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[28866] 【習作・不定期更新】少年は、巴マミを見つけた。(魔法少女まどか☆マギカ・オリ主)
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/07/27 05:57



1.魔女結界の迷子



 ふと目覚めると、三原色の道を歩いていた。道の幅も長さも曖昧で、そのくせ色だけははっきりして目に痛かった。視線を移すたびに、道はその形と角度を変えていく。さっきまで真っ直ぐだった道が、洗濯機の渦のように曲がりくねったりしていた。
 正しい方向、正しい道なんて存在しない。お前はここでずっと迷い続けるのだ。
 そう誰かに言われたようで、彼はちょっと戸惑った。

「まあ、俺は007じゃないしな……ぼちぼち行きますか」

 迷うことを知らない無敵のスパイヒーローを頭に思い浮かべながら、恐る恐る不安定な道に足を踏み出した。手に吊ったコンビニの袋の中で、夕食に使う牛乳と卵がぐらぐら揺れて不安を掻き立てた(店員に、卵だけ別の袋に入れてほしいと頼めばよかった)。
 これだけぐにゃぐにゃした世界なのに、足裏に返ってくる感触はリノリウムのように固い。視界が当てにならないので、耳を澄ました。小バエが蝋燭の火に焼かれるような、ジッジッという鋭く小さな音が聞こえる。少しポジティブな聞き方をすれば、アナログテレビのノイズに聞こえないことはなかった。地デジ対応はお早めに。
 それでも、やはりこの音は不快で、知らず額に脂汗が滲んできた。浅くなる呼吸を強いて深い呼吸に切り替える。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
 将来もし彼女ができて、結婚して、子供が生まれることになっても「ラマーズ法なら任せておけ!」と自信を持って言えそうなほど口呼吸に習熟する頃には、この道を随分先まで進んでいた。景色は一向に変わる様子はなかった。ぐるぐる同じ場所を回っているのかもしれない。どうやら、会ったこともない将来の嫁さんのことより、まずはこの場所を抜け出す方法を考えた方がよさそうだ。

「と言うか、ここどこなんだ?」

 敢えて考えないようにしていたことを、ついに直視しなければならなくなった。彼が覚えている限り、この見滝原の街にこんなトワイライトゾーンみたいな観光名所は存在しないはずだ。それとも、彼だけ知らなくて、最近はこういうのが流行りなのだろうか? だとしたら、そんなニーズに合わせてこの道を作った職人さんには敬意を表したい。会ったら、ひと言文句を言ってやろう。

「……やばい」

 あまりに絶望的な状況に、思考が上滑りする。ついでに、遭難したときはできるだけその場を動かない方が良いという山のルールを思い出して、とりあえず歩き出したちょっと前の自分に軽く頭を抱えた。007なんて、大っ嫌いだ。
 遅ればせながら、これ以上歩き回るのを止めた。目に痛い道は変わらずそこにあった。
 さて、どうしよう?

「どうもこうも、歩くしかねぇじゃん」

 お巡りさんだろうが消防隊員だろうが、こんな不思議空間には二の足を踏むはずだ。もし来てくれるのなら、その人は本当にヒーローだが、ヒーローに関してはついさっき懐疑論者に鞍替えしたので、期待しないことにしよう。

 体感時間で10分か20分歩いたときだった。彼は、一匹の鳥を見た。

 初め、彼はそれを子供が捨てた玩具だと思った。生き物にしては色がどぎつかったし、丸みも足りなかった。この空間と同じ三原色の積み木ブロックで組み立てたと思しき鳥の模型。それは、鳥にしては太めの黄色いブロックを足代わりにしていた。道に立ち、彼からそっぽを向いている。
 彼は、この奇妙な道ではじめて見つけた物に強い興味を引かれながら、そばを通り過ぎた。触れようとは思わなかった。手に取って眺めるには、とてつもなく怪しい。近づいた途端に捕って食われるなんて展開にならないとも限らない。
 信じられない場所では、信じられないことが起こるものだからだ。この世界には、幽霊だって妖怪だっている。彼にはそれが見えることがある。これはマジだ。冗談ではない。

「でもさすがに、お祓いとか厄除けのスキルはないんだ。だから、祟りとか呪いとかは勘弁してほしい。もちろん、ロハとは言わない。お布施ぐらいならしてあげるから」

 独り言を呟く。誰かに見られてたら痛々しいことこの上ないが、寂しいのだからしようがない。ここにはテレビもDVDもパソコンもない。さっき確認したが、携帯電話も通じないようだ。普段その辺りを漂ってる幽霊も軒並み姿を消しているところを見るに、本当にヤバい場所のようだ。
 彼らは、夜の墓場とか、海岸の断崖絶壁とか、樹海とか、一見危険そうな場所には近づかない。そういう場所で、死人が出て、幽霊が生まれるからだ。地縛霊なんて呼ばれるものもいるがあれは例外で、ほとんどの霊は人肌の温かさを求めるように街に繰り出して遊び回っている。考えてみればいい。いったい、どこの誰が自分の死んだ場所をうろつきたいと思う? 嫌な思い出しかない所なのに? 彼には、霊たちの気持ちが理解できる。幽霊だって、嫌なことはさっさと忘れたいはずだ。
 この色鮮やかな空間には幽霊がいない。だからきっと、ここはジェット旅客機並みにヤバい場所だと、彼は思った。彼の両親は、あれで墜落死した。以来、彼は空を飛ぶ乗り物が怖くて仕方がない。
 心なしか、ノイズが大きくなっている気がした。どうやら、小バエでは満足できなくなって、チキンを丸ごとローストし始めたようだ。チキンは好きだ。元気だけど臆病なところに親近感が湧く。だが、同じようにローストされたいとは思わない。ご愁傷様。
 ふと、見られているような気配を感じてふり向いた。
 誰もいない。見つめ続けると気分が悪くなりそうな三原色の空間が真っ直ぐ後ろに続いていた。……これで、そっぽを向いていたはずの鳥の玩具が不細工な嘴をこっちに向けてふわふわ宙に浮いていなければ、完璧だった。誰もいないが、何かがそこにいる。

「うっ!」

 呻いて、思わず彼は走り出した。行き先は定めなかった。こんな場所では、どこに向かっても大差ない。とにかく、あの鳥から離れられればそれでよかった。
 コンビニの袋が脇でガサガサ鳴ってうるさい。だが、握りしめた拳は固まって緩んでくれず、そのまま走り続けるしかなかった。彼はぶん回した卵の安否を少しだけ気遣っていた。自分自身を気遣う方が、ずっと心の割合は大きかったが、少なくともパックに入った牛乳は心配しないでいいのだから、その分だけ卵の心配をしても罰は当たらないだろう。なにせ、チキンの子供なのだから、親切にしてしかるべきだ。

「はっ、はっ、はっ!」

 後ろを見るな。後ろを見るな。後ろを見るな。
 そう自分に言い聞かせても、彼は誘惑に逆らえずに後ろを見た。
 不細工な嘴を持つ不細工な鳥は、とっくに子供が捨てた玩具のふりを止めて彼を追いかけていた。ブロック状の翼を左右に広げ、ハングライダーが滑空するように宙を滑っている。あの翼で、どうやって風を受けて飛べると言うのか? ベルヌーイの定理に喧嘩を売るその行為に、彼は鳥から視線を外して真っ直ぐ走ることだけに専念した。人間、解らない物ほど怖いものはない。あの鳥はジェット旅客機より怖かった。
 何だか嫌な予感がした。もしこれがあの鳥のことなら、お前の予感は数秒ばかり遅かった。遅刻厳禁。五分前行動は学生の常識だ。もうすぐ中学生になるんだから、お前ももうちょっと時間に厳しくならなくちゃ! 彼は自分自身の鈍い直感に心の中でそう叱りつける。
 だが、これは冤罪だった。彼の直感は、無遅刻・無欠席の優等生だった。ちゃんと「この道は拙い。引き返せ!」と彼に伝えてくれていた。
 彼はそれを無視した。その結果、袋小路に追い詰められた。

「……嘘だろう」

 勿論、嘘じゃなかった。ただ、言ってみただけだ。
 三原色のおもちゃ箱。はめ込みブロック細工の街が目の前に広がっていた。赤、黄、青の三色ブロックが古代ローマの街並みを再現していた。たぶん、ローマだ。じゃなければ、ギリシャか? どっちでもいい。あいにく、社会科は得意科目じゃない。
 代わりに、ゲームは得意中の得意だ。テレビゲームでもボードゲームでも何でもござれ。唯一の難点は、成績に結びつかないことだが、今の状況を考えるのに一番近い科目であるのは、間違いない。小学校の授業は、こんな状況の切り抜け方は教えてくれなかった。きっと、中学でも同じだろう。学校の勉強は、実社会では役に立たないと聞くが、どうやら本当のことらしい。

「真面目に勉強しなくてよかった。いや、ちっともよくないか」

 このままでは、中学に上がる前にジ・エンドだ。この状況、彼は明らかにこの場所へ誘い込まれた。後ろを見ると、例の道はなくなっていた。あの不細工な鳥もいなくなっている……ますます拙い。この流れは、アクションゲームで言うところの「ボス戦」目前である。武器も、防具も、ボスの弱点の情報もなし。つまり、勝ち目もなければ生き目もなし。

「いや、ボスがいないなら、それに越したことはないんだけど……」

 嫌な予感は、全然去ってくれなかった。背筋は寒気で震えるし、脇の下は冷や汗を掻いていた。優等生な直感も善し悪しだ。ちょっとは肩の力を抜いて、居眠りの練習ぐらいしたら? 我ながら理不尽な意見だったが、今はとにかく脱出である。現実と言う名のゲームに、エスケープ機能はない。自力で抜け道を探さなければならない。だが、どうやって?
 彼は、古代建築っぽくって、やっぱり目に痛い三原色の街を眺めた。眺めただけじゃ分からなかった。どうやら、また歩き回る必要があるらしい。お馴染みのコンビニ袋を手に持って、彼は街を歩きはじめた。ふと、袋の中身を見た。卵も牛乳も無事だった。何よりだ。

「赤、黄、青……赤、黄、青……赤、黄、青……」

 円形フロアの縁を回りながら、抜け道を探す。歩きながら、彼は三つの言葉を念仏のように唱えた。何かが頭に引っかかっていた。この念仏の何かが気になる。何故? 自問しても自答できなかった。まるで禅問答のようだ。お坊さんなら、ささっと回答してくれそうである。あいにく、彼はただゲームが得意な小学六年生(備考:霊感持ち)である。なぞなぞは得意ではなかった。クロスワードパズルみたいなのも嫌いじゃないけど、趣味ではなかった。勉強みたいだから、好きになれない。
 無事にここから出られたら、頭をスキンヘッドにするのも悪くないかもしれないぞと、彼はぼんやり思った。頭を丸めれば、なぞなぞぐらい訳ないかもしれない。……いや、やっぱり止めておこう。スキンヘッドを差別するわけじゃないが、女の子にはモテなさそうだ。お坊さんを目指すにしろ、スキンヘッドの強面を目指すにしろ、恋人を作った後でいいだろう。

「まあ、その前に抜け道を見つけられなきゃ、そこまでだけど」

 しかし、見つからなかった。他の場所に繋がるような道は、どこにも見当たらない。念仏の何が頭に引っかかるのかも、分からなかった。やっぱり頭を丸めるべきだろうか?
 ぐるっと一周してみた。別の場所に繋がる道があるなら、フロアの外側だとばかり思っていたが、当てが外れたようだ。フロアの縁は、壁しかなかった。
 となると、街の真ん中に向かって歩くしかないわけだが……。

「うわぉ……《ボスの間》へ一直線?」

 それは、とんでもない死亡フラグではないだろうか? 少なくとも、蟻が蟻地獄に向かって進むより、性質が悪い気がする。けれど、進むしかない。後戻りはできないのだから。
 街の中心、原色ブロックで出来た宮殿が建つ場所を目指して、彼は歩き出した。



2.色彩の魔女《エミリー》



「レッド、イエロー、ブルー……レッド、イエロー、ブルー……」

「赤、黄、青」より、唱えにくかった。何となく、歯切れが悪い。コリッとした軟骨が奥歯に詰まったような具合の悪さだ。やっぱり、日本人は日本語使わなきゃ駄目だ。それでも、彼はそのまま「レッド、イエロー、ブルー」と唱え続けた。英語のフレーズや洋楽がカッコイイと思いたい年頃だった。
 というか、半ば自棄になっていた。錯乱しないように、念仏で冷静さを繋ぎ止めているだけだ。内容はどうでもよかった。
 目の前にある三色の宮殿は、とにかく大きくて、とにかく派手だった。その威容を見て彼は、これを作った奴は大した根性だと感心した。何が面白くて、積み木細工でタージ・マハルみたいな宮殿を建てようなんて思ったのだろう? 作業員が100人いても、数ヶ月はかかるはずだ。中身を設えるには、さらに数ヶ月、もしくは一年と言ったところか。これがエジプトのピラミッドみたいに手作業だった日には、10年20年でも彼は驚かない。まあ、RPGゲーム創作ツールなら、週単位であっさり完成しそうだったが。
 街の外縁を回ったときと同じく、彼は宮殿の周りも探索した。正面以外に出入りできそうな場所はなかった。中に入るには、表門を通るしかない。彼はまた、あの誘導されている感じを覚えた。蟻地獄の蟻だ。

「はぁ……生まれ変わるなら、アリクイがいいな」

 蟻も蟻地獄もウンザリだ。どうせなら、アリクイがいい。あの細長い舌でちゅるちゅるってする仕草は愛嬌ある……かもしれない。

「うん、嘘ついて、ごめん」

 誰に謝っているのか分からないが、誰かにそう言いたかった。話し相手が欲しかった。おかげで、ひとり言も天井知らずだ。彼の中にあったピーナッツ並みの正気も、粉みじんに砕けそうだった。まあ、もともと大した正気でもなかったわけだ。

 ------あの鳥、また現れないかな。今なら、あの追いかけっこを歓迎できる。

 こんなことを思うのも、この静けさがいけないのだ。目に痛いだけの大きな街は、広さに見合う騒がしさが欠けていた。住む者の存在感が、生活感がない。空っぽだった。
 肉体から解放された幽霊だって賑やかさを求めるのに、並の人間がこんな広さと静寂に堪えられるわけがない。どんなに屈強なボクサーでも、強烈なボディブローをノーガードで受け続ければ立っていられないのと理屈は同じだ。静寂が理性をノックダウン寸前まで追い込んでいた。彼にはリングロープやセコンドの投げるタオルが必要だった。
 だから、例えそれが明らかな罠でも、蟻地獄でも、ぬるっとしたアリクイの舌が獲物を待っているのだとしても、自分以外の誰か、自分以外の何かを求めて、彼は宮殿に踏み入るしかなかった。

「何だよこれ。こんな罠……作った奴は鬼か悪魔か?」

 見飽きた三原色に導かれて、彼は宮殿の表門をゆっくりと潜り抜けた。



 外観は宮殿だったが、中身は建物の形にくり抜いた空っぽのドームだった。想像していたような豪奢な調度や美術品やお迎えのメイドさん(おかえりなさいませ、ご主人様! って感じの)なんてものはひとつもなかった。外側だけ立派な張りぼての建物だ。手抜き工事もいいところである。

「お前はニュースを見ないのか? 今の日本は違法建築に結構厳しいんだぞ?」

 中に入ると、彼はさっそく言ってやった。どこかに隠れている誰かに、聞かせるためだ。こういう嫌がらせをする奴には、はっきりと言ってやらなければならないと思ったからだ。
 何より、我慢ならなかった。
 目の痛いぐにゃぐにゃと変化する道、目に痛い作り物の不細工な鳥、目に痛い広くて静かすぎる街。そしてこの、目に痛くてどうしようもない出来の宮殿。
 もう、たくさんだった。「目に痛い」って形容詞にも飽き飽きだ。

「だいたい、どれもこれも赤、黄、青の三色って何だよ? 趣味悪すぎだろ!」

 声変わり前の少年の声が、怒りと共に響き渡っていく。
 すると、まるでその声に反論したいと言わんばかりに、あのチキンをローストするような音が返ってきた。ドームの中に濁った音が充満し、彼の声ごと空気をかき混ぜる。突風が起きた。発生源はドームの中央だった。まるで異次元に繋がる目に見えない裂け目があって、そこから風が漏れてきているように思えた。隙間風が吹くなんて、とんだ欠陥住宅である。
 彼の怒りは収まらない。いや、恐怖に囚われるのを恐れて、無理矢理怒りを増幅させていく。少なくとも、こうやって爆発している間は身も心も凍えずに済む。

「それに、客を出迎える態度もなってない! こんな場所に引っ張り込んでおいて出てきたのが玩具の鳥一匹って、どういう了見だ! 女将を呼べ!」

 今時の小学生舐めんな。と、息巻いて叫ぶ。これが後で恥ずかしい歴史になろうとも、構うものか。歴史に名前を残す予定は、今のところない。
 突風と共に、何かが空間の裂け目から這い出してきた。大人の背丈ほどもある巨大な節足が、ドームの床を埋めるブロックにガチッと食い込み、異次元から大きな胴体を引っ張り出そうとしている。
 彼には、それが巨大な蜘蛛の足に見えた。どうやら、ここは蟻地獄ではなく大蜘蛛の巣だったようだ。彼はその粘つく糸に絡め取られたわけだ。ただ大きいだけの蜘蛛ではなかった。全身が、お馴染みになりつつある例の三色でプラスチックめいた冷たい輝きを放っている。三原色で組み立てられたプラスチック製の蜘蛛の頭が、次元の裂け目から無言で彼を覗き見た。その瞳だけが、エメラルドのように緑色に輝いていた。その美しさが、逆におぞましい。
 女郎蜘蛛(じょろうぐも)の化粧にしては、ケバケバしすぎだ。いったいどんな男を引っかけるつもりだったんだろうか?

「……今分かったよ、この街に人がいないわけが。こんなおっかない女将が出てくるんじゃ、流行るわけがない」

 彼はそう呟いて、後ずさった。意識した動きじゃなかった。虚勢の種も冗談の種も尽きてしまったのだ。
 蜘蛛の化け物はその全容を露わにした。六本脚がすべて揃ってドーム内に現れ、蟹股のように曲がって体重を支える。ぐっと重心が下がって、視線の距離が近くなる。
 彼は首を痛めながら、はるか上にあるグリーンの目に目を合わせる。落ち着け。目を逸らさずに、そのまま後ろに下がれ。これは熊の対処法だが、ちょっとは効果があるだろう。出会ってしまえば絶望的なのは、どっちも同じだ。
「降参だ」と口で言う代わりに、彼は両手を上げていた。ガサゴソとコンビニ袋が揺れる。そう言えば、まだ持っていたのだったか。夕食に使うつもりだった、250ml牛乳と卵の6個入りワンパックだ。

「これから化け物の夕食になるってのに、自分の夕食も糞もねぇよなぁ」

 健気にここまでついてきた材料たちに、声も出さずにそっと謝った。でもまあ、許してほしい。どうせ、胃袋に収まることに変わりはないんだ。もう、彼も手に持った袋の中身と同じ、大蜘蛛の餌に過ぎない。
 彼の体は、震えなかった。
 ブルっちまうほど自由になる体なんて、残っていない。
 ただ、近づいてくる緑色の光を見つめる。
 大蜘蛛の大きな目が、カラフルな頭が、上下左右に開いたグロテスクな口がゆっくり彼の頭をもぎ取ろうと迫っていた。
 ふと、彼はずっと頭にこびりついていた疑問の答えを得た。

「そっか……RYBじゃない。RGB、だ」

 大蜘蛛の動きが、止まった。
 三原色……いや、かつての色の三原色だったR(レッド)Y(イエロー)B(ブルー)の化け物が、大口で彼の頭を抉り取ろうとする直前で、静止していた。
 彼は言った。

「だっせ。時代遅れのポンコツかよ」

 精一杯の抵抗のつもりだった。遺言、と言った方がすっきりするかもしれない。あいにく、遺言状を作成する時間も金も弁護士もないが、これも立派に有効だ。いや、有効にしてみせる。
 化け物がどうして目前で止まってしまったのか、それは彼には計り知れない。けれど、この化け物はまた動き出す。そうなれば、12年間つき合ってきたこの首ともサヨナラだ。
 だったら、言ってやれ。最期ぐらい、ジョークを口にしなくてもいいはずだ。

「お前は間違ってる。色の三原色は、RGBだ」

 大蜘蛛の頭に付いているG(グリーン)の目に、彼は指を突きつけた。
 新しい色の三原色・緑(グリーン)。それは、化け物の瞳に輝く限り、彼女には絶対見ることのできない光だった。
 怪物は戸惑っているように見えた。

 ------その戸惑いが、彼女の命とりだった。

 少年の背後から、強烈な光が迸った。
 白、いや黄色に近い光の束が、真っ直ぐに大蜘蛛の頭を貫き、綺麗だったグリーンを跡形もなく吹き飛ばしてしまった。
 発光は留まるところを知らず、彼の視界全体を白黄色に染め上げていく。
 目を灼く光の激しさに、彼の意識も徐々に遠くなっていった。
 何が起こったのか、訳が分からない。
 分からなかったが……視界が暗転する瞬間、彼は確かに“声”を聞いたような気がした。
 聞き覚えのない声。
 そして、きっと気を失った後には忘れてしまう、そんな声。
 女性のように聞こえるし、少年のようにも聞こえる高らかな響きだった。
 天から降り注ぐ鐘の音のようなその響きは、確かこう言っていた。

 ------ティロ・フィナーレ、と。

 大蜘蛛が倒れると、目に痛かった空間が捻じれはじめた。
 彼は、捻じれに体ごと巻き込まれるようにして、意識を失った。



3.春休みの帰り道


「あ、それはちょっと違いますよ。赤・緑・青っていうのは、光の三原色です。色の三原色じゃありません」
「そうなの? じゃあ、赤・黄・青の組み合わせは色の三原色?」
「それも違います。今もっとも一般的に使用されている色の三原色は、シアン(緑青)・マゼンタ(赤紫)・イエロー(黄)です。あなたが言ったのは、伝統的な減法混色の……」
「あ……いえ、もう結構です。はい、ありがとうございました!」

 彼はぶんぶんと首をふって、それ以上の説明を突っぱねた。そして「偉そうなこと言っちゃったけど、あいつに悪いことしちゃったかなぁ?」なんてぶつぶつ呟いていた。
 そんな彼の妙なふるまいを、彼女は横でずっと聞いて歩いていた。どうやら、思ったより元気そうで、安心した。
 彼は、ふと顔を上げて言った。

「それはそうと、何か迷惑かけてるみたいで悪いね」
「そんなことありません。ちょうど家の方向が一緒だっただけですから」
「そりゃどうも……でも、情けねぇよ。道端でぶっ倒れた上に、見ず知らずの女の子の肩借りてるんだから。男としちゃ、恰好がつかない」
「あなたのお家は……えっと?」
「もうちょいだな」
「そこまで歩けそうですか?」
「……たぶん、大丈夫だ」

 彼の顔色は、まだ少し青白かった。無理もない。

「あの……気分が悪いなら、やっぱり病院に行った方が良かったんじゃありませんか?」
「いや、気分はいいよ。もう最高! 牛乳も卵も無事だしね!」

 手に下げたコンビニ袋を揺らして、彼はカラカラと笑った。
 さっきまでの出来事を、まるで気にしていない。飄々とした態度だった。あの体験を夢だとでも思いたがっている。そういう風にも受け取れた。

(それとも、わたしに気を遣ってくれてるのかしら?)

