野呂美加さんのエントリーが荒れたのでこちらに
そこの記事の最後にも書きましたが、野呂美加さんなどが支持される理由のひとつは、不安をもつ親に対してわりとこまめに講演会などを開催し、その不安に応えるからです。
科学者も不安に応えているのではないかと思うかもしれないけど、なんというか「答えているが、応えていない」とでも言うか、「理屈じゃなくて納得したい」という気持ちには応えていないということだと思います
もちろん、やはり理屈に合わないことはいえないので、「EM菌で安心できるなら、効果がなくてもいいじゃないか」というスタンスは取りづらい。野呂さんのように「理屈はともかく不安を重視」のようなスタンスのかたには、ある意味、初めから勝ち目はないわけです。これは震災以前からずっとあった問題で、今にはじまったものではありません。解決法はありません。
しかし、「わりとこまめに講演会などを開催し」というところは、本当はできるはずで、そこをなんとかできないだろうかとずっと考えるだけは考えています。
大きな講演会ではなく、個々の不安を聞けるような、小さな会をたくさん開くのがよいはずだというところまでは、確信があります。
これはまさにいわゆる「欠如モデルがうまくいかない場合」そのもので、すると「双方向モデルでやれ」ということになります。まあ、僕はそう言っているわけです。不安は人それぞれだから、個々の不安というからにはそうなります。当然それは少人数を相手にするわけですから、おもいきり頻繁にいたるところでやらなくてはならない。科学コミュニケーション論のみなさんは簡単に「双方向」と言うんだけど、これ、ものすごくたくさんやれということですよ。本当に本気で実践したことあるのかな。
でも、それしかないのだろうと思います。
実際には地元の人が主催しないことにはどうしようもありません。誰を呼ぶかも重要で、これまた大変です。でも、なにかそういう方向でできないのだろうかと、問題提起だけはしておきます。組織的にやれればいいのですが
何かいいアイデアはないかな
[追記]
「欠如モデル批判」に対する僕の不満は、双方向モデルなら当然場数を増やさなくてはならないという点をまじめに考えているかどうかわからないことです。そういう実践例はどの程度あるのか
この記事に対するコメント[33件]
1. 地震屋 — August 27, 2011 @10:55:01
科学者というのが知られているので近所で何度か、お茶の席に伺いましたが
自分の体験では10人未満でないと、すべての人の質問に答えることはできません
その場である程度理解してもらえるかたは、1/3以下ですので
同じ人に何度も同じ話をすることになります
やり方(話し方、内容)が悪いのだと思って、科学コミュニケーションの本をいろいろ読みましたが、
この国にはその分野の専門家で「臨床」についてちゃんと考えている人が
少ないことを知ってがっかりしています
欠如モデルを実践しているように見える方を叩いている方は
代替療法を提示していただけると、大変にありがたいです
1000人集める講演会に代えて20人程度の対話集会をするなら、50回やらなくてはならないのですよね。
少人数相手の対話のほうがいいことくらい、「欠如モデル批判」なんて言われなくてもわかっている、という言い方もできるかと思います。
実現可能な案を示してくれ、と言いたくなることはよくあります
まあ、それでもなんとかしなくてはならないのですが
3. ふぃっしゅ — August 27, 2011 @11:40:24
これだけ自然災害が多い国ですから、防災省のような単独の機能があってもよいのではないかと思います。
広範囲に被害がおよぶ災害が起きた場合に、直接被災している人はどういう行動をしたらよいか、周辺地域の住民はどうしたらよいかなどの目安を示すことがひとつ。
直接被災している人が停電や通信情報網の切断でその情報を得ることが難しい場合もあると思いますが、被災していない人がその情報を知るだけで災害時の行動を学ぶことにもなると思います。
広域の災害が起きた直後の救援や道路・インフラの復旧作業の進捗状況がわかる、あるいは復旧までおおよその目安がわかるようなタイムテーブルを発表してくれるだけでも、不安の軽減につながると思います。
被災後には感染症など健康被害への不安が高くなると思います。
その災害によって起こり得る環境の悪化と対応策、健康への影響についてすみやかに統一した情報を流すのは有効だと思います。
これも、いろいろなメディアがバラバラに情報を提供するのではなく、災害直後は政府機関の情報に一本化することと、その後は検証しつつ変更の情報をすみやかに流すことだと思います。
また、どのような不安があるか、その不安解消のために選択した方法が正しいのかなどの相談窓口も一本化して、デマや根拠のないものにできるだけまどわされないようなアドバイスを流し続けることも有効ではないかと思います。
日頃から、他地域の災害時のそういう情報を目にするだけでも、いざ自分が災害にあった時の行動を想定するのに役立つのではないでしょうか?
