二丁拳銃唐田のサイト]友愛社エ国境なき友愛団体ィ地球人類皆兄弟曹ンんな仲良く笑って暮らせ。茸

特集、九月一日から第一回?唐田知明のコメントが始まる。親友の真樹日左夫からョ電話があった。関西にライバルが現れたので闘志が沸いてきた。要するに、TBSのサンジャポが、読売のミヤネ屋に喧嘩を売って来た訳だ。喧嘩か上等だ瘤けて立とうじゃあないか。すると、次にタイガーマスク佐山悟から電話があり、唐田サンは有名になったんだからョ昔のような無茶をしないようにと、忠告された。癈十九日午後2時4○分ョ読売テレビミヤネ屋の番組で放映?恫喝事件の顛末?瘰^相のカテゴリーに迫る。俺が何故、島田紳助が定住している能勢町に住むようになったかョその点の経緯から説明しよう。何故なら事件の発端が、そこに秘められているからだ。今回のテレビ放映で俺はョ誹謗中傷の渦中に存在することになった。俺は既に、二十数年前、暴力団の社会から脱却しョ市井の人間の一人として生きてるつもりだ。紳助を脅したり金品を要求するような言動は一切ない。島田紳助の唐突な引退宣言に、大象は騒然としていた。現役ヤクザ組長との交遊が暴露され芸能界を引退する決意を明らかにしたこの問題の大きな要因は、山口組幹部との繋がりだが、その当時俺も、島田紳助恫喝事件で、マスコミに叩かれていた。その時ョ彼に警告しておいたョ君は、芸能人だから、現役のヤクザと交際したりョ組織の名前を出しては、君が不利な立場に追い込まれるだけだだから決して、組の名前を出してはいけない。と、諭してやったことがある。彼はその後、そうゆう関係を断ち切り、芸能活動に励んでいたから安心していたがョ今更、何故問題をぶり返ししたのか定かでない。そこには、陰密な謎が潜んでいる筈だ。大阪府知事の問題などが見え隠れしている。仮にョ彼の第二の人生が、どんな人生であろうと、最後まで戦ってくれ。島田紳助と言う男は、聡明で、律儀さを兼ね備えた立派な若者だと直感的に感じていた。その通り彼はョ此方の要望を叶えてくれョ村の住民たちも皆喜んでいた。恫喝事件の顛末を少し話して置く。紳助は、俺が彼の自宅を訪問したことに、誤解していたようだ。そこらのオッサンが、タカりか押し売りに来た。と、勘違いして高飛車に出たのだろうョ訪問の理由が判ると速やかに冷静を保ちョ要件を理解した彼は、迅速な対応で、解決してくれた。続くィ闇に蠢くヤクザの陰謀ィ大阪駅前白昼射殺事件の真相に迫る。?此処に登場する二人の人物、生島久次ョ小西邦彦とはョ昭和三十七年瘟エが京都刑務所を出るまでの二年間癈ッじ工場で、刑務所生活を共にした仲間だった。生島と小西は、刑務所の中で兄弟分の契りを結び、出所後、彼らは、共同戦線を張って暗躍したのである。碾1996年8月26日午後4時過ぎ、大阪の表玄関口で、パン、パンパンパョンと、突然銃声が轟いた。そこに居合わせた買い物客が驚いて振り返ると、背広姿の男が、二、三歩後ずさりした後、そのまま仰向けに倒れた。その脇にいた男が、透かさず両手に拳銃を構え、立て続けに二、三発発射、その銃口の先で若い男が、二、三メートル後ろに吹っ飛んだ。撃たれた二人の男の周りにはたちまち血の海が広がり、間もなく死亡したこの間数十秒ョ目の前で繰り広げられた一瞬の光景は、決してヤクザ映画のロケ風景ではなかった。白昼。大都会のど真ん中で起きた本当の銃撃戦だった。事件が起きたのはョ夏休みもいよいよ終わりに近づいた8月26日午後4時過ぎ、場所は、大阪市北区大阪駅前第三ビル前の路上だった。やがて、この白昼の銃撃戦で死亡した一方の年配の男の名前が知れョ少なからず関係者を驚かせた。その男は、仲間内で、サョジ痰ニ呼ばれていた山口組内菅谷組系ョ暴力団生島組の生島久次組長?当時56歳、本名ョ高祐英だったからである。菅谷組が分裂してからは、一時、独立独歩で不動産や金融の仕事に兄弟分の小西と携わっていた。小西は、金田組の組員となっていたが、金田組が衰退するとョ豹変して菅谷組に移籍すると言う早業だった。