どうも、石田氏の所論は大石寺傍系の教学オタクに熱心に支持されているようですね。特に正信賊系には好評のようで、私も二冊ばかり氏の著作を読んだのだが、ハッキリ云って何を論じたいのかさっぱりワカラナイのである。

本人は正論を論じたと悦に入っているようなのだが、仏教用語にわざわざサンスクリットで註釈をしてみたり必要の無いことを書くことによって論理の道筋がちぐはぐになっていることに気が付いておらなかったようでありますな。

結論から云うと石田次男氏は脳乱していたものではあるまいか。日蓮正宗本体を六師外道義に染まった謗法のごとく論じ、返す刀で同じく池田創賊を外道義の謗法と論じ、結局自分だけが正しい仏法を知っていると講釈を垂れているのである。

是れ、附仏教・学仏法成の徒輩の現証であり増上漫の極致であろうと思われる。以前どこかの法華講員と称するものから石田次男氏の所論についての問い合わせを受けたことがあったが、氏の論は本人にしか理解出来ない堕論であり、正気の者には理解不能であると返事をしておいた。(笑)、

「宇宙法界」と云う言葉は日顕上人が、法界三千を説明するさいには使用しても構わないと御指南されたことがあり、創賊が「宇宙法界」という言葉を使っているから本宗では使用しない、というのは本末転倒であろうと思う。

宗祖の仏法は宇宙という範疇を超克したものであり法界三千の依正の当体悉く一微塵から大宇宙の総体に至るまで縦(時間)に非ず、横(空間)に非ず、と止観に説かれたごとく凡夫の思考では及ばない壮大な思想である。

宇宙的な空間的認識ですべてが理解出来るものではなく、因・縁・果という時間的思考で捉えられるものでもなかろう。要は中道的な思考によって初めて近づくことが出来、御本尊を拝して行に邁進して会得するものである。


宗祖の教えは「絶待の真理」を開顕されたものである。宗祖の曼陀羅法門が絶待の真理であるならば御本尊は〝絶対的な一元論〟と言い得るが、阿仏房の逝去後に千日尼に宛てられた御指南には「仏の寂光土に於て南面に座して候」と、相対的二元論も説かれている。

このあたりの宗祖の思考は二面性が備わっているようにも思えるが、信徒教導の〝方用方便〟もしくは世界悉檀・随方毘尼の戒と考えられるべきであり、方便と真如を混同してはならないだろう。これはやはり師弟の相対によって獲得出来るものであり常に師(住職)の教えに親しむべきことが重要であろう。

宗祖の教えにも二面性があり、大乗仏教の真理である〝空〟の一面から理解した人、本宗では「日蓮本仏論」の福重照平師(大阪の大信者・荒木清勇居士の子息)等がおり仏法の論理的構造を般若部に求めた人や、法界三千の微塵から壮大なる宇宙法界の全体を一人格の仏身と論じた密教的解釈を講じた人もいる。

しかし、どれをとっても一片の認識にすぎず、そもそも法界三千の真如など口で説明できるものではあるまい。凡夫が口で説明出来たら仏は不要である。(笑)、であるが故に仏は御自身の悟りを一幅の御本尊として顕わし、大曼陀羅との境智冥合という境界に入ったものだけが認識できるのではあるまいか。