セリング・クライマックス 11


(死ぬかと思った・・・・・ていうか死んだ) 

 昏睡に近い状態から奇跡的に生還した灰路が、ようやく重い瞼を押し上げ起きあがると、ベッドからずるりと滑って落ちた。

 何度もひっくり返されたり開かされた身体は、どうりで寝返りするにも苦労した筈だ。

 くたくたになった白いシーツが、酷使された体に絡みついていた。布団ごと絨毯の上にずるずると床に滑ったおかげで落下の痛みは何も感じなかった。

 最も、とにかくたっぷり眠りたいと訴える身体は少々の痛みには鈍感になっているかもしれないが。

 立とうとしたけれど、もがいたせいで余計にこんがらがった邪魔な布団に加え、足に全然力が入らずぺたりと座り込んでしまう。

「・・・・大丈夫か?」

 一連の様子を珈琲を飲みながら傍らのソファーにどっかり優雅に座っていた仁八は、かろうじて笑いを堪えた声音で尋ねた。

「・・・どこが。まだあんたの入ってる感じ、して・・・じんじんする」

 噛み後を残す二の腕に力をベッドの縁に乗せてとりあえず、絨毯の上に座る事に成功する。ぜえ、と息をつく。

 少しの動作のくせ、なんだか一仕事終えたように、怠い。

「笑いたきゃ笑えば?」

 その暢気なむかつく声の震えを聞くよりましだ。ふん、と鼻を鳴らし目を反らした視界の端のほう、影がゆらりと蠢いた。

 腕を掴まれた瞬間、その力の強さが手の熱さが、昨夜の仁八と重なって彼が何をどうするつもりなのか察して、灰路は慌てたように両手で襲いかかる影を振り払った。

「わーっ、待った待った、もういいってば!いらな・・・・っあ、あ、ああ・・・っ」

「悪い、もよおした」

 もよおすな、と怒鳴ろうとした唇は、あ、の形に開いて意味のない掠れた音だけ漏らした。

 気がつくと、目に見える風景は天井と仁八の頭に切り替わっていて、自分の髪がすべてさらさらと絨毯に向かって零れていた。

 ひっくり返されてしまったと眠たい頭が気づくのは、彼の舌先をシーツを剥がされ涼しくなった股間に感じるまでの時間を要した。

 片足首をひょいと掴まれて、開かれたかとおもうと、仁八は開かせた足の間のものをぱくりと口に含んだ。

 ふうふうと息を吐きながら、喘ぎと呼べるほどの声もでずに唇だけが開いたまま短い吐息を何度か吐き出す。

 押しのけようとしていた手は、いつしか仁八の頭を抱えこむようにしていた。

(性欲の鬼だ、こいつ・・・)

 立てないと助けを求めたのに、ぞっこんだと仁八は言うのに、こんな無体を働くか。呆れて抵抗する気も失せた、半分は男の与える愛撫のせい。

 閉じようとする太股を、押しのける仁八の手は強くすくい上げるように竿を舐められてしまえば、灰路は瞳を閉じてその感覚を追うだけだ。

(ああ、でもなんか、本当に・・・・すご、く。気持ち・・・・い)

