特集

水の歳時記

 西の奥羽山系から、東の太平洋へ向かう幾筋もの水の流れ。仙台は豊かな水資源に恵まれた土地だ。川、池、地下水、そして海。水はどのように育まれ、人々の生活にかかわるのか。さまざまな水のありようと、そこで息づく暮らしを描いていく。

(文 関口幸希子/写真 佐々木隆二)

プロフィル

関口幸希子(せきぐち・ゆきこ) フリーライター。1968年名取市生まれ。仙台を中心にタウン情報、観光ガイドなどを取材、執筆。若林区在住。

佐々木隆二(ささき・りゅうじ) 写真家。1940年気仙沼市生まれ。東北をテーマに個展を開催。著書に「宮城庶民伝」(共著)、写真集に「風の又三郎」。青葉区在住。

(10)切り子灯籠流し(宮城県亘理町荒浜)/波に揺れる鎮魂の灯

灯籠が潮風に揺れる。音符のような明かりが鎮魂歌を奏で、霊を慰めながら静かに海を照らす

じーっと海を見つめている人、話し掛ける人、手を合わせる人。鳥の海には一日中、冥福を祈る人たちが絶えなかった

 いつもの夏なら、海岸はサーフィンや海水浴のレジャーを楽しむ人でにぎわっているはずだ。魚市場のひしゃげた屋根の下で、黙々と水揚げの魚を仕分けする人たちがいたが、海辺の町にほかに人けはなかった。

 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた亘理町荒浜地区。5カ月が過ぎ、広がった視界に入ってくるのは、積み上げられたガレキの山だ。乾いた景色の中でショベルカーがせわしく動いている。

 8月15日の夜、鳥の海の荒浜漁港を会場に「切り子灯籠流し」が行われた。藩制時代から続く水難犠牲者を弔うお盆の行事だ。今年は、津波で亡くなったこの地区の143人の追悼式として行われた。

 まだ準備であわただしい会場の椅子に年配の女性が腰かけていた。
 「海っぺり(堤防の前)だった」という家は土台だけを残して流された。家にいた自分は逃げて無事だったが、車で自宅に向かっていたはずの息子さんは津波に巻き込まれ、3カ月もたってようやく見つかった。

 「何にもなくなった家の跡に、おじいさんの仏壇に供えてあった鐘と、息子が毎日コーヒーを飲んでいたカップだけが落ちてたの。忘れないでくれってことだね」。生まれも育ちも荒浜だが、「もう海は見るのも怖い」と言った。今でもふとしたとき、息子さんの名前を呼んでしまう。そのたびお嫁さんに「ばあちゃん、もういないよ」と言われるんだと笑う。

 荒浜は、阿武隈川が太平洋に注ぐ河口にある。藩制時代には、江戸へ差し向ける御城米の重要な積み出し港として栄えた。川では名物「はらこめし」になるサケが取れ、海の漁に出ればカレイが評判だった。明治、大正にかけても漁港は活況だった。

 「昭和の初めは漁獲高もすごかった。旦那を海で亡くしても、魚行商で女手ひとつで生きていけた」。荒浜に生まれ育った自営業の佐藤敏さん(63)がこう教えてくれた。町の年寄りたちから聞いた話だという。

 海と川の大きな恵みとともに、水の災害にも見舞われた。太平洋の荒波と、川の土砂で地形の変化が起きやすい河口の港では、船の事故も多かった。
 ここの人たちは、毎年切り子灯籠を手づくりして流し、お墓にも供えて手を合わせてきた。

 「津波で家も墓も流され、バラバラに暮らす荒浜の人が集まって、一緒に祈る機会が欲しかった」と話すのは、主催の荒浜地区まちづくり協議会の事務局長を務める菊池敏夫さん(61)。毎年同じ日に町を挙げて開催される「わたりふるさと夏まつり」は中止になった。
 灯籠流しさえ、まだ早い、わざわざ思い出したくないという人もいる。その心境は理解できた。しかし、と言葉を続ける。「規模は小さくても、再出発への一歩だと伝えたい」

 切り子灯籠は、500個ほど、被害の少なかった地域の人によって作られた。ボランティアの人たちが、ペットボトルを使って850個のランタンを手作りした。
 日が暮れ始めると、会場に、灯籠流しの副題である「光の祈り」という言葉がランタンの光の文字で浮かび上がった。

 地区の人が続々と集まってきた。久しぶりの再会に泣いたり笑ったりしている。「つながりが強いから、やっぱりみんな集まってきたな」。佐藤さんがいう。
 法要とご焼香が終わると、2隻の漁船がゆっくりと走りながら、灯籠を一つ一つ水面に浮かべていく。鳥の海の湾内に広がり、ゆらゆら揺れる小さな光。

 「こんな静かな流灯は初めてだな」。近くで見ていた男性がぽつりつぶやくと、妻らしき女性がうなずいたのが気配で分かった。暗い海に浮かぶ色とりどりの光を言葉少なに見つめている。

 静かな光の列は、湾内からやがて広い海に出て行く。湾の隅に迷うようにとどまるものもある。その姿は亡き人の魂にも、生きる者の思いにも見えた。小さな祈りは届いただろうか。(文 関口幸希子/写真 佐々木隆二)

<メモ>切り子灯籠流しは、昔は漁港があった阿武隈川河口付近で行われていた。川岸には10の集落ごとに祭壇が作られ、大きなあんどんを下げた。灯籠には家紋や屋号、または亡くなった人の名前を書き、川の真ん中から流した。現在の荒浜漁港の湾内で行われるようになったのは1960年代だという。


2011年08月29日月曜日

Ads by Google

△先頭に戻る