「どうしたの? アスカちゃん」
 
振り向いたアスカは、眠れてないのか目が充血している。
 
「ワタシ…」
 
視線を落としたアスカに近づいて、そっと抱きしめた。
 
「ワタシ、自分がエヴァに乗るべきか、よく解かんなくなっちゃって…」
 
「時間をかけて、ゆっくり考えればいいわ」
 
ことのほか素直に委ねられる身の重さが、心地よい。
 
「今はエヴァに乗るのが怖い。でも、エヴァに乗ってない私には価値がないような気がして心細いの」
 
その肩を抱き、ゆっくりと引き離す。
 
「間違えないで、あなたは弐号機の付属物じゃないのよ?」
 
弾かれたように、アスカが面を上げた。
 
「あなたは、惣流・アスカ・ラングレィよ。エヴァがあろうとなかろうと、あなたであることに変わりはない」
 
言葉が染み込むのを待つように、アスカが立ち尽くしている。
 
水の流れに天啓を受けた奇蹟の人のように、エヴァと切り離した己の姿が見えたに違いない。
 
「じっくりと自分と向き合って、それから決めればいいの。エヴァに乗るか、どうかを」
 
こくん。と頷いたアスカをひとしきり抱きしめて、それから更衣室に向かった。
 
 
***
 
 
期待してなかったと言えば、嘘になる。あんな目に遭ったばかりなのだから、この人と云えど戦うことを躊躇うのではないかと。
 
だが、脱衣室に駆け込んできたミサトさんは、少なくとも表面上はそんな素振りを見せなかった。すぐさま作戦部の赤いジャケットを脱ぎ捨て、首にかけたロザリオを外す。
 
 …
 
顔にかかった髪を振り払って、視線は鏡越しに胸の傷か。
 
「…戦うのは恐くありません。望んでいたことですから」
 
自らに言い聞かせるような呟きは、独り言めいて。
 
「そのために、あなたを傷つけるだろうことも、覚悟の上です」
 
ちらりと寄せられた視線は、吸い付くようにこの左肩に。
 
「直接この手で使徒を斃したところで、何も変わりはしなかった。…その虚しさにだって耐えられます」
 
ブラウスのボタンにかけた指が、震えていた。
 
「…でも、揺らぐんです。あれ以来…、アタシがアタシを詰るから」
 
その気持ちが、よく解かる。いつだって、もっとも御し難いのは、誤魔化しようのない自分の心。どんなに逃げても逃げられない自分の心だ。それから逃れようと思えば、自らを壊すしかない。…かつて、アスカがそうしたように。
 
ボタンを外そうと悪戦苦闘していた指が、ぴたりと止まる。
 
「今だって…都合のいいときだけ男にすがろうとする、ずるい女だと。
 恐くないと言っておきながら、覚悟していると口にしていながら、耐えられると吐いておきながら、女だってことを利用して男に…」
 
乱暴に口元をぬぐった手の甲に、口紅の赤。頬に伸びた赤い筋が、拭いきれない血の痕のようで痛々しい。もともと化粧っ気の少ない人だけど、いつエントリープラグに入ることになるか判らなくなってからは、それすらもほとんどなかったはずだ。
 
「アタシはいつも…、ぬか喜びと自己嫌悪を重ねて、足掻いてばかり…、」
 
エヴァに乗ってからだって…。と続いた呟きは、もう嗚咽混じりだった。
 
「でも、どうせ後悔するなら、せめて前に進んで後悔したい…」
 
どうしても外せないでいた襟元のボタンを、代わりに外してあげる。
 
「…だから、エヴァに乗ります。けりをつけるために」
 
この人の毅さと弱さを理解してあげられていたら、サードインパクトなど起こさずに済んだのだろう。何も出来なくても、ただこの人の代わりに戦ってあげられる覚悟さえ、あったなら。
 
溢れ出そうとする涙をそっと呑み下して、ミサトさんの涙を拭ってあげた。
 
「精一杯、足掻けばいいわ。人はそうして、自分の答えを見つけるのだもの」
 
 
***
 
 
早雲山ケーブルカーの武装ゴンドラによる攻撃も、兵装ビルからの攻撃も、エヴァ侵蝕使徒は意に介さなかった。なにくわぬ顔で大涌谷上空に滞空している。
 
前のシートに納まったミサトさんに、余計な気負いは見られない。
 
「まずは様子見で、後300接近してフィールドの中和、パレットライフルで牽制します。よろしいですか?」
 
「ええ」
 
パレットライフルが効かないのは承知の上で、頷いた。ミサトさんはもちろん、威力偵察のつもりなのだろう。
 
 
ぶつっ。と、ちぎれた音が、生理的な嫌悪を掻きたてる。定点回転を続けていたエヴァ侵蝕使徒が、その環を断ち切ったのだ。
 
のたうつように、しかし意外な素早さで初号機へ襲いかかってきた。
 
 
そっとS2機関を始動させる。いいかげん慣れてきて、火砕流のごとき熱狂にも翻弄されることはない。それとも、これも負担を分散したタンデムエントリーの効果なのだろうか?
 
 
…できれば、かつての綾波がどんな気持ちでこの使徒に侵蝕されていったのか、この身を以って味わっておきたかった。
 
だが、そんな危険は冒せない。もうそんなことはないと思うが、またぞろ左腕を切断されてはかなわないし。
 
 
「フィールド中和、お願いします!」
 
ミサトさんが、パレットライフルのトリガーを絞る。移動しながら左手にナイフを装備したのは、素早い動きを見せるエヴァ侵蝕使徒を警戒してだろう。
 
「フィールド全開!」
 
言葉とは裏腹に、行なったのはフィールドの中和ではない。
 
エヴァ侵蝕使徒は、突っ込んできたところをアンチATフィールドで迎え討たれ、光の紐のようなその体を綻ばせていった。
 
傍目には、パレットライフルの弾丸にその身を削られているように見えるだろう。
 
 
                                         つづく
2007.08.24 PUBLISHED
2007.08.29 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世参話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:47


「予備のチャイルドが着任するんですか?」
 
ちょうどその報告があったときに、ミサトさんが加持さんを伴って訪問してきたのだ。
 
「ええ。前回に弐号機が出撃しなかったことを、ゼーレが問題視してきたの」
 
もちろん、態のいい口実に過ぎないだろう。
 
「渚カヲル。…いわば、セカンドチルドレンと言ったところですか」
 
名前と生年月日以外なにも記されていないプロフィールから目を上げて、加持さん。
 
「委員会が直で送ってきた子供よ。必ず何かあるわ」
 
まさか使徒だとは言えず。そうでしょうね。と頷いてみせる。
 
プリントアウトを机において、加持さんが探るような目つきで見上げてきた。
 
「私が調べましょうか?」
 
かぶりを振る。今になって掴めるような情報はたかが知れてるし、そもそも間に合わない。
 
第一、冬月副司令の拉致事件を未然に防いだことで失わずに済んだのであろう加持さんの命を、いまさら粗末にさせる気もなかった。
 
「それには及びません」
 
そもそも。と指を組んだ。
 
「二人一緒にここに来たのは、よい報せを持って来てくれたのではないのですか?」
 
わざとらしく目に宿していた光を沈め、加持さんがくしゃりとにやけ面になる。
 
この人のこの表情が、てれ隠しでもあると判るようになったのは最近のことだ。
 
「ええ、スパイ稼業を辞めようと思いましてね」
 
かつて、自らが葛城ミサトであった時代には、彼の身の安全を確保するので手一杯だった。
 
それはつまり、自分が偽者に過ぎなかったからだろう。
 
「後学のために、どうやって口説き落としたのか教えていただける?」
 
嬉しくてつい微笑んでしまったのを、ミサトさんは誤解したようだ。頬を赫らめて、俯いてしまった。
 
アタシは何も…。と口篭もる姿を見やる、加持さんの目元が優しい。
 
「もう、葛城を泣かしたくないもんで」
 
ミサトさんが加持さんに肘鉄を喰らわせるが、効いてないご様子。
 
本物のミサトさんが本気で求めたから、加持さんも応えたのではないだろうか?
 
「それで、ご褒美は何が戴けるんで?」
 
一応の牽制に、睨みつける。
 
「それが目当てで、彼女を出汁にしてるんじゃないでしょうね?」
 
「やっ、心外だなぁ」
 
覗き込むが、加持さんの瞳からは何も読み取れなかった。
 
もっとも、この期におよんで秘密にすべき事柄なんて、そう多くはないのだけれど。
 
「すこし、話が長くなりますから、コーヒーでも淹れましょう」
 
 
 …
 
この二人に、…いや、加持さんに話してあげるなら、やはりセカンドインパクトから話すべきだろう。
 
それがすべての始まりと云うこともあるが、加持さんの動機もそこにあるように感じるのだ。
 
 
かつて、同じように考えていたことがあった。加持さんが執拗に真実を求めるのは、ミサトさんと同様にセカンドインパクトに端を発しているのではないかと。…だが、その時点で手に入る資料からでは、推測すら覚束なかった憶えがある。
 
一度はお蔵入りにしたその考えが再び陽の目を見たのは、トリプルスパイとして引き込むためにリストアップされた、加持さんの身上調書を読んだときだった。
 
まず気になったのは、加持という家の名だった。セカンドインパクトからの復興期に、子供を大学まで進学させるのは並の資産家では難しい。子供を食べていかせることすら難しくて、戦自少年兵に里子に出すのが珍しくないご時世だったのだ。それなりのコネやリツコさんクラスの頭脳があれば別だが、前者は少なからず資産と結びつくものだし、奨学生や推薦といった枠を狙うようなタイプでもない。
 
念のためゲンドウさんに確認してもらったが、葛城調査隊およびセカンドインパクトに至るような関係者に加持家と縁のある人は居なかったそうだ。
 
つまり、加持さんはセカンドインパクトに直接の関係を持たず、復興期に辛酸を嘗めたわけでもないだろうに、真実を求めてトリプルスパイになったということになる。ましてや、そのために命すら投げ出したのだ。…その生い立ちと人物像が、どうにも結びつかない。
 
 
次に気になったのが、戸籍の再登録の時期だった。
 
セカンドインパクトを生き延びた多くの人と同様に、加持さんもまたそれ以前の公的記録がない。戸籍や住民登録のほとんどは海の底で、酷いのになるとN2爆弾の餌食になっただろう。住基ネットが実現していれば、多少は保全できたのだろうか?
 
…それはさておき。
 
戸籍の再整備事業そのものが遅れに遅れたというのに、再登録が始まって半年もしてから加持家の登録が行われているのだ。有力な資産家としては、かなり遅い。
 
これは穿ちすぎかもしれないが、セカンドインパクト以前に、加持リョウジと言う人物は存在しなかったのではないだろうか? あるいは、目の前に座っているこの人とは別人だったとか?
 
 
もちろん、なんの証拠もない。私の推測に過ぎないのだ。ただ、学生時代前後の加持さんの不自然すぎる経歴が、あらかじめ仕組まれていたのではないかという思いが、拭いきれなかった。
 
 …
 
「西暦2000年9月13日。南極でS2機関の実験が失敗しました」
 
それにより南極大陸は消滅。周囲は放射能汚染が激しいために封鎖された。
 
これが、知る人ぞ知るセカンドインパクトの真実だ。…ただし、表の顔の。 
 
「実際には、第1使徒アダムを封殺するための、神殺しの儀式でした」
 
人類は、南極で神様を拾った。喜び勇んで目覚めさせようとした矢先、それが自分たちの神様ではないことに気付いた。
 
自分たちの神は、リリスだったのだ。
 
リリス? と首を傾げるミサトさんに、後で。と身振りで。
 
 
慌てて再び眠りにつかせようとしたが、遅かった。
 
そのままアダムが目覚めてしまえば、人類は抹殺されるだろう。群のリーダーになった雄ライオンが、前のリーダーの子供を殺すように。
 
あくまでもS2機関の臨床を採ろうとする科学者たちをスケープゴートに、アダムは暴走させられ、エネルギーを使い果たした。
 
無駄なエネルギーは地球の地軸をずらすことに浪費され、アダムによるインパクトはその規模を南極周辺に抑えられたのだ。今は、近づく者を原始のスープに還元する死の海へと化しているらしい。
 
たとえ放っておいたとしてもやがてアダムは目覚めただろうから、セカンドインパクトを人為的に起こしたことそのものは止むを得ないと云えるだろう。
 
 
いいですか? と、加持さん。
 
「なぜ、スケープゴートが必要だったんでしょうかね?」
 
その質問は、ミサトさんがしてくるものだと思っていた。だが、言いかかって口篭もったミサトさんを置き去りにするように、加持さんの言葉にはよどみがない。
 
やはり、加持さんは…
 
「言い方が悪かったですね。別に、生贄にするために葛城調査隊が組まれたわけではないのですよ」
 
アダムの存在に気付いたゼーレは、できれば自分たちの息がかかった人間だけで調査隊を編成したかっただろう。だが、当時のゼーレにそこまでの力はない。
 
主要国が牽制しあった結果、純粋に学術的見地から組織された葛城調査隊は、即物的な側面からアダムにアプローチを行なった。つまり、単なるS2機関のサンプルとしてだ。
 
「学術調査にまぎれてアダムの覚醒を促す手順を踏むのはなかなか骨だった。と、ゲンドウさんが言ってましたわ」
 
だが、事態は急変した。アダムを目覚めさせれば、人類が抹殺されるだろうことが判ったのだ。もちろんゼーレは儀式を中止した。しかし、S2機関を始動させては、遅かれ早かれアダムは目覚める。しかも、寝起きは最悪だろう。
 
ゼーレは委員会に圧力をかけようとしたし、ゲンドウさんも葛城教授に談判したそうだ。…とはいえ、アダムやリリス、人類の起源について話したわけではないだろう。寝言は寝て言えと、鼻で嗤われるのがオチだ。
 
「…ですが、欲に目のくらんだ政治屋と、好奇心を刺激された科学者を止めることは出来なかったそうです」
 
ミサトさんが視線を落とした。わななく口元は、きっと自分を詰る自分に精一杯の抗弁を試みているのだろう。セカンドインパクトの原因は、自分の父親にあると言われているも同然なのだ。その脳裏で、どれだけの攻防が繰り広げられているというのか。
 
その腰に手を回して抱きよせた加持さんは、しかし、ミサトさんを見ていなかった。すぐさま優しげな視線を向けるが、一瞬、ほんの一瞬だけ、底冷えのするような冷たい光を宿していた。
 
その深さと冷たさに比例するかのように、ミサトさんを見守る眼差しが暖かく優しい。その落差に感じたのは、飄々とした態度と裏腹に、この人が実はミサトさん以上の激情家なのではないか? ということだ。
 
もし、この2人の出会いすら仕組まれたものだったなら、本気でミサトさんを愛してしまった加持さんは、なんらかのカタチでけじめをつけたいと願ったのではないだろうか。…あるいは、贖罪を。
 
 …最初の世界での死という選択は、あの加持さんにとって当然の帰結だったのかもしれない。なにもかも、清算するために。
 
 
「S2機関の起動を阻止できないとなって、ゼーレはそれを暴走させることを指示してきたそうです」
 
なんとか細工を施したゲンドウさんが、ようやく南極を離れたのはその前日だったという。
 
暴走させることでアダムを消し、それを止めようとする科学者たちの努力がその範囲を抑え。結果、あのインパクトの形になったのだ。
 
意図的に起こしたことは事実であるし、この一件をきっかけに強大な影響力を得たから、ゼーレが最初から狙っていたように見えるだろう。
 
それが一方的な見方に過ぎないことに、ここに来て初めて気付いた。少なくともゼーレは、セカンドインパクトを起こさざるを得なかったその時までは、狂信的な組織ではなかったのだ。
 
この件で苦労したキール議長は、科学者という人種に偏見を抱くようになったという。ゲンドウさんは1度ならずグチを聞かされたらしい。その偏見の対象が人類全体に及んだ結果…と云うのは勘繰りすぎか。
 
 
「ロンギヌスの槍を使いこなせるのは、ガイウス・カシウスだけ。まだ存在しなかった百卒長の代わりに用立てた群盲は、せめて人数が要った」
 
そう解釈するしか、ないんでしょうね。と、加持さんを見やる。だが、それで納得はしてくれなかっただろう。
 
 
「問題は、中途半端に行われたインパクトの結果、使徒が大量に発生することでした」
 
裏死海文書。何者がそれを書いたのか、判然としない。まことしやかに第1始祖民族という名がささやかれるが、確たる証拠があるわけではなかった。
 
そこに記されているのは、インパクトとその結果生まれる使徒たちについて。
 
正常にインパクトが行われた場合、新たなる生命のカタチは1種類しか生み出されない。
 
だが、暴走によって歪められたインパクトは、アダムが創造しようとしていた生命を全て開放することと同義だった。そして、無雑作に解き放たれてしまった生命は、その存在を確定させるために改めてインパクトを目論むのではないかと想定されたのだ。他を否定して、インパクトの結果を本来のカタチに修正するために。
 
「そして、アダムと同質の存在。リリスがここにあることでした」
 
え…?。と絶句したミサトさんに、ターミナルドグマで見たでしょ? と返してやる。
 
「あれが、…リリス」
 
「…」
 
少なくとも加持さんは、最終的には気付いていたはずだ。だからだろう、深刻そうな表情ではあるが、驚いている様子はない。
 
「…どうして、あれをアダムだと?」
 
嘘をついているか。と、いうことだろう。加持さんが、こころなしか身を乗り出して来ている。
 
「インパクトを起こしたモノと同質のものがあると知ったら、人々はどうなるかしら」
 
これは嘘ではない。少なくとも、当初は。
 
なるほど。と加持さん。
 
「では…アダムは?」
 
「もちろん、今はここにあります。リリスとは別の場所ですけどね」
 
インパクトを起こせるのは、あくまでアダムとリリスだけだ。使徒がインパクトを欲するなら、それへの接触を必要とするだろう。
 
そのために使徒が求めるのが、アダムでなければならないとは限らない。そのためにネルフは、第3新東京市はここに建設された。
 
「その使徒たちに対抗するためのネルフ、そしてエヴァンゲリオンです」
 
いざとなれば、エヴァを箱舟代わりに人類のゲノムだけでも脱出させることすら計画のうちだが。
 
 
「ところが、一つだけ誤算がありました」
 
セカンドインパクトと、その後の戦乱によるダメージが大きすぎたのだ。今の地球には、20億の人間すら多すぎた。
 
海水面上昇で耕作可能地の大半と、海洋生物の揺りかごたる南極圏を失い、あきらかに地球は狭くなったのだ。おそらく、数億の人口を養うので精一杯だろう。
 
 
それに、群性生物はその多様性を保つために数を必要とする。
 
なによりも、その数を裏付ける遺伝子的多様性を必要とする。同じ物がたくさんあっても、あまり意味はないからだ。生命は、それを時間をかけることで蓄積させてきた。
 
たしかに前世紀、人類は爆発的に増殖した。しかし、それはそれまでの200万年の蓄積、遺伝子レベルでの中立な突然変異の積み重ねがあってこそだった。
 
60億もの人口を擁していた人類は、唐突に20億にまで減らされることで遺伝子的多様性を激減させられたのだ。
 
仮にこれから人口が60億にまで回復しようと、何か起こるたびに従来の3倍のダメージを受けることになる。
 
 
それだけではない。
 
たとえば、常夏となった日本では、年々セミが増えている。セカンドインパクトで数を減らされたところに絶好の環境が訪れたものだから、反動で大繁殖しているのだ。森林を抱えた山間部だけになった日本は、セミにとっては楽園だろう。
 