毎年、地震や洪水、噴火などにあわれた方々の体験談をもっと生かす方法があると思います。
たとえばテレビで床上浸水した家を見ると、あのあと日常生活が戻るまでどのように過ごしているのだろうと気になります。消毒したり、再び住めるようになるまで、実際にどうするのだろうと。
災害が起きた時の悲惨な状況は報道されてもその後の復旧までの体験は伝わらないので、自分が被災したらただ右往左往するだけのような気がします。
大手政党が活動を町で済ませるのに対し、共産党は無医村や山奥の寒村まで足を運び、小さな集会所で数名を相手に対話をするから。
支持者に話を聞くと、日本の未来だの国際社会だのといった大きな話よりも
今自分が現実に困っている「山をぐるりと巡る道にトンネルを作ってくれるかどうか」が問題だと言っていました。
「難しそうな科学のお話より身近なとぎ汁」はこの感覚に近いかもしれないなと思い出しました。
顔を見て直接質問が出来る、相手が頷いて聞いてくれる、これはやはり人の心を動かす上でとても大きなことで
そういう意味に於いて科学者が野呂さんに対抗するのはとても難しいだろうなと、TLを見る度に思います。
自分が口を出しても茶々にしかならないので黙ってしまうけど、仰るように組織的にやるしかないのだと思っています。
入り込んでしまっている人への対応は別なジャンルの方に任せるとして、
まだ入り口にいる人を中に入れてしまわない為には、ただただ手間を掛けるしか手はないのかもしれない。
でも、専門知識を持って仕事をしている側にそれだけの時間があるかというと難しい。
となると、ボランティアとしてではなくそれなりに助成も必要なのではないかなと思ったり。
エセ科学の商品がこれだけ出回っているのを見るに、国の問題レベルではないかと思うので少し真面目です。
5. nrt — August 27, 2011 @15:55:54
最初の書き込みをした動機には、この問題をめぐる議論において「不安を抱えている人の要求に応えるか」ばかりに焦点が当たってことに対する苛立ちゆえのカウンタのようなものがありました。ニセ科学批判の議論が「相手の気持ちを考えること」に気を取られてしまうと、本来言うべきことがいえなくなってしまったり、また、一部の人が騒ぎ立てているような「話を聞いてもらえばいのは、お前らの態度が悪いからだ」式の主張が、正当なものとして広く認知されてしまうのではないか、という危惧ですね。「不安を感じている」とされる人に対し、あまりにも寛容というか、その気持ちに沿うことばかりを考えてはいないか、彼ら (彼女ら) に対しても求められるべき態度や心構えがあるだろう、と。
ただ、落ち着いて考えてみると、やはりそうしたことは、こうした不特定多数を相手に議論する場で主張するには、幾分不適当なものがあるかな、と思い始めてもいます。「相手を頑なにさせてはいけない」と言われてしまうと、返すが言葉出てこない、というのもありますし。説得を受ける側の態度や心構えについては、こうした公の場ではなく、実生活においける個人的な付き合いの中で一人ひとりに個別に求めていくべきものなのかもしれませんね。
ただ、それを個々の批判者がバラバラに行ったのではあまりにも効率が悪く、組織立ってニセ科学を広めている連中にはとても太刀打ちできないのではないか、とも思うのです。さてさて、どうしたものでしょうか...。
6. からから! — August 27, 2011 @16:06:26
よく登場した「ただちに健康に影響を及ぼすものでは無い」などという言い回しは、科学的には正確でも庶民の不安に応えてはいないですね。政治的韜晦に聞こえる。
だからといって「感性に訴えろ」というのではない。
面倒でも、「急性の影響は0%、長期的な発ガンリスクはLNTモデルで+0.0001%」とか、具体的に断言したほうが信用できる。
受け取る側の知識とのギャップを埋める仕事は、マスコミに協力してもらえば良い。
芸能人コメンテーターの誤った解釈にはバシバシ修正を入れる。
あとは組織で、(学会の枠を超えて横断的に)「政府独立で発言できる科学者グループ」と、これを支持する「市民グループ」が欲しい。
最もオーソドックスで最新の知見をだれでも閲覧できるように、市民が情報の収集と公開、コミニュケーションをできると良いですよね。
「疑似科学な市民組織」に対抗するにはやはり組織力です。間違ったマスコミへの対応も、学者が対応するより、市民組織がやったほうが効果的ではないかと。
ツイッターで良い事を言っている理系個人は大勢いるけれど、ネットに閉じていては勝てません。
