中国は何故、高句麗史を飲み込もうとするのか

新東亜、2003年9月

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■韓国の歴史主権に対する中国の深刻な挑戦

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金正日政権崩壊時、延辺朝鮮族自治州の動揺防ごうとする深慮遠謀

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「延辺の知識人社会は「どよめく」、しかし、韓国の学会と政府は「静まる」

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韓国の北方史研究著作物分析する中国の歴史機関

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高句麗を中国辺方政権に位置付けようとする「東北工程」プロジェクト

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日本、渤海は中国史に、高句麗史は韓国と中国史両方に分類

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 昨年初め、記者は、京都にある日本国立博物館を訪ねたが、びっくり仰天した。京都博物館の壁に掛かっている東北アジア年表に「韓国の歴史の中に含まれているものと信じて疑わなかった」高句麗史が韓国と中国の歴史両方に分類されており、渤海は、初めから中国史側に入っていたためである。

 隣接国家同士は、領土と歴史問題を置いて、争うものである。韓国は、日本と独島領有権問題で争っており、日本の歴史教科書歪曲是非を置いて、外交摩擦まで醸し出した。しかし、日本は、韓国と中国の歴史問題に関しては、「第3者」である。 しかも、日本は、中国と競争関係にあるのに、高句麗史を韓国史と中国史両方に分けており、渤海史を中国史に分類 していた。いつから、日本が「親中国」になったのか?

 生まれて初めて、このような資料に触れ、私は、相当頭が混乱させられた。とにかく、その後、記者は、韓国の関連学者や高位人士と会う度に、この話を取り出した。「どうすれば良いのか」。

■今こそ復活する北方史

 海軍は、KDXとして出る新型駆逐艦を建造し、高句麗の偉人の名前を付けた。KDX-I第1番艦は、「広開土大王艦」、第2番艦は、「乙支文徳艦」、第3番艦は、「ヤン・マンチュン艦」である。記者は、海軍が事後建造する艦艇に渤海創始者である大祚栄の名前を付ける計画がないことを知り、海軍関係者と会う度に、「新たに作る艦艇中、1隻には、必ず大祚栄という名前を付けなければならない」と主張した。

 この主張が飲まれたのだろうか。とにかく、海軍は、KDX-IIを建造し、当初の計画を変え、現在建造している第3番艦を「大祚栄艦」と呼ぶことに決定した。既に建造されたKDX-U第1番艦と2番艦は、「忠武公李舜臣艦」と「文武大王艦」である。第4番艦は「王建艦」、第5番館は「カン・カムチャン艦」、第6番艦は「チェ・ヨン艦」と名前を付ける予定である。朝鮮半島で活躍した英雄の名前だけ付けようとしていた当初の計画を変え、満州原野を駆けた豪傑の名前を入れることにしたのである。

 一方、陸軍は、2000年、「天下第一軍団」と呼ばれていた第1軍団の別名を「広開土軍団」に変えた。これによって、我々は、海軍の「広開土大王艦」と「大祚栄艦」、そして陸軍の「広開土軍団」を備えることになった。

 事実、韓国が朝鮮民族北方史に目を向けたのは、つい最近のことである。それ以前まで、古朝鮮から高句麗と渤海に繋がる朝鮮民族北方史に対する研究は、むしろ北朝鮮が主導した。

 これは、金日成が政権の正当性を古朝鮮と高句麗から探そうとし、これに対応して、朴正熙大統領は、三国統一を成し遂げた新羅から南北統一の気迫を起こそうとしたためである。1994年10月11日、北朝鮮が食糧難と経済難が深刻な中でも、檀君陵を完工したのは、彼らの正当性を朝鮮民族北方史から探そうとする努力と無関係ではないだろう。

 2002年に開かれた日韓ワールドカップは、韓国で朝鮮民族北方史を劇的に復活させた一大事件として記録されるだろう。全国を「テーハンミングック」という歓声で覆い尽くした赤い悪魔が中国神話で「戦争の神」や「軍神」として出てくる東方の指導者蚩尤天王を自分達の象徴物として取り出したためである。

