「4球スーパー」という文字を見て、郊外に新規出店するコンビニの名前?ではないことが即座に分かる人は、相当の年配者に限られることでしょう。「4球」を「よつだま」と読んではいけません。これは「よんきゅう」と読み、真空管(「しんくうかん」この言葉、分りますか?少し、不安ですが…)を使った古いラジオの型式を表す言葉なのです。つまり、この場合は真空管を4本使用している訳ですね。源義経(みなもと・よしつね,1159〜1189)のお話しに、なんで突然ラジオが出でくるのか、それは、この項を書き始めようと思いつくきっかけになった童謡を初めて聞いたのが、当時、家庭で唯一の電化製品であったラジオから流れてきた歌だったからです。ただ、その何が「スーパー」だったのか、については未だに良く分かっていません。恐らく音質だとは思うのですが…。
昭和30年代、ラジオが最も身近な情報源でした
京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長い薙刀振り上げて 牛若目掛けて切りかかる
改めてご紹介するまでもなく、十二世紀後半の源平合戦で最も華々しく活躍した源九郎判官義経は、平安時代末期の武将・源義朝(みなもと・よしとも,1123〜1160)と常盤御前(ときわごぜん,1138〜1196)との間に生まれた三男坊で、父の義朝が時の権力者であった平清盛(たいら・きよもり,1118〜1181)と対立、平治の乱(1159)を起したものの敗死してしまい、残された常盤親子は昨日の敵・清盛のお情けによって生きのびることを許されます。巷間、母・常盤御前が自分の命に代えて息子たちの助命を嘆願し、それに感心した清盛が度量のあるところを見せたのだ、という風説がいかにも有りそうな話しとして広く流布されていますが、清盛は源氏嫡流の頼朝(よりとも,1147〜1199)さえ生かしているのですから、義経兄弟などについては初めから処分する気もなかったのでは…?−−そんな風に思われます。
頼りの父親に先立たれた牛若丸(義経の幼名)は、平家との約束どおり七歳(一説では十一歳)になった時、仏門に入るため京都・鞍馬寺に送り込まれます。この辺りの事情を『尊卑文脈』(そんぴぶんみゃく、1399年、洞院公定)は、
母上上洛の後、11歳より鞍馬寺に住まう。和尚、東光房阿闍利賢日が弟子の善淋房覚日坊は
義経は幼きより日時、しきりに武芸をたしなむ、と云々
牛若丸・弁慶の名コンビ(国立国会図書館蔵)
と書き記していますが、別のところでは『昼は東光房で学業に励み、夜がふけると僧正ガ谷で天狗に兵法と剣術を習った』と、見てきたように解説されています。恐らく、いずれも後年の活躍を聞き知った人々が彼を描写する際に、さも、それにふさわしいであろう幼年時代を演出したものだとは思うのですが、先の童謡で見た「弁慶との立ち回り」に関しては、まったく正反対の伝説が後世に語り継がれてきました。一つ目のものは唱歌にある通り『弁慶が都に出ては腕試しを行い、丁度、千人目に牛若丸と遭遇した』という内容のもので、皆さんお馴染みの筋書きなのですが、他方では、悪者役が弁慶ではなく牛若丸自身とされ『都に若い辻斬りが出没している噂を聞きつけた弁慶が、その犯人を懲らしめるために五条大橋で待ち伏せし、そこへ辻斬りの牛若丸が現れた』のだと伝えられているのです。でも、まあ、二人が五条の橋の上で接近遭遇した、という点では同じなので、余り気にせず、次に、もう一人の主役とも言うべき弁慶さんの素顔に迫ってみましょう。
歌舞伎芝居でも人気者の弁慶
JR紀伊田辺の駅前では、正に、仁王立ちして長い薙刀を構えた弁慶さんの像が誇らしげに見栄を切っているので、これはもう100パーセント実在の人物に間違いない、と思われそうですが、この歴史上最も有名な部類に入る弁慶さんも又、灰色の部分に覆われた一面を持ち合わせているのです。それは、弁慶さんの出自や大活躍の逸話などが、ほとんど『義経記』(ぎけいき、成立は1400年前後)という書物によって語られてきたものだからで、一般的に義経記は、その題名の通り、義経の一生について、後の世の人が想像を逞しくして記した物語(虚構と言ってもよい)だと解釈されています。従って、そこで紹介されている様々な逸話も創作ではないか、という訳です。それでは「弁慶」という人は存在しなかったのでしょうか?いやいや、慌てて結論を出すことはありません。この時代の出来事を知るための資料としては、先ず公文書とも言うべき『吾妻鏡』(あずまかがみ、1300年頃の成立)があげられるのですが、その中にちゃんと弁慶の名前が義経の郎党として記されていますから、そのような名前の家来が居たことに間違いはないのです。要するに、弁慶さんが大活躍する「お話し」の部分が灰色、だということです。因みに、吾妻鏡が弁慶について書き記した文言を次に紹介しておきましょう。時は改元されて文治となった元年、1185年11月の項です。