環境のほうからセミに歩み寄った今の状況は、進化の極限と言える。
 
だが、進化の終着地点は自滅。死、そのものだ。実際、環境庁の【自然環境保全基礎調査】いわゆる緑の国勢調査に拠れば、セミにたかられて立ち枯れする樹木が増えているらしい。極限の進化は環境を最大限に搾取するから、いずれ環境そのものを破綻させる。まるで、無理心中のように。
 
地中生活の長いセミという生物は、地上の状況を省みずに大発生するきらいがある。それはまた、科学の力で護られているヒトという生物にも言えることだろう。
 
 
人類の閉塞。それは絶滅危惧種が必ず嵌り込む、ボトルネックという名の檻。そして、進化という名の出口のないトンネルだった。
 
 
「そこで提唱されたのが、人類補完計画です」
 
人類そのものを使徒化し、単体生物となることでボトルネックを無効化しようというのだ。環境に依存しなければ、進化の極限でも自滅にはならない。そのために使われるのが、人類の母リリスというわけだった。
 
 
俯瞰して眺めれば、セカンドインパクトを含め、なにもかもが意図的に進められたように見えるだろう。だが、こうしてその渦中に身を置いてみると、必ずしも全てがゼーレの陰謀というわけではないことに気付く。
 
そうでなければ、悠長に補完計画が提唱されるのを待っていたりはしないはずだ。ゼーレもまた、その場その場で出来るだけの判断をしてきたのだろう。
 
もちろん、ゲンドウさんはそれを乗っ取って、私の記憶を取り戻そうとしたのだが。
 
ただ、ゼーレの思惑がまだよく判らない。この補完計画をそのまま本気で執り行おうとしているようには思えないのだ。
 
人類補完計画を隠れ蓑に、ゲンドウさんとゼーレが、それぞれの思惑を遂行しようとしていた。それが従来の図式だったように思う。
 
…この二人に、そこまで話す必要はないだろうが。
 
 
「ネルフは、人類補完計画を阻止するつもりです」
 
見れば、二人ともコーヒーがちっとも減っていない。
 
「確かに人類は閉塞しているでしょう。だからと云って変化もなく永遠を生きても意味がありませんから」
 
永遠に生きることは、永遠に死んでることだと、教えてくれた友が居る。
 
永遠の孤独より、一夜の交歓をこそ喜んで、自らは退場した。
 
生きるべきだと言ってくれた。だから、生きるのだ。だから護るのだ。
 
 
ふわり。と鼻腔をくすぐったのは、スパイシーで、でも甘い。そんな香りだった。
 
私の知らない、嗅ぎ憶えも無い香りがミサトさんから漂ってきたなら、それは加持さんの贈り物だろう。
 
以前、私が貰ったPeut Regarderはフランス語で『見てもいい?』という意味で、それは隠されていたマイクロチップを示す符号に過ぎなかった。
 
それとは違う香り。
 
そのことがこの二人のこれからを保証してくれているようで、うれしい。
 
目の前に座っている、人類の最小単位たる二人に向かって微笑みかける。
 
「今日とは違う明日のために、私は戦っているのです」
 
 
さて、私のほうから話せることは、ほぼ話し終えた。いくつか、敢えてぼかした部分はあるにしても。
 
あとは、二人がどうするか、だけれど…
 
コーヒーを一口すすって、唇を湿らせる。…長い一日に、なりそうだ。
 
 
****
 
 
「エヴァ弐号機、起動!」
 
発令所に入った途端に、アラートが鳴り響いた。
 
「そんなバカな!アスカは!?」
 
ミサトさんの張り上げた声に、青葉さんが答えるより早く。
 
「アンタの後ろに居るわよ」
 
これからのことを相談しようと嘯いて、アスカを連れて来たところだったのだ。
 
へっ? と振り返るミサトさん。あまりにも無防備なまぬけ面は、未婚の女性としてはどうかと思う。まあ、そういうところも、彼女の好ましいところではあるが。
 
「…じゃあ、いったい誰が?」
 
「って、なに? ナンで弐号機が動いてんのよ!誰が乗ってんの!」
 
一瞬でトップスピードに達したアスカが、たちまちのうちにマヤさんのシートに襲いかかった。
 
「…むっ無人です、弐号機にエントリープラグは挿入されていませぇん…」
 
今にも噛みつきかねないアスカの剣幕に、マヤさんが怯えてる。さもありなん。
 
アスカの肩にかけようとしていた手をそのまま泳がせて、ミサトさんがマヤさんの席のヘッドレストを鷲掴みにした。ぎしっ…と剣呑な音を耳元で聞かされて、マヤさんが今にも泣き出しそうだ。
 
「…」
 
そのまま黙り込んだミサトさんを急き立てるように、追加のアラートが鳴る。
 
「セントラルドグマに、ATフィールドの発生を確認!」
 
「弐号機?」
 
「いえ、パターン青!間違いありません!使徒です!」
 
「何ですって!?」
 
状況の把握に追われる発令所を尻目に、床に刻まれたモールドを押した。跳ね上がるようにカバーが開いて、リフトの操作パネルが現れる。
 
「使徒…あの少年が?」
 
呆然と呟くミサトさんに、アスカが詰め寄った。
 
「誰よ、ソレ?」
 
「委員会が送り込んできたのよ。アスカの予備を」
 
「ワタシの予備って…」
 
リフトの起動スイッチを入れ、せりあがってきた手すりを掴んだ。
 
「初号機で追撃します」
 
駆け寄ろうと振り返ったミサトさんを身振りで押しとどめ、視線は親指の爪を噛んでいるアスカに。
 
「アスカちゃん。弐号機を取り返しに、行く?」
 
「ワタシに、初号機に乗れって言うの?」
 
「そんな!? シンクロ出来るわけがありません!!」
 
思わず振り向いて、マヤさん。それを言い出すと、ミサトさんだってシンクロ出来ないはずなのだけど。
 
「ただ乗ってるだけでも構わないわ。弐号機を取り返しに、行く?」
 
様々な逡巡を瞳に乗せたまま、それでもアスカは頷いた。
 
「…行くわ」
 
 
***
 
 
   ≪ ATフィールド、依然健在 ≫
               ≪ 目標は第4層を通過、なおも降下中 ≫
 
  『 だめです!リニアの電源は切れません 』
 
コアに人格を封入しているわけではない直接制御は、パーソナルデータの書き換えなど不要だ。
 
   ≪ 目標は第5層を通過 ≫
 
  『 セントラルドグマの、全隔壁を緊急閉鎖。…少しでもいい、時間を稼げ 』
 
   ≪ マルボルジェ全層、緊急閉鎖。総員待避、総員待避! ≫
 
 
「…嘘よ嘘よ嘘よ。弐号機がワタシ以外で動くだなんて、そんなの嘘よ…」
 
プラグスーツ越しに爪を噛むようにして、アスカの呟きは小さい。けれど、アスカの心がまだまだ大きくエヴァに依存していると判って、哀しかった。
 
 
…せめて、目先を逸らしておこう。
 
「初号機はどう? 動かせそう?」
 
「…」
 
少し間を置いて、初号機が右手を眼前に持ってきた。結んで開いてを、2度3度と繰り返す。
 
「…ここ最近の弐号機の反応よりは…少しマシって感じね」
 
アスカが抱く微妙な嫌悪に反応して、弐号機は心を閉ざしていったのだろう。アスカ側の心の問題との相乗効果で、急速にシンクロ率が下がっていったのだと思う。
 
「でも、ナンでワタシまで初号機を動かせるの?」
 
アスカの心の温もりを感じる度合いからすると、シンクロ率にして20%といったところか。かつて、自分が弐号機にシンクロできたことを考えると、この程度のシンクロは出来てもおかしくはない。
 
第一、人格を封入したコアへシンクロするより、こうして生きて成長し変化する生身の人間にシンクロする方が融通が利くのは当然だ。
 
「…私が、アスカちゃんのことを好きだからよ」
 
振り向いたアスカの、頬が赫い。
 
「からかってるわけじゃないのよ。
 直接制御というのはエヴァと一心同体になる制御方法なの。初号機は今、私の心で動いている。その初号機にシンクロするということは、私の心にシンクロするということなの」
 
「…アンタが、ワタシのことをこれぐらい好きってこと?」
 
初号機が再び手を開け閉めした。その動きの鈍さを、バロメーターにして見せたのだろう。
 
「アスカちゃんが、私のことをそれくらい好きってこととの兼ね合わせでもあるわ。
 相思相愛だからってシンクロできるとは限らないから、大元の相性もあるのよ」
 
「…ちょっと待って。じゃあワタシが弐号機にシンクロできるのって」
 
単刀直入な言葉とは裏腹に、上目遣いの視線は手探りのごとく力ない。
 
「弐号機の中に囚われているアスカちゃんのお母さんの心が、アスカちゃんのことを大好きだから」
 
正面に向き直ったアスカが、初号機ごと下方を覗き込む。だが、弐号機はまだ見えなかった。
 
  『 装甲隔壁は、エヴァ弐号機により突破されています 』
 
  『 目標は、第2コキュートスを通過 』
 
 

 
こうしてアスカを乗せてみて気になったのは、思ったよりシンクロ率が伸びないことだった。裏を返せば、ミサトさんのシンクロ率が高すぎたということだが。
 
シンクロ出来るだろうことには自信があったが、アスカを大きく越えるものではないと思っていたのだ。相手をよく知っているといった程度では、アスカ以上のシンクロ率が出る理由にはならないだろう。
 
案外ミサトさんは、チルドレンとしての素質があるのかもしれない。あるいは、精神汚染を受けたことがあるのか。…たとえば南極で、アダムに。
 
南極での出来事をほとんど思い出せないのは、2年間もの心の迷宮は、もしかすると…
 
 
 ……
 
  ≪ エヴァ初号機、ルート2を降下。目標を追撃中 ≫
 
 
「どうして、こんなマネが出来るの?」
 
すこし落ち着いてきたらしい、アスカの声音に余裕が見えた。こころなしか、シンクロ率も上昇したような気がする。
 
弐号機は、カヲル君が張った重力軽減ATフィールドで、ゆっくりと降下しているのだろう。追撃する初号機も半ばその影響下にあるために比較的ゆっくりと落下するのだが、アスカは勘違いしたようだ。
 
「アスカちゃんだって、練習すれば出来るようになるわよ」
 
ヴィルクリッヒ? と視線を寄せたアスカに、頷いてみせる。実際、前回の世界では使えていたし。
 
「…ドイツでは、こんな使い方が出来るなんて教えてくんなかった…」
 
ちょっと不満そうな呟きが、なんだかアスカらしい。何が見えるわけでもないのに正面に戻した視線は、きっと睨みつけるようにして上目遣いなのだろう。
 
どうやら、いつものアスカに立ち戻りつつあるようだ。
 

 
じゃあ…。と振り向こうとしたアスカの、出鼻を挫くように青葉さんの声。
 
  『 初号機、第4層に到達、目標と接触します! 』
 
「見えたわ」
 
初号機の視覚を直接見ている私のほうが、発見が早い。カヲル君はまだ、光点にしか見えないが。
 
「アレねっ!」
 
横穴に手をかけた初号機が、掻き分けるようにして速度を上げた。
 
 
                                         つづく
2007.08.27 PUBLISHED
2009.01.01 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世四話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:47


「アスカちゃん。弐号機の動きを止めることに専念して」
 
「わかった」
 
弐号機の両手に護られるように、カヲル君の姿。見上げる笑顔が、やさしい。
 
「 待っていたよ 」
 
やはり、止められることを望んでいるのか。
 
   ≪ エヴァ両機、最下層に到達 ≫
 
お互いの手を掴みあって、初号機と弐号機が力比べ。
 
   ≪ 目標、ターミナルドグマまで、あと20… ≫
 
    ≪ エヴァ両機、降下中。現在第7マ…≫
 
繋ぎっぱなしだった通信ウィンドウが、唐突に砂嵐になった。カヲル君がATフィールドを、外界を隔絶させるために使ったのだろう。
 
遮られていた重力が戻ってきて、急に落下速度が上がる。
 
代わりに重力軽減ATフィールドを展開して、弐号機ともどもターミナルドグマに降下した。
 
 
ヘブンズドアへと向かうカヲル君を尻目に、まずは弐号機の相手だ。
 
「このっ暴れんじゃ、…ないわよ」
 
シンクロ率が低い分、初号機のほうが動きが鈍い。それを先読みとパワーで補って、何とか抑え込んでいる。
 
弐号機の左肩ウェポンラックが開いたのを見て取って、アスカがその右手を開放した。弐号機がナイフを手にした瞬間、その手をナイフごとウェポンラックに押し付けて固定。そのまま力ずくで左腕をねじり上げながら、弐号機の背後へと廻り込んだ。もちろんそこで終わらない。左腕の固定を胸部装甲に任せてフリーにした右手で、弐号機の右肘を掴む。腕の力を完全にそいだこの体勢からは、参号機のような真似事をしでかさないかぎり抜け出せないだろう。
 
やはり、エヴァの操縦はアスカが一番だ。
 
 
ATフィールドを展開して、その内側に弐号機を取り込む。カヲル君の支配力が遮られて、弐号機の動きがあきらかに鈍くなった。
 
もっとフィールドの強度を上げれば、完全に支配下から奪い取ることも可能だろう。だが、範囲外に出てしまえば効力を失うから意味はない。
 
 
…では、どうすればいいか。その答えは、ほかならぬカヲル君が教えてくれていた。
 
 ― エヴァは僕と同じ体でできている。僕もアダムより生まれしものだからね。魂さえなければ同化できるさ。この弐号機の魂は、今自ら閉じ篭っているから ―
 
「ATフィールド、反転」
 
かつて、エヴァ侵蝕使徒と対峙したときに、綾波が行った手段。なんぴとをも受け入れる光の天蓋。…いや、なんぴとたりとも逃さぬ、光の牢獄。が正しいか。
 
実体のある弐号機そのものはさすがに融合できないだろうが、その心を引き寄せることはできるはずだ。
 

 
心の裡に見えるのは、オレンジ色の水面と赤い空。不自然なまでにまっすぐな、水平線。
 
目の前に、アスカ。状況が把握できず、ちょっときょろきょろ。
 
「ユイ。…ここは?」
 
それには答えず、アスカの背後を指差してみせる。釣られて振り返った先に、若い女性の姿。…悠久なる存在に捕らわれると、変化することを許されないのかも知れない。おそらくは、10年前の姿のままで。
 
『 アスカちゃん 』
 
惣流・キョウコ・ツェッペリンは、一目で娘を見分けたのだろう。弐号機の中からずっと見守ってきたからか、それが母親ということなのか。
 
しかし、アスカのほうは俄かには認識できなかったらしい。あきらかに戸惑っていた。
 
 「ほら、アスカちゃん」
 
促されてようやく、夢じゃないと思ったのだろう。アスカがゆっくりと歩み寄っていく。水面を掻き分ける足取りが、夢遊病患者のようにおぼつかないが。
 
こちら側の水面にはさざなみが連なり、こころなしかアスカを後押ししているように見えた。境界を乗り越えたアスカの足を、鏡のように静かな水面が拒んでるように見える。その意味を直感したらしいアスカが、体をこわばらせた。
 
 …
 
じっと水面を見下ろしていたアスカが、視線を上げて確かめたのは、キョウコさんの表情だろう。今にも泣きだしそうな、だけど満面の笑顔。
 
「…ママ、そこに居たのね」
 
こくり。とキョウコさんが頷いた。その目尻はもう涙で縁取られている。
 
「…ずっと、見てくれてたのね」
 
ええ。と、やさしい眼差しで。
 
「ママは、ママを辞めたんだと思ってた」
 
「ママは、死にたかったんだと思ってた」
 
「ママは、ワタシも殺したいんだと思ってた」
 
かぶりを振りつづけるキョウコさんの姿を目にしてか、アスカの声音が湿り気を増していく。
 
「…ワタシ、ずっと誤解してた」
 
今まさに抱き合おうと母子が歩み寄った瞬間、キョウコさんの体を葉脈のごとき錯綜が駆け登った。
 
「ママっ!」
 
同時に、現実の世界では弐号機が暴れだす。関節を極められていることなどお構いなしに、初号機を振り払おうとする。コアに封じられた人格を奪われて、狂乱しだしたのだろう。…最初から無ければ、気にもしまい。だが、与えられてから奪われることは、耐え難いものだ。それが、心を知らぬ使徒であろうとも。
 
 
アスカが差し出した手を払いのけて、キョウコさんが哀しげにかぶりを振った。
 
ごめんね、アスカちゃん。と言い終えることもできず、LCLと化して崩れ落ちる。
 

 
「ママっ!? ママっ!!」
 
我に返ったアスカがオレンジ色の水面を掻き分けるが、何か見つかるわけもない。
 
現実の世界では、弐号機が徐々に落ち着いてきていた。引き戻されたキョウコさんが宥めているのだろう。
 
もう、その心を閉ざすことはないと確信して、ATフィールドの反転を解く。心を開いていれば、易々とカヲル君に操られることもない。
 
 …
 
視界が現実に戻ってきたことに途惑って、アスカがもがいた。夢で階段を踏み外して、動いた体に目を覚まされたかのように。
 
 
呆然としているのだろう。弛緩しきっているのが後ろからでも判った。
 
肩が跳ねたと見えた途端、唐突に体ごと振り返ろうとする。が、シートが放さない。圧着ロックを解除することすら忘れて、懸命に顔を向けてきた。
 
「ママは!?」
 
「そこに、居るわ」
 
指さした先、釣られて向き戻ったアスカの視界は、弐号機の赤で染まっただろう。
 

 
ワタシ…。嗚咽に喉を詰まらせて、アスカが弐号機へと手を差し出す。
 
ワタシ…。圧着ロックが体を放してくれないのを、なんと違えたか、いやぁ…。と力なくうなだれて。
 
シートのロックを両方とも外し、アスカの方へと泳ぎ寄る。
 
その頭を肩に預けるように抱きしめてやると、ためらいがちに抱き返されるのが判った。
 
ワタシ、…ワタシ。 ワタシっ!
 
