青少年SFファン活動小史(4)
宇宙塵 No.172
1973/I 昭和48年7月30日発行



 第三章 “プラネッツ”の衰退と“バグ連合”の挑戦

 まず一九六八(昭和四十三)年の補足から始めよう。
 十月、青少年とは名乗っていないが、女性だけのグループ“SFガールズ”(林真紀子女史)の「卑弥子」が登場。女性上位グループとか、年令的にガールでない会員もいるとか、色々からかわれていたようで、一時はそういったつまらないことから“バグ集団”と喧嘩を始め、周囲をはらはらさせた。
 同月、北海道に“日本SF研究会”が誕生(波津博明氏)。のちの“イスカーチェリ・クラブ”である。このクラブは多くの種類の会誌を乱発(?)、その混乱ムードを楽しんでいるようなところがあったが、その後、造反運動から内ゲバへとめまぐるしい動きを見せた。
 川又千秋氏の“プラネトイド”はいちじ細田俊介氏の漫画とSFの“SF&C”(会誌名「ベム」――この名前はつけ易いためか岡田正哉氏のものを始めとして「ベム」を会誌名とするクラブが幾つも現れている)と合併の計画が出たが、お流れとなり、新たに前記“日本SF研究会”と合併した。しかし“日本SF研”から発行されたのは「プラネトイド」六号だけであった。その後、ニューウェーブ志向の強い「N」として独立し、現在に至っていることは前述のとおり。
 十二月には“プラネッツ”系の“空間クラブ”(木村一弘氏――改名前の一平氏――、ペンネーム島本光昭)が、「空間通信」十三(終刊)号で解散を発表、「NOVACON」の名でつづけていた例会の最終回を開いてここでも解散を宣言。これは青少年ファンダムの錚々たるメンバー十三名が集まっての「解散式」であった。これ以前にも、八月には同じ“プラネッツ”系の「ジュピター」(矢沢泰司氏)の終刊号が二年半の沈黙を破って出されている。(今まで書きもらしていたが、このように終刊号を出すなどしてはっきり閉会するグループは意外と少なく、多くは開店休業中のまま何となく消えていってしまうようだ。)

 さて、この年の終わりから、翌年、翌々年にかけての青少年ファンダムの動きは、(青少年ファンダムという概念はすでにうすれてゆく過程にあったのだが)簡単に言えば“バグ集団”によってつくられたといっても過言ではないだろう。
 その流れをまとめてみると、まず“バグ”の会長制から代表幹部制への移行、“バグ”を中心とするいわゆる傘下グループの激増、“バグ”の“プラネッツ”連合への批判、“バグ”の内紛、“バグ”と“超人類”の接近さらに合併計画による〈SFフェスティバル〉の開催、そして突然のいわゆる“バグ”の造反運動。その結果として、日本SFファンダムの運営陣の世代交替と、青少年ファンダムという概念の発展的解消。すべて“バグ”“バグ”の連続であった。この間の事情を一面的にとらえることは難かしい。時の経過に伴う全体の流れの把握と、当時の社会、思想的情況とSFファンとの関係の二つから、あせらずに一つ一つの事伴を考察してゆくしか手はないだろう。

 まず十一月。“VAG集団”創始者で、当時代表であった平井康介氏が、新たに中央大学内の団体として“スペース・フォーカス”を結成、「創成紀」を出した。これによって、“バグ”は数人の幹部による交代発行制となった。
 十二月、「バグ」9号(変身)が亀田俊一氏の手によって出され、附録として青木夢男こと鈴木陽悦氏の「ブルードリーム」がつけられた。翌一九六九(昭和四十四)年一月にこの「ブルードリーム」は鈴木陽悦氏を会長とするクラブとして独立した。SFファン活動に新しい傾向の楽しさを与え、フォークソング集会、ラジオドラマ製作など、創作よりも会合の交歓に重点を置き、出版物も『アメリカの標準型ファンジンの感覚に近い』(C・R氏)活動を始めたわけである。この感覚はその後ファンダムに定着し、“ショッカー”などのグループに受け継がれている。