昨日ガンマ線治療の説明を受けてきました。大変詳しく懇切な説明を受け、大いに納得できました。 ひとつだけ希望があります。ただし、私の昔の商売が放射線・粒子線に関係していたので、必要な知識は一般の方と比べて深いところがあります。その上でのことで、一般の患者さんとは希望が違うかもしれません。この点お含みおきください。 私の脳に新たな2個の腫瘍があり、そのうちの1個は残念ながら3cm弱の大きさがあり、ガンマ線治療の限界近いということでした。 治療限界の理由は、腫瘍が大きいために放射線のドーズが多くなり副作用、つまり、むくみ、脳内圧力高さ、この影響によって、せん妄、痙攣が出るからです。 これを聞いて大抵心配になるわけです。この説明に対応するポジティブな説明がないためです。 私は、次のような説明をしていただけると大いに助かると思いました。 〇当医師は過去行った治療件数を説明してほしい。 〇治療件数の中で、腫瘍の大きさや個数と治療の実績(治療期間も含めたプラス、SD,PD,死亡等)示してほしい。 〇以上の情報をもとに私の治療に関するポジティブ度を示してほしい。 次に 〇腫瘍の大きさや個数を考えた時、当医師が治療を行わず脳腫瘍を放置した件数を示してほしい。 〇ガンマ線治療の代わりに化学療法を行った件数があれば示してほしい。 〇その後、患者の容体はどのようになったか、時間経過による容体変化と件数との関係を示してほしい。 〇以上から、ガンマ線治療を推薦するかどうか、お話してほしいと思います。 このとき、ぜひ先生の自信を示してほしいと思います。最近、治療で訴訟が増えているためか、説明がほとんどすべてネガティブになり、説明の際に、上げ足を取られないという心配がまず出てきてしまうようです。上のようなデータをしっかり示せばこのようなことはなくなるはずです。 私は、先生の説明の中にポジティブ・定量的なことは一切聞きませんでしたが、敢えてポジティブにとらえることにしました。また、私の主治医がガンマ線治療を勧めていることも決断することにつながりました。4月3日、1泊2日で60COのガンマ線を収束させる治療を行うことにします。 うまくいくことを期待しています。 ステージ2以上の大腸がんでは、可能性として、肺、肝臓、骨盤へ再発が高いといわれています。 私は2000年11月、ステージ3aの大腸がんの手術をして以来、2004年肺に再発、2005年に肺に再再発、2007年に骨転移のための痛みを伴いました。そして今2008年2月、脳転移による脳のむくみと意識混濁を感じ、3月23日とうとう意識不省に陥り、緊急入院しました。昨日報告した通りです。 問題は何でしょうか。骨や脳への転移は可能性は低いのですがゼロではありません。私の場合、手術と化学療法が効果的で何とか7年も生き残ってきました。このような長い期間になると、可能性の低い骨や脳への転移が起きてきます。 病院の対応は、往々にして肺、肝臓、骨盤への転移をCT撮像で調べることに集中します。骨や脳への転移は、患者が痛みや脳のむくみを感じてはじめて認識するのです。残念ながら、その時すでに腫瘍は大きくなって、QOLのための治療もままならなくなります。 今日、専門病院に脳腫瘍治療の相談に行きましたが、腫瘍がギリギリの大きさになっていて、治療に危険が伴うといわれました。骨への転移した腫瘍数も多くなっており、放射線治療が完璧にできなくなっておりました。 脳や骨等の転移腫瘍は小さいほうが治療にずっとベターなことを認識しました。 病院にぜひお願いしたいのは、大腸がん手術5年後あたりから、CT、MRI、骨シンチ等で、全身での再発を徹底的に調べるべきと思います。 これらの検査によって、小さな再発腫瘍を見つけ出し、ベターなQOLの治療をお願いしたいと思います。 話は変わりますが、脳のむくみによる意識を失うことは、死ぬことにとって楽な方法ですね。しかし、自意識なしに死ぬことはベストだと必ずしも言えません。