 …ママに、ママを…、ママとっ
 
うわごとめいた呟きは意味をなさず、泡のような虚しさで潰れて消える。出口を見つけられないアスカの懊悩が、その裡に膨れ上がっていくようで、哀しい。
 
そっと、頭をなでてやった。
 
 …
 
落ち着くのを待って、やさしく引き剥がす。
 
「お母さんを、取り戻したい?」
 
えっ。と合わせてくる視線は、涙に縁取られてかLCLを薄くし。
 
「私に弐号機をくれるなら、お母さんを取り戻してあげる」
 
「…できるの?」
 
頷いた。舞台が整い、役者が揃った今なら。いや、今だからこそ。
 
「お母さんを取り戻せば、どのみち弐号機は使い物にならなくなる。だから、弐号機をちょうだい?」
 
かつて天秤にかけた自分と母親を、今また秤に載せて。その蒼い瞳が揺れた。
 
受け皿に分銅を置く時のように静かに、ささやく。
 
「さっき会ったお母さん。弐号機の中に居るお母さんこそが、アスカちゃんの本当のお母さんなの。
 アスカちゃんの置き去りにしたのは、ただの抜け殻だったのよ」
 
目を見開くアスカを、再び抱きしめる。
 
「…いいえ、違うわね。
 あのような抜け殻になってしまっても、アスカちゃんのお母さんであることだけは忘れなかったのね、キョウコさんは」
 
それでもまだ天秤は定まらず、アスカの葛藤が瘧となってその体を震わせていた。
 

 
「…世界で一番でなくても、ママはワタシのこと…」
 
「もちろんよ」
 
あまりにも哀しすぎるから、皆まで言わせない。
 
「そうでなかったら、弐号機は動かなかったわ」
 
すとん。と、アスカの体から力が抜けて、二人して漂う。
 
… …
 
何度も口を開いて、そして閉ざした気配。
 
 …
 
「…おねがい」
 
こぽり。と泡の立ち昇る音は、まるでアスカが胸の奥から想いを搾り出したかのように。
 
「ええ、まかせて」
 
抱きしめるその腕に、力を篭めた。
 
 
****
 
 
ヘブンズドアを抜けると、リリスの前でカヲル君が待っていた。ズボンのポケットに両手を入れ、あのひどく優しい笑顔を浮かべて。
 
両腕で抱えていた弐号機をそっと降ろした初号機が、宙に浮いたカヲル君に掴みかかる。
 
アスカっ!!
 
今しもカヲル君を握り潰さんとした初号機の右手は、直前で強引に軌道を変え、その足元の空間を握り潰した。
 
…あまりのスピードとパワーに、逃げそこなった空気が手の中で熱い。
 
 
「判ってる。アンタに任せるって決めたもの」
 
こちらが声をかける前に、アスカ。
 
「でも、あのニヤケ面を見たら、なんだか腹が立って…ゴメン」
 
アスカにしてみれば、大切な弐号機を強奪した犯人なのだから仕方がないとは思う。だけど、なんだか乾いた笑いしか出て来なかった。
 

 
「コントロール、貰うわね?」
 
頷くのを見て取って、アスカとのシンクロを解除。繋がりを失うこの瞬間は、いつも言い知れない寂しさに見舞われる。何度やっても慣れないけれど、だからと云って絆そのものが要らないなどとは、もう思わない。
 
 
まず、初号機を跪かせた。エントリーを解除するから、立たせたままでは倒れてしまう。
 
固く握られたこぶしをゆっくりと解き、いざなうように右手を差し出す。
 
意外だったのか、そのアルカイックスマイルを一瞬崩して、カヲル君が降り立った。
 
その右手を、左の肩口にひきつけておいてホールド。エントリープラグを排出して、初号機の肩へと渡る。
 
何が始まるのか見届けようと顔を出したアスカが、ハッチの縁に腰掛けた。呼ぶまで待つようにお願いしておいたから、そこで待つつもりなのだろう。
 
カヲル君を見る目つきは険しいが、とりあえず口を挟むつもりはないようだ。
 
 
「おはよう、カヲル君。挨拶もなしに抜け出すなんて、みずくさいわ」
 
「別れが辛くなるからね。気に障ったなら謝るよ」
 
それには及ばないわ。と、かぶりを振ると、その赤い瞳がほころんだような気がする。
 
「昨夜の歓待は、リリンからの手向けだと思っていたけど…」
 
着任したカヲル君を我が家に招待し、シンジやレイに引き合わせた。精一杯の手料理でもてなし、給湯器の調子が悪いと嘯いて銭湯に行かせた。
 
シンジと2人して夜遅くまで起きていたようだが、いったいなにを語らったのだろう。
 
「貴女には覚悟が見えた。いまさら僕を殲滅することをためらうようには思えないよ」
 
だから、安心してここまで来たのだけれど。と肩をすくめている。
 
「君に、可能性を見せようと思って」
 
「どういう…ことだい?」
 
きょとん。とした顔のカヲル君は、初めて見たかもしれない。
 
「ヒトを滅ぼさず、君を消さず。多くのヒトの心と触れて、シトを救って進む道を」
 
プラグスーツの左腕部を、肩の辺りから引き抜いた。左腕を治療中に使っていたスーツに、切り取っていた左腕部分を付け足すようにして着て来たのだ。
 
「なにを…、ユイさん…貴女がなにを言っているのか解からないよ」
 
「提言よ」
 
左の手のひらを開き、視線を落とす。表皮がひきつれているように見えるが、火傷の痕ではない。
 
「百聞は一見にしかずだから、騙されたと思ってこれを受け取ってくれない?」
 
偽装用のクローン皮膚を引き剥がし、カヲル君に見せる。
 
「アダムっ!!」
 
かぶりを振った。
 
「アダムはセカンドインパクトで失われたわ」
 
正しくは、完全に消滅したというわけではない。いつかは、復活するだろう。
 
だが、それは何十億年も先のことだ。
 
月を形成するほどの勢いで地球に衝突したアダムは、おそらく損傷したのだろう。人類が起こそうとするまで、45億年も目を覚まさなかった。
 
35億年前にファーストインパクトを起こしたリリスは、上半身しか回復していなかった。さらには、ロンギヌスの槍を刺すまで半ば眠っていた。
 
重大な損傷をきたすか、インパクトを起こすか。いずれにせよ、その眠りは永い。
 
「だからこそ君たちは、リリスをアダムと勘違いして、ここに来た」
 
1つの惑星に2つの【月】が降臨するなんて、本来ありえないことだったのだろう。案外、そのイレギュラーを修正するためのロンギヌスの槍、裏死海文書だったのかも知れない。
 
 
「これは、アダムのかけら」
 
この手のひらにアダムを植え込んだのは、ギプスが取れたその夜のことだった。
 
いくらネルフの医療レベルが高いとはいえ、腕一本を繋ぎ治すのは容易ではない。リツコさんの見立てでは、リハビリを含めて全治7ヶ月だった。
 
一般的な医療レベルからすれば、それでも驚異的な早さだろう。比較的治療しやすい鋭利切断ですら、完治まで1年以上を要するというのだから。
 
だが、私の快復を待っていられるような情勢ではなかった。
 
 
初号機の負傷が私の負傷であるのと同様に、初号機もまた私の状態に影響を受ける。
 
光鞭使徒戦後に、その負傷をただちに修復された初号機は、なぜか握力が低下した。原因不明のまま自然に回復したのは、私の手のひらから疼痛が消えたその日だったのだ。
 
憑依使徒戦で失った初号機の左腕は、帯刃使徒戦後に修復された。だが、私の左腕が完治するまでは、やはり使い物にならなかっただろう。使徒戦はまだしも、その状態で量産機と戦うのは自殺行為に等しい。
 
だからこうして、アダムの欠片の力を借りることにしたのだ。生き残ろうとする本能が宿主たるこの体を保全しようとしたお陰で、リハビリ期間をほとんど必要としなかった。
 
 
初号機の手のひらに、跳び移る。
 
「…しかし、貴女にそんな気配は…、今だって」
 
…ちょっと勢いがつきすぎて、カヲル君の顔が近い。
 
「それは、私の方が訊きたいわ」
 
着任したカヲル君を、エスカレーターの上で待ち伏せて、我が家に招待した。夜遅くまでリビングで待っていた。
 
その機会はいくらでもあったのに、結局カヲル君はそのことに言及してこなかったのだ。
 
…本当なら、弐号機を強奪するような真似事など、させるつもりはなかったのだけれど。
 
 
「いったい…」
 
カヲル君が、この手に眠るアダムに視線を落とした。
 
…ひとつ、気になっているのは。左腕が完治した頃には、手のひらにアダムがほとんど埋まりこんでいたこと。そして、それがまだ進行しているらしいことだった。
 
 
そうか…。と振り返ったカヲル君の、視線の先はリリスか。
 
「あれがリリスなら… その波動は、地に満ちたリリンたちで…」
 
見上げるのはターミナルドグマの天井。いや、どこまで見透かしていることだろう。
 
戻ってきた視線が、初号機に注がれる。
 
「そして、アダムの分身ならざるエヴァ。さらには自我境界線を踏み越えて、そこから還ってきた貴女…」
 
赤い瞳が、やさしい。
 
「それに、あまりにもひ弱なアダムの波動…」
 
最後にアダムを見下ろして、カヲル君が溜息をついた。
 
「僕には分からないよ、こんなに騒々しくては…」
 
様々な条件が重なった結果、その気配が掻き消されていたと云うことだろうか?
 
その可能性を、考えなかったわけではない。ドイツからの移送中、あきらかに無防備だったアダムを、海中使徒以外は誰も狙わなかった。その海中使徒にしても、艦隊内を探し回ってずいぶんと迷走していたような気がする。
 
セカンドインパクト以降初めての使徒である光槍使徒は、アダムのあるドイツではなく、ここ第3新東京市を目指した。その時点でゼーレは、アダムの欠片に利用価値がないと判断したのかもしれない。防備の必要がなくなって放出した弐号機と共に持ち出されたのは、ゼーレにとって渡りに船だったのだろう。
 
よもや、人気の少ないところへ持ち出すことで使徒を誘導できる。…などと狙っていたわけではないと、思うのだけれど…
 
 
カヲル君の気配に、目を覚ましたらしい。アダムが、その目玉をぎょろりとカヲル君に向けた。
 
「アダムが失われた以上、アダムの使徒によるインパクトは起きない。
 でも、その欠片を取り込めば、君は限りなくアダムに近くなる」
 
それは、インパクトならざるインパクト。
 
「一時でも、リリスを従えることができるわ」
 
視線は、カヲル君を乗り越えてリリスに。
 
ゲンドウさんの計画では、このアダムの欠片を以ってリリスを支配下に置くつもりだったそうだ。もっとも、神ならぬヒトの身では、リリスにさせられることなどタカが知れているらしいが。
 
しかし、こうしてアダムをこの身に宿してこの場に立っているというのに、とてもじゃないがリリスに声が届くようには思えなかった。
 
その意識が巨大すぎるのか、ヒトとは構造が違うのか。いずれにせよ、ヒトの想いを届けるには、なにか更なる仕掛けが必要だろう。
 
 
「それで、僕に何をさせようと言うんだい?」
 
見つめてくる視線を、見つめ返し。
 
 …
 
「宇宙の容を、見て」
 
それだけで、君ならば。
 
アダムの欠片を見、リリスを振り返り。再びこちらを見つめてきたカヲル君が、ふっ。と息を漏らした。
 
「アダムより生まれし使徒、人間にとって忌むべき存在。それに何をさせようというのか、僕には解からないよ。
 でも、このまま消えるよりは面白いものが見られそうだ」
 
ポケットから出した右手を、そっとこの手のひらに重ねる。
 
最初に感じたのは、S2機関を稼動させたときのような熱。ずるずると内臓を引きずり出されるような感覚を、なんと言い表せばいいのだろう。生理的な嫌悪感に、全身が粟立つ。
 
 …
 
掲げられたカヲル君の手のひらに、アダムの欠片。ぎょろりと目を剥くが、みるみるうちに溶け込んでいった。
 
私の手のひらには、傷ひとつ残っていない。大きな穴でも開いたらどうしようかと、心配していたのだけれど。
 
「…なるほど、アダムの欠片ではインパクトは起きない」
 
確かめるように右手を握り締め、その手をポケットに戻している。
 
もし、ここにアダムの使徒が来れば、カヲル君とインパクトを起こせたかも知れない。だが、彼は最後の使徒だ。
 
宇宙のカタチか…。呟いて、カヲル君がリリスを振り仰ぐ。
 
かつて、葛城ミサトだった時代。リリスを殲滅することで自分は引き戻された。この世界に来たとき、綾波が語りかけてくれた。つまり、この宇宙はリリスによって結ばれているのだろう。
 
もちろん、大元のリリスにそんな能力があったとは思えない。おそらくはセカンドインパクトで…いや、あの世界のサードインパクトで、変質したのではないだろうか。下手すると、この宇宙ごと。群体の使徒たる人類を産み出したリリスが秘めていた、絆を求める心のままに。滅んでしまった世界の悲しみとともに。
 
 
リリスを使うことができれば、世界の外を、宇宙の容を見ることができると思う。
 
そして、もっとも早く咲き、あっという間に枯れた一つの花弁の存在をも知るだろう。
 

 
その後ろ姿からは、なにものも読み取れない。
 
力を抜いて自然体で立つカヲル君は、微動だにせずリリスを見上げ。
 
 …
 
そして、唐突に振り返った。
 
その瞳に理解の色を乗せ、おそらくはこの姿に別の容を見透かして。
 
「君は…」
 
唇に人差し指を当てる。それは、言わぬが華だよ。カヲル君。
 
 
「…ガラスのように繊細、か…」
 
あの宇宙の僕は、君を見縊っていたよ。などと我がことの様に自嘲してみせて、僅かにかぶりを振った。
 
「美しく繊細で、壊れやすいのに永遠だ。
 
 …
 
 パート・ド・ヴェールのようだね。君のココロは」
 
それは、ガラス工芸の技法だったと思う。砕いたガラスの粉を型に詰めて炉で焼成する。壊れても、何度でも作り直せる不屈の形。
 
そうならざるを得なかったのだけど、後悔はしていない。
 
「それで?」
 
促すように小首を傾げ、口元をほころばせている。
 
「君は、僕に何を望むんだい?」
 
カヲル君のことだから、僕の言いたいことぐらい、察しはついているだろう。だが、きちんと言葉にして伝えることが大切なのだ。
 
「アダムに会うことはできない。ヒトや、ほかの使徒を滅ぼしても自分の繁栄につながらないと知ったら、使徒たちも共存の道を考えてくれるんじゃないかしら」
 
事実、そう選択した使徒が居た。ほかの使徒だって不可能ではないと思う。
 
「共存が無理でも、相互に不干渉を貫ければ、それで充分」
 
ふむ。とカヲル君が考え込む。
 
「私は人類を救う道を歩む。カヲル君には使徒を救う道を進んで欲しいの」
 
「手を携えあって、皆にやさしい世界を。…かい?」
 
考えが甘いだろうか?
 
こちらの憂慮を読み取ったか、カヲル君がかぶりを振っている。
 
本当に君は…。と、あきれたような口調の呟きは、なのにやさしい。
 
「かつて、君は僕の願いを叶えてくれた。今度は僕の番なんだね」
 
ポケットから出した両手を広げ、カヲル君が微笑んだ。
 
 
***
 
 
「弐号機のコアの中の人格を、取り出すのかい?」
 
私が犯した罪。
 
アスカから奪ってしまった母親を取り戻すための算段を、ずっと考えてきた。それを実行できる時が、ようやく巡ってきたのだ。
 
「ええ、お願いできる?」
 
ようやく自分に関係する話になったと察して、アスカが身を乗り出してきたのが見えた。初号機の肩まで、伝ってこようとしている。
 
 
カヲル君の視線が、横たえられた弐号機の、胸のあたりに。
 
「それは構わないけど、…いささか足りないんじゃないかい?」
 
それに、ずいぶんと変質してる。と、カヲル君が眉を顰めた。
 
それは承知の上だ。だからこそ、この時を待っていたのだから。
 
「そこで、足りないものを集めてきて欲しいの。ほかの世界から」
 
葛城ミサトの心を知ることで、ミサトさんは帰還した。足りないものは、他の世界から写すことができるはずだ。火の消えたロウソクに、他のロウソクから炎を移すように。
 
「なるほど、欠けたる自我を別の宇宙の自分で補うんだね」
 
それなら。と、初号機の掌の上から踏みだして、カヲル君が宙を進む。
 
振り返り、無雑作に一瞥を与えると、弐号機が立ち上がる。ゆっくりと、赤い掌がアスカの前に差し出された。
 
「君の力が要るよ。来てくれないかい?」
 
窺うような視線に、頷いてやる。
 
頷き返したアスカが、弐号機の掌に決然と乗り込んでいった。
 
 
次の一瞥は、塩の柱を叩き折る。塩の塊はリリスの体液を巻き込みながら上昇し、球状に固まって宙に。
 
見れば、リリス、弐号機、塩の球が頂点になって三角形をなしていた。
 
中心に、カヲル君。
 
「さあ、語りかけるんだよ。還ってきて欲しいと」
 
頷いたアスカは、弐号機の胸部装甲に手をかけた。
 
 …
 
ぽつぽつと呟く内容は、ここまでは届かない。だけど、切々と訴えかけるその姿は、見ているだけで胸が熱くなる。
 
その様子を見届けてか、カヲル君がリリスに向き直った。
 
「…さあ、見せておくれ」
 
ほのかな燐光が幾つも、リリスの体から立ち昇る。
 
その中の一つがぴたりと止まったかと思うと、弐号機めがけて飛んだ。
 
一所懸命に母親に語りかけるアスカは、燐光が弐号機に飛び込んだことにも気付かない。
 
すぐさま弐号機を飛び出した燐光は、塩の球に。
 
塩の球をほんのり紅く染めて、燐光がリリスへ戻った。
 
その燐光に弾かれるように、別の燐光が弐号機へ、そして塩の球へ。時計回りに連鎖を繰り返し、塩の球が紅く、赤さを通り越して玄くなっていく。
 
 
「ワタシ!ママのこと誤解してた。そのことを謝りたいの」
 
訴えかけるうちに激情を抑えきれなくなったのだろう。アスカの声が、ここまで。
 
「だから、還ってきて。ワタシのもとに還ってきて。ママ、お願い!」
 

 
途端、塩の球が十字の爆炎を上げた。
 
爆圧も爆風もないけれど、その輝きがとてもまぶしい。
 
「新生の光だよ」
 
どこか嬉しそうに、カヲル君が教えてくれる。
 
驚いて振り返ったアスカの頬には、涙の跡がくっきりと。
 
 
カヲル君が滑るようにこちらに向かってくる。歩調を合わせて、弐号機と塩の球も。
 
塩の球から吐き出された女性が、どさりと弐号機の掌の上に頽れた。
 
「ママっ!」
 
アスカが、慌てて母親を抱き起こす。私の時のことを考えれば、意識は当分戻らないだろう。
 
「衣服までは用意できなかったからね。これで我慢してくれるかい?」
 
着ていたワイシャツを、カヲル君がアスカに差し出した。
 
思わず受け取ったアスカが、いったん口篭もる。
 

 
「…その、アリガト」
 
「礼を言われるほどのことじゃないよ」
 
ううん。と受け取ったシャツを母親にかけてやって、アスカがカヲル君を見上げた。
 
「ワタシ、自分が間違っていることに耐えられないの。
 こうしてママに謝る機会をくれたことを、とても感謝してる。だからお礼を言わせて」
 
「そうなのかい?…いや、そうなんだろうね」
 
アスカを見下ろすその笑顔が、やさしい。
 
ポケットに手を突っ込んで、カヲル君が視線をこちらに。
 
弐号機の掌に母子を残して、何気ない足取りで宙を渡ってくる。
 

 
「ここは、もういいみたいだね。それなら、僕は行くよ」
 
「ええ、カヲル君。ありがとう」
 
礼には及ばないよ。と微笑むカヲル君の向こうで、燐光がリリスの中へ戻っていった。屈みこんだ弐号機は、手のひらを岸壁に下ろしている。塩の球は、いつの間に崩れ落ちていたのだろう?
 
