(強い日差しの中で咲くメアリー) 今日は土曜日ですので、閑話休題。カテゴリー「大腸がん治療経過」の最後の記事は1ヶ月前の4月28日になっています。いろいろ活動はしましたが、実質的な治療はありませんでした。来週にそのあたりの記録をしておかなければいけません。 今日は、バラの季節は終わりました、と宣言する日です。寒く、雨が降っている日です。2,3日かっと暑い日があったと思うと、今日みたいに寒く雨が降る日になります。上の写真にあるメアリーの花もなくなりました。メアリーの二番手を期待しましょう。 バラの消毒は今まで私の仕事だったのですが今年からできなくなりました。妻は消毒が嫌いなので今年のバラは消毒なしでした。気候が異常だったせいか、虫も病気も予想よりも少なく、むしろバラ達はよく頑張りました。花の色がいまいちですが。時々お見せしましょう。 (建設中のスーパーカミオカンデ。) 前回、ニュートリノの話をしました。ニュートリノは、地球のように大きな物体でも何も反応しないで易々と通り過ぎることが出来ます。 この現象は想像を絶するらしいですね。ニュートリノだってツブツブだろう。机にぶつかったらなぜ跳ね返らないの?神岡の地下観測所を見学に来た人たちからよくこのような質問を受けました。 今日は、この質問に何とか答えてみようと思います。 まずニュートリノを考えないで、普通の物体に粒子をぶつけたり、光を当てることを考えてみます。(今はあまり大きなエネルギーの運動は考えないことにします。) ①私たちの周りにある物は、原子が電気的に結びついた構造をしている。 ②原子の内部や原子間には電気的な力が充満している。 ③電気を持った粒子が物に入ろうとすると、物にある電気力が粒子の電気に作用して、粒子の進む方向は曲げられてしまう。 ④電気を持たない光も電気力と反応するので、やはり進む方向は曲げられる。 これらのことから、粒子を机にぶつけたら進む方向が曲げられて跳ね返ってきます。また、物を目で見ることも出来るのです。 次にニュートリノを考えましょう。以下のことが大切な点です。 ①ニュートリノは電気を持たない中性の粒子だ。 ②ニュートリノの身になって物を見てみよう。ニュートリノは電気を持たないので、物はまったく違ったように見える。 ③ニュートリノは電気と違った「弱い力」で物と反応する。 ④弱い力で見ると、原子はひとかたまりの球として見えず、その代わりに、原子を作っている電子とクォークが見えてくる。 ⑤弱い力で観察すると、電子やクォークの大きさ、それにニュートリノの大きさも、極端に小さい(電気的な半径でなく、弱い力の半径を考えよ)。 ⑥原子は、とても小さな電子とクォークで出来た、スカスカの構造をしている。 ⑦ニュートリノを原子に打ち込むと、小さな粒子のニュートリノは、スカスカの原子を何の反応もせず、だから進む方向も曲げられずに通り過ぎることができる。 ⑧原子があまりにもスカスカなので、原子がいっぱい集まって出来た地球でさえも、ニュートリノから見るとスカスカの構造に見える。だから地球でさえ、反応もせず、進む方向も曲げられずに突き抜けることができる。 これが、ニュートリノが地球や太陽でさえも突き抜ける理由なのです。弱い力のみで見渡すニュートリノの身になって考えることがコツです。 原子がどのくらいスカスカか数値で示しましょう(太陽から来るニュートリノの持っている程度のエネルギーを考える)。 ①仮に、原子の大きさを、太陽から冥王星までの半径の球、つまり太陽系の大きさまで膨らましてみる。 ②同じ比率で、電子、クォークやニュートリノを膨らましても、それらの半径は10cmくらいの大きさにしかならない。 ③水素原子を太陽系くらいの大きさに膨らましてみよう。水素原子は、太陽系くらいの大きさで、内部に何もない真空の球の中に、10cmくらいの大きさの電子やクォークが4個散らばっている、というくらいのスカスカさである。クォーク3個は原子の中でもっとかたまって存在するけど今の議論に影響しない。 想像してみてください。 科学は、目や耳や皮膚で観察することのできる現象を理解することですが、世の中には、体にまったく感じず、精密な機械を使わないと観測できない現象が多くあります。 