ところが、この感覚は同時に、あまりにも会合なれのしたSFファンの閉鎖性と相まって、会合に出てもただ騒ぐだけで、SFについてのまともな議論がしにくくなるという結果をも生むことになった。最近〈SFだけを語る会〉などと断わる集会が現れだしたのも、これに対する反省がでてきたわけであろう。(もっとも“SFだけ”というのでは議論の発展性を認めないようにも聞こえるが、要するにSFという共通項を持っているだけで何か妙な連帯意識を持った初期のファンの感覚をはきちがえて、かんじんの共通項についての考察が忘れられがちになったことはたしかである。)
 同じく一月から二月にかけて、高橋敬史氏による「バグ」十〜十二、一〇三、一〇七〜一〇九号が、いずれも「臨終」とか「挑戦状」(これは文字通りの挑戦状であった。後述する)とか、例の毎号誌名が変わる方式で出た。同方式でその後三〜四月には飯島和男氏による十三・十四号が、五月には佐々木信敏氏による十五号が出ている。こういう感覚を『バグバグしい』と言った。
 話が前後して恐縮だが、昭和四十三年十二月二十二日、北区滝野川会館ホールで〈第四回青少年SF大会・プラコン4〉が開かれ、これが、最後の〈プラコン〉となった。実行委員長は本谷正樹氏。(本谷氏が弟俊樹氏とのコンビで「貧ボウ神」を出していたことについては前々回を参照のこと)
 プログラムは改名直後の木村一弘氏の講演「御用未来学を粉砕せよ」。寸劇「SF裁判」。「期待されるファン人像」と題するパネル討論会。柴野氏渡米のスライド映写。古本・ファンジン即売ともり沢山であった。
 ところがこの大会は誰の目にも成功とは見えなかった。色々な原因があったにせよ、かなり白けた雰囲気になってしまったことは確かである。この最後の〈プラコン〉は、もう開かれないだろうという噂がもっぱらであった所へ、本谷正樹氏が『プラネッツ敬老会だ』と皆を押し押し開催までこぎつけたものだが、かんじんの本谷氏や、司会役の佐藤昇氏らが風邪で次々と倒れ、企画があまり練れていなかった。(それでも佐藤氏などは、発言したい内容や資料をまとめ、『薬を主食のようにして』当日まで体を持たせるなど、張りきっていたらしいのだが……)おまけに会場の三階ホールの調査が不備で、七十余名の参加者には広すぎた。しかも、始まりが遅れたため、当然尻切れトンボに終わってしまったのである。
〈プラコン4〉に対する筆者の感想を述べておこう。
 まず最初の木村氏のアジテーションに対しては、中川格氏らとの質疑応答もあり、結構手応えがあった。それでもこういうおかたい話は嫌いという者も多く、聞いていない者、ウロウロする者、中には退屈して(?)帰る者も現われた。「SF裁判」は寸劇としても裁判のパロディとしても面白くなく、意図不明であった。恐らく打合わせが不完全だったのだろう。どうも八月の〈TOKON4〉を被告にみたてたおふざけ模擬裁判をやろうとしたらしいのだが、〈TOKON〉に参加した筆者ですら何をやっているのかさっぱりわからなかった。最後のパネル討論「期待されるファン人像」は題名が気が利いている割に、またまた何を議論したらよいのかわからず、筆者もひっぱりだされたが、とまどうばかりで、結局何ら活発なやりとりのないまま“バグ”と“SFガールズ”会員美苑ふう女史との個人的喧嘩のような形となってしまった。おまけに時間不足のため柴野氏のスライド映写が隣室で並行して行なわれるという不手際さであった。
 このような結果に終わったことについて、佐藤昇氏は故、猪俣博和氏の「STYX」12号の附録で、かなり自暴自棄調で論じている。要約すると――佐藤氏はせっかく言いたい事を書きとめ資料も集めて大会に臨んだのに、その何分の一かをも喋る気力をなくしてしまった。主催者側の手落ちより以上に、参加者の無気力ぶりにはあきれた。木村氏の講演を退屈といって放り出すぐらいの問題意識しかないのか。討論をやろうとしても、皆何の反応もない。新しい参加者が、主催者を困らせるぐらいに、主催者のイニシャティヴを奪いとるぐらいに活発に“プラネッツ”や〈プラコン〉を批判してくれるかと思ったが、それすらもない。この意識の低さにはあきれるばかりだ――とその憤懣をぶちまけている。
