二階くらいの高さからそいつを見下ろしていた、じりじりと照りつけているはずの真夏の日差しも、地表近くで揺らめいている陽炎も、すべてを意識のらち外に追い出して、俺はじっと、そいつのことだけをじっと見つめていた。コンクリート塀を背にして肩で息をしてるその姿は、知り合いが見れば幻滅するくらい情けない姿だ。少なくともおれは生まれてこの方一度たりともそんな姿をさらした事など無いはずだ。
つうかね、逃げるならとっとと逃げろ! と言葉が届くものなら耳元で怒鳴ってやりたくなる気分だった。こんなところでぜーぜーはーはー言ってる場合じゃないだろうが、そんな事をしているとな――
「はあっ!」
ほれみろ、追いつかれちまっただろうが。
裂帛の気合いとともに何本かの飛び道具が陽炎を貫いてそいつに向かって飛んでいった。息を切らしてるそいつはなんとか横っ飛びでかわすが、その先に待ちかまえていたかのように、か弱そうな外見をした女が太刀を抜きはなっている。
だめだこりゃ、とおれはさじを投げたくなってきた。飛び道具を飛ばしてきた男と白木拵えの太刀を振り回す女の二人組とは、まあ顔見知りだ。普段のおれでも手を焼く二人組なんだから、今のそいつじゃ太刀打ちできるはずがねえ。
案の定そいつは、女の太刀をよけきれず、胸元を切り裂かれて血しぶきを真夏の通学路にまき散らした。
「よわい……」
弱いのはお前のしゃべり方だよ、とつっこんでみたけどもちろん女に声が届いた様子はなかった。弱々しい、まるで今にも死にそうな息を吐く様な口調で喋るそいつの事を、その声だけで『メシ三杯はいける』って言う莫迦共がこの学園に多いが、そいつの気持ちは全く分からなかった。
あんな弱々しい女はまっぴらごめんだ、少なくともおれはもっと強い女が好みだな。
まあ女の好みと強さは別物だ、少なくともこの女は強い、一人でも強かった女だが、相方を手に入れて更に強くなったクチだ。
「気を抜くなよ、なんだってあの乾隆なんだからな」
その相方が、飛び道具のナイフを構えながらゆっくりと歩いて、女に合流してきた。
分かってるじゃねえか、と呟いてはみたがやっぱり声が届いていないようだ。
「にしても、笑子ちゃんの言う通りだぞ乾、今日のお前さんはどうしたんだいったい。腹でも下したか、夏場の拾い喰いは危険だぞ」
うるせえ、誰が拾い喰いなんぞするか。
「どっちみち……好機……」
「そうだな、負け覚悟でこいつに突っ込んできてみたけど、これならまあ請け負った仕事を果たせそうだ。足止め以上の事をやれそうだ」
男はそう言って、どこからか追加でナイフを取り出して、構える。両手を使って指の間に挟むように持つナイフは軽く十本を越えている。それが全部蹴り飛ばされてくることを考えると……ちょっとだけ気が重かった。
にしても、足止めだって? どういう事なんだ一体、おれを足止めしなきゃ行けない事が起きたっているのか。またどこかの莫迦がホンコンマフィアとかち合ったりでもしたか。それとも自分のドッペルゲンガーと恋でもしたか。
ちっ、人のいないところでおもしろい事になってるじゃねえか、おれを足止めしに来たってことは、おれに首を突っ込まれたらまずいって思ってるんだろ。そう言う事なら、お望み通り首を突っ込んでやろうじゃないか。
……だめだ、そう言えば今、おれは体を持っていないんだった。なんでこうなったのかは知らんが、今のおれはまるで幽霊の様に、街灯と同じくらいの高さにぷかぷかと浮かんで、自分と同じ外見をした弱気な莫迦を見下ろしている。そいつはまだ肩で息をしてて、逃げ出すことすら忘れて呆けている。
ちっ、莫迦め。
「……行く」
「行けぇ!」
男と女は視線をちらりと交換すると、女の方が抜きはなった太刀を振るって飛びかかっていった。男はその後ろからナイフを一回わざわざ空中に投げてから、それを援護射撃の様に蹴り飛ばしていく。相変わらずのコンビネーションじゃないか、コンビ戦ならあるいはこいつらが学園トップに近いんじゃないのかと思ったくらいだ。
それに引き替えこっちは……とおれはぜーぜー言いながら必死にやり過ごそうと動いているそいつの様子を眺める。女の斬撃を横っ飛びでかわし、男の飛びナイフをドスドスドスと余さず受けてしまう。男のナイフを躱せば、今度は女の刃に腹を引き裂かれる。
だめだなこりゃ、こうなったらもうそいつにはどうすることも出来ないだろうな。女の治ってないクセ――男の援護を受けるときに下がる右肩をまず砕いてやれば簡単に突破口が作れるんだが、今のそいつには荷が勝ちすぎてるだろうさ。
負けるのか、まあそれはいい、負けたところでそのうち倍返しにしてやれば良いだけの事だ。話を聞く限りこいつらは誰かに頼まれておれを足止めしに来ているだけだ。おれが負けたら、この場はそれだけで話が終わる。
だからそれはいい、もうそいつの戦いにも興味が失せた。
それよりも、おれは何故、今こんな事になっているのかを考えた。考えたが、全く思い出せなかった。
ここはどこ? わたしはだれ?
冗談っぽく自問して、自答してみた。
ここは征洋学園だ。おれの名前は乾隆。
で、なんでおれはこんな幽霊みたいな事になってるんだ? そこが一番重要だ。重要だが、思いだそうとしてみても、肝心の記憶がすっぽり抜けて全く思い出せなかった。。
一体、何がどうなっていると言うんだ。