奥飛騨の生活、過疎化
また5年前の思い出話になりますが、私の住んだ奥飛騨の一集落を紹介しましょう。私のつたない文章よりも名人に語ってもらうことにします。
司馬遼太郎著、「街道をゆく29、秋田県散歩飛騨紀行」(朝日新聞社)301ページに、
「この街道はずいぶん古い歴史をもっていて、いまも、『越中東街道』とよばれている。道は渓流に沿っている。川は神通川支流で、高原川という。流れは、北に向かって滝のように流れており、両岸はひしめくような山壁である。道路はいくつかのトンネルをくぐっている。飛騨の北辺は山ばかりである。ついに、茂住に達した。-中略― よろずやの前で車をとめた。車から降りたものの、呆然とするような僻村だった。道路の近くに山壁があって、平場というものがみられない。-中略― 高原側のかつての氾濫が、このあたりでわずかに河原をひろげているにすぎない。
慶長のころ、このあたりの斜面や谷間、河原などに“銀山町”として千軒の家がひしめいていたといわれるが、いまは鬱然たる山林の地で、往時をしのぶよすがもない。-中略― 道路からおりてゆくと、美しい山門があって「金龍寺」という扁額がかかっていた。-中略― 茂住屋敷の石垣はどこかと思って、境内のあちこちの石垣を見たがー後略―。」
 私たちの仕事場は、金龍寺さんから一軒はさんで南側にありました。私の部屋の窓から、この文章の中にある石垣がちょうど真正面にあり、毎日眺めていました。仕事場の地主さんと、司馬遼太郎はちょっと辺鄙に書きすぎているなあなどと、よく話したものでした。
 私は、20年間、この集落で働き、そこが徐々に崩壊するさまを見てきました。文章に出てくるよろずやも、とうになくなりました。仕事場の給油を一手に引き受けてくれたガソリンスタンドの夫婦も店をたたみ、能登に移住していきました。最近入った情報だと、長年懇意にしていただいた地主さんも引っ越すそうです。築200年になる家はどうなるのだろう。また、集落に最後に残った商店の酒屋さんも近々店を閉め、おばさんは岐阜に引っ越すそうです。この酒屋さんには大変お世話になりました。よく清酒「立山」を買い込んで、晩飯代わりに仕事場の部屋で一升瓶を抱えて飲んでいたものです。

 過疎化は今に始まったものではありません。私の住んでいた町では縄文時代の遺跡が出て、狩猟採集民族が住んでいたことが分かります。弥生時代の遺跡は少なく、米作に適さない山地から、人々が平地に移住したようです。養老年間に銀鉱山が発見され、再び人が住み始めました。その後、鉱山の盛衰とともに、各所に廃墟となった集落跡が今も多く残っています。人々は仕事がなくなり、移住していったのです。つまり、人々の移住による過疎化は太古の昔からあり、いわば自然の摂理と考えるべきことなのです。
 当時、町では、過疎化を食い止めるための審議会を立ち上げ、私も委員として末席を汚しました。私は、「山業を興せ」というキャッチフレーズのもと、山地に適した産業を調べました。残念ながら、それらは平地ではもっと効率よくできることがわかり、山地に誘致することは不可能で、あきらめざるを得なかったのです。
 現在、国がお金を出して過疎地、特に農村を立て直そうという案が議論されています。集落の崩壊を目の当たりにしてきた経験から、自立でき、かつ若者がインセンティブを持てる産業(農業も含めて)を見つけない限り、自然の摂理の前に、集落は「鬱然たる山林の地」に埋もれてしまうでしょう。

by FewMoreMonths | 2007-08-07 11:49 | 奥飛騨


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