1.魔女結界の迷子
ふと目覚めると、三原色の道を歩いていた。道の幅も長さも曖昧で、そのくせ色だけははっきりして目に痛かった。視線を移すたびに、道はその形と角度を変えていく。さっきまで真っ直ぐだった道が、洗濯機の渦のように曲がりくねったりしていた。
正しい方向、正しい道なんて存在しない。お前はここでずっと迷い続けるのだ。
そう誰かに言われたようで、彼はちょっと戸惑った。
「まあ、俺は007じゃないしな……ぼちぼち行きますか」
迷うことを知らない無敵のスパイヒーローを頭に思い浮かべながら、恐る恐る不安定な道に足を踏み出した。手に吊ったコンビニの袋の中で、夕食に使う牛乳と卵がぐらぐら揺れて不安を掻き立てた(店員に、卵だけ別の袋に入れてほしいと頼めばよかった)。
これだけぐにゃぐにゃした世界なのに、足裏に返ってくる感触はリノリウムのように固い。視界が当てにならないので、耳を澄ました。小バエが蝋燭の火に焼かれるような、ジッジッという鋭く小さな音が聞こえる。少しポジティブな聞き方をすれば、アナログテレビのノイズに聞こえないことはなかった。地デジ対応はお早めに。
それでも、やはりこの音は不快で、知らず額に脂汗が滲んできた。浅くなる呼吸を強いて深い呼吸に切り替える。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
将来もし彼女ができて、結婚して、子供が生まれることになっても「ラマーズ法なら任せておけ!」と自信を持って言えそうなほど口呼吸に習熟する頃には、この道を随分先まで進んでいた。景色は一向に変わる様子はなかった。ぐるぐる同じ場所を回っているのかもしれない。どうやら、会ったこともない将来の嫁さんのことより、まずはこの場所を抜け出す方法を考えた方がよさそうだ。
「と言うか、ここどこなんだ?」
敢えて考えないようにしていたことを、ついに直視しなければならなくなった。彼が覚えている限り、この見滝原の街にこんなトワイライトゾーンみたいな観光名所は存在しないはずだ。それとも、彼だけ知らなくて、最近はこういうのが流行りなのだろうか? だとしたら、そんなニーズに合わせてこの道を作った職人さんには敬意を表したい。会ったら、ひと言文句を言ってやろう。
「……やばい」
あまりに絶望的な状況に、思考が上滑りする。ついでに、遭難したときはできるだけその場を動かない方が良いという山のルールを思い出して、とりあえず歩き出したちょっと前の自分に軽く頭を抱えた。007なんて、大っ嫌いだ。
遅ればせながら、これ以上歩き回るのを止めた。目に痛い道は変わらずそこにあった。
さて、どうしよう?
「どうもこうも、歩くしかねぇじゃん」
お巡りさんだろうが消防隊員だろうが、こんな不思議空間には二の足を踏むはずだ。もし来てくれるのなら、その人は本当にヒーローだが、ヒーローに関してはついさっき懐疑論者に鞍替えしたので、期待しないことにしよう。
体感時間で10分か20分歩いたときだった。彼は、一匹の鳥を見た。
初め、彼はそれを子供が捨てた玩具だと思った。生き物にしては色がどぎつかったし、丸みも足りなかった。この空間と同じ三原色の積み木ブロックで組み立てたと思しき鳥の模型。それは、鳥にしては太めの黄色いブロックを足代わりにしていた。道に立ち、彼からそっぽを向いている。
彼は、この奇妙な道ではじめて見つけた物に強い興味を引かれながら、そばを通り過ぎた。触れようとは思わなかった。手に取って眺めるには、とてつもなく怪しい。近づいた途端に捕って食われるなんて展開にならないとも限らない。