 史学会で正式に認定する学説はないが、桓檀古記等によれば、朝鮮民族史は、恒因が治める恒国で恒雄が建国したという倍達国に、そして檀君が立てた古朝鮮に繋がる。蚩尤は、倍達国の14代天王として非常に勇猛であり、中国人の祖先である黄帝と多くの戦争を行い、彼らに恐怖感を植え付けたという。しかし、蚩尤は、黄帝との最後の戦いで破れて死んだ。中国民族は、このような蚩尤を軍神として受け入れ、漢の高祖劉邦は、戦争に出て行く時毎に、蚩尤天王の祠堂に祭りを捧げたという。

■中国の高句麗史編入意図

 このような蚩尤の登場は、韓国民衆が備えている「大陸と白頭山に対する恋しさ」から始まったものと見られる。しかし、朝鮮民族北方史をより明らかに究明しようとすれば、徹底した学問的研究が付き従わなければならない。火薬のように爆発する民衆の情緒ではなく、几帳面さと忍耐に象徴される精緻な研究がなければならないだろう。

 韓国が中国と修交したのがわずか11年前で、今も南北が分断されている現実は、朝鮮民族北方史を研究する充分な人員と資料を確保するにあたって、制約要因となっている。そのような間、日本は、高句麗史を中国と韓国両方に、渤海史は、初めから中国史に入れてしまったのである。

 最近、記者は、中国を出入りするある事業家から中国共産党の党報とか、党の論理を正確に代弁するものとして定評がある「光明日報」に、「高句麗は、中国東北地域にいた辺方民族の王朝だった」という内容の文が載せられたという通報を受けた。この事業家は、「延辺朝鮮族自治州の知識人達は、このような内容の報道以後、大きく「どよめいて」いる。ところが、正に韓国では、学会とマスコミ界全て、蜜を舐めた 蝉のように静まっている」と指摘した。

 彼は、「北京にある韓国マスコミの特派員達は、これを見られず、見たとしても、たいしたものではないと無視したようだ。さもなければ、中国政府を意識して、見なかったのかも知れない。中国は、韓国特派員に6ヶ月毎にビザを更新しており、中国に不利な記事を書いた特派員は、ビザ満了を理由に、いつでも追い出すことができる。従って、北京特派員は、この問題を取り上げるのが難しく、韓国にいる記者が提起しなければならない」と強調した。

■金正日政権崩壊以後に備える(?)

 彼は、延辺にいる朝鮮族自身の言葉を引用して、このように付け加えた。

 「日帝時代、満州に出てきた朝鮮人が中国人と一緒に抗日闘争を行ったのは、良く知られた事実である。抗日闘争を行った朝鮮人中の1人が金日成だった。しかし、毛沢東時代、朝鮮族は、「朝鮮族が抗日闘争に参戦した」ということを語れなかった。特に文化革命時は、少数民族を弾圧する雰囲気のために、一層声を出せなかった。

 朝鮮族が「日帝侵略期、朝鮮人が中国人と一緒に苛烈な抗日闘争を行った」と語られたのは、ケ小平が執権した後だった。ところで、改革・開放が多く進捗した今、中国共産党を代弁する「光明日報」が「高句麗は、中国歴史の一部分だ」という内容の文を掲載したのである。

 推測するに、中国は、韓国と米国が延辺を金正日政権を倒すための橋頭堡として利用するのを事前遮断するため、このような文を掲載したようである。また、金正日政権崩壊以後の状況に備えている感じもする。金正日政権が崩壊し、朝鮮半島に「統一」という新しい秩序が建設されれば、朝鮮半島の4分の1大(43,547平方km)に200万の人口を有する延辺長専属自治州が動揺する可能性があるためである。

 朝鮮族自治州が動揺すれば、西蔵自治区にいるチベット人と新疆(新疆・ウイグル)地区にいる回教徒もざわめく可能性がある。このような動きが広がれば、中国は、5代10国以後、新しい分裂期に入っていくこともあり得る。中国は、春秋戦国時代以後、数多くの分裂を経たために、それに対する恐れがある。従って、高句麗は、元来、中国史の一部だったと予め強調することによって、金正日政権崩壊期にあるかも知れない朝鮮族の動揺を遮断しようとするのだろう。