やはり七転八倒して死んだほうが良いような気がしました。 2月に入って1、2度、記憶が薄れたり、思ったことを話すことが出来なくなることがありましたが、年のせいだと思っていました。頭が商売道具なので、これにはちょっと参りました。 金曜日の3月15日、珍しく忙しい日をすごしました。朝7時半に家を出て21:30分に帰ってくる、私にとって厳しい1日となりました。土曜日は少し疲れたし、天気も良くなかったので1日休みました。日曜日3月16日友人ご夫婦が訪ねて来ましたが、驚いたことに彼らが、我が家に来たところから意識が全くなくなったのです。大変申し訳ないことをしました。わたくしの意識が戻ったのは、3月25日火曜日になってからでした。馴染みの病院に寝ていたのには驚愕しました。いったい何が起きたのか!!! 家族や先生方に聞いたところ、病院に来た時、まともな言葉を話しながら、MRIを撮っていた。わたくし自体は全く意識のない状態だった。3月25日は、先生方が何回も病室に来たので何かあったのかなと疑った。状況の説明をお聞きしたところ、2個の脳腫瘍がMRIで発見された、その周りが白濁して脳圧力が高い。このためいわゆる「せん妄」が起きて意識を失った。 ステロイドと脳圧力のための点滴を3月28日金曜日も行っています。この薬は時間が必要ですので、退院が予想よりも長くかかりそうです。 脳腫瘍はほっとくわけにいきませんので、明日他の病院にガンマナイフを掛かるためまず相談に行きます。 ついに末期がんに突入しました。2000年11月に大腸がんの手術をしてから7年以上生きてきました。どうやら主治医の先生方のおかげで長い命を得たため、比較的可能性の低い骨転移や脳転移が起きたようです。もちろん感謝しているところです。 今日はとりあえずここまでご報告します。 (ザルジンアスキア。3月15日11:43撮影。クリックすると大きくなります。) (ザルジアンスキア。3月15日17:00撮影。クリックすると大きくなります。) ザルジアンスキアというエキゾチックな名前の花です。南アフリカが原産だそうです。 最初の写真を見てください。茎の頂上に丸くなったつぼみみたいなものがあります。花弁は肉厚で、ちょっと紫がかった赤色ですが、白い縁取りで周辺が強調されています。日光がさんさんと照っている中で写真をとりました。正午の12時に近いときでした。 2番目の写真を見てください。花は見事に咲いています。花弁の内側は真っ白で外側の紫色とコントラストに目を見張ります。写真は午後5時に撮影しました。日はすでに西に傾き、ザルジアンスキアは暮色の中で咲いています。 2つの写真は、つぼみをつけた若い株の写真と、成熟して花を咲かせた別の株と撮影した写真だと思いませんか。実は、時間をずらして、同じ株を撮影しました。 前に、オキザリスの写真をお見せしました(その3、その2、その1)。オキザリスは、日光を感知して花を開花させました。日が沈んだ夕方、花は再び巻き戻されました。 ザルジアンスキアは、夕方に開花し、朝、日が上ると花を閉じてしまいます。オキザリスとまったく逆ですね! なぜだと思いますか。実は、夜に昆虫をおびき寄せて受粉をさせるためです。夜最も目立つのは白い色です。午後7時ころ外に出かけて、ザルジアンスキアの花に顔を近づけました。かなり強い匂いがします。この匂いも昆虫のためですね。 一般に、夜咲く花は、白く、かつ匂いがあります。 (2008年3月15日撮影。絞りの入ったサクラソウ。クリックすると大きくなります。) (2008年3月15日撮影。絞りの入ったサクラソウ。クリックすると大きくなります。) (2008年2月10日と3月15日に撮影した花のアップ。めしべに注目。クリックすると大きくなります。) サクラソウの花にはいろいろな変異があります。前回の写真には偶然、5弁と6弁の花が咲いていました。 上の写真を見てください。