小西は、時の権力者を背景に暗躍しョ最後は同和地区に潜伏、部落解放同盟を利用して飛鳥地区の会長の地位を取得したそれからの彼らは、莫大な富と財を為したのである。サョジこと生島久次は、米軍沖縄基地で盗まれた大量の拳銃購入事件に絡んで八十三年五月ョ生島が個人名で利用していた三和銀行玉出支店、大阪市西成区、と同行大阪支店、同市内北区の貸金庫から拳銃十二丁ョ実弾七十五発が見つかった事件で、大阪府警から指名手配され、行方を眩ましたまま九○年五月ョ時効が成立、この間、八十四年に引退しョ生島組は実弟の生島仁吉に譲っていた。銃撃戦で生き残った襲撃犯の一人は、やはり山口組系山健組内大田興行系列の侠友会の組員であった。銃撃戦の顛末は、侠友会の坂本組員が同じ侠友会の武田信夫、若頭補佐、と二人で、生島久次組長を殺害する目的で、大阪駅前第三ビル前で待ち伏せ。犯行に及んだところ、生島組長のボディーガードをしていた生島組の古市明ョ元組員38歳〜当時に応戦され、撃たれた坂本組員が死亡したと言うものだった。古市組員は現場から逃亡したままである。何故、銃撃戦の現場が大阪駅前第三ビルかというと、生島が会長として実質的に経営する不動産会社?日本不動産地所?が駅前第三ビルの一五階にあったからで、古市組員は同社の社員だった。次回続く碾
この白昼の銃撃戦は、簡単に出来るものではなく、これにはよほどの怨恨が背景にあると見られた。
その一つとして双方の顔ぶれからすぐ浮かび上がったのはョ十数年前の復讐戦だった。生島のボディーガードをしていた古市は、八三年十月、大阪空港で、韓国旅行から帰国しョ出迎えの車に乗り込んだ侠友会の鶴城郁夫、初代会長ョ本名金栄哲ョ当時、四十六歳を殺害しようとして拳銃を発射したが、車の窓が防弾ガラスだった為、弾が跳ね返り、未遂に終わってそのまま逃亡。大阪府警から殺人未遂容疑で指名手配されていた男だった。
この時、難を逃れた鶴城郁夫、初代侠友会会長は、翌八十四年二月にも、大阪ミナミで何者かに狙撃され重傷を負って入院したが、その傷が原因で死亡した碾こうしたことからョ時効で逃亡生活を終え、表に出て来て、これまでの仕事、日本不動産地所?の経営に再び関わっていた生島久次を発見、付け狙い犯行に及んだのではないかと見られたのである碾生島を狙った実行犯の二人は、共に群馬県出身の同級生、同県内にあった住吉連合会傘下の暴力団組員だったが、破門処分を受け、知人の紹介で侠友会組員になったと言う経緯がある。
事実、逮捕された武田若頭補佐はョ取り調べにョ犯行の約二か月前から付け狙いョ先代鶴城郁夫の恨みを晴らして男になりたかつた。とョ供述したと言う。だが、これはあくまで表向きの理由で、内実は最っとドロードロしたものではないか、と見る捜査関係者もいた。それはョ生島久次の豊富な資金力に関係している。生島は、小西がョ部落解放同盟の飛鳥支部長になってから急激に資金力が豊かになって行った。
部落解放同盟の税金対策を利用して莫大な資金を蓄積していた。
去る七○年頃ョ生島組を結成した生島久次は、現役時代から金融業や会社整理を手掛け、七○代から八十年代にかけて、活発に不動産買収や債権回収を行うなど、今で言う経済ヤクザの走りだった。 生島が、オョナョとして経営していた!?日本不動産地所の直近の決裁書によるとョバブル崩壊後の不動産不況にも関わらず、当期利益二億四千五百万円を上げ、五十六億円もの貸付金を計上、実に盛んな活動を裏付けていた。
当然のことだが、組関係と不動産や金銭貸付の取り引き関係があって、襲撃事件は金銭、或いは土地取り引きを巡ぐるトラブルが原因との説もあった。
その内部事情は、ともかく、ヤクザに狙われるほど生島の経済活動を支えてきたものがあった。それはョ資産形成には絶対必要な税金対策である。
生島は、税務署への申告はフリーパスョ兄弟分小西邦彦が控えていたからである。
