第3章 池田大作の妙法観とその誤り(上)


(1)池田大作の妙法観・本尊観

池田氏の妙法観は、氏の著書などでしばしば述べられておりますから、御存知の方も多いはずです。有名なところでは『仏法と宇宙を語る』が挙げられるでしょう。

『南無』とは『帰命』と訳する。その『帰命』とは、宇宙それ自体の“根源法”に合致しゆく儀式の姿といえるでしょう。すなわち、その根元法を仏が一幅の『曼荼羅』とされた。それに南無し帰命することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生・生活が正しきリズムにのっとったものになる。 (1−53)

また同様の指導・スピーチ等は枚挙に暇がありません。幾つかの例を拾ってみますと、

妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法であり、いかに疑おうとしても疑えず、いかに否定しようとも、否定しえない根本中の根本の法則である。 (第7回未来会総会 S62・6・27)

宇宙のことごとくの運行、現象を引き起こす根源の力として、妙法がある。その妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。 (パナマ信心懇談会 S52・2・24)

結論としていうならば、この大宇宙のいっさいの運行の源泉、法則こそが南無妙法蓮華経なのである。その南無妙法蓮華経を具現化なされたのが日蓮大聖人であり、その顕された御当体が根本尊敬の御本尊なのである。(第一回メキシコ信心懇談会 S56・3・4)

等々となっております。これらの文献を参考に池田氏の基本的な妙法観・本尊観をまとめると、以下のようになります。

大宇宙の一切の運行や現象を引き起こし、変化させ、更にあらゆる生命の働きを生じさせる根本の法則がある。それが妙法であり、その根本法則を日蓮大聖人が、具現化し一幅の『曼荼羅』に顕したのが御本尊である。この御本尊に帰命することにより、大宇宙のリズムと合致して、幸せになっていく。

ところで、氏が妙法の説明に多用する「大宇宙を貫く根源の法」・「大宇宙のリズム」という概念は、基本的には池田氏のオリジナルと思われます。厳密には戸田氏の功徳に関する指導にも、似た表現が見受けられますが、少なくとも日蓮正宗歴代上人はこのような御指南をされていません。いわゆる『学会教学』の典型と考えて差し支えないでしょう。


(2)古代インドの思想

ここである人物の著書から一文を紹介いたします。

天地万物のあらゆる変化の元にある無数の法則の、そのまた根底に唯一の宇宙法則が存在します。この法則は天地万物の根本究極の完全性を支えます。

天地万物の維持と進化は、直接には各種の法則によって行われますが、これら全ての根本は、全宇宙の基盤である『存在』のレベルにある宇宙の法則であります。

この内容は、上でまとめた池田氏の妙法観とかなり似通っています。文中の『存在』を池田氏の説く『妙法』と置き換えれば、そのまま創価学会教学としても通用することでしょう。ちなみにこれは、インドのヒンズー教の流れを汲む宗教家マハリシ氏の著書、『超域瞑想入門』から引用しました。

ヒンズー教はインドの民族宗教で、バラモン教を母体をとし、さらに仏教・ジャイナ教・その他の土着信仰等を取り込んで形成された複合宗教です。したがって特定の開祖を持たず、また説き方も宗派よって若干異なりますが、『ベーダ』を聖典とするところは概ね共通しており、その中の『ウパニシャッド』に説かれる教義哲理がその宗要となっております。基本的な内容は聖教新聞社刊『仏教哲学大辞典』にも出ていますので、長くなりますが引いてみましょう。

ブラフマン【Brahman】 アートマン(我)とともにウパニシャッド哲学の根本をなす最高原理。梵と訳す。(中略)ウパニシャッドの各所にあらわれるブラフマンを列記すると次の通り。「宇宙の因たるブラフマンちは何ぞや。そも何処より生じ、我らは何によりて生存するや。何ものに支配せられて我々は苦楽のうちに各自の状態に赴くや、ブラフマンを知る者よ」「ブラフマンとは、この世界の生起等の起こる“もとのもの”なり。実にそれによりこれらの生類がが生じ、生じた生類がそれによって生存し、死に行く生類がそれに帰入するところのもの−−−−−それらを知らんと願えかし。それはブラフマンなり」とある。また「ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり」とあり、バラモン哲学者ヤージニャバルキャはブラフマンを「あらゆる実在の真髄」と断定している。すなわち宇宙の本源をたずねて到達したのがブラフマンであり、ウパニシャッド哲学の最高哲理である。