信じられない場所では、信じられないことが起こるものだからだ。この世界には、幽霊だって妖怪だっている。彼にはそれが見えることがある。これはマジだ。冗談ではない。
「でもさすがに、お祓いとか厄除けのスキルはないんだ。だから、祟りとか呪いとかは勘弁してほしい。もちろん、ロハとは言わない。お布施ぐらいならしてあげるから」
独り言を呟く。誰かに見られてたら痛々しいことこの上ないが、寂しいのだからしようがない。ここにはテレビもDVDもパソコンもない。さっき確認したが、携帯電話も通じないようだ。普段その辺りを漂ってる幽霊も軒並み姿を消しているところを見るに、本当にヤバい場所のようだ。
彼らは、夜の墓場とか、海岸の断崖絶壁とか、樹海とか、一見危険そうな場所には近づかない。そういう場所で、死人が出て、幽霊が生まれるからだ。地縛霊なんて呼ばれるものもいるがあれは例外で、ほとんどの霊は人肌の温かさを求めるように街に繰り出して遊び回っている。考えてみればいい。いったい、どこの誰が自分の死んだ場所をうろつきたいと思う? 嫌な思い出しかない所なのに? 彼には、霊たちの気持ちが理解できる。幽霊だって、嫌なことはさっさと忘れたいはずだ。
この色鮮やかな空間には幽霊がいない。だからきっと、ここはジェット旅客機並みにヤバい場所だと、彼は思った。彼の両親は、あれで墜落死した。以来、彼は空を飛ぶ乗り物が怖くて仕方がない。
心なしか、ノイズが大きくなっている気がした。どうやら、小バエでは満足できなくなって、チキンを丸ごとローストし始めたようだ。チキンは好きだ。元気だけど臆病なところに親近感が湧く。だが、同じようにローストされたいとは思わない。ご愁傷様。
ふと、見られているような気配を感じてふり向いた。
誰もいない。見つめ続けると気分が悪くなりそうな三原色の空間が真っ直ぐ後ろに続いていた。……これで、そっぽを向いていたはずの鳥の玩具が不細工な嘴をこっちに向けてふわふわ宙に浮いていなければ、完璧だった。誰もいないが、何かがそこにいる。
「うっ!」
呻いて、思わず彼は走り出した。行き先は定めなかった。こんな場所では、どこに向かっても大差ない。とにかく、あの鳥から離れられればそれでよかった。
コンビニの袋が脇でガサガサ鳴ってうるさい。だが、握りしめた拳は固まって緩んでくれず、そのまま走り続けるしかなかった。彼はぶん回した卵の安否を少しだけ気遣っていた。自分自身を気遣う方が、ずっと心の割合は大きかったが、少なくともパックに入った牛乳は心配しないでいいのだから、その分だけ卵の心配をしても罰は当たらないだろう。なにせ、チキンの子供なのだから、親切にしてしかるべきだ。
「はっ、はっ、はっ!」
後ろを見るな。後ろを見るな。後ろを見るな。
そう自分に言い聞かせても、彼は誘惑に逆らえずに後ろを見た。
不細工な嘴を持つ不細工な鳥は、とっくに子供が捨てた玩具のふりを止めて彼を追いかけていた。ブロック状の翼を左右に広げ、ハングライダーが滑空するように宙を滑っている。あの翼で、どうやって風を受けて飛べると言うのか? ベルヌーイの定理に喧嘩を売るその行為に、彼は鳥から視線を外して真っ直ぐ走ることだけに専念した。人間、解らない物ほど怖いものはない。あの鳥はジェット旅客機より怖かった。
何だか嫌な予感がした。もしこれがあの鳥のことなら、お前の予感は数秒ばかり遅かった。遅刻厳禁。五分前行動は学生の常識だ。もうすぐ中学生になるんだから、お前ももうちょっと時間に厳しくならなくちゃ! 彼は自分自身の鈍い直感に心の中でそう叱りつける。
