佐々木閑先生の「犀の角たち」を読み返す、その3、古代仏教の本質

(「犀の角たち」の表紙。)

 今日は仏教についてです。といっても日本で見聞きする仏教ではなく、お釈迦様が生きていた時代にあった仏教、古代仏教の話です。

 「科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理試行を繰り返すうちに神の視点をいやおうなく放棄させられ、・・・・、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物資的世界観を作らねばならなくなった。」(163ページ)

 これに対して、

 「一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。」(163ページ)

 大上段過ぎてよくわかりません。お釈迦様がなぜ出家をしたのか、のほうがわかりやすいです。

 「『老・病・死』という、万人共通の苦しみを強く意識し、思い悩んだ末、出家を決意する。」(本書では苦の中に「生」が入っていない。)(187ページ)

 お釈迦様が到達した悟りとは何か。

 「縁起の理法すなわち、我々人間は、因果律に沿って存在しているという真理」に達したことである。(196ページ)

 因果律とは難しい言葉ですね。何かが起これば必ずその原因がある、という原理のことを言います。天啓によって何かが突然訳もなく起きる、ということを排除しています。

 古代仏教は絶対的超越者の天啓を必要としない、というのが、他の宗教とまったく違うところです。また、物質と精神という対象は違うけれど、仏教の思想は科学とよく似ている、というのが、佐々木先生が最も強調されている点です。

 「法則世界に束縛された状態にありながらも、その中で真の安らぎを得るための道である。」(199ページ)

 苦を超克するには結局自分の努力しかない、ということです。納得です。

 努力することを修行といいます。

 修行のシステムとして、出家による集団生活体制をとる。集団生活は基本的生活規則(律)を基にする。

 努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。単に精神の法則性の解明を目的とするのではなく、そうやって解明された法則性を基盤として、自己の精神における「苦」の消滅を目指す。

 修行生活の基本は、「自活の放棄」、一般社会の人が食べ残したものを分けてもらう生活方法(乞食(こつじき))である。つまり、出家者が修行するためには、どうしても一般人が必要である。

 興味深いのは、生活規則(律)は、時代とともに変更されることなく、堅く守られているらしいですね。古代仏教でさえ、宗教として、創設者の意思をかたくなに守らなければならないのでしょう。

 科学ではベターなことが出てくれば躊躇なくそれを取り入れて常識にしてしまいます。上に書いたように、科学は法則性の解明がすべてですが、仏教は法則性を解明した後に、自己の精神における苦の消滅という、もっとも大切な努力が入ります。私には理解できませんが、苦の消滅を成就するためには、戒律の変更はむしろ害をもたらすのでしょう。

 修行は、自活の放棄、精神の集中、それを集団生活の中で行う努力ですが、私にはやはり無理のようです。

 日本にある大乗仏教のように、おすがりでき、お願いできる超越者がいるほうが、凡人にとってありがたいことは確かです。

 しかし、科学の哲学とよく似た宗教があった、ということは面白いことです。

by FewMoreMonths | 2008-02-15 15:37 | 人生


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