セリング・クライマックス


 仁八に秘密ができた。

 いや、もともと言いたくない事の方が多いから、増えた、と言った方が正しい。

「眠れないのか」

 午前一時を過ぎて帰ってきた仁八は、扉口で立ったまま待ち受けていた灰路に目を見開きながら言った。

(眠れないよ)

 寺尾から握らされた封筒の中身は、学校から最寄駅のコインロッカーの鍵だった。

 取りに行けという事らしいと、判断して灰路は終電も間近になってから荷物を引き取りにいった。

 下手に一日置いて、延滞料金を取られるのが癪だったのもあるし、中身が何か想像できない以上はさっさと処分してしまいたかったのだ。

 例えば・・・・あの白衣のように汚されていたとしたら何日も経過させればさせるほど、えげつないものになりそうだ。

 意を決して扉を開けた瞬間、それはタイルの床の上にばさばさと落ちて広がった。

 おびただしい量の・・・・灰路の写真だった。

 中には七割が肌色という代物まである。

 それは保健室で男同士が絡み合う、卑猥な写真だった。

 過去の記憶から保健室でことに及んだのは一度しかないから、これは仁八を受け入れた日の行為を盗撮したのだろう。

 顔まではっきりと分かる。こんなくだらないもの、いつ撮っていたんだ。

 封筒の中にはご丁寧に寺尾の要望がかかれたメモまで入っていた。だが、それに従う気などとんとない。

 己の素行の悪さに勲章がひとつやふたつ増えるだけのことだ。

(ハメ撮りなんかさせられるか、っての)

 メモにはこう書かれていた。

 ―――御堂仁八にハメ撮りさせた写真を持ってこい、と。

 そしてまた、寺尾の儀式のいけにえにされるのだろう。それともその写真を見て仁八になった気分でも味わうつもりか。

(気色悪い・・・誰がんなこと。パスだ、パス)

 だがとにかく、学校の生徒が通りかからなくてよかった。散らばった写真に飲み屋帰りのサラリーマンにぎょっとされようが、いかにもお嬢様風の女子大生に悲鳴をあげられようが、それだけが救いだった。

 もはや慌てて拾う気力すら失い灰路は溜息をつきながら、それらを寄せ集めて鞄のなかに突っ込んだ。

 馬鹿だと思うのは寺尾の脅迫のやりかたが、リスクばかりで何の自衛手段も用意していないことだ。

 深読みすれば、もしかしたら凄く賢いのだろうか。抱かれることがたまらなく屈辱に思えてしまう灰路が、生徒にこんな嫌がらせを受けて怖がっているなど誰に相談できるだろう。

「どうした?」

 答えない灰路を不審がって仁八は続けざまに問う。

「・・・運動不足かもね」

 何もかもを咎めるような口ぶりで、灰路はさらりと言った。

 彼に非があるとでも思わなければ、やっていられないのだ。

 けれど仁八は相変わらずの嫌味くさい笑顔を浮かべるばかりだ。いらいらしているのは所詮自分だけなのだろう。

「だからってこんな入り口で待ってることはないだろ。・・・・俺がいなくて寂しかったのかと思うぞ」

 自分の様子の変調はこの男にはすぐばれる。

 ここ数日キスのひとつも仕掛けてこなかった男は、軽い口接けを灰路の尖らせた唇に落とした。

 灰路の身に何かあったのだと、いち早く気づいたのだろう。その結果がこの軽いキスに顕れた。

「・・・・あのさァー、こんなキスだけじゃ全然足りないんだけど。僕」

 子供だましだ。

 いっそういらだちを見せた灰路に、仁八はネクタイを緩めて煙草をくわえた。

 機嫌直せよ、と与えられた小さなキスは駄々をこねる子供をなだめているような誤魔化しでしかなかった。そして唇に煙草を挟んだということは、今以上のキスを与えてくれる気はきっと、ない。