だが、これは冤罪だった。彼の直感は、無遅刻・無欠席の優等生だった。ちゃんと「この道は拙い。引き返せ!」と彼に伝えてくれていた。
彼はそれを無視した。その結果、袋小路に追い詰められた。
「……嘘だろう」
勿論、嘘じゃなかった。ただ、言ってみただけだ。
三原色のおもちゃ箱。はめ込みブロック細工の街が目の前に広がっていた。赤、黄、青の三色ブロックが古代ローマの街並みを再現していた。たぶん、ローマだ。じゃなければ、ギリシャか? どっちでもいい。あいにく、社会科は得意科目じゃない。
代わりに、ゲームは得意中の得意だ。テレビゲームでもボードゲームでも何でもござれ。唯一の難点は、成績に結びつかないことだが、今の状況を考えるのに一番近い科目であるのは、間違いない。小学校の授業は、こんな状況の切り抜け方は教えてくれなかった。きっと、中学でも同じだろう。学校の勉強は、実社会では役に立たないと聞くが、どうやら本当のことらしい。
「真面目に勉強しなくてよかった。いや、ちっともよくないか」
このままでは、中学に上がる前にジ・エンドだ。この状況、彼は明らかにこの場所へ誘い込まれた。後ろを見ると、例の道はなくなっていた。あの不細工な鳥もいなくなっている……ますます拙い。この流れは、アクションゲームで言うところの「ボス戦」目前である。武器も、防具も、ボスの弱点の情報もなし。つまり、勝ち目もなければ生き目もなし。
「いや、ボスがいないなら、それに越したことはないんだけど……」
嫌な予感は、全然去ってくれなかった。背筋は寒気で震えるし、脇の下は冷や汗を掻いていた。優等生な直感も善し悪しだ。ちょっとは肩の力を抜いて、居眠りの練習ぐらいしたら? 我ながら理不尽な意見だったが、今はとにかく脱出である。現実と言う名のゲームに、エスケープ機能はない。自力で抜け道を探さなければならない。だが、どうやって?
彼は、古代建築っぽくって、やっぱり目に痛い三原色の街を眺めた。眺めただけじゃ分からなかった。どうやら、また歩き回る必要があるらしい。お馴染みのコンビニ袋を手に持って、彼は街を歩きはじめた。ふと、袋の中身を見た。卵も牛乳も無事だった。何よりだ。
「赤、黄、青……赤、黄、青……赤、黄、青……」
円形フロアの縁を回りながら、抜け道を探す。歩きながら、彼は三つの言葉を念仏のように唱えた。何かが頭に引っかかっていた。この念仏の何かが気になる。何故? 自問しても自答できなかった。まるで禅問答のようだ。お坊さんなら、ささっと回答してくれそうである。あいにく、彼はただゲームが得意な小学六年生(備考:霊感持ち)である。なぞなぞは得意ではなかった。クロスワードパズルみたいなのも嫌いじゃないけど、趣味ではなかった。勉強みたいだから、好きになれない。
無事にここから出られたら、頭をスキンヘッドにするのも悪くないかもしれないぞと、彼はぼんやり思った。頭を丸めれば、なぞなぞぐらい訳ないかもしれない。……いや、やっぱり止めておこう。スキンヘッドを差別するわけじゃないが、女の子にはモテなさそうだ。お坊さんを目指すにしろ、スキンヘッドの強面を目指すにしろ、恋人を作った後でいいだろう。
「まあ、その前に抜け道を見つけられなきゃ、そこまでだけど」
しかし、見つからなかった。他の場所に繋がるような道は、どこにも見当たらない。念仏の何が頭に引っかかるのかも、分からなかった。やっぱり頭を丸めるべきだろうか?