 この事業家の前言と解釈が事実なのかの可否は、確認することができない。しかし、中国が韓国の学者達が遂行した高句麗史等に対する研究資料を大々的に収集しているのは事実である。8月6日付「中央日報」は、高句麗と渤海等、朝鮮民族北方史を研究してきた韓国の学者達が中国の研究機関から「あなたの著作物を中国語に翻訳しても良いでしょうか」という連絡を受けたと報道した。

 続いて、「中央日報」は、「学者達は、中国研究機関の提議を初めには、良い意味に考えたが、直ぐに中国が高句麗史等を中国の歴史に編入するための論理を立てようとしているのを知って、不快になっている」と報道した。この記事で実名が取り上げられたある学者は、この報道が事実であることを認めた。

■「東北工程」プロジェクト

 7月14日付「中央日報」は、少数民族史を研究する中国社会科学院傘下の「中国辺疆史地研究中心、www.chinaborderland.com」が昨年2月、「東北工程」というプロジェクトを立てたと報道した。このプロジェクトは、5年間、200億元(約3兆ウォン)の事業費を入れて、高句麗に対する研究を大々的に広げ、高句麗を中国辺方の少数民族政権に位置付けることが目的だという。

 「中央日報」報道によれば、このプロジェクトの計画書は、「中国の東北地域は、近代以後、戦略的要衝地であるのみならず、特に改革開放の要求に従い、この地域に対する歴史研究に関心が高まっている」と書いているという。この報道に接した韓国の学者達は、高句麗を中国の歴史に確実に編入し、朝鮮半島有事の際、延辺朝鮮族自治州等が動揺しないようにする中国側の深謀遠慮だと指摘した。

 事業家の通報と「中央日報」報道を通して、中国側に高句麗史を吸収するためのある種の雰囲気があることを感知した記者は、問題の「光明日報」記事を探し出した。記事は、「光明日報」のインターネット版である「光明網、www.gmw.com.cn」の「歴史」部分に6月24日付で上げられていた。記事の題目は、「高句麗歴史研究のいくつかの問題に対する試論(原題:試論高句麗歴史研究的幾個問題)であり、この記事が載せられたサイトは、http://www.gmw.com.cn/gmw/gmwhomepage.nsf/documentview/2003-06-24-16-48256A22001B0C1248256D4F00003216?OpenDocumentである。

 記事の作成者は、「辺衆」とされているが、辺衆が実存の人物なのか、さもなければ、「中国辺方に住む民衆」という意味の架空人物なのかは分からなかった。この試論の主題は、一言で「高句麗族は、中国辺方少数民族の1つであることから、高句麗は、中国歴史の一部分だ」ということ。この試論は、「徹底して」中国資料にだけ依存し、中国と高句麗関係にだけ焦点を合わせて分析しようとした痕跡が見える。

 この試論を読んでみたある関係者は、「この試論は、高句麗が新羅・百済と戦争と外交を通して結んできた関係に対しては、ただの一度も取り上げなかった。ただ、中国王朝と高句麗の間にあった関係にだけ焦点を合わせて分析したために、この試論を読んでみた中国人は、「高句麗は、韓国と全く関係ない中国歴史の一部分なのか」という考えを持ち得ると見る。今や、韓国は、日本の歴史歪曲だけを問題にしていた時代から中国の歴史歪曲にも目を向けなければならない時代に進入した」と語った。

■「光明日報」試論の無理押し

 この試論は、「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」という式の詭弁を広げている。1番目に目に付く無理押しは、中国と高句麗は、元来、1つの国で、隋と唐が高句麗と行った戦いを「異民族征服戦争」ではない「統一戦争」として描写した点である。例えば、同じ民族である高句麗と百済・新羅が相手を吸収しようと行う戦争は、「統一戦争」とし、異民族を吸収しようとする戦争は、「征服戦争」だとするのが一般的だが、この試論は、征服と統一を意図的に混同させた。

 この試論が盛り込んでいる2番目の無理押しは、王建が立てた高麗は、高朱蒙が建国した高句麗と全く関係がないとしたことである。試論は、唐の統一戦争成功により、高句麗は再び中国の懐の中に入ってきたが、朝鮮半島で高句麗の後裔であると主張した王建が高麗を立てたことによって、再び高句麗史を 乗っ取ったと主張する。試論は、その根拠として、高句麗は中国歴史書に「高麗」として出てくるが、王建がこれを盗用して、朝鮮半島に立てた国を「高麗」と命名したと指摘する。