「僕たちは大人の関係、なんだろ?だったらやることちゃんとしなよ。中途半端は嫌いだね」

 面白そうな瞳をして部屋の中へ入ろうとした仁八の腕を、すれ違い際に掴み、灰路は廊下の壁に押し付けた。

「くれない?」

 腰を押しつけ、掌をスラックスの股間へと伸ばす。久々に触ったそれは布越しにも分かるほど逞しい。

 指をすべらせ、絡め取るように愛撫してこれが欲しいのだと、撫でながら仁八の首筋に舌の広がりを押しつけて舐めた。

 仁八のつけているトワレのラストノートの刺激的な香りがふわりと漂い何もかもめちゃくちゃにしてほしいと欲望に頭の中を染めた。

「これ、食べてもいい?」

 足をもつれあわせるよう、絡み合いながら殆ど灰路が室内へと押し込むように移動する。仁八の煙草を奪って灰皿に押し付けると、彼をベッドへと突き飛ばすように座らせた。

 情けないことにきっと今、自分の顔はものすごく、のぼせたような赤い、がっついた顔をしていると自覚した。

 早くと急かして仁八のシャツのボタンをむしり取る勢いで外し、柔らかな絨毯に膝を落とすと、返事など待っていられないほどに、もうたまらなかった。

「好きなだけ?」

 しゅう、と火種が陶器の冷たさに吸い取られて落ちる頃、灰路もまたスラックスの上から男の股間に口接けていた。許可が下りる前に膝の間に体を割り込ませた灰路に、仁八は面白そうに口角をあげて笑うだけだ。

 上質の布地はそれだけで、唇にここちよい。もう限界だ。

 歯で噛んだファスナーをゆっくりと降ろす。顔を埋めた灰路の髪を仁八の指が滑っていく。

 布を指先でかきわけて、中の性器を取り出した。矢張り大きいと思う。指を根本から添えさせて、大事なものを扱うようにそっと取り出し空気に触れさせると、ごくりと知らずに喉が鳴った。目にしただけで、高まっていくのが分かる。

 はあ、と興奮にまみれた吐息を漏らしながら舌先で己の唇を濡らし、そろそろと顔を近づけた。

 亀頭を下からすくい上げるように独特の硬いものを広げた舌に乗せる。雄の匂いがするそれを唾液で潤しつつゆっくりと先端へと舌を滑らせてから、ぱくりと思い切って口に含む。

(あ・・・・)

 やらしい、かたさだ。

 唇で軽く圧迫してみると、まるで答えているかのようにく、と硬くなっていく。

 それから仁八のものだと思うと、余計に高ぶって灰路は夢中で舌を使いしゃぶった。

 横舐めに銜えると頬に濡れた感触が引きずって、生々しいぬくもりに体の奥がずくずくと熱さを増した。

 大きな性器は勃ちあがるとますます深く銜えるのが困難になる、喉奥を押されるぐうっとした苦しさに眉を寄せると、髪を撫でていた掌で上向かされた。

 苦しさと快楽で生理的に、涙で瞳が揺らいだ。

 奉仕する顔を見られている。舌と頭を激しく動かしながら口淫を続けていると、濡れた視界の中で仁八の唇だけがうっすらと開いて笑みを刻んでいるのが分かった。

(余裕見せやがって・・・・でかいっての)

 口をめいっぱい開いた状態で、喉の奥につきたてられるのだ。むせそうなのをようやくこらえて少しでも楽なよう、頭を引くと咎められる。

 普段ならば、このあたりで図に乗るなと怒るところだが、そんなことはどうでも良かった。

 唾液と先走りで口の周りをだらだらと汚した、はしたない自分の顔が仁八の性欲を煽るならばそれでいい。

 やがて、短い吐息を詰めるように呻いて喉奥でびくびくと彼は弾けた。

 口の中に、特有の匂いと刺激が広がった。灰路はそれを飲み干さぬまま口のなかにためおいて、ベッドに座る仁八の腰を跨いだ。

 咽奥に達したものを、灰路は広げた両の掌に、ゆっくりとだらりと吐き出した。

「スーツ。汚しても、・・・・いい?」

 焦れた呼吸を繰り返しながらの問いへの答えは、言葉としては返ってこなかった。

 ただ、片眉をくいっとあげて顎をしゃくる。とりあえず好きにしていいということらしい。 

 仁八が見ている。

 唾液が混じる白い粘った液体を、灰路はちっとも汚いとは思わなかった。

 仁八の体内から出たものだと思えば、そのぬくもりにどれほど飢えていたのか知る。

 見せつけるよう、指先に白濁をまとわせて自分の足の間にぬめりを広げるためにもっていった。内股にとろりとした流れる感覚。気持ちがいい。

 どうかしてしまったのだ、と灰路は己の事をそう思った。

 仁八の精液に、足を濡らされて興奮している。どうかしているに違いない。そしてこの肌にねばりつく感触をもっともっと欲しいと感じている。体の奥も外も、仁八で汚してほしかった。

 後ろに自らの指先を、卑猥な目的であてがうのは初めてだ。

(きて、仁八)

