 |

|
 |
 |
せっかくテレビに戻られたにもかかわらず、番組制作という現場ではなかったとのことですが、そこからプロデューサーへの道をたぐりよせたきっかけは何だったのでしょうか?
テレビに戻ってから、5年。
資料作りやなにかで過ごすうちに30代も半ばが近づき、このままではいけないと思ったんです。そこで、思い切って上司に「こういうドラマをつくりたい」という企画を出したら、その企画が通ってドラマになり世に出ることになって。
それが、現場へ戻るきっかけとなりました。
どういうドラマだったのでしょうか?
橋田壽賀子さんが脚本を書いてくださった連続ドラマ(編集注:NHK水曜ドラマ「四季の家」 1974年放送)です。
女系四世代の同居で起こる家庭問題などを扱っていて、これからは女性が強くなる時代だというのを描いたものだったんですが、これがけっこう評判よくて、それをきっかけにアシスタントプロデューサーのような役割を果たす“デスク”に抜擢してもらえたんですよ。 |
 |
 |
そこで認めてもらえたっていうのがうれしくて、ものすごく奮起しました。それこそ、20代初めのころのように、家には寝に帰るだけであとはほとんど仕事をしていましたね。ちょうどその頃に、10年間看病していた母が亡くなったこともひとつの転機になりました。 |
|
|
 |
 |
認められたことで、奮起すると同時にプレッシャーを感じたりはしなかったんですか?
全然感じませんでした(笑)。
プレッシャーって、それまで自分がちゃんとやってきていないときに感じるものなのじゃないかしら?ちゃんとやってきていれば、そりゃもう自信満々でやりますよ。
「あ、これはいける!」って(笑)。
それくらい奮起して、家に帰るのは寝るだけという勢いで働いたわけです。とにかく「人より早く出勤して、人より遅く帰る」、このひとことに尽きましたね。
自分が関わっているプロジェクトがはじまる1時間前には必ず現場に出て準備をし、終わったらそこから1時間後処理をして帰る。
それこそ、どんなに朝が早くても夜遅くても、何時であろうが必ず人よりせめて1時間、これをまた5年間ひたすら励行しました。 |
 |
![インタビュー[後編]ドラマプロデューサー小林由紀子さん](/contents/066/751/251.mime4) |
 |
 |
 |
 |
つかんだチャンスを離さないために?
「この波にのらなきゃダメだ」っていう思いがあったからかもしれません。とにかくできるかぎりの知恵と体力を使いました。
それからやっぱり少し意地もありましたね。社内でプロデューサーをめざしている女性は、当時私ひとりでしたから「できないって言ったら女が廃(すた)る」と思って。
実際、私が40歳になるまで女性の後輩はひとりもいなかったんです。ずっと私が一番下(笑)。でも、必死にがんばっていたせいか、まわりの方はみなさんやさしかったですね。「よくやるなあ」って言ってくれて。
もしかしたら皮肉だったのかもしれないけれど(笑)。
「女性でよかった」と感じたことはありましたか?
とくに思いつかないわね・・・あ!ロケにいったとき、男性たちはみんな雑魚寝だけど私だけ個室だったこと!(笑) |
|
 |

|
 |
41歳でついに念願のプロデューサーになられたわけですが
私にしてみれば、それまで根っことなる部分を大事に大事に育ててきて、やっと地面に芽を出したのがこのときだったわけです。
NHKドラマ初の女性チーフプロデューサーということで脚光を浴びたわけですが、社内で意外と違和感をもたれず歓迎されたのは、やはり根を張るようなことを私が一生懸命やってきたからだと思うんです。 |
|
 |
 |
とはいえ、プロデューサーになってからは、今度は「乗った波から落ちちゃいけない、乗り続けていかなければならない」と気負いましたね。
しかも、チーフプロデューサーというのはいわゆる管理職。人事管理も予算管理もしなければならない。女性初ですから、女性管理職がどういう実績を残すか、すべて私にかかってくるわけです。 |
 |
|
 |
 |
|
 |
 |
そのなかで最大の仕事は、自分らしい個性ある企画を立てること。半年先に放送されるドラマの材料は1年前に用意しなければならないですから、私たちは常に半歩先・一歩先の時代を読まなければならないんです。 |
|
 |
![インタビュー[後編]ドラマプロデューサー小林由紀子さん](/contents/066/751/256.mime4) |
 |
男性の場合、テーマ優先で理屈っぽく組み立てる方が多いのですが、私は"勘"優先(笑)。
世の中の感覚や人の噂に向けてアンテナを立てておいて、「今はこれだな」っていうカンが働いたらそれを作る。
そのせいか、視聴者の方々にとって身近なテーマになることが多かったですね。
「おしん」もそうだったんでしょうか?