また、このブラフマンと同様に重要視され、かつ同一視されているのがアートマンである。これは我と訳され、はじめはブラフマンが客観的であるのに対し、主観的傾向が強い個人の人格的原理として発達していったが、やがてこれを万人に押し広げて普遍的なものとし、更に世界の創造主として絶対視されるに至って、ブラフマンと同一であると認められた。これを『梵我一如』という。すなわち、大宇宙の根本原理から説いたブラフマンも、個人の本体から説いたアートマンも、結局同一の世界観に達するとみるのであり、この点にウパニシャッド哲学の特徴がある。

上記の内容を再度まとめてみると次にようになりそうです。

宇宙にはその全体を貫く根本原理があり、それはブラフマン(梵)と呼ばれる。それには我々の本質であるアートマンと等しいものであり、ブラフマンとアートマンが一体となった境地が、最高の覚りである。(梵我一如)

本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。  (聖教新聞H7・8・2)

このように見てきますと、上の池田氏のスピーチなど、一応は『御本尊』の語を介しておりますが、その実体は『梵我一如』(宇宙即我)そのものといって差し支えません。「宇宙と我が生命がダイナミックに交流し」などと宇宙との境地妙合を説いていますが、これは日蓮正宗の教義とは全くかけ離れた珍説です。おいおい詳しく述べて行きますが、創価学会破折に当たって、内外相対が重要性を帯びてくることを示唆しておきます。


(3)創価学会教学の外道化

(a)池田氏と西洋外道の共感

旧約聖書に端を発する、ユダヤ教(ヤハウェ)・イスラム教(アラー)・キリスト教(創造主)の3つを取りあえず西洋外道と呼んでおきます。ヒンズー教もそうでしたが、基本的に世界宗教は天地や生命を動かす神秘的根源法を仮定し、それを希求し、信仰の対象としているようです。ここではその意味から、主観的思惟により真理を求める西洋哲学も、客観的手法により法則を求める科学も、正統仏教以外は全て、西洋外道と同じ次元(流れ)に生じたものとして捉えておきます。

科学の未発達な時代においては、人知を超えた諸現象の分野を宗教が担い、ある程度その説明に成功した宗教が、『高等宗教』として今日まで生き残りましたが、最近は特に科学の発達が目覚しく、かつての宗教の領域を飲み込みつつあります。アメリカのエネルギー変換工学会議(原子力学会・電気工学会・航空宇宙学会等共催)において、フリーエネルギー(気)を担当する「革新エネルギー部門」が設立され(1991・8)、かつては『超能力』・『超常現象』(非科学)と呼ばれていた分野の研究も始められました。また分子生物学等の発達により、自然科学は物質研究から生命の研究へ、そして脳(精神)の研究へと進展し、将来的には心理学等の社会科学分野をも包含しそうだと言われています。今後も宇宙や生命に関する研究が進められ、『神』のベールは次々と剥がされていくことでしょう。21世紀中には既成宗教の大部分を、科学の領域が包括するという見方さえあります。

しかし仏法の十界の生命観から見れば、人間の観察や推理で解明できる哲学や科学の法理は、何処までいっても部分観に過ぎず、何時まで経っても完成することはありませんから、所詮は凡夫の浅智慧が仏様の御悟りに及ぶはずもありません。したがって科学の立場から説明できるのは仏法の裾野に位置するほんの一部分で、科学で仏法を証明しようとしても原理上不可能です。仏法と科学に共通性が見出せたとしても、それは妙法の「開会」の義からそういえるのであって、この包括関係を見誤ってはなりません。また『超能力』のようなものが科学で解明されようとも、それはせいぜい六道無色界の天界の悟りに過ぎず、声聞の悟り(阿羅漢果)にすら遥かに及びません。これらは科学の発達によって、やがて適切なマニュアルによって練習すれば、誰にでも身につけられる一種の『特殊技術』となるかもしれませんが、我々は