「手助けしてくれた通りがかりの女の子」に、変な気を遣わせたくない。そんな風に考えているのかもしれない。もしくは、本当のことを話しても信じてもらえないと悟っているのか。
 どちらにしろ、気を遣わなければならないのはギリギリまで助けて上げられなかった自分の方だと、彼女は思っていたのだが……。

「ところで君、何年生?」と、彼が訊いてきた。
「見滝原小の6年です」
「ってことは、同学年か。奇遇だね。俺もそうなの。春休みが終わったら、見滝原中に進学するんだ」
「え、同い年?」
「あれ? もしかして君、俺のこと年上だと思った? いや、たまに間違えられるんだよね。俺、人には落ち着いて見えるらしくて」
「……はぁ、そうなんですか」

 無難に相槌を打ったが、彼女は少々驚いていたし、呆れてもいた。

(同い年だったんだ……年下だとばかり思ってた)

 小学校の高学年にもなれば、男女で身長差も出てくる。彼は、同年の男子にしては少々小柄だった。彼女とほとんど差がない。
 態度も落ち着きがないし、言動のノリも軽いので、なおさら幼く見えていた。あと、いつもニヤニヤしているのでどこか信用ならないところがある。まるでピエロのようだ。
 上辺だけの付き合いならともかく、プライベートの友人にはしたくないタイプだった。その薄皮の下にどんな秘密を隠しているのか、知れたものではなかった。

(まあ、それはわたしも同じなんでしょうけどね)
「ああ、ここだここだ。着いたよ」

 少年は足を止めた。
 そこには、彼女の見慣れたマンションがあった。

「え? ここって……」
「俺、ここに住んでんだ。送ってくれて、ありがとうな。エレベーターがあるから、後は何とかなるよ」
「部屋まで送ります」
「いや、そこまでしてもらうのは、ちょっと……」
「あの、わたしもここに住んでるんです。だから、お部屋までご一緒します」
「……まじ?」
「はい」

 ふたりはお互いの部屋の番号を告げた。信じられないことに、お隣さんだった。
 彼は、ニヤニヤ笑いを引っ込めて、呆けた顔で「何それ?」と呟いていた。

「不躾だけど……君、ここにいつから住んでるの? 俺はだいたい1年ぐらい前からだけど」
「わたしもそれぐらいです。あなたは、転校してきたんですか?」
「いや、ずっとこの街に住んでるけど……ちょっと家庭の事情でひとり暮らしすることになったんだ。君は?」
「わたしも、家庭の事情です」

 同じくひとり暮らしだが、それは言わない方がよさそうだった。女の子が危機意識を強く持つのは、悪いことではない。彼女がこの「仕事」を始めたのが、今からちょうど1年前だった。そのときから、彼女はひとりでこのマンションに住んでいる。

(で、この人も同じ時期にここに越してきて、ひとり暮らしを?)

 そして、これまで50mも離れていない場所に住んでいながら、お互いがお互いに全く気付かなかったと言うのか? いくらクラスが違うとは言え、同じ学校に……。

(……そうだわ! わたしと彼は、同じ学校に通ってたのよ?!)

 つい先日、卒業式を終えたばかりの見滝原小学校。
 ふたりは1年間、同時にあそこへ登校と下校を繰り返してきた。なのに、まったく気づかなかった。彼の噂すら、耳にしたことはない。きっと、それは彼も同じだろう。
 さすがに、彼女も少しばかりゾッとしていた。彼ではないが「何それ?」と言いたくなる。こんな薄気味悪い偶然は、はじめてだった。

(落ち着きなさい、わたし! こんなのは、ただの偶然よ。それに、たった1年ならお互いに気づかなかったとしても、ちっともおかしくないわ。何もわたしはここに10年住んでたわけではないんだもの! ただのすれ違いよ!)

 彼女は仕事柄、これまで人付き合いを避けてきた。命を懸けた戦いに、他人を巻き込みたくなかったからだ。他人に対して消極的だったのは間違いない。だから、同じマンションに住んでいた同じ学校の、加えて同い年の少年に気づかなかったと言うのも、しようのないことだと割り切れる。
 だが、目の前の少年は違う。彼は、これまで人並みの生活を送ってきたはずだ。少々軽いが、社交性もある。そんな彼が、同じマンションに住んでいる(しかも、部屋は隣同士の)同学年の女の子の名前を、一度も耳にしたことがない。噂も聞かない。そんなことが、あり得るのだろうか? それも、偶然なのか?
 彼女があれこれ考えていると、お隣さんが言った。

「ま、いっか。間が悪かったんだろう、お互いに」

 彼の判断は、単純で常識的だった。眉根を寄せて考えていたのは数秒で、すぐにただの偶然だと笑って受け流した。それが、当たり前の考え方なのだろう。
 ふたりは、エレベーターに乗って、同じ階へ。そして、手前にあった彼の部屋の前で別れた。
 少年は言った。

「じゃあ、おやすみ。巴さん、中学で、同じクラスになれるといいね?」
「はい」

 巴マミは、作り笑いが不自然に見えないことを祈りながら、扉が閉まるのを見送った。
 厚い金属の扉に鍵がかかる音を聞いて、ほっとひと息吐いた。
 これでようやく彼女の「仕事」は全て終わった。魔女退治だけでなく、襲われた人のアフターケアーも、彼女の仕事の内だ。そう、マミは考えている。

(そう。わたしの持つ魔法は、ああいう普通の人たちを守るためにあるんだもの)

 1年前、家族全てを巻き込んだ不幸な事故から、彼女はひとり生き残ってしまった。
 魔法少女とは、そんな彼女が背負った絶対の宿命だ。
 あの時救われた命と力の限り、この街を守る。それが、巴マミの誓い。

(だから、ごめんなさい。わたしは……あなたのお友達には、なれないんです)

 いつものように、マミは彼の言葉を切り捨てた。踵を返して、隣にある自分の部屋に向かって、歩き出す。
 そのとき、ちらりと彼女の視線が表札を掠めた。魔法少女として実戦を潜り抜けるたびに鋭くなっていた動体視力は、たやすく文字を読み取っていた。

『友田 あきら』

 それが、今まで一緒にいた男の子の名前だ。
 マミはそれに、何の感慨も抱かなかった。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(1)

   色彩の魔女《エミリー》
     性質は盲目。
     今の世界を醜いと信じ、かつてあったはずの美しい世界を取り戻したいと望み続けている。
     魔女自身の世界とも言える結界の中に理想世界を構築し、引きこもっている。
     彼女を倒すには、彼女の世界が抱える矛盾を突き止め、否定する必要がある。
     攻略ヒント → 色の三原色。






 ・あとがき
   読んでいただき、ありがとうございます。
   正直、まどマギの世界観を上手く表現できているとは思えませんが、リハビリと実験を兼ねて拙作を投稿させていただきたいと思います。
   はじめに、主人公視点が気持ち悪いのは仕様です。筆者はコミカルに描いているつもりですが、上手く描けている自信がありません。コミカル描写だけでなく、それ以外にも貴重なご意見・ご指摘がございましたら感想板にお寄せいただければ幸いです。
   次に、“なんちゃって魔女図鑑”に関してもノリが大半です。エミリーちゃんの矛盾より、筆者の矛盾が先に暴かれそうで怖いです。色の三原色とか、何とか。
   最後に、これは長編ですが不定期更新がデフォです。1話分文章がまとまり次第ゆるりと投稿しますので、次がいつになるかはっきりしません。その点、ご容赦いただければありがたいです。



[28866] 第2話
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/07/27 05:56



4.巴マミの秘密



「こういうことされると、困ります」

 巴マミがテーブル越しに突き返したお菓子の折り詰めを、友田あきらはしぶしぶ受け取った。
 彼が気の利いたジョークを思いつく前に、彼女は言った。

「わたし、別にそんなつもりであなたを助けたわけじゃありません」

 頭の固い女の子だと、あきらは思った。その上、とんでもなく不器用である。この程度のお礼ぐらい黙ってもらっておけばいいのに。これではまるでこっちが悪者みたいだ。
 ゴッドファーザーみたいに度量の広い男に見えてれば最高だが、バイキ〇マン並の殴られ屋(サンドバック)だと思われるのは癪だったので、彼はこう言った。

「じゃあ、仕方ない。これは返してもらうよ」
「本当に、ごめんなさい。でも別にこれはあなたが悪いと言うわけじゃなくて……」
「代わりに、今度一緒に食事に行こう。俺が奢るから」
「お断りします」

 スパッと言い残して、巴マミはあきらの部屋から出て行った。怒りながらも丁寧にお辞儀して出ていくあたり、徹底してる。
 デートに誘うのは、少し性急だったようだ。



「何? お前って、巴のこと狙ってたの? ああ、言われてみればお前、しょっちゅうあの子に話しかけてたな。ゾッコンなのか?」
「それは、当たらずしも遠からずってところだな」
「何だそりゃ? いつも袖にされてたくせに、カッコつけやがって」
「大人の余裕は、お前にはまだ分からんよ、向日葵(ひまわり)ちゃん」
「日向! 日向葵(ひゅうが あおい)だ! 人の名前を勝手に弄るな!」

 見滝原中に入学して一週間、あきらは早速ひとりの悪友を作っていた。友人Aでも何の問題もないぐらい影の薄い男子だったが、何故か馬が合った。
 昼休みになると巴マミが教室からいなくなってしまうので、やることのないあきらは机に突っ伏しながら葵とどうでもいいことを駄弁って過ごすのが習慣になりつつある。

「しかし、巴か。あいつは、ちょっと止めといた方がいいんじゃないか?」
「何だと? てめぇ、リア充だからって調子に乗るなよ!」
「リア充は関係ないだろう!?」

 ちなみに、葵は彼女持ちである。
 その娘がまたけっこう可愛くて、妬ましいことこの上ない。

「じゃあ、巴さんが駄目な理由を言ってみろ。言わなきゃ絶交だ」
「よし、絶交しよう」
「今のは嘘だ。公衆の面前で“ひまわりちゃん”を連呼してやる」
「心して聴け、あきら!」

 ふたりの関係の薄っぺらさが、よく分かる会話だった。
 葵は言った。

「巴が誰とも馴れ合わないのは、お前も知ってるだろう?」
「そうなのか?」
「あの子、女子グループと全然つるんでないじゃないか。それすら知らんで、手を出すなんていくら何でも無茶すぎだろ?」
「いいから話を続けろ、ひまわりちゃん」
「お前なぁ……」
「今は俺のことじゃなくて、巴さんのことだ」

 いろいろ脱線しそうになったが、あきらは何とか話を聞くことができた。
 昼休みいっぱい聞き耳を立てていたせいで飯を食いそびれた。そのため、葵の弁当(彼女さんの手作り)を横取りしてお腹を鎮めることになったが、とにかく話は聞けた。
 葵は泣いていた。いい気味だ。



 放課後、あきらは葵の情報を頼りにある場所へ向かっていた。
 彼は、少し焦っていた。葵の彼女さんから痛烈な平手打ちを受けていたため少々時間に遅れていた。今度はあきらの方がちょっとだけベソを掻くことになった。彼氏持ちとは言え、女の子に引っ叩かれるのは心が痛い。
 葵は「いい気味だ」とほくそ笑んでいた。泣いたカラスがもう笑っていたわけだ。あの精神的タフネスは、流石我が悪友と言ったところか。今夜あたり、知り合いの幽霊を送り込んで金縛りにしてやろう。
 あきらが向かったのは、視聴覚室だった。一応ノックして中に入る。全室ガラス張りの校舎なので、中に目当ての彼女がいるのはとっくの昔に分かっていた。ノックしたのは、ただのエチケットだ。
 向こうもこちらに気づいていた。素早く手に持っていたノートを鞄に隠して、そそくさと視聴覚室を出ようとしている。この一週間であきらに対するマミの警戒レベルは段違いに上がっていた。激しく遺憾である。
 視聴覚室にも教室と同じように前後に扉がある。彼女は、あきらが入った方とは逆の扉から逃げようとしていた。

「待ってくれ、巴さん!」

 巴マミは立ち止まった。ふり向くと、あきらの顔を見て驚いていた。

「ちょっと……どうしたんですか、その顔!? それに泣いてるし……もしかして、誰かにいじめられたんですか?」
「いや、これは名誉の負傷だ」

 ジンジン痛むほっぺを軽く抓って強がった。マジで痛い。葵の野郎に送り込む幽霊の数をひとりから5人に増やそうと密かに決意した。リア充に呪いあれ。

「それより、聞いてほしいことがあるんだ」
「この間の話なら、お断りしましたよね?」
「まあ、ちょっと座って話をしようよ?」
「わたし、この後用事が……」
「街に繰り出すんだろ? 時間は取らせないから」

 マミは、あきらから少し離れた席に座った。自分のスケジュールを知られていることに、不安を感じたのだろう。もしかしたら、彼をストーカーか何かかと思っているのかもしれない。
 あきらは敢えて、その辺りの説明を省いた。

「そう言えば、あの日の夜も街にいたよね?」
「あなたには、関係ないことです」
「そうでもないさ。おかげで、俺は君に助けられた」
「ただ通りかかっただけです」
「そう……あのとき、君が来てくれなかったら、どうなってたか分からないな。もしかしたら俺、死んでたかも」

 マミは黙り込んだ。テーブルの下にある膝の上に乗せた手に、力がこもっているのが分かる。肩が突っ張って、緊張している。両サイドの巻き髪がかすかに震えていた。彼女に震えるほどの胸があれば、完璧だった。そちらは今後の成長に期待しよう。
 あきらは言った。

「だから、お礼がしたいんだ。君の力になりたい」

 期間限定スマイル3割増しの笑みを浮かべて、彼女を見つめる。
 マミは居心地悪そうに視線を逸らして、モジモジしていた。若干頬の血色がよく見える。
 あきらは、ちょっとだけ強引かと思いながら、両手で彼女の肩をがっしりと掴んだ。
 マミは「キャッ!?」と小さく悲鳴を上げた。椅子を蹴って立ち上がってもおかしくないほどの驚きようだった。だが、彼女はまるで電撃でも受けたように固まってしまって、逃げようともしなかった。少しだけ近づいたあきらの顔を、見つめ返している。

「あの……友田君?」
「何?」
「手、離してくれません?」

 あきらは言われた通りにした。肩から手を離して、視聴覚室の床に固定してある真っ白な机の上へ静かに下ろす。
 マミの体から、緊張が徐々に抜けていった。

「ごめん。ちょっと興奮して……とにかく、話を聞いてほしいんだ。いい?」

 マミはしぶしぶと言った感じにうなずいた。
 ここまでくれば、後は単純に話をするだけでいい。あきらもホッと息を吐いて、体の力を抜いた。椅子にぐったりと体重を預ける。

「ありがとう、巴さん」
「ええ、でも……ホントに時間が、その……」
「大丈夫。さっきも言ったけど、そんなに時間は取らないから。俺の提案に、YESかNOではっきり答えてくれればいい」

 あきらはいつものヘラヘラしたノリを極力抑えて、真面目な声音で言った。

「俺は、君の秘密を知ってるんだ」



 彼の一言に、マミはドキリとした。
 彼女の秘密、つまり魔法少女の秘密を知っていると言うのか? 一瞬、マミは彼の言葉を疑った。
 だが、考えてみれば、彼がそれに気づく要素はあった。
 あの夜、彼は化け物に襲われ、何者かに助けられた。その後、都合よく自分を手助けしてくれる女の子が現れれば、嫌でも関連性を疑う。あのとき、マミが魔女を倒して、あきらを助けたことに気づいてもおかしくない。夢か何かだと思ってくれれば、それが一番だったのだが。

(あのとき、記憶を消しておけばよかった……迂闊だったわ)

 魔法を使えば、そういうこともできる。出会ったばかりの頃なら、それでも良かっただろう。だが、今はもう手遅れだ。ふたりは道でバッタリ出会っただけの関係ではなくなってしまった。お隣さんで、クラスメイトだ。彼がマミに毎日のように話しかけ、彼女が無視している光景はクラス中が見ている。
 魔法と言っても万能ではない。マミにできるのは「巴マミに関する記憶」を彼の中からばっさり削除することだけ。都合よく、あの夜の記憶だけ消すなんて真似はできない。
 今、友田あきらがマミを知らないような素振りを見せれば、周りの人間が必ず矛盾に気づく。彼の知り合い全ての記憶を処理するわけにはいかない以上、いずれマミに疑惑の目が向くだろう。
 魔法少女として今後活動していくためにも、これ以上迂闊な真似はできない。この場は、何とか誤魔化すしか手はなさそうだった。
 マミは震えそうな声で、言った。

「あなたの言ってること、よく分かりません」
「……巴さん」

 あきらは、咎めるように睨みつけてきた。普段ニヤついた顔しか見せない彼がそんな顔をすると、本当に怒ってるんだと感じる。
 マミは身構えた。そろそろ本気で問い詰めてくるかと思っていた。

「その敬語、止めないか? 一応クラスメイトだし、お隣さんだし、もうちょっと気軽に話してもいいだろ?」
「あ……そ、そうね。それもそうだわ……ごめんなさい」

 肩透かしを食らった気になったが、彼の言うとおりだ。これでは単に嫌味な女の子である。彼女は気持ちを切り替えるように小さく呼吸を挟んで、素直に謝った。
 あきらは、決まり悪そうに頭を掻いていた。

「いや、別に謝ってもらうことはないけどさ。ほら、巴さんって、俺が話しかけるといつも機嫌悪そうじゃない? お礼のお菓子も突っぱねられちゃったし……もしかして、嫌われてんのかな? って思ってたんだよ」
「別にそんなつもりは……あの、わたしって、そんな顔してた?」
「してた。もう何て言うか、台所のGを見る目つきってやつ? あんまり刺々しいから、こっちもヤバい趣味に目覚めるかと思ったよ」

 マミは少しバツが悪くなった。ヤバい趣味云々はさすがに冗談だろうが、何の罪もない彼を不快にさせていたのかと思うと、自己嫌悪で胸が重くなる。いくら魔法や魔女から彼を遠ざけるためとは言え、意味もなく相手を傷つけるのは良くない。

「今度から気をつけるわ」
「じゃあ、俺ももうちょっと積極的に話しかけてもいいわけだ」
「え、もうちょっと?」
「そうさ。これでも、まだまだ遠慮してた方なんだから」
「それ、嘘でしょ?」

 この一週間、暇さえできればいつも話しかけていたというのに?