「おしん」は、私ではなく橋田壽賀子さんの時代を読む嗅覚の鋭さだったと思います。私はただ、橋田さんの書いた本をできるだけリアルに表現できる役者を選ぼうと考えただけ。橋田さんは配役についてノータッチでまかせてくださったから、ほとんどのキャストを“役に合っている”ことを第一に、割合無名の人を多く起用しましたね。
橋田さんも「ほんとにぴったりの人を探してきてくれるわねぇ」っておっしゃってくださったほど(笑)。
そういう人たちを見つけることができたのも、それまでにいろんなお芝居をみたり小さな劇団もチェックしたりして、アンテナを張っていたのが役に立ったのかもしれません。 |
|
|
 |

|
 |
小林さんが「これ」と思って企画したドラマといえば何ですか?
「はね駒」ですね。
ちょうど男女雇用機会均等法ができた年(1986年)に放送した「女と仕事」がテーマのドラマなんですが、仕事のために主人公が流産するシーンもあり、最終的には仕事と育児の両立をどうするかというところまで、けっこう厳しく突きつけていました。あなたならこの場合どうしますか?という問いかけは、まさに当時私が強く感じていたことだったんです。 |
|
 |
 |
ご自身、ご結婚されていて仕事と家事の両立についてはいかがですか?
結婚したのは44歳のときだったんですが、それからNHKを辞めるまでの6年間、(奥さんらしいことを)何もしていないんです。なんにも!(笑)
とにかく仕事がものすごく忙しかったから、途中主人が転勤していた2年間なんか、会いに行ったのはたった2回(笑)。
だから、本当に夫婦だなって思えたのは、NHKを辞めたあとからですね。それから15年くらい経って、やっと最近形がついてきたかしら。といっても、まだ夫婦を“運営”しているって感じですけど(笑)。
実は、去年主人がリタイアして、ずっと家にいるようになったんです。そこからまた生活が変わりましたね。だって三度三度いっしょに食事をするわけでしょ?(笑)向こうは向こうで私のことを「この人は本当にご飯を作ってくれるんだろうか」って構えているから、そう簡単にはなじめないわけです。
|
 |
![インタビュー[後編]ドラマプロデューサー小林由紀子さん](/contents/066/751/259.mime4) |
 |
|
 |
 |
でもそれに、私はけっこう完璧主義なところがあって、たとえば家具の位置がちょっとずれているのもイヤなんです。でもそんな調子だと向こうもうっとうしくなりますよね(笑)。 それで、毎日できるだけラクな気持ちでいて、細かいことを気にしないようにしよう、と心がけるようにしているんですよ。だから今の私の(人生の)モットーは「楽天的になること」というわけ(笑)。 |
|
 |
 |
 |
まあ、そうしているうちにだんだんなじんできて、いろいろ言えるようになったというか(笑)。
食べ物の好みにしても、わかっているようでわかっていないんですね。ある日突然それまで食べてくれていた料理を「これ、あんまり好きじゃないんだ」って言われてびっくり。そうかと思えば昨日は「僕は、おなかがいっぱいになればそれでいいんだよ」なんて言うから、今度はがっかり(笑)
もしかしたらご主人は言えない時期が10年くらいあって・・・(笑)
きっとずっと緊張してたのね(笑)。
でも、こんな風にお互いが少しずつ時間をかけて変わっていくのも、夫婦の歴史のありようなんじゃないかしら。
実際、夫婦なんて当事者ふたりの関係でしかないんだから、ありかたは人それぞれみんな違っていていいと思うんです。人から言われたり、雑誌に書かれたりしていることに惑わされてはダメ。
目の前にいる相手ときちんと向き合って、いろんなやりとりを繰り返しながら、自分たちなりの夫婦のスタイルをみつけていかないと。そう思います。 |
|
|
 |
 |
 |
読者からの質問でもあったのですが、今後実現したい夢はありますか?
