前章では「妙法は『大宇宙の根源法』(非人格)である」とする池田氏の妙法観が、久遠元初自受用報身如来の無作三身から拝して、恐るべき魔説であることを証明しました。池田氏の妙法観・本尊観の全体(※)は以下に示した通りであす、当章では残りの本尊観の部分について破折を加えたいと思います。 (1)本章の役割について
※大宇宙の一切の運行や現象を引き起こし、変化させ、更にあらゆる生命の働きを生じさせる根本の法則がある。それが妙法であり、その根本法則を日蓮大聖人が、具現化し一幅の『曼荼羅』に顕したのが御本尊である。この御本尊に帰命することにより、大宇宙のリズムと合致して、幸せになっていく。 ただし上記のごとく、氏の本尊観は氏の妙法観を前提として成り立っていますので、既にその妙法観の誤りがハッキリしている以上、やはり本尊観の方も狂っているだろうことは想像に難くありません。
創価学会は平成5年10月以降、 独自の本尊を発行・配布しております。これに対する破折は、『創価学会“ニセ本尊”100問100答』(日蓮正宗法義研鑚委員会編)などに詳しいので、各自御参照下さい。当章では、『ニセ本尊』の謗法それ自体ではなく、その根底にある池田大作の妙法観・本尊観を分析して、一体どのような思想・教義から『ニセ本尊』制作に至ったのか考察し、その誤りを糾したいと思います。
(2)池田氏の本尊観について
宇宙のことごとくの運行、現象を引き起こす根源の力として、妙法がある。その妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。 (パナマ信心懇談会) このように池田氏の本尊観のポイントは、『宇宙の根源法たる妙法』を日蓮大聖人が御図顕されたものが本尊(曼荼羅)である、と捉えることです。まるで西洋占星術の魔法陣(記号)のような解釈です。次の文章は更に特徴的です。
日蓮正宗の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです。・・・外なる宇宙に実在する生命、天体の運行、調和を図る存在の代表として、大日天、大月天、大明星天等々が、同じく図顕されています。 (仏法と宇宙を語る 1−56) ちなみに、このような解釈は池田氏のオリジナルであって、日蓮正宗の歴代御法主上人の御指南は勿論のこと、牧口・戸田創価学会両会長の指導にもみられません。そもそも『宇宙の根源法』という考え方が、池田氏のオリジナルなのですから、それも当然のことでしょう。
少々話しは逸れますが、創価学会を脱会されて法華講に移籍された方々でも、なかなか学会時代の偽教学が抜けきらない場合も多いようです。ここまで読まれて「そうだったのか!」と思った方は、池田大作の息の掛かった教学は全て、一度白紙撤回する必要があります。
それでは、日蓮大聖人様は、あるいは御歴代の御正師は、法本尊についてどのように御指南遊ばされているのでしょうか。 (3)法本尊の真義について
日蓮がたましひを、墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御心は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 (経王殿御返事) 『宇宙に遍満する法』を墨に染め流したなどとは、御書のどこにも述べられておりません。ここでは『日蓮がたましひ(魂)』と仰せです。また『御本尊七箇相承』には、次のような御相伝があります。
明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影、今の大曼荼羅なり。 (富士宗学要集1−32) 南無妙法蓮華経は御本仏日蓮大聖人様の仏身にのみ具わり、それ以外の何処(いずこ)にも存在致しません。池田大作は「日蓮正宗の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです」などと勘違いしていますが、全くどうしようもない外道義です。氏はそう信じ込んでいるのでしょうが、宇宙の図を拝んでみたところで何で功徳があるというのでしょうか。大石寺56世日応上人は、次のように御指南されています。
本尊中央の妙法の五字は宗祖己心の妙法にして、十界列座の聖衆は即ち宗祖己心所具の十界なること、日を見るよりも明らかなり。 (弁惑観心抄P23) 誠に畏れ多いことではありますが、御本尊様の十界互具の御相貌(そうみょう)について申しますと、文上脱益の寿量品の儀式(教相の本尊)の姿を借りてはおりますが、それはあくまで久遠元初自受用の御相貌を顕す為の迹であります。故に『御義口伝』に、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。 と説かれているのです。即ち御本仏日蓮大聖人様の仏身は、そのまま『人の本尊』であり、しかも人・法の本尊は一体不二の関係にあります。ですから御本尊様の御相貌は自受用報身如来の御境涯、つまり日蓮大聖人様の御命に具わる十界の生命を、御図顕遊ばされたものと拝するべきです。
問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。 (観心本尊抄文段)
本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。 (聖教新聞H7・8・2)
久遠本有の妙法蓮華経は大聖人の具し玉ふところであります。大聖人はその御境涯を観心の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以て御本尊と考へてはならないのであります。 (日淳上人全集P981) ここまでくると池田大作の創価学会教学と、日蓮正宗に伝わる日蓮大聖人様の御法門とは、似ても似つかない、最早全く異質のものであることが御判りでしょう。
本尊観が違いますから、当然法華講員と池田教徒では御本尊様に対する拝し方も、180度違ったものとなります。日寛上人は『観心本尊抄文段』で次のように仰せです。 (4)創価学会『ニセ本尊』発行の思想的背景
若し草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字(もんじ)及び木画と思うことなかれ。 つまり我々は御本尊様のおわしますところ、生身(しょうしん)の大聖人様が『常住此説法』相を現ぜられていると拝し奉り、常随給仕申し上げるのであります。
ところが創価学会は、また勝手な解釈をするのです。