「いや、ホントホント! 何だったら、これからは毎日一緒に登下校してもいい。どうせマンションも一緒なんだから、モーニングコールぐらいだったらしてあげるぞ?」
「えっと、さすがにそれは……困るわ」
「や、これは冗談だけどな」

 はじめて出会った夜のように、彼はカラカラと笑った。
 何を考えているか分からないニヤついた笑みなのに、あのときのように不気味な感じは全然しなかった。以前と今で、何かが変わっている。それは何か? 彼に変化はない。マミにも、変わったところはないはずだ。
 ふと、マミは悟った。
 ふたりの距離感が違うのだ、と。
 マミと彼は、もう一週間の付き合いだ。彼女は、この少年が一種の「狡さ」を持ち合わせない人間であることに気づいていた。どんなに悪さをしても、妥当なお仕置きですべてが許される。そんなどこかイタズラ小僧のような愛嬌を持った男の子だった。
 だから、表面上不気味な笑いをしてもちっとも不安を感じなかった。ああ、またやってるな、と微笑ましさすら感じてしまう。

(肩ひじ張らずに自然に生きている。こんな人もいるんだわ……わたしとは大違い)

 マミは湧き上がってきた感慨をふり捨てて、居住まいを正した。

「ところで、何か私に提案があるとか、言ってなかったかしら?」
「そうだった。時間もないし、手早く済ませよう」

 あきらは、また真面目な顔になってマミと向き直った。
 マミはまた自分が緊張しはじめているのを感じていた。彼は、マミのことをどこまで知っているんだろうか? もし知りすぎているのなら……。
 あまり想像したくないことだったが、マミは一応覚悟を決めた。
 あきらは言った。

「巴さん、俺にも手伝わせてくれ。君の……コスプレ巡業を!」
「最っ低ね!」

 マミは思いっ切り彼の頬を張って、後ろもふり返らずに視聴覚室を後にした。



「おかしい。どこで間違ったんだろうか?」
「どこって……明らかに最後の最後でトチってるように聞こえるけどな?」
「俺は本気だったんだ! 本気で巴さんのコスプレ巡業を手伝おうと……」
「そもそも! あれはただの噂だと釘を刺しておいたはずだろうが! “視聴覚室で何やら怪しげなポーズ決めてた”って話だって、デタラメだったかもしれないんだぞ?!」
「だって! 視聴覚室行ったら慌てて“衣装ノート”っぽいのを隠したんだぞ!? 『あ、これは間違いないな』って思うじゃないか!」
「それがただの宿題で、視聴覚室にいたのは単にひとりになれる場所が欲しかっただけかも、とは考えなかったのか?」
「…………………………すみません」
「いや、俺に謝られても」

 あきらが自腹切って奢ったファーストフードの烏龍茶をストローでズルズル吸って、日向葵は溜息を吐いた。
 溜息を吐きたいのは、こっちの方だと、あきらは思った。だが、彼は相談に乗ってもらっている立場なので、強く出られない。
 葵は言った。

「とにかく、今お前に対する巴の好感度はガタガタだ。正直諦めた方が潔いぐらいだ」
「そこを何とかしたいから、リア充のお前に相談したんだろうが! ちっとはその無い頭を働かせてくれ!」
「お前よりはモノが詰まってると思うけどな、俺の頭は」

 葵は鼻で嗤った。余裕そのものの仕草でチーズとパテがたっぷり挟まったバーガーを口に運ぶ。
 あきらの方は、無味乾燥な敗北感を味わうしかなかった。口で何と言おうとも、今は葵がすべてを掌握している。忌々しい。まったく持って忌々しい!
 あきらは自分で注文したアイスコーヒーを飲んだ。ストローを啜るたびに頬にヒリヒリとした痛みが走る。
 ご丁寧に、マミは無事だった方の頬を張っていきやがった。おかげであきらは両頬を真っ赤にして餌を溜めこんだハムスターのように膨らませていた。道行くチビっ子に指さして笑われたのはショックだった。

「しかし、一日に別々の女に互い違いに頬を張られるとは、なかなかできる経験じゃないよな?」
「名誉の負傷だ」
「敗戦の証にしか見えんが……まあいい、よく聴け。今のお前に必要なのは、一歩一歩巴との距離を詰めていくことだ。しつこく追い回したり話しかけたりするより、自然に一緒にいられる時間を少しずつ増やすようにアプローチする。それしかない」
「一発逆転は無理か?」
「そんな都合のいい話、あってもお前には教えん」

 それでも、葵はファーストフード一食分の知恵はちゃんと貸してくれた。



5.幽霊少女



「ティロ・フィナーレ!!」

 魔法で生み出した巨大なバズーカ砲から白黄の極光が伸び、魔女へと降りそそいだ。
 熊蜂のような姿をした魔女は、マミが生み出した帯に絡め取られて逃げることもできなかった。断末魔の叫びを上げて光の中に消えていく。
 強力な酸を放ち、あらゆる物質を融かす巨大な毒針が砕け散り、マミの傍らに墜落した。魔女が作り出した異空間の大地に大穴が開き、その縁がドロッと融けていく。
 マミはまた魔法でティーカップと紅茶を作り出すと、ゆったりとした仕草で口元へかたむけた。「ふぅ」と溜息を吐く。
 悪くない。しかし、まだ完璧とは言えない出来だ。
 魔女を倒した決め技のことではなく、紅茶のことだった。一体、どこで間違ったのだろうか? 葉の量か、お湯の温度か。それとも蒸らしに時間を置きすぎたのか? とにかく、気に入らない。
 結界が消え、静かな埠頭に波の音だけが響き渡る。夜闇の中、マミはコンクリートの上に転がっていたグリーフシードを拾い上げ、ソウルジェムに触れさせて消費した魔力を回復した。

「今夜はまた随分暴れたね、マミ。たった一回の戦闘で、かなりの魔力を消耗したみたいだし……何か嫌なことでもあったのかい?」
「あら! こんばんわ、キュウべぇ……いいえ、別に嫌なことなんてなかったわ」

 白い猫に似た不思議な生き物が、係船柱(ボラード)の上でお座りしている。耳と思われる場所からふわふわした毛に覆われた触手が垂れ下がって、かしげた首に合わせて振り子のように揺れた。

「その割に、怖い顔してるじゃないか。困っていることがあるなら、相談に乗るよ?」

 このキュウべぇという生き物はマミにとって命の恩人であり、彼女に生きる目的を与えてくれた存在でもある。そのせいだろう。マミはキュウべぇに少々甘えてしまうところがあった。
 マミはキュウべぇを連れてマンションに戻った。友田あきらの部屋の前を通ったが、明かりが見えない。彼はまだ帰ってないようだった。部屋に入って少し遅めの夕食の準備をしていると、テーブルの上で身を丸めているキュウべぇが言った。

「お隣さんが気になるのかい、マミ?」
「どうしてそんなこと言うの?」
「隣を見て変な顔してたから、何となくね。僕にはマミが何を考えているのか分からない。でも、力にはなってあげられると思うんだけど」
「……彼と同じことを言うのね」
「その彼のことで、悩んでるの? だからあんなに荒れてたのかい?」

 今夜のキュウべぇは、いつもよりしつこかった。よほどマミの様子を不可解に思っているのだろう。
 マミはいつも通りにしているつもりだった。だが、そうじゃないらしい。そのことを指摘されたのは、今日で2度目である。
 マミは、手早くこしらえたサンドイッチをテーブルまで運ぶ。

「どうぞ、キュウべぇ」
「じゃあ、遠慮なくいただくよ!」

 キュウべぇは彼用の皿に取り分けたサンドイッチをがつがつ食べる。
 その姿に若干癒されながら、マミは重い口を開いた。

「悩んでるかどうかも、分からないの……何も、分からないのよ」

 マミはこの一年、魔法少女として戦いと生活を両立させていた。そのために、自分に近づいてくる人間を遠ざけ、できるだけ関係を持たないようにしてきた。小学校を卒業して、中学生になったが、これからもそうあり続けるだろうと思っていた。
 しかし、今まではうまくいったこの方法が今度は上手くいかなかった。何とも珍妙な男子に引っかかってしまったからだ。
 彼は、あからさまに無視を決め込むマミに対して諦めるということをしなかった。こちらが遠ざけようとすればするほど、倍する力で近寄ってくる。
 マミは、ほとほと対応に困っていた。
 ある日、クラスの女子がマミにこう訊いた。

「巴さんってさ、友田君のこと、どう思ってるの?」

 明らかに、ふたりの仲を勘違いした質問だった。 
 マミは無難に返事をしたが、実際自分たちはどんな関係なんだろうと疑問を抱いた。
 部屋が隣同士のクラスメイト。
 口にするとこれだけなのに、彼の行動はそれだけでは言い表せない。

「マミに気があるんじゃないかな?」と、キュウべぇ。
「それだったら、もっとはっきり断れるんだけど……」

 下心で話しかけてきてるのなら、彼の性格からしてまずデートに誘いそうだ。
 いや、デートに誘われたことはあるが、あれは折り詰めを突き返したときに出た彼一流の冗談だろうと思っている。実際、あれ以来彼からそれっぽい申し出を受けたことはない。

「じゃあマミは、彼の態度がはっきりしないからイライラしてたのかい?」
「それは、きっと違うわ。わたし自身が彼をどう思ってるか、それが分からなくてイライラしてたのかもしれないわね」

 マミだってひとりになりたくてなっているわけではない。できれば友達を作りたいし、女の子らしく誰か適当な相手とお付き合いをしたり、シャレた休日を過ごしたりしてみたい。
 本当のところ、友田あきらの行動はマミにとって嫌ではなかった。話しかけてもらえることを、心のどこかで楽しみにしていたような気がする。
 そこまで話すと、サンドイッチを食べ切って満足そうにしていたキュウべぇが言った。

「なるほど、分かったよ。君は、ストレスを感じているんだね」
「ストレス?」
「僕はそうじゃないかと思う。今まではマミが無視すれば向こうも無視してくれた。でも、そのあきらという少年はそれでも君に話しかけてくるんだろう? だからマミも、そんな彼にできれば言葉を返したい。クラスメイトとして、友達になりたい。でも、それができない……魔法少女だから。君には、それが辛いんだ。違うかい?」
「そう、なのかしら?」

 そんなこと言われても、マミにはピンとこなかった。
 キュウべぇと契約して、そろそろ一年になる。この一年は、充実した日々だった。間一髪で生き延びた喜びと、使命感に溢れていた。
「魔法少女でいるのが辛い」だなんて、マミは考えたこともなかったのだ。



 巴マミは、もう家に戻っているようだった。
 友田あきらは、明かりのついた彼女の部屋をちらりと見て、自分の部屋に入った。
 嫌いな相手に「ただいま」を言う必要がないのは、気が楽だ。
 両親が亡くなった当初、あきらは叔父の家に引き取られていたのだが、これがまたとてつもない偏屈な男だった。挨拶をすれば怒るし、挨拶をしなければ「俺を馬鹿にしている」とやはり怒るのである。彼は、両親が死んだのはあきらのせいだと決めつけていた。
 叔父とのギスギスした生活があまりに面倒臭かったので、あきらは冗談半分で「一人暮らしをしてみたい」と言ってみた。
 叔父は、これ幸いとあきらを家から放り出した。毎月生活費を振り込むだけで彼の安否を気遣いもしないようになった。あの偏屈にしては、まあまあの采配だ。おかげで、この年で抜け毛を心配する必要はなくなった。
 あきらは自室に入ると、机の上に置いてある両親の遺影……ではなく、そのそばに立っている両親の霊に「ただいま」と声をかけて、机の上に鞄を置いた。
 このふたりはあきらがいない間、家の中でイチャつくのが楽しいようで、他の霊のように街へ繰り出すことはほとんどない。両親は、にっこり笑ってあきらを出迎えてくれた。
 幽霊は例外なく、言葉を喋らない。その代わり、身ぶりと手ぶりとポルターガイスト現象で霊を視認する人間に意思疎通を図ってくる。
 父親はともかく、母親は怒ると包丁が飛んでくることもあるので対応には注意が必要だ。具体的には、いつも母親の好物をお供えしておくのが無難である。
 今日はふたりとも機嫌が良いらしい。めっさニコニコ笑っている。その上、父親はあきらに肘を突く仕草までしていた。正直、気持ち悪い。

「何? 母さんの他にいい女の人でも見つけたの?」

 父親は慌てて首を左右にふった。スッと視線が鋭くなった母親を恐ろしげに窺っている。
 彼は母親に言い訳しながら、あきらへ必死に何かを伝えようとしていた。
 そのせいだろう。あきらは父親が何を言おうとしているのか、さっぱり読み取れなかった。

「ああ、父さん! ちょっと待って!」

 あきらは、ペンと紙を机の上に置いた。
 父親は、透明な手でペンを持ち上げてサラサラ流れるように文字を吐き出す。これが一番穏やかなポルターガイスト現象だった。

『居間に、お客さんが来てるぞ。可愛い女の子だ』

 そのメッセージに、あきらは一番に空き巣の存在を心配する羽目になった。



 畳の上で三つ指ついてお辞儀している着物姿の少女は、幽霊だった。
 おかげで、あきらの準備した土産物屋の木刀は威力を発揮する機会をなくした。これでまた、当分の間は押入れの奥で埃をかぶることになるだろう。
 あきらは客に対する礼儀としてお茶とペンとメモ帳を卓袱台の上に置きながら、お白洲のお奉行様になった気分で訊いた。

「あの、どういったご用件でしょうか?」

 随分腰の低い奉行だったが、幽霊の中には凶暴なヤツもいる。手当たり次第にポルターガイスト現象を起こすような、テレビ局や超常現象専門の雑誌が喜びそうな手合いだ。
 あいにく、あきらは母親以上に凶悪な亡霊にはお目にかかったことがない。それでも、礼を尽くすに越したことはなかった。
 幽霊少女は、ゆっくりと顔を上げた。小作りで綺麗な顔立ちだったが、一番驚いたのは瞳の色だった。まるでカットを施したエメラルドのように緑色に輝いていた。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(2)

   ・可能性の魔女《キャロル》
    性質は飛翔。何者にも囚われず、自由であることを望む。
    熊蜂の姿を取り、目で追い切れないスピードで飛び回る。毒針はあらゆるものを融かし、腐らせる。
    彼女を倒すには、世のしがらみに縛られ、責任と使命の重さを知らなければならない。
    巴マミを天敵とする。
    ヒント → 出番は、たったの2行だった。






 ・あとがき
   今回は会話ベースの回でした。
   新しい人物(なんと、オリキャラだけで5人!)が登場するため、お話自体はそんなに進んでいません。
   次回こそ、ちゃんと話を進めることを決意しつつ、失礼させていただきます。



[28866] 第3話
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/07/31 17:29



6.エミリーの依頼



『わたしのことはエミリーと呼んでください』と、幽霊少女はメモに書いた。
「俺は、友田あきら。友田でもあきらでも、どっちでもいいよ」

 相手が歳も近い上に可愛い女の子だったので、あきらはご機嫌だった。
 エミリーは、その小柄な体を七五三で使うような明るい晴れ着で包み込んでいる。大人が子供の服を着ているようでちぐはぐだが、不思議とよく似合っていた。幽霊なので、お触りできないのが残念でならない。
 彼女は透き通るグリーンの瞳を瞬かせて、お愛想笑いを浮かべた。異性と話すのに慣れていないのだろう。微笑みには手作り感が滲んでいる。ますますいい。
 彼女は、続けてこう書きつけた。

『突然お家に上がり込んで、申し訳ありません。でも、街の幽霊からあなたの噂を聞き、ぜひあなたにお願いしたいと考え、こうしてまかり越した次第です。どうかわたしのお話を聞いていただけませんか?』
「そんなに固くならずに、楽にしていいから」

 また頭を下げようとする少女を宥めながら、あきらは内心戸惑っていた。
 幽霊からのお願い。
 こんなことは、はじめてだった。
 彼らにとって、人間の世界というのはテレビドラマの世界に近い。たとえ、世界中の人間が唐突に全裸になり、阿波踊りを踊り、トチ狂って集団自殺しても、彼らからすれば痛くも痒くもない。せいぜい笑い転げるのが関の山だろう。
 あきらは幽霊を見ることができるが、ただの人間だ。幽霊にとって、あきらは変わり種の登場人物に過ぎない。そのあきらに、幽霊の少女が「お願い」とは、一体何を頼むつもりなのか? 逆に好奇心が湧いてくる。

「まずは、事情を話してくれよ。力になれるかどうかは、聞いてから判断するからさ」

 顔を上げたエミリーは、にぱっと笑った。その笑顔は、一度死を経験した者とは思えないほど無邪気で、構えたところがない。生きていたら、絶対口説いていたはずだ。
 エミリーは筆記を通じて話しはじめた。

『ありがとうございます。率直に申し上げると、お願いとはわたしの恩人捜しを手伝っていただくことなんです』

 エミリーの話によると、その恩人はエミリーの魂を救ってくれたらしい。
 成仏できず彷徨う幽霊になっているのに“魂を救われた”という表現がいまいち理解できなかったが、とにかくエミリーはその人物に感謝の気持ちを伝えたいようだった。そこで、エミリーの代弁者としてあきらに協力を願いに来た、という次第だ。

『普通の人間には、わたしの姿は見えませんから』
「その恩人って、どんな人? 生前の知り合いとか?」
『実は、名前も顔も知らないんです。同年代の女性であるのは間違いなんですが』

 エミリーと同年代の女性なんて、それこそたくさんいる。
 適当に選んで「この人です」と差し出すわけにもいかない。あきらは別にそれでも構わないのだが。

「他に手がかりはない? 何でもいいんだけど……」

 エミリーは考え込んでいた。
 あきらは彼女が思い出すのを待ちながら、自分のために注いだお茶で喉を潤していた。
 ふと、彼女がペンでこんなことを書いた。

『声を聞きました。もう一度聞けば、すぐに分かる思います。やはり、若い女性の声なんですが、わたしにはよく分からない言葉を叫んでいました』
「それは、どんな言葉?」

 幽霊はうーんと唸るように唇をすぼませる。仕草がいちいち可愛らしい。もしかして、こっちが手出しできないのをいいことに挑発しているんじゃないだろうな?
 だとしたら、こちらも鬼畜系エロゲーの主人公ばりに都合よく眠っていたエロい力に目覚めてセクハラしてやろう。思春期真っ只中の中学生男子に規制なんて意味がないのだと言うことを、教えてやるつもりだ。無理だが。
 やがて、エミリーはペンを動かしはじめた。その動きは先ほどまでの流暢な物とは程遠い。書いては上から二重線を引き、消しては書き直す。それを繰り返している。
 あきらは上から彼女が試行錯誤しているメモを覗き込んだ。

『てる……ている……てぃる……てぃんく……とぅるー』

 そこで、どうやら自分が正解から遠ざかっていることに気づいたのだろう。すべての文字に大きく×印をつけて、次の行にもう一度書き直す。

『てぃ……てぃりー……てぃるー……てぃら? ……てぃろ!』

 最後に書いた文字に、大きく丸印を書いた。「てぃろ」。どうやらこれが正解らしい。

『思い出しました! 彼女が叫んでいた言葉を』
「ティロ・フィナーレ?」
『そう! それです! でも、どうして分かったんです?』

 エミリーが書き切る前にあきらが答えを言ったので、彼女は不思議そうだった。枝豆のような瞳を丸々と見開いて彼を見ている。
 だが、あきらは彼女の疑問に答えようとはせず、代わりにこう言った。

「悪いけど……この話、少し考えさせてくれないか?」



7.ある昼の場景



 1時限目の前に、緊急で全校集会が執り行われた。内容は、見滝原の街に最近起こっている通り魔殺人事件についてだった。ここひと月だけでも10件近くの被害が出ている。被害者はすべて10代の少年少女に限定されていた。警察は今のところ鋭意捜査中……つまり、手がかりも進展もなしである。
 学校側はこれを受けて、生徒たちに速やかな下校を心がけるように呼びかけた。担任がHRに連絡すれば済む程度の話だが、全校集会で学生たちの注意を喚起する意味合いの方が強いようだった。

(新聞にも出ていたけれど、これだけ事件を起こしてまったく足取りが掴めないのは不自然だわ)

 檀上に立つ校長の無駄に長い話を聞き流しながら、巴マミはこの事件に魔女が関わっている可能性を検討していた。
 魔女は直接人間を襲うだけではなく、人間の心に取り入って普通では考えられないような行動を取らせることもある。魔女に憑りつかれた人間が殺人や傷害を引き起こすのは、よくあることだった。

(キュウべぇはそう言ってた。けど、わたしはまだそんな魔女には出会っていない)

 マミは、魔法少女になって1年しか経っておらず、まだ経験不足は否めない。この手の相手にどう対応すればいいのか知識もない。キュウべぇに訊いてみたかったが、彼は今朝方、別の街にいる魔法少女の下へと旅立ってしまった。助言を仰ぐこともできない。
 だが、宿命を背負う者として見過ごしにするわけにはいかなかった。本来なら警察に任せるべきだが、相手が魔女なら魔法少女にしか解決できない。そして、今この街に魔法少女は、巴マミひとりしかいない。

(今夜もまた、帰りが遅くなりそう)

 それでも、マミは足が棒になるまで調べ回ろうと決意していた。



 声が聞こえた気がした。
 彼は寝汗と共に目を覚まし、寂れたアパートの一室の匂いを嗅いだ。腐った果物のような生々しい酸っぱさが鼻をくすぐると、憂鬱さが頭の上に押し寄せてくる。
 目を開けると、出し忘れた生ごみの詰まったゴミ袋や、内容物のカスが内側にへばり付いたカップラーメンの空容器の群れ、湿気た菓子が入った菓子袋たち、一週間以上手をつけていない飲みかけのペットボトルが居間を占領していた。
 彼は努めてそれを無視し、洗面所で簡単に顔を洗い、口をゆすぐ。昨夜飲みすぎたビールの味が、水と一緒に下水道へと流れていく。
 目を上げて、鏡を見た。薄汚れた顔がそこにあった。最初は会社の倒産、次はリストラ、その次は女学生との援助交際がバレて社会から摘まみ出された20代の男の顔だ。中肉中背、生きる意思の喪失がタールを混ぜ込んだ泥沼のような濁った眼を作っている。

「ちくしょう」

 鏡から目を逸らし、彼は一度も使ったことのない台所へ向かった。赤茶けた色と鉄っぽい匂いが付いたTシャツを脱いで、既にいっぱいになっているゴミ袋へ丸めて捨てた。あれはもう、着られない。ズボンを見ると、こっちも少し汚れていた。洗わず放置していたせいで変な匂いがするタオルを水道水で濡らすと、裾にこびりついた土のようなものを落とした。これで、辛うじて使えたタオルも使用不能になる。ゴミ箱にポイ。
 その後、ゴミ処理場のミニチュアのような部屋の中から着られそうな服を見つけた。黒いシャツを見つけて、袖を通す。これで、一応外に出られる格好になったはずだ。とはいえ、どうせ出かけるような場所も尋ねるような友人もいないのだが。
 ふと、ズボンのポケットに違和感を感じて、手を突っ込んだ。何か入っている。彼はそれを引き出した。見覚えのない折り畳み式ナイフが出てきた。開いて見るまでもなく、ブレードの部分に血がべっとりと付着している。

「ひっ?!」

 彼は押し殺した悲鳴と共にナイフを畳の上に投げ捨てて、腰を抜かした。
 声が聞こえる。
 彼の心の中から湧き出してくる。

『さあ、今夜もまた人を殺しましょう』




 昼休みの視聴覚室は、マミの領域になりつつあった。彼女は今朝作った自前のお弁当をひとりで食べていた。今はまだ慣れないが、この静かさにも、ひとりっきりの寂しさにも、いずれ慣れるときが来るだろう。
 マミが静寂と孤独を満喫していると、ガラガラと扉が開く音がしてそちらを見た。ふたりの男子生徒が入ってきた。
 ひとりは友田あきらだ。何とも居心地の悪そうな顔をしているが、マミと目が合うと苦笑いを向けてくる。その顔を見て、マミは昨日の放課後ここで彼の頬を張り飛ばしたことを思い出して、恥ずかしくなった。いきなりコスプレイヤー扱いされて、思わずカッとなってしまったことを少し後悔していた。
 もうひとりは、いつも彼と一緒にいる男子生徒だ。クラスメイトの名前を覚えようとしないマミは彼の名前を知らなかった。話しかけてきたのは彼の方だった。

「よう、巴。俺のことは、分かるか? クラスメイトなんだが」
「ええ、でもごめんなさい。名前はちょっと憶えてないわね」
「まだ一週間だから、仕方ねぇよ。俺は日向葵だ。まあ、これのダチ」

 葵は、親指であきらを指したあと、手近な席に腰を下ろした。
 あきらは座らなかった。途方に暮れたような顔でマミを見て、意を決したようにマミが座る席のそばに来ると、深々と頭を下げた。

「昨日はごめん。変なこと言っちゃって。不愉快だったろう? 俺、ずっとあのことを謝りたかったんだ。でもなんかクラスじゃ話しにくいし、切っ掛けもつかめなくてさ……気づいたら半日経っちまってた」

