三、一読噴飯(ふんぱん)、『継命』の反論

 以上のごとく、檀徒新聞『継命』の発刊から日達上人御遷化直前までの経緯につき、私が『暁鐘』第39号、第40号誌上で種々述べましたところ、さっそく『継命』第41号(56年5月15日号)の論説欄に「『暁鐘』の誹謗論文を破す」と題する、言い訳のような、ごまかしのような記事が掲載されました。
 あまりの子供騙(だま)しな内容に、まともに相手をするのもどうかと思われましたが、それでも先方が急いで(慌てて?)反論を発表された以上、一度は再反駁して間違いを指摘しておくのが礼儀かと思いまして、誌上を借りて若干の論駁(ろんばく)をさせていただきました。その内容を以下に紹介いたします。
 まず当該記事において、もっとも呆れさせられたのは、「当事者でもない者が、不正確な情報をもとに覚醒運動の変遷≠批判しようと、どだい真実など書けるわけがない。いわんや、そこに法門の未了(みりょう)や事実の誤認・わい曲があれば、まさしく噴飯(ふんぱん)ものといえよう」と仰々(ぎょうぎょう)しく前置きしたうえで、その実例として『継命』創刊号日付の問題などを挙げている点です。
 いったい発行の日付のことをとり挙げて、「法門の未了や事実の誤認・わい曲」などと大騒ぎすること自体、あまりに馬鹿げた話です。私が前に、『継命』創刊号の日付のことを述べたのは、ひとつのエピソードとして挙げたまでのことで、全体の論旨とはほとんど関係がありません。
 それを、むきになって「誤りを糺(ただ)す」などと称し反論されるわけですから、「まさしく噴飯もの」です。心ある人達は失笑を禁じえなかったことと思います。
 念のため申し添えておきますと、『継命』創刊号の発行を五月一日付にするつもりであったが池田氏辞任の情報を得て四月二十八日付にした、というのは、外ならぬ「当事者」である『継命』編集責任者(とされている)高妻明憲氏が、当時、とくとくとして語っていたことであります。その発言の後に、当該記事中で弁明している「立宗会の佳日」にも当たるし、との弁もあったと聞いていますが、それはあくまでも傍意(ぼうい)にすぎません。

見当違いな「誤りである証拠」


 次に、当該記事中、「継命第2号の論調について、佐藤氏は、K氏の発言を引いて、当時、いかにも継命内部に『5・3』路線にそったムードがあったにもかかわらず、一部僧侶の煽動(せんどう)で、結局本山に反した紙面になったかのように論じているが、これもまちがいである。その証拠に、例としてあげられた第2号一面の檄文は、当のK氏の筆によるもの」と述べられていますが、これで反論になっているとでも思っているのでしようか。
 私が前に述べたのは、『継命』創刊号が発刊され、「5・3」も経た直後に、高妻氏が、一度は日達上人の示された御指南に従うかのごとき発言をされながら、結局、その後に発行された『継命』第二号には日達上人の仰せに反する論調の記事を掲載したこと、そして、さらには「本山・日達上人と徹底的に闘うまで」との驚くべき発言をされたこと等々を挙げ、前言からわずか一ヶ月もたたぬうちに裏腹な変心をしたのは、おそらく誰かの指導(一部僧侶の煽動とは書いておりません)によるものと思われる、ということでした。
 それに対する当該記事での反論が、「これもまちがいである。その証拠に、例としてあげられた第2号一面の檄文は、当のK(高妻)氏の筆によるもの」云々とは、『継命』編集スタッフの方々はよほど国語の理解力に欠けているものとみえます。
 高妻氏が第2号の檄文を書いたという事実は、氏の変心ぶりを物語る証左でこそあれ、何ら私の述べたことに対する反論にも批判にもなっておりませんし、どこが「誤りを糺」しているのか、「まちがいである証拠」なのか、さっぱりわかりません。支離滅裂とはこのことです。
 もっとも、あえて当該記事の価値を認めれば、「高妻氏は第二号でも檀徒作りを推進した、けっして高妻氏が覚醒運動から離れたことはない」旨を弁明し、運動内部における高妻氏の保身を計るのに役立つぐらいのものでしよう。

