科学と仏教に関する佐々木先生の御著書「犀の角たち」については、以前に簡単に触れました。今また気になって読み返しているところです。 目次を紹介しましょう。 序文 第1章 物理学 ページ9 第2章 進化学 65 第3章 数学 103 付論 ペンローズ説の考察 149 第4章 釈尊、仏教 157 第5章 そして大乗 213 あとがき 未来の犀の角たちへ です。科学に147ページ、仏教に82ページを使っていますから、本書は科学の記述に重きを置いています。 仏教書が、なぜ科学により多くのページを割いているのか、というところが気にかかります。キーワードを拾ってみましょう。 「科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人知を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の解明がそのまま神の存在証明になりえたのである。」(18~19ページ) これならば何も問題がないように見えます。科学が進歩して、新たな法則が出てきたら、それを新たな神の御業である、と定義しなおせばよいことになります。 「キリスト教世界においては、その脳の生み出す理想世界とは、すなわち神の創りたもうた世界を意味するから、上の構図を重ねてみると、『神のお創りになった世界はこうあるべし』という直覚的な世界が、・・・」 佐々木先生は、「脳の直覚が生み出す完全なる神の世界」という表現をよく使います。人間は神が作った最高の製品であり、被創造物=人間の最も重要な脳が「直覚的に感じる」ものはすなわち神のお考えになることだ、と理解しました。 一神教世界では、万物やその間に働く法則は神が創りたもうたものであり、それらは古代の聖典にすでに記載されている。太陽や星は地球の周りを回っていなければならない。神は数千年前、動植物を今見る形で創造された。 一神教では、神の御業=脳の直覚は時間とともに変わらない普遍なものだ、ということも「直覚」で理解できます。 さて、近代科学の歴史を見てみましょう。大くくりに3つの出来事を書きます。 ・コペルニクス・ケプラー・ガリレオの天動説からはじまり、ガリレオの幾何学を使った自然の理解、さらにニュートン以降に成し遂げられた、数学によって自然法則を記述する科学は、長足の進歩を遂げました。19世紀半ば以降、量子論、相対性理論の芽生えとなる新たな観測事実が見つかってきました。時代とともに、科学は神の教えと乖離していきました。 ・さらに生物の詳しい観察から、ダーウィンは、自然淘汰によって生物は姿かたちを変えていく「進化」の概念を打ち立てました。進化学も神の啓示とは大きく異なっています。 ・数学でも、古代にさかのぼれば、ゼロという数の発見、分数で表すことの出来ない無理数の概念(円周率パイや2の平方根など)、2乗して負になる虚数の導入がありました。近代では、ガリレオによって無限という数の概念が導入されています。数学は、神を離れて人間の自由な思考作業になってきたのです。 著者はこのような科学の進み具合を以下のように述べます。 「世界を精神と物質に二分し、物質世界の法則だけを探求するのが、科学という分野である。」(13ページ) 近代科学は、自然をありのままに観察し、直覚に頼らずに自然界の法則を導き出す。また、人間の自由な発想によって、数学に新しい概念を導入する。つまり、直覚=神を離れて人間の自由な発想に依拠して発展してきたのが、科学である。 著者は、このことを「神」に対比させて「人間化」と呼んでいます。 科学は、神の呪縛を離れた人間自身の作業である、とでもいったらいいのでしょうか。 私は以上の議論に異存はありません。ただ一点、「脳の直覚=神の考え」には違和感を覚えます。聖典に書かれていることは、神が預言者に啓示した人知の及ばない律法だと考えたいところです。 by FewMoreMonths | 2008-02-11 17:46 | 人生
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