ニュートリノもその一例です。ニュートリノは万物の基本粒子の一つで、実は宇宙の中で最も数の多い基本粒子なのです。ビッグバン理論では、ニュートリノは、宇宙の中に1立方センチ当たり300個あると予言しています。少ないじゃないかと思うかもしれませんが、ニュートリノは宇宙の隅々までこの密度で存在しているのです。水素原子を作っている陽子や電子は、ニュートリノと比べると100億分の3くらいしか宇宙にないのです。 ニュートリノの大きな特徴は、電気を持っていない中性な粒子だ、という点です。私たちの体は原子や分子からできていますが、それらを結び付けているのはすべて電気の力です。(中性子は例外です。)ニュートリノは電気を持たないのでお互いにくっつくことができず、だから物質の中には存在し得ないのです。 電気を持たないニュートリノは、水素や酸素などの物質ともほとんど反応しません。体にニュートリノがぶつかっても、何もしないで通り抜けてしまうので、私たちは痛くも痒くも感じません。つまり、ニュートリノを体感できないのです。 太陽は巨大なニュートリノ発生装置で、四方八方にニュートリノを放出しています(これらのニュートリノを太陽ニュートリノといいます)。もちろん、1億5千万キロメートル離れた地球にも降り注いでいますし、私たちの体を常に突き抜けています。 皆さん、どのくらいの数の太陽ニュートリノが体を突き抜けていると思いますか。私たちの体を突き抜けているニュートリノの個数は、体の大きさにも依りますが、毎秒少なくとも10兆個以上という数になります!ニュートリノは地球なぞ易々と突き抜けてしまいますので、私たちの体は昼も夜も常に毎秒10兆個以上のニュートリノが通り抜けています。しかし、痛くも痒くもありませんね。 人間が体感できない太陽ニュートリノを観測するには、標的となる物質を多く準備して、その中でかすかに起こる反応を捕らえます。日本のスーパーカミオカンデ装置は世界で最も優れた観測装置です。装置は5万トンの水を使っていますが、その中心部分にある22500トンを標的に使います。外側の27500トンは外から来るノイズの遮蔽に使っています。22500トンの水を通り抜ける太陽ニュートリノの数は、私たちの体を通り抜ける数よりずっと多く、毎秒10兆個の4万倍にもなります。それでも装置が捕らえることのできる反応は、1日に、たったの15個です。 2,3回の記事で、ニュートリノを紹介してみたいと思います。 ステージ4大腸癌患者のAさん。ご機嫌いかがですか。 今日は、時々訪問するブログに感動したので、ここに引用したいと思います。 「よこはま若者サポートステーションへようこそ」がそのサイトです。 この組織のプロフィールを見ると、「15歳~34歳までの就労支援施設です。個別相談を中心としながら、一人ひとりの「働くまでの道のり」を一緒に考えます。多くの機関や団体(人)との関わりの中で皆さんが社会の中で自分らしく生きていけるよう私たちは皆さんの活動を応援しています。」とあります。がん患者とはまったく関係がありません。 5月10日の記述です。多分若いスタッフが、正岡子規のこの一言に感動したのでしょう。僭越な感想ですが、文豪が、まさに私が努力して到達したいと思っている人生の終末を至言で表してくれています。 ブログのその部分をコピーします。 さてさて、今日は正岡子規の言葉を紹介しようと思い、ブログを書きました。 正岡子規、ご存知ですか? 明治時代の文学者ですが、病気がちなこともあり、書いている文章も多くが病との闘いを通したものが多いのですが、心に残った文章がありましたのでご紹介させていただきます。 とても有名な言葉のようですが、私は知りませんでした。彼の『病牀六尺』 からの一節です。 -------------------------------------------------------------------------- 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。 -------------------------------------------------------------------------- 更なるコメントは必要ないと思います。 (DESY研究所で一緒に働いた友人で偉くなった連中。左から、ドイツDESY所長、スイスETH学長) (ヨーロッパCERN所長予定者。) 恩師に教わることは黒板の前だけではありません。小柴先生は決してお酒の強いほうではありませんが、よくお飲みになります。それも気の置けない友人とお飲みになることを好んだようです。われわれ若造は時々末席に座ることを許されることがあります。 ある会食の末席にかしこまっていたら、朝永振一郎先生が上席に座られたのでびっくりしました。そのまわりは素粒子研究でよく知られた方ばかり。顔を拝むだけで勉強になりますし、彼らが話すことを聞くだけで、研究の最新動向をつかむことができました。 先生は、大塚にある飲み屋が気に入っていて、おい行こう、とお声がかかることがありました。もちろん断ったことはありませんでした。お銚子を傾けながら無粋な科学の話はほとんどありませんでした。朝永先生と小柴先生との関係は有名です。さぞかし高尚な科学の話をしたのだろう思ったのですが、お酒の中でお聞きすると、下ネタ話ばかりだったらしいです。下ネタの話から、この男はなかなかできる、とわかったようです。 大塚の飲み屋でどんな話をしたのかすでに記憶にありません。しかし、先生の話し方まで似てきます。酒を飲みながらの付き合いは、先生の科学の考え方や研究の仕方がしらないうちに染み付いてしまうのでしょう。 小柴先生は本当においしいものと飲み物がお好きな方でした。弟子どもをときどき味見に連れて行ってくださるので、こちらは大歓迎です。 根津の一膳飯屋で新鮮なイワシのたたきがあったといって、昼によく食べに行きました。 池之端にある海鮮中華レストランはなかなかの味でした。 1965年に大学院に入ってから7年後の1972年にようやく博士号を手に入れました。実は博士課程2年の1968年に嫁さんをもらいました。嫁さんと貧乏を十分すぎるほど経験しました。(市の貧困家庭の範疇に入れていただき、毎日牛乳をただで配っていただきました。) 博士号を取った1972年は力が抜けてボーっと次にやることを頭の中で考えていました。 DESYというドイツ最大の素粒子研究所がハンブルクにあります。小柴先生がアメリカで一緒に仕事をされた方が副所長かそれに近いポストについていて、1970年代、世界最大の電子・陽電子衝突型加速器を建設中でした。この衝突型加速器(コライダーと呼ばれる)機械を使って電子・陽電子の衝突をさせると、きれいな素粒子反応がとれ、解析もなかなか楽そうでした。しかし、共同研究を行う研究費が取れるかどうか、小柴先生の豪腕にかかっていたわけでした。 1972年10月に理学部長に呼ばれました。あなたに10月から1973年3月末まで助手のポストをあげる。ついては、一身上の都合で1973年3月31日に辞職する、なる書類を書くようにいわれました。6ヶ月間のポストでしたが、大喜びで書いたことはいうまでもありません。 1972年12月入ってから、小柴先生に呼ばれて、お前ハンブルクに出かけろ、との命令が下りました。大喜びで承諾しました。ハンブルクに日本人は多く滞在していましたが、DESYには一人もいませんでした。何かまうもんか。先生に、私の助手職は来年の3月で切れますが、その後どうしたらいいでしょうか、と聞きましたら、向こうで職を探せ、というお言葉でした。何とかなるだろうと思いながら、厳冬の北ヨーロッパに旅立ちました。その後、小柴先生は日本で大変努力されて、東大での職が切れ切れに続いて私が向こうで職探しをすることもなくなりました。途中3年東大に戻って次の研究の準備をし、またハンブルクに舞い戻りました。1981年最終的に東大に戻りましたが、都合6年半DESYで働くことになりました。 この6年半は私のその後の研究遂行に決定的な影響を与えました。小柴先生はアメリカ臭さがふんぷんとしていましたが、DESYに参加した私の同僚や私はヨーロッパの洗練さが体に染み付いていました。私のルームメートはアメリカ人だったのでアメリカ臭さも少し残りました。