 ところが実際には、そのあとになって激しい〈プラコン〉批判が出たのである。これが前記の“バグ”の「挑戦状」で、その攻撃の仕方がいささか大げさなことと、だだっ子の非論理が横行していることに目をつぶれば、うなずける部分もかなりあった。既成青少年ファンダムの閉鎖性、ビッグ・ネーム・ファンへのごますり、『何も知らない癖によってたかって“バグ”をサカナにしつるし上げ自分たちだけが楽しんだ』こと、企画の不完全さと進行の不手際さ、客を無視したこと、等々、名指しの激しい個人攻撃で、とりわけ七十余名中“バグ”会員の参加者が二十四名もいたのに疎外されたことに対し、例の喧嘩調で書きたてたものである。
 三月九日に、この「挑戦状」に対する反論を中心として佐藤昇氏の「Beビラ」1号が出された。〈プラコン〉後、個人的な意見発表の場を持ちたいと考えていた氏にとって、「挑戦状」が一つのきっかけとなったらしい。その中で氏は、あとになって「挑戦状」を出すぐらいなら、なぜあの場で、討論会で、何も発言しなかったのか、自分達だけが集中攻撃されたというのは被害妄想だ、と確かに本質的な所を衝いている。と同時に、批判してくれる対抗者が現われたことを卒直に喜んでもいる。ここいらあたりの佐藤氏の複雑な心境は「SFコンパニイ」に書き続けていた「へそまがりノート」や、これらのビラによってある程度想像できる。すなわち“バグ”に誤解されたということは、ファンダムが一つの小さな社会であるという佐藤氏の考え(氏はこれを小社会幻想と呼んでいる)、相互にコミュニケーションが成立する一つの小社会を作ろうという夢が、まだ夢や幻想の段階で、その間に橋を架ける作業を双方が怠っていた事を意味し、一方“バグ”の方は、“プラネッツ”内部でもかなりの自己矛盾をかかえ、常に悩んでいたことを知らなかったわけである。佐藤氏は二枚のビラの中で絶叫している。『僕は権力者にはなりたくない。常にイニシャティヴを放り出したい。自由(ゲリラ)でありたい』と。だが、いくらイニシャティヴを放り出したくても、対抗者が出なかったため、青少年ファンダムの草分け以来ずっと中心的存在であった第一世代が、はたから見るとあたかも権力者として君臨しているかのように見えたのであろう。(佐藤氏の叫びは、おそらく大方のグループリーダーの正直な感想だと思う。と同時に、それではなぜ、自由でありたいのに自分が先に立って始めたのか、と問われると、答えにくい点でもある。その後のいわゆる造反運動がかかえていた論理的欠陥もまさにここにある。)
 結局“プラネッツ”は内と外から崩壊していった。内では年齢上昇にともなって実質的に青少年ではなくなってきたことから、存続理由がなくなったこと。外では後継者が現われなかったこと。その代わり“バグ”や“SFターミナル”のような新興勢力が現われたのである。そして、筆者自身、その頃から、第一世代の誤算は小社会幻想よりも、青少年社会幻想(大人の社会の対立概念としての青少年社会という考え自体に無理があったということ)ではないかと思い始めた。とは言うものの、まだやはり青少年という仲間意識は強かった。例えば“プラネッツ”の事実上の崩壊や、合併後半年足らずでより小規模な“新創作集団”に衰退した“青少年SFターミナル”の失敗は、それに代わる横のつながりが何か欲しいという動きをいくつか生み出した。
 その一つ、“バグ連合”は、“バグ集団”を盟主とする連合で、おおむね中央大学系としてまとめた図表2のグループを中心として、“バグ”と親戚関係にある会によって構成された。これは“プラネッツ”のように発足を正式に宣言した訳ではないので、資料の面だけから見ると試案に終わっているかのようだが、事実上はその傘下にかなり多くのグループをかかえていたし、内外のクラブも“バグ連合”なる名称を使っているので、ちょうど、“コアセルベート系グループ”(拙稿第一回参照)のような形で存在していたと見るのが妥当であろう。