 
差し出した右手を、すこし不思議そうに見つめて。
 
「人と触れ合うことを、怖れなくなったんだね」 
 
「おかげさまで」
 
ポケットから右手を出して、握り返してくる。その手は少し、冷たい。
 
「ありがとう。君に逢えて、嬉しかったよ」
 
「こちらこそ、カヲル君」
 
満足そうに頷いて、カヲル君が、いや、カヲル君の体だったものがLCLと化して雪崩れ落ちた。小さな燐光が、一条の光となってリリスへと飛ぶ。…残された衣服が折り重なって堆い。
 
…一抹の寂しさが、胸の奥に波紋をたてる。だけど、涙は不要だ。
 
きっと、また会えるだろうから。 
 
 
****
 
 
こうして、最後の使徒は殲滅された。 
 
使徒に乗っ取られた弐号機は不純物としてそのコアの中身を吐き出し、その結果、惣流・キョウコ・ツェッペリンが帰還した。と報告書を締めくくる。
 
ゼーレに提出することは、ないような気がするけれど。
 
 
                                         つづく
2007.08.31 PUBLISHED
2007.09.03 REVISED



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 第世伍話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:47


翼を広げた白いエヴァが8体、頭上を旋回していた。
 
この体には、あまり射撃のセンスがない。起動前には1体しか撃ち落せなかったのだ。
 
 
…………
 
 
『 約束の時が来た 』
 
ぐるりと、ホログラムの石板が机を囲む。
 
『 ロンギヌスの槍を失った今、リリスによる補完はできん。唯一、リリスの分身たるエヴァ初号機による遂行を願うぞ 』
 
石板の輪の外から、事のなりゆきを見守る。位置関係からして、目前の石板はきっと【01】だろう。
 
「ゼーレのシナリオとは、違いますな…」
 
組んだ指で口元を隠したゲンドウさんが、ぼそりと。
 
「人は、エヴァを生み出すためにその存在があったのです」
 
冬月副司令は背筋をまっすぐ伸ばして、年齢を感じさせない。
 
「人は新たな世界へと進むべきなのです。そのための、エヴァシリーズです」
 
使徒を退けた後のエヴァの活用法として、宇宙開発を提案している。自力で大気圏を突破でき、推進剤なしで宇宙空間を飛び回り、再突入も朝飯前。小惑星を地球圏まで牽引したり、ガス惑星へ資源を採取しに行ったりも可能だろう。
 
大きすぎるのでEVA向きではないが、それでも宇宙ステーション開発、人工衛星の軌道投入など大活躍間違いなしだ。
 
シンクロや制御方法の問題が残っているから、一筋縄ではいかないだろう。維持費もまだ高価すぎる。だが人類は、狭すぎる地球から巣立たなくてはならない。
 
 
『 我らはヒトの容を捨ててまで、エヴァという名の箱舟に乗ることはない 』
 
『 これは通過儀式なのだ。閉塞した人類が再生するための 』
 
『 滅びの宿命は、新生の歓びでもある 』
 
『 神も人も、全ての生命が死を以って、やがて一つになるために 』
 
いつものポーズを寸分たりとも崩さず、ゲンドウさんが口を開いた。
 
「死…は、何も生みませんよ」
 
『 死は…、君たちに与えよう 』
 
 
ホログラムが消え照明がともると、この司令室が小さく感じるから不思議だ。
 
サングラスを外して、ゲンドウさんが見つめてくる。ゼーレ相手の時は、特にレンズの色が濃い。
 
「我々の過ちを正すときがきた。そうだな、ユイ」
 
ええ、と頷く。
 
すべては私の覚悟が足りなかったから捲き起こされた、人災なのだ。
 
そういう意味では、ゲンドウさんですら被害者だった。
 
だが、私と罪を分かち合うことが彼を支えているとすれば、それすら告解を許されない。
 
すべてをこの胸の裡に沈めたままに、けりをつけなければならなかった。
 
「初号機を指定してきたからには、ここで実行する気なのでしょう。
 ならば、ここで挫きましょう。人類補完計画を」
 
うむ。と頷くゲンドウさんたちを残して、ケィジへと向かった。
 
 
***
 
 
 ― 我らはヒトの容を捨ててまで、エヴァという名の箱舟に乗ることはない ―
 
この言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
 
不完全な群体としての人類を、完全な単体へと進化させる人類補完計画とも矛盾する言葉だ。
 
 ― 神も人も、全ての生命が死を以って、やがて一つになるために ―
 
その言葉を否定するかのようなこの言葉。なのに、この言葉も、やはり補完計画と矛盾する。
 
神がリリスのことだとすれば、それはリリスへの還元に他ならない。リリスは他の可能性を試すだろう。人類にとって、新生などありえぬ真の滅びだ。
 
 
何もかも矛盾するのは、ゼーレにとっても人類補完計画が口実に過ぎないからだろう。あるいは、ゼーレとて一枚岩ではないのか。
 
いずれにせよ、別の目的があるように思う。
 
 
…………
 
 
A-801発令と同時に、MAGIへのハッキングが始まった。
 
しかし、使徒すらあっさりと退けたMAGIオリジナルと赤木親子の前に、5対1程度の彼我戦力差がいかほどのものか。
 
あっという間に蹴散らして、MAGIコピーを支配下に組み込んでしまった。
 
もしかして白いエヴァの起動を阻止できるかもと期待して調べてもらったが、ウイングキャリアーは飛び立った後で無線封鎖済み。弐号機と同様に自律起動が可能であろう量産機は、もはや物理的な手段でしか止められないようだ。
 
 
 …
 
 
初号機で広域展開したATフィールドで、進攻してくる戦略自衛隊を押しとどめる。一歩間違えていたら、そこに子供が乗った陸上軽巡洋艦とやらが並んでいたかと思うと、ちょっと気が重い。
 
計算違いだったのは、戦自の展開が予想以上に早かったことだ。初号機を地上に射出しようとしたときには、すでに幾部隊かジオフロントまで侵入してしまっていた。そのためミサトさんには、本部棟の防衛指揮に廻って貰わざるを得なかったのだ。
 
ゼーレはやはり、こちらの叛意を見抜いていたのだろう。いや、MAGIを攻略できないことを、織り込み済だったのかもしれない。
 
 
ここを戦場にするつもりだろうから市街地への進攻はないが、周辺のゲートはほとんど制圧されていた。いくらかは初号機で恫喝し拘束させることができたが、それでも多くの戦自兵がジオフロントに侵入したようだ。
 
 
  『アスカは?』
 
ミサトさんの声が厳しい。
 
ジオフロントはともかく、侵入者邀撃システムが間に合った本部棟の攻略は容易ではない。それでも、軍隊相手にネルフの職員で対抗するのは難しいだろう。
 
   『 付き添いで303病室です 』
 
つけっぱなしのモニターが、発令所の様子を教えてくれる。今は、これ以上の進攻を堰き止めることしか私にはできない。ゲンドウさんの揺さぶりが日本政府に効くのを、待つしかなかった。
 
  『構わないから、母親ごと弐号機に乗せて』
 
   『 しかし、現状ではエヴァとのシンクロはできませんが!? 』
 
  『そこだと確実に消されるわ。匿うにはエヴァの中が最適なのよ』
 
まあ、起動させなければ大丈夫だろう。
 
了解。と返したマヤさんがコンソールに向き直っている。
 
   『 クランケの投薬を中断。発進準備 』
 
  『アスカ収容後、エヴァ弐号機は地底湖に隠して。すぐに見つかるけど、ケィジよりマシだわ』
 
 
 
上空からの落下物を、初号機の視覚が捕らえた。N2爆弾らしい。
 
一瞬、戦略自衛隊を一掃するのに使おうかと邪念がもたげるが、考え直す。遺恨を残してどうするのだ。
 
ただ、自分たちが何をしようとしているか、自覚してもらうぐらいは赦されるだろう。
 
 
ATフィールドのスロープで誘導したN2爆弾が、戦自部隊の上空で炸裂する。
 

 
 ……
 
反射的に伏せていた戦自兵たちが、草木の一つもそよがないことに気付いてか、顔を上げはじめた。
 
空中から立ち昇る爆炎と、自分たちを守るかのように輝く光の壁を不思議そうに見上げている。
 
大仰な身振りを見せ付けてから、肉眼で視認できるよう光波を放射させていたATフィールドを元に戻した。
 
 
続いて、大陸間弾道弾が雨のように。
 
こちらはさすがに細々と誘導できない。ATフィールドに角度を持たせ、第3新東京市周辺に分散させればいいだろう。
 
イメージするのは、反りのある宝形造りの屋根だ。
 
当たり所が悪かったのかATフィールドに接触した途端に爆発したのが幾つかあったが、概ね散らばって、これらも戦自部隊の上空で爆発した。
 
見れば、なにやら確信していたのか、ちらほらと立ったままで見届けている戦自兵がいるようだ。
 
 …
 
今のデモンストレーションが効いたわけでもないだろうに、第3新東京市を包囲していた戦自部隊が退き始めた。よもや。と思って確認すると、MAGIが予測したウイングキャリアー到達時刻が間近だ。
 
身長40メートルに届くエヴァンゲリオンが全力で立ち回れば、その行動半径はN2爆弾の危害範囲をはるかに越える。いや、そもそも想定のしようがない。
 
ジオフロントに兵力を残したままで撤退しようというのだから、ウイングキャリアーの到達は間違いないだろう。
 
 
***
 
 
いくら初号機でも、S2機関搭載のエヴァ8体に取り囲まれるのは拙い。
 
ポジトロンライフルを乱射しながら、郊外へと駆けだす。
 
フル稼働ではないが、最初からS2機関を始動させる。機動戦になるだろうから、アンビリカルケーブルを引き摺ってはいられなかった。
 
 
 『 8番にソニックグレイブ、出ます 』
 
日向さんの手配は、ミサトさんの指示だろうか。ジオフロントに進攻した戦自部隊は、まだ片付いてないというのに。
 
ライフルを放り捨て、武器庫ビルからソニックグレイブを抜き取る。
 
充分に引きつけてから振り返ると、白いエヴァたちが降り立ったところだった。戦術も連携もなにもない降り位置。ありがたい。
 
無防備に突出していた1体に駆けより、その首を落とす。すかさず胸郭を断ち割り、覗いたコアを突き崩した。
 
さらにプラグも引き抜いた方がいいかと悩む間もなく、駆け寄ってきた1体が大剣を振り下ろしてくる。
 
斃したばかりの亡骸を蹴り飛ばしてやると、ぶち当たって諸共に倒れた。
 
いくぶんか遅れて到着した1体が、斬りこんでくる。ちょっと回り込めば倒れた味方をフォローしつつ攻撃できたろうに、そんな素振りは微塵もない。
 
仲間を救けようなんて感情はないようだ。
 
その攻撃を避けた足でそのまま駆け出し、起き上がろうとしていた量産機を逆袈裟に斬り捨てる。…手応えが浅い。致命傷ではないだろう。
 
止めを刺すのは諦めて、足を止めず駆け抜ける。さすがに囲まれだしてきたのだ。
 
連携するほどの知能はないようだが、数で押されてはたまらない。
 
 
 
   『 【よみかぜ】が乗っ取られました! 』
 
  『なんですってぇ!』
 
ジオフロントも苦戦しているようだ。
 
地底湖に停泊させてあるフリゲート艦が奪われたらしい。
 
一応ネルフ船籍のあの艦は、必要に応じて国連軍から人員を借りて運用している。ただ、帯刃使徒にジオフロントまで進攻されてからは半ば臨戦態勢であったため、全くの無人ではなかったはずだ。
 
A-801の発令によって国連軍が手出しできなくなっているとはいえ、乗艦を明け渡す義務まではない。
 
それがこうも早く乗っ取られる。…いや、そもそも強奪の対象に選ばれたこと自体が、国連軍と戦略自衛隊のつながりを示唆しているように思えた。
 
 
  
ヴァーチャルディスプレイには第3新東京市の俯瞰図が表示され、各エヴァの位置が示されている。
 
市内外の観測機器が無事なのと、MAGIが衛星を確保してくれているおかげだ。多少のECMなど、問題にもならない。
 
 
1体だけ孤立している量産機を見つけ、分断するためにATフィールドを張る。
 
便宜上【#3】とナンバリングされた白いエヴァにかけより、フィールドの中和に切り替えつつ、その胸郭を突き刺す。
 
手応えがあった。刃をえぐり、蹴り倒すと、6体の量産機が折り重なるように襲い掛かってきた。うち1体はさっき止めを刺しそこなったヤツだ。もう回復したらしい。
 
再びATフィールドを張って堰き止め、距離を取ってから一部だけ解除。その隙間を1体がすり抜けたところで張りなおす。突っかかってきたのは【#6】。
 
こうして1体ずつ斃して行けば、何とかなるだろう。
 
時間稼ぎに後退ろうとしたところで、ATフィールドを中和された。
 
足止めをしていた5体が雪崩を打って押し寄せてくる。
 
…さすがに同じ手は何度も喰わないか。
 
 
腰のホルダーから取り外したN2爆弾を【#6】に向けて放り、ATフィールドで囲う。
 
突然の閃光に、駆けつけてきていた5体が怯んだ。その隙に【#6】に止めを刺す。
 
 
堰き止めるためにいま一度ATフィールドを張ってみるが、即座に中和された。ありがたいことに、障害物を排除しているだけで、意図的にフィールドの中和をしているわけではないらしい。フィールドを張った位置を踏み越えると、あっさり中和を放棄してくれる。…役割分担をしてこちらのATフィールドを中和し続けたりされては、たまらなかったが。
 
ほぼ横一列に並んだ量産機の側面に回りこみつつ、距離を取る。
 
分断を狙って矢継ぎ早にATフィールドを張ってみるが、間髪入れずに中和されて効果がない。
 
 
ここで牽制に兵装ビルからの攻撃が欲しかったが、もちろん無い物ねだりだ。…こんなことならアスカの言うとおり、初号機のアビオニクスを変えておけばよかった…。弐号機を失って初号機に乗れることを知ったアスカが、そう提案してくれていたのだ。今後は初号機に乗るつもりだったのだろう。
 
 
向かってくるその先頭は【#5】。すかさず、その後方へ向けて重力遮断ATフィールドを敷いた。
 
自らを引き寄せる重力を失った4体が、慣性の法則にしたがって吹っ飛ぶ。地球の自転方向と逆に走ってきていたから効果が薄いが、それでも音速に近いはずだ。
 
振り下ろされた大剣を躱し、流れのままに袈裟懸けにする。
 
少し浅い。切り口から手を突っ込んで、コアを握りつぶした。
 
 
 『 15番にポジトロンライフル、出ます 』
 
なるほど。翼を広げて体勢を立て直したらしい量産機どもが、無雑作に着地しようとしている。これを狙わない手はない。
 
ソニックグレイブを突き立て、手近の【#2】にポジトロンライフルを連射。
 
初弾が命中したと思ったら、次弾からATフィールドで防がれた。すっと前に出てきた【#8】の仕業らしい。仲間を庇ったというのか。
 
とっさに敷いた重力遮断ATフィールドは、たちまち中和される。それで無防備になった【#1】に狙いをつけるが、トリガーが空振りした。残弾ゼロだ。
 
ポジトロンライフルを投げ捨てると、白いエヴァたちがにたり。と嗤った。
 
量産機たちの学習能力は高いようだ。一度使った戦法は通用しないし、チームワークも憶えつつある。
 
最初からこの状態だったら勝ち目はなかったかもしれないが、もうすでに残りは4体。なんとかなるだろう。
 
 
ソニックグレイブを引き抜いて、白いエヴァたちに向かって駆け出す。
 
今までの傾向から距離を置くと思ったのだろう。いささか反応が鈍い。
 
S2機関を全開。さらに光の翼を展開する。
 
物理的にダウンフォースを得るのにも使うが、目的はコンデンサ代わりにエネルギーを蓄えることだ。これまで、必要以上に初号機の力を見せないようにしてきたが、もうなにを憚るでもない。
 
 
大剣を構えて、受け止める体勢の【#8】。包囲しようと展開する3体。 
 
ソニックグレイブを叩きつけるように見せておいて、疾走の勢いそのままに双手刈り。その背後に展開したディラックの海へと諸共に飛び込んだ。
 
 
唐突に無重量状態に放り込まれた量産機が、途惑って手足をばたつかせている。たちまちバランスを失って複雑なスピンを描き出した。
 
白いエヴァから離れないように、左腕をその右腕に絡ませる。
 
エネルギーを溜め込んだ光翼と引換えに造り出した空間はさして広くないが、一旦離れてしまうと近づく手段がなかった。ディラックの海を展開している間は、ATフィールドを使えない。虚数空間を内側から支えなければならないからだ。
 
ソニックグレイブを短く握りなおして振りかぶると、石突きがATフィールドを叩いた。こうまで密着した状況でATフィールドを割り込ませられるほど器用ではなかったらしく、初号機ともども取り込んでしまったのだろう。
 