この御本尊は、自分の『信心』のなかにこそあると大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。 (聖教新聞H4・7・5) 池田氏も御本尊の大切さを、とりあえずは認めているのですが、法華講員のように無条件に仏様として尊敬申し上げるのではなく、まず自分自身が大切であって、その胸中の妙法を開くための『手段』(道具)として大切であると説いているです。先ほど、御本尊をあたかも魔法陣のように表現していると批判しておきましたが、要するに彼等は御本尊様を『道具』扱いしているのです。松戸行雄に至っては、次の様に述べています。
それは、御本尊が仏界の当体であるという『実体論』の崩壊である・・・従って我々の仏界を写す鏡であるという実践的『象徴論』が表になっていく歴史の必然的流れがある。 (人間主義の『日蓮本仏論』を求めて P136) この度、大御本尊御遷座の一つの契機となった、以下の池田氏の発言は、明らかにこの流れから生じたものです。
曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。(中略)いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である『久遠元初元初の法』を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。 (聖教新聞H5・5・5) インドのある方が言われていた。「総本山に参詣しなければ功徳がない」という宗門の主張は、道理からいっても、まったく意味をなさない。 (聖教新聞H4・2・29)
後者の発言に関しては、直接「大御本尊様」とは表現しておらず、しかも『インドのある方』の言葉だそうでありますが、前者は明らかに本門戒壇の大御本尊を池田大作自ら誹謗しております。氏の思考経路からして当然の結論でありましょう。
※上の聖教新聞は池田氏の5月3日の指導を推敲掲載したものであるが、出回っているテープによると、実際のスピーチでは「板曼荼羅にこだわっておられない。もっと深い大聖人の仏法の真髄だ。この普遍性、ね、すなわち久遠元初の法」云々と、より直截的表現をしている。もっとも聖教新聞掲載の文面だけでも、破折文証として十分なので、当論文においてはそちらを採用した。また、池田氏は日蓮正宗寺院から創価学会員への御本尊下付が停止された後、学会独自の本尊を発行するまでの、ごく限られた期間においてではありますが、『御本尊不要論』を助長するともとれる、軽率な指導を行っているのです。
戸田先生は御本尊のない、『地獄』のごとき牢獄で二年間を過ごされた。そしてあの偉大なる境涯を開かれた。 (聖教新聞H3・12・2) 御本尊をいただいた門下は相当数いたと思われるが、弟子や信徒の全てに授与されたわけではなかったのである。 (聖教新聞H4・3・16)
さらに御用学者松戸行雄を使い、もう一歩突っ込んだ発言をさせて、様子を見計らいました。
大聖人の時代でも信徒全員が御本尊を戴けたわけではない。したがって、これまでもそうであるように、成仏が御本尊受持に全く依存することもないはずである。 (人間主義…P136) 大聖人の教義を原理的に再検討すると、最終的に御本尊そのものの意味が、したがって本門戒壇の意義も変わるはずである。 (人間主義…P9)
こうして、最終的に決定した創価学会の教義が、かの『ニセ本尊』の販売なのです。時の御法主上人の許可もなく、しかも在家が無断で本尊を大量に発行・配布するという、前代未聞の大謗法が、いかなる思想的背景とその遷移を経て行われるに至ったのかを、以上、各種文献を参考にしつつ検証しました。
以上のような日蓮正宗と創価学会妙法観・本尊観の相違、即ち異なる宗教としての対立点は、学会側の反省によって一時的に影を潜めてはいたものの、単に形式的な懺悔に過ぎなかったため、やがて必然的な破綻をきたすこととなりました。組織的な対立は表面的な現象に過ぎません。ここに独自の在家教学の弊害は明らかです。 (5)第3章・第4章のまとめ
宗祖日蓮大聖人様は、
此の経は相伝に有らざれば知り難し。 (一代聖教大意) と仰せです。さらに日興上人様も、「当門流においては極理を師伝」せよ(日興遺誡置文)と門下を誡められています。故に血脈付法の御法主上人猊下の御指南にしたがって、日蓮大聖人の仏法を学んではじめて正しく信解できるのだと知るべきでしょう。それ以外の不相伝家の解釈は、如何にそれがわかり易く書かれていたとしても、むしろ御書の心に背く魔の所為であることを恐れなくてはなりません。果たして日蓮大聖人様が「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」などと仰せでしょうか?
最後に日蓮正宗の甚深の妙法観・本尊観を拝し、『池田大作の妙法観とその誤り』のまとめに代えさせていただきます。
南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思・境地冥合・久遠元初・自受用報身如来の御當體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・獨一本門戒壇の大御本尊 南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世定恒の御利益・主師親三徳大慈大悲宗祖日蓮大聖人
『当家三衣抄第六』 (参考) 木患子経に云く・・仏言く大王若し煩悩を滅せんと欲せば、当に木患子108個を貫き常に自ら身に随え、志心に南無仏・南無法・南無僧と唱え、乃ち一子を過ぐべし云々。乃至、
南無仏・南無法・南無僧とは若当流の意は、
南無本門の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初自受用報身・無作三身・本因妙の教主・末法下種の主師親・大慈大悲南無日蓮大聖人師、
南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初の自受用報身の当体事の一念三千無作本有・南無本門戒壇の大本尊、
南無本門弘通の大導師末法万年の総貫首南無日興上人師、南無一閻浮提座主伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此の如き三宝を一心に之を念じて唯当に南無妙法蓮華経と唱え乃ち一子を過ぐべし云々、行者謹んで次第を超越すること勿れ。(後略)