7. からから! — August 27, 2011 @16:32:31
1.せめて学者の努力で「みのもんた一人を納得させる」くらいは、なんとかなりませんか。
社会的影響力のあるスピーカーを「無知な素人代表」ではなく、味方に付けたいものです。
2.「科学者の間でも意見が割れている」というのも、付け入る隙があります。
涙を流して抗議の辞任をした先生がいますが、彼の主張が専門家の意見の何%を代表するものなのか、そういう情報は欲しかったです。
あのような頑なな人に対しては、まず初めに心理的な手法で心を開かせる(洗脳を解く)必要があるのではないでしょうか。
自然科学としての事実に基づく具体的な説明・説得はそれからにした方が良いように思えます。
10. nrt — August 27, 2011 @20:12:52
現在、kikulog だけでなく、あちこちでニセ科学批判をめぐるコミュニケーションの問題について議論が交わされています。それらを眺める限り、多くの人が、齟齬の原因が「感情」と「理屈」の対立にあると捉えているように観察されます。「ニセ科学批判者は、不安という「感情」を「理屈」で否定する、人の心の分からないやつだ」といったところでしょうか。ニセ科学批判をする人 (以下、「批判者」とします) からも、そうした意見が出ているようです。しかしながら、私はその解釈について多分に懐疑的です。
というのは、バカバカしいくらいに当たり前のことなのですが、心のない人間なんていないからです。放射能の不安に怯える人と同様に、批判者はそこに付け込んで蔓延するおかしな理論の害について憂慮しています。そうした事情を省みずに、「批判者は他人を見下し、攻撃して優越感に浸っている」と、その動機を憶測で語るのは、怪しい対策を実践している人に対して「子供の健康のことなど本気で心配してない」と言うのと同じくらい、無神経で想像力を欠いたもの言いではないでしょうか。
もちろん、きくちさんをはじめ、ニセ科学批判をされている方は、そうした自分の気持ちについて積極的には語ろうとしません。(技術開発者さんのように、自分の動機を韜晦する人もいるようです。) それは、おそらく、感情に感情をぶつけても良い結果を生まないこと、そして、動機が主張の妥当性や正当性を担保しないことを経験から知っているからでしょう。
しかし、それをよいこと (?) に、批判者を「他人の気持ちの分からない人間」と評する方には、そのあたりのことを、今一度考えて頂きたいと思います。自分が肩入れしたい側の気持ちを斟酌するのは、それほど難しいことではありません。けれども、相手の気持ちへの想像力というのは、むしろ自分と異なる立場・主張の人と関わる場合に必要となるものではありませんか?善意・熱意からの行動だからといって、他人に受け入れられる、あるいは批判されるべきでないと考えるのは傲慢です。「気持ち」なら、それを批判する人だって、同じくらい真摯なものを持っています。
もし、自分は「他人の気持ちが分かる」と自負するのであれば、ニセ科学批判の問題点の指摘はそのまま続けて頂いて結構 (というか、むしろ続けて頂きたい) ですので、併せて、不安を抱えてる人に向けて、「自分の気持ちを抑え」「不安に打ち克つ」ことの大切さを、あなたなりのやり方で説いてみてください。もし、それが上手くいくようであれば、その手法はニセ科学批判のコミュニケーションにも、お手本として取り入れられるでしょう。
11. 多分役立たず(HNです) — August 27, 2011 @19:39:15
批判的思考 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E6%80%9D%E8%80%83
>アジアと欧米の違い
>文化との関連性
等の項目は今回関係しているように思います。
12. かこたん — August 27, 2011 @21:44:20
実際に私がやってみたい、と思っていたことは、例えば菊池先生が私の住む町を訪問して講演会をする、という場合に、地元の科学者および自治体に講演会を主催してもらい、司会進行や講演会参加の呼びかけは、菊池先生の講演の趣旨をきちんと理解している保護者の方にやってもらう。実際の講演は、菊池先生、地元の科学者、地元の小児科医の対談形式にする、という感じです。講演後は、講演の内容について、ustreamおよび主催者の大学および自治体のホームページや広報誌に掲載してもらう、ということで参加できなかった方への情報提供もできると思います。