彼はコーネル大学にまだいますがコンタクトはなくなりました。 当時いっしょに働いた友人たちの中にはえらくなった連中もいます。一人はDESYの所長を長く務めていて、昔、しょっちゅう会議で一緒になったものです。もう一人スイス人の友人は昨年ETHの学長に就任しました。研究の鬼で一見付き合いの悪い男でしたが、たいしたものです。もう一人ババリア・スピリット丸出しの面白い男が、今年の7月からCERNの所長になります。世界最大の陽子・陽子のコライダーがちょうどビームを出すときと重なります。彼に期待すること大です。 (名前のわからないバラがガレージの屋根の下で無数咲く。5月14日撮影。) 恩師がよくあるたびに言われた言葉があります。われわれに覚えてもらいたかったのかどうかわかりませんが、以下に下線をしいた言葉がそれに当たります。 私が博士課程に進学した後、原子核乾板の研究から、電子回路やシンチレーションカウンター、当時最先端のスパークチェンバーを使った、いわゆるカウンター実験に方針を変えました。研究の内容やシミュレーション関係の検討のために、先生と密接に議論するようになりました。 新たな研究対象を簡単に説明しましょう。超高エネルギー宇宙線が大気に突入して核反応を起こします。多数のパイ中間子やケイ中間子が反応で作られますが、それらが崩壊してミューオンという、透過力の高い素粒子が生まれます。特に、核反応一回で2個以上の高エネルギーミューオンが作られる現象を選び出します。この束になって透過してくるミューオンを「ミュー束」と名づけました。高エネルギーミューオンは地下深く透過していきます。地下500メートルにミューオンを捕らえる観測器を設置します。捕らえられたミューオンは200GeV以上のエネルギー持っています。 以上から、まず、親の核反応は超高エネルギー反応のみを選べます。次に、ミュー束を選ぶことにより、多くのパイ中間子を生成する核反応、つまり、大気に突入する宇宙線の元素組成、特に鉄のような重元素の割合の情報を得ることができます。超高エネルギー宇宙線が宇宙のどこで生まれているのか大きな謎でした。それを調べる情報のひとつが、元素組成、特に重い元素がどの程度含まれているのかが、鍵を握っていると思われていたのです。 観測装置の大きさ、大雑把な観測時間を決めておく必要があります。このあたりの検討は、小柴先生と延々と行い、それをノートする仕事をおこなっていきました。当時ミュー束は多くても3,4個くらいのミューオンを捕まえているだけでした。 3,4個のミューオンじゃ話にならない。研究は人のやらないことをやること。15個以上のミューオンからできミュー束を捕まえるように装置の大きさを決めろ。 この一言でほとんどが決まってしまいました。3メートル×3メートルの装置が必要です。大きな装置を作る作業も大変ですが、大きな装置を選んだことで、小柴先生もお金の算段をしなければなりませんでした。ここはアメリカじゃなく日本です。小柴先生が金を集めるために苦労するのをじっくり見学することができました。 国民の血税を使わせてもらって役にも立たない研究をさせてもらっているのだ。徹底的に安くしろ。 業者さんは小柴先をものすごく恐れて近づきませんでした。小柴先生の叱咤激励はニュートリノの研究を始めてから退官のときまで続きました。この辺も大いに勉強しましたが、根が優しいものですから、小柴先生ほど恐ろしくなれませんでした。 硬い岩盤の地下500メートルに良質な場所などいくつもありません。奥飛騨に鉛と亜鉛を出す神岡といういい山があり、調べてみると装置を置くのにぴったりの今使っていない穴がありました。ここからは小柴先生の出番です。 小柴先生、神岡を操業する三井金属鉱業のトップとあたりを付けました。先生が古いWVを運転して私や他の学生も同乗して奥飛騨までよくいきました。国民の血税を使うのですから、泊まりはすべて鉱山の各施設をお願いして、食事には毎夕お銚子一本の豪華さでした(鉱山のおごり)。そして、地下の穴の電源回り、装置を置く架台も鉱山にお願いできることになりました、ついでに、50キログラムの重さがある鉛のインゴットをたくさんお借りして、岩から降ってくる電子をどけてミューオンをしっかりと同定することができました。