 与えられる口淫は、昨夜ほどの荒さはなく、ふわふわとしたゆるやかな悦楽をもたらした。

 溺れきってしまえば、なにもこわくなどない。

「お前があんまり可愛い事言うから勃つんだろが。俺が入ってる感じするとか何なんだ、勘弁してやろうと思ったのによ」

 昨夜さんざんぬきさしされてゆるんでいたそこに何度か指が出入りして、濡れた音をたてるころ仁八のあたたかなものがぬるんと入ってきた。

 鼻先を漂うふわりとした花の香りと、その体温。

 昨夜嗅いだばかりのそれは、記憶に新しいから、彼がとっくに一人でシャワーを済ませていたことも知る。

 だが何故だろう。とうにすっきりした筈の仁八に今、自分は絨毯の上で腹に纏うシーツだけの姿で、明るいなか、犯されている。

 突発的な事故のような計画性のない彼の衝動は、確かに勘弁してやろうと思っていたのにもよおしてしまったという事実を裏付ける。

 この男にとって予定外のセックス。余裕綽々の笑みを刻む唇が、今は切羽つまった呻きを噛みしめて、まるで自分に奉仕するような心地よい愛撫だけ与えてくれる。

 ベッドの上で初めて、勝ったような気がしたから、灰路はすすんで疲労感の強い足を開き痺れる中心に受け入れた。

「あ・・・・あ、あ、あ・・・・んーっ」

 掠れた声が喉からか細く長引いた。

 気持ちよくて瞳を閉じると、水分不足で腫れているのか少し染みて熱さを覚えた。

 なんだか、泣ける。

 ゆさゆさ、軽く突き上げられると気持ちよくてどうにかなりそうだと、首をふる。

 そうすると、自分の柔らかい質の毛先が口に入って気持ちが悪かった。

 快楽の余韻にとらわれ続ける灰路を抱くそのやりかたは、むしろ絶え間ない欲望をどこかなだめているようでもあっておかしかった。

 掌を、仁八の胸に添える。心臓の上あたりで、心ごと掴もうとするよう拳を握ると茫洋とする視界のなか、仁八は少し笑った。

「ああ・・・・」

 摩擦されすぎて熱さと痒さを同時に感じているそこを、仁八はもっと熱いものでこすった。

 ぬ、ぬ、と滑るそれは、どこかまだ足りないと飢える自分にゆっくりと愛情を注ぎ込んでいくようでもあった。

「も、だめ・・・だめって。出な・・・・、ああ、いい、そこ・・・もっと」

 細い身体をのたうたせ、やめて、でもいい、やめないで、いや、きもちいい、もっと、その言葉の繰り返し。

 激しく求める声ではなく、切なく自然と漏れた言葉こそ、自分の本音なのかもしれないと灰路は察した。

「こうか?もっと、きつく?」

「うん、うん・・・・」

「おい、寝るなよ?・・・・なあ、優しくしてやってるだろう」

 気持ちよくてどこかにいってしまいそうで、瞳を閉じると仁八は薄く笑んで言った。

 うん、と何度も頷きながら意識は快楽に解けて、やがて消えていった。
 
 

  
 次に目を覚ました時には、とっくに昼だった。

 目の前がちかちかする、瞳を擦るとテレビの画面からクリスマス前のイベント情報が飛び込んできた。

 点滅する光の正体は、去年からよく見かけるようになった発光ダイオードのイルミネーションだった。

(凄いやな目覚め方した・・・・)

 誰が、恋人と行けるスポット紹介なんか見るか、と力無く腕を伸ばすけれどリモコンにはほど遠く、途中でぱたりと腕が死んだ。

 ああ、腕が重い。このまままた眠ってしまいたい。訴える身体に鞭を打ちうっすらと瞳を開いたまま、灰路はひやりとする肩をさすった。

 いくら空調の効いたホテル内とはいえ、裸のままでは矢張り肌寒い。

 肌の内部は相変わらず誰かさんのおかげで火照ってはいるけれど、表面の方はだいぶ冷えていた。

 重い身体を到底起こす気にもなれず、もちろん気合いをいれたところで起こす事もできずに、灰路はだらだらとベッドになついた。

 寒くなって目が覚めたのかもしれない。仁八は隣にいなかった。

 人間カイロの役目を立派に果たしていた彼が、許可なくベッドを抜け出すから寒くて目覚めてしまったじゃないか。

 仁八がいた筈のシーツの上はまだぬくもりを残している。暖をとるため、のそのそ寝返りを打った。

 そこは包み込まれるようほんわり暖かくて幸せだ。伸びきった身体を少し丸める。

 仁八が寝ていたらしい凹んだ後を残す枕からは彼の愛用する整髪料が仄かに香った。

(あ、なんだ。そこにいるんだ・・・・)

 ドアの前で仁八の声と・・・・ホテルマンのようだ、男の声がしてやがてルームサービスの朝食、だか昼食だかが乗ったワゴンを彼は押してきた。短い会話を交わす、声が酷く遠くに聞こえた。鼓膜すら眠いせいだろうか。

「・・・・なんでベッド綺麗になってんの」

 もそりと動いて布団の中から顔を出した灰路の寝起き一番の一言に、戻ってきた仁八は笑った。何だその声は、そう言いたげだ。

 声帯は、声の持ち主さえ驚く程掠れていた。

 でないとしたら彼の笑う理由は、みっともない格好かぼうっとした顔か泣いて擦った赤い瞳かびしゃっと潰れるように俯せているこの体勢か・・・・思い当たる節はいくらでもあった。

