(名前のわからないバラ。ガレージの屋根の下で咲く。5月14日撮影。) 恩師の思い出、続きです。 大学院生のとき、先生がアメリカで行っていた観測研究のスライドを数多く見せていただきました。 先生の行っていたのは、数100キログラムの銀の塊のような原子核乾板を大気球で大気圧にして平方センチあたり数グラムに上げ、超高エネルギー宇宙線が原子核乾板中で起こす原子核反応を数多く捕らえる、大規模な観測実験でした。 今でも学生のときに見た1枚のスライドが目に浮かびます。大気球を放球するのに風が大敵です。スライドでは、気球が風で流されないように、気球を航空母艦の飛行甲板から打ち上げていました。風の影響を避けるために風下に向かって空母が走っています。垂直に懸垂された気球がまさに上空に飛び立たんとしています。気球は空母と同じくらいの大きさに見えました。 日本でも将来このような大規模研究ができるようになるのだろうかと、夢心地でスライドを見ていました。 研究は空軍の支援を受けていたのでしょうか、当時先生は准将待遇で副官が付いていたとおっしゃっていました。30歳半ばの日本人ですよ。あっけにとられたものでした。 小柴先生は東大に赴任するとき、ブローリー・スタックと呼ばれる原子核乾板(先生がPIをなさった研究)を多く持ち帰っていました。私は修士のとき、この原子核乾板内で起きている超高エネルギーの核反応の解析に参加しました。研究材料は世界最先端のものでした。 先生の学生に対する教育、特にできの悪い私のような学生への教育を紹介しましょう。 スライドを見るという楽しみもありましたが、修士のときの「論文輪講」のつらさは今も忘れることができません。アメリカ物理学会誌など最先端の情報がよく掲載される数種類のジャーナルから、重要な論文を選びます。自分で選ぶと英語が理解できる論文を選ぶので、重要性など二の次になってしまいます。先生から直ちに却下の指示があり、お前この論文を紹介しろ、ときます。 1950年代後半から1970年代は、素粒子物理学と天体物理学にとってブレークスルーの発見が相次いだ黄金時代でした。パルサーの発見、中性子星との同定、ベータ崩壊におけるパリティ非保存の理論および実験的検証、K中間子崩壊におけるCP非保存の発見などがありました。また、ブルックヘブン国立研究所とセルンでの高エネルギー加速器を使った精密な素粒子実験のデータが続々と発表されました。理論では、ヤン・ミルズ・ゲージ理論、電弱統一理論、大統一理論などの萌芽的研究が始まりました。 先生は、重要で的確な論文を見つけてくるわけですが、当然のことながら難解なやつばかりです。私は学部授業を一切サボっていますので、英語の専門単語の知識がまったくありません。英語の文章は追えますが意味がまったくつかめません。そこを、わかったような顔をして日本語に訳して皆さんに話すわけです。化けの皮はたちまちはがれてしまい、先生の鋭い質問に立ち往生、毎回勉強をやり直して出直すことになりました。 大げさに言えば、当時の人生目標は、何とか輪講で先生の質問に的確に答えられること、でした。とにかく自分で勉強せざるを得ませんでした。学問の何たるかをある程度知ったのはこの時期でした。 先生は重要な研究を見つけるのに動物的な勘を持っていました。この能力を何とか手に入れたいとずっと努力してきましたが、先生の足元にも及びませんでした。残念至極。 数人の大学院生が、原子核乾板を使った研究に参加していました。私は修士時代に第一線の原子核乾板の研究に参加していましたが、先生や助手の須田英博博士と私も入って行うべき研究について何回も議論をしました。先生のご託宣は、 おい、これで行こう。10年必死にがんばれば世界のトップに立つことができるよ。 このときから、私の仕事も、学問の知識の吸収から、博士論文にすべきミュー束の勉強(ミュー束現象の学問上の重要性の検討や世界の観測データの精査)が始まりました。また、それを観測するための新たな観測技術の会得が、須田先生の指導の下に始まりました。 (続く) by fewmoremonths | 2008-05-18 13:18 | 教育
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