(我が家のキンレンポ。5月5日撮影。) 5月14日のブログで、伝説の物理学者ジョーン・アーチボルド・ホイーラー博士が教師としてどのような人物だったのか、彼の教え子が書いた手記を翻訳してみました。 お前自身は教師としてどうだったのか、と聞かれることが一番困ります。私は最低の教師だったことを白状しなければなりません。 それでは、お前の教師はどうだったのか、と聞いてください。先生の期待にこたえることはできませんでしたが、類まれなる恩師に恵まれたことは確かです。 先生はまだかくしゃくとしていて、私はまだ時々教えを受けます。先生のご紹介をするのはまだ早すぎるかもしれませんが、こちらの寿命が尽きてしまいます。先生の思い出を脈絡もなく書いてみたいと思います。失礼なことを書きましたら、先生許してください。 私の恩師は、2002年のノーベル物理学賞受賞者、小柴昌俊博士です。 先生がよく口にした言葉をもとに思い出を手繰ってみたいと思います。 俺は東大の物理学科をビリで卒業した。 先生は別にビリを自慢していたわけではありませんが、先生、はできの悪い私のような学生の気持ちをわかってくれるんだなと安心したものです。というのも、私は学部のときに空手部に在籍し、3,4学年生のときは講義にまったく出ず、部室にたむろしているかマージャンをやりに出かけていたのです。期末に徹夜マージャンで試験をすっぽかして一年留年しました。翌年、大学院の試験を受けたのですが無論最低の成績でした。 小柴先生は1年前に東大物理学科に赴任し、第1期に入学した大学院生が大変優秀だったので、勢いあまってビリの私も第2期生として拾ったのです。小柴先生はご機嫌がよろしいと今でもお前はビリだったと広言するのでいささか閉口します。ビリの2乗ですから。 ただ、先生は勉強はビリだったかもしれませんが、確か東大駒場寮で寮の委員長か副委員長を勤め、統率力の片鱗をすでに見せていて、青白き秀才とはまったく異なった人物だ、ということを忘れてはいけません。 アメリカはマンハッタン計画の後、大規模研究の効率性に目覚めていました。大規模研究計画をあまり審査もせずブランク・チェックを切ったという時代もあったと聞きました。このとき必要なのが、統率力があり役所との交渉ができ研究マネージのできるリーダーたる人物です。また広い分野のVIPと知り合いである、知り合いになれる人物というのも大きな資質になります。小柴先生はまさにこのタイプの人物です。 東大の教師ほど楽な商売はない。学生が優秀なので教育に手間をかける必要がない。 これは半分正しく半分正しくありません。私を含めてプロブレム・チルドレンが2,3人いて、小柴先生の厳しい教育を必要とした学生もいたのです。どのような教育だったか、後ほど紹介したいと思います。 ここでちょっと先生のお若いときの話をしないといけません。先生は、考え方・気質は、むしろアメリカ人と考えるべきです。フリードマン博士のことを書いたとき、小柴先生をすぐに思い浮かべたのも、このためだと思います。 先生のお若いときのことは、昔断片的に聞いただけです。以下書くことは不正確かもしれません。そのときはお許しください。 先生は、第一期フルブライト留学生としてアメリカに留学し、30歳代後半まで宇宙線研究で大活躍しました。実はお酒を飲みながらの話題で、ほとんど下ネタばかりでした。先生が具体的にどのような生活を送ったか、研究生活でどのような活躍をなさったか正確なことはお聞きしませんでした。ただ、私どもが大学院生のとき、アメリカでのスライドをよく見せていただき、留学先のロチェスター大学の事も断片的に聞きました。 ロチェスター大学では素粒子のレッジェ・ポール理論で有名なトゥリオ・レッジェと同期で、彼と1,2を争うスピードでPhD(博士号)を取得した、と言っていました。レッジェ仕込みのスパゲッティを小柴先生自ら作ってわれわれがご相伴したことも何回もありました。 東大のビリが恐ろしい努力をしたことがわかります。 その後、宇宙線研究に入りました。ほとんど銀でできたような原子核乾板を大気球で大気上空に上げ、超高エネルギー宇宙線が原子核乾板中で起こす原子核反応を数多く捕らえる、大規模な観測実験でした。 この観測研究のスライドを数多く見せていただきました。当時、小柴先生はまだ30歳代半ば。すでに大規模研究のPI(研究代表者)でした。第2次世界大戦が終わってまだ10年くらいでしょうか。いくら優秀とはいえ、30歳代半ばの敵国人を良くぞPIにするか、今から思うとアメリカという国の偉大さをつくづく思い知らされます。 さて、スライドです。その規模の大きさ、唖然として彼我のあまりの格差に呆然と見物するだけでした。 (続く) by fewmoremonths | 2008-05-16 10:14 | 教育
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