だが、テイクバックが充分に取れなかった分、刺さりが浅い。
 
そのまま胸郭を切り裂いて、直接コアを握りつぶそうとしたところでディラックの海が鳴動した。
 
まさか。と思う間もなく、第3新東京市に引き戻される。【#8】を下敷きに、覆いかぶさった体勢。回復したヴァーチャルディスプレイが、周囲を3体のエヴァに取り囲まれていることを教えてくれた。
 
それぞれが同心円状に輝く光の壁を捧げている。アンチATフィールドか。
 
よもや、こんなに早くディラックの海を破られるとは。
 
量産機の学習能力は、急速に成長しているらしい。
 
…かつて、3人が戦っているところを見た限りでは、これほどの強敵ではなかったと思う。S2機関を搭載して、回復力が高いこと以外、特筆するような相手ではなかったはずだ。
 
これもまた、私の判断ミスの結果。何かの反作用なのだろうか? …可能性は高い。
 
 
どうすべきか。その逡巡を見逃してくれるほど甘くはないようだ。組み敷いてた【#8】に喉笛を掴まれた。両手で絞められたらたまらなかったが、右腕を封じておいたお陰で左手のみ。それに、かけられた握力の割りに息苦しさがない。狙いは足止めなのだろう。
 
アンチATフィールドを解除し、白いエヴァが同時に3方から斬りかかってきた。
 
とっさに【#8】の右半身の下に重力遮断ATフィールドを敷いてバランスを崩させ、ぐるんと体勢を入れ替える。
 
身代わりに差し出した【#8】の体に、衝撃。ほぼ同時だったらしく、1度だけ。
 
見やれば、その肩口に一振り、切っ先が食い込んでいた。
 
残る2本はおそらく左脇腹と右脚を斬り付けたのだろう。だろうと云うのは、この体勢では見えないということと、右脇腹と左脚が痛いからだ。
 
【#8】の体の下から這い出て、右脚一本で跳ねて距離を取る。
 
追撃とばかりに投げつけられた大剣を、ATフィールドで止めた。途端に形を変え、ロンギヌスの槍となってフィールドを貫こうとする。
 
ATフィールドを折り重ね。角度をつけて切っ先を逸らす。その間にもう一度横に跳ねた。
 
ロンギヌスの槍はベクトルを逸らされた上に、小規模遠隔展開した囮のATフィールドを追いかけて飛び去る。あの勢いなら大気圏突破もありうるだろう。月で、オリジナルと仲良くするといい。
 
 
気付けば、兵装ビルから発射されたミサイルが、続く追撃の出鼻を挫いてくれていた。ジオフロントのほうはまだケリがついてないだろうに、無理してなければいいのだけれど。
 
 …
 
S2機関で発生させたエネルギーを細胞分裂に廻して、初号機の治癒を促進する。
 
プラグ内を、赤く血液がたなびいた。脇腹と太腿の切創から出血しているらしい。幸い、深手ではなさそうだが。
 
残念なことに、この肉体にはS2機関のエネルギーを利用できる細胞の持ち合わせがない。初号機の影響で通常より早く回復しているかもしれないが、ヒトの細胞の分裂速度には限りがある。
 
 
視線の先で立ち上がる【#8】。その傷は、ほとんど塞がっていた。
 
どんな策を講じても、即座に対応される。このうえロンギヌスの槍まで持ち出されては、いずれ追い詰められるだろう。初号機はともかく、私の体力が保たない。なにより、量産機どもがエヴァの枠内で戦っているうちにけりをつけなくては。
 
  …
 
できればやりたくなかったが、この肉体を溶かして初号機と完全に一体化するしかないだろう。
 
ヒトの精神の枠を保ったままでは、初号機の能力を引き出しきれない。理論上は、己のATフィールドを展開したままで相手のフィールドを中和することすら可能なのに。
 
ヒトの心の箍を外し、使徒としての初号機を呼び覚ますのだ。
 

 
さあ、いくよ。初…
 

 
今まさに、自我境界線を消し去ろうとした瞬間、第3新東京市が震えた。ジオフロントから突き上げてくるような揺れ。
 
「なに…?」
 
  『 弐号機、起動! 』
 
その報告の意味が沁みこむ前に、
 
   『負けてらんないのよぉ!アンタたちにぃ!』
 
発令所経由のその雄叫びは、…アスカ!?
 
  『どおぉりゃああああああ!!』
 
またもや第3新東京市を微震が襲う。
 
量産機も、なにやら不穏な空気を察したらしい。動きが止まっている。
 
駆け寄りながらナイフを装備。手近な【#1】に斬り付け、【#8】と【#2】の間にダイブ。ソニックグレイブを掴み取って前転。立ち塞がる【#4】を殴り倒して駆け抜けた。
 
   『ミサトっ、早くっ!』
 
  『21番射出、急いで!』
 
ヴァーチャルディスプレイに弐号機の出現位置。案の定、さっきまでの初号機付近。今は量産機の背後を突く位置だ。
 
振り返り、量産機に向かってナイフを投げる。こちらに注意をひきつけねば。
 
ロックをかけてなかったらしく、弐号機がリニアカタパルトの勢いそのままに上空へと跳ね飛んだ。そのまま鉛直に落下するかと思えば、あにはからんやこちら目掛けて跳び蹴りの体勢。どうやらATフィールドで誘導しているらしい。
 
ぎりぎりまでひきつけて、量産機のATフィールドを中和しながら跳び退く。
 
背後から【#1】を蹴りつけた弐号機は、【#8】を捲きこみ、【#2】を跳ね飛ばし、起き上がろうとしていた【#4】を轢き倒して外輪山の山頂まで遡った。
 
…なんだか、かつての分裂使徒戦を彷彿とさせる光景だ。
 
 
「アスカちゃん、とどめを刺して!」
 
投げつけたソニックグレイブを、振り返りもせずに弐号機が掴み取った。
 
『任せなさい』
 
【FROM EVA-02】の通信ウインドウのなかで、アスカのサムズアップ。座っているのはタンデムエントリープラグ。後席に着いたキョウコさんが眉を顰めているところを見ると、意識を取り戻したらしい。
 
自我境界線を乗り越え、エヴァから帰還してきたキョウコさんなら、弐号機を直接制御できる。そのキョウコさんをコアに封じた人格になぞらえて、アスカは間接的に弐号機を操縦しているのだろう。
 
 
 『 16番にスマッシュホーク、出ます 』
 
武器庫ビルからスマッシュホークをひったくって、起き上がろうとする【#4】を斬り上げる。
 
上半身を浮かせた量産機のコアを軸足で蹴りつけ、返す刃でスマッシュホークを振り下ろした。
 
『10時の方向』
 
ミサトさんの声に視線をやると、捕獲用ワイヤで絡め獲られた【#2】の姿。どうやら、ジオフロントの方はカタがついたらしい。
 
力づくでワイヤを引きちぎろうとする量産機めがけ、スマッシュホークを投げつけた。ATフィールドで誘導しつつ、直前でフィールド中和に切り替える。
 
防げるつもりでにやついたその顔を半ば割り断って、スマッシュホークが突き立った。
 
助走をつけて、跳ねる。
 
全質量と重力加速度の全てを蹴り脚に載せて、叩きつけるのはスマッシュホークの峰。装甲を施されていない量産機の、その体を両断した。
 
 
見やれば、こちらより僅かに早くケリをつけたらしい弐号機が、こちらに駆け寄ろうとした体勢を解いて腕を組んだ。なんだか、憤懣やるかたない様子。
 
…アスカはおそらく、暴れ足りなかったのだろう。
 
 
                                         つづく



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC 最終話
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:47


横抱きに抱えていた初号機を、足元に下ろす。
 
全てにケリをつけるために、ターミナルドグマに降りてきた。
 
 
見上げるのは、磔けられた白い巨人。リリス。
 
弐号機の視点では、僅かに顎を上げることのほどもないけれど。
 
 
…………
 
 
戦略自衛隊も白いエヴァも退けたネルフは、ゼーレの告発に出た。
 
 
支配下に置いたコピーも含めて6台のMAGIは、世界中のコンピュータを掌握するに充分だ。あらゆる映像や資料を、ネルフに都合の良いように取捨選択してネットに流す。その伝播経路の誘導、与える資料の重要度の選別も込みで。
 
国連もゼーレも、そのさまを指を咥えて見ているしかなかっただろう。
 
状況開始のエンターキーを嬉々として押し、モニターの照り返しの中、終始口の端だけで笑っていたナオコさんがちょっと怖かったけれど。
 
 
放送衛星・通信衛星を用いた全域放送も検討されたが、ゲンドウさんが嫌がった。そんなタマではないと言うのだ。反応が読みづらいからと諜報部が反対を表明したのが、なんだか怪しい。
 
歴史に残る演説になるだろうからと、リツコさんと額を突き合わせて考えたのに。
 
 
 
第3新東京市の決戦から一週間。もともと所在のはっきりしなかったゼーレのメンバーは、まだ見つかっていない。そのまま行方をくらましたようだ。
 
国連で主導的な国は、ゼーレとのつながりも太い。たちまち槍玉に挙げられ、収拾には時間がかかるだろう。
 
だが、それらはヒトの諍いだ。時間をかけて、ヒトの力で解決していけばいい。
 
 
 …
 
国際法廷の準備に、ネルフのトップ2人とリツコさんが第2新東京市に乗り込んでいる。それぞれの護衛として、ミサトさんと加持さんも一緒だ。
 
そちらは心配ない。ゲンドウさんはすべてを告発する前に、ゼーレに騙された被害者としてのシナリオを日本政府にちらつかせていた。それ自体はあながち虚構でもなかったみたいだが、ネルフ側の思惑ひとつでゼーレの傀儡政府だと見做されかねない現状では、乗らざるを得ない船なのだ。…たとえ泥舟だったとしても。
 
日本政府と戦略自衛隊は、自らの保身のために全力で2人を警護するだろう。
 
 
…………
 
 
できれば、もっとこの世界に居たかった。
 
シンジを、レイを、…そしてアスカの成長を見守りたかった。皆の幸せを見届けたかった。
 
だけど、ほかの世界に背を向けてこの世界に居残れば、それは逃げになる。逃げた先で見つけた幸せに固執すれば、あとでどれほど後悔することになるか計り知れない。
 
それに、ことが落ち着いて国連軍などが駐留することにでもなれば、おいそれとターミナルドグマには踏み入ることができなくなるだろう。リリスを殲滅する機会を逸することになる。
 
だから、本部棟をナオコさんに任せて、こうして降りてきたのだ。
 
 
リリスを、かけられた仮面の、意匠化されたヤハウェの目を見上げた。
 
…ずっと、気になっていたことがある。
 
なぜ、白き月の巨人がアダムと呼ばれ。黒き月の巨人がリリスと呼ばれるのか。だ。
 
聖書になぞらえて我々の始祖とするならば、黒き月の巨人こそアダムと呼ばれるべきだろう。だが実際に与えられたのは、アダムに逆らった女の名だった。聖書においてはイザヤ書でただ一言、夜の魔女とだけほのめかされた悪魔の名である。
 
最初に南極で白き月の巨人が見つかった時、それがアダムだと思ったから。というなら、間違いだと気付いた時点で訂正してしかるべきだ。ほかならぬ、神の名なのだから。
 
それを良しとしなかった、理由があっていい。
 
アダムとリリスは、同一の存在によって撒かれたとされる。その差異は恐ろしく少なく、生み出される生命の方向性だけだ。
 
命の実をもつ単体生命か、知恵の実をもつ群体か。
 
いまさらどうしようもない事実を敢えて無視して、それでも白き月の巨人こそを神と崇めたのは、ゼーレが白き月の使徒として生まれたかったからではないだろうか。命の実をもつ、単体生命として。産みの親たる黒き月の巨人を否定してでも。
 
 
自らの創造者を肯定して、なおかつこの世の不条理を否定する。そういう思想に一つ、心当たりがあった。
 
 
グノーシス主義
 
この宇宙が、ヒトの人生が苦しみに満ちているのは、この宇宙が紛い物だからだという。
 
どこかに【真の神】が存在し、死も苦しみもない【真の世界】が存在するはずだと説くのだ。
 
【真の神】から秘法を盗んで【悪の宇宙】を作った【偽の神】の正体を暴けば、ヒトは【真の世界】へ招かれるだろうと予言する。
 
 
アダムを見つけ、リリスを見つけ。その正体に気付いた者には、啓示のように鳴り響いたことだろう。
 
我々は、ニセモノの神に造られたのだと。
 
 
不幸なことに、目覚めさせてしまったアダムは暴走させて消し去るしかなかった。そうしなければ、人類は問答無用で粛清されてしまうのだから。
 
だが、ゼーレは【偽の神】の正体を暴くべく、その方法を模索していたに違いない。もちろん【悪の宇宙】の住人として一緒くたに消し去られぬように、【真の神】へ語りかける方法をも。
 
おそらく人類補完計画は、その意に叶う部分があったのだろう。
 
 
ゼーレが具体的に何をなそうとしていたか、それは判らない。
 
だが、その手を直々に下した二つの事例から、想像することはできる。
 
 
一つは、リリス、あるいはその分身たる初号機を以って遂行されるサードインパクトだ。
 
重要なのは、リリスで執行するにはロンギヌスの槍が必要不可欠だったことだろう。
 
つまり、行われようとしていたのが、リリスだけで発動する純粋なサードインパクトではなかったということだ。初号機で行うなら、槍は不要だったのだろうから。
 
限定された。あるいは歪曲されたサードインパクトは、何を狙ったものだろうか?
 
 
サードインパクトで、もたらされたモノ…
 
赤い海
 
巨大な綾波
 
 …
 
あの赤い海に水漬く、巨大な綾波の残骸。あれはもしかして、人類によって告発されたリリスのなれの果てではないだろうか?
 
【偽の神】として最も親しき者に裏切られたのだとしたら、その最期はロンギヌスの槍で処刑されなければならなかったのだろう。ゴルゴダの丘のように。
 
では、裏切り者の末路は?
 
マタイによる福音書や使徒行伝に従うなら、死だ。リリスを否定して、原始のスープへと還元したあの赤い海が、人類の死の姿だった。
 
…なるほど。神も人も、全ての生命が死を以って、一つになるのだろう。
 
 
もう一つが、ゼーレから送り込まれてきたカヲル君だ。
 
その出自から考えると、あの姿が第17使徒としての彼の本来の姿ではないように思う。ゼーレによって与えられた姿だったのではないだろうか。
 
それが、ネルフに送り込むための擬態のためだけとは思えないのだ。
 
ゼーレが、アダムとその使徒によるインパクトを望んでいたとは思えないから、やはり彼は斃されるべくして送り込まれたのだろう。
 
しかし、どうせ斃さなければならないのなら、わざわざヒトの姿にする必要がない。
 
彼をヒトの姿にした理由があるはずなのだ。
 
 
ヒトの姿を得たカヲル君が、他の使徒と違うとすれば、それは自ら滅びを選んだことだろう。
 
ヒトの心を知ろうとした使徒は居たが、感情移入することを知り、自らの孤独に気付いた使徒はカヲル君だけだった。彼の心こそ、ガラスのように繊細だったのだ。
 
ヒトの心を持った使徒。それは、ゼーレの目指した理想のひとつだったのではないだろうか?
 
 
私は想像する。
 
何もかも滅びたあの赤い海で、何億年もの眠りから目覚めたアダムは何を思うのだろうかと。
 
自らが産み出した生命は全て斃され、あまつさえそのうちの一つは歪められてココロを持ち、恐るべきことに自ら命を絶った。赦されざる背徳を犯して。
 
歪められたとはいえ自ら命を絶った吾が子を、どう思うだろうか。
 
心というモノを産み出したリリスの仔らを、どう考えるだろうか。
 
赤い海に溶け込んだヒトの心を、どう捉えるだろうか。
 
ココロというモノを、どう感じるだろうか。
 

 
あくまでも、これは想像に過ぎない。
 
だが、アダムが群体の使徒を生み出す可能性はあるだろう。生命の実と知恵の実を併せ持った、新たな使徒を。今の人類が何億年も繁栄するよりも、新たな生命が発生するよりも、遥かに高い確率で。そう、オーナインくらいには。
 
もしそうなればアダムに従った者は最後の審判を免れ、永遠を生きる神の国へと迎え入れられたことになるのだろう。
 
神を贖って得た銀貨30枚を賭ける程度の、価値はあるかもしれない。
 
 …
 
だが、それは。道を譲ってくれたカヲル君の想いを踏みにじる選択だ。
 
だから、否定しよう。
 
永遠の生は、永遠の死と同義だ。
 
自分が生きて得るものと、自分が死して遺されるものを比較して、だからこそカヲル君は死を選んだのだ。
 
自らを殺すことなく、人類も滅ぼさず。その選択肢があったからこそ、この世界のカヲル君は旅立つことを選んだ。
 
カヲル君の孤独を想像するしかないように、どのような容であれヒトは生きることに悩むだろう。死を知らぬ体になれば、なおのこと。…永遠に。
 
ならば、生きて生きて生き抜いて、精一杯生きて、そして滅べばいい。
 
人は、生きていこうとするところにその存在がある。つまり、生が貴重で特別な状態だからこその人間なのだ。
 
死を身近に感じてこそ、生きていくことの何たるかを、ヒトは求めるのだから。
 
 
…………
 
 
基本的に、設備の整った野戦病院に過ぎないネルフの医療部には、足りないものがたくさんある。
 
例えば、リハビリ施設がその代表格だ。
 
だから今、武道場の一角は臨時のリハビリ施設になっている。
 
 
上がり框からそっと中をうかがうと、歩行訓練に励む母親を懸命にアスカが支えていた。
 
 
昏睡状態からいきなり弐号機を直接制御してしまったキョウコさんは、無理がたたって健康を損なってしまった。肉体を動かす経験を奪われてしまい、なかば半身不随になってしまったのだ。
 
しばらくは療養とリハビリを続けなければならないだろう。
 
 
バーを掴みそこなって転びかけたキョウコさんを、見事な体捌きで廻り込んだアスカが受け止める。
 
 …
 
心底申し訳なさそうに顔を伏せて、いったい何をアスカに詫びているのだろう。叩いたと言っていい勢いで母親の両頬を挟みこんで、娘は何を訴えかけているのだろう。
 
 
失った10年を取り戻そうとでもするかのように、母娘が抱き締めあった。
 
奪ってしまった歳月は返しようもないけれど、せめてこれから幸せに暮らしてくれれば…
 
 
初号機の廃棄処分に、弐号機を使う。そのことをアスカに断わろうと思って来たが、割り込むのはあまりに無粋だった。
 
私が弐号機との接触実験を行うことは特に秘密でもなんでもないのだから、それまでに文句をつけに来なかったことこそを承諾の意と受け取っておけばいいだろう。
 
 
…………
 
 
弐号機の乗り心地は、奇妙と言うしかない。
 
変質してしまって切り捨てるしかなかったキョウコさんの心と、奪い返した運動への記憶を合わせた…穴だらけのパッチワークのようなコア。そのココロ。
 
直接制御と間接制御を足して、ばらばらに間引いたような操作感とでも云おうか。
 
今も、充たされきれない飢餓感をもって忍び寄ってくる気配があるが、それに取り込まれるような私ではない。
 
 
 
改良型プログナイフを抜いて、その刃を繰り出した。
 
この世界に禍根を残さぬよう、リリスは殲滅しなければならないのだ。
 
リリスがある限り、ゼーレはサードインパクトを諦めないだろう。今もどこかで虎視眈々と機会を窺っているに違いない。
 
 
当然のことに、その分身たる初号機も置いては行けない。まずは、こちらの処置だ。
 
跪き、その胸部装甲を剥がすためにナイフを差し入れようとした途端、手首を掴まれた。同時、視界が切り替わる。
 
オレンジ色の水面と赤い空。いつもなら不自然なまでにまっすぐな水平線が、嵐のような荒れようだ。
 
…これは、いったい?
 