インゴットの借受は無論無償でした。 小柴先生の腕力を使っても、装置建設のためのお金を予定通りに集めることはできませんでした。このためと、さらに装置建設の遅れが加わり、私の博士論文が完成したのは、30歳の声を聞いた1972年でした。 データ解析では、私の作った式とその結論を小柴先と毎日のように議論しました。最高18個のミューオンが降ってきたミュー束を見つけました。厳しかったですが、大いに楽しみました。 博士論文の英語の添削も厳しいものでした。私が書きなぐった草稿を秘書さんが3スペースでタイプします。それを小柴先生が目を通して、文字通り真っ赤に朱が入って戻ってきます。修正した原稿を再び3スペースでタイプしてもらいます。驚くじゃないですか、先生が真っ赤に直した部分が再び真っ赤になってくるじゃないですか。こんなことが何回も続き、ついに見事な英語の博士論文が完成しました。 (名前のわからないバラ。ガレージの屋根の下で咲く。5月14日撮影。) 恩師の思い出、続きです。 大学院生のとき、先生がアメリカで行っていた観測研究のスライドを数多く見せていただきました。 先生の行っていたのは、数100キログラムの銀の塊のような原子核乾板を大気球で大気圧にして平方センチあたり数グラムに上げ、超高エネルギー宇宙線が原子核乾板中で起こす原子核反応を数多く捕らえる、大規模な観測実験でした。 今でも学生のときに見た1枚のスライドが目に浮かびます。大気球を放球するのに風が大敵です。スライドでは、気球が風で流されないように、気球を航空母艦の飛行甲板から打ち上げていました。風の影響を避けるために風下に向かって空母が走っています。垂直に懸垂された気球がまさに上空に飛び立たんとしています。気球は空母と同じくらいの大きさに見えました。 日本でも将来このような大規模研究ができるようになるのだろうかと、夢心地でスライドを見ていました。 研究は空軍の支援を受けていたのでしょうか、当時先生は准将待遇で副官が付いていたとおっしゃっていました。30歳半ばの日本人ですよ。あっけにとられたものでした。 小柴先生は東大に赴任するとき、ブローリー・スタックと呼ばれる原子核乾板(先生がPIをなさった研究)を多く持ち帰っていました。私は修士のとき、この原子核乾板内で起きている超高エネルギーの核反応の解析に参加しました。研究材料は世界最先端のものでした。 先生の学生に対する教育、特にできの悪い私のような学生への教育を紹介しましょう。 スライドを見るという楽しみもありましたが、修士のときの「論文輪講」のつらさは今も忘れることができません。アメリカ物理学会誌など最先端の情報がよく掲載される数種類のジャーナルから、重要な論文を選びます。自分で選ぶと英語が理解できる論文を選ぶので、重要性など二の次になってしまいます。先生から直ちに却下の指示があり、お前この論文を紹介しろ、ときます。 1950年代後半から1970年代は、素粒子物理学と天体物理学にとってブレークスルーの発見が相次いだ黄金時代でした。パルサーの発見、中性子星との同定、ベータ崩壊におけるパリティ非保存の理論および実験的検証、K中間子崩壊におけるCP非保存の発見などがありました。また、ブルックヘブン国立研究所とセルンでの高エネルギー加速器を使った精密な素粒子実験のデータが続々と発表されました。理論では、ヤン・ミルズ・ゲージ理論、電弱統一理論、大統一理論などの萌芽的研究が始まりました。 先生は、重要で的確な論文を見つけてくるわけですが、当然のことながら難解なやつばかりです。私は学部授業を一切サボっていますので、英語の専門単語の知識がまったくありません。英語の文章は追えますが意味がまったくつかめません。そこを、わかったような顔をして日本語に訳して皆さんに話すわけです。化けの皮はたちまちはがれてしまい、先生の鋭い質問に立ち往生、毎回勉強をやり直して出直すことになりました。 大げさに言えば、当時の人生目標は、何とか輪講で先生の質問に的確に答えられること、でした。とにかく自分で勉強せざるを得ませんでした。