 まっさらな乱れの少ないシーツに瞳を丸めるいっそあどけない表情が原因だとは思いつくわけもなく、見るなと再び布団の中に半分潜りこむ。

「移動した。いい加減起きて着替えろ、もう二時過ぎだぞ」

「はあっ?」

 まさか裸の自分を運んだとは言わないだろうが。

 仁八のやることは時々とんでもなくずれていて大胆だから、信用しきれるわけもなく焦ったおかげで一気に目がさめた。

 ひっくり返った声に、仁八は意地悪な笑みを一瞬浮かべ、その顔に灰路が青ざめる頃に単純な種明かしを披露した。

「・・・・そこのドアからな。二部屋続きの部屋になってるんだ。ここは。出口は二つ確保しておいたほうがいいだろう。今まで気づかなかったのか?」

 クローゼットか物置と思っていた、本物のクローゼットの隣にある一枚の扉。

 灰路はそのドアがあっさりぺかりと開いたことにぽかんと口を開けた。

 借りたのは仁八だから、あまり勝手に色々弄らないでおこうと使えと明け渡された場所以外興味も示さなかったことを後悔する。

 そんな造りの部屋があるんだ、と驚愕した後は、使い慣れた仁八の様子に呆れた。

 それは出口は二つあった方がいいという事態に、すでに何度か直面していることがうかがい知れた。

「金持ちめ」

「ありがとう。ところで何か羽織れよ」

 ほっそりとした肢体が、ぬくもりを求めてシーツの上でくねる様は日中だからこそ艶めかしい。目に毒だ、呟いた仁八は大げさに首を振り目を覆って見せた。

「後にする」

「面倒なだけだろう。仕方ない奴だな・・・・食うか?」

 ワゴンに乗せられた昼食は一人分だ。どうせ食べないだろう、という仁八の予測は大当たりで、何もかも見透かされることには悔しいけれど灰路は首を振った。

「いい、いらない・・・・気持ち悪い」

 とてもじゃないけれど、仁八だけでお腹が一杯、と訴える中になにかを入れることなどできない。

 おまけに筋肉痛がとにかく酷い。じじいかと笑われたけれど、毎日馬鹿のように身体を鍛えている仁八とは根本的に体力の基礎値が違うのだ。

「今日が休みで良かったよ、ったく年齢考えてくれないかなあ」

 こんな身体の状態で、学校になど行けるわけもなく灰路は自嘲気味にしみじみ呟いた。

 明日も動く事ができなかったら、強制的に今日から冬休みにできそうかなあ。声には出さずそんなよからぬ考えが思い浮かんだ途端、仁八のもの言いたげな視線に囚われて灰路は悪巧みを放棄せざるを得なかった。

「学校大好きなのが雨宮灰路センセイだろ。楽しそうにお仕事してるじゃないか」

 肯定を無理矢理求めるような、そんな口調に灰路はむうっと膨れた。

「そうだけど・・・・」

 口ごもった灰路に、仁八は労るような視線を向けてくる。どうして今更登校拒否を起こしているのか、その理由を問いつめてくれる声はない。

 だんまりを決め込もうとする自分に、焦れるのは仁八だと思っていたけれど。

 根を上げたのは、結局ここでもやはり負け続けの灰路だった。 

「写真、持ってこいって・・・・言われてる。あんたにハメ撮りさせたやつ。相手・・・・生徒なんだ」

 あれだけ知られたくなかった事実を、気がつけば驚くほど素直にぽろりと告白していた。

「明日、終業式が期限だよ。気が重くなるのも仕方ないだろ?」

「ハメ撮りとは趣味がいいことだ。それだけか?」

「他にも・・・・つけられたりとか、持ち物精液まみれにされたりとか・・・・色々。直接的にはあんたの家であったこと以来、あんまり来ないけど今のとこは・・・・」

 息苦しいような喉から、ゆっくりと息を吐いた。

「・・・・もう。ちょっと限界、かも」

 ははは、なんていつものように軽く笑って誤魔化すように弱音を吐いたつもりだった。けれど表情筋は思惑に反して引きつりをみせ、情けないだけの泣き顔みたいに歪んだ。

 自分で思うよりも、怯える毎日に疲れていたようだ。

 くしゃりと崩れた顔を痛ましそうに仁八は眺めていたが、やがて、ぎし、ベッドの木枠を軋ませる重みで灰路の隣に寄り添った。

 冷えた肩を抱き起こされ、ベッドの背に寄りかかる。

「ちょっと・・・・」

 ふわりと、仁八の体温に包まれて灰路は身じろいだ。

 ちゃんと座れたんだから、離してくれたらいいのに、仁八の身体は離れてはいかなかった。

(ああ、慰められてるんだ・・・・・)

