佐々木閑先生の「科学とは競合しない」(朝日新聞10月25日夕刊)を読む
 10月25日の朝日新聞夕刊に、「日々是修行」という連載のエッセイだと思いますが、「科学とは競合しない」というタイトルに興味をひかれて読みました。エッセイストは花園大学教授の佐々木閑先生です。私は先生をご存じないのですが、連載タイトルやエッセイの内容をみると仏教学者とお見受けします。

 タイトルの「科学と競合しない」は「科学と仏教は競合しない」と理解しました。
私はこの年まで仏教に関するまともな本を読んでいないことに気が付きました。父母の葬式に般若心経を唱えましたが、死者を悼む言葉は全くなく、悟りの極意と思われる文言をただ声に出しているだけで、父母の供養になったのかどうか自信がありません。今でも理解を超えています。

 仏教では、釈迦をはじめとして何人かの悟りを開いた人々、如来、菩薩等が信仰の対象になっていることは知っていますが、それ以上の知識はありません。どうも日本人として恥ずかしい限りです。

 佐々木先生のエッセイは短文ですが、私にとって簡潔にして要を得た仏教入門になっていることに気がつきました。ちょっと内容をご紹介したいと思います。

・仏教は、キリスト教やイスラム教のように、絶対的な神は認めない。しっかり座って考えて真理を悟る。それはすべて自分でやること。

・「その真理とは、原因と結果によって世界が動いていくという因果の法則だ」と釈迦は言う。

・それを実感として体感するには、自分も釈迦と同じ体験をするしかない。そこに修行の意味がある。

・仏教は智慧の力で「心の中の法則」を探求する宗教である。

   簡潔な文章ですが、仏教の第一歩を我々に教えてくれます。しかし、よくわかりませんね。

 21世紀を切り開いた科学革命の一つである量子力学の根本は、物事の起きる事象が確率的である、つまり「原因なしに突然起き」、法則としては「起きる確率が存在する」だけだ、ということは科学入門(10月26日のブログ)で紹介しました。この根本は因果の法則と真っ向から対立します。「因果の法則」を死ぬまで信じたアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って、最後まで量子力学の根本を信じませんでした。もしかしたら、21世紀、アインシュタインの悩みが正しく、「因果律」の復活というパラダイムの大転換が起きるかもしれないと、勝手な可能性にちょっと触れました。

 「因果の法則」は、このように「心の中の法則」とともに、自然界全体の根本的大問題です。私のような元物理科学者によくわからないのは、「心の法則」という意味です。
 その前に「心」の意味さえ理解していません。またここでいう「法則」も自然科学とちょっと違うかもしれません。

 その辺をすべて今後の宿題としたとき、「人は『法則の探求』を止めてはいけない」、というのがまず仏教を宗教としてとらえる始まりかなと、とんだ間違いをしているかもしれませんが思った次第です。

佐々木先生の言葉は続きます。

・科学は智慧の力で「物質世界の法則」を探求する。

・「宗教」の名のもと、キリスト教などの絶対神信仰とひとくくりにされて、仏教の持つ素晴らしい合理性はいつも陰に隠れてしまう。

・ドーキンスという生物学者が「神は妄想である」という本を書き、副題が「宗教との決別」である。ドーキンスが批判しているのは、科学的思考を妨害するキリスト教的信仰世界であって、それは釈迦の仏教とは全く関係がない。

・科学と決別するどころか、これからいよいよ科学との連携が深まるに違いない。

 以上です。昔、「神とは研究するものではなく信じる対象である」と聞いたことがあります。仏教は、上にも書いた様に、修行を通して「心の」心理を探求することとありました。これは真髄としてまさに科学と同じです。

 仏教を宗教というべきか迷ってしまいますね。

 私は、キリスト教が1600年代ガリレオの思想を異端と断じたことや、現在でも進化論に対する拒否反応があることを、不快感を持ってブログに書かせていただきました(9月29日、30日「神の愛はダーウィンとガリレオに及ぶのか」)。無謬な唯一神の存在を仮定した時(仮定などと言ったら怒られそうですが)、神の言は常に正しくそれに反論することは許されない、という思想ももっともだと思われます。しかし、自然は次々と神が言われたことと違う姿を見せ続けてきました。その時その宗教はいかに対応すべきか、が問われているのだろうと思います。

知人のローレンス・クラウス教授がヨハネ・パウロ二世に出した手紙の中に、法王ご自身の言われた文章が引用されています。

"It is important to set proper limits to the understanding of Scripture, excluding any unseasonable interpretations which would make it mean something which it is not intended to mean. In order to mark out the limits of their own proper fields, theologians and those working on the exegesis of the Scripture need to be well informed regarding the results of the latest scientific research."

「事物の意味を理解するのに、神が意図しなかった理性的でない解釈を排除するため、聖書の解釈にある限界を設けることは重要である。神学者や聖書註解学者は、最新の科学成果に十分に触れておかねばならない。」

また、国際神学委員会の言として、

God is...the cause of causes. Through the activity of natural causes, God causes to arise those conditions required for the emergence and support of living organisms, and, furthermore, for their reproduction and differentiation. (Evolution is) radically contingent materialistic process driven by natural selection and random genetic variation. Even the outcome of a truly contingent natural process can nonetheless fall within God's providential plan for creation.

「神は原因の源である。自然界に原因を持つ活動として、生物の発生や保存、さらに増殖、分化が起きている。しかし、このような自然界の活動の源には神がおられるのである。自然淘汰や遺伝子の突然変異という、非常に不確実な物質的なプロセスで進化は引き起こされている。にもかかわらず、真に不確かな自然プロセスといえども、神のご意思による創造の範疇にはいるのである。」

私は、キリスト教徒がこのように信仰することには何ら問題はないと思います。

佐々木閑先生の今後のエッセイを楽しみにしています。

by FewMoreMonths | 2007-11-15 16:14 | 人生


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