 そう言えば今日、あきらはずっと話しかけてこなかった。
 マミは魔女を捜す方法を考えるのに頭がいっぱいで、ちっとも気づかなかった。
 葵が横から彼をフォローする。

「こいつはこいつなりに、巴を心配してただけなんだ。悪気があったわけじゃない。許す許さないはあんたの決めることだが、その辺だけは考え違いしないでほしいんだよ」
「わたしを、心配してた?」
「まあ、俺も悪いんだけどな。あんな噂をこいつに教えちまったせいだ」

 葵は、学校で流れている巴マミの噂について教えてくれた。
 曰く、視聴覚室を根城にしている彼女は、アニメかゲームの変身ヒロインのような格好をして決めポーズの練習をしている。それだけでは飽き足らず、夜になるとコスプレ姿で見滝原の街を徘徊している。
 マミは自分の顔が引きつっていないか心配だった。思い当たる部分が多すぎる。

(やっぱり、ここで決めポーズの練習をするのは拙かったわね)

 魔女探索の時間を考えると、わざわざマンションに戻ってやるのは時間がもったいない。そこで、学校の中でも人目につかないこの場所を利用していたのだが……目や耳はどこにでもあるものらしい。まさか一週間も経たずに噂になっているとは、思いもしなかった。
 葵は言った。

「あきらの奴、その噂を聞いたら巴のことが心配になったらしい。見滝原は治安のいい街だけど、最近は物騒だからさ。全校集会でもあのハゲ……じゃなかった、校長が言ってただろう? 通り魔みたいなのもいるから、もし本当に出歩いてるんだったら、せめてボディーガードぐらいしてやりたいって思ったらしい」
「それで、あんなことを?」

 コスプレ巡業の手伝いとは、そのことだったのか。
 これまでよく分からなかったあきらのあの行動の意味が、ストンと胸に落ちた。

「ホントごめん。よく考えたら、巴さんがそんなことしてるわけないんだよな。俺の考え違いだった」

 床に頭を押しつけんばかりの勢いで頭を下げるあきらに、マミはだんだん申し訳ない気分になってくる。元はと言えば、明かせない秘密を抱えているはずのマミが軽率なことをしたからこうなっているわけで、それを心配してくれたあきらが頭を下げるのは理不尽に思えた。マミは席から立って、あきらの肩に手を置いた。

「もういいから。友田君の気持ちはよく分かったから、頭を上げてちょうだい」

 あきらは頭を上げたが、まだ気にしているのは見え見えだった。眉根を寄せて、目を伏せてマミを見ようとしない。
 マミは気分が悪かった。彼には、あの軽薄なニヤニヤした笑いの方がずっと似合っている。
 どうしたものかと悩んでいると、葵がこっそりと耳打ちしてきた。

「俺にいい考えがある。巴、次の日曜日は暇か?」
「特に予定はないけれど……」
「じゃあ、いつも休みはどんな風に過ごしてるんだ?」
「行きつけのケーキ屋さんに行くか、ウィンドウショッピングに行くわね」

 あと、魔女の探索だ。休日は自由に動けるから、いつ魔女が現れてもいいように街に出ることが多い。
 葵がにやりと笑った。

「なら、今度の休みはそいつをショッピングバック代わりに連れていくといい。要は、あきらのやつが納得できればいいんだから、巴がそいつの“お詫び”を素直に受け取ってやればいいんだ。そうすりゃ、すべて丸く収まる」
「ちょっと待って……それってもしかして」
「デートして来い。もしふたりっきりが嫌だって言うなら、俺も彼女と一緒に来てやるぞ。どうだ?」
「彼女さんがいるの?」
「自慢じゃないけどね」

 日向葵の提案は、まるで用意して来たかのようにスラスラと口から出てきた。きっと、こうなると分かってて、あらかじめ考えてきたのだろう。たぶん、あきらには内緒で。
 葵は付け加えた。

「何も俺は、あきらの恋人になれと言ってるわけじゃない。一日だけデートに付き合ってやれと言ってるだけだ。それに、財布もあいつ持ちだから、巴は出費を気にせず買い物できるぞ?」
「さすがに、そういうわけにはいかないわよ」
「それぐらい立場をはっきりさせておかないとな。あくまでこれは、あきらからのお詫びなんだから」
「……友田君が承知するかしら?」
「承知するさ。巴とデートできるんだから、あいつに文句を言う理由はない」

 我が意を得たりといった葵のこの言葉で、次の日曜日の予定が決まってしまった。



9.魔女の気配



 追加相談料とデートセッティング料として、あきらは1週間葵に昼食を奢ることになった。明らかなぼったくりだ。相談はともかく、デートの約束に関しては葵の独断である。それで1週間奢りなんてとんでもない話だ。1週間と言わず半月分奢ってやることにした。
 おかげで、帰宅は日が暮れ切った後になった。見滝原中の校長が知ったら広くなりすぎた額から湯気出して怒りそうな時間に、あきらはマンションに辿り着いていた。
 昨日と同じように、巴マミの部屋には明かりがなかった。少し心配だった。あの噂が真っ赤な嘘で、ただ単に帰りが遅くなっているだけであることを祈った。
 部屋に戻ると、玄関でエミリーがお辞儀してあきらを出迎えた。
 あきらは今の今まで、彼女のことを完全に忘れていた。

「えっと、ただいま」
『おかえりなさい』

 と、宙に浮かべたメモに書いて見せてくる。彼女は昨夜この家を訪れてからずっと、ここに居ついていた。あきらが寝ている間に彼の両親と夜通し話をして仲良くなったらしく、ふたりは彼女を追い出すようなそぶりも見せなかった。そこにいてくれる分には目の保養になるので、あきらも別に構わない。同じ女性でも、母親よりはやっぱり若くて可愛い女の子がいい。

『お願いの件、考えていただけましたか?』
「今日はちょっと忙しくて……ごめん」
『いいえ、それならそれでいいんです。急かしてしまって、ごめんなさい』

 エミリーは居間のテーブルにそっとお茶を置くと、透明になって消えた。
 あきらはフローリングの上に寝転がり、溜息を吐いた。
 彼女にとっての恩人は、彼にとっても恩人かもしれない。だから、あきらにはエミリーの手伝いをする立派な理由があることになる。
 それでも、あまり気が進まない。それが正直なところだった。
 あきらは今でも、あの3つの色に満ちた迷宮を思い浮かべることができる。ブロックを組み立てて作った玩具のような鳥も、巨大な古代建築っぽい街も、タージマハルみたいな宮殿も、その中に住んでいた気色の悪い大蜘蛛も、彼にとって悪夢のような現実だった。夢に見て、色のどぎつさに目が痛くなったほどだ。
 あきらを助けてくれた恩人は、そんな悪夢を一掃するほどの力を持っている。あきらも人とは少し違う力を持っているから分かる。特別な力が、いつだって望むものを与えてくれるわけではない。余計な災いを与えることも多々ある。母親の投げる包丁とか。
 だから、もしあきらがあの恩人を探すつもりなら、あの異世界に自分から足を踏み入れ、あの大蜘蛛に喧嘩を売るぐらいの覚悟が必要になるだろう。
 エミリーには残念なことだが、今のあきらにそんなものはない。それでもエミリーは、あきらが「うん」と言うまで居座り続けるつもりのようだ。彼女には、他に行き場もないし、時間だって無限にある。彼が根を上げるのを待つぐらい、チョロイもんだろう。

「何だかな。もうとっくにドツボに嵌ってる気がする」

 あきらは想像できる結末に溜息を吐くしかなかった。



 巴マミは、通り魔殺人の被害者を手当てしていた。
 彼は、魔女の気配を追って辿り着いた裏道に倒れていた。マミが来たときにはもう魔女の姿も気配も消えていた。それでも、通り魔殺人の加害者が魔女に関係していることが分かっただけでも今夜の収穫としては十分だった。
 マミは魔女の追跡を諦め、被害者の救助を優先した。こういうとき、魔法があると便利だ。特に彼女は「死の回避」を祈りに魔法少女になった。死にそうな重傷者の治療は得意分野と言える。早速患部に手を当てて、魔力を流す。淡い光と熱がマミの掌を伝い、相手の傷を塞いでいった。
 被害者は、10代後半の男性。大学生ぐらいだろう。夜中に出歩いていてもおかしくない年齢だし、これまでの殺害パターンにも合致している。彼は、背後から鋭利な刃物で脇腹を刺されていた。凶器は不明。犯人が持ち去ったらしい。
 治療には、1分もかからなかった。マミは、男性の目覚めが近いと知るや、その場を立ち去った。あとは、自力で帰宅して警察に連絡するなり、病院に行くなりするだろう。下手に居残って、マミのことを警察に喋られるのは面倒である。この魔女を仕留めるまで、警察の事情聴取を受ける余裕はない。それでも、この事件を数日中には片づけることができると考えていた。
 マミはその見通しが甘いと、悟ることになった。
 新たな死亡者が出てしまったからだ。翌朝のニュース番組で、10代の女性が刺殺体で発見されたと知った。現場は、魔女の気配を感じた方向とは全く別の所にある公園だった。殺害時刻はおおよそ午後11時頃だろうと警察は判断している。
 その頃にはまだ、マミは魔女を探し回っていた。魔女が関わっているなら、マミには感じ取れたはずだ。それなのに、彼女は魔女の気配なんて感じなかった。

「どうして……?!」

 マミはテレビ画面を見つめて、呆然と呟くしかなかった。



 気づくと、彼はまた自分の部屋にいた。カーテンで遮った窓の外から月明かりが差し込む。手には、昼間怖くなって投げ捨てたはずの折り畳み式ナイフが握られていた。刃先は引き出されており、先端から根元まで新鮮な血液で濡れて光っている。

「どうして……?」

 訳が分からなかった。
 何故、こんなものを握り込んでいるのか? どうしてこのナイフが新しい血で塗れているのか? ……そもそも、今の今まで自分は何をしていたのか?
 思い出せなかった。彼の記憶にあるのは、このナイフを放り出した直後まで。その後は、まるで頭にスチームを吹きかけられたみたいにはっきりしない。アイロンで脳味噌の皴が引き延ばされて、頭が馬鹿になってしまったんだろうか?

「なんで……おれは……いったい?」
『くすくす』

 昼間と同じ声が聞こえた。童女がふざけてイタズラしたときのような無邪気な笑い声だ。
 彼は周りを見回すが、この狭いアパートに他に誰かいればすぐに気づけるだろう。
 案の定、そこには誰もいない。だというのに、その笑い声は頭の中で木霊し続けていた。
 彼は頭を抱えて、蹲った。言葉にならない呻きと涙を垂れ流して、目を閉じる。
 童女の声が言った。

『また、明日も殺しましょうね』
「あ……ははっ、おれは……気が狂っちまったのか?」

 彼は血塗れのナイフを手放すこともせずに、喉から湧き出してくる哄笑で体を揺らし続けた。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(3)
   ??の魔女《???》
   性質は殺意。人の持つモノを奪い尽くさなければ気が済まない魔女。全てとはつまり、命である。
   詳細は不明。
   ヒント → 同じく不明。






 ・あとがき
  いつもご愛読いただきありがとうございます。
  少々短いですが、切りが良いので今回はここまでです。
  次回もよろしくお願いいたします。



[28866] 第4話
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/08/16 20:23




10.前夜のいきさつ



 数日後の夜、巴マミは人気のない路地裏で一匹の使い魔を追い詰めていた。

「少し手を焼かされたけれど、ここまでよ。観念なさい」

 マミは、そう見得を切った。
 紺色のスーツを着たサラリーマン風の大柄な男が、歯をむき出して唸り声をあげた。拳を握り、腰を落としてアメフト選手のようにタックルの体勢を取る。
 この使い魔は、人間に寄生する。老若男女問わず乗り移り、自由意思を奪い、武器を手に、あるいは素手で、魔女の敵であるマミに襲いかかってくる。
 マミが彼らと銃火を交えたのは、これがはじめてではなかった。もう何度も、同じパターンで襲撃を受け、その度にマミは傷一つ負うことなく彼らを退けている。

「がああああっ!!」

 大柄の男は、獣の様な咆哮を上げて突撃してきた。

「無駄なことを」

 マミが指揮者のように右手をふり上げると、伸縮自在のリボンが男を絡め取った。リボンはマミの足元から溢れ出し、男の両手足に喰らいついて体の自由を奪っていく。
 男は拘束から抜け出そうと、もがいていた。
 マミは、スカートを浮かせて手品じみたやり方でマスケット銃を取り出した。それを両手でしっかり構えて頭部に狙いをつける。
 男は凍り付いて、銃口に血走った目が釘付けになる。

「さようなら」

 マミは呟いた。そして、引き金を引いた。
 パンと甲高い音共に、銃口が弾丸を吐き出す。
 その瞬間、マミは見た。
 男性の首筋から、まるで脱皮するように白い蛇が飛び出してくる。使い魔の本体だ。
 抜け殻になった男性は白目をむいて、リボンにもたれかかった。がくりと頭が垂れ下がり、そのおかげで弾丸が耳元を通過、背後のコンクリ壁に亀裂を作ってめり込んだ。

「言ったはずよね、無駄だって」

 逃げ出した蛇が埃だらけの路地裏に着地しようとしたとき、壁にめり込んだ弾丸から黄色いリボンの花が咲いた。抜け出した男性と同じように、使い魔の本体が着地する前にリボンが絡みついていた。
 マミは一発限りのマスケット銃を放り棄てて、新たにもう一丁同じ銃を引っ張り出した。
 白い蛇は身をのたくらせて大暴れしていた。しかし、リボンの拘束から逃れることはできない。もがけばもがくほど、ぬめりを帯びた蛇腹にリボンがきつく食い込んでいく。
 恐慌状態になっている蛇に対して、マミは銃身を剣に見立ててあてがった。銃口を真っ白い蛇の頭に押しつける。

「じゃあ、今度こそさようなら、ね」

 二発目の弾丸は、壁にめり込むこともなく目的を遂げた。



「もう随分、ソウルジェムが濁っちゃったわね……もう少し節約しなくちゃ」

 襲いかかってきた男性に記憶操作を施して解放した後、マミは魔女を捜してもう一度街に繰り出していた。指輪の形をしている魔法の石・ソウルジェムの濁りに頭を痛めながら、お巡りさんに見咎められないように建物の陰を渡り歩く。
 新たな通り魔殺人を警戒して、道路を走るパトカーの数も増えている。道端で制服警官に見つかりそうになる回数も、前よりずっと多くなっていた。やりにくくて仕方ない。

(魔女を見つける前にこっちが補導されたら、笑い話にもならないわね)

 彼女は少し焦っていた。最近はずっと夜の街をさまよっている。1匹の魔女を探すのにこれだけ時間をかけるのは、はじめてのことだ。その上、被害者は異常なペースで増えている。今朝の時点で、通り魔殺人の被害者は13人に達していた。ほぼ、一日にひとりのペースだ。そのせいもあって、夜の見滝原の街は少し前とは打って変わってひっそりしていた。普段は、眠りとは無縁の賑やかな街なのだ。
 これ以上被害者を出さないため、そして魔力の回復のためにも、できるだけ早く魔女を倒してグリーフシードを得る必要がある。

(それにしても、分からない。どうして魔女の気配が出たり消えたりするのかしら?)

 魔女が殺人を犯すとき、魔力の高まりを感じる。だが、犯行の後には魔力の残り香しか残らない。まるで、雨に洗い流されでもしたようにプツリと足取りが途切れてしまう。
 おかげで、いつものように使い魔を潰して回っても、魔力の痕跡を辿っても、魔女には行き着けない。マミが無駄に魔力を消費する結果になる。

(これが魔女の特性? だとしたら、別の方法を考えなくちゃいけないけど……)

 コロンブスの卵のような解決が必要だ。マミはずっとそれを考えて続けている。
 だがそんな都合のいい方法、簡単には思いつかない。マミにできることは、こうやって街を歩き回り、使い魔を潰して回ることだけだった。
 悩ましいことは、もうひとつある。明日が、約束の日曜日だということだった。マミにとって、はじめてのデートの日。

(……断わった方が、いいわよね)

 いつ魔女とぶつかることになるか分からない以上、体力と魔力を温存しなければならない。それに、他の人と一緒にいるときに魔女と遭遇したら、巻き込むことになる。
 あきらと葵には悪いが、断わった方がいいだろう。
 彼女はスカートのポケットから携帯電話を取り出した。つい先日購入したばかりで、まだ操作には慣れていなかったが、電話とメールのやり方ぐらいなら知っていた。

(思えば、わたしも浮かれていたのね……こんなもの持ったって、意味ないのに)

 マミには近い親類も友人もいない。もちろん携帯電話なんて必要なかった。
 だが、妙な成り行きで友田あきらとデートすることになり、もしかしたら必要になるかもと考え、手に入れていた。少しだけうきうきしながら、アドレスを交換したのを覚えている。
 そう……確かに必要になった。彼らの好意を踏みにじる形になってしまったが。

「変に考えるのは止めなさい。仕方のないことじゃない」

 そう、自分自身に言い聞かせる。そもそも、あんな約束をOKするべきではなかった。いつものように他人を遠ざけて、ひとりでいるべきだった。今回のような手強い魔女が現れたとき、ひとりの方がずっと戦いやすい。誰に迷惑をかける心配もない。そんなことは、とっくの昔に分かっていたこと。今更だ。
 マミはスライド式の携帯を掌で覆うようにして押し上げる。
 カツンと軽い音を立て隠れていたダイアルボタンが露わになり、暗くなっていた液晶に明かりが灯った。

「あ……」

 アドレスを呼び出そうとしたとき、メールが一件入っていることに気づいた。差出人は「友田君」と表示されている。題名は「ほどほどに」となっていた。しかし、これだけでは意味が掴めない。
 マミはメールを開いた。




≪今日も帰りが遅いみたいなのでメールしました。迷惑だったらごめん。でも、まだ通り魔も捕まってないみたいだから、夜遅くに出歩くのは控えた方がいいかも。特に、巴さんはひとり暮らしみたいだから、気をつけて。じゃあ、また明日≫




 ようやく送信ボタンを押して、友田あきらは携帯を閉じた。自室の壁に背を預けて座り込みながら、前髪をくしゃっと握る。

「まさにストーカーの文面だよな、これ?」

 出した後になって、こんなメールを書いたことを後悔した。まるで毎日彼女の後を追いかけているかのような内容だったからだ。気づくのおせーよ、俺。

『でも、心配だったんでしょう?』

 額に押し付けられたメモを読む。顔をあげると、エミリーが目の前に正座していた。突然目の前に幽霊が現れてもビクともしない。きっと彼の心臓は剛毛で覆われているのだろう……想像すると、気色の悪い光景だ。
 エミリーもすっかりこの家に馴染んでいた。彼女は微笑ましげな顔で、書き加えた。

『明日のデート、頑張ってください』
「そのつもりだけど、エミリーはついてこないのか? もしかしたら、恩人が見つかるかもしれないぞ?」
『そういう野暮なことはしたくありません』
「巴さんには見えないのに?」
『あきらさんには見えているでしょう? お邪魔虫は、最初からいない方がいいんです。わたしは……そうですね、最近新しい友達ができたので、そちらにいます』
「父さん達が寂しがるぞ?」
『あのおふたりはふたりっきりの方が楽しいらしいですよ? こっちでもお邪魔虫です。わたしは夕方までは帰りませんから、そのつもりで楽しんできてくださいね』
「そのまま永久に消えてくれてもいいぞ…………ありがとう、エミリー」
『どういたしまして。あ、そうそう。彼女に何をプレゼントするか、ちゃんと考えておくんですよ? 形に残る贈り物をしておいた方が、女の子にはポイント高いですからね』
「ああ、分かった」

 エミリーはうなずくと、流れるような挙動で立ち上がり、背を向けて消えた。
 まるで出来る義姉に諭された義弟の気分だった。こちらの萌えポイントを的確に突いてくるとは、なかなかやる。そんな彼女の助言だ、当てにしてもいいだろう。
 あきらがベッドに入って寝入ろうとしたとき、マミから返信が来た。「そちらこそ」という題名を確認しながら、メールを見た。




≪メールありがとう。心配はいりません。友田君も、あんまり夜遅くまでブラブラしないようにしてくださいね? 多分、日向君と一緒にいるんでしょうけど、危ないのはあなたも同じですから。明日のデート、楽しみにしてます≫





(何やってるのかしら、わたしは……?)