 嫌じゃない自分が少し嫌だな、なんて複雑な心境に眉を寄せたけれどしかめっ面は持続しなかった。

「僕がストーカーにあうなんて、可笑しいだろ」

「俺は昔から言ってる、お前の色気は危ないんだって。だからろくな恋愛できなかっただろう」

 まるで過去のことすべて見てきたような口ぶりに、呆れはしても傲慢な口ぶりは嫌いじゃない。

「俺にしとけとあんだけ言ってきたのに、自業自得だ馬鹿野郎」

 悔しそうに力のこもった広い胸に抱きすくめられて、安心することを灰路はもう覚えてしまった。

 だから押し返すこの手には、馬鹿みたいだけれど説得力も何もないのだ。

「そいつが何かするとしたら、明日か・・・・。家まで押しかけた事を考えてもお前にストークできない状態をそう長く我慢できるわけもないしな。そういうことだろ?」

「明日、学校休んだ方がいいかな・・・?」

 おとなしく肩を抱かせてやりながら、ちらりと男の横顔を伺う。

 思案を巡らせる表情は一瞬だけで、仁八は灰路の一縷の望みを絶ちきるよう首を横に振った。

「駄目だ、こちらが行動を起こすのも明日しかないだろう。ここに移った今、相手が灰路に接近できるのは学校しかないんだ。ホテル暮らしも飽きてきたしな。俺は早く自分の家に戻りたい」

 確かにそうだ、と灰路は頷く。けれど続けられた最後の言葉にはじわりとわだかまりが残る。

 じゃあ帰ればいいじゃないか、と吐き捨てそうになる言葉をぐっと我慢した。だって、今ひとりにされたら立っていられないことぐらい分かっている。

 だが、そんな自分の卑屈な思考は見通されていたようだ。

「お前と」

 付け足された一言は、突き放されたと勘違いしたうえ傷になる隙もなく与えられた。

 どうしてこう肝心のところを外さないでうまくつぼを抑えてくれるのだろう。うかつにも、少しどきどきしてしまったじゃないか。

「・・・・・ああ、そう」

 嬉しさを素直に顔に出すことはまだできなくて照れくささから、ふい、と顔を背ける。

「お前は、逃げることばかり考えてねえで少しは決着つけることを考えろ」

「それって、仁八のこと?」

「だといいな」

 自分の横顔を追ってかけられた言葉の、深い意味を灰路は恐らく間違いなく感じ取った。

 案の定、仁八は頷き少しは向き合う事ができるようになった自分に、満足げに瞳を細めた。そんな、期待するような顔されてしまっては困る。愛してるとか好きだとか、言わなきゃいけないような雰囲気になっては、もっと困る。

「僕はどうすればいい?」

「明日は一日近くで見張っていてやる。何かあったらすぐに携帯に電話しろ。ワンコールで出るようにする」

「ああ、でも携帯だめだ。僕ずっと電源切ってる、し」

「知ってる。・・・・・貸せよ」

 顎先で封印した携帯電話の行く先をしゃくって告げる。

 いつまでも包まれていたいような体温を離すと仁八は、チェストの引き出しを開いて目的であり問題の携帯電話を取り出す。

 彼の親指が電源を入れた瞬間、震えだした携帯に、やはり、と灰路は驚くこともなかった。

「着信拒否も、ばれたら怖いと思って・・・・そしたらこのざま」

 番号を拒否することなんかとっくに考えたけれど、できなかった。適度な言い訳も見つからず白状する。

 違う行為にエスカレートしても困ると結局は電波が繋がらない事にした方がいいと判断したのだが、それは間違えていたのだろうか。

 やがて留守番電話に切り替わったことを液晶に連なる文字が伝え、間もなく再び着信がある。仁八が汚いものを見るような瞳で嫌そうに顔を顰めた。携帯のストラップの端を摘んでそれをぶら下げる仕草に、そんな汚物でも持つみたいにするな、と灰路は溜息をついた。