 また、高句麗は、高氏が王位を継いだ「高氏高麗」で、王建の高麗は、「王氏高麗」と明らかに異なると前提した後、「王氏高麗」の高麗が「高氏高麗」を継ごうとすれば、王建は、王氏ではない高氏でなければならないと主張した。王建が本当に高氏高麗を 継いだのなら、後裔に十訓要(訓要十条)を残すとき、「私は、高氏高麗の後裔だ」と語らなければならないが、そのような言葉を残さなかったというのである。

 試論はまた、王建は、「三韓山川の保護に位置する」と語ったことから見て、王氏高麗は、高句麗を忘れないもので、一足更に出して、王建は、楽浪時代にいた漢族の後裔であると主張した。

 このような主張は、「何故、国家を王族関係だけで見るのか」という問題を引き起こす。試論は、恐らく、劉氏姓で続いていた前漢が滅亡したが、再び立てられたとき、後漢の王制が前漢と同じ劉氏だったという中国的特徴からこのような論旨を探したものと見られる。

 しかし、国家は、王室の姓が同じであってこそ、続くものではない。例を取ると、隋の皇室は、楊氏姓を付け、唐は、この劉氏王朝だった。しかし、今、中国は、隋と唐が全て中国の法統を継いだ国家だと主張する。

 可笑しくも、試論は、今の韓国もまた、王氏姓の高麗と李氏姓の朝鮮を引き継いだ国と位置付けている。王建は、高句麗王室の血を継いだのではなく、その法統を継いだという意味で高麗を建国したが、試論は、この点を看過している。3尺の童子でも指摘できる 弱点を「中国共産党の党報」は、堂々と出したのである。

 3番目に、試論は、「明皇帝は、李成桂を朝鮮王に冊封したことによって、朝鮮という国号を下賜した。朝鮮という名前のために、高麗の後裔である李氏王朝は、中国人が建国した箕子朝鮮−衛満朝鮮− 漢四郡−高句麗にその脈を当てられた。ここに王氏高麗が高氏高麗を盗用したことが付け加わって、中国が箕子朝鮮以後、東北地域で作ってきた歴史が全て朝鮮史に移された」と主張する。

 このような主張は、非常に甚だしい無理押しである。試論は、中国歴史書に出てくる古朝鮮をただの一度も言及しなかった。伏生が編纂した中国の歴史書である「尚書大伝」を見れば、「周の武王が殷を滅亡させ、監獄に閉じ込められた箕子を釈放させるや、彼は、これを好ましくなく感じて、朝鮮に逃げた。武王は、この消息を聞き、箕子を朝鮮王として封じた」という内容がある。「漢書」地理誌燕条にも、「殷が衰えるや、箕子が朝鮮に行って、礼儀と農事・養蚕・機織の技術を教えた」という内容がある。

 「尚書大伝」と「漢書」の描写通りとすれば、箕子が来る前、既に中国東方に「朝鮮」(李成桂の朝鮮と区分するため、古朝鮮と表現する。)があったことになるが、試論は、ただの一度も、古朝鮮に対して言及しなかった。このように有利な資料のみ引用して、不利な資料を排除した試論著者の態度は、この試論が特殊目的のため書かれたことを如実に見せている。

■多民族国家維持のための深慮遠謀

 「光明日報」試論に対して通報してくれた事業家は、「この試論は、単純に高句麗史を中国史に編入するために書いたようではない。この試論は、中国と高句麗は、統一戦争を行った同じ国家だったということを見せることによって、今、中国の地に住んでいる朝鮮族達に「あなた達は、今の高句麗人だ。あなた達は、中国人ということだ」と語っているようだ」と診断した。

 今の中国は、全人口の92%を占める漢族と55の少数民族で構成された多民族国家である。中国を構成する代表的な少数民族は、荘族・満族・回族・苗族・ウイグル族(維吾爾族)・彛族・土家族・蒙古族等である。朝鮮族は、全体少数民族の2.6%、192万名と少数民族中では、14番目に多い。現在、中国は、少数民族優待政策を広げることによって、少数民族の独立紛糾を避けに出ている。

