恐怖の人体実験
医学は何をして来たのか



アラバマ州タスキギーで行われたことからタスキギー研究と呼ばれる人体実験は1932年秋から1972年まで行われた。
米公衆衛生局の医師たちは被験者である貧しい黒人小作農夫600人に梅毒を注射した。
医師たちは、399人を「実験」、201人を「コントロール」に分け、「実験」の399人には治療を行わず、梅毒の進行過程を観察した。
タスキギー梅毒人体実験とも呼ばれるこの行為が40年間にわたって行われたのだ。
無料で治療を受けられるとの宣伝で集められた600人の被験者は、まず胸部レントゲン写真と心電図などを取られ、完全な健康診断をされた。血液検査が繰り返された後で、全員が「血液に悪性の病気があり、治療のため長期にわたって注射をしなければならない」と申し渡された。「治療」の名の下に梅毒が注射されたのである。
こうして始まった研究は、日常的には地元の郡保健省と公衆衛生看護婦が維持した。地元の人間で、被験者の生活を知っていた看護婦たちは、医者と被験者とのコミュニケーション役でもあった。医者と被験者たちの言葉が通じないこともあったのだ。
注射は25年間打ち続けられた。人体実験の観察は40年間続いた。人体実験の期間中、注射を打ちに来た被験者たちには食事、鎮痛剤のような付随的な薬物か偽薬が無料であてがわれた他、最終的に50ドルが渡された。そして、死亡した場合には葬儀への援助が約束されていた。もちろん、健康診断も無料だった。
実は葬儀に対する援助には裏があった。研究で重要とされたのは、梅毒の進行過程を追うことと検死だった。葬儀の援助には検死に応じるという条件がついていたのだ。
貧しい黒人農民にはこうした援助は経済的恩恵に思えた。それは、家族に金銭的負担をかけないですむという意味で、彼らにとって唯一の死後の「保険」だったのである。
それでも、検死を拒否する家族もあった。行われた検死は145だった。
研究の間、被験者が一般の医者に梅毒の診断をされても、公衆衛生局は治療を阻止した。
1950年代にはペニシリンが簡単に利用できるようになったし、実際に使用されたが、「実験」に分類された399人、タスキギー400と呼ばれる人々にペニシリンは使われなかった。
人体実験のため梅毒で死んだのは100人。これははっきりと確定できる数だ。彼らは梅毒の症状で苦しみぬいて死んでいった。
1936年には治療を受けた「コントロール」の39%が発病し、「実験」の84%が発病していた。1942年には治療を受けていた被験者の13.9%が死亡し、「実験」の24.6%が死亡していた。1952年には「コントロール」の20%、「実験」の40%が死亡していた。生きていた被験者たちの多くが病苦の中にあった。
毎年、血液検査をされていた人々が、こうした状態にあり、放置されていただけではなく、治療を阻止されていたのである。
人体実験の目的は、梅毒の進行過程の観察であった。医師たちは治療をしなければどうなるか知りたかったのだ。
1972年にAP通信のジーン・ヘラーがこの人体実験を記事にした。1972年7月26日の「ニューヨーク・タイムズ」の記事によって、タスキギー梅毒人体実験は一般に知られるようになったのである。それによって調査団が結成され、彼らは研究が不当なものであり、ただちに中止するよう勧告した。
それまでに調査がなかったわけではなかった。1969年に公衆衛生局の調査団は、タスキギー研究からは医学的な知識は得られないと報告した。タスキギー研究は、医学的には無価値であると公衆衛生局の調査団が認定したのだ。しかし、報告書にはそれでも被験者の治療はされるべきでないとあった。
1996年には、タスキギー梅毒人体実験の生存者は11人だけとなっていた。彼らや遺族たちが起こした訴訟は勝利に終わった。計1000万ドルの賠償金が支払われたのである。しかし、アメリカ政府と大統領は謝罪を拒否し続けて来た。実験そのものにくわえて、政府の姿勢が黒人や少数民族の不信を深めた。
タスキギー研究は黒人の大量虐殺だったという噂が絶えない。エイズも黒人根絶の陰謀であると言われる。また、今でも黒人たちの多くが内科治療を避ける傾向があるのも、この人体実験のせいだという。タスキギー梅毒人体実験の残した傷はあまりに深い。
1997年5月16日、クリントン米大統領は生き残った被験者5人らをホワイトハウスに招き、正式に謝罪した。
ホワイトハウスでの謝罪式典で大統領は「政府のしたことは恥ずべきことだ。明らかに人種差別的な研究を組織したことを私は申し訳なく思う」と述べた。