ぐるっと一周してみた。別の場所に繋がる道があるなら、フロアの外側だとばかり思っていたが、当てが外れたようだ。フロアの縁は、壁しかなかった。
となると、街の真ん中に向かって歩くしかないわけだが……。
「うわぉ……《ボスの間》へ一直線?」
それは、とんでもない死亡フラグではないだろうか? 少なくとも、蟻が蟻地獄に向かって進むより、性質が悪い気がする。けれど、進むしかない。後戻りはできないのだから。
街の中心、原色ブロックで出来た宮殿が建つ場所を目指して、彼は歩き出した。
2.色彩の魔女《エミリー》
「レッド、イエロー、ブルー……レッド、イエロー、ブルー……」
「赤、黄、青」より、唱えにくかった。何となく、歯切れが悪い。コリッとした軟骨が奥歯に詰まったような具合の悪さだ。やっぱり、日本人は日本語使わなきゃ駄目だ。それでも、彼はそのまま「レッド、イエロー、ブルー」と唱え続けた。英語のフレーズや洋楽がカッコイイと思いたい年頃だった。
というか、半ば自棄になっていた。錯乱しないように、念仏で冷静さを繋ぎ止めているだけだ。内容はどうでもよかった。
目の前にある三色の宮殿は、とにかく大きくて、とにかく派手だった。その威容を見て彼は、これを作った奴は大した根性だと感心した。何が面白くて、積み木細工でタージ・マハルみたいな宮殿を建てようなんて思ったのだろう? 作業員が100人いても、数ヶ月はかかるはずだ。中身を設えるには、さらに数ヶ月、もしくは一年と言ったところか。これがエジプトのピラミッドみたいに手作業だった日には、10年20年でも彼は驚かない。まあ、RPGゲーム創作ツールなら、週単位であっさり完成しそうだったが。
街の外縁を回ったときと同じく、彼は宮殿の周りも探索した。正面以外に出入りできそうな場所はなかった。中に入るには、表門を通るしかない。彼はまた、あの誘導されている感じを覚えた。蟻地獄の蟻だ。
「はぁ……生まれ変わるなら、アリクイがいいな」
蟻も蟻地獄もウンザリだ。どうせなら、アリクイがいい。あの細長い舌でちゅるちゅるってする仕草は愛嬌ある……かもしれない。
「うん、嘘ついて、ごめん」
誰に謝っているのか分からないが、誰かにそう言いたかった。話し相手が欲しかった。おかげで、ひとり言も天井知らずだ。彼の中にあったピーナッツ並みの正気も、粉みじんに砕けそうだった。まあ、もともと大した正気でもなかったわけだ。
------あの鳥、また現れないかな。今なら、あの追いかけっこを歓迎できる。
こんなことを思うのも、この静けさがいけないのだ。目に痛いだけの大きな街は、広さに見合う騒がしさが欠けていた。住む者の存在感が、生活感がない。空っぽだった。
肉体から解放された幽霊だって賑やかさを求めるのに、並の人間がこんな広さと静寂に堪えられるわけがない。どんなに屈強なボクサーでも、強烈なボディブローをノーガードで受け続ければ立っていられないのと理屈は同じだ。静寂が理性をノックダウン寸前まで追い込んでいた。彼にはリングロープやセコンドの投げるタオルが必要だった。
だから、例えそれが明らかな罠でも、蟻地獄でも、ぬるっとしたアリクイの舌が獲物を待っているのだとしても、自分以外の誰か、自分以外の何かを求めて、彼は宮殿に踏み入るしかなかった。
「何だよこれ。こんな罠……作った奴は鬼か悪魔か?」
見飽きた三原色に導かれて、彼は宮殿の表門をゆっくりと潜り抜けた。
外観は宮殿だったが、中身は建物の形にくり抜いた空っぽのドームだった。想像していたような豪奢な調度や美術品やお迎えのメイドさん(おかえりなさいませ、ご主人様! って感じの)なんてものはひとつもなかった。外側だけ立派な張りぼての建物だ。手抜き工事もいいところである。
「お前はニュースを見ないのか? 今の日本は違法建築に結構厳しいんだぞ?」