 この事業家は、「ソ連が経済的に倒れたとき、ソ連内に入ってきていた少数民族がCIS国家として独立していった。その後、ロシアは、ソ連が受けていた超強大国の地位を失い、2等国家に墜落した。多民族国家である中国は、ソ連のように経済が墜落し、少数民族すら独立して、2等国家に転落することを恐れている。中国は、ソ連の前轍を踏まないだろう」とし、このように語った。

 「中国が陸地を通して国境線を対面している国は、ロシア・北朝鮮を含めて14ヶ国だが、この国々は、一様に中国より豊かではない。独立した周辺国家が豊かになれば、中国辺方にいる少数民族は、「我々も、独立して豊かになってみよう」 と言うはずだが、周辺国家が貧しければ、中国は、これらを捕まえておく名分を備えるだろう。

 ところが、最近、2次北核危機が高まりつつ、米国の力により、朝鮮半島が韓国中心に再統一される可能性が高まった。統一した朝鮮半島が早い時間内に、今の韓国のように 豊かになれば、中国内の少数民族が刺激を受ける可能性がある。中国は、このような可能性を事前に遮断するため、高句麗が中国歴史の一部という試論を共産党党報に掲載したものである」。

■「高句麗史を政治問題化するな」

 この試論は、最後の部分で、その意図を明確に現す。試論は、「高句麗は、中国史の一部である。学術世界で詰めなければならない高句麗史問題を政治問題化しようとする傾向に断固として反対する」と書いている。

 今、少なくない朝鮮族が韓国を訪ねて来て、就業している。朝鮮族と韓国の出会いは、朝鮮民族北方史復権の動きと噛み合い、韓国社会に「高句麗に対する郷愁」を呼び起こしている。試論は、このような韓国の雰囲気に反対と明確に明らかにしているものである。

 ある戦略家は、「延辺朝鮮族自治州が中国の一部で、朝鮮族が中国人だという現実を否認することはできない。従って、中国の高句麗史歪曲に合わせて、「朝鮮族は、韓国人」という主張を広げれば、これは、中韓間に不必要な摩擦のみを引き起こす。韓国が朝鮮半島を再統一しようとするとき、中国を協調者ではない反対者に向かわせる可能性だけ高めるだろう」とし、「中国の高句麗史歪曲を 問うことも重要だが、この試論に潜んでいる中国の卓越した同化(assimilation)能力を学ばなければならないだろう」と語った。

 彼はまた、「過去、中国は、進んだ文化を土台に、高句麗族は勿論、中原を侵犯し、王朝を立てたモンゴル族(元)と女真族(清)を同化させ、領土と文化の地平を広げた。今は、少数民族優待政策により、数多い少数民族を抱え込んで、彼らを同化させていっている。今、韓国も、注意を向けて、同化政策を広げなければならない」とし、このように語った。

 「今、韓国が同化させていく対象は、異民族ではなく、同一民族である。韓国人の血を引き継いだ韓国系には、韓国に住んでいる韓国人と北朝鮮に住んでいる北朝鮮人(そして、脱北者)、中国に住んでいる朝鮮族、旧ソ連の領土に住んでいる高麗人、米国・日本等、自由世界に住んでいる海外同胞がいる。このような汎韓国界の主流は、やはり、韓国に住んでいる韓国人である。

 今、韓国人と最も良く融合しているのは、海外同胞であろう。朝鮮族とも比較的融合が良くなされている。朝鮮族は、韓国に低賃金労働者として進出し、大きな摩擦なく韓国人と融和されている。旧ソ連圏にいた高麗人達は、勢力が小さいのか、韓国と積極的な接触がない状態である。しかし、高麗人と韓国人や、高麗人と韓国人は、互いに好感があり、融合に大きな問題がないものと見られる。問題は、韓国が今後、統一の対象にしようとしている北朝鮮である。

 韓国に入ってきた脱北者中には、韓国社会に簡単に同化できない人達がいる。政府から定着金を支援までされても、彼らの一部が韓国社会に合流できず、不平分子となる現象は、何故、生まれるのか。

 韓国社会が脱北者を吸収するのに失敗すれば、これは、統一後、北朝鮮人と融合するのに大きな困難を経ることを暗示する。韓国は、経済的に成長し、北方史復権雰囲気が起こっている位、相対的に少数の韓国系融合のための優待政策を広げなければならないだろう。これが、統一韓国を作り、韓国歴史を守る出発点となるだろう」。