 ねっとりと濡れた温度の低い太腿に、仁八の手を促す。そこは狂おしい程、彼の手の熱さに飢えていた。ああ、愛撫だ。

 指と指を絡めあわせ、彼の指に体内から出たばかりのぬくもった精液を絡めてゆく。襞に触れあわせると吐息は、やがて弾んで一定のリズムを刻み始める。

 じれるような、は、は、という音。濡れた響きにあわせて呼吸はどんどん速まった。

 ゆるゆると襞の上に仁八の指を何度も滑らせていくうち、窪みはとろけて物欲しげにひくつき始めた。

 受け入れる準備が、整った。

(ああ・・・手まで、おおきい。ゆび、長い・・・)

 この指が、今から奥まった窄みを押し拓く。仁八以外、誰にも触らせたことのない、馬鹿になったみたいに抱かれたがる場所だ。

 そんな淡い期待を抱きながら、開いた足の間で、自ら仁八の指の上から押し込もうとした時、それはくぼみの上を僅かにかすめてずるりと前へと滑った。

 手首を足の間に挟みいよいよ、という一瞬後のことで、仁八の手首が返り灰路の切羽詰まった性器を握り締めたのだ。

「やりすぎだ、馬鹿野郎」

 ぼそり、吐き捨てるような苛立った仁八の低温が耳の穴から腰にずん、と響いた。

「あ・・・やっ!」

「濡れてるな」

 前を触られるという、ふいうちの直接的な刺激に後ろで感じ始めていた快楽は肩すかしをくらった。

 抗議の声をあげると、ぐるんと視界が反転し体勢が入れ替わった。

 ベッドのスプリングを激しく軋ませて、灰路の背はいつの間にかベッドに沈んでいた。

 悪戯をしかけた手首を逆に掴まれ、とっくに張りつめて勃ちあがった性器を乱暴に擦られた。

「ふぅ、あ、だめ・・・・だめっ・・って、じん、ぱちっ・・・!ああ、あ・・・う」

 それでもぐっしょりと濡れた性器は痛さどころか、しびれるような快楽を覚えるのだから仕方がない。

 押し返すふりをして仁八のシャツにしがみついている手が目に入ると、これがいやよいやよも・・・というやつか、と灰路は妙に納得した。

 体勢が入れ替わり、開いた足の間のものを握られてからは、あっけなかった。

 大きな掌がもたらす愛撫に飢えていた場所は、あっという間に果てへと導かれた。嫌だとかぶりをふっても、聞き入れてなどもらえなかった。

 はあ、はあという灰路の呼気だけが静まりかえる部屋の中に響いている。

 仁八は、息を乱すことさえなかった。濡れた掌をふくために枕元のティッシュが何枚か引き抜かれる。

 乾いた感触で内股と性器をぬぐわれると、涙が出そうに悔しかった。だが、そのティッシュが仁八の精液に濡れ物足りなく疼きつづける尻の奥に触れた時ほどの屈辱ほどではなかった。

 ほしがっている事を知っていながら、仁八は無視したのだ。

 強引に追い上げられたうえでの、射精がこれほどむなしいものとは知らなかった。

 仁八の手淫は確かに巧みではあったが、同時に突き放されたような傷を負った。

(ごまか、された)

 この自分が、跪いて奉仕してやったのに。

 今まで隣にいて身体を欲しがらなかった相手などいなかった。

 その自分が、自分から色を仕掛けてあっけなく誤魔化された。

 欲情しているのはお前だけだといわれているようだ。

 酷い打撃だ・・・・打撃なんてものではない、大打撃だ。目の前がぷつん、と電源を落としたかのように真っ暗になった。

 ・・・・と感じた時にはすでに部屋の照明は落とされていた。

 立ち上がった仁八は、もうそれ以上をする気はないようだ。起きあがってバスルームへ向かう背中が一度だけ振り返った。

「・・・・・おやすみ?」

 薄闇でも口の端だけ笑ったのが、手に取るように分かる。

 夜の挨拶にしては、妙に命令くさいな、と灰路は暗闇に向かってにらみつけた。




 この日ももれなく灰路は恐ろしく不機嫌であった。

 理由は目の前にいる、あれほど会いたくて会いたくてたまらなかった弟だ。

 欲求不満に重い腰をあげて学校に行き、またしても和哉についふらふらっとときめいた帰りのことだ。

 灰路は毎日懲りもせず、やけになって仁八をその気にさせようとしたが、いつもの通り容易くさらりと交わされていた。おかげで、寺尾の脅迫に関してはすっぱりと頭から飛んでいた。