 メールを送った後になって、そんな風に思った。
 徹夜してでも魔女を倒す気概が必要なときだ。男の子とデートしている場合ではない。そう自分を奮い起こして、魔女探索を続けることもできた。実際、一度は明日の予定をご破算にするつもりだったはずだ。
 けれど、連日の探索でもまったく成果がなかった。これ以上やっても、結果は変わらないだろう。むしろ、下手に動き回るより相手の出方を待った方がいいかもしれない。それが現状で一番理に適っているはずだ。

(いいえ、そんなの言い訳だわ。わたしは明日のデートをすっぽかしたくないだけよ! ……たぶん、誰かと休日を過ごすのがあまりに久しぶりだから)

 キュウべぇの言葉を思い出す。マミは、魔法少女として戦い続けること、人を遠ざけ続けることにストレスを感じている。そう彼は言った。
 あのときは否定したが、今となってはキュウべぇの推察が的を射ていたんだと分かる。彼はいつだって、真実を言い当てる。今回も、キュウべぇはそれを示していた。
 今のマミに必要なのは、ひとときの休息だ。心と体を休ませることだ。少しの間だけ、ただの女の子に戻ること。それが、魔法少女としての巴マミを支えてくれる。
 マミは決断した。



 見滝原中の制服を着た女の子は、彼に背を向けて歩き出した。
 彼はその女の子が角を曲がって視界から消えるのを待って、後をつけはじめた。彼はジーンズのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて身を縮ぢ込めた。これで気休め程度には目立たなくなったはずだ。
 履き古したスニーカーがざらついたコンクリートを踏むたびに、パカパカと乾いた音を立てる。足音を気取られては困るので、彼は一歩一歩、注意深く下ろして音をたてないように歩いた。
 少女の歩みはゆっくりとして、注意深い。歩道の陰を歩き、いつでも身を隠せるように逃げ道を確保している。まるで、獲物を狙う通り魔か何かのようだ。
 彼もそうした。そうするために、彼女の道を忠実になぞるだけでよかった。
 彼女は気づいているのだろうか? この道が、彼女本人からも様々なものを隠しているということに。多分、気づいていまい。それが彼の強みになる。
 長い時間をかけて、少女はマンションに辿り着いた。彼が住む安アパートとは比べるべくもないほど綺麗で立派な建物だった。足を踏み入れるには、少しだけ勇気が必要だった。
 このマンションに管理人はいないのだろうか? それとも、夜遅くは働いていないのか? 少女は誰に見咎められることなく玄関を抜け、エレベータに乗り込んだ。エレベータの扉が閉まった。
 彼はエレベータホールに入り、少女の乗ったエレベータがどの階に降りたのか確認すると、すばやくマンションの外に出て、物陰からその階の通路にじっと目を凝らした。
 センサーが人を感知して、通路に明かりが灯った。やがて、彼が後をつけた少女が現れ、いくつかの扉の横を素通りして、ある部屋の前で止まった。鍵を開けるあいだ、彼女はジッとしていた。彼女は扉の中に消えた。
 彼はエレベータを使ってその階に向かい、少女が消えた部屋の前に立った。ジーンズの中の折り畳みナイフを握り締める。

『ふふっ、みーつけた!』

 いつもの幻聴を聞き流して、彼は表札を確認する。
『巴マミ』

「巴マミ……巴マミ……巴マミ……」

 彼はその名前を口の中で弄びながら、マンションから出て行った。



11.はじめてのデート



 あきらが集合場所に着いたときには、とっくにみんな揃っていた。

「遅せぇぞ! ったく、お前は自分の立場を分かってるのか?」

 日向葵がぶつくさ言った。心持ち、めかし込んだ格好をしている。彼はあきらをダシにして、連れてきた彼女とのデートを満喫するつもり満々らしい。当たり前か。
 あきらは手をふりながら応えた。

「遅れたのは悪かったよ。で、俺の立場って?」
「勿論、財布だよ。現金以外に、お前の価値なんてこれっぽっちもない!」
「はっきり言いやがって!」

 借りのある身としては、財布扱いも甘んじるしかない。しかし、現金だけとは見くびられたものだ。クレジットカードを忘れるな。

「で、何で遅れたんだ?」
「…………寝過ごした」
「緊張感のない奴め!」
「なかなか寝付けなかったんだよ!」
「お前は遠足前夜の小学生かよ!」

 そのとき、マミと談笑していた葵の彼女が割って入った。角突き合せる同年代の男ふたりを腕力だけであっさり引き離す。結構、力が強い。

「その辺にしときなさいよ。って言うか、アンタたちの喧嘩を眺めるために来たわけじゃないんだからね? わたしたちは」

 それもそのはず、この“志藤はるか”は子供の頃から空手に熱を入れているという、男にとっては少々厄介な少女だった。見た目は細っこいのに、鉛の塊みたいに扱いずらい。
 野郎は単純な生き物だ。自分より強い相手には本能的に反感を抱いてしまう。それが女となると、特にそうだ。はるかはそんな野郎どもの貧弱な意地を、これまで幾度となく叩き潰してきた猛者だった。
 あきらは今更彼女に逆らおうなんてこれっぽっちも思っていない。はるかが作った葵の弁当を掠め取ったとき、平手一発で懲りていた。
 葵は言った。若干、声に彼女を労わるような響きが滲んでいる。

「悪かった。そうだな。せっかく4人で来たんだから、楽しまないと」
「ええ。それに、友田。アンタはもっと巴さんを気にかけてやらなきゃ駄目でしょ? 誘ったのはアンタなんだから。遅刻してくるとは何事よ!」
「え? あの、志藤さん! わたしは気にしてませんから!」

 成り行きを面白そうに見ていたマミは、自分のことに話が及んで慌てた。高みの見物を決め込んでいたのに、突然司令官に手ずから戦場に引っ張り込まれてしまった見張りやぐらの兵士のようにオロオロしている。かわいそうに。
 その後、葵が何とかはるかを宥めることに成功して、4人は予定通りウィンドウショッピングをはじめた。そんな中、葵とはるかは素晴らしいバカップルぶりを発揮して、誰はばかることなくイチャイチャしていた。
 正直、あきらはこのふたりがここまでバカになれるとは、思いもしなかった。葵もはるかも、普段は割と常識的な部類の人間なのだ。それが見ているこっちが恥ずかしくなるような甘い雰囲気で惚気合ってるんだから、驚くしかない。リア充爆発しろなんて、こんな連中に言っても水鉄砲ほどの威力もない。虚しくなるだけだ。

「仲良いわね、あのふたり」
「仲の良さにも限度ってあると思うんだ、俺」
「さすがの友田君も、あれには言葉もない?」
「ああ、冗談ひとつ捻れないよ」

 だがそのおかげで、あきらは変に緊張することなくマミと話をすることができた。バカとはさみは使いようとは、よく言った。昔の人は偉い。
 中学生のデートコースなんて高が知れたもので、4人は雑誌に載っているような有名なデートスポットをぐるぐる廻っただけだった。世の中も休日なので、そんな場所は似たカップルたちで賑やかだ。
 マミが一番興味を示したのは、ケーキショップではなくおしゃれな食器がずらりと並んだ洋食器専門店だった。はるかだったらまとめて瓦割りにでもするしかなさそうな磁器の皿を1枚1枚丁寧に手に取って見ては、棚に戻していく。鼻歌でも歌いそうなぐらい上機嫌だ。

「友田君も何か一つ買ってみたら?」
「俺は別にいいかな。今のところ、食器には困ってないし」
「そうなの? あなたはいつもどれぐらいの食器を使ってる?」
「どれぐらいって……食事用に茶碗と皿がふたつか3つあればまず困らないと思うけど? あと湯飲みとか」

 せいぜい来客用や壊したときの予備のために、もうひとつふたつほどストックしておくぐらいだ。ひとり暮らしだし、お客も人間より幽霊の方が多いぐらいだから、そんなに数はいらない。
 あきらはそれが普通だと思っていたが、マミは驚いたようだった。

「それはもったいないわ!」
「使いもしない食器をいくつも持ってる方が、もったいないと思うけど?」
「そういうことじゃないの。たとえば、今日の夕食に花柄の可愛いお皿を使うとするじゃない? だったら、次の日は落ち着いた無地のお皿を使おうって思わない? そうした方が、毎日の食事にもっと彩りが出ると思うんだけど」
「……そうかな?」
「ええ、そうよ。絶対にそう! 料亭がメニューに合わせてお皿を使い分けるのと同じよ。献立に合わせて盛り付けるお皿を選んだ方が食卓が華やかになるし、お料理のし甲斐も食べ甲斐もあると思うわ! 作る方も食べる方も気分が良いはずよ!」

 よほど拘りがあるんだろう。興奮してまくしたててくる。
 あきらは話の内容には拘らないので、マミの意見をありがたく拝聴していた。うん。今までの会話時間で最長記録なのは間違いない。会話のキャッチボールというより、ノッカーと球拾いだが。
 そうしていると、店内に散っていた葵とはるかが戻ってきて、マミに言った。

「なあ、巴。お店の人に迷惑だからもうちょっと静かにしよう。な?」
「お店の端まで聞こえてきたわよ? って言うか友田! アンタも大人しく聞いてないで少しは止めなさい!」
「いやぁ、何て言うか……俺は別に困ってなかったから」

 3人は顔を真っ赤にして小さくなったマミを連れて、そのお店を後にした。

「……本当にごめんなさい」
「いいっていいって。俺は全然気にしてないぞ?」
「いや、少しは気にしろよ」と、葵がツッコんだ。

 マミは恐縮してしまっていた。
 このままでは拙い。お詫びのためのデートで気まずい思いをさせるのは下の下だ。
 正直マミの自爆のような気がしないではないが、あきらが挽回しなければならない。

「ああ、そうだ! 次はあそこ行かないか?」

 あきらが指差したのは、全国チェーン展開しているファーストフード店だった。

「なるほど、時間稼ぎか」
「何のことだ、葵?」
「いや、別に」

 せっかくのデートなのにファーストフード? と、はるかが少しだけごねた。ご尤もだが、一番近いのがここだったんだから仕方ないと葵が説得してくれた。ナイスフォローだ、悪友。
 問題は、食にうるさそうなマミだった。だが、彼女は先ほどの失態をまだ気にしているらしく特に何も言わなかった。少し気の毒だが、今はありがたい。

(早く何とかしてやらないとな)

 単純だが、腹が膨れれば何かいいアイディアが浮かぶだろう。マミの気分も上向くかもしれない。あきらは財布を取り出して、スマイル0円が売りの店員がいるレジカウンターに向かっていった。



12.休日は終わった。



 巴マミが友人3人と共にファーストフード店に入店したのを確認すると、彼はジーンズに忍ばせたナイフをポケットの中で握り込んで、その後をつけた。
 怪しまれないように飲み物とポテトを注文し、注文番号入りのプレートを持って店内へ。
 中学生4人はテーブル席を囲んでいた。
 彼はそばのカウンター席に落ち着く。外を臨むウィンドウ越しに、4人が談笑している姿を見つめる。
 少年ふたりが何か面白いことを言ったらしく、もうひとりの少女がクスクス笑いながら巴マミに話しかけている。だが、マミの方が少々顔色が優れず元気がないようだった。愛想笑いを浮かべているが、『声』が操る蛇を葬っていたときほど生き生きしているようには見えなかった。今なら、簡単に不意を打てそうだ。
 彼は、ナイフを握る手に力を込め、ポケットから引き抜こうとする。

『まだ、まだだよ』

 そう囁く声に、手に込めた力を緩めた。まだ準備が整っていない。このナイフを振りかぶり、彼女の頸動脈に食い込ませるにはいくつかの段取りが必要だ。失敗は許されない。だから、今は我慢しなければ。

(そうだ。この『声』の言うとおりにすれば、また人を殺せる。これからも殺し続けられるんだ)

 最初は怖かった。人を殺したときの記憶がなくて、その証拠だけが手元に残っていたために、混乱もした。自分が狂っているんじゃないかとすら思った。
 だが、やがてそんなことを考えることもなくなった。実際に、この手で人を殺したときから、そんな悩みなんて吹き飛んでしまった。

『また、人を殺しましょうね』

 そう囁かれるのが、堪らなくなった。このナイフが食い込んで、鈍い手応えと一緒に血が飛び出してくるのを見て、ゾクゾクした。女を抱くよりずっといい。相手なんて誰でもよかった。ただ、飛び出す血が綺麗な気がして、できるだけ若い相手を選んでいた。夜中に外をほっつき歩いているガキなんてごまんといたから、獲物には事欠かなかった。
 けれど、それに水を差す奴が現れた。巴マミだ。

(巴マミ……巴マミ……巴マミ……!)

 その名前を思い返すだけで、憎しみと殺意が溢れてくる。『声』はあの女を恐れていた。言葉にはしなかったが、彼には感じ取れた。それが我慢ならなかった。

(巴マミ、お前は俺がこの手で……)

 そのとき、マミがひとり席を立って化粧室に向かった。



「はぁ」

 化粧室の鏡越しに、マミは不景気な顔をした自分を見つめて溜息を吐く。
 彼女は時間が経てば経つほど、このデートに来たことへの後悔が深くなるのを感じていた。あの3人と一緒にいるのがつまらないわけではない。その逆だ。この休日が楽しければ楽しいほど、別の考えが頭をよぎってしまう。

(わたしがこうしてる間にも、あの魔女は新しい犠牲者を出してるかもしれない。なのに、わたしはこんなところで何をやってるの?)

 意味のない考えであることは分かっていた。マミがいようといまいと、魔女は次々と犠牲者を出す。その行き詰まりがあったからこそ、マミは今ここにいる。1日だけ魔法少女であることを忘れよう。そう自分に言い聞かせて、普通の女の子として休日を過ごそうと決めた。
 けれど、忘れることなんてできなかった。誰かと一緒にいても、普通の女の子にはなれなかった。少しの間だけ魔女を忘れることができても、視線を向けた先に魔女の気配を探ろうとしてしまう。いるはずがないのに、物陰に使い魔の影を見たような気になってしまう。

(こんなんじゃみんなにも迷惑だわ。いったい、どうしたら……)

 そのとき、背後に人の気配を感じた。鏡に映った化粧室の入り口が開いて、誰かが入ってこようとしていた。この手の店の常として、この化粧室は一人用だった。

「あ、ちょっと待ってください! すぐ出ますから!」

 マミは別に用を足したわけでもないのに洗面所の蛇口を捻って、手を濡らした。明確な理由があったわけではなく、何となくそうしていた。ただ、こういう場所に入って手も洗わずに出るのは少々不潔な気がしたからかもしれない。
 マミは鏡から目を逸らし、ハンカチを取り出して手を拭いた。拭き終わって鏡を見る。

「え?」

 鏡の中の人物は、マミの背後に立っていた。スーツ姿で背の高いキャリアウーマン風の女性だった。彼女は虚ろな目で鏡越しにマミの目を見ている。
 その目つきに、マミの背筋がぞっと冷たくなった。マミが魔女の気配を感じたのは、そのときだ。その女性の目が、昨夜使い魔に操られていた男性と同じ気配を漂わせていることに気づく。

「ううっ、うううううっ!!」

 スーツ姿の女性は、低い呻き声をあげながらマミに飛びかかってきた。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(4)
   ??の魔女《???》 ← 情報更新!
   性質は殺意。人の持つモノを奪い尽くさなければ気が済まない魔女。全てとはつまり、命である。
   略奪の役割を与えた使い魔は人間の自由を奪い、生贄として魔女に捧げる。
   魔女は自分が操る人間にその命を刈り取らせる。
   詳細は不明。
   ヒント → 同じく不明。






 ・あとがき
   こんにちは。今年の夏もいい加減にしてほしいぐらい暑いですね。
   皆様は適度な水分補給を怠らず、熱射病にならないように注意してください。
   さて、次回でひとまず一区切り、一年生(春)編は終了します。
   アニメ本編時間軸に到達するまでまだまだ先は長いですが、どうか見捨てないでやってください。
   今後の更新速度も、これまで通り緩めに行きたいと思います。
   よろしくお願いします。



[28866] 第5話
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/08/16 20:46
13.≪薄明眼(トワイライト・アイズ)≫



「アンタさ、結局巴さんをどうしたいわけ? さっきまで黙ってみたけど、ちっとも積極的じゃないじゃない。一体何のためにデートに誘ったのよ? 男なら男らしく、アプローチのひとつもかけなさいよ」

 巴マミが席を立って化粧室に消えると、志藤はるかは友田あきらにそう詰め寄った。気の弱いご老人が心臓発作を起こしそうな勢いでテーブルを叩く。
 どこぞのジジィより先に俺の心臓が止まりそうだと、あきらは肩をすくめた。
 日向葵は、その隣で椅子に背を預けて腕を組み、事の成り行きを面白そうに見ているだけで、ふたりの話に混ざろうともしなかった。
 あきらが何も言わないのを見て、はるかのまなじりが危険な角度に吊り上がっていく。
 次に吊し上げられるのは、眉毛じゃなくて俺の首かも知れないな。あきらはぼんやりそう思った。

「聞いてんの!? この意気地なし!」
「言いたいこと分かるけどさ、言うは易く行うは難しって孫子さまがおっしゃってるだろう? これも、それなわけよ」
「それは孫子じゃねえ、恒寛だ」と、葵。
「黙ってろ、役立たず」
「酷いな」
「葵に食ってかかる前に、わたしにかかってきなさい。それとも、反論できなくて逃げてるのかしら?」
「そうだよ、悪いか?」
「悪いわ! じゃあアンタ、何? 誘っておいてアタックする度胸もないチキンなわけ?」
「そうだよ! ああ、その通りさ!」
「威張って言うことか!」
「ふっ、こういうときじゃないと威張れないからな!」
「何よそのしてやったりって顔は……そんなんで誤魔化されると思わないでよね!」

 まったくだ。自分自身も誤魔化せない冗談に、価値はない。
 あきらはこのデートに漕ぎつくのが精いっぱいで、いったいどうマミに接したらいいのか皆目見当もつけられない有様だった。今日の出来事をただのお詫びと割り切るのか、もっと踏み込んだ関係を望んでいるのか、それすら曖昧だ。彼自身、よくこれでデートする気になったものだと呆れていた。
 あまりに一方的な展開に興醒めしたのか、葵が助け舟を出してくる。

「まあ、デートの案を思いついたのは俺だし、勧めたのも俺だから、一概にこいつが悪いって言うわけにもいかんだろう……まさかここまでチキンだったとは想定外だったけど」
「やかましい」
「とにかく、こいつをなじったところで悦ばれるのがオチだからやめとけ、はるか」
「俺を変態みたいに言うな!」
「みたいじゃなくて、変態なんだよ。明らかに脈がないって分かってる相手にチャレンジしようとか、手ひどくフラれるのが目的としか思えん。正気の沙汰じゃないな」
「でも……ちょっと変よね、巴さんも。付き合う気が無いなら、どうしてデートに応じたのかしら? しかも、友田なんかの。あの子ぐらいなら、もっと適当な相手がいそうなものだけどねぇ」

 散々な言われようだ。よほど「お前の恋人が、巴さんの人の良さにつけ入って口説き落としたからだ」と教えてやりたかった。
 だがそれでも、マミはいつだって断ることができた。アドレスを交換してるんだから、メール一発でキャンセルすることもできたのだ。それでも、彼女は今日ここに来た。
 彼女はどんな気持ちで、この休日を迎えたんだろうか?

「本当に……どうして彼女は来てくれたんだろうな」

 ふたりから目を逸らしたとき、あきらの視界を妙なものが横切った。白い影のようなものが、はるかの背後をするすると動いている。
 あきらは思わず、その細長い影を目で追っていた。

「ん? 何よ、友田? わたしの顔、何かついてる?」

 はるかは持っていたチキンナゲットを容器に戻し、口元にマスタードでも付いてるのかと探っていた。だが、背中を移動しているモノには気づいていない。隣に座っている葵も、まるで気配を感じていないようだった。
 影は、はるかの背から頭を覗かせて二股に別れた舌をしゅるしゅると蠢かせている。白い蛇のように見えた。
 幽霊? いや、ここまではっきりした幽霊なんて見たことがない。あきらが見てきた幽霊は、みな半透明で背景が透けて見えるモノばかりだった。

(そもそも、こいつは幽霊なのか? 動物の霊なんて、はじめて見たけど)

 あきらは言った。

「はるか、肩に何か憑いてるぞ」
「え? ……何も付いてないじゃない」

 はるかの視線は蛇を素通りして、隣の葵に微笑みかけていた。
 葵も微笑み返す。
 一生やってろ、バカップル。それにしても、やはり他の人間にはあの蛇が見えていないようだ。
 そのとき、蛇が大口を開けて、はるかの首に牙を突き立てようとした。
 あきらは咄嗟に、手に持っていた烏龍茶入りの紙コップを投げつけていた。
 蛇は蹴飛ばされた犬みたいな悲鳴を上げて、床に落ちた。
 自分でやって、驚いた。幽霊なら素通りするはずなのだが……。

「ちょっと! 何すんのよ!」

 蛇が見えていないはるかは、突然飲み物を投げつけられて金切り声をあげた。
 葵も、少々キツイ目つきであきらを睨みつけた。

「おい、あきら。今のはちょっと冗談じゃすまないぞ?」
「俺も冗談のつもりはねえよ」

 あきらは立ち上がり、蛇と烏龍茶の落ちた先を見た。紙コップから透明な茶色の液体が床の上に零れているだけで、蛇の姿は見えなかった。よく確認しようと、葵とはるかの席の背後に回り込む。やはり、蛇の姿は消えていた。

「……友田?」
「どうかしたのか、あきら?」

 ふたりとも、あきらの奇妙なふるまいに困惑の表情を浮かべている。
 あきらがふたりにどう説明するべきかと考えていると、そのフロアにいた誰かが悲鳴を上げはじめた。




 指輪をソウルジェムに変え、ソウルジェムからマスケット銃を取り出す。
 振り向きざまに、マミは銃身を女性の両腕に絡みつかせ、背後からの奇襲を防いだ。考える間もない反射動作だった。

「ぐ、ぎぎぎっ!」

 狭い化粧室で、長銃身の銃は立派な障害物となっていた。キャリアウーマン風の女性は噛みしめた歯をむき出しにして、満身の力でマミをマスケット銃ごと抑え込もうとする。その力は人間離れしており、彼女は間違いなく正気を失っていた。

「……なるほど。焦ってたのは、相手も同じだったってわけね」

 一方、マミは平静そのものだった。野獣のような力に対抗するために魔力で筋力を底上げしながら、一度小さく呼吸する。それだけで、この異常事態に適応していた。先ほどまでの落ち込みが嘘のようだ。思考は軽やかに状況を分析する。

(この人はただの挑発ね。本命はまだ、どこか近くでわたしの出方を見ている)

 魔女がこんな人間臭いやり方を使ってくるとは意外だったが、間違いない。マミがひとりになるのを待って狙ってきたにしては、あまりに力不足だ。魔女本体ではなく、使い魔が来たことから考えてもこの襲撃は宣戦布告のようなモノだろう。上手く不意を打って倒せれば儲けもの、ぐらいに思っているはずだ。
 だとすると、次はどんな手を使ってくるのか?
 マミはチェスプレイヤーになったつもりで相手の手筋を読もうとした。だが、マミに分かっているのは、この使い魔が人間に乗り移って自由に操ると言うことだけだ。
 ふと、マミの脳裏にある予感がよぎった。

(人間に? ……しまった! まさか、もう!?)