1956年にニューヨークのスタテン島ウィロウブルックで人体実験が行われた。被験者となったのは3歳から10歳の知恵遅れの子供たちだった。
ウィロウブルックは24棟の知恵遅れの子供の入る施設だったが、不衛生で環境が悪く、1949年に肝炎にかかる子供が多発した。
そして、1956年に米空軍疫学委員会とニューヨーク医科大行政学部の支援のもとにソール・クルーグマン医師のグループがウィロウブルックに乗り込んだ。彼らは子供たちに生きている肝炎ウィルスを接種した。
肝炎は2種類。MS1と言われたのは輸血などで感染するB型肝炎。MS2は経口感染するA型肝炎だった。
実験開始とともに、親たちに圧力がかけられた。
「子供を実験病棟に入れなければ、入院許可は遅れる」と、冷たく言われたのである。
肝炎が流行している施設である。親たちは同意せざるを得なかった。
クルーグマンのグループはこの10年も前に免疫ガンマ・グロブリンが有効であると発表していた。しかし、ウィロウブルックでは使われなかった。子供たちは肝炎にかかり、その経過を観察された。クルーグマンたちは研究を学会に発表し、名声を得ていった。
1966年にウィロウブルック人体実験は別の医師によって告発された。

アメリカで1940年代から放射能人体実験が行われていたことが一般的な注目を浴びたのは80年代の終盤から90年代のはじめにかけてのことだ。地方紙である「アルバカーキー・トリビューン」のアイリーン・ウェルサム記者とスタッフの調査報道の成果だった。
日本に投下された一番はじめの原爆を製造するマンハッタン計画の過程で、放射能の人体への影響を調べるために何万人もの人に無断でプルトニウムを注入し、妊婦に放射線照射の鉄剤を投与し、乳幼児に放射性ヨウ素を注入し、精神病患者や精神薄弱児に放射線照射のシリアルフードやミルクを与え、がん患者をはじめとする病人や囚人に高濃度の放射線を照射していたのだ。
人体実験はそうした弱者を中心に、兵士にも行われたし、親に無断で病院から運び出した児童の死体を実験に使用したこともあった。
ひとつの地域を丸ごと対象として行われた。1965年に故意にネバダで原子力ロケットの事故を起こし、放射性物質が空中に蒸発した後、周辺住民や食物への影響を調査するということも行われたのだ。予想よりも広範囲に汚染が広がり、危険が明確になったという。
米ソの核戦争の恐怖が世界をおおっていた冷戦時代、生命をもてあそぶ者たちが国家を背景に、秘密のうちに大規模な残虐行為を行っていたのである。
アメリカが最も繁栄を誇った時代に、その裏側では悪夢の人体実験が行われていた。

アフリカに死神博士と呼ばれた男がいた。南アフリカのウーターバッソン博士である。
死神博士は、白人政権による人種隔離政策時代に南ア政府直属の研究所で生物化学兵器の製造を指揮していた人物だが、黒人に人体実験を行い、200人以上を殺害した。
ウーターバッソンは、白人政権の反対勢力の人々を使って、黒人を断種するためなどの残虐な人体実験を続けていたのである。
その他、南アフリカの隣国であるナミビアにあった南西アフリカ人民機構(SWAPO)のメンバー4人を注射で薬殺した後、死体を軍用機で海に投棄するなど、謀略的な殺人にも深く関与していた。
また、マンデラ大統領などの黒人解放指導者の暗殺計画を企てた他、私腹を肥やすために麻薬の製造にまで手を出していた。
1999年10月4日、死神博士ウーターバッソンの裁判が、南アフリカの首都プレトリアではじまった。