法門をもって邪正をただすべし。利根と通力にはよるべからず。 (唱法華題目抄)

との御妙判を胆に銘じておくべきでしょう。そもそも仏法(仏)の智慧と科学(衆生)の知識を同次元(レベル)に並列させて論じようという姿勢自体が、催尊入卑(さいそんにゅうひ)の大謗法であると言えます。

(b)伝統教学との対立

池田氏と西洋外道の土壌で育った学者・知識人達との話しが噛み合い、破折するでもなく共鳴・賛同している姿は、氏の妙法観が極めて外道義に近いこと、あるいは既に述べたように外道義そのものであることの証です。

池田氏は『聖教新聞』(H6・6・12付)において次のようにも述べています。

トインビー博士は常に、「宇宙の背後にある究極の精神的な実在」について語られていた。(中略)トインビー博士は私(※池田大作)との対談の一つの結論として、この精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』であると考えられるとされた。ワーズワースが歌い、トインビー博士が求められた究極の『法』は、『妙法』であると私どもは信ずる。

また創価学会の御用学者であり東洋哲学研究所の部長職研究員である松戸行雄氏は、池田氏の宇宙観を敷衍して次の様に述べています。

どう考えても、久遠の昔に人格、すなわち『有神論的人格』としての仏が実在したとは想像できないし、仏教に反すると思っている。 (日蓮思想の革新 P160)

両者の主張をまとめると、昨今の学会教学の流れは以下のようになっています。


  1. 宇宙に遍満する法は『妙法』である
  2. その宇宙に遍満する法は、法のみであって人格は認めない

ここまでくると、日蓮正宗と創価学会の教義的対立点が段々と明確になってきました。創価学会は外道思想に柔軟な姿勢を示す一方で、日蓮正宗大石寺の伝統宗学である、人法一箇の御本尊と、仏身(御本仏)の三世常住を真っ向から否定してきたのです。


(4)本地無作の三身について

では本来の日蓮正宗の教義を見ていきましょう。まず仏様の三身とは、法身(ほっしん)・報身(ほうしん)・応身(おうじん)をいい、これを大石寺26世日寛上人は『寿量品談義』において次のように解説(げせつ)されています。
理のつもりあつまりたるは法身の身也。智のつもりあつまりたるは報身の身也。功徳のつもりあつまりたるは応身の功徳の事。 (富士宗学要集10−240)

また三身の相互関係について、日蓮大聖人は『四条金吾釈迦仏供養事』において、次の様に説示されています。

三身如来をば一切の諸仏、必ず相ひ具す。譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。

すなわち仏の証得した真理そのもの(法身)と、その真理を証得する智慧又はその智慧を体得した仏身(報身)と、衆生を救済する慈悲の働きないしその為に出現される仏身(応身)の三身は一体なのです。

それでは南無妙法蓮華経の仏の三身とはいかなるものでしょうか。

無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。 (御義口伝)

とあるように、南無妙法蓮華経は無作三身の宝号であり、すなわち日蓮大聖人(末法の法華経の行者)の一身の当体であります。さらに詳しく知るために日寛上人の『観心本尊抄文段』を拝してみましょう。

本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。この時法を尋ぬれば、人(にん)の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時人を尋ぬれば、法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法一体なり。故に事の一念三千と名づくるなり。 (文段集P458)

つまり文底本因下種の南無妙法蓮華経は、即ち久遠元初の無作三身であり、智妙法蓮華経(報身)と、その智妙が顕証した境妙法蓮華経(法身)の両者が一体となって成就した仏身が、本地自受用身の仏身そのものなのです。まさしく境智冥合・人法一箇の仏様であります。