学問の何たるかをある程度知ったのはこの時期でした。 先生は重要な研究を見つけるのに動物的な勘を持っていました。この能力を何とか手に入れたいとずっと努力してきましたが、先生の足元にも及びませんでした。残念至極。 数人の大学院生が、原子核乾板を使った研究に参加していました。私は修士時代に第一線の原子核乾板の研究に参加していましたが、先生や助手の須田英博博士と私も入って行うべき研究について何回も議論をしました。先生のご託宣は、 おい、これで行こう。10年必死にがんばれば世界のトップに立つことができるよ。 このときから、私の仕事も、学問の知識の吸収から、博士論文にすべきミュー束の勉強(ミュー束現象の学問上の重要性の検討や世界の観測データの精査)が始まりました。また、それを観測するための新たな観測技術の会得が、須田先生の指導の下に始まりました。 (続く) (我が家のキンレンポ。5月5日撮影。) 5月14日のブログで、伝説の物理学者ジョーン・アーチボルド・ホイーラー博士が教師としてどのような人物だったのか、彼の教え子が書いた手記を翻訳してみました。 お前自身は教師としてどうだったのか、と聞かれることが一番困ります。私は最低の教師だったことを白状しなければなりません。 それでは、お前の教師はどうだったのか、と聞いてください。先生の期待にこたえることはできませんでしたが、類まれなる恩師に恵まれたことは確かです。 先生はまだかくしゃくとしていて、私はまだ時々教えを受けます。先生のご紹介をするのはまだ早すぎるかもしれませんが、こちらの寿命が尽きてしまいます。先生の思い出を脈絡もなく書いてみたいと思います。失礼なことを書きましたら、先生許してください。 私の恩師は、2002年のノーベル物理学賞受賞者、小柴昌俊博士です。 先生がよく口にした言葉をもとに思い出を手繰ってみたいと思います。 俺は東大の物理学科をビリで卒業した。 先生は別にビリを自慢していたわけではありませんが、先生、はできの悪い私のような学生の気持ちをわかってくれるんだなと安心したものです。というのも、私は学部のときに空手部に在籍し、3,4学年生のときは講義にまったく出ず、部室にたむろしているかマージャンをやりに出かけていたのです。期末に徹夜マージャンで試験をすっぽかして一年留年しました。翌年、大学院の試験を受けたのですが無論最低の成績でした。 小柴先生は1年前に東大物理学科に赴任し、第1期に入学した大学院生が大変優秀だったので、勢いあまってビリの私も第2期生として拾ったのです。小柴先生はご機嫌がよろしいと今でもお前はビリだったと広言するのでいささか閉口します。ビリの2乗ですから。 ただ、先生は勉強はビリだったかもしれませんが、確か東大駒場寮で寮の委員長か副委員長を勤め、統率力の片鱗をすでに見せていて、青白き秀才とはまったく異なった人物だ、ということを忘れてはいけません。 アメリカはマンハッタン計画の後、大規模研究の効率性に目覚めていました。大規模研究計画をあまり審査もせずブランク・チェックを切ったという時代もあったと聞きました。このとき必要なのが、統率力があり役所との交渉ができ研究マネージのできるリーダーたる人物です。また広い分野のVIPと知り合いである、知り合いになれる人物というのも大きな資質になります。小柴先生はまさにこのタイプの人物です。 東大の教師ほど楽な商売はない。学生が優秀なので教育に手間をかける必要がない。 これは半分正しく半分正しくありません。私を含めてプロブレム・チルドレンが2,3人いて、小柴先生の厳しい教育を必要とした学生もいたのです。どのような教育だったか、後ほど紹介したいと思います。 ここでちょっと先生のお若いときの話をしないといけません。先生は、考え方・気質は、むしろアメリカ人と考えるべきです。フリードマン博士のことを書いたとき、小柴先生をすぐに思い浮かべたのも、このためだと思います。 先生のお若いときのことは、昔断片的に聞いただけです。以下書くことは不正確かもしれません。そのときはお許しください。 先生は、第一期フルブライト留学生としてアメリカに留学し、30歳代後半まで宇宙線研究で大活躍しました。