中に入ると、彼はさっそく言ってやった。どこかに隠れている誰かに、聞かせるためだ。こういう嫌がらせをする奴には、はっきりと言ってやらなければならないと思ったからだ。
何より、我慢ならなかった。
目の痛いぐにゃぐにゃと変化する道、目に痛い作り物の不細工な鳥、目に痛い広くて静かすぎる街。そしてこの、目に痛くてどうしようもない出来の宮殿。
もう、たくさんだった。「目に痛い」って形容詞にも飽き飽きだ。
「だいたい、どれもこれも赤、黄、青の三色って何だよ? 趣味悪すぎだろ!」
声変わり前の少年の声が、怒りと共に響き渡っていく。
すると、まるでその声に反論したいと言わんばかりに、あのチキンをローストするような音が返ってきた。ドームの中に濁った音が充満し、彼の声ごと空気をかき混ぜる。突風が起きた。発生源はドームの中央だった。まるで異次元に繋がる目に見えない裂け目があって、そこから風が漏れてきているように思えた。隙間風が吹くなんて、とんだ欠陥住宅である。
彼の怒りは収まらない。いや、恐怖に囚われるのを恐れて、無理矢理怒りを増幅させていく。少なくとも、こうやって爆発している間は身も心も凍えずに済む。
「それに、客を出迎える態度もなってない! こんな場所に引っ張り込んでおいて出てきたのが玩具の鳥一匹って、どういう了見だ! 女将を呼べ!」
今時の小学生舐めんな。と、息巻いて叫ぶ。これが後で恥ずかしい歴史になろうとも、構うものか。歴史に名前を残す予定は、今のところない。
突風と共に、何かが空間の裂け目から這い出してきた。大人の背丈ほどもある巨大な節足が、ドームの床を埋めるブロックにガチッと食い込み、異次元から大きな胴体を引っ張り出そうとしている。
彼には、それが巨大な蜘蛛の足に見えた。どうやら、ここは蟻地獄ではなく大蜘蛛の巣だったようだ。彼はその粘つく糸に絡め取られたわけだ。ただ大きいだけの蜘蛛ではなかった。全身が、お馴染みになりつつある例の三色でプラスチックめいた冷たい輝きを放っている。三原色で組み立てられたプラスチック製の蜘蛛の頭が、次元の裂け目から無言で彼を覗き見た。その瞳だけが、エメラルドのように緑色に輝いていた。その美しさが、逆におぞましい。
女郎蜘蛛(じょろうぐも)の化粧にしては、ケバケバしすぎだ。いったいどんな男を引っかけるつもりだったんだろうか?
「……今分かったよ、この街に人がいないわけが。こんなおっかない女将が出てくるんじゃ、流行るわけがない」
彼はそう呟いて、後ずさった。意識した動きじゃなかった。虚勢の種も冗談の種も尽きてしまったのだ。
蜘蛛の化け物はその全容を露わにした。六本脚がすべて揃ってドーム内に現れ、蟹股のように曲がって体重を支える。ぐっと重心が下がって、視線の距離が近くなる。
彼は首を痛めながら、はるか上にあるグリーンの目に目を合わせる。落ち着け。目を逸らさずに、そのまま後ろに下がれ。これは熊の対処法だが、ちょっとは効果があるだろう。出会ってしまえば絶望的なのは、どっちも同じだ。
「降参だ」と口で言う代わりに、彼は両手を上げていた。ガサゴソとコンビニ袋が揺れる。そう言えば、まだ持っていたのだったか。夕食に使うつもりだった、250ml牛乳と卵の6個入りワンパックだ。
「これから化け物の夕食になるってのに、自分の夕食も糞もねぇよなぁ」
健気にここまでついてきた材料たちに、声も出さずにそっと謝った。でもまあ、許してほしい。どうせ、胃袋に収まることに変わりはないんだ。もう、彼も手に持った袋の中身と同じ、大蜘蛛の餌に過ぎない。
彼の体は、震えなかった。
ブルっちまうほど自由になる体なんて、残っていない。
ただ、近づいてくる緑色の光を見つめる。
大蜘蛛の大きな目が、カラフルな頭が、上下左右に開いたグロテスクな口がゆっくり彼の頭をもぎ取ろうと迫っていた。
ふと、彼はずっと頭にこびりついていた疑問の答えを得た。