 同じ頃、“プラネッツ”に見切りをつけた佐藤昇氏と“バグ”幹部の一人である飯島和男氏が中心となって、〈代表者討論会〉を提唱している。これは「STYX」連載中の佐藤氏の「おめで対話」に平井康介氏を予定して依頼したが断わられたため、もう一人の幹部の飯島氏とコンタクトした結果生まれた企画で、(佐藤氏は対談を断わられたことについても『どうして同じような考え方(=小社会幻想のこと)を持っている者とのコミュニケーションを断わられるんだろう。何だか考えていると腹が立ってきた……』と「Beビラ」1号の中で書いている)これは言うまでもなく各グループ間の交流を目指したものである。ところが、この方は中心の“バグ”が内部分裂を起こしてしまったため、第一回討論会の期日まで定めながら、流れてしまったらしい。

 一九六九年に入ってからの他クラブの動向を少しまとめておこう。
 一月、“クラブ超人類”の関東支部“類人猿”が誕生。代表は加藤義行氏で、同氏のその後のファン活動の足場となった。加藤氏はそれまで“超人類”でこつこつと創作を発表していたが、その後藤野信・るうかすYK(氏の洗礼名の由)などのペンネームでも活動、「宇宙塵」に「故郷へのレクイエム」が転載されている。
 二月、青少年ではないが、甲府の戸倉正三氏の「ミクロSF」がハガキ一枚にショート一篇という新しい試みをはじめ、氏の名付けたこのハガジン形式は、青少年ファンの間でも一つのパターンとして流行した。たとえば五月に単発の「太陽の民」を出した“江南高校架空SF狂団”(会長は一時“S&3F”や“SFターミナル”で活動した柏谷雅一氏)は、その後“SFあじていたあ同盟”と改名、戸倉氏にならって「太陽人」というハガジンを発行し始め、これが現“ADO”の母胎となった。
 三月、“バグ連合”傘下グループとして、関西中心の“ぱんぱか集団”(森美樹和氏)が「ひゅーまんるねっさんす」を創刊した。と言っても、“バグ”の影響はむしろうすく、関西ファングループの老舗“タイムパトロール(TP)”の会合〈アポロコン〉の若手が中心となったもので、割と伝統的な(?)まじめとおふざけの同居の感覚がうかがえる。一時は、“TP”の名を継ぐという話もあったが、こちらはどうもうまく行かなかったらしい。会員にも藤原竜一郎、辻田東洋雄、米田泰一、石田利夫といった顔ぶれがみえ、関西ファンダムを席捲しようという意気ごみであった。これらから考えても、“バグ”よりむしろ“SFターミナル”“超人類”“TP”の仲間うちから生まれたとみるのが妥当のようだ。
 六月、“銀河パトロール(SFGP)”との相互発行中止後も続いていた坂和恵悟氏(国井源六郎、横沢治郎等のペンネームで、ファン創作には珍しい本格的な歴史物を得意としていた)の「レア」七号に、現在「科学魔界」でおなじみの“ヒューマノイズ”会長の巽孝之君の処女作「暖かい掟」が掲載され、話題を呼んだ。(当時、中二)これが彼のファンダムへのデビューとなった。

 さて、以上のような情勢の中で、“バグ”の内紛、それに続く“バグ”と“超人類”の合併案、それに基づく“SFフェスティバル”の開催という一連の事件があった訳である。
“バグ”の内紛は一月の「挑戦状」の中で、すでに「バグ自己診断」と題する自己批判の一文に現われており、おやおやと思わせていた。(その中で幹部一人が名指しでハレンチな独走を決めつけられている)三月十六日、幹部七名中五名(鈴木陽悦、依田章――「火星便」というファンジンと並行して出していた、高橋敬司、窪川溥美江、亀田俊一の諸氏)が平井康介氏に対して統一見解と事実上の幹部辞表を提出した。その後幹部間に相当の討論がなされたが、四月六日、遂に平井氏ともう一人の幹部飯島和男氏がこの五人に対する思い切った処分を発表した。すなわち『(1)“VAG集団”幹部からの除名、(2)“VAG集団”会員からの除名、(3)一切のファン活動の停止勧告』である。