■韓国の同化政策はあるのか

 興味深いのは、主要国家が一様に「同化」に積極的だという事実である。6月15日、英国の「ガーディアン」は、「君主制の未来に関する委員会が、英国王は、これ以上英国教会(聖公会)の首長職(Supreme Governor of the Church of England)を維持しないことが良いという結論を下した」と報道した。

 英国は、1534年、ヘンリー8世の時、首長令を宣布して、ローマ教会(カトリック)から独立し、聖公会を作ったが、このときから、英国王は、聖公会の首長を担ってきた。ところが、君主制の未来に関する委員会は、500年近くなったこの伝統を壊さなければならないと主張したのである。

 何故、このような主張を広げたのだろうか。理由は、「多様な」英国民を包容するためである。英国は、大航海時代が開かれた後、世界各地に進出して、広大な植民地を開拓し、「日が沈まない国」となった。この時期、多様な宗教を信じる多様な人種が大英帝国の旗の下に入ってきた。これらの中には、1・2次世界大戦を経て独立し、国家を 築いた人が多かった。しかし、多様な宗教を信じる多様な人種が英国の国民として残った(ロンドン市内に行けば、黒人とターバンを覆ったインド系の人を多く見られる)。

 委員会は、英国王は、このように多様な宗教を信じる多様な人種の英国民を代表する国家元首とならなければならないことから、聖公会首長職は、取り除かなければならないという結論を導出したのである。

 委員会のこのような結論は、いわゆる「雑種優勢論」に根拠を置いているものと見られる。雑種優勢論は、単一血統よりは、異なる血統を吸収し、後嗣を継いでいくことがより優れた民族を作れるという理論である。

■力を得る「雑種優勢論」

 フランスもやはり、似たような方向を指向している。フランス政府から出てくる全ての公文書には、胸を露にした装いで、3色のフランス国旗と長銃を高く持ち上げている美貌の若い白人女性がシルエットで印刷されている。「マリアン ヌ(Marianne)」と呼ばれるこの女性の絵は、フランス大革命以後、フランスの象徴となった。

 ところが、8月初め、フランス下院は、「今日のマリアン達(Mariannes d’Aujourd’hui)という題目で、イスラムと黒人女性等をモデルにしたマリアンの写真13枚を庁舎の前に掲げた。多様な人種のフランス人を包容し、同化させるという意思をほのめかしたものである。

 多民族国家を指向し、領土と文化地平を広げ、世界最高に及んだ米国は、多民族という国家特性を維持するため、強力な法律で有色人種に対する差別を抑制している。

 ある戦略家は、「汎韓国界を主導する韓国人は、純粋血統主義を捨て、異国的な韓国界を包容して同化させられなければならない。それが統一を容易にする近道で、韓国文化と歴史の地平を広げる方案である」と語った。

 ある中国専門家は、このように語った。

 「中国が共産党代弁紙である「光明日報」に高句麗史は、中国史の一部だという試論を載せ、中国共産党の未来を提示する社会科学院傘下研究所が「東北工程」というプロジェクトを作ったとすれば、高句麗が中国の一部だと主張するのは、中国政府の公式的な立場という意味である。

 これに対して、韓国が取り得る方法は、学界を中心に、北方史研究を深化し、文化的に包容力を広げることである。万一、韓国がこのような努力に失敗すれば、蚩尤天王の旗は、焼き捨てられ、広開土大王艦と乙支文徳艦、ヤン・マンチュン艦、そして大祚栄艦を沈没させ、広開土軍団を解体しなければならないだろう。

 今や、東北亜は、「歴史戦争」時代に進入した。高句麗人は、賢く対処できず、国を失った。ところが、1,400余年が過ぎた今また、愚かに対処すれば、我々は、高句麗史すら失ってしまうだろう」。

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「光明日報」は、どんな新聞?