実はお酒を飲みながらの話題で、ほとんど下ネタばかりでした。先生が具体的にどのような生活を送ったか、研究生活でどのような活躍をなさったか正確なことはお聞きしませんでした。ただ、私どもが大学院生のとき、アメリカでのスライドをよく見せていただき、留学先のロチェスター大学の事も断片的に聞きました。 ロチェスター大学では素粒子のレッジェ・ポール理論で有名なトゥリオ・レッジェと同期で、彼と1,2を争うスピードでPhD(博士号)を取得した、と言っていました。レッジェ仕込みのスパゲッティを小柴先生自ら作ってわれわれがご相伴したことも何回もありました。 東大のビリが恐ろしい努力をしたことがわかります。 その後、宇宙線研究に入りました。ほとんど銀でできたような原子核乾板を大気球で大気上空に上げ、超高エネルギー宇宙線が原子核乾板中で起こす原子核反応を数多く捕らえる、大規模な観測実験でした。 この観測研究のスライドを数多く見せていただきました。当時、小柴先生はまだ30歳代半ば。すでに大規模研究のPI(研究代表者)でした。第2次世界大戦が終わってまだ10年くらいでしょうか。いくら優秀とはいえ、30歳代半ばの敵国人を良くぞPIにするか、今から思うとアメリカという国の偉大さをつくづく思い知らされます。 さて、スライドです。その規模の大きさ、唖然として彼我のあまりの格差に呆然と見物するだけでした。 (続く) 先日、伝説の物理学者ジョーン・アーチボルド・ホイーラー博士が亡くなったというニュースが入りました。 アメリカ下院の有志議員は、物理学者ジョーン・ホイーラー博士をたたえる決議を採択しました。堕落しきった日本の国会では考えられないことですね! ホイーラー博士といっても知っている方は少ないと思います。純粋な理論物理学者なので、私も彼の業績とのコンタクトはありません。 上のリンク先に、ホイーラー博士の教師としての興味深い一面が載っていました。日本の大学教師と比較することは面白いと思いましたので、翻訳してみました。ただし、アメリカの多くの大学教師がホイーラー博士と同じようだ、と言うつもりはまったくありませんが。 ホイーラー博士の教え子でその後共同研究を行ってきた一研究者の手記です。 それでははじめてみます。 17年前のあるきれいな秋の日、僕はとある研究室に入り込み、人生がまったく変わってしまった。僕はプリンストン大学の学部生で、大学院での指導教官を探していた。「ジャドウィン ホール」という場所は近づきがたいところだった。僕の教科書によく出てく連中が多くそのホールに巣くっていた。ノーベル賞受賞者もちらほらいたし。そして、学部生はそこに入っていって彼らと研究するよう求められていたのだ。 ある研究室のドアはいつも開いていて、歩きがてら覗いてみると、主はいつも研究に没頭しているのがわかった。ノートに書き物をし、書棚の横に立っていたり、殆どの時はチョークを片手に黒板の前にいた。この人物が現代物理学者の伝説の一人、ジョーン・アーチボルド・ホイーラーだった。彼は、原子核分裂反応の初期の研究でニールス・ボーアと共同研究を行い、量子力学の発展に本質的な貢献をした。彼はSマトリックス理論を発明した。彼はマンハッタン・プロジェクト(原爆)および2次マンハッタン・プロジェクト(水爆)で重要な役割を担った。一般相対性理論に関しては、チャーリー・ミスナーとキップ・ソーンと共著で書いた教科書がこの分野のバイブルとなっている。また、新しい名前をつけることで有名だった:ワーム・ホール、クォンタム・フォウム、ブラック・ホール、宇宙の波動関数(ホイーラー・ドウイット方程式)。彼は何世代かの学生を育て上げた;第一世代の一人がリチャード・ファインマンだ。 僕はまだ20歳で、こんな研究のことはほとんど知らなかったけれど、重力と宇宙論に興味を持っていて、ホイーラーがこれらのことを一つか二つ知っていると聞いたことがあった。そこで彼の研究室に入っていった。4時間後、いっぱい本を抱え、見通しのよくついた研究目標を手に入れて、ふらふらと研究室をよろけ出た。それからの2年間、ほとんど毎日ホイーラーと一緒に過ごした。毎朝僕は彼の研究室に向かう。いつも「What’s new?」