生島が経営する企業全てが、部落解放同盟に属する業者団体であった。実際に、日本不動産地所は長年に渡って販売実績がなく、税務署には売り上げゼロの申告をしていた。 八十八年十一月決算で初めてョ金融収入を売り上げに計上しョそれまでのゼロから脱した。
大阪の信用調査関係者からの情報。碼ィ 行政当局に絶対的な力を持ってきた部落解放同盟系業者団体との関係からョ現役のヤクザ組長だったにもかかわらず七十九年十月、大阪市再開発建築施設買い入れ融資制度による大阪市の斡旋で、三和銀行から約9000万円の融資を受け、大阪駅前第三ビルの十五階フロアを大阪市から一億五百六○万円で購入したョこの物件こそ当にョ今回熾烈な銃撃戦を引き起こした要塞だったのだである。
小西邦彦のオフィスも、同ビルの地下二階にプライベートのフロアとして豪華な調度品で飾られていた。俺も二ョ三度ョ小西のオフィスを訪問したことがあった。
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八十三年、大阪空港で古市が襲った鶴城郁夫殺人未遂事件では、事実上の生島組事務所として第三ビルの日本不動産地所が家宅捜索されている。
生島は、イトマン事件で逮捕された許永中被告とも親交が深く、許被告が、関西地下経済界の黒幕として名前が出る前からョ大阪府下の池田にあった自宅を担保に資金を提供したり、コリアタウンョ建設を夢見た大阪市内中崎町の地上げに融資するなど、スポンサー役を果たしてきた。
許は、山口組直参の古川組相談役の肩書きを持っていたが、捜査当局作成の人脈チャートにョ生島組相談役としても登場したほどだった。こうしたことからョ関係者の間では、許永中は、生島に約2○○億円の借金があったと言うのが定説になっており、駅前襲撃事件は、許永中絡みとする説も流れた。続く?
山口組四代目組長竹中正久暗殺事件の鍵を握る?小西邦彦の素顔。
1985年1月ョ山口組四代目を襲名した竹中正久組長が襲撃された壮絶な事件の真相は、未だ謎の中に迷走している。事件の現場になった大阪府吹田市江坂町二ョマンションGSハイム第二江坂五○八号は、小西邦彦、部落解放同盟飛鳥支部長が、マンションの借り主で、竹中四代目の愛人エヌ子ョ当時31歳を住まわせョ竹中組長も、小西邦彦を名乗って、同マンションに出入りしていた。
これは明らかに、見えざる敵の巧妙な戦術であった。
こうした陰惨な計略の中で実行された襲撃事件であった。
昭和の時代に一石を投じた覇者たちの熾烈な闘争は、今や数少ないョしかし、眠れる獅子がョいつ、牙を剥き出すか、予断は許さないのが現実のヤクザ社会である。次回?
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昭和時代の興業界を支配した、山口組三代目田岡親分、吉本興行初代林社長、力道山、東富士、ボブーなどの侠たちの業績があてから現在吉本興行が存在しているのである」俺も、林社長と二度会ったことがあるがなかなかの人物であった」

東声会初代会長
町井久之
昭和三十二年ョ愚連隊を統合し東亜民族の団決を誓って決起した東声会も昭和41年解散声明を警視庁に提出名実共に解散、町井久之は現役を退いた。だが、東声会は東亜友愛と名称を変更し沖田守弘が理事長に就任して再出発したラ新宿伊藤興行初代会長伊藤晃と共に独自な路線を疾走したのである。
昭和47年7月、東京六本木の一角に一際目立っ異様な建物、東亜ビルョこれが町井久之の要塞だョ」昭和47年7月同ビルにて財界人のクラブハウスがーオョブンした」司会は業界随一を誇るNHK看板アナウンサー宮田輝の司会で開幕した」運行委員はョ東急電鉄社長、五島昇ョ西武百貨店の堤清二ョ三越の岡田茂社長とョ自民党の幹事長園田直がカンバイの音頭をとって祝杯が上げられた。接待客は、総数7千数百人に及んだ。町井久之の絶調期である。東声会を解散しョ僅か6年の短期間で町井久之は大々的な変身を遂げたのである。