自治体は基本的に地元の科学者や医者を信頼していますから、「母親の不安に対して科学者が語る場」を設けることに反対はしないと思います。また、保護者側も、地元の科学者や医者を信頼していますから、参加して話を聞くと思います。
私の町で講演して頂けたら、本当に嬉しいです
本当はもっと専門家でかつきちんと対話のできる人がいれば、それに越したことはないのですが。もっとも、専門家じゃないからいいという考え方もあります。
講演会やパネルディスカッションより、直接対話が可能なもっと小規模なもののほうがよいのだろうと思います
http://www.biken-guide.co.jp/mayumi/index.html
15. かとう — August 27, 2011 @23:06:09
コメント欄を眺めると、その理由は解りますね。
#僕はメタな議論も好きなんですが、議論できるレベルの人だけしか居ない場所でしか無理なんでしょうね。
17. ikutana — August 28, 2011 @01:08:48
そして、科学者は不正確なことを言いたくないという思いがあります。
反科学、や反医学の人たちというのは、基本的に「簡単な原理」だけがあって、あとはAd hocに説明してるだけなので、「話が簡単」で「短い」ってことが言えると思います。
悲しいことに、話が長く、細かいと発言者に自信が無い、話が簡単で短いと発言者に自信がある様に見えます。
結局、正しく説明しようとすればするほど、その発言者の信頼が落ちて行くというパラドックスが科学にはあるのかもしれません。
18. しずか — August 28, 2011 @09:23:58
アマデウス龍彦さま〜 アマデウス龍彦さま〜
つづきまして、技術開発者さま〜 技術開発者さま〜
リクエストがございます。
いらっしゃいましたら、「何もしない人」と「どうしても何かをしつづける人」の医学的なデータを集めて検討する研究のデザインをお願い申し上げます。
ああいう人たちって口で商売してるように見えますね…
20. かこたん — August 28, 2011 @17:34:15
そうですね。この方は、口だけでなく、著作(?)も際立ってぶっ飛んでいると思うのですが、(例-->http://www.biken-guide.co.jp/mayumi/autobiography.html
これを素直に受け止めてしまう方々が多いことにも驚かされます。
21. mneco — August 28, 2011 @17:22:33
相手に大きな被害をもたらす人間は、通常相手に対し、
大きな悪意を持っています。
科学技術は自然現象を利用して一面では人間に大きな幸いをもたらします。
だから科学技術を用いた設備等が不慮の事故をおこし、
人間に大きな災厄をもたらした場合、
それがヒトの手によるものである以上、科学技術にくわしくない人間は、
その設備等を作成した人達は、自分たちに大きな悪意を持っていると、
ついうっかり思いがちです。
しかし通常そんなことはない。
台風や地震がヒトに悪意を持っているわけではないのと同じことです。
もちろん科学技術を使った設備等はヒトの手が加わっているので、
台風や地震とは違いますが。
ただ、科学技術を用いた設備等が不慮の事故をおこし、
人間に大きな災厄をもたらした場合、
そこにあるのは「悪意」ではなく、「知識の欠如」「想像力の欠如」
「行動力の欠如」「思慮の無さ」「気配りの足りなさ」「ずぼらさ」
などである場合がほとんどです。
そのあたりが科学に詳しくない人間にはわかりづらいよな、
と自戒を含めて思ったりします。
22. kurita
— August 29, 2011 @01:23:16
『下痢は増えていたのか』
http://windycotage.blog66.fc2.com/blog-entry-552.html
“科学的”な(というか、この場合は常識的と言ってもいいとすら私は思うのですが)人たちが言ってきたことでもありますが、最後の一文「まず、落ち着いて事実を確認することが大切なんだなとしみじみ思います。」に深くうなずく次第です。
ある現象の原因を問題にする前に、「そもそもその現象は本当に起きているのか」を確認するのは、ニセ科学の問題でも重要な考え方です。
やるなら、平常時から、話題はいろいろ、でしょうけど。
25. まこまこ — August 29, 2011 @08:33:14
> 建前を自信満々に他人に押し付けようとする人が全く分からない。脅しなのかな?
