ツレ&貂々のコドモ大人化プロジェクト
文・望月昭 絵・細川貂々
その47 爆発するイヤイヤ期
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 ウワサには聞いていた。三歳前に「すごい反抗期が来るらしい」と。
 欧米で言うところの「テリブル・ツー」というのも、それを指していると思われる。テリブルというのは「札付きの」とか「問題だらけの」という意味だろう。日本語だと「どうしようもない」とか「お手上げ」みたいな感じか。「テリブル・ツー」は「しょうがない二歳児」ってことで概念が共有化されているわけです。
 で、うちの息子は、新年を迎えてひと月ほどすると誕生日が来る。三歳になるのだ。
 今までのところは、それほどテリブルな感じではなかったのだが。
 案の定、十二月の声を聞くころから、なんとなく怪しい抵抗が始まりだした。声をかけられると、自分の頭の中で考えて、必ず否定的な反応を持ち出してくる。
「ごはんだよ」
「……ごはんたべない」
「はみがきしよう」
「……はみがきは、いらない」
「もう寝る時間だよ」
「……まだ、おねむしないもん。おっきのじかんです」
 おっきのじかん、と言っておいて、適当な時間をいう。
「まだ、さんじです。ねむのじかんじゃ、ないです」
 本当は夜九時を回っているのだが。
 そして「はい、はい、みんな寝るよ。電気消すよ」と強行されると、
「イヤ、イヤ、イヤ。ねむじゃないもん。おっき、おっき、おっきなの〜。うえー(泣き)」
 大きな声で自分勝手な言い分を主張する。なんなんだ、これは?

 そうこうするうちに、「イヤ」「だめ」「ちがう」「しない」「いらない」など、否定語のオン・パレードになってきた。なかでも「イヤ」の数がすごい。これはなるほど「イヤイヤ期」と言うべきものである。
 うちの息子にも、ついにイヤイヤ期がやってきたのだ。つまりこれが、いわゆるウワサに聞いた「すごい反抗期」ってやつだ。
 イヤの数があまり多いので、試しに数えてみた。朝起きてから一時間以内に七十、八十回のイヤイヤを言う。食事、着替え、テレビ、歯磨きなど、何かイベントの度に二十から三十回のイヤイヤを言う。寝る前にも五十回くらい。概算して、一日に五百回のイヤイヤである。だんだん増えてきたので、なんとなく持ちこたえているが、精神的にダメージを受けるくらいの否定の量だ。
 保育園に行ってもらうと、家で言うイヤイヤは半分くらいに減る。保育園さまさまだ。しかし、まだうちの息子の保育園は週三回なのだ。一日おきに家でイヤイヤに付き合わなければならない。
 ときどき、いや、かなりの頻度でこちらも感情的になる。
「どうして、何でもすぐにイヤって言うのっ!」
「ヤーッ」
 まだ「どうして?」に理屈で返してくるような頭はない。イヤなものはイヤなんだろうと思うけど、でも反射的に自分の体の中に発生したモヤモヤしたものを吐き出しているようにも見える。
「じゃあもう知らないっ、好きにすれば!」
 この「それを言っちゃあおしまいよ」的なセリフを、僕も何度口にしたことか。
 小さなコドモの反抗期に対しては、「知らないじゃあ好きにすれば」はルール違反なのかもしれない。だからこれを言うと、より依怙地になったり、泣きが入ったり、火に油を注いだようになってしまう。
 とはいっても、コドモのイヤイヤゲームに付き合っているほど、大人はヒマじゃない。いや、大人の理屈で回っている世界も、そんなに大事なものばかりが占めているわけでもないんだけど。パパは早く新聞が読みたいんだ、とかその程度だけどね。