「そっか……RYBじゃない。RGB、だ」
大蜘蛛の動きが、止まった。
三原色……いや、かつての色の三原色だったR(レッド)Y(イエロー)B(ブルー)の化け物が、大口で彼の頭を抉り取ろうとする直前で、静止していた。
彼は言った。
「だっせ。時代遅れのポンコツかよ」
精一杯の抵抗のつもりだった。遺言、と言った方がすっきりするかもしれない。あいにく、遺言状を作成する時間も金も弁護士もないが、これも立派に有効だ。いや、有効にしてみせる。
化け物がどうして目前で止まってしまったのか、それは彼には計り知れない。けれど、この化け物はまた動き出す。そうなれば、12年間つき合ってきたこの首ともサヨナラだ。
だったら、言ってやれ。最期ぐらい、ジョークを口にしなくてもいいはずだ。
「お前は間違ってる。色の三原色は、RGBだ」
大蜘蛛の頭に付いているG(グリーン)の目に、彼は指を突きつけた。
新しい色の三原色・緑(グリーン)。それは、化け物の瞳に輝く限り、彼女には絶対見ることのできない光だった。
怪物は戸惑っているように見えた。
------その戸惑いが、彼女の命とりだった。
少年の背後から、強烈な光が迸った。
白、いや黄色に近い光の束が、真っ直ぐに大蜘蛛の頭を貫き、綺麗だったグリーンを跡形もなく吹き飛ばしてしまった。
発光は留まるところを知らず、彼の視界全体を白黄色に染め上げていく。
目を灼く光の激しさに、彼の意識も徐々に遠くなっていった。
何が起こったのか、訳が分からない。
分からなかったが……視界が暗転する瞬間、彼は確かに“声”を聞いたような気がした。
聞き覚えのない声。
そして、きっと気を失った後には忘れてしまう、そんな声。
女性のように聞こえるし、少年のようにも聞こえる高らかな響きだった。
天から降り注ぐ鐘の音のようなその響きは、確かこう言っていた。
------ティロ・フィナーレ、と。
大蜘蛛が倒れると、目に痛かった空間が捻じれはじめた。
彼は、捻じれに体ごと巻き込まれるようにして、意識を失った。
3.春休みの帰り道
「あ、それはちょっと違いますよ。赤・緑・青っていうのは、光の三原色です。色の三原色じゃありません」
「そうなの? じゃあ、赤・黄・青の組み合わせは色の三原色?」
「それも違います。今もっとも一般的に使用されている色の三原色は、シアン(緑青)・マゼンタ(赤紫)・イエロー(黄)です。あなたが言ったのは、伝統的な減法混色の……」
「あ……いえ、もう結構です。はい、ありがとうございました!」
彼はぶんぶんと首をふって、それ以上の説明を突っぱねた。そして「偉そうなこと言っちゃったけど、あいつに悪いことしちゃったかなぁ?」なんてぶつぶつ呟いていた。
そんな彼の妙なふるまいを、彼女は横でずっと聞いて歩いていた。どうやら、思ったより元気そうで、安心した。
彼は、ふと顔を上げて言った。
「それはそうと、何か迷惑かけてるみたいで悪いね」
「そんなことありません。ちょうど家の方向が一緒だっただけですから」
「そりゃどうも……でも、情けねぇよ。道端でぶっ倒れた上に、見ず知らずの女の子の肩借りてるんだから。男としちゃ、恰好がつかない」
「あなたのお家は……えっと?」
「もうちょいだな」
「そこまで歩けそうですか?」
「……たぶん、大丈夫だ」
彼の顔色は、まだ少し青白かった。無理もない。
「あの……気分が悪いなら、やっぱり病院に行った方が良かったんじゃありませんか?」
「いや、気分はいいよ。もう最高! 牛乳も卵も無事だしね!」
手に下げたコンビニ袋を揺らして、彼はカラカラと笑った。
さっきまでの出来事を、まるで気にしていない。飄々とした態度だった。あの体験を夢だとでも思いたがっている。そういう風にも受け取れた。
(それとも、わたしに気を遣ってくれてるのかしら?)