読者あざむくスリ換え記事

 次に、当該記事中、「54・6・18付の院達についてだが、これとて何も情報操作などを意図して公表しなかったわけではない。いかなる運動であれ、情勢判断は不可欠の要件である。この院達にかぎらず、継命への院達は公表する価値を認めなかったにすぎない。佐藤氏の論法では、例えば、ガンの病人を心配して、病名を知らせぬことも情報操作になってしまう」と述べていますが、詭弁もここに極まれりの感がいたします。
 そもそも「情勢判断」とは、いったい何のことでしょう。全国の御僧侶方や檀徒の方達が真相を知って動揺するのではないか、との情勢判断をつけたとするならば、それこそ情報操作以外の何物でもないではありませんか。
 ことに、「ガンの病人を心配して病名を知らせぬ」という譬えを引かれていることよりすれば、『継命』関係者の方々は名医で、他の僧俗はガンに犯された病人、そして病人に真の病名を知らせれば動揺して活力を失う(すなわち覚醒運動を続行する気持を失う)、ゆえに真実ありのままは公表してこなかった、との図式が容易に成立するのであります。
 これを情報操作といわずして、何といえばよいのでしょうか。人を馬鹿にするにも、ほどがあると思います。
 それに、私が「情報操作」として指摘したのは、けっして『継命』が院達を公表しなかった点ではありません。日達上人の命によって送付された院達に対し、まったく愚弄・挑戦的な態度で応じたばかりか、「本山・日達上人と徹底的に闘う」と発言してはばからず、そのくせ紙上には、あたかも自分達の活動が日達上人の御意に添ったものであるかのごとき記事を掲載し続けたことを、「情報操作」であると批判したのです。
 それを、あたかも私が「情報操作」であるとして指摘したのが、院達を公表しなかったことだけであるかのごとくスリ換え、読者の目を欺(あざむ)いてしまおうというやり方は、かの山崎弁護士の恐喝事件の際に見られた某学会幹部の発言と変わるところがありません。これを称して恥知らず≠ニいうのです。

短絡思考が御真意歪める


 また、当該記事中、「日達上人の御真意にせよ、学会の師弟論を厳しく破折された妙流寺での最期の御説法を拝すれば、奈辺(なへん)にあるか明白であろう」と述べていますが、ここにも『継命』関係者の短絡思考ぶりというか、苦しい言い逃れがうかがえます。
 まず、いわゆる「5・3」の後、日達上人が学会に対しどのような御考えをもっておられたか、という点ですが、それは前回に引用した日達上人御指南からいけば、
 @今後、学会がどのようにしていくのか、大きな包容力をもって見守っていく
 Aしたがって、宗門としても「5・3」以前のような態度で、学会員を檀徒にすべく責め続けてはならない
 B学会が再び謗法化の路線をたどらぬかぎり、本宗信徒の団体として受け入れていく
との御意であったと拝せられます。
 これが学会のそれまでの誤りをなかったことにするとか、学会員に対し一言も善導してはならぬといった趣旨でないことはもちろんで、学会を本宗信徒の団体として暖かく見守っていくうえから、これまでの誤りを正して本来の日蓮正宗の信心を教示すべきは当然、と拝するのであります。
 さて、五十四年七月十七日の九州・妙流寺における日達上人の御説法ですが、これは、『下山御消息』につき懇切に御説法あそばされたなかで、報恩に関する御金言によせて、
 「よく学会の人が間違ったことを言いますね。『師匠が地獄へ行ったら自分も地獄に行っても良い』という考えは大変な間違いてあります。よく考えなければいけません。そのような考えは、人を信じて法を信じないということであります。もしも師匠が地獄へ落ちたならば、自分が本当の信心によって救ってやろうということこそ師匠に対する報恩であります」
と仰せられ、仏法信仰者の正しいあり方を学会員に御教示くださったわけです。これとて、心静かに拝するならば、なにも学会を謗法の団体・無慙(むざん)集団として否定し去ったり、「5・3」の意義を翻(ひるがえ)されたわけでもありません。学会を大きな気持で受け入れつつ、しかも正しい信心のあり方へと善導なさっておられることは明白です。
 これこそ、日達上人が常に御身をもって示されていた本来の正信覚醒≠フ姿であり、「5・3」の直後から、その意義を全面否定するような形で「学会は、ついに何一つ反省を示さなかったのである。……この期に及んでなおも日和見、かつは無慙集団≠ノ荷担、ないしは庇(かば)い立てるものは、もはや大聖人の弟子たりえない」と檄をとばした『継命』第2号の論調とは雲泥の違いであります。
 また、その『雲泥の違い』故に、日達上人の命によって54年6月16日付院達3047号が発せられ、あるいは54年7月の「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ」との御指南があったともいえましょう。
 しかるに、妙流寺での御説法中に「学会」の二文字を見つけては、日達上人の御真意が「奈辺にあるか明白であろう。その御遺志を体し、一貫して『護法』の二字を追求してきた覚醒運動の正しさ」云々などという『継命』当該記事は、まったくの短絡思考であり、苦しい言い逃れとしかいえないのであります。