豫州(義経のこと)すでに西国に赴かんと欲す(中略)片岡の八郎弘綱、弁慶法師已下相従う(11月3日)
豫州に相従うの輩わずかに四人。所謂伊豆右衛門の尉、堀の弥太郎、武蔵坊弁慶並びに妾女(静)一人なり(同6日)
そして、この時代の出来事を同時進行の形で書きとめた一級資料の『玉葉』(ぎょくよう、五摂家の一つである九条家の当主・藤原兼実(ふじわら・かねざね,1149〜1207)が残した日記で[玉海]とも呼ばれる)でも、弁慶たち家来の名前こそ記されてはいませんが、義経たちの動向について克明な記述がなされています。例えば同じ11月3日の項には『去る夜より、洛中の貴賎多く以って逃げ隠れる。今暁、九郎等下向するの間、狼藉を疑わんが為なり。辰の刻、前の備前の守、源行家、伊豫の守兼左衛門の尉(大夫の尉なり、従五位下)同義経(殿上侍臣たり)等、各々身の暇を申し西海に赴きをはんぬ』とあり、頼朝と対立した義経たちが都を脱出する際の様子が良く伝わってきます。この九条兼実という人は平氏全盛の間は冷や飯を食わされ続けていた公家さんで、どちらかというと頼朝側の立場に近い存在なのですが、騒動を起さず静かに都落ちした点に触れ兼実は、同日の日記の末尾に『義経等の所行、実に以って義士と謂うべきか』と賞賛めいた言葉を残しています。
義経と弁慶が通った、かも知れない道(photo by だだちゃん)
という訳で、弁慶さんも京都脱出組に加わっていたことは明らかなのですが、人物像は闇の中です。でも、折角、ここで弁慶さんを取り上げるのですから、虚構かも知れない、という疑問符を付けた上で、彼の生い立ちと逸話を少しだけ紹介してみることにしましょう。まず出生などについてですが、これについては先の紀州・田辺が最も有力だと地元では考えられています。ただし、その根拠となっているものは例の「義経記」第三巻の記述で、弁慶は、
熊野の別当である父(弁昌)を持ち、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤。母親は二位の大納言の姫
幼名を鬼若といい、六歳まで京で養父母に育てられたが比叡山の西塔に預けられ、十八歳まで修行し
後、比叡山を下りた弁慶は書写山円教寺に立ち寄り寺僧と争い、書写山を焼き払った
人物として紹介されています。これだけを見ても「義経記」の作者が、牛若丸・義経の相方としてふさわしい血筋と武勇談の主人公を小説の筋書きに合わせて演出したのだろう、という憶測が可能です。つまり、義経の実在した家来である武蔵坊弁慶に「貴種・流浪・粗暴(力持ち)・悲運」などといった大衆向けの性格が付け加えられ、悲劇の主人公にふさわしい虚像が創り上げられたのです。勿論、このような「物語」が世に出て来る背景には、それを心地よい読み物として受け入れる大衆の存在というものが不可欠ですから、言葉を変えれば「義経物語」そのものが、民衆の願望によって支えられて生き続けてきた、ということにもなるでしょう。長年、右大臣の職に在り源頼朝との協力関係をテコに摂政まで上りつめた九条兼実でさえ『玉葉』に、
およそ義経、京中守護の間、威ありて猛からず。忠ありて私なし。深く叡慮を背かず、遍く人望に相叶いければ、
貴賎上下惜しみ合えりけるに、かかること出で来れば、男女大小嘆きけり。
生きては嘆(ほ)められ、死してはしのばれり
と述べているほどなのですから、義経一行が「伝説」の表舞台に立つ条件は十分素地として当初からあった、と考えることができるでしょう。弁慶の「性格付け」には別な見方も出来ます。それは兄・頼朝の幼名や母親の出自からみた比較で、頼朝は幼い頃に「鬼武丸」と呼ばれ鬼武者とも称されました。そして母親の山良御前は熱田神宮の大宮司・藤原季範(ふじわら・すえのり,1090〜1155)の娘なのですから、弁慶の両親の肩書き・出自が良く似た環境の人物に設定されていることが明らかです。物語の作者は「せめてお話しの世界だけでも兄弟仲良くさせてやりたい」とでも思ったのでしょうか?