「手助けしてくれた通りがかりの女の子」に、変な気を遣わせたくない。そんな風に考えているのかもしれない。もしくは、本当のことを話しても信じてもらえないと悟っているのか。
どちらにしろ、気を遣わなければならないのはギリギリまで助けて上げられなかった自分の方だと、彼女は思っていたのだが……。
「ところで君、何年生?」と、彼が訊いてきた。
「見滝原小の6年です」
「ってことは、同学年か。奇遇だね。俺もそうなの。春休みが終わったら、見滝原中に進学するんだ」
「え、同い年?」
「あれ? もしかして君、俺のこと年上だと思った? いや、たまに間違えられるんだよね。俺、人には落ち着いて見えるらしくて」
「……はぁ、そうなんですか」
無難に相槌を打ったが、彼女は少々驚いていたし、呆れてもいた。
(同い年だったんだ……年下だとばかり思ってた)
小学校の高学年にもなれば、男女で身長差も出てくる。彼は、同年の男子にしては少々小柄だった。彼女とほとんど差がない。
態度も落ち着きがないし、言動のノリも軽いので、なおさら幼く見えていた。あと、いつもニヤニヤしているのでどこか信用ならないところがある。まるでピエロのようだ。
上辺だけの付き合いならともかく、プライベートの友人にはしたくないタイプだった。その薄皮の下にどんな秘密を隠しているのか、知れたものではなかった。
(まあ、それはわたしも同じなんでしょうけどね)
「ああ、ここだここだ。着いたよ」
少年は足を止めた。
そこには、彼女の見慣れたマンションがあった。
「え? ここって……」
「俺、ここに住んでんだ。送ってくれて、ありがとうな。エレベーターがあるから、後は何とかなるよ」
「部屋まで送ります」
「いや、そこまでしてもらうのは、ちょっと……」
「あの、わたしもここに住んでるんです。だから、お部屋までご一緒します」
「……まじ?」
「はい」
ふたりはお互いの部屋の番号を告げた。信じられないことに、お隣さんだった。
彼は、ニヤニヤ笑いを引っ込めて、呆けた顔で「何それ?」と呟いていた。
「不躾だけど……君、ここにいつから住んでるの? 俺はだいたい1年ぐらい前からだけど」
「わたしもそれぐらいです。あなたは、転校してきたんですか?」
「いや、ずっとこの街に住んでるけど……ちょっと家庭の事情でひとり暮らしすることになったんだ。君は?」
「わたしも、家庭の事情です」
同じくひとり暮らしだが、それは言わない方がよさそうだった。女の子が危機意識を強く持つのは、悪いことではない。彼女がこの「仕事」を始めたのが、今からちょうど1年前だった。そのときから、彼女はひとりでこのマンションに住んでいる。
(で、この人も同じ時期にここに越してきて、ひとり暮らしを?)
そして、これまで50mも離れていない場所に住んでいながら、お互いがお互いに全く気付かなかったと言うのか? いくらクラスが違うとは言え、同じ学校に……。
(……そうだわ! わたしと彼は、同じ学校に通ってたのよ?!)
つい先日、卒業式を終えたばかりの見滝原小学校。
ふたりは1年間、同時にあそこへ登校と下校を繰り返してきた。なのに、まったく気づかなかった。彼の噂すら、耳にしたことはない。きっと、それは彼も同じだろう。
さすがに、彼女も少しばかりゾッとしていた。彼ではないが「何それ?」と言いたくなる。こんな薄気味悪い偶然は、はじめてだった。
(落ち着きなさい、わたし! こんなのは、ただの偶然よ。それに、たった1年ならお互いに気づかなかったとしても、ちっともおかしくないわ。何もわたしはここに10年住んでたわけではないんだもの! ただのすれ違いよ!)