> 人は建前を知ることではなく、現実を知ることで自信を得ていくものだと思うが…。
> 建前を現実だと錯覚するほどナイーブだとも思えない。
http://twitter.com/#!/nisekagaku/status/107957606714310656
26. 技術開発者 — August 29, 2011 @08:19:22
>放射能の不安に怯える人と同様に、批判者はそこに付け込んで蔓延するおかしな理論の害について憂慮しています。
私なんかは、「不安」そのものが人に与える害の方を重く見たりするんですね。なんていうか、多くの人が「人の心はなめし革の用に強靱だ」と誤解して居るような気がしましてね。人の身体よりも心の方がはるかに防御力が弱いという認識があるんですね。
少し雑学を言うと、人の身体は60兆個の細胞からできていて、その細胞一つ一つに30億個のDNAの塩基対があります。そしてその塩基対の連鎖は、一日につき1細胞当たり5万〜50万箇所切れます。酵素反応のミスでも切れますし、外側の細胞なんかは紫外線でも切れます。もちろん自然放射線の影響でも切れる訳です。そして細胞にはその切れた箇所をつなぐメカニズムがきちんと存在し、直ぐに修復している訳です。この切れたDNAをつなぐメカニズムというのは、単細胞生物がDNAを自分の設計図として採用した頃から、連綿と磨き上げてきた強い能力なんですね。これは、今よりも遙かに自然放射線の強かった時代から、生物が磨いてきた防御能力なんです。
さらに多細胞生物になると、身体の中でDNAの修復が効かなくなった細胞を殺すメカニズムも持っています。いわゆるプログラム細胞死ですが、ナチュラルキラー細胞が、ある働きかけをしてそのプログラムが発動すると、きちんと働けなくなった細胞は自分で溶けて消える訳です。そして、その細胞死は近くの細胞に分裂を働きかけて、その穴は埋められる訳です。このメカニズムも生物が多細胞と成ったときから連綿と磨き上げてきた生体の修復メカニズムであるわけです。
それに対して、人間の持つ「将来を不安に思う事ができる能力」というのは、おそらく、まだ数百万年しかたっていないのです。それゆえ、その能力の暴走で様々な生存への害も起こりますが、それに対する対処能力はまだ、とても未熟なもののように思います。
放射線によるDNA損傷による細胞死としては、アポトーシスというものがあります。
・放射線影響を左右する細胞死−アポトーシス
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-02-02-21
上記リンク先に詳しい解説がありますが、もう少し簡単な解説をしているものとして、
・薬学用語解説−アポトーシス
http://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9
>アポトーシスは多細胞生物の細胞で増殖制御機構として管理・調節された、能動的な細胞死である。殆どの場合、ヌクレオソーム単位でのDNAの断片化を伴い、遺伝子によって制御されている。
>アポトーシスでは細胞サイズの急速な縮小に続き、隣接細胞から離れ、核クロマチンの凝縮、核の断片化、細胞の断片化がおこり、細胞膜のバリア機能を保ったままアポトーシス小体が形成される。細胞内の成分が漏れ出す前に、マクロファアージなどの組織球や周辺の細胞が、このアポトーシス小体を貪食し細胞の内容物の流出は起こらない。このため、内容物の流出の起こるネクローシスと異なり、炎症を伴わない。アポトーシスは非常に短時間に生じ処理されてしまう (約2-3時間)。
最初に細胞が自身のDNA損傷の異常を検知して、"自殺"するプログラムを発動するのが特徴です。
28. かとう — August 29, 2011 @14:14:45
議論の為の議論をする意味も無いし、論破したって何の価値も無い。
ニセ科学に困っている人が自分で考える為に、その考えを深める為の議論であれば行う。
後は、それに必要な知識、情報を欲している人にそれを教える。
だから、ニセ科学を自信満々に喧伝しに来たような人との対話は、その人と議論して説得して考えを変えさせるというのは目標ではなく(ほぼ無理。たまに上手くいくかもしれない)、その主張のおかしさが、ROMっているニセ科学に困っている人達の為に解るように、議論をすればいい。
まこまこ — August 29, 2011 @08:33:14
このURL先の名前、プロフィールを見れば一目瞭然ですが、それふまです。
地縛霊対策で、野呂美加さんと放射能対策のコメント欄を閉じられたから、急遽twitter iDを作成して、twitterで浮遊霊となっただけです。
29. みむら — August 29, 2011 @14:25:02
30. 生物系 — August 29, 2011 @15:34:36
いくつになっても勉強したい人は勉強しましょう、私たちが知識を提供しますというスタンスを理系の専門家ももっと取る努力が必要かと思います。そのために削られてしまう時間やエネルギーは少なくないでしょうが、日頃から身近に接している科学者の言葉ならいざという時に耳を傾ける人も多いでしょう。また、有事でないときに正しいことを聞いてもらう方が受け取る側にも伝わりやすいのではないでしょうか?