町井は日韓両国の政財界の人脈を利用してョ悠然と表社会へと踊りでたのである。昭和三八年、山口組三代目田岡一雄の舎弟になった町井は、本来山口組の一問だったが、前人未到の快挙を遂げた町井久之が現役を退くことで、山口組に菱形の代紋を返上しョ従来使用していた○に東の代紋を着用することになつた。しかし、組の実権は町井が握っていた。副会長平野富士松ョ理事長沖田守弘、事務局長ョ二村昭平、で独自の路線を進んだラこうして権力の頂点を極めた町井は、悠々自適な生活を営みョ表の顔は実業界チ裏の顔は獣道とゆう極めて斬新な二頭戦術を駆使したラ我々は裏社会で獣に飼育された野獣の群れだったのだ。^次回昭和4○年前後から十年近く、関西追放の逆境の中で、流浪の旅をしていた俺をョ新宿の伊藤の親父が取り直して波紋追放の処分が解け、現役に復帰することになつた。町井久之は、韓国政財界や児玉たちを利用して莫大な資産を築き上げたがョその資産の全てが大海の泡となってしまった。町井は、劣悪な環境の中で、ひたすら頑張って、覇者の権威を勝ち取ったのだ。町井はそう自負していた。青年時代はョ反共運動で戦い、その後は、愚連隊から銀座の虎と恐れられ過激な集団へと変化を遂げて行くことになつた。その町井を影から操っていたのがョ銀座の魔女とゆわれた妻のヤスヨである。しかし、ヤスヨの内助の功も儚く、二○○二年九月ョ町井久之は、79歳の生涯を閉じた。俺は訃報を聞いて、上京し初七日の法要を済ませて帰省したョだが、六本木に聳え立つ要塞は、今は跡形もなく廃墟と化していた。そこには、栄華を誇った覇者の面影はない。俺の脳裏に去来する世俗の儚さョ栄華盛衰の無情は万感胸に迫る思いであった。町井が全盛期に貢献した韓国大統領との遊侠の美談も夢のまた夢と消え失せたラ町井久之とゆう一人の侠が築き上げた牙城は、彼の墓標ともに消え去りョ地位と名声は、彼自身の手腕と才覚が成し遂げた栄華だった。だが、仮面の裏の顔は銀座の虎、猛牛と恐れられョ斯界の覇者として君臨したことも事実である。俺たち若い者は、町井の裏の顔に帰属した獣の集団に過ぎなかった。東声会青年隊長、藤田五郎、少年愚連隊の三木ヒロム、児玉と町井の陰謀の裏で、田中清玄暗殺の指示を受けて、実行した木下睦男、花形を殺害した小倉光男。この二人とは兄弟の関係にあった。新宿に蠢く若者たち、きらびやかに塗り込められたヤクザの欺瞞、ネオンの輝きに浮き上がる若者の街、新宿を舞台に繰り広げられた悲惨な抗争の中で若者たちの命が散って行った。昭和三二年、日本陸軍中将石原莞爾の思想に共鳴した町井が、自ら立ち上げた組織を解散、残された若者は、愚連隊ヤクザとして活路を開いた。この若者の一軍は、過激な集団となって暗躍し裏社会に台頭したョ無頼の若者の集団に青春を熱燃した幾多な青年たちの命が散って行ったのである。夜の新宿若者の街角ョ若者と戯れた新宿の街を俺は、一生忘れないだろう。
三声会会長三木ヒロムが立ち上げた少年愚連隊の組織であるョこの少年愚連隊が拮抗する中で住吉会と東声会の確執が拡大し、対立抗争事件へと展開しョ昭和三六年十月三木ヒロムは、暗殺者の襲撃によって無惨な死を遂げた。兄貴分の台湾国籍陳共々斬殺されたのであるラこの事件の細部は、実話時代に連載していたので、次回に掲載する。
少年愚連隊を率いた三声会会長三木ヒロムは、23年の生涯を閉じた。その時、現場にいた兄貴分も絶命した。 数百人の部下を従え闊歩する三木ヒロムは、新宿の帝王と謳われていた。彼の生き様は、時代の寵児と怖れていた。彼は東声会組員の中でも異色な存在であったラ弱肉強食こそ人間の世界だョ潰せるものは潰して奪い取る、と言う強硬手段で突破した三木ヒロムは、人海戦術を攻撃手段として戦う実利主義者だったラこの事件から報復に備える藤田五郎、始め、数命の犠牲者を出すことになったドキュメンタリーの映像は、現在企画中である。
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