 冬の下校時間を過ぎた空は、すでに日が落ち初めて太陽の明るさがかろうじて向こうのほうに残っているぐらいだ。

(はあ・・・・)

 夜になれば、行動的になっていた頃とはほど遠く、闇が近づくにつれて得体の知れない不安に悩まされることになる。

 学校から駅までは結構な距離がある。嫌だな、と自然早足になりかけた灰路を呼び止めたのは、百合だった。

 近くのコンビニで、百合は灰路が通りかかるのを雑誌を立ち読みしながら待っていたようだ。

 その瞬間、仁八のことも寺尾のことも頭から飛んだように思う。彼が自分を待っている事などここ数年なかったから、とにかく嬉しかった。

 久々に出かけないか、行きたいカフェがあるんだと持ちかけられてわざわざ足を運んだのは、何故か宿泊するホテルから近い銀座だった。そこまではいい。

「兄上にそういう顔、目の前でされると弟としてはいただけないもんなんですがね。やめてよ」

 久々に会って連れて行かれた喫茶店は、落ち着いた木目を基調としアンティークな雰囲気に包まれている。

 奥まった場所にある細長いビルのせいか、店内は常連客とおぼしき者ばかりだ。

 百合が一番若く見えるぐらいには、客の年齢層もほどほどに高い。

 個室風に僅かに仕切られた、店内のいちばん奥、革張りのソファーの上で百合は小指を立てつつ、ティーカップの中に落としたミルクをかき混ぜていた。やわらかな波が紅茶の色をやわらかに甘く濁らせていった。

 兄上、と茶化した呼び方が定着したのは、ここ最近のことだった。

「うん?」

「悶々しちゃってやり足りないって、だだもれー・・・・の顔?」

「・・・・ぶッ!」

「わお、図星?仁八さん、優しいんじゃないの。いろいろ」

 そのいろいろ、という言葉の含みに色々、詰まっていることを感じて灰路はつい珈琲を吹き出した。汚いなあ、と避ける素早さはさすが弟、というところだろうか。

「っていうかそう、それ。なんで仁八といつの間に結託してるのかな。僕は仁八を紹介した覚えはないよ」

「このまえ連絡貰ったからね、あのひとから。大事な兄貴を預かってる、ってね、脅迫電話かと思いましたよ初めは。いくらで引き取ってもらえますかって言っちゃいましたよ。思わず本音がぽろっと」

「本人の意志も聞かずに、お兄ちゃんを売らないでくれないかなァ・・・・・昔は素直ないい子だったのに」

 今でも素直ですよ、しれっと百合は言った。確かに百合は嘘はつかないけれど、なんだか妙に性格が歪んだような・・・・気がする

「最近、どうなのよ。この際だからぶっちゃけなさい」 

「どうもしないよ」

「うそ。・・・・・ちょおっと会わない間に随分やつれてやしませんか。ナルらしく気を遣ってたでしょうが、いつも。兄上の自慢ってか、取り得そこだけだよね。人間できてないしね。色疲れなら納得するけど、足りない顔しちゃって何があんの、本当のとこ」

「それ、僕がここで言うと思うわけ」

 声のでかさを咎めてから、人目を気にしつつ灰路は声を潜めて言った。

 確かに、一つ一つのテーブルにはなるべく間隔をおいて配置されており、隣の席の話す内容は聞こえないよう配慮された造りになっている。

 夕方五時を過ぎた店内には、土地柄出勤前のホステスと同伴客のような姿もちらほらと見えた。

 その、灰路が座った席の二つほど向こう、斜向かいに何故か仁八までいるのが、この日いちばんの不機嫌の理由だ。

 傍らには、化粧の濃い派手な美女と、およそ気質ではなさそうな男が二人。何か難しい顔をして話し込んでいた。仕事の話だろうが、終わるまで大好きな弟と待っていろ、とばかりのセッティングにはまるでお目付役をあてがわれたようで嫌気がさした。

「思うわけ」

 頷いた百合は飴色のマホガニー製であるテーブルに肘をつき、掌に頬を載せて軽く身を乗り出した。 

 こうなってしまえばもう、口を割るまで話してもらえないだろう。吐息して灰路は、ここ最近の鬱憤のひとつの原因である・・・生々しい描写は抜きに、触るなと言った日から触られなくなった、という事実だけをかいつまんで話した。