私はまだ駆け出しの研究者ですが、将来的には上記のような活動を積極的に行っていこうと考えています。
31. bloom
— August 29, 2011 @19:14:35
私の場合は気長にブログを書いています。
「科学者は安全デマを流しながら自分だけコッソリ対策をしている」といった疑いを持つ人もいるので、自分は福島産の農作物を積極的に食べていることや(福島産の桃が激安で生産者に申し訳ないくらいです)、福島在住の研究者が引っ越していないことなども書きます。
私の知識が全て正しい訳ではないのですが、個人の生物学者はどのように感じていて、どんな生活をしているのかということを伝えることで、状況が伝わりやすいかな・・と。
また、分野外のことは軽々しく安全とか危険とか言わないようにしています。
私は原発の構造は知らなかったので3月は「核爆発?」と物理系の人に聞いてしまいました。
逆に物理系の人々は「癌になるかも」と怖がっていました。
科学者も分野外のことには恐怖を感じるので、そういう恥をかく方が一般の人に丁寧に説明出来ると思っています。
ブログにコメント欄もあるので、新型(豚)インフルエンザ騒動の頃は色々なことを聞かれましたが、放射能関連に関してはあまりコメントが無いですね。
インフルエンザ騒動の頃は多くの研究者が危険性を煽っていたので、ブログでも「季節性と同じ程度の致死率とか言って、何かあったらどうしてくれるんだ」といった攻撃は受けていたのですが、記事を書き続けるうちに中立的に見てくれる人も増えたような気がします。
原発関連はリスクを高めに言わないと「御用学者」と叩かれるので発言しづらい雰囲気を感じますが、気長に記事を書き続けてみます。
先日は別記事でご挨拶したように菊池先生のブログを引用させて戴きました。
今後とも宜しくお願い致します。
> 科学者も分野外のことには恐怖を感じるので、そういう恥をかく方が一般の人に丁寧に説明出来る
そんなことではダメです。それでは、一般の人々に対する対話の責任を果たせません。科学者ならば、一般の人々に対して「確かな科学的意見」を述べるという責任があるのです。「分野外だ」なんていうのは言い訳になりません。そのことを見事に指摘した秀逸なツイートを引用するので、熟読玩味してください。
> 対話の場を増やす為には科学者だけでは無理で、そこに科学コミュニケータの役割があると思うのです。話者の科学者が足りないと言うのなら、ニセ科学批判者に声をかけてもいいし。ただ、肩書きが無い。確かな科学的意見を言いますという推薦を貰わなければ無理です
http://twitter.com/#!/katot1970/status/107884781794111488
科学者ならば、その責任はもっと重いはずです。
33. nrt — August 29, 2011 @19:41:20
「相手を説得したいと思うなら、強い言い方で相手の反発を招くことは避けるべき」という意見に対し、「尤もだ」と首肯する一方で、「綺麗事が過ぎるんじゃないか」と思ってしまう自分がいます。こうした煩悶に陥るのは、私が、「強く批判する」側にわりとシンパシーがあるせいかもしれません。
例えば、「もっと言い方を工夫すべき」という言いにクッションがない、あるいは、相手を否定する気色が満ちている (ように思える) 矛盾。「相手の苛立ちを分かってやれない相手」に対する苛立ちがそうさせるのでしょうか。
けれども、そうした「言い方を工夫すべき」という指摘にクッションを入れて遠回しに行うべきかというと、それはそれで、相手 (の知性や理性) に対する敬意を欠いた行為にも思えるのです。自分の意図を正しく読み取ってくれるという信頼があればこそ、直截かつ端的に指摘するわけですから。しかし、その「信頼」は「甘え」でもあるのではないのか...。
という感じで振動してしまい、なかなか自分の中で収束させられないのです。
まとまりもこれといった主張もない書き込みになってしまい、大変申し訳ありません。こちらで議論されている皆さんも、程度の差こそあれ、こうした「迷い」のようなものは感じていると思います。もし差し支えがなければ、その迷いとどのように折り合いをつけていらっしゃるのかなど、聞かせて頂ければ嬉しく思います。