一瞬、弐号機の心の中かと思ったが、この荒れようが解からない。
 
気付けば、水面に立って幼い男の子がこちらを睨んでいた。
 
シンジ…?
 
いや、私のこの心を映したのだろう。ヒトと接触するための容をとる。そこまで心を成長させているとすれば、ここは初号機の心の中だ。
 
おそらく、ATフィールドを反転させて私の心を引き寄せたに違いない。
 
 
  〔 ナ ゼ 〕
 
この感じ…
 
 初号機が、…怒っている?
 
自らの思考を整理して言葉にするには、まだ経験が足りないのだろう。舌っ足らずな感じすら、きっと私から受け継いで…
 
怒ってることは解かるし、何かを訊きたがってるのも解かるが、何に怒っていて、何を訊きたがっているのかが判らない。
 
 
  〔 ス テ ル 〕
 
私が返答に困ってることをかろうじて察したらしく、言葉を足して。
 
  〔 ヤ メ ル 〕
 
他者との関係の上での個我は、さすがにまだ発達してないらしい。自身がすべてである使徒なのだから、当然だろうけど。
 
  〔 ケ ス 〕
 
畳みかけるように訴えかける初号機は、言葉が通じてないと知って、顔を歪ませた。
  
実際にエントリーをせず、反転したATフィールドによって寄り添っている今、お互いの心の距離は意外に遠い。言葉の力を使わなければ、意志を伝えられないほどに。
 
それは、使徒には耐え難い隔たりなのだろう。シンジの姿をした初号機が、へたり込んで泣き出した。現実の聴覚を揺るがしたのは、暴走まがいの咆哮だけど…
 
自らの思いを表現できないことを悲しむほどにまで、心を成長させていたとは。
 
…寄り添って、抱きしめる。
 
 
この世には、たった1種類だけ、超能力を使える者が居る。
 
言葉を交わさずとも吾が子の心を受け止めることのできる、母親という名の魔法使いが。
 
この世界に来て。シンジの、レイの母親として過ごした私にも、きっとその力が降り積もってる。
 
エヴァンゲリオンとしてではなく、1人の子供として見れば、その心も読み解けるだろう。
 
 …
 
 
幼子の怒りは、外界を理解できない自らの内面から生じるものだ。そのほとんどが、もっとも近しい母親に起因する。
 
私に原因があるとすれば…、
 
 
そうか、私が弐号機に乗ったから、嫉妬したんだね。
 
その上でナイフなんか持ち出したから、捨てられた、殺されると思ったのか。
 
「ごめんね、初号機」
 
君にはまだ理解できないだろうと思って、勝手に事を進めようとしてしまった。
 
「捨てないよ」
 
  〔 ホ ン ト 〕
 
答える代わりに、弐号機に取り込まれるぎりぎり寸前にまで自我境界線を緩める。使徒である初号機には、この方が理解しやすい。子育てとしては反則だけど、今回限り。
 
抱きしめ返してくる小さな腕に力が篭った。と感じた瞬間、視界が戻ってきた。
 
 

 
 
横たえていたはずの初号機の姿がない。
 
見上げる先、リリスに対峙するように紫色の背中。
 
 …
 
初号機が、独りで動いている!
 
そういえば、先ほども弐号機のナイフを押しとどめた。なにより憑依使徒戦時、暴走した初号機は私の援けなしに行動していたではないか。
 
成長は、その心だけではなかったらしい。自分で自分の体を使えるまでに、なっていたんだ。
 
 
そうして私の意を汲んで、採り得なかった最善の道を歩むために、リリスの前に立っているのだろう。
 
 
…自らの意志で、私について来てくれると言うんだね。
 
「…ありがとう」
 
 
顔だけで振り返って、初号機が口を開く。基本的にコミュニケーションの必要がない使徒に発声器官はないけれど、その口がなにを紡ごうとしているか不思議と解かった。
 
  〔 ド ウ イ タ シ マ シ テ 〕
 
 
頷いて見せた初号機が、リリスに相対する。
 
その右手が、体の陰に消え…
 
めりめりと音をたてて引き剥がしているのは、その胸部装甲だろう。見えなくとも判る。
 
やがて打ち捨てられた装甲板が、リリスの体液の水面に大波を引き起こした。岸壁を乗り越えて、弐号機のつま先を濡らす。
 

 
決意を研ぎ澄ますような、沈黙。
 
 …
 
その右手が、再び体の陰に消える。
 
 
初号機が、吼えた。
 
ぶちぶちと、身の毛のよだつような音とともに抉り出された、初号機のコア。…痛いだろう。苦しいだろう。今の初号機は、きっと痛みを感じることが出来る。
 
「ごめん。ごめんね、初号機」
 
放つ光と熱が、その右手を焼け爛れさせていった。
 
私が乗っていては、心臓を抉らなければ再現できない動作。借り物のこの肉体を損なうわけにはいかなかったから、弐号機で行おうとした作業。
 
 
その苦しみを独りで引き受けて、初号機が己がコアを磔刑の巨人に打ち込んだ。
 
水面が何物をも拒まぬように、リリスの体表をさざなみが伝う。
 
 …
 
弾かれるようにのけぞった初号機の右腕に、手首から先がない。
 
途端にリリスが発した光の奔流は、物理的な衝撃すら伴って、視界を真っ白に染めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                         
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
暴力的な光圧が収まるのを感じて、まぶたを開く。
 
 
リリスの足元には、その体液に水漬く1万2千枚の特殊装甲。この世界での身体をLCLに還元して、初号機が旅立ったのだ。
 
 
 
取り落としかかっていたプログナイフを、握り直す。
 

 
手応えが、…なんだか鈍い。弐号機との間に薄皮一枚挟まったような、もどかしさを覚える。まるで、チルドレンとしてシンクロしていた時のような、隔てられた感覚…
 
だが、悩んでる暇はない。
 
間接制御の操作感覚を思い出しながら、特殊装甲を掻き分けるようにしてリリスの前に。
 
 
 …
 
リリス、我らが水源よ。
 
貴女から流れ出た雫は、まだかろうじて自らの力で流れを形作っていけるだけの勢いを持っている。
 
だけど、貴女が居ては、流れ着く先はあの赤い海になってしまうだろう。
 
それは、始祖たる貴女にとっても不本意であるはず。
 
だから、今は眠って欲しい。すべてを見通すその7つの目を瞑り、再び生命が目覚めを必要とするその時まで。
 
 
 
その仮面に斬りかかろうと振りかざしたナイフが、手の内からすっぽ抜けそうになる。弐号機に、私の意志が伝わりづらい。それは、シンクロ率を大幅にカットされたときの感覚にも似て…
 
いや、違う!インダクションレバーを握る、この手そのものからも力が抜けていく。
 
 
初号機の反転ATフィールドから戻ってきて以来、まとわりついている違和感。それが、弐号機との間ではなく、この身体そのものとの間にこそ生じていることに今、気付いた。
 
私の心と、この身体の間に乖離が生まれつつある。
 
この感覚には、憶えがあった。葛城ミサトの肉体から離れたときのものに似ているから。だけど、まだリリスを殲滅してないのに…
 
 
いや、考えている暇などない。このまま体の自由を失ってしまっては、この世界に禍根を残してしまう。
 
力を篭めやすくするために逆手でナイフを掴みなおし、柄尻を左手で支えながらリリスの仮面に突き立てる。捻って刃を折って、テイクバックを取りながら替え刃を装備。
 
その胸に刃を突き立てると、勢い余ってナイフを握り潰してしまった。…もう、力の制御も覚束なくなってきている。
 
爆発に備えて身構えようとする動作が、絶望的に遅い。
 
 
爆炎に煽られて、弐号機が吹き飛ばされた。体勢が悪かったのか転がりに転がって…もう、ATフィールドが展開できなくなっている。いや、すでに痛みすら感じなくなってきていた。
 
 
視界がぶれて、狭くなっていく。
 

 
!?
 
もう動かないはずの、動かせないはずの、右手の人差し指が跳ねた。
 
この唇が、私の意図に拠らず、言葉を紡ごうとしている。 …もう聴こえないけれど。
 
 
かつて、心を閉ざしたミサトさんは、私の心を知ることで目覚めたという。
 
もしかして母さんも、…母さんの身体も、私の心に触れて、その心を甦らせようとしている?
 
 
…そうなら。もしもそうならば、私の心残りはすべて任せよう。
 
 
  シンジ
 
  レイ
 
  アスカ
 
    …そして、…      
 
   
      このヒトが居るから、サヨナラは言わないよ。
 
 
 
 
 
 
……










  
****



 







……



 
 
 
波の音にまぶたを開くと、海が、…赤い。  
 
 
「おかえりなさい」
 
背後からかけられた声に振り返るのをためらったのは、それが綾波の声ではなかったから。
 
「…シンジ?」
 
見下ろす体は本来の、自分の姿。だから、背後に居るのは…
 
「…母…さん」
 
しゃりしゃりと砂を踏んで歩み寄ってくる気配に、体をこわばらせる。
 
「どうして顔を見せてくれないの? …母さんのこと、やっぱり赦せない?」
 
かぶりを振った。
 
「…そんなことはない。そんなことはないよ」
 
エヴァにかかわることが不幸でしかないのだとしたら、その最初の犠牲者はやはり母さんだっただろう。覚悟があっただろうことは解かっていたが、そこに至る経緯をも知った今、安易な非難などできるはずもない。
 
 
起こさざるを得なかったセカンドインパクトの後、一番の問題は、いつ使徒が現れるか判らないことだった。
 
セカンドインパクトは、あくまでイレギュラーな事態だ。当然、裏死海文書にもそのようなケースの記述はない。
 
…手懸りはないのに、不安要素はあった。
 
たとえば、人間が書いた文章や記録といったものには、かならず時系列が意識されている。ところが裏死海文書には、時間に関する記述が一切ない。そのくせリリスがファーストインパクトを起こしてから、その使徒たる人類が現れるまでに35億年を要した。アダムやリリス、あるいはそれらを産み出したモノにとって、時間など意味がないという証拠ではないだろうか?
 
それが、単にタイムスパンが長いだけだと一蹴は出来なかった。命の実を持つ単体生命を、出来損ないの群体と同じように扱ってよいか判らなかったのだから。
 
ただ、南極で目覚めたアダムが即座にインパクトを起こそうとしたことからすると、楽観視は出来なかっただろう。使徒のコピーたるエヴァが、比較的短期間のうちに素体まで構成できてしまったことも不安を後押ししたに違いない。
 
 
いつ襲来するか判らない使徒に対抗する手段を模索していた母さんの決断が、苦渋に満ちていたことを…僕以外の誰が解かってあげられるだろうか。あれほど母さんを愛していた父さんですら、補完計画を提唱することでその想いを踏みにじってしまったというのに。
 
 
じゃあ…。と踏み込んできた母さんから、逃れるように一歩。…赤い波が靴を洗う。
 
「…非難されなきゃならないのは、僕だ」
 
初号機ごと見殺しにしたことも、結局父さんに罪を犯させてしまったことも。…とても顔向けできない。
 
「私が怒ってると、思ってるの?」
 
「…だって」
 
嘆息は、しかしやさしく。
 
「私の心を知ったなら、私が今どう思っているかも、解かるでしょう?」
 
ちらり。と盗み見た母さんは、40間近とは思えない若々しい顔をほころばせていた。…いや、キョウコさんと同様に母さんの時間も、初号機に取り込まれてから止まっていたんだろう。
 
その若さこそが母さんの糾弾ではないかと怖れていたのに、母さんの笑顔が嬉しくて、涙腺が緩む。
 
「あなたが育てたシンジが、世界を救うためにあなたを殺したとして、あなたはそのシンジを恨む?」
 
かぶりを振る。
 
でしょう? と肩にかけられた手に促され、振り返った。
 
「それが、親ってモノなの」
 
実に嬉しそうに、母さんが微笑んだ。僕が逃げた分の一歩を詰め、抱きしめてくれる。
 
「そのことを、シンジはもう知っているでしょう?」
 
 …
 
なにものをも憚ることなく、素直に涙が流れた。それが、母親という存在の大きさかもしれない。
 
 

 
 ……
 
ようやく落ち着いて、ゆっくりと体を引き離した。手の甲で涙をぬぐう。
 
「母さんも、手伝ってくれるの?」
 
予想に反して、母さんはかぶりを振る。
 
「私はここに残って、この宇宙そのものを再生させる道を探すわ」
 
「できるの?」
 
きっと方法はあるわ。と母さん。
 
「ヒトの数は20億。その心を知れば、この宇宙は甦る。そうレイちゃんに言われたのでしょう?」
 
母さんの視線の先に、綾波。いつから居たのか、すこし距離を置いて。
 
「それは、コップ一つで海を掻き出すようなものね。確実で、無理はないけど…」
 
とても大変だから。と、眉根を寄せて。
 
「シンジがキョウコさんの心を写したように、全ての心を写す方法があると思うわ」
 
なるほど。リリスの力なら、それは不可能ではないだろう。
 
だが、大掛かりにやれば、他の世界への干渉を増やすことになる。下手をすれば複写元の世界を滅ぼしかねまい。
 
だからこそ最低限度の干渉方法として、綾波は僕を送り込んでくれたのだろうから。
 
母さんの手招きに、綾波が近寄ってきた。その手に、一株の紫陽花。
 
「それに、シンジを手伝ってくれる人は、もう居るんでしょう?」
 
「そのとーりっ!」
 
いきなり背中をどやしつけられて、息が詰まる。
 
「シンちゃん、おっひさ~♪」
 
すかさず僕の首根っこを抱え込んだミサトさんが、綾波から引っ手繰った紫陽花を突きつけてきた。
 
「見て見て、シンちゃ~ん」
 
近すぎて見えません。
 
「2つもサードインパクト防いじゃったんだからぁ♪」
 
ようやく開放してくれた。
 
見ると、確かに紫陽花の花が増えている。併せて、4つになった小さな花弁。
 
「聞いてよシンちゃん。レイったらヒッドイのよ~。
 最初は手慣らしだからってアタシ自身に放り込んでくれたのはいいんだけど、向こうのアタシにも意識がある世界だったから、まるで二重人格みたいでホ~ント大変だったんだから~」
 
そうか。あまり気にしてなかったけど、意識のある人物に取り付くとそんなことになるんだ。
 
悪霊みたいに思われるわ、精神鑑定は受けさせられるわ。と、ぶちぶち。自分自身と口論したとすれば、ずいぶん苦労したんだろう。
 
 …
 
…綾波の口の端が2ミリほど上がっている。狙ってやったんだね…
 
 
「それでね…」
 
ミサトさんが救ったもう一つの世界のことは、聞くまでもなかった。心の奥底に、僕の知らない碇シンジの記憶が注がれるのが判ったから。
 
 
ミサトさんは、その世界で僕になったらしい。
 
第3使徒戦で重傷を負い、植物人間になった碇シンジに。
 

 
僕と同様に結構酷い目にあったようだけど、碇シンジが前向きなだけで、どれだけ結果が違うかということの見本のような世界だった。
 
やはり、この世界を滅ぼしたのは…
 
「シンちゃん…」
 
僕の表情をどう受け取ったのか、ミサトさんが辛そうだ。
 
「アタシ、シンちゃんに…」
 
言い募ろうとするミサトさんの唇を、そっと人差し指で塞ぐ。
 
お互いに、お互いの心を知ったのだ。いまさら、どんな言葉が必要だというのだろう。
 
だから、かぶりを振った。
 
それだけで理解してくれたのだろう。ミサトさんが涙ぐみながら頷いてくれた。
 
 
「いいねぇ。言葉はリリンの力。なのに、その力に頼らずともお互いを理解できる。絆はリリンの本質だね」
 
振り返ると巨大な影。このシルエットは初号機か。
 
差し出された掌に腰かけて、カヲル君が微笑んだ。
 
カヲル君も初号機も、それぞれにリリスを使ってここに来たのだろう。
 
「え? え? ええっ!?」
 
事情を呑み込めない様子のミサトさんが、困惑顔を往復させている。
 
砂浜に降り立ったカヲル君が紫陽花を指さすと、花弁が一つほころんだ。
 
「及ばずながら、ひとつ、宇宙を看てきたよ」
 
サキエルが木星のアンモニアの海を気に入ったようでね。とカヲル君が、指折り数えて使徒たちの落ち着き先を教えてくれる。
 
惑星ごとだとすると数が足りないんじゃないかと思っていたら、気ままに太陽系内を飛び回っているのとか、太陽の中でお昼寝しているのとか、MAGIの中からリツコさん相手にチューリングゲームしてるのとか、孫衛星気取りで月の衛星軌道を巡っているのとかも居るらしい。賑やかなことだ。
 
 
「…つぎは、だれ?」
 
小首を傾げるように、綾波。
 
次に、誰の心を知るべきか。それについてはずっと考えていた。あいまいな希望だけでお願いすると、綾波はとんでもない選択をしてくれるし…
 

 
 …
 
 ……
 
あれ? 綾波がなにか言ってくると思ったんだけど…
 
見れば、じっと僕の言葉を待っている。僕の心を見透かしている様子はない。
 

 
きっと綾波にも、思うところがあったんだろう。みだりにヒトの心に立ち入るべきではないと、学んだのだろう。
 
嬉しさに口元が緩んだのを、不思議そうに見つめている。
 
実を言うと、綾波の心もちょっと知ってみたいなんて思っていたのだけれど…、綾波を見習って胸の裡にしまっておこう。ヒトの心を直接知るなんて裏技を使わなくても、綾波とは想いを伝えあっていけると思うから。
 
自分の考えを確認するように頷いて、綾波の視線に応える。
 
次に知るべき人の名を告げようと口を開いた。その時、
 
「ワタシは外しなさい」
 
唐突にかけられた声に、驚いて振り向く。
 
「ハロゥ、シンジ。元気してた?」
 
サンライトイエローのワンピースもまばゆく、アスカが仁王立ち。
 
「アスカ!?」
 
「そうよ? まさか、このワタシを見忘れた?」
 
そんなわけない。と言おうとして口を開いた瞬間、風が捲いた。
 
とっさにまぶたを閉じるけど、…この世界に、風? ワンピースの裾を捲り上げるような?
 