「・・・・へえ。彼は大型犬みたいなひとだね。忠実」

 ドーベルマンとか、ドイツ産の。

 付け足して百合は尊敬すら滲ませて関心していた。

「意地になってるようにしか見えないけど」

「愛したひとに触るなって言われたら触れないでしょ。まあ・・・・あっちはそれ、わざとくさいけど。兄上の素直になれないって弱点をよく知ってらっしゃること」

 仁八を盗み見て、百合は声を更に潜めた。

「・・・・そんで、兄上は触ってほしいくせに、マテ!してる相手にヨシ!と言えないわけ」

「はは・・・・・・はは、はは」

 そうだと言うのも馬鹿らしくて、遠い目をした灰路は肩を落として笑ってしまった。もう笑うほかになかった。

「だったら早く、してしてってねだって落ち着いてくんないかな。ほんとにね。分かってないと思うけど、その顔いつまでもしてたらやばいよ。だから変な虫もつくんだろう?」

「あー、もう。はいはい」

「だからわざわざ俺まで呼んで、心配してくれてんでしょ。過保護かもしれないけどあんな色男に心配されるなんてこの先、あると思っちゃだめだよ。もうあっちこっちから見放されてる立場、分かる?」

 言い聞かせるような厳しい口調に、分かってるよ、と口の中で呟いた。

 百合の言う通り、確かに仁八は仁八のくせに端から見ると色男だ。年を重ねて渋みが増し、いい男になっていく仁八に比べ、どう頑張っても灰路は間逆で大人の色気さえ身に付いたもののこのままではどんどん色恋沙汰から遠ざかってしまいそうだ。

 その男に、要するに百合は灰路のお守りを頼まれたわけだ。あげくのこのこと仁八の仕事が終わるまで自分をどうやら保護してくれているらしい。

 自分があまりに不甲斐なくて灰路は百合の目をまっすぐ見ていられずになんとなしに顔を背けた方向には、仁八がいた。

 何の打ち合わせだか、知らないが、仕事をしている男の顔になっている。普段緩めているネクタイもきっちりと結んで、真剣な顔をしている彼は、つれなく皮肉っぽい笑みを浮かべる彼とはまるで別人のようだ。

「・・・なんか難しそうな女連れてるなァ」

 自分のことから話題を遠ざけたくて、ぽつり呟いた言葉は随分僻みっぽくなり灰路は早速撤回したくなった。

 仁八の隣に座る女は、特別露出が高いわけでもなく、派手な柄のワンピースに身を包み深く背もたれに沈み、すらりとした長くそれでいて綺麗な曲線美を誇らしげに組んでいる。

 あれは、知っててやっている足だと、灰路は嗅ぎ取った。自分の色気をどう扱うか知っている者の仕草だ。

 かしづくように控えている仁八を見ていられずに、灰路は視線を外した。

 かき混ぜてばかりいる珈琲の中に、砂糖を落とした瞬間、しまったと思う。ぽとり、沈む音はさっきから三度も聞いた。スプーンを巡らせると底の方でざり、という溶けきらない苦手な感触がした。気にくわない。

「そう?プライドエベレストなとことか兄上と似てる」

「どこがよ、知ってんの?」

「鷺山代議士のお嬢さんじゃないかな、週刊誌に出てたよ。目のとこ一応黒塗りして潰して載せてたけどあの体つきは間違いないね。向かいの男は九頭組系のお方かと、多分」

 確かこの近くに事務所を構えていたはずだ、と言う百合に、どうしてそんなことまで詳しいのだと詰め寄る。

「・・・・ちょっと待って、なにそれどういうこと。何で仁八がそんなやばそうなのとつながりあんの?」

「え、だって鷺山代議士っていやあ、暴力団との癒着ですよ。表向き建築会社らしいけど、恩恵受けてるとかてないとか。何かとね。お嬢さんのほうもふかぁいつきあいあるってすっぱ抜かれてるし、その関係でしょ。・・・・にしてもあんな美人の隣なら座ってみたいね。自分分かってる女の人は嫌いじゃないよ。体つき、えろいし」

「百合にはリョウちゃん、いるでしょうが」

 ものごとの判断基準として即座に体を見てしまうあたり、さすが兄弟だな、と頭が痛くなって百合を窘める。

「なに当たり前の事言うかな、俺はああいう厄介なお嬢さんにおいたはしません。兄上と違って」

 真面目な一言は、だが百合があまりに呆れた声で否定してそこで終わった。

 なんとなくの沈黙が流れると、ふと自分と似た顔がどう恋人に接しているのか不思議になった。

「そういえばずっと聞きたかったんだけど・・・・百合、どうやってリョウ君落としたの?体格的には百合の方が上だろうけど・・・・リョウ君だってそんな」

 特別小柄というわけでもない、アイドル系の顔立ちではあったから女の子にはもてそうだったから、簡単にいくものかと思っていた。大体百合の風貌からして、一人の相手に真剣に向き合っている姿など想像がつかない。それをあの、純情そうな少年をものにしたのだから一体全体どんないけない手段を使ったのかと、やや不安になる。