 その危惧は当たった。化粧室の外から悲鳴と怒号が溢れて、扉越しにマミの耳に届きはじめていた。あきら達がいるフロアだ。
 マミは焦った。ソウルジェムの濁りは酷い。魔力消費を抑えながら、目の前の使い魔を倒すには少し時間がかかる。その間に、フロアではどんな惨状が繰り広げられるか……。一刻も早く使い魔を倒して、助けに行かなければならない。
 マミはじりじりと銃身ごと女性を押し返しながら、休日を共に過ごした3人のことを想った。魔法少女にあるまじきことかもしれないが、マミは今あの3人だけでも無事でいてほしいと願っていた。



 悲鳴の主は、テーブル席に座っていた女子高生だった。
 恐らく、部活帰りか何かだったのだろう。女子4人でテーブルを囲んで談笑していたのを、あきらはぼんやりと覚えている。
 その彼女が、隣に座っている女子に首を絞められて、もがきながら抵抗していた。振り払おうとして上手くいかず、掌は爪ごと首に食い込んでいくばかりだった。一緒にいた友人が突然凶行に走った女子を止めようと躍起になっていた。だが、その女子はまるで大男のように力があり、手が付けられないようだった。
 すると、今度は別の場所から雄叫びが上がった。男女二人組のカップルの片割れだった。男が突然暴れ出し、テーブルに乗っていた食べ物を床にぶちまけ、フロアに固定されたテーブルが跳ねあがるかと思うほどの強烈な勢いで膝をぶっつける。それで足りないと見るや両拳を固め、ハンマーのようにテーブルに叩きつけはじめた。目の前にいた女性は、一体何が何やら分からないと言った風に唖然としている。
 次は子供だった。母親に連れられて来たのだろう。ふたりでカウンター席に並んで座っていた。まだ小学生にも上がっていないような男の子だった。その子は母親が口元に付いた食べかすを拭おうとした途端、その指にかみついた。母親は絶叫し、息子の額を押して離そうとするが、息子はまるで狂犬のように喰らいついた離さない。
 そこかしこで、人々が狂いはじめていた。だが、彼らには決まって、あの白い蛇が首筋に喰らいついている。
 あきらは呟いた。

「……あの蛇が、元凶なのか?」
「蛇? おい、あきら! いったい、何のことを言ってるんだ!?」

 葵はパニック寸前の真っ青な顔で、はるかの肩を引き寄せて立ち上がっていた。周りに目をやり、誰が襲いかかってくるかと警戒している。
 はるかは逆に落ち着いていた。顔色が悪いのは葵と同じだし、不安そうだったが、パニックにはなっていない。
 そう言えば、彼女は空手をやっていたんだっけと、あきらは思い出した。葵の彼女自慢に付き合っていたとき、どこかでストリートファイトをしたこともあると聞いた覚えもある。葵より、暴力に慣れている印象があるのはそのせいか。末恐ろしい女だ。

「おい、あきら!」

 葵が胸襟に掴みかかってきた。その眼は不安に揺れている。
 はるかは葵の腕に軽く手をかけて、囁いた。

「葵、静かに。大丈夫だから、落ち着いて」

 はるかの冷静な態度に、葵は冷や水を浴びたように黙り込んだ。あきらとはるかの顔を見比べて、少し恥じ入ったように俯く。こうしてると、この悪友も結構可愛く見える。一応言っておくと、あきらにその手の趣味はない。
 はるかは携帯を弄り、ほどなく何の手応えも返ってこないことに舌打ちした。
 あきらと葵も自分の携帯で試してみたが、軒並み圏外で使い物にならなかった。ホラー映画の舞台じゃあるまいし、なんてテンプレな音信不通だ!
 はるかは言った。

「友田。とにかく、ここから出た方がいいと思うんだけど?」
「そうだな……」

 ここにいる誰かに手を貸すよりも、外に出て消防を呼ぶ方がずっと実際的だ。
 あきらはマミのことを思い出して、化粧室を見た。まだ、彼女が出てくる気配はない。

「葵を連れて先に行ってくれるか? 俺は巴さんを連れてくる」
「離ればなれになるのは危険よ。巴さんには悪いけど、わたし達だけで……」

 蛇が、足元から葵に飛びかかろうとしていた。
 あきらはテーブルにあったトレーをとって、ハエ叩きの要領で振りかぶった。
 鈍い音を立てて、蛇が吹っ飛んで床に落ちた。だが、堪えた様子もなく別の獲物を求めて離れていく。あれを仕留めるなら、刃物か銃器が必要だろう。だが、頭に「や」の付く職業でもあるまいし、あきらにそんなものはない。

「……友田?」
「気にするな。それより、大丈夫だから先行っててくれ。俺も巴さん引っ張ってすぐに出てくる」

 あきらはふたりを出口まで連れていこうとした。
 ふたりとも最初は渋っていたが、すぐに納得くれた。3人で口論するより、ふたりだけでも逃げのびた方がここにいる人たちのためになる。
 もうすぐ出口に辿り着くというときだった。ひとりの男が雄叫びをあげながら、あきらの背後に突っ込んできた。黒っぽいTシャツに薄汚れたジーンズを履いた20代の男。その目には、泥の混じったタールのような絶望と怒りが綯交ぜになっていた。彼は腰だめに、ナイフを構えている。

「死ねええええっ!!」

 あきらが雄叫びに気づいて振り向いたときには、男はもう目前まで迫っていた。



14.ある男の末路



(どういうことだ。あのガキは、いったい……!?)

 巴マミのいる化粧室に“傀儡(くぐつ)”を放ったあと、彼はフロア奥の席に移動して『声』が呼び寄せた蛇がこの辺りにいる客にかみついて狂わせていく姿をじっと観察していた。その光景はなかなか愉快だった。彼の苦しみも嘆きも知らずにのうのうを生きている奴らなんて、訳も分からず苦しんで死ぬのが当然だ。彼はそう信じていた。ついでに、彼の役に立ってくれればようやく天秤が釣り合う。
 巴マミがあの傀儡を退けて戻ってくる頃にはこのフロアには彼の思い通りになる一部隊が出来上がっている計算だった。これで、たとえあの女に悪魔のような力があっても問題じゃない。どんなに強くても、腕2本と足2本で出来ることは限られている。銃を抜く暇すら与えずに傀儡どもで抑え込んでやればいい。そうすれば、後は彼自身の手で……そう考えていた。

(なのに! 何だ、あのガキは! どうして俺の邪魔をするんだ! どうしてお前みたいな取るに足りないクズが?!)

 巴マミの隣にいるのが不自然なぐらい、平凡な少年だった。マミは才気と将来の美麗が透けて見えそうな少女だが、彼にはそれに釣り合うほどの外面も内面も感じ取れない。せいぜい、平凡な家庭を築いて特別なところのない一生を退屈に過ごす人間にしか見えなかった。テレビドラマの脇役、映画のエキストラ、小説の地味な背景。その程度の存在感しかなかった。
 だが、今は違う。彼の目には、あの少年がはっきりとした脅威に映っていた。
 少年は、人に見えないはずの白い蛇をプラスチックのトレーで追い払い続けていた。そろりそろりと足元から近づいてきた蛇を踏みつけ、気持ち悪そうにその頭を踏みつけにする。一緒にいる男女ふたりはそんな彼を怪訝に見つめており、彼らにはあの蛇が見えていないのは明らかだ。やはり、あの少年には見えている。
 彼は奥歯を砕けそうなほど噛みしめた。

(あと少しなんだ! あと少しで俺は巴マミを殺せるのに! これから先の殺しがずっとずっと約束されるのに!)

 思えば彼は昔から、自分のやることを誰かに邪魔されてきた気がする。一流大学を楽々卒業した後、自分の学歴に相応しい大会社に就職し、最高の成果を上げた。
 だが、彼はいつだって周囲の人間から疎まれた。何かを成し遂げようとすれば邪魔をされ「もっと協調性を持て」と都合のいい理屈を押しつけられた。どうして俺が、他のクズどもに合わせてやらなきゃならないんだ? そう思いながらも、最初の内は自分の気持ちを抑え、先に進むことだけを考えて生きてきた。
 しかし、それは大会社の倒産という彼にとってはルール外のインチキによって無理やり終わらされた。再就職先を見つけるのにも時間がかかり、やっと入ったランクの低い会社でもやはり上手くいかず、すぐクビになった。今でも彼は、あれを理解のない上司による体のいいリストラだと信じている。
 むしゃくしゃしていた彼は、援助交際に手を出した。別に女に興味があったわけじゃなく、ただ心の中のわだかまりをどうにかして吐き出したかっただけだ。たった一回だった。たった一回、俗な女を抱いただけだ。相手が学生であることは知らなかったが、薄々気づいてはいた。手荒に扱ってしまったが、所詮体を売って小遣い稼ぎをしているような売女だ。文句もないだろうと高をくくっていた。ところが、あの女は彼を警察に訴えやがった。女は彼の方から無理やり関係を迫ったと嘘を吐いた。彼は暴行容疑で逮捕され、執行猶予つきの判決を下された。弁護士は運がよかったと言ったが、彼は弁護士が手を抜いたに違いないと思っている。

(どいつもこいつも……どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!!)

 今また、彼の行く手を遮ろうとしている者がいる。それは彼を蹴落とした俗物の典型のような少年であり、彼のことを認めない人種の代表者に相応しい凡夫だった。彼は少年に、これまで彼を認めずこんな境遇にまで貶めたすべての人々の影を重ねて見ていた。

「殺す……殺してやる! ……巴マミの前に、まずはお前から殺してやる!」

 ジーンズからナイフを抜き取って、畳んでいたブレードを引き出す。マミを切り刻むためにしっかり磨いておいた刀身は、ぬるりとした光沢を持っていた。このナイフを持つと、彼の全身に全能感が駆け巡る。何でもできる。今ならどんなことでもできると確信できる。
 導きの『声』は聞こえなかった。すべてを彼に任せるつもりらしい。彼女も、あの少年を殺すべきだと感じているのだろう。
 少年とカップルは、店を出ようとしていた。
 そうはさせるものかと、彼は白蛇どもに侵され猛り狂った傀儡どもを押しのけて、少年の背後に迫った。彼はいつの間にか、雄叫びを上げて走っていた。
 少年とカップルが振り向いた。だが、もう遅い!

「死ねええええっ!!」

 これまでの怒りと憎しみを込めて、彼は少年の背中にナイフを突き出した。



 正直、殺されると思った。
 覚悟も何もあったものじゃなく、一瞬の驚きと恐怖で身が竦んで動けなかった。きっと、畜産業者に解体されるときのニワトリとそう大差ない心境だったことだろう。目を閉じるような余裕もなくて……おかげで、その瞬間をばっちり目に焼き付けることになった。
 ナイフは停止していた。あきらの腹に埋まって止まったわけじゃない。その前に、横から伸びた腕に手首を掴まれて、男の突撃が止められていた。

「このクソ野郎。わたしのダチから離れなさい」

 今まで聞いた中でここまで冷え冷えとした響きは、正直思い出せなかった。
 その声に、ナイフの男は呆然とした面持ちで、視線をあきらから彼女にずらした。
 志藤はるかが、男の腕を掴んでいた。彼の胸元ぐらいまでしかない少女が、大の男の腕を万力のような握力で締め上げる。それだけで、男は悲鳴を上げてナイフを取り落とした。
 はるかはそのまま腕を捻り上げると、男の姿勢が崩れた。そこに、彼女は空いた方の手で拳を作って無造作に突き出した。その拳は、まるで粘土細工を叩き壊すように易々と男の顔面にめり込む。
「ぶべっ?!」と人間っぽくない音を立てて、男は数メートルほど吹っ飛んだ。潰れた鼻から血を吹いて、その場にくずおれる。

「……ぶ、ぶらぼー」

 あきらは、やっと呟いた。
 以前、彼は志藤はるかを鉛のような女と評したが、今はそれを改めていた。鉛なんてナイフで削り取れるものより、刃も通らない鋼鉄と評した方がずっと彼女に相応しい。明らかに、生まれる世界と時代を間違えている。ひと山いくらのモヒカンがヒャッハー! とか叫んでるような世界の方が、ずっと彼女の舞台に近いはずだ。
 はるかはあきらにジト目をくれた。

「間抜けな顔してんじゃないの……わたしたちはもう行くわ。本当に、アンタひとりで巴さんを連れてこれるのね?」

 正直、何とかできる自信なんてさっきの出来事で砕け散っていた。ナイフの次は木刀とか鉄パイプとか拳銃とか出てくると、映画でもゲームでも相場は決まっている。けれど、あきらはそんな弱気を微塵も見せたくなかった。ビビったら殴られそうだもの。
 いつの間にか、周りの騒ぎは収まっていた。猛り狂っていた人々がみんな気を失ってしまったようだ。その様子になけなしの勇気を振り絞って、あきらはうなずいた。
 はるかは満足そうに微笑むと、葵と一緒に出口に向かう。
 そのとき、ぼそぼそと呟くような声が聞こえた。

「……殺す……約束……みんな……巴、マミ!」

 ふり向くと、くずおれていた男が立ち上がっていた。その手には、さっきのナイフが握られている。彼は鼻と口から血をボタボタとこぼしながら、あきらを見た。その目には殺意と、怒りと、少しの恐れが混じっている。
 あきらは、この男が次に何をするか、瞬時に察した。
 男は走り出した。出口に突っ込み、はるかと葵を追い抜いて、そのまま店の外へと逃げ出していく。

「あっ……ま、待て!」

 あきらも、男の後を追った。
 はるかと葵が何か叫んでいたが、あきらは彼らの声を無視してそのまま店外へ出る。
 男は、お昼時で人通りの多い表通りを凄まじい速度で駆けていた。歩行者にぶつかるのもお構いなしに、只々逃げていく。
 あきらも、その背中に向かって走り出した。
 ありがたいことに、道にいた歩行者はあの男が突き飛ばしてくれている。
 彼はただ、全力で真っ直ぐ走ればいいだけだった。



15.変装の魔女≪ジーン≫



 志藤はるかは、頭を抱えたい気分だった。
 店内の狂乱が去ってひとつ厄介事が片付いたと思ったら、今度はあきらがナイフ野郎を追っかけて出て行ってしまった。あんな変質者、放っておけばいいのに。
 消防と一緒に警察に連絡しておけば、後は勝手に捕まえてくれるだろう。あきらが追いかける必要なんてない。たとえ追いついても、彼に出来ることは何もない。返り討ちに遭うのが関の山である。
 こんなことなら手加減なんてするんじゃなかった。と、はるかは後悔した。相手が錯乱してるからって情けをかけたのが間違いだった。パンチ一発なんて気障なことせず、立ち上がれないぐらいボコボコにしておくべきだった。

「あのバカ、殺されたいの?! 追いましょう、葵!」
「いや、その前に消防と警察に連絡だ。ここの人たちを放っておくわけにはいかない」

 冷静さを取り戻した葵の意見に、はるかは苦い顔をした。
 彼の言っていることが正しい。それは分かる。最初にそう提案したのが自分だからだ。けれど、今はあきらの方が心配だ。葵は彼の友達じゃないか。心配にならないのだろうか? そんな冷たい奴だったのか? そんな風に幻滅しかけていたからだろう。葵が続けて言った台詞に、はるかは嬉しくなった。

「だから、はるかが電話してくれ。俺はあきらを追いかける」
「よし来た! それでこそわたしの男だね!」
「当然だろう? 携帯はあるか?」
「勿論。電話したら、わたしもすぐ行くから!」
「ああ、頼む!」

 葵が走り出すために軽く腰をかがめ、はるかはスカートのポケットに手を突っ込んで携帯電話を探りはじめたときだった。店内で、何かが破裂する音が響いた。まるで、拳銃でもぶっ放したような轟音だ。
 ふたりは思わず出入口に駆け寄り、店内を覗き込む。派手な音と共に「化粧室」の札がかかった扉が、人間の体と一緒になってフロアの床に叩きつけられた。スーツ姿の女性が、ぶっ壊れた扉に背を預けるように倒れ込んでいる。ピクリとも動かないので、生きているか死んでいるか一見しても分からない。
 はるかは、化粧室に目を向けた。何が起こったにしろ、それはフロアではなく化粧室だったからだ。しかし、はるかはそこから出てくる人間がひとりしかいないことに気づいていた。

「まさか」

 はるかの呟きに応えるように、巴マミがしっかりとした足取りで現れた。扉が吹き飛んだ時の衝撃で生まれた小さな噴煙が、彼女の周りをドライアイスのように取り巻いて、流れ去っていく。
 彼女には、何も変わったところはなかった。服もそのままだし、爆発で汚れたようなところも、裂けたり燃えたりしたところもないようだった。怪我したような様子も皆無である。服が少々埃っぽくなっているだけだ。
 だからこそ、奇妙で不気味だった。
 一体何をどうやったら、大口径の銃も爆弾もなしに人ひとりを何mも扉ごと吹き飛ばせると言うのか? そんなの、どんな達人にもできる芸当じゃない。はるかと同程度の背格好しかない少女なら、尚更だ。
 ふたりがぽかんと口を開けていると、マミはこちらに歩み寄ってきた。彼女は周りを見回して、眉をひそめる。

「友田君は、どこに行ったんですか?」



 彼はただ、がむしゃらに走っていた。上手くいかない自分の人生を呪い、何もかもが自分を邪魔しているような気分に陥りながら。
 あと少しだったのに!
 あと少しで、あの少年を殺し、巴マミを殺し、誰も彼も殺してやれるはずだったのに!
 そんなどうしようもない思いだけで、彼はあの場から逃げ出していた。立ち向かおうなんて思いもしなかった。彼が欲しかったのは自分に都合のいい世界だけであり、立ち向かうべき現実なんてものは必要なかった。

「どうしてだ! どうして……何も言ってくれない!?」

 こんなときこそ、あの『声』が聞きたかった。自分に道を示してくれる言葉が欲しかった。単純で安易で痛みも苦労もない世界が欲しかった。
 彼女がひと言『誰かを殺そう』と言ってくれれば、それだけで彼は安心できる。情欲以上に燃え上がる殺意に身を焦がせる。誰かを殺すその瞬間、すべてを忘れることができる。すべてを。
 なのに、彼女は何も言ってはくれない。まるで、彼女自身どうしていいか分からないと言わんばかりだ。

「くそっ、くそっ、くそっ!」

 彼は、いつの間にか繁華街を大きく外れ、海に注ぎ込む川の下流にある大橋へと辿り着いていた。橋の上から、海岸付近に立ち並ぶ工場地帯の煙突がいくつも見える。傾いた太陽が、煙突の頂点から彼を見下ろして嘲笑っている。
 とにかく橋を渡ってしまおうと足を踏み出したとき、背後でブレーキ音が響いた。
 ふり向くと、そこにはあの少年がいた。どこかの誰かに借りたのだろう。少年は走り心地の良さそうなマウンテンバイクに跨って、息を荒げていた。ここまで必死に漕ぎ通してきたようだ。
 それを見て、彼は思わず後ずさる。祈るようにナイフを握り締めて、脅しつけるように目の前で振り回した。

「来るんじゃない! それ以上近づくな!」

 彼は、ナイフを揺らしながらじりじりと後ろに下がる。
 彼を守るように、白い蛇が無数に周りに出現してシュルシュルと威嚇した。
 少年は怯まなかった。睨み付けるように目を細める。

「やっぱり、アンタがその蛇どもを操ってたのか……いったい、アンタ何者なんだよ?」
「それをお前が言うか! 何で、お前は俺の邪魔をする?!」

 声に怯えが滲んでしまった。
 違う。俺はこんなガキを恐れてなんかいない。そう彼は自分に言い聞かせる。
 俺が怖いのは、『声』が恐れるあの女、巴マミだけだ。あの女だけが、俺から彼女を奪い、俺の未来も奪い去る死神だ。こっちが殺される前に殺してやらなきゃならない。だから、今は逃げているんだ。確実にあの悪魔を殺すために。別に、こいつが怖くて逃げ出したわけじゃない。
 だいたい、こいつはあのカップルの片割れがいなけりゃ、今頃は綺麗に片付いていたはずの死にぞこないだ。彼の獲物のひとりに過ぎなかったじゃないか。
 そう言い聞かせても、後ずさるのを止められなかった。大橋の中央に向けてスニーカーを滑らせて、彼は少年から距離を取ろうとする。
 少年が言った。

「俺も聞きたい。アンタはどうして巴さんのことを知ってるんだ? 今日一日、彼女に付きまとってたのか?」

 白々しい。まるで何も知らないような態度を取って、こちらを油断させるつもりか。そんな手に引っかかるものか!

「お前こそ、どうしてこんなところに来た? お前が生き残ったのはただ運がよかっただけだぞ。お前なんかに、俺を殺せるとでも思ったのか?」
「……どうして、俺があんたを殺すなんて話になるんだよ?」
「とぼけるな! じゃなきゃ、どうしてお前が俺を追ってくるんだ! あの女に言われて、俺を殺しに来たんだろう?!」

 彼は焦った。べらべらしゃべり過ぎだった。これじゃあ、本当に怯えているように見られる。奴に組しやすい相手だと思われかねない。何もしゃべらないのが一番だ。けれど、今の彼は何か喋っていないと、とてもこの状況に堪えられそうにない。

「あの女って、もしかして巴さんのことか? アンタと彼女に、一体何があった? どうしてそんな妖怪モドキを使って、人を傷つけようなんて真似をするんだ?」

 くそっくそっくそっ! 相手は武器も持ってないガキひとりだぞ! こっちの方がずっと体が大きいし、ナイフもあるんだ。どうして怖がる必要がある? 落ち着け! 落ち着くんだ! あ……そうだ、蛇だ! 蛇を使え! 奴の体の自由を奪うんだ!
 彼は、周りを取り囲んでいる蛇に思念を飛ばした。彼女を通じて、蛇に命令する。

『あのガキを捕まえろ!』

 蛇が動き出した。次々と少年に向かって滑り出し、牙を突き立てようとする。
 すると、少年はペダルを蹴り、自転車ごと彼に突っ込んできた。ただ蛇を避けるためではなく、そのまま彼に体当たりするつもりのようだった。気づいたときには、もう逃げるには遅すぎた。蛇が群がるよりずっと速く、ふたりの距離がゼロになる。

「うおおっ!?」

 彼は叫びながら、ナイフが与えてくれる全能感を頼りにマウンテンバイクを正面から受け止めた。ハンドルをナイフを握ってない方の手で掴んで、がっしりと受け止める。
 勢いのついていた自転車が後輪を浮かせて、前にも後ろにも動かなくなる。
 少年は、自転車の突撃を止められて驚いていた。
 ざまあみろ!