おそるおそるまぶたを開くと、間近にアスカの顔。思わずのけぞる。
 
「アンタも成長してるみたいじゃない」
 
よしよし。と言わんばかりに肩をぽんぽんと叩かれる。そのままふいっと横をすり抜けたアスカが、ミサトさんの手から紫陽花を抜き取った。
 
綾波が微妙に視線を外してるところからすると、さっきの風。…やっぱり綾波の仕業なんだね。
 
 
僕はまだ、アスカの心を持ち帰ったことはない。カヲル君や初号機のように、リリスを使って自力で来れるとは思えない。
 
…とすると、このアスカは、この世界に元からいたアスカ。僕がこの浜辺で首を絞めたアスカ、ということか。
 
アスカの手の中で、紫陽花の花弁が一つほころんだ。
 
 
アスカもまた、僕と同様に他の世界を護っているんだろう。途端に、アスカが赴いた世界の、碇シンジの記憶が芽吹く。
 

 
… そっか、一所懸命に、励ましてくれたんだね。
 
 
ほころんだ花弁を、アスカが嬉しそうに眺めている。
 
 
「…なによ」
 
ずっと見つめてたことに気付いたのだろう。視線だけこちらに寄越して。
 
アスカとは色々話したいことがあった。お礼も言いたかった。なにより、たくさん謝りたかった。
 
だけど、いざ話せる機会ができてみれば、どんな言葉も…想いを語るに足らない。
 

 
会いたかった。も、ありがとう。も、ごめんなさい。も…、どれも、この想いを乗せるには軽すぎる。
 
 
 …
 
だから、この言葉に…始まりの意味すら篭めて、微笑む。
 
「おかえりなさい」
 
虚を突かれたらしいアスカは一瞬呆けて、ぷいっと顔を逸らしてしまった。
 

 
「…ただいま」
 
 
アスカがどんな顔をしてるのか見てみたいな。と思っていたら、ミサトさんが身体を折り曲げるようにして覗き込んだ。
 
「あれ~? アスカったら、もしかして…」
 
実に嬉しそうに、にたりと笑ってる。こういうとき、ミサトさんのフレンドリーさを羨ましいと思う。とても真似できない。
 
「…なによ」
 
「ぶぇっつに~」♪
 
互いの頬っぺたを掴みあって、あっという間に取っ組み合いのケンカを始めてしまった。…これはまあ、ある意味で仲がいいんだろう。
 
 
綾波が2人の傍に寄っていったので、てっきり仲裁するのかと思ったら、憮然とした表情で紫陽花を拾って戻ってきた。
 
…いや、毒気を抜かれたらしくて、結局ケンカも収まってしまったけどね。
 
 
 
「…つぎは、だれ?」
 
小首を傾げるように、綾波。
 
次に、誰の心を知るべきか。それについてはずっと考えていた。
 
様々な事象に干渉できる立場になってみて痛感したのは、根治治療を施すには、あまりにも世界を知らないということだった。
 
特に、相対する者たちのことを…
 
 …
 
孫子に曰く、彼を知り己を知れば百戦殆うからず。彼を知らずして己を知るは一勝一敗す。彼を知らずして己を知らずは戦えば必ず破れる。
 
いや…。敵とか味方とか、勝つとか負けるとか、そういう狭い了見で臨んではそれこそ事を仕損じるだろう。理解しがたいからこそ、相手のことを知るべきなのだから。
 
それが、結論だ。
 
「キール議長の心を知ることのできる世界、ある?」
 
しばし。瞑目するようにまぶたを閉じて、綾波が闇の中を探っている。
 
 
サードインパクトから世界を護る以上、ネルフやエヴァから距離を置くことには不安があった。だけど、ミサトさんが見せてくれた前向きな姿が、アスカが援けてくれたシンジの心が、何とかなると教えてくれる。碇シンジの心を安定させることさえ出来れば、最悪サードインパクトだけは阻止できると確信できた。
 

 
「…あるわ。地軸がずれた時の事故で、脳死寸前のキール・ローレンツが居る宇宙」
 
気をつけなくてはならないのは、それが誰であれ、覚悟が足りないと世界は救えないということだが。
 
「…いくの?」
 
赤い瞳が、ひたと僕を見据えて。
 
「うん」
 
…そう。と無表情に、綾波が右手を伸ばしてきた。
 
その眉根に寄ったわずかな憂いを見抜ける程度には、綾波のことを知っているつもりだ。
 
額に触れようとした指先を、そっと掴みとる。
 
「綾波。…ありがとう」
 
「…なに?」
 
胸の前で、綾波の手を包んだ。
 
「綾波がここで待っていてくれるから、安心して行ってこれるんだ。…だから、ありがとう」
 
「…なにを言うのよ」
 
ぽっ。と頬を染めた綾波の、視線がこの手に注がれる。
 
「帰る家…ホームがあるという事実は、幸せにつながる。良いことだよ」
 
カヲル君の言葉に賛同して、頷く。
 
 
荒れ果ててしまった世界だけど、壊してしまった世界だけど。この世界こそが僕の帰るべき家だった。
 
この世界があるからこそ今の僕がいて、この世界のようにはしたくないと思うからこそ頑張れる。
 
この世界が僕の心の中にある限り、僕は立ち止まらない。新たな世界へと赴き続けるだろう。
 
 
 
「…いってらっしゃい」
 
綾波が、僕の額に触れてきた。
 
拡がる光は、新しい世界への導きだ。
 
この手は小さくて、一度に多くは救えないけれど。あきらめさえしなけば、きっといつか。
 
またこの世界に還ってくることを約束して、
 
 
 
    「 いってきます 」
 
 
 
 
 
                      シンジのシンジによるシンジのための補完 おわり



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完 NC カーテンコール
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:48


  - AD2005 -
 
 
弔いの鐘の音が、もの悲しい。
 
「偉いのね、アスカちゃん。いいのよ、我慢しなくても」
 
中年女性が1人、芝居がかった仕種で泣き伏している。
 
「いいの、ワタシは泣かない。ワタシは自分で考えるの」
 
気丈に。なんて形容したら、アスカはきっと怒り出すだろう。その表情はこちら側からでは見えないが。
 
たとえ電動でも、芝生の上は車椅子に向かない。かといって人に押してもらうのは好きじゃないから、少し苦労して車椅子を操る。
 
…そのうち、ホイールへの動力伝達の制御ルーチンでも組んでみようか。
 
「惣流・アスカ・ラングレィだね」
 
小さいアスカが振り返った。護衛の黒服が、件の中年女性をさりげなく遠ざける。
 
「…どちらさまですか?」
 
口調が改まっているのは、警戒の表れでもあるのだろう。
 
「儂はキール・ローレンツという。キールと呼んでくれ給え。…アスカ、と呼んでも?」
 
ことのほかあっさりと頷いてくれたのが、ちょっと嬉しい。
 
「それで、ワタシに何の用?」
 
うむ。と応えてホイールをロックした。
 
セカンドインパクトで重傷を負ったこの体は、まともに立つことも出来ない。だが、腕の力で芝生に跪くぐらいならなんとかなる。
 
臓器の大半を人工物で置き換えたこの体は、生体機能代行装置から離れることが出来ない。だが、この時のために車椅子との接続部を延長しておいた。
 
ネルドリップならコーヒーが1杯は軽く抽出できるほどの時間をかけて、ようやくアスカの前に跪く。ちょっと無理しすぎたか、脂汗が酷い。
 
黒服に交じって随伴している臨床工学技士が、顔を青ざめさせていた。事情を知らないはずのアスカも、ものものしさになんだか固唾を呑んでいる。
 
 
「まずは母君のこと、お悔やみ申し上げさせてもらうよ」
 
結局、初号機も弐号機もその接触実験を防ぐことができなかった。使徒が来る以上、その備えとしてのエヴァが要る。そのためにどんな実験をするか、いつ実験をするか。それは直に携わっている研究者が決める領分で、たとえゼーレといえど、その盟主といえど、軽々しく口出しができなかったのだ。
 
もちろん、時期尚早ではないか? と何度も意見した。しかし、その度に「素人には解からないだろうが」と言わんばかりの上申書が、オブラートに包まれた表現で届くのだ。
 
根負けするような形で両方とも許諾せざるを得なかった。もっとも、結局両方とも失敗したことで、研究者連中に意見しやすくなったのも事実だけれど。
 
 
ただの弔問客だと判断して、アスカの緊張が解ける。…代わりに、身構えたようだが。
 
「ありがとうございます。ママも草葉の陰で喜んでいると思います」
 
心の篭らない切り口上と、形だけの礼。この年齢で見事な所作だけれど、とても哀しい姿だった。
 
母親を喪ったのに哀しそうに見えないのは、哀しくないと思い込もうとしているからだろう。イソップ童話のキツネのように、すっぱいブドウだから食べたくなかったのだと己を誤魔化しているのだ。
 
この、小さな強情っぱりは気付いてないだろう。母親が好きだってことを、裏腹な態度で、全身を使って表現しているってことに。
 
問答無用で抱きしめてやりたいところだが、さすがにそれは憚られる。
 
 
「今日はアスカに、いくつか秘密を教えに来た」
 
秘密? と小首を傾げるアスカに、うむ。と応え。
 
「たとえばアスカの母君、キョウコ女史は、アスカの母親であることを辞めたりはしていない。とか」
 
「うそっ!?」
 
かぶりを振った。
 
「そもそも儂がこんなことを知っていて、わざわざアスカに伝える時点で嘘ではないと、判るだろう?」
 
「それはワタシが決めるコトよ」
 
やはり、アスカにこの程度の詐術は効かないか。
 
「キョウコ女史は、娘を殺したいと思っていたわけではない…」
 
敢えて言葉を切って、様子を窺う。あのブドウは甘いのだと教えられたキツネは、空きっ腹を抱えてどうするだろうか?
 
取ろうと努力する? 取ってもらおうとする? やっぱり諦める? 嘘だと決め付ける?
 

 
胸中に渦巻いた諸々の情念をすべて篭めたかのような瞳で、アスカが睨みつけてきた。
 
どうやら、余計なことを教えた者を逆恨みするらしい。それは、ブドウに手が届かないと思っていれば当然の反応だろう。
 
 
「それらの理由を、知りたくないかね?」
 
知りたいと、顔に書いてあった。だが、知れば誤解していたことを認めねばならなくなる。己の幼さゆえの過ちを認めなくてはならなくなる。
 
その葛藤を天秤に載せて、アスカが体ごと揺れた。
 
 
…じっくりと、待つ。
 
鼻先に甘い匂いを突きつけられたキツネが素直になるには、時間がかかるだろう。
 

 
「…教えて」
 
「大きな声では言えぬでな。もっと傍に来てくれるかね。できれば、老人が孫娘でも抱きしめているように見せかけられれば都合がよいの…」
 
割り切ったアスカは、行動が早い。言い終わる前には懐に飛び込んできていた。挨拶代わりにごく自然に抱き合う慣習があればこそ、だろうが。
 
キール・ローレンツとアスカの祖父の間には、それなりの交流があったようだ。―この身体で目覚めた時には既に鬼籍の人だったけれど― 事情を知らない人間も、知っている人間も、自分の都合のいいようにこの光景を解釈するだろう。
 
その小さい背中に手を回す。
  
「キョウコ女史は、自ら提唱した実験の被験者になった」
 
アスカの肩が、ぴくりと跳ねた。
 
「その結果、精神崩壊を起こした彼女は、自分がアスカと言う子供の母親であること以外の全てを忘れてしまったのだ。不幸なことに、肝心のアスカを認識する能力とともにな」
 
「…うそ!」
 
後退ってこの腕の中から逃れようとしたアスカの肩を、かろうじて抱き止める。
 
「嘘ではない。アスカを捨てたのは、アスカの母親であってアスカの母親でない、ただの抜け殻だったのだ」
 
「…ママは」
 
途端にアスカの身体から力が抜けた。
 
「ワタシを…」
 
まだ泣いてはない。泣いてはないけど、その瞳は潤み始めて。
 
「捨ててなどないとも」
 
この身体では大した力は出ないけれど、力いっぱいに抱きしめる。
 
この肩口に、隠すように顔を押し付けてきたアスカが、それでも泣くまいとしてすすり上げた。
 
今泣かないと、アスカはきっと10年は泣けなくなる。だから、素直になって欲しい。掻き抱いた手に、その思いを篭める。
 
「いや、むしろ、あのような抜け殻になってしまってもアスカを見ようとしていたのだな。キョウコ女史は」
 

 
ようやく、ようやく搾り出すような嗚咽がアスカの口から漏れた。
 
  そう。それでいい。
 
素直になれれば、ガラスの刃のようなあのアスカになることはなくなるだろう。エヴァに係わっていても不幸にならずに済むだろう。
 
 
押し殺したように泣くアスカの震えを、流す涙と云えばバイザーの洗浄液しかないこの身体で受け止めた。
 
 
                                         終劇
2007.09.25 DISTRIBUTED
2009.04.01 PUBLISHED

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シンジのシンジによるシンジのための補完 NC カーテンコール


  - AD2015 -
 
 
タイミングを見計らって、通信をつないだ。こちらの映像は、発令所の前面ホリゾントスクリーンに映し出させる。
 
「諸君、任務ご苦労である」
 
偉そうな物言いも、この15年ですっかり板に付いたと思う。
 
『キール議長』
 
何の用だ。などと口にはしないが、警戒を滲ませて父さんがサングラスを押し直した。
 
「国連軍のN2地雷が通じなかった以上、現用の兵器では使徒を斃せぬであろう。指揮権の委譲についてたった今、私のところに打診があったところだ」
 
トップ・ダイアスを占領した在日国連軍の高官どもが顔をそむけたのは、忌々しげなその表情を私に見せたくなかったのだろう。
 
「唯一、使徒に対抗できる汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオン。しかし、その零号機は起動試験に失敗して凍結中で、パイロットは重傷。初号機はパイロットが見つかっていない」
 
『お待ちください。現在マルドゥック機関によって発見されたサードチルドレンがこちらに向かっております』
 
そんなことは先刻承知だ。が、
 
「そうかね。私のほうには報告が来てない様だが?」
 
『…急なことでしたので』
 
実在しないマルドゥック機関から、意味のある報告があがることなど基本的にありえない。判りきったことだが、そのことに慣れて油断した父さんの隙に付け込ませてもらおう。
 
「ネルフ本部に使徒への対抗手段がないものとして、私はネルフドイツ支部にエヴァンゲリオン弐号機の出撃を要請した」
 
なんですと!との父さんの抗議は、しかし最後まで言い切ることができなかった。
 
『大気圏外より、高速接近中の物体あり!』
 
青葉さんの報告に、発令所がざわつく。
 
『映像、最大望遠です』
 
その映像はこちらにも届いている。50km程度しか視程のないネルフ本部の光学観測機器ではケシ粒のような大きさだが、それでも嘆声が満ちた。
 
衛星回線経由のテレメトリーデータからすると、弐号機の高度は地上100kmほど。ATフィールドによるアンチショックコーンの形成と衛星の補助がなければ、ブラックアウトの真っ最中だっただろう。
 
こちらが手配しておいた哨戒機からの映像を廻してやる。その映像の中で、プラズマ化した大気が円錐状に穿たれて、目に見えぬ壁の存在を訴えていた。
 
発光するプラズマが、傘を開くように押し広げられていく。弐号機が減速シーケンスに入ったのだ。
 
プラズマの傘の中から姿を見せた弐号機の勇姿に、再び嘆声が湧く。
 
空気抵抗で充分に減速した弐号機が、外輪山の山頂に降り立った。軽やかな着地は、最後の瞬間に重力軽減ATフィールドを使ったのだろう。即座に山陰に隠れて、ウェポンラックから増設バッテリを落とし、小脇に抱えていたのと交換している。
 
「弐号機が到着したようだ。そちらの作戦部長はどこかね?」
 
『…現在、サードチルドレンを連れてこちらに向かっているところです』
 
その内心を、易々と顔に出すような人ではない。解かってあげられても、つらいだけだけれど。
 
「では、作戦部の最先任士官は誰かね?」
 
椅子を蹴倒しかねない勢いで立ち上がった日向さんが、ビシっと音がしそうな勢いで敬礼した。
 
『わたくし、日向マコト二尉であります』
 
そのまま固まりかねない日向さんを手振りで休ませ、…少し、考えている振り。この時のために、アスカの階級は二尉。ミサトさんには従う必要があるが、その他は従えることのできる微妙な地位は、5年前からの仕込だ。
 
「ふむ、それでは弐号機パイロットが現地の最先任士官ということになるな。 
 使徒殲滅は急を要する。弐号機は、パイロットの判断で作戦行動を行わせる」
 
しかし!と上げかけた父さんの抗議を、やはり身振りで抑える。
 
「心配は無用だ」
 
そうして、掏り換えるのだ。父さんの言わんとしたことを。あたかも、先取りしたように見せかけて。
 
自分は、本当に人が悪くなった。
 
「弐号機パイロットは、10年も訓練を受けてきている。必ず使徒を殲滅してくれよう。
 諸君は、彼女が遺憾なく作戦遂行できるよう情報提供に協力してくれたまえ」
 
ネルフ本部への送信を切って、弐号機との回線を開く。電力消費を抑えるために照明を落としたらしいプラグの中で、アスカがヴァーチャルウインドウに見入っていた。今の弐号機は、かなり細かく電力配分を調整できる。
 
「アスカ」
 
『おじいさま』
 
怖いほどに真剣だった表情が、こちらに向けられた途端に少しほころんだ。
 
「どうだね?」
 
『見たトコロ、武装は光の槍と眼からの光線みたい』
 
日向さんからの的確な情報提供もあったようだが、きっちり威力偵察ができている。緊張はしているようだが、必要以上の気負いは見受けられない。
 
「どうするね?」
 
『析複化した光波遮断ATフィールドを円錐状に展開して接敵。直前で中和に切り替えつつ背後に回りこみ、プログナイフでコアに攻撃。
 これでどう?』
 
どう立ち向かうべきか、結論は出ていたのだろう。即座に答えてきた。
 
「ふむ、背後に武装があったらどうするね?」
 
『後ろから攻撃してきた国連機を撃墜するときに振り向いてたから、その可能性は低いと思う。
 でも、念のため使い終わったバッテリを持っとくつもり。盾にするには心もとないケド、ないよりマシでしょ?』
 
