長崎市愛宕2丁目の写真家小林勝さん(84)は旧日本海軍の人間魚雷「回天」の残影を追い続けている。2008年から毎月、訓練基地のあった山口県周南市に通い、関連遺構や街のたたずまいを収めた写真は約1万8千枚にも上る。17日から周南市美術博物館で開かれる写真展で、若くして命を落とした同世代の犠牲者への鎮魂の思いを込めた12枚を展示する。
小林さんは08年、周南市出身の写真家故林忠彦の名を冠した写真賞「林忠彦賞」を受賞。授賞式後に立ち寄った同市の徳山港で回天の実物大模型を見た瞬間、激しく胸を突かれ、封じ込めていた60年以上前の記憶がよみがえった。
旧制長崎中学を卒業した小林さんは1944年9月、神奈川県藤沢市の海軍電測学校に入学。レーダー探知技術などとともに、手りゅう弾の投げ方や敵の戦車に体当たりする方法もたたき込まれた。学友の中には、別の学校や部隊に転属し、回天を搭載した潜水艦に乗務した者もいたという。
訓練の途中で終戦。長崎の家族は疎開で原爆の被害を免れていたが、鳴滝町の自宅は焼け、がれきの中で野宿した。親戚を捜して爆心地近くに入り、入市被爆もした。
戦後は銀行員となり、趣味で始めた写真に夢中になった。長崎の人々や生活、歴史や風土をテーマとし、戦争の記憶は封じ込めてきた。だが、周南市で回天の模型を見た瞬間、胸がつぶれるような罪悪感に襲われた。
片道だけの燃料を積んで出撃し、海に消えたのは、同じ年頃だった若者たち。「生き残った自分が申し訳ない。できる限り供養をしたい」。毎月3-4日、同市に滞在する撮影生活が始まった。
魚雷運搬用のトンネル、発射試験場、隊員の遺品を展示している記念館…。遺構だけでなく、回天の記憶をとどめている街全体の雰囲気をとらえようと、瀬戸内海の夕暮れや、葉桜のトンネル、寺の紅葉など四季折々の表情を切り取った。
今回12枚を出品するのは、林忠彦賞受賞者の作品を展示する記念展(10月30日まで)の一角。戦後66年がたち、回天の記憶は少しずつ人々から薄れ、訓練基地があった同市大津島を訪れる人も年々減っている。
写真展の準備を進めていた6月、小林さんは息苦しさを覚えて病院を受診、間質性肺炎と診断された。
「今回が最後の展覧会になるかもしれない」。戦争の記憶を封じ込めていたころ、「平和」を軽々しく口にすることに抵抗も感じていた。しかし、今は違う。「写真を通して、当時を知らない今の若者たちに何かを感じてもらえたら」
=2011/09/05付 西日本新聞夕刊=