彼女は仕事柄、これまで人付き合いを避けてきた。命を懸けた戦いに、他人を巻き込みたくなかったからだ。他人に対して消極的だったのは間違いない。だから、同じマンションに住んでいた同じ学校の、加えて同い年の少年に気づかなかったと言うのも、しようのないことだと割り切れる。
だが、目の前の少年は違う。彼は、これまで人並みの生活を送ってきたはずだ。少々軽いが、社交性もある。そんな彼が、同じマンションに住んでいる(しかも、部屋は隣同士の)同学年の女の子の名前を、一度も耳にしたことがない。噂も聞かない。そんなことが、あり得るのだろうか? それも、偶然なのか?
彼女があれこれ考えていると、お隣さんが言った。
「ま、いっか。間が悪かったんだろう、お互いに」
彼の判断は、単純で常識的だった。眉根を寄せて考えていたのは数秒で、すぐにただの偶然だと笑って受け流した。それが、当たり前の考え方なのだろう。
ふたりは、エレベーターに乗って、同じ階へ。そして、手前にあった彼の部屋の前で別れた。
少年は言った。
「じゃあ、おやすみ。巴さん、中学で、同じクラスになれるといいね?」
「はい」
巴マミは、作り笑いが不自然に見えないことを祈りながら、扉が閉まるのを見送った。
厚い金属の扉に鍵がかかる音を聞いて、ほっとひと息吐いた。
これでようやく彼女の「仕事」は全て終わった。魔女退治だけでなく、襲われた人のアフターケアーも、彼女の仕事の内だ。そう、マミは考えている。
(そう。わたしの持つ魔法は、ああいう普通の人たちを守るためにあるんだもの)
1年前、家族全てを巻き込んだ不幸な事故から、彼女はひとり生き残ってしまった。
魔法少女とは、そんな彼女が背負った絶対の宿命だ。
あの時救われた命と力の限り、この街を守る。それが、巴マミの誓い。
(だから、ごめんなさい。わたしは……あなたのお友達には、なれないんです)
いつものように、マミは彼の言葉を切り捨てた。踵を返して、隣にある自分の部屋に向かって、歩き出す。
そのとき、ちらりと彼女の視線が表札を掠めた。魔法少女として実戦を潜り抜けるたびに鋭くなっていた動体視力は、たやすく文字を読み取っていた。
『友田 あきら』
それが、今まで一緒にいた男の子の名前だ。
マミはそれに、何の感慨も抱かなかった。
(続く)
・なんちゃって魔女図鑑(1)
色彩の魔女《エミリー》
性質は盲目。
今の世界を醜いと信じ、かつてあったはずの美しい世界を取り戻したいと望み続けている。
魔女自身の世界とも言える結界の中に理想世界を構築し、引きこもっている。
彼女を倒すには、彼女の世界が抱える矛盾を突き止め、否定する必要がある。
攻略ヒント → 色の三原色。
・あとがき
読んでいただき、ありがとうございます。
正直、まどマギの世界観を上手く表現できているとは思えませんが、リハビリと実験を兼ねて拙作を投稿させていただきたいと思います。
はじめに、主人公視点が気持ち悪いのは仕様です。筆者はコミカルに描いているつもりですが、上手く描けている自信がありません。コミカル描写だけでなく、それ以外にも貴重なご意見・ご指摘がございましたら感想板にお寄せいただければ幸いです。
次に、“なんちゃって魔女図鑑”に関してもノリが大半です。エミリーちゃんの矛盾より、筆者の矛盾が先に暴かれそうで怖いです。色の三原色とか、何とか。
最後に、これは長編ですが不定期更新がデフォです。1話分文章がまとまり次第ゆるりと投稿しますので、次がいつになるかはっきりしません。その点、ご容赦いただければありがたいです。