1枚目の写真には、花弁の一部が白くなった絞り入りサクラソウが写っています。ピントが甘くて恐縮です。2枚目の写真は、花弁が大きく切り込んでいたのが面白かったのでシャッターを切りました。 前回の写真を拡大したものと、上の2番目の写真を拡大したものを並べてみました。3番目の写真がそれです。花の中心に注目。左右でちょっと違いますね。左の花では、めしべ(柱頭)がはっきり見えます。おしべはずっと奥に入っています。ところが右の花では、めしべは見えずに何本かのおしべが籠のようになっているのが見えます。めしべは、籠の中にあるようです。 めしべを作っている柱を「花柱」というそうです。左右の花で花柱の長さが違うし、めしべとおしべの位置関係が大きく違うようです。 そこで花の本を見てみました。左右の花にはちゃんと名前が付いていました。左の長い柱頭の花は「長花柱花」(ちょう・かちゅう・か、と読む)で、右の短いのは「短花柱花」です。 受粉の仕組みが大変神秘的です。ハチが、たとえば短花柱花で蜜を吸おうとして、舌を花の奥に差し込みます。おしべは上のほうにあるので、花粉は舌の元に近いところに付きます。同じハチが長花柱花に行って蜜をなめようとします。花粉は舌の元についているので、上にある柱頭に位置がうまくあって花粉がうまくくっつくのです。 逆に、ハチが長花柱花で蜜を吸うと、花粉は舌の先端につきます。次に短花柱花で舌を差し込んだとき、花粉が舌の先端にあるので、奥にある柱頭にうまくくっつきます。どうやら健康な種を作るためには、長花柱花と短花柱花との間で花粉を運ばなければなりません。逆に、このような受粉をハチにやってもらうために2種類の花ができたということです。 なんだか、サクラソウは策に溺れすぎているような気がしますね。 プリムラ・シーボルティとは難しい名前ですが、サクラソウのことです。どこにでもある草花ですが、私の大好きな花のひとつです。田舎に育った私にとって、たくさんのこぼれ種が一斉に芽を出し、広い庭一面がピンクの花に埋まる春が大好きでした。その記憶がまだ残っています。 今ある猫の額ほどの庭でも、こぼれ種から育ってきたサクラソウがかわいくて仕方ありません。妻もこのことがわかっているので、サクラソウの芽が出ると、日光がよくあたる場所に移植してくれます。関東は今年2月に入って寒波が来ましたが、サクラソウはすでに1月から花芽をだし、雪にもめげず花を咲かせました。 上の写真は2月10日、寒い盛りの写真です。ピントがつぼみにあってしまいました。実際の花の大きさは1センチ以下しかないのでピントを合わせるのが難しいです。 左上の花は普通見られる5弁ですが、右下の花は6弁あります。気になって庭でもう一度チェックしたのですが、6弁の花は確かにありますね。 そういえば、以前紹介した同じ属のプリムラ・ポリアンサは6弁の花です。 今年もたくさんの花を咲かせてたくさんの種を落としてほしいと思います。 最近植物学の本を読む機会がなかったのですが、大場秀章先生の「植物分類学・植物地理生態学」をぱらぱらめくっていたら、サクラソウの記述がちょっと目に入りました。サクラソウは、世界どこにでもある草花ですが、驚いたのは、海抜4000メートル以上あるネパール・ヒマラヤ高山帯でも、プリムラ属は48の種を展開していて、そのうち41種は固有種だそうです。サクラソウ属は、ユキノシタ属、シオガマギク属の次に多くの種を持つ植物だそうです。 ヒマラヤにある植物はアジアやヨーロッパ、日本とも同じ種類の植物が多く生えている。特に固有化した「属」はヒマラヤにほとんどない。このことは、「最終氷河期における周北極地域からこれら植物の南下と、その後の温暖化による北上あるいは高山帯への移動」を考えるべき、とのことです。 ちょっと横道にそれました。プリムラ属は、高度が高かろうが低かろうが、最終氷河期以降、貪欲に適応してあらゆるところに生えたのでしょう。 (医療用重粒子加速器「HIMAC」 http://www.nirs.go.jp/research/division/charged_particle/index.htmlから引用。大型で高価すぎるのが難点である。) 昨日の続きです。 前回までに骨の転移に関してお話しました。ちょっと小難しい希望を書いておきます。 骨転移のような新しい事態が出来したとき、患者として、いろいろな情報をぜひ知りたいと思います。 ①転移は今後さらに進行していくのか、 ②転移したほかの場所も痛くなっていくのか、 ③骨はもろく骨折の恐れがあるのか、 ④放射線があまり効かなかったがもう一度治療を行うべきか、 ⑤陽子線や重粒子線治療を考えるべきか、 ⑥その他、その他。 本当は、主治医の先生に詳しくお聞きして教えていただくのがベストです。しかし、診察はいつも大変込み合っていて、時間をとって先生にお話をお聞きすることはほとんど不可能です。やはり自分で調べ対処せざるを得ません。 以前に訴えたことがありますが、以下のように調べたいと思います。まず、似た症状の患者さんを探したい。検索の順位としては、 大腸がんステージ3a ↓ 肺再発 ↓ 化学療法 ↓ 骨転移 と奥に入って同じ境遇の方に行き着きます。そして、皆さんが上の項目にどのように対処しているのか調べたいと思います。 私のような物理学者が研究を行うとき、研究上の現象が理論的に解明できていないときは、まず現象の詳しいデータを集め、その解析により、現象の全体像およびヴァリエーションを捉えていきます。以上から現象の背後にある本質を抽出していくわけです。このような作業のため、データベースの構築は真っ先に行うべき大切な作業です。 物理学者が取る研究手法はお医者さんの手法とはまったく異なっているようです。データベースというと数十以下の症例を集めて満足しているようです。テラバイトクラスのデータをデータベースにせよとはいいませんが、検索の終端で少なくとも100例くらいのデータは欲しいような気がします。 友人のがん対策の大御所にお話したことがあります。高名な医学者でもあるので、私の考えを十分理解していただけたと思います。しかし、多くのデータを集めるには、ある規模の病院間ネットワークを構築して、それを通して患者さんにご協力をお願いする必要があると思います。村社会的な病院社会でこのような事業を展開することは、現状ではほとんど不可能なようです。 話は変わります。 つくばの加速器研究機構にいたとき、新しい医療用加速器の開発を行っている研究者を大いに支援したことがありました。陽子も重粒子も加速できるまったく新しいFFAGという方式の開発に取り掛かかっていました。最も重要な開発項目は、 ①コストを下げること。これにより、治療経費も大幅にダウンさせることができ、保険適用に持っていくことができる。 ②次にビームをCW(正しくはCB)的に出すこと。これによって、レーザーメスのように、ビームを精密に動かして腫瘍を焼いていくことができる(スポットスキャン)。面倒臭いシールド窓を省くことができる。 プロトタイプを作って運転までがこぎつけましたが、残念ながら開発を終了させることができませんでした。 基礎研究を設置目的とする研究所でもこのような応用分野に時間を割くことは、今後ますます重要になっていくでしょう。素粒子研究用最先端加速器に比べれば、医療用加速器の技術はローテクの部類に入るのですから。 昨日の続きです。 今まで再発は肺のみだけだと内心喜んでいましたが、骨にかなりの転移があり、さらに既に痛みがあるということで、あまり希望の持てる状態にないことがわかりました。3月5日からイレウスで入院しましたが、イレウスが一段落した後、肩の痛みをどうするかがむしろ主要なテーマになってしまいました。 1日に2回痛み止めの点滴を始めました。ある程度効果がありましたが今ひとつ。 そこで、放射線で痛み止め治療をやろうということになり、早速放射線の先生と相談しました。