「死んじまえよぉ!」

 そのまま、彼はナイフを少年の顔面へと突き出した。
 少年は悲鳴をあげながら、のけ反った。バランスを崩して、自転車から橋の上に体を投げ出す。おかげでナイフから逃れたが、倒れ込んで動けなくなった。
 そこで、彼が少年の上にのしかかり、右手のナイフをふり下ろす。
 少年は咄嗟に両手で彼の右の二の腕を掴み、ナイフを止めていた。刃先が少年の鼻先に触れるか触れないかというギリギリの位置だ。少年の腕は、プルプル震えてみっともなかったが、今のところ彼の腕を完全に抑えていた。

「下手な抵抗なんてするんじゃねぇよ。どうせ無駄なんだから、さっさと殺されちまえ!」

 少年は、力を振り絞っているせいで真っ赤になっている顔に不敵な笑みを浮かべる。

「悪いけど、まだ幽霊になる予定はないんだ。勧誘なら余所でやってくれよ、死神の出来損ない」
「意外と余裕があるじゃないか。なあおい、クソガキ」

 少年の手に合わせて、ナイフの刃先が震える。
 彼はナイフを掴んだ右腕に徐々に体重をかけていった。形勢が有利になると、一転彼の心には余裕が生まれていた。一気に殺してはつまらない。ゆっくり、ナイフが顔面に近づいてくるのを見せつけてやろう。きっと、最後には泣きながら許しを請う姿が見られるはずだった。

「そんなに死にたくないのか、え? だったらどうしてこんなとこまで追って来た? そんな必死になってよ? まさか、本当に俺を倒せるなんて思ったわけじゃないよな? そりゃあちょっと都合よすぎだろ。世の中、ヒーローになれるチャンスなんてそんなに転がっちゃいないんだからな」
「別に……ヒーローになりたかったわけじゃないさ」
「ほう。じゃあ、何になるつもりだったんだ? 犠牲の羊か?」
「ピエロだ」
「何?」
「ピエロだよ。俺は、彼女に笑ってもらえるピエロでいたい」
「……どうした、恐怖で頭が湧いちまったのか?」
「別に狂っちゃいないよ。ほら、まだあの蛇にも噛まれてないだろ?」

 少年は顎を動かして、首を見せた。意外にも、切り応えのありそうな首筋だった。
 そのとき彼は、自転車に振り切られた白い蛇どもが取って返して、ふたりの周りに集まっていることに気づいた。
 蛇どもは、彼の命令に従って少年に襲いかかろうとしている。
 彼はそれを、慌てて制止した。

『もういい、やめろ。こいつは俺が殺す!』

 蛇たちは不服そうにとぐろを巻いたが、一匹たりとも指示に背こうとはしなかった。
 少年は、そんな周りの様子が目に入っていないようだった。ただ、静かに言葉を紡ぐ。

「そう、ピエロだ。俺は別に、彼女にとって大事な人間じゃなくてもいい。変な奴だって思われても、嫌われても構わない。ただ、いつも何かに備えるように肩肘張って顔を強張らせている彼女にさ、心からの笑顔を浮かべてほしいんだ。もっと笑ってほしい。そうしたときの彼女を見てみたい。ただ……それだけさ」
「それだけ? そんなことで、お前は命を懸けられるってのか?」
「だからさ。俺はまだ……死ぬつもりはないってば!」

 少年の手が、彼の二の腕を移動して手首に触れた。
 その途端、驚くほどの痛みが走って、思わず立って逃げようとした。
 少年は彼を逃がさなかった。激痛の走る手首を、掴んで離さない。少年は、自由になった体を立ち上がらせながら、言った。

「あ、やっぱり痛かったか? そりゃそうだよな。アンタ、はるかの奴にこっ酷くやられてたものな?」

 よく見れば、彼の手首には痛々しい青あざがうっすらと浮いている。
 少年は、その部分を爪を立てんばかりに鷲掴みしていた。
 彼は思い出した。ナイフを握っている右の手首。それは、あのカップルの片割れが見た目とは裏腹のとんでもない握力で思いっきり捻りあげた場所だった。あのとき、彼は思わずナイフを取り落してしまうほどの痛みを感じて、あの娘に強烈な拳を見舞われた。
 少年は、ここに来てニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。

「鋼鉄の女のご加護があったな。あいつには今後一ヶ月、葵の弁当に使う材料を送ってやらなくちゃ、なっ!」

 少年は、彼の手首を抱えたまま走り出した。
 彼は激痛に耐えかねて、振り払うこともできない。
 少年はそのまま、橋の欄干に手首を打ちつけた。連続して打ちつけるうちに、力の抜けた彼の手からナイフがすり抜けて、欄干を越えて川辺の草むらへと落ちていった。
 そのとき、勝利を確信した少年が気を抜いた。蛇に命令する時間も惜しい。怒りに任せて、彼は少年を最後の力で抱え上げた。
 少年は必死になって彼の腕から逃れようとする。
 彼は、それを抑え込みながら少年を欄干から突き落とそうとした。
 奮闘の末、ふたりは揉みくちゃになりながらナイフと同じように欄干を越えた。
 2人分の体重が、幅の広い河の上に巨大な波紋と立てて落下した。



 駆けつけたとき、巴マミが見たのは友田あきらと知らない男性が一緒に欄干から落下する光景だった。マミは急いで川辺に駆け付けた。
 川の中で溺れながら、男はあきらの首を絞めて、その命を絶とうとしていた。
 あきらは気を失っているようだった。落下の衝撃が、彼の意識を刈り取ってしまったのだろう。
 マミは素早くリボンを飛ばして、ふたりを川辺に引き寄せた。男の両手足を締め上げて自由を奪うのも忘れない。その男を放っておいて、あきらの手当てをするべく彼の様子を看た。すぐ気を失ったおかげで、肺に水は入っていないようだった。魔法で応急処置すると、安らかに寝息を立てはじめる。きっと、しばらくは目を覚まさないだろう。
 マミはあきらを殺そうとした男に向き直った。彼は、気を失ったあきらに訳の分からないことを喚きたてていたが、マミの姿に気づくと真っ青になって命乞いをはじめた。ちょっとやかましかったので、リボンを猿轡にして噛ませ、黙らせた。
 これで、一応の対処は終わった。

「あとは、仕上げね。元凶を潰さないと」

 マミは、川辺に落ちていたナイフを拾い上げた。そのナイフは男の手を離れ、彼との繋がりがなくなった途端、その本当の気配を露わにしていた。

「まさか、魔女がこんなナイフに化けているなんてね……強い力はないけれど、正体を掴まない限り見つかることもない、か。手強い魔女だったわ」

 正面から戦う強さではなく、掴みどころのなさが脅威だった。活動の大半を使い魔に依存し、結界も持たない魔女。通常の魔女しか相手にしたことのない魔法少女では、存在を感知するのも難しいだろう。
 だが、それもマジックの種が割れてしまえば大した相手ではない。マミは魔女のナイフを空中に放り投げると、マスケット銃を使ってクレー射撃の要領で撃ち抜いた。砕けたナイフの破片が、真っ黒い霧になって海風に流されるようにして掻き消えていく。
 霧から水滴が零れるように、グリーフシードが落ちてきた。彼女はそれを拾い上げて、ソウルジェムを回復させた。宝石の濁りが薄くなる。これで、またしばらくは大丈夫だろう。
 ナイフの所持者だった男は気を失っていた。マミは、彼から自分とあきらの記憶を消し去って、あとは警察に任せることにした。原因は魔女でも、彼自身が望んでやった犯罪だ。彼は、罪を償う必要があった。
 マミは、今やるべき仕事をすべて片づけた後、眠っているあきらを見下ろして不思議そうに呟いた。

「それにしても……さっきはどうして友田君の声が聞こえたのかしら?」

 この場所に辿り着く寸前、マミはあきらの『声』を聞いた。少しぐぐもっていて感度は悪かったが、それでもはっきり彼の声だと分かったし、言葉の内容も理解できた。マミがテレパシーを使ったわけじゃない。誰かが無理やり、ふたりの間に回線を開いたのだろう。誰かは知らないが、おかげでマミはあきらの位置を特定できて、ここまで来れた。
 聞こえないと分かっていながら、マミはあきらに訊いた。

「本当に、あなたは変な人ね、友田君。“わたしが心から笑う顔を見たい”だなんて……そんな理由でこんな無茶までして……そんなにわたし、笑わないかな?」

 彼の『声』を聞いたとき、マミは胸の奥が締め付けられる気がした。無理難題を押しつけられたような、思ってもみないことを指摘されたような、そんな息苦しさを感じていた。

「でも、そうなのかもしれないわね。わたしの命は、ある意味で私の物じゃないんだもの……もうただの女の子じゃない。普通の生活も、普通の生き方も、普通の幸福も、とっくに諦めてしまった……だから、笑えないのかもね」

 マミは、極度に緊張した後に来る倦怠感に身を任せて、あきらの隣に腰かける。
 眠る彼の顔は穏やかで、まるで子供のように何の悩みもないように見えた。
 そのあどけなさに、マミはクスリと笑う。今の笑いは、心からのものだろうかと疑いながら。

「でももし、本当に笑える日が来たとしたら……そのときはきっと、その笑顔を望んでくれた人に一番に見てもらいたい。わたしもそう思うわ。友田君」

 誰かの手が頬を撫でるように、勢いのある風がマミの涙を一粒だけさらっていった。



 ------そんなふたりの姿を、キュウべぇは大橋の欄干からじっと観察していた。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(5)
   変装の魔女《ジーン》 ← 情報更新!
   性質は殺意。人の持つモノを奪い尽くさなければ気が済まない魔女。全てとはつまり、命である。
   略奪の役割を与えた使い魔は人間の自由を奪い、生贄として魔女に捧げる。魔女は自分が操る人間にその命を刈り取らせる。連続殺人は、この方法で行われた。
   この魔女は、使い魔のように直接人間に乗り移ることはできないし、人間の姿を偽装することもできない。
   使い魔も数は多いが、霊的視力のある普通の人間にも対処可能である。
   力は弱いが、姿を変えている間は気配を絶つことができる特殊な魔女。
   彼女を倒すには、彼女の変装を見破る必要がある。
   ヒント → 装うのが生き物であるとは限らない。






 ・あとがき
  こんにちわ。もしくはこんばんわ。
  気づけば、あんまりマミさんが活躍しないうちに事件が解決してしまいました。ちょっと反省。もっとマミさんの活躍を増やせるように頑張ります。
  さて、補足と言うか無駄話をひとつ。冒頭の章題≪薄明眼(トワイライト・アイズ)≫というのは主人公の霊視能力のこと。別に能力に名前なんてなくてもいいんですが、マミさんだったら嬉々として名前を付けてくれそうな気がしたので、代わりに自分で付けました。あんまりマミさんっぽくないかな?
  元ネタは、アメリカの巨匠ディーン・クーンツの同名小説です。あちらにも人間の中に混じったゴブリンを見分ける能力を持った主人公が出てきます。クーンツ氏の作品は総じて面白いので、一読をおすすめします。最近では、フランケンシュタインを題材にしたシリーズのうち2冊が翻訳出版されてますから、そちらが手に取りやすいかもしれません。
  では、また次回。



[28866] 第6話
Name: ルドルフ◆9e7c34b5 ID:1cd63fd8
Date: 2011/09/03 03:24
16.おぼろの夢



 友田あきらは夢を見た。両親が死んだときの夢だった。航空機が墜落炎上して、あきらひとりが奇跡的に一命を取り留めた。当時------今から一年半も前だ------の新聞にはそう載っていた。けれど、正直あきらはあのときのことをよく憶えていない。
 寝汗まみれになってベッドの上で目覚めると、いつの間にかそばにいた両親が心配そうにこちらを見つめていた。

「いや、だからさ。そうやって唐突に枕元に立つのは、やめてくれよ」

 あきらは上着を脱いで汗を拭いながら、幽霊に微笑みかける。
 初夏の日差しが素晴らしい朝だった。今日は一学期における最後のイベント・終業式の日だった。子供にとっては最良の日なのだから、そんな有り金全部パチンコでスッたあとみたいな顔して立っていられても迷惑である。あと、普通に怖いし。

(それにしても、どうして今更……あんな夢を見たんだろう。初めてだよな、こんなの?)

 内容ははっきりしないのに、恐ろしくて悲しい夢だった。両親が死んだり、九死に一生を得たりしたのだから当然かもしれない。けれど、あのときのことを欠片も思い出せないのに、暗い感情だけが泉のように湧いてくるのが切なかった。自分のことなのに、他人のことのような気がしてならない。それが堪らなく辛い。
 朝から姿を見せないエミリーを放っておいて、あきらは朝食と身支度を済ませて出かける準備を済ませた。部屋を出る前に、時計の針を確認しておく。いつも通りの時間だった。
 今の時間なら、エレベータホールに彼女がいるのは分かっている。彼が知る限り、巴マミは規則正しい生活を心がけているようだった。

「おはよう、友田君」
「……おはよ、巴さん。今日は可愛いね。見違えたよ」
「あら、そう? いつも通りの制服なんだけれど。髪型も何も特に変わってないし」
「なら、巴さんはいつも可愛いんだろうさ。眼福眼福」
「またそんな冗談を言って!」

 ここ数ヶ月で当たり前になったご挨拶だった。相変わらず友達なのかただのクラスメイトなのか微妙だが、話しかけたり話しかけられたりに不自然さはなくなっていた。
 巴マミは、あきらをじっと見つめてくる。
 あきらは顔に霊症でも出ているのかと思った。
 だが、マミはこう訊いただけだった。

「ちょっと元気がないみたいだけど、大丈夫?」
「巴さんが慰めてくれたら、元気になるかもな」

 成長期というヤツだろう。メジャーで測ったわけじゃないから断言できないが、最近、彼女の胸はちょっとずつ大きくなっている気がする。あの胸に思いっきり顔をうずめたら、悪夢なんて一発で吹き飛びそうだ。
 あきらの下品な冗談にも、マミは真剣な表情を崩さなかった。

「知ってる? 友田君って、あんまりそういう冗談は言わないわよね?」
「そうかな?」
「ええ、だからますます心配だわ。顔も青いし、ちゃんと寝てるの?」
「授業中にたっぷり寝てるから、ご心配なく」
「授業はちゃんと聞きなさい」
「うっす」

 一呼吸ほど間を取って、マミは言った。

「体調が悪いなら、今日は休んだら? 先生にはわたしから話しておくけど」
「本当に心配はいらないよ。今日は終業式だけだから昼までだしね。昨日はちょっとゲームにハマっちゃって……それで夜更かししただけだからさ」
「そう……なら、いいけれど」

 エレベータの扉が開いた。
 あきらは軽く肩をすくめて、マミより先に乗り込む。箱が動き出してからふと、マミを先に乗せてやればよかったと思いついた。普段の彼なら考えるまでもなくそうしたはずだが、どうやら本当に調子が悪いようだった。フェミニストが形無しだ。
 マミは何も言わなかったし、気づいてもいないようだった。
 あきらはそれにホッとした。
 マンションを出たふたりは、特に距離をとるような真似もせずそのまま通学路を進んだ。このぐらいの年頃は、異性との距離感を気にするが、ふたりは一人分程度の隙間を作り、並んで歩く。もう一歩寄り切れないのが、あきらのわびしいところだった。



 終業式が終わり、早くも帰りのHRを待つ身になっていた。
 あきらは決意も新たにこう言った。

「リベンジだ。巴さんをデートに誘いたいんだが」
「ひとりでやれ」
「そう言わずに手伝えよ、向日葵ちゃん」
「日向葵だ。ってか、お前まだ諦めてなかったのか?」
「友田あきらの『あきら』は“諦めない”のあきらだからな!」
「随分と切りの悪いゴロ合わせだな」

 葵は乗り気ではないようだった。教室の机に肘をつき、苛立たしげに指でトントンとリズムを取る。

「お前、この三ヶ月の散々な結果を忘れたわけじゃないよな?」
「憶えていないな、そんなことは」
「なら、思い出させてやる」

 葵は一冊のメモ帳を取り出して、あきらの目の前に叩き付けた。表紙にはシンプルに「戦績表」と書かれている。味も素っ気も可愛げもないのは、葵らしい。

「読んでみろ」

 あきらは読んだ。そして、凍りついた。
 葵は顔に、人の悪い笑みを張り付けている。

「どうやら思い出したみたいだな。お前の撃墜数を」

 ちなみに、あきらが撃墜した数ではなく、撃墜された数だった。正確な数値については明言したくない。メモ帳には、4月のあの連続殺人犯との対決に至ったデートの日から今日までの三ヶ月間の戦績が、1日も漏らさず書き入れられていた。あきらの黒星しかないのは、言うまでもない。黒い丸の隣には、そうなった理由もちゃんと追記されている。裁判所に証拠物件として提出できそうな代物だった。友田あきら被告、敗訴濃厚だ。
 葵は、あきらの手から抜け落ちたメモ帳を拾い上げて、一部を読み上げた。

「5月20日 晴れ ● 昼食に誘おうとするも、緊張のあまり挫け、退散。小学生かお前は。
 5月21日 曇り ● 美術の授業にてペアを組もうするが、某女子に先を越される。さっさと話しかけないからだ。
 5月22日 晴れ ● 何か面白い冗談を思いついたが、気恥ずかしくなって披露できず。まあ、よくあることだな。
 5月23日 晴れ ● 休日、思い切って家を訪ねるも、留守であえなく失敗。まずスケジュールの確認とアポを取っておけ。
 5月24日 雨  ● 休日、昨日の教訓を生かし、アポを取って宿題を教えてもらいに行くが、あまりの出来の悪さに巴がスパルタになる。コメントは特になし。
 5月……」
「もういい! それ以上は読み上げるな!」
「ここからが面白いのに」
「頼むから、もうそのノートは仕舞ってくれ!」
「思い出したか?」
「ああ、はっきりとな!」

 と言うか、最初から忘れちゃいない。忘れたふりをしていただけだ。だって、泣きたくなるじゃないか。

「それにしても……お前どうして俺の休日の行動まで知ってるんだよ? ストーカー?」
「バカ抜かせ。可愛い女の子ならいざ知らず、どうして俺が野郎をストーキングせにゃならないんだ。寝言は寝て言えよ、チキン君?」
「はるかが聞けば、喜んで鉄拳をふるまってくれそうだな。そのセリフ」
「すんません、調子乗ってました! だから、アイツには黙っててください!」
「HR前の教室でマジ土下座したから許してやる。で? お前マジで俺のこと尾行したりしてないんだろうな?」
「当たり前だ。それとなく巴から聞いたり、はるかから聞いたり、お前から聞いたりしたから、それで分かったんだよ。話の持って行き方次第じゃあ、いろんなことを聞けるしな。それを繋ぎ合せれば……ってわけだ」
「ふーん?」

 あきらは首をひねった。葵との会話なんていつものことなので、内容なんていちいち覚えていなかった。そんな話もしたかもしれない。

「それで?」と、葵。
「あ?」
「これだけしっかり思い出しても、まだ巴にちょっかい出したいのか?」
「そういう言い方やめろよ。俺はただ、あのときのデートがあまりにあんまりだったからもう一回ぐらいやり直しても良いんじゃないかなぁ……って思っただけだ」
「それを三ヶ月前に言ってればなぁ」

 あきらは思わず言葉に詰まった。思いつくのが遅すぎる。それは葵の言うとおりだ。けれど、あの出来事の後、あきら達の仲は妙にギクシャクしてしまった。仲が良かったあきらと葵ですら、そうだったのだ。いつものノリを取り戻すのに、1週間はかかった。
 これがマミ相手となると、あきらがそれまでの関係を取り戻すだけで3ヶ月かけてしまったとしても、仕方のないことだ。まあ、少なくともあきら本人はそう思っているわけだ。単に度胸が無いだけとも言う。

「やり直し、ってことは、また4人で出かけるんだよな? 縁起の悪いことだ」

 どうやら、葵もまだあの事件を引きずっているようだ。もしかしたら、あきらがマミに誘いをかけるのが、心のどこかで気に入らないのかもしれない。
 残念だが、それも仕方のないことではあった。あきらだけは、あの殺人鬼がマミと関係があることを知っている。そんな彼だから、葵がマミに不信を抱くのも無理はないと思っていた。でもだからこそ、あきらもあのデートをやり直して、そんなのは気のせいだとはっきりさせたかった。
 あきらはそのあとも、葵を口説きにかかった。しかし、葵はうなづいてくれなかった。風呂釜から溢れる水のように無駄な時間だけが流れていく。結局、あきらは葵を説得できなかった。
 チャイムが鳴り、1学期最後のHRの時間が来た。だが、待っていても一向に担任が現れないので、クラス中がざわついていた。
 やがて、同じクラスの女子がひとり、教室に駆け込んできた。彼女はあきらの姿を見つけると、つかつかと歩み寄ってこう叫んだ。

「大変なの! 巴さんが喧嘩して、先生に呼び出されたって!」

 あきらは思った。それは大ニュースだけど、どうしてそれを俺に言うんだ?



