design & philosophy
最近、ツイッター上で、その効果が科学的に証明されていないとして、さまざまな「療法」を否定する動きが広がっている。そうした批判の多くは、こうすれば放射能を防げますとか、こうすれば病気を予防できます、直せます、などという話をする人たちを、科学の観点から一刀両断にする。
私はそうした「科学的立場」からのなで切りにどうも違和感を覚える。というのも私自身、そうしたいわば「非科学的」療法に救われた経験があるからだ。数年前に私は突発性難聴によって左耳が聞こえなくなった。すぐに耳鼻科に行って治療を始めたために聞こえるようにはなったが、周波数によって感度が変動し、音が歪み、耳鳴りもして、とても生きた心地がしなかった。しかし近代医学は、もうこれ以上治療の方法がないという。後遺症は治らない宣言だ。
そこでさまざまな民間療法に当たることにした。刺さない針、気功、体操、キムチ納豆、イメージトレーニング、ハーブ、ドイツの謎の鉱物、ありとあらゆるものを試した。そうすること数年、左耳はすっかり健康になった。どれが利いたか分からない。あるいは全部効かなかったのかもしれない。しかし一部のものについては効果を主観的に実感し、最終的に完治したのは事実である。
患者にとって、科学的に効果が証明されているかどうかは最終的な関心事ではない。科学的に証明されている薬物でも効かなかったり悪化したりするし、そうでない物質でも改善に向かうことがある。とにかく病気が予防できたり、今の自分の症状が治ればよいのである。効果が証明されるかどうかは、自分の身体で実験すれば十分なのである。
考えてみるに、効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。その薬物が目の前にいる、ある状況にあるこの個人(私)に効くかどうかについては、検証していないのである。統計的に有意でなくても、この今の私には効くかもしれない。その可能性を否定する実験は為されていない。
とすれば、科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することはできないことになる。科学的に効果が証明されていない物質を摂取して、それでぴんぴんになってしまう個別の可能性を、科学的証明は排除できない。「非科学的」だとの批判は、それが科学的な根拠を持たないという意味で、それ自身非科学的なのである。
これはまた、科学的にみて安全、という言い方もまた非科学的となりうる局面を示唆している。それは統計的にみて有意な差が得られないという意味であって、その物質が目の前にいるこの人に対して安全かどうかを検証したものではない。たとえその人が何かの特異体質を持っていてイチコロで死んだとしても、膨大な母数がその「例外」を吸収してしまうなら、そこに有意な差は現れない。ごく低線量の被曝で急性白血病になったと訴えても、それは科学的にあり得ないと却下されてしまう。だがそうした却下はとても非科学的なことなのだ。
もっとも、科学的に効果が証明されていない物質を摂取することで、より適切な手段がとられないなど、別の害が生じる可能性は存在する。しかしそれは、二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の問題である。前者より効果的だと予測される手段があるのにそれが採用されていないという批判なら分かるが、前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。