翼賛政治会への参加について、心情を記した鳩山一郎の手紙 |
元首相の鳩山一郎(1883〜1959年)が、太平洋戦争中の1942(昭和17)年に一国一党体制を実現する「翼賛政治会」への参加に追い込まれ、「不愉快極まる」などと心情を吐露した手紙が30日までに、松本市内で見つかった。専門家は「自由にものが言えなくなる政治体制をおもしろく思っていなかった鳩山の当時の心境が分かる貴重な資料」としている。
手紙は翼賛政治体制に反対の立場を取り、かつて鳩山と同じ院内会派「同交会」に所属していた元衆院議員で、当時松本市長だった百瀬渡(1874〜1945年)宛てで、42年5月22日付。昨年春に、松本市内の百瀬の遺族宅から百瀬の顕彰会事務局長の百瀬和彦さん(85)=松本市神田=が見つけた。
手紙で鳩山は「同憂の士を殆(ほとん)ど全部失い 又(また)当選連中小生以外は皆(翼賛政治会に)入会希望するに至り 小生も安藤君(同交会所属の衆院議員安藤正純)に泣かれ 昨夜共に死する事に決意致す次第」と記述。政治的な信条を押し殺し、翼賛政治会に参加することを決めた心情を記している。
手紙が書かれたのは、東条英機内閣の下で実施された衆院選の翌月。この選挙では、軍関係者らでつくる「翼賛政治体制協議会」の推薦制が導入され、鳩山ら同交会の議員は同協議会の推薦なしで立候補したが、当選者の8割は推薦候補だった。これら推薦議員は同年5月20日に翼賛政治会を結成。一党体制となって政府と連携した戦争協力が強められたとされる。
日大文理学部の古川隆久教授(日本近現代史)は「当時、政治団体は政府の認可制で、実質的に他の団体をつくれない状況。政治活動ができなくなるため、鳩山も翼賛政治会に同調せざるを得なかった」とみている。
手紙の当時、旧制松本工業学校(現松本工業高校)に通っていた百瀬和彦さんは「学校では軍事教練があり、戦争に協力するのは当たり前と思っていた。鳩山の手紙を見ても、戦争を避けることがいかに難しい時代だったかが分かる」と話している。