(「犀の角たち」の表紙。) 佐々木先生の「犀の角たち」論考の最後、大乗仏教です。 お釈迦様が到達した悟りとは何か。もう一度おさらいしておきましょう。 「縁起の理法すなわち、我々人間は、因果律に沿って存在しているという真理」に達したことである。(196ページ) 古代仏教は絶対的超越者の天啓を必要としない、というのが、他の宗教とまったく違うところです。また、物質と精神という対象は違うけれど、仏教の思想は科学とよく似ています。 「法則世界に束縛された状態にありながらも、その中で真の安らぎを得るための道である。」(199ページ) 苦を超克するには結局自分の努力しかありません。努力することを修行といいます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 日本にある大乗仏教は、古代仏教とどこが違うのでしょうか。 「我々在家者も仏陀を目指すことが出来る。」(229ページ) 「在家者であっても・・・、在家生活の中で実践している『善行』が、そのまま、仏になるための修行として有効になる。このための修行方法が、六波羅蜜行、その六種の中でも最も重要視されたのが、『智慧の完成』すなわち般若波羅蜜である。」(230ページ) 古代仏教では、修行をする出家者はいわばエリートで、在家者は彼らを支える存在でした。しかし、在家者も苦を超越した悟りがほしいと思うのは当然です。つまり、大乗仏教は、在家者でも仏を目指すことが出来る、という点がまったく新しい点です。 お釈迦様が死んで数百年もたつと、新たな教義を考える出家者が出てきて当然です。「本来、釈尊の教えから外れた教義を唱えるのは、『僧団の破壊行為』に当たり、これは最悪の犯罪に当たる。これが、『破僧』、すなわち僧団破壊と呼ばれる犯罪である。」(221ページ) しかし、僧団の数が多くなるにつれて、統一した教義を維持することが出来なくなり、紀元前のいつか、「破僧」の定義が変更された。(220ページ) この時点から、あらゆる教義のバリエーションが出てきたそうです。新しい教義を「大乗」と総称して呼びます。 古代仏教のところで重要な点を説明しませんでした。 「ある人が仏陀になるためには、過去において別の仏陀と出会い、その仏陀に向かって『自分も将来は仏陀になりたい』という決意を示さねばならない。その過去の仏陀は、『お前は必ず将来、仏陀になるであろう』という保障を与えてくれる。この手順を通過したものだけが、菩薩と呼ばれ、仏陀を目指す修行を実践することが出来る。過去の仏陀とであって『自分も仏陀になりたい』と願い出たものだけが仏陀になれる。」(228ページ) ところが仏陀はすでにいない。次にこの世に現れる仏陀は弥勒であるが、その出現までには何十億年という待ち時間がある。 「それでも人々は仏陀に会いたいと思った。」(227ページ) 大乗仏教の新理論がここから始まる。 この世に仏陀はいない。しかし、平行した宇宙が無数あるとしたらどうか。そうすれば無数にある宇宙のどれかに、仏陀のいる世界が必ずあるに違いない。もしその世界と交信できれば、そこにいる仏陀から保証をもらうことが出来るではないか。「これが『三千大千世界』や、『極楽におられる無量寿仏(阿弥陀如来)』といった概念である。」(228ページ) よく考えましたね。このアイディアは、科学における最新の多宇宙論(Multiverse)に通じるものがあります。ただし、多宇宙論では宇宙間の交信はまったく不可能ですが。 あとは、極楽と交信するための修行「六波羅蜜」、「般若波羅蜜」を実践すればよい。 「極楽におわす超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。」 「釈尊時代の修練としての仏教と大乗仏教は、別個の宗教である。」(232ページ) 絶対者におすがりして幸せに暮らすか。世界の法則を理解しつつ過酷な修練で悟りを開くか。日本人は前者を採用しました。多分、その教義しか日本に伝わってこなかったのでしょう。 20年ほど前に松原泰道・平川彰氏編集「仏教を読む」10巻(集英社)を買って読んだ記憶があります(まだ書棚に(きれいなまま)あります)。記述が詳細すぎ、かつ科学とはまったく異なった記述方法だったため全容を捉らえきれず、今ではまったく記憶に残っていません。「犀の角」のような方法で大乗仏教を説明した本はないのでしょうか。 by FewMoreMonths | 2008-02-18 09:34 | 人生
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