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満蒙の土:1部・開拓民の記憶 思い出/5 ソ連侵攻で避難命令 /長野

 ◇集団自決寸前「行けるところまで行く」に。「死なんで済むんだなあ」と、ほっとしたよ--中野市・三井寛さん

 証言者の2人目は中野市在住の三井寛さん(77)。長男で2歳の時に両親と3人家族で旧満州(現中国東北部)に入植し、敗戦後は現地で中国人の養子になるなどして生き延び、11歳で帰国した。少年の目で見た開拓団や引き揚げ時の波乱の体験を聞いた。

 <倭(やまと)村(現中野市)で生まれ、1937年に満州・東安(とうあん)省密山(みつさん)県に、長野県が初めて単独で募集した第5次黒台(こくだい)信濃村開拓団として入植した。開拓民は県内全域から357戸計1610人(県満州開拓史)に及んだ>

 父は元日本共産党員で(機関紙の)赤旗の記者をしていたんだ。恐らく党の活動が原因だと思うが、監獄に入れられた時に偶然、房で戦後に保守系代議士になる男と一緒になり、諭されて急に国粋主義に傾いていったらしい。

 開拓団募集に賛同し、県内中を勧誘して歩き「五族共和で大東亜共栄圏をつくるんだ。リーダーは日本だ」と呼び掛けて回った。何しろ、弁がたったらしい。勧誘した親父自身も行かざるを得なかった。親父は先発隊で半年前に満州に渡った後に一時帰国して、俺らを迎えにきた。

 <開拓地では一軒家に暮らし、豊かな畑も与えられた。貧しかった倭村と違い、食べ物に困ることもない。国民学校(小学校)に通いながら、農作業を手伝い、平和で無邪気な少年時代を過ごした>

 日干しれんがでできた平屋建てに住んだ。畑では大豆、家畜飼料用の麦や野菜を育てた。牛や馬も10頭ぐらいいたし、鶏も200羽飼っていた。

 ランドセルを日本から送ってもらってなあ。春夏になると、湿地帯にいるガンやカモの卵を、ランドセルに詰めるんだよ。卵が割れて教科書がぐしゃぐしゃになって、どんだけ怒られたか。ひもじい思いをしたことはなかった。楽しい思い出ばかり残ってるねえ。

 <敗戦直前の45年8月9日、状況は一変する。日ソ中立条約を破棄したソ連兵が北方から侵攻。日本の関東軍から開拓民に南西約200キロにある街・牡丹江(ぼたんこう)に避難するよう命令が出た。男性の多くは出征中で、女性や子供ら約1300人は集団で避難を始めた>

 国民学校5年生だった。両親と一緒に大雨の中、夜通しで馬車に乗って移動したんだ。当時は、かっぱなんかない。厚い綿入りの外套(がいとう)を着て、雨を吸収してしまう。裾に水がたまって重すぎて、バケツを下げているみたいだった。肌にしみて、寒くて凍死してしまいそうだったよ。

 <避難から4日目。先の見えない逃避行の途上「集団自決」の話が少年の耳にも届いた。日本軍の劣勢に乗じ、避難経路に位置する滴道(てきどう)炭鉱で中国人鉱夫らの反乱の情報が入った。「安全を確認しよう」と青木虎若・開拓団長らが炭鉱方面へ偵察に向かった。残された避難民は「もし帰ってこなければ、集団自決しよう」と決めた。10歳の少年の体も震えた>

 青木団長は午前4時に出発し「正午までに帰ってこなければ、集団自決する」と決まったんだ。とにかく震い立ちがきて、落ち着かない。腹の底から寒気がして、みんな黙り込んじゃった。

 正午になっても団長は帰ってこない。自決用に唐松の木を削ってやりを作ったり、目隠し用のさらしを皆に配ったりしてね。水杯(みずさかずき)(死に別れる儀式)も済ませて……。

 「さあ、あとは死ぬだけだ」となった。けど、なかなかゴーサインが出ない。出なかったというより、出せなかったんだなあ。

 「行けるところまで、行こう」。結局、誰が言うでもなく、他の幹部もそう即決したんだ。「死なんで済むんだなあ」と、とにかくほっとしたよ。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく

毎日新聞 2011年8月24日 地方版

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