■学術・文化等を扱い、知識人主読者にした中国共産党の党報

 中国で発行される主要新聞は、全部中国共産党の機関紙と言っても過言ではない。有名な人民日報は、中国共産党機関紙として、中国共産党中央の見解を代弁し、全ての新聞を領導する位置にある。

 「解放日報」は、中国人民解放軍の機関紙で、経済日報は、中国共産党の経済関連情報を扱う。工人日報は、中国の官営労働組合である総工会の機関紙である。

 問題の試論を掲載した「光明日報」もまた、中国共産党の指導を受けて発行される中国共産党の党報である。この新聞は、「人民日報」とは異なり、学術理論と文化・芸術を主として扱うのが特徴である。従って、一般大衆ではない知識人を主読者としている。

 光明日報インターネット版(光明網)のホームページには、「光明を伝達する使節団(原題:伝播光明的使者)」という題目で光明日報を紹介するサイトがある(http://www. gmw.com.cn/3_zhuye/htm/gmsz.htm)。ここで、光明日報側は、「我々は、中国共産党の中央領導が主導する全国的で、総合的な党報である」と明らかにしている。続けて、「我が新聞は、我が党の知識分子を満足させる重要な新聞である」と、自身の性格を規定している。

 光明日報は、中国大陸で国共内戦が酣だった1946年6月16日、中国民主同盟主導で創刊された。このとき、中国共産党を率いていた毛沢東は、「団結すれば、光明が見えるだろう(団結起来 光明在望)という文字を、周恩来は、「光明の道(光明之路)」、朱徳は、「民主光明」という文字を書くことによって、この新聞の創刊を祝賀したという。

 国共内戦がほぼ終わり、中国共産党が事実上中国を統一した1949年7月、光明日報は、経済・文学・文学評論・学術・新語文等を主題にした特集版を出しつつ、自分だけの独特な色彩を備え始めた(中国に正式に共産党政府が継いだのは、1949年10月1日だった。)。光明日報が知識人を読者にした学術 ・文化記事を主として載せる新聞となったのは、このときからだと言う。

 中国を改革開放に導いたケ小平も、光明日報を通した宣伝作業に関心が多かった。ケ小平執権初期の1978年、光明日報は、「実践は、真理を検証する唯一の標準だ(実践是検験真理的唯一標準)」という題目の評論を発表したが、この後、中国では、思想解放運動が全国的に拡散した。この評論は、中国を改革と開放に導く信号弾だったのである。

 以後、ケ小平は、各演説で、「この評論の歴史的意義を高く評価する」と強調し、中国を改革開放に導いた。

■改革開放旗幟と法輪功批判最初に掲載

 ケ小平の後継者である江沢民もまた、光明日報の価値を高く評価した。江沢民は、1991年11月24日と1993年6月19日、光明日報の幹部達と会った席で、「光明日報は、我が党の知識分子を満足させる非常に重要な新聞である。私も、知識分子であるため、過去にも光明日報を読み、今も読んでいる。光明日報は、国内外の知識分子を団結させている」とし、光明日報の宣伝作業が非常に重要だと強調した。

 1994年8月、光明日報は、中国共産党の批准を経て、新聞の編集方向をより明確に規定した。このときから、光明日報は、中国共産党中央直属の事業体となり、中央宣伝部を代表するニュース機構に席を占めた。

 光明日報は、法輪功に対して最初に批判を加えた媒体だが、光明日報の批判以後、中国マスコミは、一斉に法輪功批判し始めた。そして、法輪功に対する中国公安の弾圧が始まった。

 光明日報には、現在、300余名の編集記者が働いているが、相当数が大卒以上の高学歴者だ。1995年、光明日報は、中国語にされたホームページを開設し、今は、光明日報の外に3つの新聞と4つの雑誌、1つのインターネット・サイトを運営する「光明日報報業集団」という新聞グループとなった。

 中国の専門家達は、光明日報が「高句麗は、中国史の一部」という内容の試論を掲載したとすれば、これは、著者として表記された辺衆の個人意見ではなく、中国共産党の意思だと見なければならないと分析した。従って、学界は勿論、外交通商部と教育部・文化観光部のような関連部署は、中国政府に対して問題を提起しなければならないと指摘した。

 ある専門家は、「異常にも、韓国の知識人達は、米国と日本に対しては、比較的言うべきことを全て言うが、中国に対しては、言葉を飲み込む傾向がある」とし、「今回の光明日報の高句麗史試論を契機に知識人社会は、中国に対して堂々たる姿勢を持たせるだろう」と注文した。

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最終更新日:2004/05/20

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