治療にはいろいろのヴァージョンがある。放射線のドーズ(dose)を3グレーで10回の照射、あるいは8グレーで1回のみの方法もある。痛めをとるには、この2つの方法で効果は同じ程度とのことでした。8グレー1回の場合は、後日もう一回トライできるとのことです。 私は2年前まで日本最大の加速器研究機構にいましたので、放射線のことは一応エキスパートの部類に入ります。自分の知識と先生のお話を聞いて、直ちに8グレー1回照射のオプションを選びました。どうも私は即決する欠点があるな。 ちなみに、グレー(Gray)とは、1kgの物体(私の肩甲骨や周りの筋肉)に1ジュールの放射線エネルギーを吸収させること、を表します。8グレーはその8倍です。今回の放射線は、電子リニアックで加速した電子を標的にぶつけてエックス線を発生させ、そのエックス線を患部に照射するのです。機械を見るとドイツのジーメンス製でした。たいした加速器でもないのになぜ日本製ではないのだろうか、などと余分なことを考えていました。 リニアック全体を回転させます(上の写真参照)。この装置で、エックス線の方向を上向きから下向きまで少しずつ変えて右肩に照射します。こうすると、右肩には常にエックス線が当たりますが、その他の体には集中してエックス線が当たらなくなるので、放射線障害を減らすことが出来ます。 照射は1,2分で終わります。ほんの少しですが肩に熱を感じました。技師の方にその旨お話しましたら、気のせいでしょう、とのこと。しかし、1,2分内にジュール程度デポジットするので、本当に熱を感じたのかもしれません。別に肩の痛みとは関係ありませんが。 さて、放射線治療の効果を大いに期待しました。当日夜、かえって肩の痛みが増えました。放射線の先生によると、反応性痛みとのこと。翌日から期待に胸を膨らましました。痛みは少し減ったような気がしましたが、無くなることはありませんでした。残念無念。 ということで、薬を継続的に飲むことにしました。 •ボルタレン 25mg、 1日3回 •オキシコンチン 5mg、 1日2回 •オキシノーム 2.5mg 頓服 が最初の処方です。ボルタレンやオキシコンチンは痛みが強くなるにしたがって増やすようです。 オキシコンチンは今度初めて使う薬です。オピオイドと呼ばれる化合物とのこと。ウィキペディアによると、オピオイドはオピウム(opium、アヘン)類縁物質で麻薬、モルヒネの一種らしいです。 昨日から始めました。さすがに結構効きます。眠くなりますが。昨晩は久しぶりによく寝ました。このままいってほしいのですが。 3月5日から13日までイレウスで入院していました。無事に回復してほっとしました。 今日は新たな難題が見つかったことをお話します。 大腸がん(直腸がん)は、肺、肝臓、骨盤によく再発すると言われています。私の場合は、2000年にステージ3aの直腸がんを手術で取り除いた後(近傍3個のリンパ節に転移あり)、2004年に左肺に、そして2005年に右肺に再発しました。2004年の再発のときは、発生した2個の腫瘍を手術で取り除きました。2005年には多発性腫瘍が右肺に再発しました。残念ながら手術や放射線治療は無理でしたので、今まで報告したように、2006年4月から本格的な化学療法を始めました。 おおよそ2ヶ月ごとにCT撮像を行って化学療法の評価を行ってきました。肺、肝臓、骨盤が撮影され、検査されました。2007年11月まで、肺以外への転移は認められませんでした。2008年1月の写真には、肝臓に新たな影が出来てきたかもしれない、との評価でした。私が仔細に写真を見てもよく識別できませんでした。以上が今までの結果でした。 昨年2007年8月ころから右肩の関節付近が痛くなりました。私は寝て本を読む癖がありますので、その際肩に力がかかって痛くなったのだろうと勝手に解釈して放置していました。