旧幹部
旧幹部職員
すでに教団を離れているか、姿を見せなくなった過去の重鎮。
開祖・植松愛子
植松愛子。旧通称は橘カオル。旧姓は徳田。現在のワールドメイトの元になったコスモメイトを深見とともに創立した。
1924年3月3日。東京生まれといわれていたが、深見東州が2006年頃のある大阪の講演で「植松は大阪西成区出身で、後に帝塚山に住むようになった」と告白した。父親は部落解放運動に従事していたとも伝えられる。
東京在住後、近所の主婦達に料理や茶道を教える傍ら、主婦達を対象に宗教活動を行っていたといわれているが詳細は不明。
1970年代後半、半田晴久一家が自宅に同居、半田晴久の大学時代の後輩らを自宅周辺に下宿させて宗教活動をともにするようになる。道院紅卍会や世界救世教等で知り合った弟子たちと新規に宗教団体を興すことを画策していたが、一番年が若く寵愛していた半田晴久を教祖とし深見青山の名前を与え、大本教の創始者の形態をモデルとして神霊研究グループ・コスモコアを発足した。
「一流のものを着て一流のものを食べないと死後、神界に行けない」「神霊は装飾品を多く身につけている」という独自の宗教方針で指導を行っており、美食・ブランド品など奢侈を好む性格である。また煙で蛇霊を祓うとして喫煙を推奨していた。植松自身もヘビースモーカーといわれている。
コスモメイト全盛期にはその月収は一千万円を超えており、その生活は衣服から食材に至るまで経費で落としていたという。1993年の脱税騒動の後、教団内での呼称を橘カオルから本名の植松愛子に変えた。脱税騒動の際に深見が「植松は精神病の診断書を取っている」と告白し、教団に問題が発生しても植松に実刑が及ばないように準備していたことを明らかにしている。
息子が二人おり、この息子らは宗教活動と距離を取っていた。息子らは一時期ワールドメイト内で潜在能力の開発訓練システムを普及させようとしていたが定着しなかった。近年ではこの二人はワールドメイト内で全く名前が出ていない。
2010年に半田の弟の昌宏と、後継者として指名された栂村かなえとの結婚において、この植松家の親族が全く参加していないことから、ワールドメイトの実権は完全に半田一族が握っていると思われる。また椿邸と呼ばれていた植松一家の邸宅はワールドメイト関連会社の名義であったが、近年半田晴久の名義に書き換えられている。
現在では全く会員の前に姿を現さないため、すでに死亡している「死亡説」、認知症になっている「認知症説」がある。
元幹部・西谷泰人
1954年1月9日 -鳥取県倉吉市出身。ワールドメイト元幹部職員。西谷式流年手相術創始者。作曲家。
「あの頃に帰りたい」新宿音楽祭新人賞受賞(荒井由美の楽曲「あの日に帰りたい」と勘違いする会員が多数いた)、作曲家としての目立った功績はこの一曲のみ。西谷式流年手相術を創始した後深見と知り合い、手相鑑定および手相鑑定家育成、著作による布教活動を行う。
コスモメイト時代に会員達から組織のNo.3(No.1は植松愛子、No.2は深見東州)と認識されていた。組織上には25人組と呼ばれる教祖深見の大学時代の後輩などが、西谷よりも上位の幹部に位置していたが、この25人組全員が西谷の上席にいたわけではない。
西谷の出した「大強運」「大逆転」などの、当時のコスモメイトを紹介する著作群は、90年代前半のコスモメイトの布教に大きく貢献した。西谷の著作を読み、10万人前後の人間がコスモメイトに入会したと思われる。西谷の著作に書かれている宗教的教えは深見の教説を西谷の解釈で記載したものばかりではなく、過去に西谷が所属していた思想グループの教えに依るものの影響が大きいといわれている。
某宗教団体の幹部候補であったことは本人が自らの著作で明らかにしていたが、統一協会の信者であったことはあまり知られていない。西谷は合同結婚式直前まで熱心に活動していたが、深見の言によると「西谷は髪を長く伸ばすなど、統一教会幹部に大変に異端視されていた。結婚式の当日に相手に初めて会い、相手の容姿を見て、西谷の御魂が拒絶反応を起こし、逃げ出した」とのことである。
手相を用いた布教方法をワールドメイトに導入したが、これは統一教会からの転用と思われる。
1993年の脱税報道、一連の造反騒動によって当時のコスモメイトは会員数は激減し、深見の求心力は目に見えて低下した。
その打開策から破滅予言を行い、これを会員に対して伝え、「救われたければ宗教活動に従事せよ」という典型的カルト宗教の集金活動を行った。似たような手段で、献金・布教をする宗教に統一教会があることから、この手法は西谷が持ち込んだものと考えられている。
サッカー好きで、Jリーグが日本で編成されたとき、自らもGリーグというサッカーチームをワールドメイト内で組織し、全国にある各エリアで対抗戦を行った。その後、深見が鶴の一声で「蹴鞠に比べるとサッカーは修羅道に墜ちている」と批判したために、Gリーグは瓦解した。
西暦2000年、ニューヨークに転勤、その後アタールの取締役を辞任。
アタールの辞任後もワールドメイト関連企業に役員として登記簿に名を連ねていた。ワールドメイトから未だに役員報酬が支払われている、という説もある。
2009年、自ら辞したはずのワールドメイトの関連団体の国際手相協会の理事長に就任したことから、ワールドメイトとの関係は未だ切れてはいない模様。
西谷はブログ上で匿名の宗教指導者の人格を批判をしたが、これは深見東州の事だと思われる。しかし西谷本人は、自分ががワールドメイトの幹部信者であったことをネット上で告白していない。
ブログ内で「最強の弟子」という複数の弟子を紹介していたが、すでに一人しか残っていない。
統一教会以前にも「シャクティパッド」を行うヨガ系カルトに属していた過去がある(ライフスペースではないと思われる)。
元幹部・村田久聴
1986年、深見の元に現れ、弟子となる。気学研究家、映像作家。深見から独立する際に分派活動を行ったとされ、ワールドメイト最大の裏切り者とされている。
- 最終更新:2011-03-05 16:07:47