Homosexual stalker koikawa

肥川一浩関与の崩壊

で、こんなやつがサバゲチームとか集団に入るとこんな事になる

サルートとは
 ここはサルートの誕生から休会に至る推移を年ごとに追った年表です。
 記載漏れがあれば、御一報下さい。必ず反映します。
 サルートとは、94年秋から97年秋まで活動し、現在休会しているサバイバルゲームチームです。
 本拠地は久留米市のほぼ中央に位置するK歯科医院宅、発足後しばらくはチームリーダーはF氏でした。
 チーム固有のフィールドは無く、他チームのフィールドへ参戦する遠征型のチームでした。
 (以前は高良台自衛隊演習場があったのですが・・・・)
 チーム名と装備に関してはN氏とS氏が米軍用語集から採り、統一装備は単一でウッドランドY字サスペンダー、
 ブッシュハット(戦闘時)、マルーンベレー(非戦闘時)で服装は統一され、銃もライフルはM-16(VN)、 サイドアームはベレッタ92F(メーカーは不問)でした。
 左腕にサルートマークワッペン、左胸ポケット上にSALUTEの右胸ポケット上に『go for a broken』のチーム名 ワッペンをつけていました。
 チーム運営を潤滑にするため会費制をとっていました。
 月千円徴収し肥川氏の名義で郵便局に開設したサルート基金にプールし、遠征の旅費・食費等の雑費に充てていました。

これにより遠征による個人の出費をかなり押さえることができました。

出納帳も用意し、初期は厳密に管理されていました。

運営方式は初期においては合議制であり隊員の合意がなければリーダーの意向も認可されませんでした。

これは、老若平等にするため、独裁を防止するためでもありました。
更に特筆すべきは、全員がインカムを装備していることです。これは当時大変珍しいことでした。
しばらくすると、連絡が比較的取り易いチームリーダーに肥川氏が専任。
しばらくは活動していましたが、このように興味深いサルートも今となっては休会状態となっています。
早い正常化復活を望んでいるところです。

興隆期
95年の出来事
 この年の活動ですが、前半は第2回九州大会、後半はバンガードに備えたものでした。
 夏まではチーム戦術強化のために船小屋のほかにSWATフィールド等に参加し鍛錬に励みました。
 実隊員数も10名以上となりましたので、3班に分け夫々に班長をおきました。
 但し固定したものでは無くゲーム毎に変えていました。
 これは個々の戦術レベルを上げるとともに、班長不在時の戦力低下を防ぐ狙いもありました。
 インカムもこの時期に全員に行き渡り、同時に無線符丁もきめ、呼び出し符丁は隊員番号をあて、 同時に装備の方も夏には統一され(半ば中山浩一郎氏とS氏の強制でしたが・・)
 チームシンボルも数案あったものから猿のデザインのものに決められました。
 チームシンボル決定と同時にワッペン(帽子用、腕用)が作成されました。サルートの代名詞となったマルーン帽もこの時期に調達されました。
 さて、九州大会ですが、RBWのY氏の御好意と肥川一浩氏の売り込みにより運営委員に入れて頂きました。
 ほんの微力ですが、お手伝いできました。
 ところで、サルートは本大会まで正式なチームリーダーを決めていなかったのですが、色々と不都合が発生したので大会開会式直前急遽、話し合いをし、最年長であるという事で肥川一浩氏にチームリーダー職を任せることに決定しました。
この決定が装備の統一問題とさらに連絡網の遅延と絡んでサルート崩壊の遠因になろうとは、この時点では誰も分かりませんでした。

興隆期(その2)95年の出来事
 第2回九州大会には、前日から佐賀RBWの方々と会場に設営等の準備のため入りました。
 サルートはトーチカ(土嚢積み)設営を主に手伝いました。
 驚くことに、半日で残り全ての設備をなんとか完成させることが完成させることが出来ました。
 Y氏をはじめとする佐賀RBWの方々の努力には頭がさがりました。
 ところで大会開催日の朝、困ったことが発生しました。
 それは大会運営部にチームリーダーを登録せねばならなく」なったことです。
 旧来サルートには絶対チームリーダーを置かない方針があったので、これに反するためです。
 それではRBWに迷惑をかけるので、急遽メンバーのなかで一番年長である上に、歯科医という社会的責任ある職業に就いているので問題はないだろうということで肥川氏にリーダーにリーダーになってもらうことにしました。
 さて大会の内容ですが、1チーム40名超えるゲームに慣れてなかったためと、大会のお手伝いで右往左往しているうちに終わったという感じでした。
 大会中の天候は良好でしたが、ただ季節はずれ台風が接近していたので2日目は風が強く大量の埃とバイオBB弾によって銃の故障が続発し、大会が終わるころには稼動する銃がチームで皆無という状態となり最後の総当りゲームには参加せず久留米に帰りました。
 その後の銃の修理には大変苦労したようでF氏、S氏の努力には感謝!!
 総括としてこの大会のおかげで福岡県のサバイバルゲーム界が活発になり、船小屋に来られるチームが増えて良かったものと思います。
 ただ、この規模の大会が九州で行われたのがこれが最後だったのは、大変残念に思います。
 この時期チーム規則を不文律だったものを成文化し、且つ九州大会用の臨時のものであったリーダー役を正式なものとし、仮代表であったF氏から肥川一浩氏へバトンタッチされた。
 メンバーも10名を超え順風満帆であるように見えたサルートですが、更にメンバーを増やす派と現状維持派とで装備統一の面で小さな亀裂が生じたのはこの年の忘年会の時でした。
 結局肥川氏は仲裁出来ずS氏を含め数名離脱の原因となった事件でした。