また、この憶測が許されるなら「義経記」が弁慶の描写・演出に多くを割き、そしてなにより義経よりも弁慶を際立たせる演出も行い、弁慶に保護者的な様相を帯びさせている意図も理解できるのです。さらに、お芝居の中で、何故、弁慶が主人である義経を金剛杖で打ち据えることが出来たのか、という的外れの疑問にも明答を示す事ができるでしょう。文治三年(1187)三月、義経は藤原秀衝(ふじわら・ひでひら,1122〜1187)を頼って奥州に入りますが、同年十月二十九日に秀衝は突然死去、それを機に鎌倉方の追及は日を追って厳しさを増し、翌々五年二月には業を煮やした頼朝が後白河法皇(ごしらかわほうおう,1127〜1192)に義経と藤原泰衡(ふじわら・やすひら)の処罰を強硬に求めます。これに対し泰衡は「義経追討の請文」を三月九日に提出し鎌倉の矛先をかわします。それから1カ月半後、文治五年閏四月三十日、兄頼朝でさえ『九郎はすすどきをのこなれば、此畳の下よりも這い出んずる者なり』とまで恐れた源義経は泰衡の軍勢に攻められ、あえなく自刃したのです。その最期を「吾妻鏡」は次のように伝えています。
今日陸奥の国において、泰衡源豫州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品(頼朝)の仰せに依ってなり。
豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。
豫州の家人等相防ぐと雖も、悉く以って敗績す。
豫州持仏堂に入り、先ず妻(22歳)、子(女4歳)を害し、次いで自殺すと。
黄門さまも探した義経の行方
本朝編年録
さて、幕府の公文書が義経・家人一同の「敗績」を伝えているにもかかわらず義経生存の噂は鎌倉方の武士の間にも相当あったようで、そのような大衆の願望を集大成したものが先の「義経記」だと言ってもよいでしょう。時代が下り、義経・弁慶の「物語」は浄瑠璃や歌舞伎芝居に取り上げられ、その虚構に様々な演出・脚色が付け加えられ義経は悲劇の見目麗しい御曹司に、そして弁慶は類希な豪傑・忠臣に仕立て上げられて行きます。17世紀初頭、徳川家康(とくがわ・いえやす,1543〜1616)によって幕府が開かれますが、武家による安定政権が登場し、一般大衆の生活も穏やかさを取り戻した頃、再び、義経生存説が世の注目を集めることになります。
徳川家の指南役とも言うべき立場にあった林羅山(はやし・らざん,1583〜1657)が歴史書『本朝編年録』の中で、
義経衣川の役で死せず。逃れて蝦夷島に到り、その遺種存す
と書いたのが慶安三年(1650)のこと(羅山の献上本は明暦の大火で消失、その後寛文10年に「本朝通鑑」として復活)。続けて、好奇心旺盛な水戸の黄門さま・徳川光圀(とくがわ・みつくに,1628〜1701)が、1688年わざわざ海風丸を蝦夷地に派遣した目的は蝦夷探検の他に、義経伝説の検証にあったと言われています。調査隊は蝦夷の各地に義経・弁慶に因んだ地名があることや、義経が土地の人人から「神」として崇められていることなどを報告しましたが、それ以上の資料は持ち帰っていません。時代は更に下って天明三年(1783)、森助衛門長見という人物が『国学忘貝』を著し、その中で義経が中国大陸に渡り清朝を開いたのだと主張しました。彼が自説の根拠としたものは清朝の皇帝が編修させた歴史書『図書輯勘録』(としょゆうかんろく)の序文なるもので、そこには清朝六代皇帝の乾隆帝が、自ら、
朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清と号す。
と認めてあるというものでしたが、新井白石(あらい・はくせき)が必死に探し求めて得られなかった『金史別本』と同様、清朝の歴史書は偽書だったのです。林羅山が、一体どのような資料・伝聞を基に「義経生存」説を残したのか、今となっては知るすべもありませんが、権力中枢、つまり徳川幕府そのものが生存説を政権運営にとって益のあるものだと認識していた証にはなるでしょう。その後、著名な探検家・間宮林蔵(まみや・りんぞう)の樺太・大陸遠征も「義経伝説」の証明という目的があった、とされていますが、伝説探しはこの位にして、今回の主題にとりかかりましょう。
冒頭の見出しが意味しているのは、
義経など、 清和源氏といわれる一族の祖先は一体誰なのか