今年1月に、目の副作用がひどくなったので、抗がん剤TS-1の服用を中止しました。その直後から右肩の痛みがひどくなり、夜眠ることが難しくなってきました。肩の痛みだということで、化学療法の権威である主治医の先生を煩わせることは恐れ多かったので、近くの病院の整形外科に出かけました。先生に抗がん剤治療中なので何か関連があるかどうかお聞きしたところ、レントゲン写真を見てから、まだ骨は融けていませんよということで、五十肩でしょうとの御託宣。痛み止めを頂いて引き上げました。残念ながら痛み止めの効果が余りありません。 そのうちに、2月下旬から新薬の点滴が始まりました。驚いたことに、点滴後、肩の痛みがかなり軽減するではありませんか。そこで主治医の先生に、肩が痛いことをお話してがんとの関係をお聞きしたところ、その可能性は大いにある、とのことでびっくりしました。早速「骨シンチ」の検査を行ったところ、右肩甲骨から強い信号、さらに脊髄周りの数箇所が光っていました。 今まで再発は肺のみだけだと内心喜んでいましたが、骨にかなりの転移があり、少し落胆しました。がんが骨に転移すると、特に痛みがひどいと聞いています。痛みで七転八倒して死を迎えることを覚悟しなければなりません。いやだな。 骨に転移しても新たに打つ手はありません。今使っている新薬の効果を祈るのみです。 3月5日からイレウスで入院したことはお話しました。イレウスが一段落した後、肩の痛みをどうするかがむしろ主要なテーマになってしまいました。 (シンポジウムポスター) 数日ブログの更新が出来ませんでした。その間の経過です。 3月5日は、前から依頼されていた国際シンポジウムで話をするため茨城県水戸市に出かける予定でした。年金生活に入ってから学術的な講演は依頼があっても辞退していましたが、昔の仕事仲間が頑張っていること、かつ現役のときに推進にかかわったプロジェクトのシンポジウムでしたので、懐かしさも手伝って引き受けました。パワーポイントの準備も終わり、事務局にファイルをダウンロードしてもらい、3月5日に出かけるだけになっていました。 3月4日昼からお腹がチクチク痛んでいましたが、イレウスのことはまったく思い浮かばず、そのまま昼食を食べてしまいました。食べ終わった後にも、お腹のチクチクが残っていることから、イレウスの疑いに急に気づいたのですが後の祭りです。すぐ安静にしたのですが、夕方になっておなかが張ってきました。イレウスの可能性が高くなったので、妻の運転で病院に出かけました。たまたま、昨年何回も入院したときにお世話になった先生が当直でいらっしゃったので話は楽でした。早速腹部レントゲン写真を撮りました。昨年、イレウスで2回入院していましたので、当時の写真と今回の写真を比較すると、小腸内のガスの量はずっと少ないことがわかりました。もしかしたら、単に便秘だけかもしれない。 明日水戸に行かなければと言う思いもあり、便秘という希望的観測もあったので、そのまま帰宅しました。残念ながら希望は打ち砕かれるためにあるようで、夜半から数回にわたって吐き続け、イレウスが確実になったので、3月5日早朝5時にまた病院に出かけ、そのまま入院となりました。鼻から管を入れて腸内の圧力を下げ、たまった食物残渣をはきだしました。3月7日ようやくお通じがあり、ひと段落しました。後は正常に戻るのを気長に待つだけです。3月11日から流動食を始め、今日3月13日めでたく娑婆に戻ってきました。 シンポジウムでは、昔の仲間に私のパワーポイントを代わりにプレゼンしてもらいました。組織委員会に不義理をしましたが、仕方ありません。 今日はよい天気で、猫の額ほどの我が家の庭でしばらく座っていました。多くの植物、とりわけツキヌケニンドウと各種のバラが元気な芽と小さな葉を出しています。これから春本番。生命の息吹を最も感じる季節となりました。またもとの生活にとりあえず戻れたことに感激です。 今後ともよろしく。 < 前のページ次のページ >
|