 相手は『あれ』でも、持ち主は自分なのだけれど。癪なことに気持ちはとてもよく分かる。

「奴か?」

「そゆこと・・・・」

「新しい携帯、今日中に用意しとく。・・・・いい加減俺も切れそうだ」

「・・・・・わかった、あんたに任せる」

「辛かったな、よしよし」

 どこにも行かせたくなくなった。

 そんなもどかしい顔をした仁八に、矢張り愛されてしまっているな、と灰路はぼんやりと、けれど確かな実感を噛みしめた。

 自分が怒るわざとらしい子供扱いも彼流の慰めだと知っているからなんとなく気まずい。

「・・・・すんなっての」

 頭を撫でる掌を、さも鬱陶しそうにひらりと振り払う。 

 ああ、仁八のための昼食が冷えてしまう。

 大人の男の甘い仕草は、やはり苦手で慣れないものなのだ。




 かち、と壁掛け時計の針が動き、丁度午前十一時になった。

 保健室の壁にかかる白い文字盤に銀縁の大きな時計は、音だけ異常にうるさい。

 体育館での終業式が終わり、学期末の大掃除が終わり今頃は『健全な長期休暇の過ごし方』という校長からの依頼で灰路がまとめたプリントが全校生徒に配られている頃だろう。

 灰路が書いたからといい、指定された内容はといえば小学生でも分かるような馬鹿馬鹿しいものばかりだ。

 これならもっと実践的な事を教えた方がいいんじゃないかと遠い目をしつつ、初めての性教育の見本のようなものばかり書きあげた。

 自分とて決して褒められるような生活習慣を送ってきたわけでもない。えらそうに説教するのにはいささかの抵抗もある。

 だからこそ夜何時以降は繁華街をうろつかない、と絶対条件で盛り込まされた文句にはほとほと呆れてしまう。

 そんなものは、学校側の生徒に何かあったときのため”注意を呼びかける教育はした”という言い訳の準備をしているだけに過ぎないのだから、適当に盛り込めばいいのだろうけれど、あんな稚拙な内容が、自分が書いたと思われ出回るのは遺憾だ。

 声が聞こえてくるようだ。あの保健医にしては案外普通すぎると笑う声が。非常に屈辱的だ。

 ────灰路は睡魔にとりつかれた瞼を軽く擦った。

 二日前は仁八に朝までたっぷりかわいがられ、昨日は朝からしっぽり可愛がられ、夜も昼も朝も関係なく堕落しきった生活を過ごした。認めたくはないが、あれほど悩まされた身体の奥にくすぶる欲求不満は綺麗さっぱり消え失せた。

 火がついた身体はなかなか収まることを知らない。仁八はその意味では非常に優秀な消防士だった。

 そのせいか、今日は目の前に眠気を誘うガスでも漂っているんじゃないかと思う程、眠い。

「他に済ませておくことは・・・・・と」

 保健室に常備するのが許された薬類は僅かだ。町の薬局のほうが近頃は品揃えがいい。それでも施錠を義務づけられた薬棚のチェックは済ませたし、後はもうしばらく必要ないだろう。

 暇つぶしの種がまたひとつ、なくなった。

「くあ・・・・」

 鍵を回しながら、口の端が痛むほどの大きな欠伸を一つ。

 今年訪れた生徒の数も報告書に簡単にまとめてある、掃除も早くに済ませてあるしこの保健室は来訪者も少ないから残された仕事もあまりない。とにかく暇だ。

 眠気覚ましに接種し続ける、カフェインも暇という暴力の前に全く意味がないようだ。

 自分で買ったマグは、そっけない味ばかりを残すから熱い液体を流し込むのも、中毒症状の緩和と眠眠打破の効能以外になかった。

 スプーンで一周、軽くかき混ぜる、インスタント珈琲の粉はあと僅かだ。

 いつの間にこんなにのんだっけ、と灰路はぼうっとする頭を、右手で小突きつつ、湯を注ぐ。

(まだ半分ぐらい残ってると思ってたけど、また買い足さなくちゃだめか・・・・)

