昨日アメリカ下院外交委員会が「オットマン・トルコによる1915年のアルメニア人の殺害は虐殺(genocide)である」との決議第106を27:21で採択した、という件に関して意見を書きました。
記事を書きながら遠い過去を思い出しましたのでちょっと書いておきます。 私は1972年から途中中断を挟んで1981年まで合計すると6年半ドイツのハンブルクで生活していました。当時は、石油危機があったり、ベトナム戦争の終結があったりで、世相騒然としていました。 当時ドイツ人の性格でおもしろかったのは、1973年の第一次オイルショックの時の彼らの行動です。さすがのドイツも石油欠乏に瀕し、アウトバーンの最高スピードを毎時100kmに下げました。それまでは速度制限がなかったので、メルセーデスやBMWなどが時速200kmくらいでとばしてくるので、アウトバーンでの遅い車の追い越しは決死の覚悟でした。 スピード制限が決まるや、ドイツ人は一斉に100という数字の入ったワッペンを車に貼り付けてしおらしくのろのろと走っていました。この間、アウトバーンでの死亡事故は30%下がったと伝えられました。死亡率の劇的な低下はすごいことですので、そのまま速度制限を続けると思いきや、石油危機が去ったとたん、アウトバーンの速度制限は撤廃され、メルセーデスやアウディの暴走がまた始まりました。ドイツ人やることは理解できないとそのとき思ったものでした。 当時ハンブルクの研究所には日本人など誰もおらず、私たちはハンブルクの日本人滞在者ともあまり交渉がなかったので、生活には大変苦労しました。特に、妻や、息子、娘の苦労は大変だったと思います。 息子は1歳未満でドイツにきて、3,4歳になってから近くの幼稚園に入れました。ドイツ語も全くできず泣き叫ぶ息子を抱きかかえて幼稚園に連れて行きました。妻はそのまま幼稚園に止まり息子を見ておりました。 しかし、子供の適応力はすごいもので、半年もすると片言のドイツ語を話し、イギリスから来た「ヤーニー」君と遊ぶようになりました。ヤーニー君は研究所のすぐ隣のアパートにいたものですから、息子が彼の家に行ったり、ヤーニー君が研究所内の私たちの宿舎に遊びに来たりしていました。その後、ヤーニー君のご両親は離婚して、お父さんとヤーニー君はイギリスへ帰っていったと思います。 その後、2年ほど日本に帰り、またドイツに家族で赴任しました。今度は研究所近くのアパートを借りて生活を始めました。息子は地元の小学校に入り、あまりドイツ語で苦労することもなく、勉強も皆に遅れずについていったようです。当時ドイツの小学校は半日の授業で、すぐ家に戻って来て友達とアパートの広い芝生でサッカーをして活発に遊んでいました。 アパートの年老いたご主人は博士の称号を持った薬剤師で、薬局を経営し大きな家の1階に住んでいました(我々は2階住まい)。大家さんは大変理解のある方で、子供たちがサッカーで庭の芝生をめちゃめちゃにしても、楽しそうに子供たちを眺めていました。息子のドイツ語も上達し、大家さんから私の息子は「den perfekten Hamburger Dialekt、(完璧なハンブルク訛り)」をしゃべっていると感心していました。 大家さんご夫妻には、時々お呼ばれして果物の入ったドイツ菓子をごちそうになりながらおしゃべりをした楽しい思い出もあります。 2年前、久しぶりにハンブルクに寄ったものですから、バスでちょっと出かけて懐かしのアパートを見に行ってきました。大家さんご夫妻は多分もうお亡くなりになったと思いましたので、お声をかけませんでしたが、家は全くそのままのたたずまいで存在し、周囲に鬱蒼と茂った高木(Eich、日本のミズナラに近い)もそのままでした。 近くには日本にあるのと似た自然石の忠魂碑があり、「Gedenken der Gefallenen、倒れし者を思へ」を懐かしく眺めました。 息子の友人の中で、傍目にもわかるほど優秀な子供がおりました。ベーレント君といってトルコの両親を持つトルコ少年でした。しっかりした子で、勉強もクラストップだったと思います。母親はトルコ学校の先生、父親はエンジニアだったと妻が思い出してくれました。 当時、ドイツにはトルコ人とイタリア人の出稼ぎが多くいて「Gastarbeiter」と呼ばれ、無言の差別を受けていまたし、彼らの職業はドイツ人のやらないような仕事で、収入にも大きな差がありました。 しかし、ベーレント君の一家は毅然としてしっかりとした生活を送っていた記憶があります。 私の妻はよくベーレント君の母親と話したそうで、トルコ帝国のことは日本の歴史で学んだことがあると言ったら大変喜んでいたと、記憶をたどって話してくれました。 ベーレント君はドイツできっと優秀な人物になったに違いありません 私の娘はまだ小さく、母親に連れられて幼稚園に通っていましたが、どうもドイツに馴染めなかったようで今でも気の毒だったと思っています。 1981年に家族で日本に帰ってきた後、子供たちがあっという間にドイツ語を忘れ、大学でドイツ語を習っても、昔のような発音が全くできないことに、大変がっかりしました。 今思い出しましたが、ドイツで息子が友達と大騒ぎして遊んでいる会話をテープに録音してありました。日本に帰ってから1,2年して彼にそのテープを聴かせました。何と、彼は自分がしゃべっている言葉を理解できませんでした!変な顔をしていましたが、さぞかし奇妙な感覚だったことでしょう。今となっては楽しい思い出です。 by FewMoreMonths | 2007-10-20 12:35 | 人生
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