が挨拶だった。とにかくこの質問に答えたくて夜遅くまで起きていたものだ。それから何時間も時間をかけて、僕の結果について計算をチェックし、文献を調べ、新しいアイデアのブレインストーミングを行った。ホイーラーは研究の楽しさを直接個人的に教えてくれた。ランチはファカルティ・クラブに出かけていった。彼はとにかく速足だった。エレベータを使わず階段を飛ぶように上っていった。1990年のことだ。ホイーラーはすでに80歳だった。 時々講義に出かける時間の無駄遣いはあったけれど、午後いっぱい一緒に研究した。夕方、ジャドウィン・ホールからアイビー路地、ワシントン道路を通り、キャンパスを一気に横切って彼のバスをつかまえた。ジョーンズ・ホールの横を通ったけれど、ホイーラーがアインシュタインと相対論を議論したところだ。フィッツランドルフ門から外に出たほうが便利だけれど、ホイーラーはナッソウ・ホールの前を通ってわざわざ遠くの門から出ることに固執した。学部生は卒業までフィッツランドルフ門から出ない伝統があって、彼は僕にそれを破って欲しくなかったのだ。 2年間僕はマスターの足元に座り、科学や人生について目いっぱい吸収した。ホイーラーは広範な興味を持っていて、バイオロジー、歴史や詩についてよく議論した。僕らはその後も一緒に研究することになった。ホイーラーの最後の論文は僕との共同研究だ。 昨日、僕は彼のベッドサイドで2,3時間過ごした。ありがとうと言いたかったのだ。しかし、僕の人生で彼がどんな存在だったのか、僕がいかに感謝しているか、伝えることは不可能だった。僕は彼の研究室の敷居をまたいて新しい航海に乗り出し、今もその航海途上にある。彼が僕にこの航路を示してくれたことを僕がいかに感謝していることか。 ジョーン・ホイーラーは今朝死んだ。 (山中教授への研究資金内訳。クリックして鮮明にしてください。) (平成20年度から新たに始まる再生医療関係の競争的資金。クリックして鮮明にしてください。) 今日は、山中教授がどの程度の資金を受けているのか、WGの資料や科学研究費補助金のデータから情報を取り出してみました。上の最初の表がそのまとめです。今まで主に科研費による支援で研究が行われていることがわかります。平成19年度に多くの資金が終了します。科研費では研究費の重複受給に制限がありますが、なぜかそれをすり抜けてもらっているケースがあります。ちょっと状況を調べる必要があるようです。 平成19年度から大型の資金である科研費「特別推進研究」が認められています。特別推進では、この研究に専念する義務があります。平成20年度には、厚労省の科研費を重複してもらっていますので、今後特別推進の専念義務を検討する必要があるでしょう。 また、平成20年度から新たに始まる再生医療関係の競争的資金を上の2番目の表に示しました。この資金はiPS細胞研究だけでなく、ES細胞研究等の推進にも使われます。(本庶先生はどう裁くのでしょうか。5月12日ブログ参照。) 平成20年から、府省共通管理システムの運用によって、いくつかの競争的資金内での重複排除の作業がスタートします。早稲田大学の松本和子教授が使いきれないほどの研究費を(むりやり?)受けて、不適切な方法で研究費を使ったことが大きな問題になりました。重複排除は、このような経費不正使用を防ぐために行われるものです。 山中教授が平成20年度から始まる資金に応募するかどうか知りません。もしそうなると、重複排除が考慮されることになるでしょう。 個人的意見ですが、能力のある研究者が複数の研究費をもらっても、十分に研究を遂行し大きな成果をあげることができるのなら、どんどん制限なしに研究を行ってもらうほうが国益になるわけで、なんら問題にならないと思います。残念ながらその辺を見極めるのが難しく、そのために重複排除のルールが設けられつつあるわけです。 一般的に、大きな研究費をもらっている方は、透明性を十分担保して、誰が見ても納得できるような研究成果をあげてもらいたいと思います。 < 前のページ次のページ >
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