人体実験は日本やアメリカ、南アだけではない。人体実験は世界中で行われているのだ。
第2次大戦前後のソ連で、科学者たちが効率的な毒物を開発しようと死刑囚を使った人体実験を大規模に行っていた。実験台の中には革命の祖国としてのソ連に憧れて亡命した米国人、ドイツ人、日本人も混じっていた。少なくとも100人以上が実験台にされ殺害されたことがわかっている。
他にも、1958年と1961年に空軍軍人と家族がカザフスタンの核実験場付近に集団移住させられ、白血病などの死者が続出していたが、これも放射能の人体への影響を調べる人体実験だった。
囚人や軍人ばかりではない。南ウラルでは住民を使った人体実験をするために、核実験が行われている。
ソ連時代のロシアについてはまだわかっていないことが多い。それでもこれだけあるのだから、今後、何が出ても不思議ではない。
1996年には英国政府が1950年代から1980年代にかけて放射能人体実験を行っていたことを認めたし、兵士を使って幻覚剤を化学兵器として使用するための人体実験を行っていたことがわかっている。
現在では、イラクが人体実験を行っているという疑惑がもたれている。
今でも科学の発展、進歩のためという名目で、人体実験が行われている可能性は高い。科学と学問はまだ権力に仕える段階にある。



アメリカ人体実験年表


1940年
シカゴで400人の囚人をマラリアに感染させて新薬の人体実験。後にニュルンベルグで公判中のナチの医者がホロコースト正当化のため、この人体実験を引き合いに出す。

1942年〜1945年
米軍で1000人の軍人を使ったイペリット毒ガスの人体実験。

1944年
米海軍がガスマスクと防護服のテストで人体実験。兵士がガス処刑室でイペリットガスを浴びる。

1944年8月
「生物学的研究プログラム」(プルトニウム人体実験)始まる。

1950年
都市部の生物学的危機対処研究に、米国海軍がサンフランシスコ上空の雲にバクテリアを散布。多くの住民が肺炎の徴候を示す病気になる。

1953年
CIA、米陸海軍共同でニューヨークとサンフランシスコ上空で細菌の空中散布実験。

1955年
CIAがタンパベイ上空に留区軍細菌兵器庫のバクテリア散布。

1956年
陸軍人が黄熱病の蚊をエイボン公園に放った上、公衆衛生局高官になりすまして犠牲者を調査。

1965年
フィラデルフィアの州刑務所で、枯れ葉剤の発ガン物質特定のためのダイオキシンを使用した人体実験。

1966年
陸軍がニューヨークの地下鉄の換気装置に細菌を散布。

1968年
CIAがワシントンで化学物質による飲料水汚染実験。

1971年10月8日
シンシナチ大学の医師が、米国国防総省の依頼で11年間にわたって、がん患者111人に放射線全身照射の人体実験をしていたと判明。

1976年2月21日
原爆開発中の45年から47年にかけ、米国政府が極秘に18人にプルトニウムを注射する人体実験をしていたことが判明。13人死亡。

1977年4月14日
戦後20年間続いた、ネバダ核実験場で原爆使用の演習に参加した兵士に白血病の多発が判明。人体実験の疑い。

1984年1月25日
環境保護グループ、囚人、末期ガン患者の放射能人体実験を告発。

1986年10月24日
米議会スタッフの調査で、1940-1970年代に、米政府の囚人・病人への放射能影響調査の人体実験判明。

1990年
ロサンゼルスにおいて、親に無断で黒人とヒスパニックの6カ月の赤ん坊1500人にはしかワクチンの実験薬が投与。

1993年12月26日
ハーバード大・マサチューセッツ工科大が1940-50年代に精神障害児に放射能人体実験との報道。

1994年
ジョン・D・ロックフェラー上院議員は少なくとも過去50年間、国防省が神経ガス、放射能、精神薬、湾岸戦争で使用された化学兵器などの危険な物質の人体実験のため何十万もの軍人を使ったと公表。

1994年1月6日
米国防省の放射能人体実験により25人が死亡の報道。

1994年3月14日
オッペンハイマー米ロスアラモス国立研究所長が1945年にプルトニウム人体実験支持の手紙を書いたと判明。

1994年6月27日
オレアリー米エネルギー省長官、放射性物質の人体実験問題で、48件、1200人が対象になっていたとの中間調査公表。

1994年10月21日
冷戦時代の放射能人体実験を調べている大統領諮問委員会が、実験は分かっただけでも千数百件、最終的には数千件に達する可能性があるとの中間報告を発表。

