本日17日、あの宮崎勤の死刑が執行された。
なんとも見事なタイミングである。
さっきから身体の震えが止まらない。
権力って本当に恐ろしいことをするなあと、改めて思い知らされた。
その根拠は後述するとして、とりあえずこの事件に関して語ろう。
はっきりと断言するが、宮崎勤は冤罪以外のなにものでもない。
国家権力と取り巻きのゴロツキたちによって作り上げられた、虚構のストーリーであって、我々はすっかり騙されたと言うべきだろう。
宮崎勤が逮捕された1989年当時、マスコミが放送するこの事件の顛末について、おいらはまったく疑っていなかった。
それを疑うようになったのは、出版業界に入ってからのことだ。
世の中、いかに嘘ばかりが蔓延しているか…それに気づくまで、そう長くはかからなかった。
タブーが多すぎるのだ。
これは書いてはならない、これに触れてはならない…そんな話ばかりだ。
宗教、暴力団、市民団体、同和、在日、ユダヤなど、本当に多岐にわたる。
たいていのタブーは、名誉毀損やら差別やらという形で攻撃を受ける。
本当のことを書くことが道徳に反するように言われるわけだ。
いまはネットというものがあるので、以前よりはやりやすくなった。
だからこそ、ネットでの言論を封じようという動きも出てきているのだ。
一見、本題とまるで関係ないような導入だが、最後まで読んでもらえればわかると思う。
一応、先に断っておこう。
おいらはなにも宮崎勤がすばらしい人間であるとか、悪いところのまったくない人間だと言いたいわけじゃない。
警察に目をつけられるなんらかのこともあったかもしれない。
あくまでもこの件に限った話をしているだけだ。
さて、件の宮崎勤事件である。
みんな強烈に記憶に残っていることだろう。
埼玉県と東京都を舞台に、4人の女の子が誘拐・惨殺された、あまりにも痛ましい事件であった。
逮捕された宮崎勤は、いまで言えば引きこもりのようでもあり、オタクともいえるキャラクターであり、自室に6000本ものいかがわしいビデオを溜め込んでいたとされている。
ニュースでは次から次へと宮崎勤の供述どおりに遺体が発見され、部屋からは遺体の写真や陵辱ビデオが見つかったと報道。
それによって、多くの人間が彼を「猟奇殺人鬼」と思い込まされたわけである。
しかし、事実はだいぶ違う。
この宮崎勤の裁判において「決定的な物証」と呼べるものは皆無だったのだ。
もう一度繰り返そう。
皆無、である。
まず、宮崎勤の供述どおりに発見された遺体であるが、非常におかしなエピソードが残っている。
この際に3組の遺体が見つかっているのだが、いずれも二度に渡る捜索が行われており、その二度目に発見されたのである。
さらに、野本綾子ちゃんの遺体は、失踪から2カ月にしてすでに白骨化していた。
それも、硬膜などの組織もきれいになくなっていたという。
通常、野ざらしにされた遺体であっても、その状態になるまでには半年以上の時間が必要である。
彼の供述では「工場の流しで頭蓋骨を徹底的に洗った」ということになっているが、問題の流しから被害者の痕跡は一切発見されていない。
髪の毛一本、皮膚組織ひとつ、血痕一点たりとも見つかっていないのだ。
そして、これが一番不可解な話だ。
今野真理ちゃんの歯や骨が自宅に届けられたエピソードを覚えている人は多いだろう。
実は、被害者を診たことがある歯医者が「その歯は真理ちゃんのものではない」と証言しているのである。
届けられた歯のなかに、治療したものは一切存在せず、また、あるはずのない永久歯(真理ちゃんは4歳だった)が混じっていたからである。
これについて、当初、埼玉県警は「別人のものである」と発表したが、翌日には「別人のものとする根拠がなくなった」と、非常にあいまいな言葉でそれを撤回したのだ。
結局、今野真理ちゃんの身元を証明することになったのは、数日後に届いた今田勇子名義の「犯行声明」だけである。
これによって、なんら科学的な証拠もなしに、身元が決めつけられてしまったのだ。
ちなみに、これらの遺体についてDNA鑑定は行われず、単に血液型で判別しただけである(当時、すでにDNA鑑定は可能だった)。
もちろん、犯行声明から宮崎勤本人の指紋などが見つかったという話もない。
こんなおかしな現象は、数限りなくある。
・犯行声明の原案になったとされる映画「スウィ―トホ―ム」(伊丹十三)のビデオは、彼の逮捕後の発売だった。
・死体遺棄現場そばの山中で脱輪しているところに出くわした証人が「車は(ラングレーではなく)カローラIIだった」と証言している。
・また、その相手は身長170センチくらいだった(宮崎勤は159センチしかない)。
・被害者家族が見せられたという陵辱ビデオには、顔が一切映っていなかった。
枚挙に暇がないほどだ。
このへんは、専門のサイトを見たほうが話が早いだろう。
結局、裁判においても、物的証拠などというものはまったく存在しなかった。
ご存知のとおり、日本の法制度は「疑わしきは罰せず」である。
なんら証拠がない以上、罪に問うことはできない。
ましてや、死刑になんてできるわけがないのだ。
念のために申し上げておくが、あたくしは死刑制度廃止論者ではない。
むしろ、より重罰に問うべき犯罪行為があると思っているくらいだ。
ただ、そのためには、法治国家としてごく当たり前の概念である「罪刑法定主義」の徹底が必要であろう。
いまの制度は、警察、検察、裁判所が強力なタッグを組み、法に照らし合わせたところで罪に問えない国民を無理やり牢獄送りにする危険性を秘めている。
いや、実際にそういう例は数限りなくあるのではないか。