したがって、「大宇宙のリズム」などと称して仏身を無視・軽視し、妙法をあたかも一種の『物理法則』のように考える、池田大作の妙法観は全くの邪義です。昨今の創価学会は日蓮大聖人の御内証に先行して宇宙の根源法を考え、日蓮大聖人を法則の第一発見者、あるいは御本尊の発明(具現)者ぐらいにしか見ておりません。だから御本仏日蓮大聖人を『大聖哲』などとと称して、平気で哲学者のレベルに位置づけ、しかも西洋外道との迎合を図るのです。

トインビー博士は私との対談の一つの結論として、この精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』であると考えられるとされた。 (聖教新聞 H6・6・12)

などという馬鹿な考え方を速やかに改めて、

久遠元初の天上天下唯我独尊は日蓮是れなり。 (百六箇抄)

との御本仏様の御言葉を虚心坦懐、拝信するべきなのではないでしょうか。


(5)池田大作の迷惑を破す

以上を基礎知識として、歴代猊下の御指南を拝し、池田大作への破折に代えさせていただきます。

世間では大聖人の教えは題目にあられると思って、題目を主として御本尊を怱(ゆる)かせにする者が多いのであります−−−多いどころではなく、皆左様に考えてをりますが、此れがために大聖人の仏法を履き違へるのであります。元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。

此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応の三身具足の当躰であられ、報身中に具し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。その仏は十方世界に唯御一人在ますだけであります。 (堀米日淳上人著 日蓮大聖人の教義P66)

たしかに妙法は理の上であらゆる有情・非情にも具わりますが、そこに妙法の仏の法身を求るのは空理空論に過ぎません。仏と仏性を勘違いしてはならないのです。妙智から離れた境は妙境とはなり得ません。境のみを『宇宙のリズム』などと独立させて捉えようとすること自体が、法華経の正見からはずれた邪見というべきです。境智冥合の仏様の有難さを忘れ、仏智を無視しし奉った不知恩の輩と責めるべきでしょう。

真言宗は「応身の釈迦仏が説いた一切経よりも、法身大日如来(真理自体)の説法である大日経が優れている」などと主張していますが、実際は法華経に説かれる三身円融の仏様のみが、衆生を利益遊ばされるのであります。法身の理があったところで、そこには妙法の化導の利益も無く、極論すれば我々の生活と何ら関係のない存在なのです。池田氏の妄説もほぼこれと同じレベルの過ちを犯しています。

南無妙法蓮華経というものが宇宙法界に存在するということも、これは我見なのです。いいですか、南無妙法蓮華経はこれを悟られた御本仏様のお心に在するのである。すなわち久遠元初自受用報身如来たる大聖人様の一念が即三千である。そこに妙法の当体が存するわけです。そこを離れて宇宙法界に妙法の実体があると考えること自体が、既に一つの我見なのです。 (日顕上人猊下御指南 大日蓮556号)

釈尊は空諦を説いて『我見』を破折し、バラモン経の『梵我一如』を打ち砕かれましたが、こんどは池田流の『梵』ともいうべき、『宇宙のリズム』なる珍妙な外道が発生するとは、仏様もさぞや呆(あき)れ返っていらっしゃることでしょう。

大聖人様の御当体を離れて、南無妙法蓮華経は有り得ないのです。それを、大聖人様のところを離れて、「妙法だけが宇宙に存在して、その妙法のリズムに合わせる」というような考えを持つことは、全くの誤りであります。それでは自分自身の我見によって、外道の考え方で妙法を考えていることになってしまうのです。 (日顕上人猊下御指南 大日蓮559号)

しかし思うのですが、御当代の日顕上人猊下が、誤った教学の罰にさ迷える創価学会員を救おうと、どれだけ心を砕かれているか・・・少しは学会員諸君にも考えていただきたいものです。

『因果倶時・不思議の一法』とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に『一法』という。・・・この妙法蓮華の一念の心法に『十界三千の諸法』を具足す。豈自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。 (観心本尊抄文段)

以上で池田氏の仏身観・妙法観に対する破折を終了し、池田教学を似非(えせ)仏法、魔の外道義なりと此処に断じます。なお仏身観・妙法観の誤りは、当然のことながら、そのまま本尊観の誤りへと直結しているので、次章では氏の本尊観について破折します。


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