17.バッド・メール



 生徒指導室で軽いお説教を受けてマミが扉の外に出ると、あきらと葵、それに志藤はるかの3人が待っていた。
 マミは驚いた。はるかがいるのは知っていたが、あきらと葵がここにいるとは思わなかったからだ。

「あら、ふたりともどうしたの?」
「どうしたのって……そりゃあ、巴さんが喧嘩して先生にしょっぴかれたって聞いたから、様子を見に、さ」
「もしかして、心配してきてくれたの?」
「いや。心配するだろう、誰だって? クラスの連中もそんな感じだったよ」

 マミは意外だった。お世辞にも人付き合いのいいとは言えない彼女だから、せいぜい物笑いの種になっているのだとばかり思っていたのだが……どうやら、情の深いクラスだったらしい。

「そうなんだ……でも、わたしは何もしてないわよ。誰とも喧嘩なんてしていないわ」
「え、でも」
「こうして無罪放免になってるのが証拠よ……はるかさんから何も聞いてない?」
「いや、俺たちは今来たところだ」

 葵がつまらなそうにそう言った。彼ははるかと付き合いが長いから、マミの言葉で大体の事情を察してしまったようだった。
 マミが指導室から出るとすぐに、先生からはるかにお声がかかった。
 彼女は照れくさそうにマミを見て、そばを通り抜けた。そのとき、小さく「ごめんね、マミ」と呟いて指導室に入っていく。
 とんでもない。
 謝るのはわたしの方だ、とマミは思った。

「ん? どういうことだ? はるかの奴も何かやったのか?」
「あきら、お前は巴と一緒に帰ってやれ。どうせ同じマンションなんだから」
「そりゃそうするつもりだけど、葵は?」
「俺は、はるかが絞られて出てくるのを待ってるよ。巴より時間がかかりそうだからな。お前たちだけ先に帰ってろ」

 有無を言わせぬ葵の態度に、あきらはしぶしぶといった様子でうなずいていた。
 マミはあきらと一緒に下校するべく、玄関へ向かう。
 その途中、通りかかった保健室から見覚えのある5人の女子が現れた。彼女たちは誰ひとり欠けることなく両頬に湿布を当てており、その上から氷水の入った袋で患部を冷やしていた。
 マミは立ち止まった。
 彼女たちも立ち止まり、気まずそうにマミを見つめている。
 そのうちのひとり、グループのリーダー格にあたる少女が、あきらの姿を見て慌てて目を逸らした。きっと、頬を真っ赤に腫らした自分の姿を彼に見られたくなかったのだろう。
 マミは少しだけリーダーに同情したが、手心を加えるつもりはなかった。そんな段階はとっくに通り過ぎている。

「今、はるかさんが先生と話をしてるわ。あなたたちももうすぐ呼び出されるはずよ。それまでに、どういう態度を取るのが利口か考えておくことね……手を出したのは彼女でも、原因は自分たちにあるんだってことを自覚するべきだわ」

 もちろん、その一端は巴マミにもあることは、彼女自身よく分かっていることだった。
 マミはそれだけ言うと、彼女たちの横をすり抜けて玄関へ向かった。
 あきらも何も言わずにその後に従ってついてくる。玄関に着くと、彼は今まで留めておいた疑問をぶちまけた。

「あの5人、うちのクラスの女子だよな?」
「勿論そうよ。毎日会ってるでしょ?」
「ああ……でも、なんであんなことになったんだ?」
「知りたい?」

 意地の悪い質問だった。マミには、彼がうなずくことが分かっていたのだから。

「知りたいよ。巴さんとはるかは、あの子らと喧嘩したんだろう? ってことは、あの頬の腫れは、はるかの仕業?」
「そうよ。はるかさんのビンタの威力は、友田君もよく知ってるわよね?」
「そりゃあ、痛いほどね。アイツの躾はちょっと過激すぎる」

 ふたりは通学路を歩きながら、今回の事件のあらましを話し合った。
 太陽から降り注ぐ初夏の陽光が街を白く幻惑し、背景をぼんやりとかすめている。そして、マミ自身を責め苛むように降り注いでいた。
 そんな中、あきらはひとり北風のように飄々と黒いコンクリート道を流れていた。彼の姿だけは、ぼやけた世界でもはっきり見えた。
 あきらは言った。

「でもさ、いくらはるかでもアレはやりすぎだろ。いくら相手が気に食わないからって、女の子にあの平手を両サイドにバシバシやっちゃ、男でも泣きたくなる」
「あのときは、あれが最良だったと思うわ。多勢に無勢だったし……おかげで彼女たちの中にあった熱が、一気に冷えて凍りついたんだから。醜い取っ組み合いになって大怪我するようなこともなかったもの」

 マミは呟いた。

「何より、はるかさんは責められるべきじゃないわ。だって、あれはわたしのせいだもの。はるかさんは、わたしを助けようとしてくれただけ」
「……どういうことだ?」

 マミは、自分とあの五人組の関係について、あきらに話せる部分だけ話した。
 マミが彼女たちと関係を持つようになったのは、あの連続通り魔殺人の魔女を倒した直後のことだった。人々の突然の発狂と通り魔が捕まった出来事は、新聞やニュースで大きく取り上げられた。プライバシーへの配慮で、マミやあきらの名前が出ることはなかったが、噂は瞬く間に広がり学校での彼女たちは一躍して時の人状態だった。
 そんなとき、あの女子グループがマミを仲間に引き入れようと近づいてきた。アイドルの周りにミーハーなファンが駆け寄ってくるのと似た心理だったのだろう。少なくとも、5人のうち4人については、その推測で妥当だと今でも考えている。
 マミは、その誘いを丁重にお断りしたし、その後に続くことになった様々なお誘いも拒絶し続けた。マミにとっても、忙しい時期だった。殺人鬼の魔女に手を焼かされたおかげで、手持ちのグリーフシードは0。言い寄ってくる人々のせいで魔女狩りに充てられる時間も減っていた。誰かと遊んでいる余裕なんてなかった。
 それに、あの事件はマミの孤独癖を加速させていた。魔女の狙いはマミだった。あきら達がファーストフード店の事件に巻き込まれたのは、マミと一緒にいたからだ。マミは一層、人との関わりを抑えなければと神経質になっていた。
 マミがひとりになろうとすればするほど、女子グループとの関係は険悪になっていく。織田信長のホトトギスと同じだ。鳴かぬのなら、殺してしまえというヤツだ。きっと、彼女たちの目にはマミがお高くとまって見えたことだろう。
 やがて、マミと友達になろうとしていただけのグループは、自分たちを嫌うマミを排除しようとするグループへと変化していった。その変化に、あのリーダーの扇動が一役買っていたとしても、マミは驚かない。
 あのリーダーだけは、最初からマミのことが嫌いだったはずだからだ。理由は、今彼女の隣を呑気に歩いている。

「ん、どうかした? あ、もしかして、ようやく俺の男前っぷりに気づいて、見惚れちゃったとか? いやぁ、照れるなぁ、あははっ!」

 へらへら笑うあきらを横目に、マミは溜息を吐いた。

「…………はあ。だて食う虫も好き好きって言うけど、世の中分からないものなのねぇ」
「え、あ、……はぁ?」
「まあともかく、そういうわけ。この喧嘩に理由なんてあってないようなものだったの。ただ単に、わたしと彼女達の間につまらない因縁があって、それが今日爆発しちゃっただけ」

 そしてはるかは、ちょうどあの5人がマミを囲い込んだ場面に出くわしてしまった。マミを放っておけるような性格じゃない彼女は、後先考える間もなく囲いを破ってマミを助けてくれた。本当なら、マミがどうにかしなければならないところを、彼女が身を挺して庇ってくれたのだ。
 マミはせめてものお詫びにと彼女に事情を話して、謝った。
 だが、はるかはマミが思ってもみない反応を見せた。

「はるかさんって変わってるわ。助けられたのはわたしなのに、彼女ったらわたしに謝ったのよ。『喧嘩相手を奪ってごめん』って」
「何それ?」
「どうも、わたしと彼女たちの喧嘩に横から手を出したのを、体裁の悪いことだと思ったみたいね。そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「まあ、はるからしいと言えば、らしいけどなぁ」

 あきらが呆れたように言って、この話はおしまいになった。



 通学路の途中には、小高い河川敷がある。中々眺めのいい場所で、川に背を向けると視界いっぱいの空と巨大な風車がずらりと並んだ姿が見える。2010年代に再生可能エネルギーの研究が活発に行われた結果、現代では太陽光、風力、水力、地熱などの発電形態が主流になっており、風力発電所の風車は見滝原における再生エネルギーの象徴とも言えた。
 あきらはその河川敷に目をやって、こう呟いた。

「今年もそろそろ、花火大会の時期だよな」

 マミは何も言わずに、彼の次の発言に心の中で身構えていた。この数ヶ月、彼女もあきらの攻勢に堪え続けてきたので、彼がどうやって話を切り出すかそのパターンを掴み切っていた。

(どうやらまた、わたしに誘いをかけようとしてるわね)

 あまり年頃の女の子の反応ではないかもしれない。だが、マミはもうあのときのように、状況に流されてデートについていくような真似はすまいと決めていた。彼が何を言ってきても、行かないの一点張りで通すつもりだ。
 あきらが口を開きかけた。
 来るか? とマミの中で警戒レベルが黄色から赤色に跳ね上がった。

「あのさ……」

 そのとき、あきらの体から軽快なリズムの音楽が流れ始めた。
 意気込んでいた彼はがっくりと気落ちしたようになって、ポケットに手を入れ携帯を取り出した。

「メール? 誰だよ、こんなときに」

 そう言いつつも、後回しにしないあたり根は単純なようだった。あきらは携帯を開いて、メールを確認する。途端、彼の顔つきが変わった。左右に引いたピアノ線のように張りつめて、携帯を見る目つきも鋭くなっている。
 正直、マミは少し驚いていた。こんな彼は、見たことがなかった。
“友田あきら”と言えば、ゆるい、ぬるい、軽いと三拍子揃ったどうしようもない男の子のはずだった。真面目な雰囲気なんて、ついぞ感じさせたことがない。学校のテスト期間、周りが必死になって勉強していても、彼だけはいつものようにだらけてばかり。周りの空気に触発されて真面目になるなんてこともできない少年だった。
 そんな彼が今、たった一通のメールに目の前にいるマミの存在すら忘れて見入っている。しばらくして、彼は携帯を閉じた。

「……何でもなかった。さ、巴さん。帰ろ帰ろ」

 あきらは、もういつものへらへらした顔に戻っていた。それでも、何でもなかったのが嘘だというのは、付き合いの浅いマミにも分かるぐらい分かりやすい嘘だった。
 その証拠に、彼は花火大会について、マミに何も言おうとはしなかったのだから。



18.キュウべぇは、少年に会いに行った。



 学校は夏季休業に入ったが、魔法少女に夏季休業はない。
 今夜も巴マミは魔女を追って見滝原の街を歩き回っていた。彼女の手の中に納まったソウルジェムが輝きを増し、魔女の存在を教えてくれる。マミはその反応に向かって一目散に駆け、慣れた作業だと言わんばかりに魔女を葬った。その姿に華やかさはなかった。苛立ちをぶつけるように、始終唇をへの字に曲げてトリガーを引いていた。
 キュウべぇの知る限り、巴マミは魔法少女であることに特別なモノを見出している少女のひとりだった。魔法少女というレッテルに忠実で、人間が夢見る魔法少女に近づこうといつも試行錯誤している。だが、今夜の彼女は違っていた。優雅に振る舞うこともせず、余裕もないようだった。頭の中を魔法少女以外の何かが占めているように見えた。

「今夜はまた盛大に荒れてるね、マミ?」
「あ、あら? いたの、キュウべぇ?!」

 巴マミは恥ずかしいところを見られたとばかりにスカートをいじり、誤魔化すように微笑んだ。キュウべぇは、人間が感情を表現する仕草を何度も目にしてきたので、彼女が今どんな気分なのかおおよそ推測することができていた。

「いつからいたの?」
「ちょっと前からさ。魔女の気配を感じたんで、飛んできたんだ」

 キュウべぇの役目の一つに、魔法少女が円滑に魔女を狩れるようにサポートするというものがある。魔女が人間に害を及ぼすのは、キュウべぇにとっても放っておいていいことではない。

「それにしても、いつ以来かな?」
「いつ以来って。キュウべぇ、ついこの間うちでケーキを食べて行ったじゃない?」
「そういう意味じゃないよ……君がそんなに荒れているのは、いつ以来かなってことさ」

 キュウべぇはそれを覚えていたが、敢えてそのまま言ったりしなかった。人間とコミュニケーションを繰り返すうちに、彼らは(特に日本人は)物事をはっきり伝えられるのを嫌がるということを知った。それ以来、キュウべぇは彼らと話をするとき多少ぼかしたり仄めかしたりする話の仕方をするようになった。

「憶えてないわ。そんなこと」
「そうか……じゃあ、そのことは置いておこう。君は今、何を悩んでいるんだい? 話を聞くぐらいなら、僕にもできると思うんだけど。またあの彼のことで悩んでるのかな?」
「……思い出した。そういえば、こんな感じだったわね。あのときもキュウべぇは、わたしの相談に乗ってくれたわよね」

 人間の記憶もキュウべぇと同じく完全だが、それを利用する能力は欠陥だらけだった。箪笥に例えれば、物をしまうのは造作もないのに、物を引っ張り出すのだけは不器用だった。キュウべぇの種族はどちらも完璧なので、記憶違いを起こすようなことは絶対ない。

「友田あきら、だったね。彼はまだ、君に言い寄ってるのかな?」
「言い寄ると言うか、懐かれてるような気はするわね」

 そして、人間はたまに大きな認識の齟齬を起こす。人はそれを「勘違い」と呼んだり、大衆意識に背いた認識を「空気が読めない」などと呼んだりする。相手に責任があると思ったときは、「騙された」とか「欺かれた」とか言う。それだけ、人間の中では当たり前の現象だ。
 今また、巴マミも認識の齟齬を起こしているようだった。
 しかし、今それをキュウべぇが指摘しても、意味はない。物事をはっきり示すと人間が嫌がるという原則は、巴マミにも当然適用されるからだ。

「そうか。まあ、それもいいんじゃないかな? マミにも友人は必要かもしれない。マミが彼を嫌っていないのなら、このまま今の状態を保つのも悪い考えじゃないよ」
「今の状態、か。ねぇ、キュウべぇ。わたしって、思った以上にわがままなのかもしれないわ」
「どういうことかな?」

 巴マミは自分の周りで起こった出来事を話した。
 それはよくある恋の鞘当てというヤツだった。友田あきらに好意を寄せるある女の子が、彼のそばにいる巴マミに対して嫌がらせをしようとした。マミはそれを振り払い、彼女は友田あきらの前で恥をかいた。

「わたし、間違ったことをしたんじゃないかしら? あの子と対決するべきじゃなかったのかもしれない」
「それは当然のことじゃないかな? その子はマミに危害を加えようとしたんだろう? なら、マミが自分を守ろうとするのは別におかしなことじゃないと思うけど」
「でも、戦うより逃げる方が簡単だわ。それに、わたしには戦う理由がなかった。だって、別にわたしは友田君に拘りなんてないもの。あの子が付き合いたければ、そうする権利はあったはずだわ……もちろん、友田君がうなずけばだけど」
「確かにそうかもしれないね。でも、君はそれが分かっていても逃げなかったんだろう?」
「……ええ」
「どうしてだい? 逃げようと思えば逃げられたんだろう?」

 キュウべぇが訊くと、巴マミは少しだけ悩んで、はっきりこう言った。

「嫌だったのよ、今の関係が壊れるのが。この曖昧な距離感がなくなってしまう。そう思ったとき、どうしてもそれを認められなかった。そんな権利、わたしにはないのに」

 巴マミはそう言って、うなだれた。
 キュウべぇは彼女の足りない言葉を推測で埋めて、彼女が言いたいことを理解しようとした。
 つまり、巴マミは自分と友田あきらの関係を偶然の産物だと思っているらしい。偶然同じマンションに住んでいて、偶然同じクラスにおり、偶然彼が彼女に関心を持っているだけで、それが壊れることになったとしても、巴マミにはそれをどうこう言う権利がない。何故なら、それは彼女のわがままになるからだ。たまたま拾ったものを彼女が持っているだけであり、それに権利を主張する人物が現れたのなら、潔く手渡してしまうのが正しい行為であると、巴マミは考えているようだった。

「だいたい、わたしは魔法少女だもの……彼の友達にもなれない。そんなわたしに、彼の何を決める権利があるというの?」
「……マミ。ひとつ言っていいかな?」
「何、キュウべぇ?」

 キュウべぇは、巴マミの中で齟齬の大きさが無視できないものになっていると判断した。人間は、あまり齟齬が大きすぎると平静を保つことができなくなる。このままでは、巴マミがこれからの戦いに支障をきたすかもしれない。彼女が“ある条件”を揃えない限り、それはキュウべぇにとっても障害となる。障害は排除する。当然の行動だ。
 キュウべぇは、言った。

「確かに、君に友田あきらの何かを決める権利はないだろうね。でも、君が君自身のことを決める権利は、君にしかないんじゃないかな?」
「わたしのこと?」
「そうさ。君と友田あきらの関係は、君たち二人の問題だ。だから、君にもそれを決める権利はあるはずだよ。それが強い結びつきである必要はどこにもない。どんなに脆弱な絆でも、つながりはつながりさ。君が守りたいと思ったのなら、守ればいい。君の力は、君自身が使い道を決めるものだ。他の誰にも、それを決める権利はないさ」

 キュウべぇは、巴マミに背を向けた。
 彼女は慌てて、キュウべぇを呼び止める。

「ちょっと待って、もう行っちゃうの?」
「すぐに戻るつもりだよ。何、ちょっと会わなきゃならない子がいるんでね」
「それって……もしかして新しい魔法少女? この近くに素質のある子がいるの?」

 どうやら、今夜のマミは本当に調子が悪いらしい。また認識の齟齬を起こしていた。

「違うよ。僕が会いに行くのは、友田あきらさ」



 キュウべぇは、少年に会いに行った。住んでいる場所も知っていたし、この時間彼が家にいるのも知っていた。キュウべぇはまっすぐにマミの住むマンションに入り、階段を駆け上がって彼の部屋を目指した。
 エレベータホールを横切って、廊下を進む。
 彼の部屋が見えてきたとき、キュウべぇは思わぬ人物の登場にその肢(あし)を止めた。

「やあ、君か。久しぶりだね」

 キュウべぇの挨拶に、色とりどりの和服をまとった少女は殺意のこもった眼差しで応じた。友田あきらの部屋の前に佇む彼女は、かつて魔法少女だった頃の姿で現れていた。その手にはかつて彼女が愛用した鋼線が巻きつけられており、その端は左右の五指に結び付けられている。彼女はその、およそ現実的とは言えない武器で幾たびも魔女を八つ裂きにしてきた。

「今度は、魔女ではなく僕を狩るつもりなのかな?」
『キュウべぇ、あなたどうしてここにいるの? この家に何の用があるの?』

 人間の中には、稀に残留思念として強い想いをこの世界に残す者がいる。特に、願いという想いで人を超えた存在になった魔法少女は、死後この世界に留まることが多いようだった。感情をエネルギーに変える、人間という種族にだけ見られる特徴だ。
 人間の中にも、たまに霊を不完全な形ながら知覚する者がいる。だが、キュウべぇは彼らの存在を完全に捉えることができた。ただ見えるだけではない。彼らの声も聞こえるし、意思疎通を図ることもできる。


「僕は、友田あきらに会いに来たんだ。彼に、マミとデートでもしてもらおうと思ってね」


『……マミ? それってもしかして、巴マミのこと?』
「そうさ。もしかして、知らなかったのかい? 彼女が魔法少女だってこと」
『そんな……それじゃあ、あきらさんは彼女に騙されて……?』
「勘違いしてもらっては困るから言っておくけれど、ここに来たのは僕の独断だよ。マミは彼に自分のことを知られたくないみたいだったからね。彼女のことを話さないという約束で、僕はここにいるんだ」

 和服の霊は怪訝そうに眉根を釣り上げた。こういった仕草は、人間でなくなってしまっても以前のまま残っているようだった。

『じゃあ、あなた善意でここに来たというの? 巴マミのために?』
「信用できないかい、僕のことが?」
『当たり前でしょう! 私たちをこんな姿にしておいて!』
「契約について言っているのなら、お互いに合意の上で臨んだはずだ。君はそれで、君の願いを叶えた……いっときだけだったとは言え、君は父親の作品をその眼で見ることができたじゃないか?」

 この言葉は、少々直接的過ぎたようだった。彼女の周りで空気が渦を巻き、憎悪が突風となってキュウべぇを吹き飛ばした。もし、この場所に鈍器や刃物のようなものがあれば、彼女は躊躇なくキュウべぇに向けていたはずだ。それを考えれば、このポルターガイストはまだ穏やかなものだろう。
 キュウべぇは錐揉みしながら空中で体勢を整えると、叩き付けられそうになった壁を足場にして勢いを殺し、そのまま廊下へと降り立った。
 少女の霊は手に持った凶器を解き放ち、両手と共にだらんと脇に垂らす。
 あの構えには見覚えがあった。霊となっても、魔法少女としての力が残っている場合がある。生前の彼女の力が1割でも残っているのなら、キュウべぇには十分に脅威だった。
 このままでは飛び退く間もなく、10本の鋼線がキュウべぇの体を細切れにするだろう。役目を終える前に、この個体を無駄にするのは効率的ではない。

「待った! こんなところで“それ”を使って、友田あきらに迷惑をかけるつもりかい?」
『あなたを近づける方が、よっぽど迷惑になるわ! どんな甘言で彼を誑かすつもりか知らないけど、そんなことはさせない!』
「……たとえ、それで君自身のことが彼に知られることになっても?」

 ぴたりと、荒れ狂っていた空気が鎮まった。
 霊は顔をゆがめて、立ち尽くしていた。
 少女の意思が、殺意より困惑、そして想像される結果への恐怖にぐらついているのが、目に見えるようだ。
 キュウべぇは言った。

「でもまあ、僕としても今の君を意味もなく苛立たせるのは、望むところではないからね。今夜はもう帰るよ。また出直そう」
『……二度と来ないで』
「悪いが、それは約束できないな。僕は僕の役目を果たさなくちゃいけないからね」

 そのためには、ぜひとも友田あきらに頑張ってもらわなければならない。
 キュウべぇはそのままマンションを出て、今だマミが巡回している見滝原の街へ向かった。元魔法少女の霊は、キュウべぇを追いかけてはこなかった。



(続く)






 ・なんちゃって魔女図鑑(6)

   色彩の魔女《エミリー》←情報更新!
     性質は盲目。
     今の世界を醜いと信じ、かつてあったはずの美しい世界を取り戻したいと望み続けている。
     魔女自身の世界とも言える結界の中に理想世界を構築し、引きこもっている。
     彼女を倒すには、彼女の世界が抱える矛盾を突き止め、否定する必要がある。
     攻略ヒント → 色の三原色。

     生前、エミリーは『ある願い』と引き換えにキュウべぇと契約し、魔法少女となった。願いの詳細は不明。ただ、キュウべぇのセリフから多少の推測ができる。
     主武装は左右五指に結び付けられた鋼線で、その指捌きのみで一歩も動かずに周囲の空間を制圧する戦法を得意としていた。巴マミがダンサーのような“動”の華やかさを持つように、彼女は日本舞踊に見られる“静”の華やかさを持つ。
     ……友田あきらに“あること”を隠しているが、そのことに後ろめたさを覚えている。






 ・あとがき
   やっとパソコンが復活して、更新することができました。お待たせして申し訳ありません。
   さて、ようやくキュウべぇが動き出した感じです。彼はある目的のために主人公を利用しようとしますが、それを阻むのは通い妻もとい幽霊少女エミリーです。作者的萌えキャラ・エミリーの奮闘に期待したいところですが、天然外道・キュウべぇがその悪意のない策略でエミリーを出し抜くのも見てみたいですね。
   それはそうと、今回の話は一年生(夏)編の第1話ということで、伏線回になりました。よって、動きのあるシーンがほとんどなく、会話ばかり(あれ、以前にもこんなことあったような? 気のせいですね、きっと!)。
   舞台の季節が夏ということで、タイムリーな話題にできるかと思った矢先にパソコンが使い物にならなくなり、ちょっとしょんぼり。それでも、これまで通りゆるりゆるりと更新していくつもりですので、どうかよろしくお願いします。


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