「もしかして百合が下・・・・・?」

 聞きたくない、聞きたくないぞ、と思いながら恐る恐る尋ねる。聞きたいの?、そんな風に百合の視線が上向いて、ロイヤルミルクティをすする口元が少しもったいつけた。

「・・・・違うけど。でも俺はリョウなら上でも下でもどっちでも気にしないね。なに・・・・まさか兄貴、今更そういうこと気になる方なわけ?冗談でしょ?おかしなこと言うと鼻で笑っちゃうよ」

「・・・・僕の話じゃないでしょ、今」

「俺はいいですよ、誰の話でも」

 甘党の百合の手が伸び、灰路にとって不味そうな珈琲のカップを自分の前へ奪うと、店員を呼び止めて同じものを注文した。すっかり見られていた事に、複雑な気分になる。

 小さな子供だったくせに、どこまで気がまわるようになったのだろう。

「学んだのさ、色々と。その結果俺は、どえらい結論に気づいた。俺のプライドっていつでも俺の弊害になってたっていうね。気づいた時はすごい損をした気分だった、簡単に言えばそゆことかな」

「・・・・損?」

 伝票が一枚、増えてからしばらくして灰路は問い返した。

「どうやって落とした、って。つまり泣き落としってこと。大体がリョウが俺の前にいるだけで奇跡なのに、なんで上下でもめなきゃならんのですか。無駄無駄。意地張ってる時間あれば、たんと愛したいし愛されたいんです俺は」

「あっさり言うねえ・・・・・驚いた」

 割り切れるもんだ、と関心するとその反応こそに百合は驚いて、顔をあげた。

「複雑な問題でもないでしょうに。どうしても抵抗あるなら兄貴がやっちゃえばいいじゃん、とか青い俺は思っちゃいますよ」

「やだよ、手に負えないよあんなの」

 随分前にそれはやりかけた、と答えることはできず、顔の前で手を振る。

「手に負えないならあっさり離れちゃえばいいのにできない、なんでやんないの」

「う・・・・」

 百合の疑問は、己の疑問でもあった。何度も自問し続けた結果、答えのでなかったことを容赦なくつかれて言葉に詰まる。

 ついつい手が角砂糖のポットに伸びたとき、いち早く気がついた百合がそれを取り上げて避難させた。

「結局、素直に落ちるのがイヤンなだけなわけだね。兄貴のあまえた」

「百合までバカなこと言わないでよ、仁八ごときになんで僕が・・・っ」

 図星を隠そうと、むきになって百合の言葉の上からかぶせるように否定する。テーブルを叩いて続けようとした心を裏切る言葉は、百合の人差し指がぐ、と唇に押し当てられた事で止められた。

「そう?あのひとああ見えてすごーく兄上のこと甘やかしたがってると思うんだけどなあ・・・・?」

 ぐい、瞳の奥まで覗き込まれて灰路はそれ以上、何も言うことができなかった。昔から百合に覗き込まれると弱い。  

 言葉に詰まったことを運ばれてきた珈琲をひといきに飲み干すことで、ようやく灰路は誤魔化した。

「さて、あっちも話終わったようだし飲み終わったんなら出てようか」

 ちらり、向こうのテーブルを見やって百合が伝票を持ちながら促した。今のはわざと誤魔化されてくれたのだろうか。

「百合」

 立ち上がった背中に、灰路は聞こえないだろうと知りながら呼び止めるよう呟いた。

 何がなんだかわからない。

 答えを知っているなら、どうすれば一番いいのかどうか教えてほしい。

 張りすぎてどういうことになってるか分からないほど、こんがらがった年期の入った意地というのはどうやって、撤去したらいいのだろう。

 そんなこと聞く事はできずに、灰路は広くなった背中を眺めた。

 呼びかけて、たとえ自分の声に振り向いてくれても百合はもう、ひとのものなのだ。

 振り向いた百合は、何も言わない自分を怪訝そうに見ている。なにか・・・なにか、違うことを言わなければ。

「あのさあ」

 身長、また伸びた?