これは、正直なところ、我々国民にも非があると思う。
日本人はお上に弱い。
警察が逮捕したという段階で、その人間は犯人扱いされてしまう。
そして、凶悪犯が捕まったということで、ああ、これで平和が戻ったと安心してしまう風潮があるではないか。
また、冤罪説を唱えたりすると、べつの非難も飛んでくる。
「遺族の気持ちを考えていない」というものだ。
だが、言わせてもらえば、遺族の気持ちを考えるなら、真犯人が捕まることこそが願いではないのかとおいらは思う。
間違った人間が捕まり、罪に問われという状態を放置していいわけがない。
そういう感情的な声が、真相追求の一番の障害になっているのもまた事実だろう。
そういう意味で考えると、日本は厳密には人治国家なのではないかと思う。
もしくは警察国家ともいえるかもしれない。
目に見える証拠などは関係なく、警察が捕まえた時点で犯罪者と認定されるわけだから。
しかも、その後の国民感情によって、法律を曲げるようなことまで本気で語られている。
たとえば、危険運転致死傷罪が施行されるきっかけとなった飲酒運転事故について「超法規的措置で厳罰を処するべき」といった論調がマスコミで展開されていたことがあった。
あたくしとしても、そう言いたい気持ちはわかるし、できることならそうしたほうがいいとは思う。
だが、それはべつの危険もはらんでいるのだ。
法律を感情によって捻じ曲げてしまう前例を作ってしまえば、のちにそれが悪いように利用されることもあるはずだ。
かつて、紛れもない人治国家である中国において、スイカ泥棒に死刑判決が下されたことがある。
最初にそいつが盗みを働いたのを見て、次から次へと人民が泥棒に変貌し、倉庫が空になってしまったという事件だ。
これは非常に問題があるとして、最初に盗んだ男を厳罰にすべしということになったのである。
極端な例ではあるが、法律を曲げるということにはこういった危険がある。
正直、加害者が軽微な罰しか与えられなかったら、被害者は死に損であると思う。
だが、それを見合った形に直していくのは、あくまでも立法府の役目であって、政治家の最大の責務であるはずだ。
話を戻すが、自分が冤罪に巻き込まれる可能性は常にそこにある。
人ごとで済まさずに、冷静に物事を見据える必要があるだろう。
それをもっとも邪魔しているのは、権力の周囲にうろついているマスコミという名のゴロツキではないかとおいらは思う。
この宮崎勤事件において、検警察とグルになって国民を洗脳したのは間違いなくやつらである。
断言する。
おそらく、あの事件の本当の犯人(たち)は、いまものうのうと生きているか、平和に一生をまっとうしたに違いない。
事件の一応の解決を見せるために、人身御供として宮崎勤が絞首刑になったのだ。
その父親も無念の自殺を遂げているし、かつての新聞社も消え去った。
警察の面子のためなのか、さもなきゃべつの犯人を隠すためなのか、その理由はわからないが、どれだけの人間がその犠牲になったのか考えてもらいたい。
現在進行形で被害者が増えている可能性だってあるだろう。
我々は、こんな日本の酷い構造について考え、糾弾していかなければならないだろう。
そして、話は最初に戻る。
どうしてこの時期に宮崎勤の死刑が執行されたのか。
おいらはある仮説を立てている。
少し前にあった秋葉原の無差別大量殺人事件は記憶に新しいところだろう。
あの事件において、マスコミがしつこく繰り返しているのが「ネット掲示板の犯行予告」だ。
ほかにもいくらでもやるべきニュースはあるだろうに、いまだその話題を繰り返しているところに恣意的なものを感じている。
要するに、あの事件はネットカルチャーによるものというイメージ捏造なのだろう。
そして、宮崎勤だ。
彼の本当の人となりはわからないが、少なくとも世間のイメージでは旧世代の暗いオタクといったところだろう。
その当時、彼の傾倒していたものが悪いと、ホラー等の表現が叩かれたこともあった。
つまり、両者をあわせることによって、新旧のオタク的なものに対し、マスコミが攻撃を仕掛ける材料になるのだ。
いったいなにが始まろうとしているのか。
とかくネットやコンテンツに対する規制が必要であるという論調が広がるだろう。
表向きは、オタクのような不健全なものに対して誰かが監視しなければならないというものであるが、その本来の目的は言論統制であるに違いない。
勘ぐりすぎだと言われればそれまでだが、あたくしはこの死刑執行について、こういう世論形成を狙ったものではないかと、役所とマスコミのコラボレーション戦略なのではないかと考えてしまうのだ。
もしも、両事件を一緒くたにしたような報道が展開されたなら、この仮説は大当たりと見るがいかがだろう。
本来、マスコミは言論統制と戦う立場にあるはずだった。
だが、いまは違う。
以前から何度も書いているように、マスコミはすでに権力の手に落ちているのだから。
むしろ、テレビや新聞を見る時間を奪い取り、影響力や広告料を下げさせる要因となっているネットは、彼らにとってつぶしたい勢力である。
もしかすると、本当の第四の勢力というのは、このネットであるのかもしれない。
我々は、決してこれらのプロパガンダに騙されることなく、自由な言論を守るために戦わなくてはならない、そんな気がするのだ。
以上が、この宮崎勤事件「終結」に関する、おいらの率直な気持ちである。
事件の被害者やそのご遺族、そして、本日、命を奪われた宮崎勤とそのご家族…つまりはその権力に呑み込まれてしまったみなさまに対し、心より哀悼の意を表し、そのご冥福をお祈りするものであります。