 このイヤイヤに対抗する技術は、相棒のほうが上である。
「おいしい、ごはん、とってもおいしいよ〜」
「はみがき楽しい楽しい。わー、なんて楽しいんだ!」
「保育園行かないの? パパとハハは行っちゃうよ。ほら、手をつなぎながらダンスダンス。嬉しいな〜」
「お布団、嬉しいな〜。ハハは寝るのが大好きです。あー、寝る寝る。楽しいな〜」
 無意味に「楽しがる」「嬉しがる」というのが、けっこう効く。
 たぶんそれが、息子の体の中に何かモヤモヤと突き上がる「イヤイヤの虫」を鎮めるのだろう。
 イヤイヤ言っているときは、大好きな電車ですら八つ当たりの対象になってしまう。
 だからちょっと前に使っていた「わー、やまのてせんも、ごはん食べようって言ってるよ」が通用しない。「ゆってないもん、やまのせん、そんなこと」と切り替えされるか、「がぁーっ」と大好きなはずの山手線のオモチャもぶん投げられるかのどちらかだ。
 でも、あいかわらず電車は大好きのようだ。
 イヤイヤの虫が出てこないときは、電車のオモチャを持って、床に這いつくばって気持ち的に一体化しているか、あるいはテレビで電車の出てくる番組を見る。
 最近のお気に入りは日本テレビ系列で放映されている「ぶらり途中下車の旅」だ。

 それで、ここから話はかわってしまうが、今四十代の僕たちのコドモ時代になかったもの。それはテレビで「録画したものを何度も見る」という行為である。
 コドモはテレビが好きなもの、というのは僕らの時代にはもう定着していた。だけど、録画したものを見るということはなかったから、好きな番組が放映される時間にテレビの前に陣取って、真剣に集中して見るというのがテレビとの付き合い方だったのだ。
 三十代や二十代の方たちなら、コドモの時代にすでにビデオが登場していたかもしれない。でも、ビデオ機器は高級で精密だし、テープの耐久性もそれほど高いものではなかったから、しつこく同じものを何度も見るということはしていなかったと思う。
 でも九十年代にはビデオ機器もテープも安くなったから、コドモが同じものをしつこく見るという行為は存在していたろうか。それがDVDやハードディスクになって、とても簡単に繰り返し見るという行為が実現されてしまうようになったのだ。
 うちの息子は、宮崎駿さんの「となりのトトロ」や「崖の上のポニョ」をDVDで実にしつこく何度も見ていた。いや、あれはまだ映画だから繰り返し見てもいいかとも思うのだが、それぞれ50回は見たなあ。
 同じように「ぶらり途中下車の旅」も、一回放映されたものをハードディスクに録画しておいて、これを何度も何度も見る。
 コドモ的に、滝口順平さんのナレーション「うひょー」「きゃああ」「いったいなんでしょうかこれは」という、あの語り口が好きなのか。あるいは登場してくるご当地グッズや食べ物が面白いのか。いや、何よりも電車に乗って移動という感じが好きなんだろう。
 毎週の放映と、BSデジタルでの再放送を録画していて、だんだんコレクション的に本数が増えてきた。それを、夕食後に再生してくれと所望するわけだ。
「きょうは、うつのみやせん」
「きょうは、そうぶせん、みる」
「えいざんてつどう。たがわようすけさん」
 毎回違う旅するパーソナリティーの名前まで覚えてしまった。録画したコマーシャルも一緒に見るから、宣伝効果は抜群である。……しかし、カツラや墓地や健康食品か。視聴者はきっとお年寄りを想定しているのだな。
 番組は一本一時間なのだが、毎晩二本は必ず見る。三本目を所望したところで、「今日はもうおしまい。ねんねの時間だよ」ということになる。
 ここで、一日の最大級の「イヤー、まだねないもん」の爆発と闘わなければならない。
 こちらは、滝口順平さんのモノマネで「うひょー、もう寝る時間ですよ」といなして、布団に連れていって電球を消してしまう。コドモは押さえつけても、パッと跳ね起きて走り回るが、真っ暗なのであきらめて戻ってくる……はずなんだけど、最近はそれすら怪しくなってきた。へんなところで寝ているのを連れ戻さなければならないときもある。
 三歳の誕生日はもうすぐだ。

望月昭&細川貂々プロフィール