 結局、置き換えようとした二度目の問いの言葉は咽奥でつっかえて、口から外へと発信することはできなかった。

 もう、腕のなかに丸めて抱きしめることができないんだ。

 分かりきった答えを予測すれば、結果を聞きたくなくて灰路はあえて口をつぐんだ。

(大人に、なっちゃったんだな)

 彼が大きくなるたび、弱くなっている気がする。おまえの役目はごめんだ、とお払い箱にされた気になる。

 さみしい。

 途端、泣きたいぐらいに目の奥が熱くなった。
 
 
 

「子供欲しいなァ」

 何の意図もなく、ただそう思ったから灰路はぽつりと漏らした。

 ホテルの部屋のソファーに膝をかかえて座る。どの部屋にも当然のように存在する大きな鏡台ごしに、時計を外しネクタイを抜き取り、自分を自由にしていく仁八とふと目があった。

「何だそりゃ。お誘いか?」

 彼は、鏡の中から灰路に笑いかけた。少しだけ、驚いた顔をつくったあとの、くっ、喉を鳴らす笑い方で。

「アンタとやったからってデキるわけないだろうが」

 馬鹿か、と瞳を平たくして冷たい視線を投げかける。・・・・口にした後で思ったけれど、確かに今の流れは最初の自分の台詞のほうが馬鹿だった。

「そういう話じゃないよ。何で子供は大きくなるかな、と思って」

 喫茶店の下で仁八と合流してから、すぐ。時計を気にしていた百合とは別れた。

 恋人が待っているから、という理由は聞きたくなかったから、灰路はあえて引き留めることはしなかった。

「ひさびさに弟に会って、余計寂しくでもなったか?」

「ずっと大きくなんかならなければいいのに、と思ってさ。・・・・そもそもどうして女じゃないと子供できないんだろね」

「・・・・それはお前の専門分野だろう、保健医が。俺の子でも産むつもりか?」

「冗談。・・・・ただ思っただけだよ。子供って当然みたいに親の手から離れようとするんだ」

 大きくなんか、なって欲しくなかったのに。

 ちいさいままで、ずっと可愛いがらせていてくれたら今のこんなみっともない、誰にも胸をはれないような人生を送らずにすんだのだろうか。

「お前は親じゃないだろ、錯覚すんな」

 無意識に選び出した言葉を、仁八は正した。はっとして、顔をあげると鏡の中の仁八はもう自分を見てはいなかった。

「・・・・してないけど、話ぐらい聞いてくれたっていいじゃないか」

 甘えたことを言っていると知っているから、口調はどんどん消えそうに小さくなった。

「灰路の話はいつもどっかブっ飛んでんだよ」

 空気がふっと柔らかくなって、顔を見なくても仁八が笑ったのが分かる。目の前に立っている、仁八をぼんやりと眺めながら灰路はつれなさを恨めしく思った。

「弁護士のくせに忍耐のない奴だね・・・・ああ、違うか」

 吐き出した言葉を、灰路はふっと笑ってすぐに撤回した。

 仁八は恐ろしく、忍耐強い男だった。

「いつまで。続ける気?」

 脈絡のない灰路の問いは、たぶん仁八にはどこも歪む事なく正しく届いたと思う。

 ごろん、ソファーに横になった体で、灰路は自分の毛先を指に絡めた。この髪も、もうだいぶ他人の手に触れられていない。

「もしかして、仁八。僕を試してるだろう?」

 突然触れられなくなった理由が、もう他にどこにもなくてこわごわとそっと呟くように尋ねる。

「少し違うな。・・・・・お前に賭けてる」

 意味が分からない、と灰路はソファーに寝ころんだままかぶりを振った。

「思う結果と違ったら、それでアンタは僕をどうするよ」

「何も変わらない、俺は今まで通り気長に待つとするさ。変態のお前に惚れた時点でそん位の覚悟はとうにできてるぞ」

 人生を賭けている、深い瞳の奥で仁八はそう告げていた。長い時間の中で、灰路が心を開くのを待つというのだ。

 変態とは随分な言われようだ。感じながら灰路は笑った。

 確かに仁八には情けないところも含めてすべて知られていて、だが一度として見放された事はないのだ。

 灰路の耳元に百合の言葉が蘇る。

 自分のプライドというものがプラスには決してならないということは知っていたが、人から指摘されると奇妙に納得してしまうのだ。相手が百合だからこそ、というのもあるかもしれない。確かに、素直に寄りかかる事ができたなら、きっともっと楽になれるのだろう。

(所詮、僕は無駄にあがいてるってことなのか)

 何度考えても、どう抵抗しても・・・・・仁八に惹かれているのは否めない。

 灰路がどうしても捨てきれなかったこだわりを百合は、無駄無駄、とあっさりと二度も口した。

 考えれば、その通りだと思えてしまう。

 ひとつだけ、たったひとつではあるけれど胸の支えが少しだけ降りて呼吸が楽になった。

(なんか、・・・・もういいか)