1995年
合衆国政府が日本の731部隊の戦争犯罪人を細菌戦のデータ提出と引き換えに免責し、実験を続行させていたと認める。

1995年
湾岸戦争で使用の生物兵器はヒューストンで生産され、囚人で人体実験したものと暴露される。

1995年2月
放射線人体実験に関する大統領諮問委員会の調査で、1950年代に米国が大気圏内核実験による死の灰の人体への蓄積を調べるため日本など世界各国で死産した胎児の骨などを集め分析する極秘の「サンシャイン作戦」を展開していと判明。

1995年2月
米国エネルギー省の「放射線人体実験局」、同省とその前身の原子力委員会(AEC)関与の放射線人体実験に関する報告書を公表。154件で9000人が犠牲に。

1995年3月18日
原爆投下直後に広島で調査を行った学者3人のプルトニウム人体実験関与判明。

1995年6月20日
家族に無断で病院から運び出された約1500体の子供の死体が、戦後の放射線人体実験に利用の報道。

1995年8月17日
米エネルギー省、政府関係機関が戦前から行ってきた放射線の人体実験に関する最終報告書を発表。1930年代から70年代の40年間に435件、対象者は約1万6000人。

1995年10月3日
米大統領の諮問委員会、1944年から74年ごろまでに約4000件、推定被験者数万人の放射線人体実験が行われたとする報告書をまとめる。

1998年1月
米国が最近公表した公文書に、1954年に太平洋ビキニ環礁で実施した実験が人体実験であったことを示唆する文書が含まれていることが判明。

1998年4月28日
1950-60年代に、ノルウェーと米国の研究者が、知的障害者に放射線の人体実験を実施とノルウェー紙報道。

1998年11月
米・ブルッキングズ研究所の調査で1940年代から70年代初めまで、米当局が核開発の一環として、計2万3000人以上の米国人への放射能人体実験実施が判明。



戦後日本の人体実験年表


1951年
国立第1病院等で乳児に致死性大腸菌を感染させる人体実験が行われた。感染性ありと報告。

1952年
名古屋市立乳児院で乳児に大腸菌を感染させる人体実験。

1952-56年
米軍援助金による新潟精神病院でのツツガムシ人体実験。精神病患者にツツガムシを接種した。8名死亡、1名自殺。

1965年3月24日
名古屋市の興和製薬で、昭和38年10月に同社のかぜ薬新薬キセナラミンを社員ら187人に投与し、人体実験していたと被害者らが人権侵害と東京法務局に告発。

1966年4月7日
千葉大医学部の鈴木充医師が同大学内や川崎製鉄などの64人にチフス、赤痢を接種する人体実験をした容疑で逮捕。1審無罪、1976年4月東京高裁で有罪、1982年5月最高裁で懲役6年確定。

1967年
自衛隊員に赤痢菌と赤痢予防薬(未承認薬)の人体実験、隊員1089人のうち577人に急性食中毒発生。

1969年9月
香港インフルエンザワクチンを少年自衛官335人に人体実験と『防衛衛生』が発表。

1969年10月14日
広島大学の岩森茂助教授らが悪性貧血患者3人にガン細胞を移植して免疫抗体をつくる人体実験を行い、学会で発表。

1971年3月27日
東大医学部台弘教授が20年前にやった精神病患者へのロボトミー手術は人体実験だったと告発される。

1984年5月23日
岐阜大学医学部精神科の難波益之教授グループの助手竹内巧治助手が、岐阜県内の私立病院に通院していた妊娠中の女性分裂症患者を大学病院に転院させ、本人の同意を得ずに中絶手術をした上、胎児の脳を解剖したと、学会で内部告発。竹内助手は、妊娠中の分裂病患者が服用した向精神薬(ハロペリドール)の胎児の脳への分布を調べた。

1993年
新潟市内の大学病院で不整脈のため診察を受けた主婦に検査と偽って新薬の臨床試験。他の検査結果も隠匿。

1989年
オウム真理教、ヘッドギアPSI開発のために幹部信者で人体実験。

1990年
オウム真理教、反抗的信者でボツリヌスやコレラ使用の細菌兵器の人体実験。


(2001/04/29)


【出典元】http://www.aw.wakwak.com/~hana/wrk0041.html(Memory's work ※リンク切れ)



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