それぐらい考察済みだと言わんばかりに、アスカが両眉を持ち上げてみせる。
 
「うむ、さすがはアスカだな。儂から付け加えることはない。
 アスカなら必ず成し遂げよう。頼むぞ」
 
『ええ、任せて』
 
決然と正面へ向き直って、シンクロ手続きを始めた。邪魔にならぬよう通信を切ろうとしたら、それに気付いたらしいアスカが、あっ。と一言洩らす。途端にアラート表示。
 
なんだかバツの悪そうな表情を、アラート表示の照り返しが赤く染めている。
 
『…通信はそのままにしてて』
 
この10年で、アスカはずいぶんと素直になっただろう。それを向けてもらえることもまた、嬉しい。
 
「そうか。ならば、アスカのデビュー戦の勇姿、とくと見せてもらうとしよう」
 
こくん。と頷いたアスカが、再びシンクロ手続きを取り始めた。
 
 
弐号機の中に母親がいることを知り、それを受け入れているアスカのシンクロ率は高い。ATフィールドもほぼ使いこなせるようになった今、間違いなく最強のチルドレンだ。
 
そのプライドに見合った能力を得たアスカは、ほかの子供たちをも導き得よう。
 
アスカ、行くわよ。と呟いたアスカを、優しく見守った。
 
 
                                         終劇
2007.11.5 DISTRIBUTED
 
ボツ事由 カーテンコールを前提にしたアスカデビュー戦だが、そもそもシンジの経験にキールの権力が合わされば出来ないことはないはずで、人類補完計画が提唱されることすら阻止できる可能性が大。物語を進めるために原作準拠的なプロットラインを組んだカーテンコールをこれ以上膨らませるべきではないとして不採用。



[29636] シンジのシンジによるシンジのための保管 NC ライナーノーツ
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:48


*1 蛇足を産み出すに至る動機
 
前作「シンジのシンジによるシンジのための補完」は、私の作品としては出来すぎでした。注ぎ込めるだけのことを注ぎ込んだ結果、物書きとしての私は出し尽くしたお茶っ葉も真っ青の漂白状態でした。まあ、もともとキャパシティは少ないのですが…
今までの経験則から云って、あと何年かはこうした創作(?)活動をしないだろうと思っていたのです。
ところが、いくつか心残りがありました。作品の設定上、使えなかったネタや裏設定が残っていたのです。また前作でミサト(シンジ)はいくつも勘違いをしていますが、そうしたことにも幾分か言及したいと思っていました。
 
 
*2 ミサトと、ユイと
 
前作のアイデアが産まれた際、シンジの憑依先の有力候補はミサトとユイでした。生きて意識のある人間を乗っ取るのはどうにも問題があるので、無理なく設定できる人物というのも大きな理由だったのです。
前作のプロットを組んでいる最中に、平行してユイ・バージョンのプロットも練ってみたのですが、エヴァ本編までの準備期間が長く、対使徒戦も楽勝で、私の力量では面白くできないことは判りきっていました。
ただ、一度ミサト編を見せたあとでなら、それへの対比・発展形としてユイ編を成り立たせることは出来るかもしれない。などと踏んではいました。
では、どうすれば多少なりと面白く出来るだろうか?
 
私の作品はどうも、思考実験から始まるようです。
 
 
*3 コンセプト
 
前作との差異化を図るため、主人公の立ち位置を変えることから考えます。
ミサトの時は与えられた環境の中で出来るだけのことをすればよかったのですが、それをユイでやると話が面白くなりません。限られた手札で最大限の変化を起こしたミサト篇との対比に、何でも出来るのに何も変えられない世界の不条理を描ければ、そこそこ面白く出来るのでは、と考えました。
 
 
*4 初期プロット
 
何でも出来る立場にありながら、覚悟が足らず読みが甘く、全てが裏目に出て、シンジasユイは苦悩します。
・ユイの記憶を取り戻そうとしたゲンドウによって、綾波レイがサルベージされる
・実験前に妊娠していたことが発覚、しかしレイがサルベージされていたため魂がなく、死産
・弐号機建造・アスカがチルドレンに
・初号機の直接制御の負担が大きく、間接制御化しシンジがチルドレンに
・JA計画を阻止したら、トライデント計画が
・リツコを説得したことがきっかけでミサトが直接ドイツに就職。敵対的に
・ナオコの自殺を阻止しようとして、殺されそうになる。返り討ちにし、リツコが敵対的に
・ダミーシステムを造らなかったために、ゼーレが牽制→アスカの指揮権を得られず
・D型装備の開発を阻止していたために、アスカから非難される
・霧島マナにシンジをとられ、アスカ・レイの不安定さが増す
・バルディエル戦で戦うことを拒否したシンジに代わり、これを殲滅
・ゼルエル戦で追い詰められ、シンジごと初号機に溶ける。結果シンジから拒絶
・アラエル戦で、アスカが精神汚染
・アルミサエル戦でアスカ起動できず、廃人に
・シンジの目の前で、カヲル殲滅
・ゼーレ製ダミープラグがアスカの戦闘データをもとに開発、量産型が凶悪に
などなどと鬱展開を考えていましたが、こうまでキャラ配置が同じになってしまうと、それはそれで前作との差異化が図れません。
そこで、レイとシンジには前半で退場していただき、後半の焦点をアスカ一本に絞ることにしてみました。 
 
 
*5 自分に書けるか?
 
原作にもあることですから、鬱展開を書くこと自体に抵抗はありませんでした。
しかし、徹底的に壊れたアスカを一撃で復活させるシチュエーションが、私には思い浮かばなかったのです。
原作のように一時的な、偽りの復活でよいのなら、同じようにキョウコの存在だけで押したでしょう。ですが、ハッピーエンドのためにアスカには完全なる復活を遂げてもらわなければなりません。そのためにはいくつもの前準備が必要で、廃人になるほど追い詰めながらではとても用意できないものばかりでした。
それに【アスカ出撃→敗退→初号機出撃】というパターンを延々繰り返すことにもなります。
やはりアスカの廃人姿は描きたくなかった。という自分の願望も含めて、この鬱路線は棄てることにしました。
 
 
*6 もうひとつの物語を
 
そういう物語を書きたくなかったから。と娯楽として提供することを妥協した時点で、この作品はお蔵入りになるはずでした。
前作のカーテンコールとして、世界の拡がりを示唆するダシに使ってオシマイ。のつもりだったのです。
まあそれでも折角だから。と「個人的な愉しみ」&「知り合い・希望者に読んでもらう」程度の軽い気持ちでパイロット版を執筆しました。
それが予想外だったのは、プロットのダメさ加減と反比例するように、個々のエピソードやシチュエーションに捨てがたいものが散見されたことでした。エヴァに関わらずに済んだシンジとレイの姿は、その最たるものでしょう。
これらのエピソードを活かすために、この作品の構成を再検討しました。その最終プランとして、物語をアスカ側の視点からも描いたダブル主人公・オムニバス形式にすることに思い至ります。一つの物語りを二つの視点から描くのは、一粒で二度美味しい感じで悪くないですし、これなら鬱展開の復活も望めます。
ただ、このシリーズ的にどうか?と考えると疑問が残りました。主だった登場人物の心の裡をすべて提示する神の視点は、このシリーズの主題を否定しかねません。
悩みに悩んだ結果、私は物語を二つに分けることにしました。(この項、「アスカのアスカによるアスカのための補完」ライナーノーツに続く)
 
 
*7 なぜ続編ではなく、おまけなのか
 
という訳で、この作品を続編として発表することは気が引けました。(ちなみに私は、続編だろうと2だろうと、それだけで独立して愉しめるようにするのが正しい作品作りだと思います。このような、合わせ技一本的な展開は邪道でしょう)
そこで今回、その辺をわざと手抜きにすることで、続編という体裁を捨て、おまけだと言い張ってみました。詭弁ですが。
ひとつの作品として、単体での評価には耐えられない。とは、今でも思っています。
 
 
*8 最後に
 
前作「シンジのシンジによるシンジのための補完」は、私の作品としては出来すぎでした。ずいぶんと過分に、ご支持や評価をいただいたように思います。
 
二次創作ということを差し引いても、私の代表作だと言って差し支えないでしょう。
 
 
意外にも、この作品も多くの方々に読んで戴けたようです。
 
それは、私がエヴァに思ったことを、同じように思っていらした方が、それだけ居られたということだと思います。
 
エヴァへの想いを共有できる。エヴァへの想いを新たにできる。「語りたくなるアニメ」エヴァをまた、さらに語ることができる。
 
だからこそ私は、エヴァそのものよりも、エヴァFFの方が好きなのです。
 
 
全てのエヴァFFとその作者の方々、拙作を読んでいただいた全ての方に、「ありがとう。感謝の言葉」を。
  
多くの方々に支えられてこのシリーズを全うさせることが出来ました。重ねて御礼申し上げます。
 
                                    Dragonfly 拝
                                    2007年 9月吉日



[29636] シンジのシンジによるシンジのための補完NC 外伝 ex9
Name: dragonfly◆23bee39b ID:8f9dece3
Date: 2011/09/07 08:48
 
 
ストレッチャーに載せられてアンビリカルブリッジまで運ばれると、学生服を着た成長途上の男のヒトが立っていた。
 
このヒト知ってる。碇シンジ。この世界の、碇シンジ。
 
意図しないのに、勝手に口元が綻びそうになる。これは、うれしいと云う感情。
 
ブリッジの反対側のたもとまで運ばれて放置されたから、ストレッチャーを降りた。
 
この身体は、心臓の拍動にして196万5643回ほど前に行なわれた零号機機動実験の失敗で重傷を負っている。傷ついた右の角膜の回復はともかく、右橈骨と右第七肋骨から第九肋骨の開放性骨折が癒合するまでには、あと271万5439回ほどの拍動が必要だろう。
 
しかし、自分にとって痛みを遮断することなど造作もない。あのヒトのためならば、なおのこと。
 
ブリッジの真ん中でうなだれるあのヒトのもとへ踏み出そうとした途端に、ケィジがひどく揺れた。自分の制御下にあるこの身体は、この程度で倒れたりはしない。肋骨の骨折があと1本少なかったら、尻餅をついたあのヒトを抱え起こしに行っただろうに。
 
振り回される照明器具の過重に耐え切れず、ワイヤーが音を立てて千切れる。
 
「危ないっ!」
 
「うわぁっ!」
 
葛城一尉の言葉に上を見たあのヒトが、両腕をかかげて頭部をかばう。
 
落下してくる照明器具。あの勢いでぶつかれば、ヒトの肉体などひとたまりもないだろう。
 
LCLを断ち割って跳ね上がる、巨大な手。弾き飛ばされた照明器具がケィジの各所にぶつかって、盛大な音と破片を撒き散らす。
 
そうなると知っていて、なのに胸の底が冷えた。…これが、心配という情動?
 

 
身構えてた両腕の隙間を、少し開いて、あのヒトが様子を窺っている。
 
 『 エヴァが動いた!どういうことだ!? 』
 
  『 右腕の拘束具を、引きちぎっています! 』
 
「まさか、ありえないわ!エントリープラグも挿入していないのよ。動くはずないわ!」
 
ブリッジの反対側のたもとで叫んでいるのは、金色の頭髪の女のヒト。このヒト知ってる。赤木博士。ときおり、ひどく冷たい目でこの身体を見るヒト。
 
「インターフェースもなしに反応している。と云うより、護ったの? 彼を。 …いける」
 
背後で呟いたのは、きっと赤いジャケットの女のヒト。このヒト知ってる。葛城一尉。
 
でも、その言葉どおりにはさせたくなかったから、尻餅をついたままのあのヒトに歩み寄った。傷に障らぬよう、慎重に。
 
 …
 
このヒトはうつむいて、自分を見てくれない。あの優しい眼差しで見て、欲しかったのだけど。
 
この世界のこのヒトは、まだ弱いのだ。だから仕方ない。
 
「…はじめまして」
 
この世界に来て学んだ、初めて逢ったときの言葉。邂逅の言葉。記憶の中にはあったけれど、使ってくれたのは葛城一尉。使うように強要したのも、葛城一尉。
 
自分に向けられた視線は弱々しくて、胸が締め付けられるよう。…これが、悲しいという感情?
 
「…心配いらないわ。貴方は、私が守るもの」
 
振り返り、赤いジャケットの女のヒトに視線を移す。
 
「…葛城一尉。このヒトを安全なところにお願いします」
 
「レイ。大丈夫なの?」
 
「…問題ありません」
 
ちらりと戻した視界の中ではもう、このヒトの視線が自分に向いていなかった。うつむき、床を見ている。
 
護ってあげれば、代わりに戦ってあげれば、このヒトの笑顔を得られると思っていた。…でも、それではダメなのだろう。
 
だけど、今はそれしかしてあげられることがないから。
 
「…行きます」
 
 
…自分がヒトの心というものを理解できるようになるのは、いつのことになるのだろうか。
 
 
***
 
 
  ≪ 冷却終了 ≫
    ≪ 右腕の再固定完了 ≫
 ≪ ケイジ内、すべてドッキング位置 ≫
 
 『了解』
 
このエヴァンゲリオンのことを初号機と呼ぶのは、抵抗がある。
 
それは、自分の名前だから。あのヒトが付けてくれた、自分の名前だったから。
 
 
 『停止信号プラグ、排出終了』
 
   ≪ 了解。エントリープラグ挿入 ≫
  ≪ 脊髄連動システムを開放。接続準備 ≫
 
だけど、このエヴァンゲリオンが初号機と名付けられたのも事実。受け入れるしかない。
 
自分は今、綾波レイなのだから。
 
 
     ≪ プラグ固定、終了 ≫
   ≪ 第一次接続開始 ≫
 
 
タブリスの奨めで自分はしばらく、手遅れ寸前の宇宙のサードインパクトを阻止して回った。
 
その宇宙のリリスの体液から身体を造り上げ、白いエヴァンゲリオンを薙ぎ倒し、その宇宙の初号機からあのヒトを救い出しコアを奪い、その宇宙のリリスを殺した。
 
その中には本当に手遅れ寸前で、リリスの教えてくれた時間の数え方で11兆5467億3718万6295カウントしか居なかった宇宙すらあった。
 
タブリスは3つは救えると言っていたけれど、次にあのヒトに会えた時には、その数は3グレートグロスを越えていたのだ。
 
 
 『エントリープラグ、注水』
 
 
そうした宇宙を6グレートグロスと1グロスと6ダースほど救った後で、リリスが送り出してくれたのは自分自身、初号機の中だった。
 
…お疲れさま。と、かけてくれたのがねぎらいの言葉だと知ったのは、かなり後のこと。疲れる。という状態を、まだ知らなかったころ。
 
 
  ≪ 主電源接続 ≫
     ≪ 全回路、動力伝達。問題なし ≫
 
 『了解』
 
 
その宇宙で、碇ユイを捕り込むことなく戦い。次の宇宙では赤いエヴァンゲリオンとして惣流・キョウコ・ツェッペリンを捕り込むことなく戦った。黄色いエヴァンゲリオンになった時は、何故か全面改修が行なわれなくて、青くなり損ねた。その次は黒いエヴァンゲリオンとして戦って、人知れずバルディエルを葬った。銀色のエヴァンゲリオンでS2機関を全開にして戦えた時に、久しぶりという感覚と爽快という気分を憶えた。それらを言語として知ったのは、最近。
 
白いエヴァンゲリオンで戦った時は、かばったはずの赤いエヴァンゲリオンに後ろから殴りかかられて痛かった。痛覚が何も伝えなくなっても、いつまでも痛かった。
 
もしかすると、あれが、心が痛いと云うことだったのかもしれない。
 
 
 『第二次コンタクトに入ります』
 
 
そうして今回、リリスがこの宇宙に送り出してくれたのだ。
 
…貴方はまだ、ヒトというものを理解できないだろうから。と、この身体を与えてくれた。
 
手慣らしにはうってつけだから。と放り込まれた綾波レイの身体は重傷を負ったばかりで、なにもかもが痛かったのだけれど。
 
 
 『A10神経接続、異常なし』
 
   ≪ LCL転化率は正常 ≫

  『思考形態は、日本語を基礎原則としてフィックス。初期コンタクト、すべて問題なし』
 
 
ヒト同然の脆弱な肉体でどこまでできるか、とても不安だった。その気になればATフィールドを張れるとはいえ、それでできるのは己の身を護ることぐらいだ。
 
ロンギヌスの槍にさえ気をつければ、サードインパクトは起きないわ。とリリスは言うけれど、もう少し教えてくれてもいいと思う。
 
どうすればいいかと請うた自分を、自分で考えなければダメ。とリリスは突き放した。
 
このこと知ってる。放任主義。…脆弱な肉体で独りぼっちにされて覚えた、心細いと云う気持ち。
 
 
  『双方向回線開きます。シンクロ率、58.7%』
 
   『 …零号機のときよりも高い。どういうこと? 』
 
 
初号機である自分が、初号機とシンクロできないわけがない。
 
ただ、コピーであることの餓えを碇ユイという不純物で鎮めているこの初号機を、完全に支配下に置くことはできないようだ。黄色いエヴァンゲリオンほどではないが。
 
 
  『 ハーモニクス、すべて正常値。暴走、ありません 』
 
   『 いけるわ 』
 
 『発進、準備!』
 
 
 
   ≪ 発進準備! ≫
 
 
今の自分には、戦うことしかできない。
 
 
 ≪ 第一ロックボルト外せ! ≫
        ≪ 解除確認、アンビリカルブリッジ、移動開始 ≫
 ≪ 第二ロックボルト外せ ≫
    ≪ 第一拘束具除去。同じく、第二拘束具を除去 ≫
 
 
悲しいけれど、それしかしてあげられることがないなら、それを為すだけだ。
 
 
 ≪ 1番から15番までの安全装置を解除 ≫
              ≪ 解除確認。現在、初号機の状況はフリー ≫
  ≪ 内部電源、充電完了 ≫
       ≪ 外部電源送索、異常なし ≫
 
 『了解、エヴァ初号機、射出口へ』
 
 
いつか、ヒトの心というものを理解して、あのヒトを笑顔にしてあげたいと思う。
 
 
   『進路クリアー、オールグリーン!』
 
  『発進準備完了!』
 
 『了解』
 
 
どうか、それまで、待っていて。
 
 
『発進!』
 
 
                    「初号機の初号機による初号機のための補完」 おわり
2007.11.08 DISTRIBUTED
2008.02.18 PUBLISHED

【第九回 エヴァ小説2007年作品人気投票】にて、過分なご支持と評価をいただきました。
 投票してくださった方々への感謝の気持ちを、この一篇に添えて、御礼申し上げます。ありがとうございました。


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