「♪な時間」の質問でもお答えした、“小鼓”かしら。61歳のときに習い始めて今6年目。10年ひとくぎりと思っていますから、4年後にはプロ級の腕前に近づいていたいですね。 |
 |
|
 |
小鼓が出す音は「ポ」「プ」「チ」「タ」というたった4つなんです。
それぞれの音を組み合わせた基本の拍子があって、それが連続した譜面で練習するんですが、これを全部暗記して、その通りに打っていかなければならないの。一曲が約15分ぐらいですから、毎日譜面を持ち歩いて地下鉄のなかでもどこでもひたすら記憶(笑)。
記憶するには、反復練習が必要だから脳がものすごく活性化されるんです。頭で描くイメージに合わせて手も動かしていかなければならないし、当然耳も使う。
つまりからだ中の感覚すべてを総動員しなければできないわけね。
それがすべてうまくいったときにいい音がでるわけですね。
そうなんです。ただ打てればいいのではなく、いい音を出し、それを続けていかなければならない。
そのために何が大事かといえば、やっぱり稽古。1週間休むとすぐに腕が衰えるから、もうひたすら予習して、教わって、復習して、また予習して・・・これが今最大の楽しみですね。 |
 |
 |
 |
|
 |
![インタビュー[後編]ドラマプロデューサー小林由紀子さん](/contents/066/751/263.mime4) |
 |
何年も稽古を続けているせいか、だんだん音の良し悪しが自分でわかるようになってきたんです。
ほんのちょっとですけどね。
そうすると自分の音が、ときどきまぐれでとってもいい音が出るときと、全然ダメっていうときと、まだまだムラがあるってわかるんです。
プロはこのムラがあっちゃいけないんですね。ですから、そのムラがない状態に、4年後はなっていたいと思っています。 |
 |
|
 |
|
 |
 |
私の場合、もともと能楽をたしなんでいたので鼓をはじめたけれど、趣味は何でもいいからもっているといいですね。
できれば全神経を集中させるようなもの。気持ちがグーッとあがっていくようなもの。ある意味健康になるし、なにより人生が楽しくなると思いませんか? |
 |
 |
|

 |
「一番大切なモノはなんですか?」
大切な“者”は、やっぱり主人・・・といっておかないとね(笑)。
“物”は・・・、“鼓”かしら。
稽古をはじめた頃は人工皮革のものを使っていたんですが、どうしてもいい音をだすものがほしくなって、小鼓の先生に頼んで江戸時代に作られた本物の馬革の小鼓を手に入れたんです。使えば使うほどいい音がでるようになるって言われますけど、本当に使うたびに音がよくなっていって・・・。
もし地震が起きたら、なによりまずそれを抱えて逃げるでしょうね(笑) |
|
|
 |
 |
 |
「おしん」「たけしくん、ハイ!」「はね駒」など数々のヒットを生み出した、元NHK番組制作局長。1940年、東京都生まれ。白百合女子短期大学卒業後、60年NHK入局。20代は下積みの仕事に没頭し、30代では両親の介護も経験。
41歳でプロデューサーになり、番組制作局長退任後、現場主義を貫くため独立。現在も数多くの人気テレビドラマなどの企画・プロデュースを手がけるほか、月刊「日経WOMAN」連載“新・小林由紀子のサラリーウーマン幸せ研究所”で、所長として10年にわたり現役OL達の悩み相談にアドバイスをおくる。
またTBS「ブロードキャスター」のゲストコメンテーターを努めるなど、多方面で活躍中。現在、2008年の『源氏物語千年紀』に向け、企画委員として各種の事業の立ち上げを準備中。 |
|
|
 |
|
 |