 仁八の気持ちは確かに、重い。

 けれど、受け入れようともせず結論を急ぐ事はないのだ。この男はもう六年待った。そしてまだ待つ気でいる。ならば彼の酔狂につきあうつもりで、ほんの少しだけ・・・・体ぐらいは明け渡してやっても罰は当たらないだろう。

 仁八が何を欲して自分を拒絶したか、答えはこの体がねじれそうな位の欲求不満こそにあるのだ。

 そこにおいてはちっとも譲歩する気のなさそうな仁八に灰路は溜息をつき、人差し指で彼を招いた。そのまま、受け取って欲しくて伸ばし続けた手は、すぐに仁八の熱く大きな手に包まれた。

 ぐ、少しだけその手を引くと、仁八が自分の方へと引っ張り返し、おかげで反動で重い上体を起こすことができた。

 今夜、このベルトを外すのは持ち主ではなく、自分の役目になるだろう。

 ソファーから伸び上がって、背広を脱がせる。

 相変わらず仁八は灰路のすることを見守って、そしてどのラインで合格点を与えるのか考えているのだろう。

「頑固もの」

 呆れて口にすると、同じだけ禁欲生活を続けてきた、平気なふりをしてぎりぎりの仁八は一瞬罰の悪そうな表情になるものの矢張り笑った。

「意地の張り合いなら五分五分だろ」

「うるさいよ」

 もうこうなれば折れてやるのは自分しかいないのだろう・・・・・彼はそれを六年も待ち続けたのだから。

「分かってるんだろ、僕のことは僕よりも」

「多分な」

「だったら、なんとかなんないかな」

 もうたまらない。知っているんだろう、と広い胸板にしがみつくよう抱きしめる。くん、鼻をすすると肺の中いっぱいに仁八の香りが広がって、それだけで犯されているような陶酔を覚えた。

 抱いてほしい、そんな言葉の変わりに灰路はどうにかしてほしい、と甘えた。

「・・・・なんとかしてやろうか?」

 仁八が触れなくなってきてから守ってきたボーダーラインが、ふと尋ねた言葉によって少しのぶれを感じさせた。

「・・・させてあげても、いい」

「べつに、困らない」

 だが突然、素直になることはできずに再びかたくなな返事をすれば、一瞬だけ崩れそうになった仁八の砦は再び頑強さを増した。

「・・・・あ、そ」

 ここまで言ってもだめだろうか。

 別に純情ぶるわけではないけれど、なかなか直接的な言葉を口にすることはできずに悔しくて唇を噛んだ。少しだけ近づけそうだった距離がまた開いていく。最初に足踏みしたのは自分なのだけれど。

「・・・・悪い」

 軽い自己嫌悪に陥って黙りこくった灰路の頬に、押し当てられた唇から苦い謝罪がこぼれた。

 ・・・・最終的に折れたのは、仁八だった。

 後ろからぎゅ、と抱きしめられる。宥めるような抱き方だった。

「苛めすぎた、悪かった」

「・・・・甘やかすな」

 目頭がかあっと熱くなる。

 囁くような低音が首筋に落ちた。

 肉厚の唇からの息遣いが、ぴりぴりと抱いてほしくて過敏になっていた肌を刺激した。

 この男は、こうしていつまでも現実を受け止められない自分を甘やかし許し続けるだろう。

 だが、強固に守り続けた自尊心は、対等でいたいという灰路の願いと、確かに反対の結果をもたらそうとしていた。

「あんたが・・・・」

 言うのだ。

 唇から、たぶんずっと何度も何度も甘くて不味い珈琲と一緒に流し込んでおさえてきた言葉を、自分から言わなくては。

「あんたが、仁八が・・・・欲しい。抱いて」

 震える唇が音になって、言葉にした瞬間、身体の奥の何かが弾けた。

 それは赤くて多分熱い。

 内側から破られそうにびりびりと膨張していく、これは何かが生まれる前兆なのだろうか。

 血の流れが、仁八の触れている部分に一気に集結するように、貧血にも似た甘い眩暈を起こさせた。

 とうとう、手を取ってしまった。

 ぬるい関係で六年間つきあってきた中で、初めての領域に足を踏み入れる。

 果たしてこれが良かったのかは、まだ分からない。けれどすぐに分かる筈だ。

 なぜなら身体の奥におぼえる熱さは、とっくに知りえないものになっていたのだ。


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