という素朴な疑問です。皆さんも、よくご存知のように元来、日本の苗字は『四姓』と称される四つの苗字(源平藤橘)に集約されたもので、それは全てお上から賜わるものであったのです。そして義経や頼朝の祖先は清和天皇−貞純親王−経基王−源満仲−頼信−頼義−頼義−義親−為義−義朝とする考え方が最も一般的だったからこそ、清和源氏と呼ばれたのです。ところが明治三十三年、星野恒が一枚の古文書を発見したことで論争が巻き起こります。それは経基王の孫にあたる源頼信(みなもと・よりのぶ,968〜1048)が岩清水八幡宮に納めた告文で、そこには、
先祖の本系を明ら奉れば、大菩薩の聖体は忝くも某が二十二世の氏祖なり。
先人は新発(満仲)、其の先は経基、其の先は元平親王、其の先は陽成天皇、其の先は清和天皇
と記され、明らかに陽成天皇−元平親王の子孫だと自称しているのです。頼朝が開幕を前に1182年に作成したとされる清和系図と、源氏の始祖とも言うべき頼信が1046年に残した陽成系図、果してどちらが正しいのでしょう?学問的な証明をこの場でするのは土台無理な話しですから、いつものように分かっている事実だけで推理を進めますが、今、手許にある資料は、これまでに登場した主要な人物の生没年、それも?マークの付いたものであることを承知しておいてください。まず、清和天皇系図から見てゆきますが、この場合、致命的な欠陥というか信じられない事柄が大きく立ち塞がってしまいます。それは次の表を見てもらえば直に皆さんも気づかれる単純な一つの理由です(各人の生没年や年齢などについては資料により異なるものがあります。以下の数字も、あくまで、その内の一部であることをお忘れなく)
名前 | 生年 | 没年 |
清和天皇 | 850 | 880 |
貞純親王 | 873 | 916 |
経基王 | 917 | 961 |
源 満仲 | 912 | 997 |
源 頼信 | 968 | 1048 |
どうです、もう、お分かりですね。源氏の祖を清和天皇に求める系図は初めから矛盾を抱えています。理由其の一、
清和天皇の孫だとされる経基王が貞純親王が亡くなられた後に誕生している
もっとも貞純親王の没年については異なる文書も伝わっているようですから、経基王が生まれた後に亡くなられた可能性が全く無いとは言い切れません。さらに、理由其のニ、
経基王の子供だとされる源満仲が親よりも5年早く生まれている
これは、単純な系図上のミスというよりは作為が初めから存在したものと考えたほうが良いでしょう。聡明で現実主義者だったはずの頼朝が、このような杜撰で滑稽な家系図を作成した事自体、彼等が源氏ですらなかったのでは、という疑問を抱かせるのですが、読者の皆さんは、どのように受け止められましたか。この生没年から推理した系図分析では、源頼信の言う陽成系図も同様の疑問符が浮上します。つまり、陽成天皇の子とされる三品、式部卿の元平親王(958年没)も、ほぼ経基王と同世代の人物なのですから、その二人が親子であった、という説自体に無理があるのです。では、源氏の系図は全て虚偽の産物だったのでしょうか?他に合理的な解釈は成り立たないのでしょうか!それよりも不思議なのは、若し、清和源氏あるいは陽成源氏の出自が今見てきたように矛盾だらけの出鱈目なものだとして、競争相手の平氏から、或いは宮中から、糾弾されなかったのは何故なのでしょう。このような沢山の矛盾と疑問点を解消することが出来る答えは一つしかありませんが、それは、次の事柄が事実であったかどうか証明されるまで、飽く迄も仮説・推測に過ぎないことを承知してください。
多田満仲は、若くして臣籍に降っていた源経基(経基王)に近づき養子縁組を行い、源姓を名乗る資格を得た
辣腕の多田満仲は経基王に断られた場合を考え、元平親王の子供(或いは親王自身)にも接近していた
以上の二点と、更に付け加えるなら貞純親王の実子ではない可能性が高い経基王が陽成天皇の子・元平親王の養子になっていた、とする想像がゆるされるのなら「清和源氏」のもつれた系図も俄に明瞭さを増してきます。この複雑怪奇な家系図造りを考え出し、そして実行したのは勿論、源満仲(みなもと・みつなか,912?〜997)その人であり、満仲は息子・頼信に事情の全てを明かしていたでしょう。死期を悟った頼信は、父親から教えられた通りの家系図をしたため、源家の氏神である岩清水八幡宮に「告げ文」を収め、源氏としての家柄をカミサマ公認のものにしようと試みたのです。それから一世紀半、名実ともに日本国の棟梁となった源頼朝は、この文書を見て、どう思ったことでしょう。源氏の嫡流の自負は、揺ぎ無いものだったのでしょうか?
