06年6月、「古今東西、慰安婦はいても従軍慰安婦はいかなった」との上田知事の県議会答弁を受け(館長は「館の自己判断」と否定)、東松山市の埼玉県平和資料館が年表表記の「従軍慰安婦」を「慰安婦」に書き替えたことで、米下院でも証言した元従軍慰安婦とされた李容洙さんが3月1日、同館を訪れ文書で「要望書」を手渡し抗議と共に表記を復元するよう申し入れた。
『隠蔽箇所』を指摘する李容洙さん(県平和資料館で筆者写す)
この問題の発端は知事の議会答弁から始まり、館はその直後に「運営協議会」(第三者機関)に提案したが、当初、書換えに賛成の意見はなく女性委員からは女性の立場から「『いわゆる』という言葉などを入れてでも残して欲しい」との発言もあったが、その後、何度かの「運営協議会」を経て最終的に館の判断で書き替えた。
「上田知事の歴史認識を問う県民連絡会」や「埼玉県平和資料館を考える会」などが、「単なる『慰安婦』で強制の事実があった事が伝わらない」と元の表現に戻すよう再三申し入れや面談をしてきた。
しかし、館は「慰安婦の表現には強制の事実も含む」との解釈を譲らず今日に至っている。今回、改めてご本人の証言と声を館に訴えるため李容洙さんが来日し、自ら拉致の体験とその苦しかった人生を語り、表記を復元するよう強く訴えた。「なぜ、高齢の私が韓国から来てお願いしなくてはならないのか」とも訴えた。
しかし、館は譲らず休憩後、館から「運営協議会に李容洙さんの来館とその要望、運営協議会での発言要請があった事を伝える」との回答があった。
「このように首を絞められ、日本兵に拉致された」と説明する李容洙さん(県平和資料館で)
その後、同市内の「市民活動センター」に移り、「3・1独立宣言90周年 『従軍慰安婦』問題を問う3・1市民集会」が開かれ185人が参加し、「県資料館」での面談報告や、李容洙さんの講演(証言)があった。
当時15歳だった李容洙さんは80歳になり、日本兵に拉致された当時の話しから始まり、日本兵の乗った船底に他の女性たちと詰め込まれ、1946年に帰国するまでの生活や、その後、現在に至るまでの苦しい辛い人生を証言した。
韓国には「過ちは許すが忘れない」という言葉があり、李容洙さんは責任追及に来たのではなく、その歴史を隠さず事実をしっかり後世に伝えて欲しいと訴えた。
(記者私見)
李容洙さんは抗議や責任追及に来たのではなく、「事実を隠さず教訓として生かすために、後世に伝えて欲しい」と県資料館を訪れた。しかし、同席した私は館側の態度に憤りと共に、日本人として情けなく恥ずかしく思った。
会場いっぱいの「集会参加者」
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