今日は、遅れていた和田中夜間塾についてのお話をもう一回して終わりにします。 以下に、夜間塾の論争とは無関係のように見えますが、私の個人的な意見を述べてみたいと思います。 スポーツについて 子供たちはスポーツで遊ぶことが大好きです。誰の目にも明らかなように、かけっこの速い子供がいるし、ボール取りやサッカーボール蹴りが上手な子供もいます。 運動能力の高い子供はそれをさらに伸ばしてプロの選手になろうとします。ボストン・レッドソックスの松坂投手が60億円の契約金を交わして話題になりました。しかし、松坂投手の活躍を、「選ばれた選手と排除された選手の間に差別が生まれて人間関係を壊す」などとバカなことをいう人は一人もいません。 子供、一般的に人間には運動能力に個人差があります。能力とともに努力が必要なことはいうまでもありません。「スポーツの能力+向上心の能力」のない者がいかに努力しても、そこに限界があることも事実です。 芸術について スポーツと同じように、絵を描くこと、ピアノやバイオリンを弾くこと、小説を書くことなどには、「芸術の才能+向上心の才能」が必要だ、という意見にもほとんどの人が同調すると思います。 誰もがピカソになれるわけではありませんし、マーラーやトルストイになれるわけでもありません。 私たちは、人の芸術的能力に大きな較差があることに疑問を持ちませんし、 「選ばれた芸術家と排除された芸術家の間に差別が生まれて人間関係を壊す」などとバカなことをいう人もいません。 学術について 学術は普通アカデミックな活動を指します。ここでは、学んでそれを生かす能力という意味で、芸術に対比させて「学術」という言葉を使います。 スポーツや芸術と同じように「学術の能力+向上心の能力」にも、残念ながら個人差が厳然と存在します。アインシュタインやダーウィンのような科学者に簡単になることはできません。私は元科学者なので、その点は身をもって痛感しました。アインシュタインの論文を読んで、とても自分にはこの発想は生まれないと納得しました。 「選ばれた科学者と排除された科学者の間に差別が生まれて人間関係を壊す」のような議論はナンセンスです。 さらに経営や画期的な製品製造などにも同じことが言えます。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、セルゲイ・ブリン、ラリィ・ペイジはその分野で才能に恵まれた人々なのです。 人生について ちょっとペシミスティック過ぎる意見かもしれませんが、私の人生観を書きます。 人間の人生とは、自分の夢をひとつひとつ捨てていくプロセスです。自分が持っていると思っていた能力が実はたいしたことはなかった、ということを順々に気づいていく作業が人生なのです。 自分の能力の程度またはその限界に早く気づくほうが幸せな人生のような気がします。 学校教育について 学校においても、子供の「学術の能力+向上心の能力」に個人差がある、という厳然たる事実の元に教育を行わなければなりません。 教育では、 1)子供たちに一般的な知識を授けて社会に出ても困らないようにする教育 2)能力のある子供には、社会でその能力を最大限発揮してもらうために、その才能を自由に伸ばす教育 の2点がどうしても必要です。3番目として敢えて言えば、 3)子供たちのいろいろな能力を発見してそれを子供に認識させる教育 が望ましいでしょう。 繰り返しますが、学校教育は知識を授けることが第一義の目標ですが、可能なら、子供たちの学術、芸術やスポーツの能力、その他の能力を的確に見つけてあげる努力をすべきです。しかし、それらは、まず、保護者の責任に帰すべきことかもしれません。 2年ほど前に、全国から中学2年生を集めて授業を行う「関本・有馬塾」に参加したことがあります。有馬先生にお聞きしたところ、大阪府の教育委員会は、子供の格差につながるということで、塾への生徒の推薦を断ったと聞きました。皆さんどう思いますか。 和田中学校のHPを訪問してください。夜間塾開講の前に全校の生徒たちの学力向上にも努力していることが伺えます。その上で能力のある子供たちを伸ばそうと努力しているようです。 無論、この試みは後日評価が必要です。今から5年後以降、第3者により、夜間塾を受けた子供たちが大人になって活躍しているかどうか、もし活躍しているのなら夜間塾はどの程度貢献したのか、を検証しなければなりません。国の委員会組織と違い、夜間塾を開始した責任者ははっきりしているのですから、その評価に従った褒章あるいは責任追及が可能です。 明日からPISA2006の最後の報告に入ります。 by FewMoreMonths | 2008-01-31 09:07 | 教育
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