 普段よりも二杯分多いぐらいの茶色い粉の残量は、年明けまで大事にとっておくには少し微妙だ。

 こうなったら、がぶがぶ飲んでやる、と妙な使命感を覚えたおかげで腹の中はたぷたぷだ。

「静かだあ・・・・」

 こち、こち、こち、と時を刻む秒針の音さえ、催眠術か、はたまた子守歌のように、睡眠欲を誘発させる。

 いつもは退屈を紛らわせる窓の外の光景も、今は誰ひとりグラウンドに出ていない。

 体育の授業だったり、部活だったりで必ず灰路の目を和ませてくれる若さにきらきら輝く少年達も、当然いない。

 新谷和哉も、自分に会うために来てくれているわけじゃなく授業をさぼるためだけに訪れてくれるのだから、今日はここに来ることはもうないだろう。

「恋人持ちなんか別にお呼びじゃないけどさァ」

 否定しつつ、それでも残念でたまらずに拗ねた口ぶりになってしまう。

 癖になってしまった重い溜息を落とす。平和だな、と眠たい目を細めるとうっかりこてんといきそうになる。

 だらだらと時間を無駄に過ごせるほどに救われたのは、必ず今日接触してくると思われた寺尾が学校に来ていないからだ。

 あんなに偉そうに警戒しろ、と言ったくせに、ほら何も起こらないじゃないかと灰路は、ここに差し向けた男に恨み言を言いたくなった。体調だって本調子じゃないのに。

 ・・・・・最も、いくら憂鬱でもたぶんここには来てしまうのだけれど。

 数日間、特に張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったようだ。

 朝の職員室で、寺尾の保護者から欠席連絡を受ける担任の声を聞いた時、どれだけ安心したか分からない。

 風邪を引いて熱が下がらないのだそうだ。

 少しだけ、いい気味だと思った。彼を参らせたウィルスに感謝する。今日一日の平和はこれで約束された。

 さすがに職員室では両手をあげて歓ぶ事はできなかったが、保健室に入った途端、ほっとして暴力的な眠気と灰路はほのぼのと戦う羽目になった。

 ここのところ、まるで心に張り付くみたいに居座っていた不安が消えたおかげだろうか。

 不眠も続いていたし、身体は疲れている。

 ああ、眠い。凄く眠たい。

 珈琲の中身はすっかり飲み干し、これで十五分ぐらいは経っただろうかと見上げると、時計は五分も進んでいない。

 恨めしくて、うう、と唸る。

 渡された携帯に、仁八から電話はかかってこない。暇つぶしの相手にでもなってほしいとは思うけれど、多忙の彼にこんなときに自分から電話するのはごめんだ。

「そんな、まるで寂しいみたいじゃないか、僕が!」

 ついつい短縮ダイヤルにかかった親指に憤慨して、灰路は机に突っ伏した。

 がたん、手平の中から滑り落ちた携帯がぶざまな音を立てた。

「あー・・・・・・ひま」

 早く家に帰ってごろごろと、朝まで眠っていたいと思う。

 仁八の腕枕は固いから好きじゃないけど、とふと思い出すと腰の奥で、仁八の残していった熱が じん、と重く痺れた。
 
 生徒が帰れば、おざなりの会議がありその後は職員同士で近くの居酒屋で打ち上げだ。

 だが、あと一時間もすれば母親から、いもしない祖父危篤の知らせを受け自分は欠席することになっている。予定では。

 五分でさえ長く感じるというのに・・・・あとどれだけここにいれば帰れるのだろう。机の上などではなく布団の中に入りたい。

 耐え難い誘惑に、駄々をこねるよう足をばたつかせる。ああ、と呻きながら頬をべしゃりと潰し、突っ伏した視線に三台のベットが目に入った。

(なんだ、ここでも寝れるじゃないか)

 そう思ってしまったのはこのとき、仕方がないことだったのだ。

 思いついてしまった途端、いてもたってもいられなくなる。急激に身体は重くなり指一本動かすのでさえ辛くなった。

 気がつけば、腰をあげよろよろと身体を引きずるようにして灰路はパイプベッドに近寄っていた。

 和哉の特等席だったデスク横のベッドは、今は到底使う気にはなれない。

 意識など、とっくに手放していた。灰路は一番奥の壁際にあるベッドを囲う、カーテンをそっと引いた。

 三十分ぐらいなら、構わないだろう。

 少しだけ、寝てしまおう。

 ・・・・ほんの、すこしだけ。


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