覚醒運動の変貌が与える影響


 もっとも、当該記事中、「それ(※覚醒運動の正しさ)は何よりも、今や公然と池田指導体制が復活した学会の現実をみれば、歴然としているではないか」云々と述べられている点につきましては、少々考えねばならぬと思います。
 すなわち池田大作氏引責辞職の直後、4月28日の日達上人お言葉には
 「(池田氏が)会長を辞めて一切の責任を退く、今後はそういうことに口を出さない、また噂される院政説ということも絶対にしない――ということを表明してくれました。それで宗内としても、いちおう解決したものと思います」
と仰せられているにも拘わらず、現在の学会の状態は、実質的に「公然と池田指導体制が復活」しているようにも思えます。
 しかも、最近発行の『聖教新聞』所載の今週のことば≠ナは、宗門が未曾有(みぞう)の混乱状態のさなかにあるというのに「ついに我々は勝った!」という不審きわまりない指導が流されており、これが宗門を騒がせた一方の当事者の真に懺悔(ざんげ)反省している姿であろうか、もしや、再び五十二年のごとき学会路線が復活するのでは――との疑念が込み上げてきます。
 日達上人も、五十四年五月二十九日のお言葉において
 「しばらく(※学会の)様子を見なければならないと思うのであります。まだ新しい学会の執行部ができたばかりでありまして、いちおうは受け入れておっても、ただちに変更すれば誰でも疑いを持ちますから、すぐには(※逸脱路線の復活は)できないでしょう」
と仰せられ、基本的には大きな気持で学会を受け入れつつも、長い眼で学会の出方を見極めなければならぬ、との御意でしたが、やはり私どもも現在から将来に向けて、まだまだ学会の方向性を厳しく見守っていかねばならない、と思うのであります。
 しかしながら、このように現在の学会に不審な点があるからといって、それが「覚醒運動の正しさ」を証明しているとは思えません。むしろ、今日のごとく覚醒運動が変貌してきたが故に、なおのこと「やはり学会には一点も誤りはなかった、池田先生の正しさが証明された、ついに学会は勝った」等々と開き直り、懺悔できなくなった学会員も多いのであります。
 そうした学会の姿を見て、「やはり覚醒運動は正しかった、学会にはまったく懺悔がない」と責めるのでしたら、これは、もはや、いずれか一方が力を失って倒れるまで続く、終わりのない永久戦争です。行きつく先は、学会・檀徒そして正信会も含む全宗門の疲弊(ひへい)という、悲しむべき事態でありましょう。
 それを回避するためにも、今日のごとく変貌した正信覚醒運動の実態を明らかにし、本来、日達上人の御示しくださっていた路線へと復帰せしめることが、もっとも急務であると考える次第であります。

姑息(こそく)な策略はせぬが賢明


 最後になりましたが、『継命』当該記事中、「だぶん羽柴増穂氏あたりをニュースソースとしているのであろうが」との一文が見られますが、『継命』編集スタッフの方々は、ちょうど「こわい」と思って見ると、まわりのススキがすべて幽霊に見えるのと変わらぬ心境のようであります。私が前回までに指摘してきた事実は、もとより羽柴氏を情報源とするものではありませんでしたが、それをやみくもに羽柴氏に結びつけて考えるあたり、何か不透明な部分が感じられてなりません。
 また、やがては、羽柴氏は学会の送ったスパイてあり、すべての正信会および『継命』への批判は羽柴氏の謀略である、とでも始めるつもりなのかも知れませんが、大衆は愚にして賢であります。そうしたスリ換えとごまかしによって、いつまでも読者を欺(あざむ)くことはできませんので、ならば最初から姑息(こそく)な策はとらぬ方が賢明である、とだけ御忠告申し上げておきましょう。

狂人走って不狂人走る…

 以上、『継命』に対する論駁(ろんばく)として貴重な頁をさいてしまいましたが、今後、この種の反論にもならぬ反論、批判にもならぬ批判がありましても、そのつど、まともに相手をしていることもできません(教義上からの問題なら別です)ので、読者諸賢も御了承ください。先方にしてみれば、その内容よりも、論説欄に「誹謗論文を破す」などという大仰な見出しをつけ、『継命』読者に「いかに『暁鐘』が間違っているか」との印象を植えつければよいのかもしれませんが、それに逐一、再反論して誤りを糺していたら、あたかも狂人走って不狂人走るの愚行に陥ると思うのであります。