源満仲という人物は『尊卑分脈』などから一応912年生まれだとされていますが、925年生とする説もあり、天徳四年(960)に検非違使と一緒に平将門(たいら・まさかど)の子供の探索を京において行った、と云う記事で『扶桑略記』に初登場するまで、何処で何をしていたのか全く不明の武士です。その彼が一躍脚光を浴びることになったのは「安和の変」(安和二年、969)と呼ばれる事件の発端となる源連、橘敏延などの「謀反」を密告してからで、この「謀反」事件のため当時の左大臣・源高明(みなもと・たかあき,914〜983)は家来の起した騒動の責任を取らされて大宰府へ左遷されています。その直後、右大臣から左大臣に昇進した藤原師尹(ふじわら・もろただ)が源満仲の仕えていた主家の一人だと考えられていますから、この「密告」が捏造されたものであった可能性は大きいと言えるでしょう。そんな師尹が左大臣となって、わずか七ヶ月で死去したとき、都のあちこちで『因果応報』との噂がささやかれたのだとか。
また、密告に関しては経基王の方が先輩で、まだ平氏全盛の938年2月、長年の念願がかない武蔵介(むさしのすけ=国司の副官)に任じられた経基王は上席の武蔵権守(むさしごんのかみ=国司代理)興世王(おきよおう)と共に任地に赴きます。そこで、地元の豪族・武蔵武芝らと税の徴収をめぐり対立、一触即発の事態となったため隣国・上総の代表格であった平将門が調停に乗り出し、一旦は収まりがつきかけたのですが、何かのきっかけで経基王と武蔵武芝の兵が衝突、小競り合いに発展したのです。この時、経基王は、すぐさま都に駆け戻り「将門と興世王が謀反を企んでいる」と朝廷に訴え出たのが、そもそも将門の乱の引き金となったのでした。小説なら、さしずめ経基王の数少ない郎党の一人に未だ無名の満仲を脇役として登場させ、武蔵武芝の兵士を盛んに挑発させる場面です。ただ、この想像は、後に満仲が「都に潜入した(かも知れない)将門の子」の探索に駆り出されている(子の顔を知っていた可能性がある)事実と照らし合せるなら、まんざら在り得ない話しではありません。むしろ、やや年上の満仲が経基王の面倒を見ながら、その利用価値に目覚めた、と考えた方が自然の成り行きに思えるのですが…。おまけにもう一つ、今回の主題とは関係のないことですが、東国の運営と治安維持に大きな不安を覚えた朝廷は、それまでの権守に代えて天慶二年(939)五月十七日、正式な武蔵野守を任命します(『将門記』)その人の名前は百済王貞連(くだらのこきにし・さだつら)といいました。何やら見覚えのある苗字ですね。そう、あの東大寺の大仏様のために大量の「金」を発見し、朝廷に差し出した百済王の一族です。百済王にとって東国・奥羽は縁の深い土地柄のようです。
義経伝説は今もなお根強い(photo by だだちゃん)
後白河法皇は実質的に全国の覇権を掌握した武家の棟梁である源頼朝を生きている間、決して「征夷大将軍」には任じようとしませんでした。それは法皇の意地だけで片付けられるものだったのでしょうか?建久三年三月、法皇が薨去、頼朝が晴れて征夷大将軍になったのは4ヶ月後の七月十二日のことでした。
百済王の名前が出てきたついでに「金」にまつわるお話しをもう一つ。天狗の厳しい指南のお陰で腕を上げた牛若丸・源義経は十六歳になった承安四年春三月に鞍馬山を出て、奥州の藤原秀衝の館に向かった(『尊卑分脈』)らしいのですが、その時初めから北を目指して出発したのではなく『東国(関東)の旅人と相語し、約諾せしめ』た上で旅立ち、一旦、東国に赴いた後、再び奥州に下っているのです。この遠回りには、何か、そうするだけの理由があったと思うのですが「尊卑分脈」も、その点には答えてくれません。今、不確かな伝承として残されているものは「義経が都落ちして奥州へ向かう道中の案内役となった者は、かつて、鞍馬寺から牛若丸を連れ出した奥州の金売り吉次という人物であった」という興味深いお話しだけです。義経と旅人を東国で待っていた人物とは、一体誰だったのでしょう?
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