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満蒙の土:1部・開拓民の記憶 銃撃戦/6 投降した父らは銃殺 /長野

 ◇6歳の能枝ちゃんは母親に青酸カリを飲まされ収容所で亡くなった。ポプラの下に埋めた--中野市・三井寛さん

 <満州(現中国東北部)の東安(とうあん)省密山(みつさん)県の黒台(こくだい)信濃村開拓団に家族3人で移り住んだ三井寛さん(77)=中野市在住。敗戦直前、ソ連軍が北方から侵攻し、当時10歳の三井さんら開拓民約1300人は南西へ避難を始めた。4日目の1945年8月13日。先の見えない逃避行に集団自決の話も出たが、思いとどまり、再び歩みを進めた。決死の覚悟もつかの間、鶏寧(けいねい)の街に入る手前で、無数の銃弾が襲いかかる>

 「タタタタッ」って、銃弾の音が夕立みたいだった。機関銃で丘の上の方から撃ってくるんで、相手の姿は見えない。(避難民が乗る)馬車を引く馬は足を上げて、ひっくり返った。

 「このままじゃ死ぬ」って思って、馬車から飛び降りたんだけど、どこかに足がひっかかったみたいで、地面に降りられない。手をバタバタしながら何メートルか引きずられたあげくに路上に放り出され、脇の田んぼに転がり落ちた。この時の右足のけがは、帰国後に悪化して足を切断して義足になるはめになったんだ。

 <子供も銃を取り応戦した。初めて小銃を持たされ、見よう見まねで弾を込めて何度も引き金を引いた>

 田んぼの中から、馬車が次々と通り過ぎるのを見て「置き去りにされたら死ぬ」と焦った。泥まみれで、はい上がって馬車に飛び乗ったんだ。知り合いの男性が乗っていて「ひろちゃん、撃ち返すの手伝ってくれや。狙わんでいいから」と頼まれた。

 荷台に銃の台座をつけたまま、空に向かってひたすら撃ったね。引き金がやたら重かった。「ビュンビュン」と弾が飛んできて、知ってるだけでも大人3人は当たって死んだ。

 <市街地手前のムーリン川を渡った所でソ連軍の装甲車が現れ、抵抗むなしく降伏した。三井さんの父親ら成人男性59人は連行された>

 誰かが「白旗、白旗!」って言うんだよ。声と同時に白旗が4、5本揚がった。おやじは隊の先頭にいた。100メートルくらい離れていて、声を掛けることすらできない。ちょっとでも動けば、ソ連兵に撃たれるからね。おやじは「俺のそばを離れるなよ。死ぬ時は殺してやるから」とずっと言ってたけど、麻畑の方に連れて行かれてしまった。数日後、中国人からおやじたちは「銃殺された」と聞かされた。

 <子供と女性は鶏寧の収容所へ連行された。途中、忍ばせていた青酸カリを飲み、服毒自殺する女性もいた。いいなずけだった6歳の能枝(よしえ)ちゃんもその一人だった>

 病院の先生の奥さんがいて、青酸カリを持っていたんだな。俺のお袋も赤茶色の包み紙を渡されていたが、無視して飲まなかった。能枝ちゃんは母親に飲まされた。口に入れた途端「いやだ」とすぐに吐き出したけど、顔が真っ青になって倒れ、夜中に収容所で亡くなった。

 先生の奥さんと、能枝ちゃんの母親は服毒後に倒れたまま、道路に放置された。お袋が夜中に見に行ったら、まだ息をしていて「首を絞めてくれ」と頼まれ、泣く泣く首を絞めて死なせたらしい。

 能枝ちゃんは開拓団で仲良しだった親同士が決めたいいなずけだった。おとなしい子だった。少しでも涼しいようにと、収容所の庭にあったポプラの下に遺体を埋めたんだ。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく

毎日新聞 2011年8月26日 地方版

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