 事情を知らない多くのファンはこの騒ぎに首をかしげ、吹き出した。首をかしげた者は、冗談なのか本気なのか当惑させられたのである。吹き出した者は、たかがファンジンなのにバグバグしいと言って笑いころげたのである。ともあれ、前々から「ファンダムの弱点」などと題する他誌批判や、〈プラコン〉討論会での美苑ふう女史との『どこまでゴシップは許されるか』というやり合いなどで、ただでさえ風当たりの強かった“バグ”は、これでいよいよ変なクラブだという評判を高めてしまった。筆者としては、やはり平井氏の個性の強さに他の幹部がついていけなくなったことと、七〇年へ向けての新左翼運動や自己批判の流行(!?)をそのままファンダムへ持ち込んだ大学内グループの独特なファンダム観と一般ファンのそれとの落差……等が原因であると分析している。(“バグ連合”は殆んど中央大学系であった)
 このように“バグ”が内紛でゴタゴタしている時に、“超人類”は先に述べた加藤氏の関東支部の誕生により、一月に主会誌「エセーネ」(“超人類”会員の間では手紙の冒頭に『エセーネ』、終わりに『エセール』と書くのが流行していた。ファンクラブでこのような造語が多くの会員に定着した例は珍しい)を、三月には副会誌「次元R」を創刊。また五月には仙台支部もでき(代表・洞口明氏)「SFマニア」(京都本局・高橋正則氏編集発行)に対する副会誌として「ユートピア」が発刊されるなど、組織も全国的となり、活動は活発化してきた。
 とくに関東支部“類人猿”は加藤義行氏の持ち前の行動力で本局の「SFマニア」の存在が薄れる程の活動ぶりであった。加藤氏は、〈一の日会〉やその他中大系グループの会合等にも足まめに顔を出し、コレクターとしても有名となった。自ら関東支部の会合も開き、毎回テーマ別に討論・読書会を企画したりもした。そんな訳で“バグ”の平井氏ともつきあいが深かったことから、次に述べる“超人類”と“バグ”の合同企画〈KTプロジェクト〉ができたのである。
 それによると、合併方式は平等(バランス)合併だが、会名だけは“超人類”の伝統を存続させる予定で、幹部は“超人類”側から高橋・加藤の二氏、“バグ”側から平井・松崎健一・佐々木信敏の三氏が予定されていた。そしてこのとき、正式に〈大ファンジン計画〉の中止が明示された。財政上の困難と参加予定クラブの相次ぐ合併・解散などが理由としてあげられているが、新生“超人類”発足後、何らかの形でもう一度復活させたい旨も書かれている。
〈KTプロジェクト〉が発表されたのは五月であった。これは、ちょうど四クラブが合併して日本最大の青少年グループとなった“SFターミナル”が運営上の不手際からより小規模な“新創作集団”となった月でもある。連合代表評議制は“SFターミナル”“バグ”と二度も失敗の苦い経験があったためか、この〈KTプロジェクト〉ではかなり綿密なまとまった計画が練られた。ひとりひとりの幹部がそれぞれ違った性格の会誌を出すことによって、バラエティのある活動にしようという意欲のうかがえるものであり、これがうまく行けば、創作主体で地味な「SFマニア」と、活発で八方破れの「バグ」「エセーネ」との合併では水と油なのでは……という心配も解消すると思われた。
 そして、合併前の最後の企画として、“超人類”“バグ”の共同主催による〈SFフェスティバル〉で両会の有終の美を飾ろうということになったのである。もともと〈SFフェスティバル〉の案は、前年の〈TOKON4〉の合宿で、来年は九州にSF大会が行ってしまうので、旅費のない人のために何かやろうじゃないかという話が出たのがそもそもの始まり。そしてこの話をしたのが加藤・平井両氏という因縁であった。したがって〈SFフェスティバル〉を八月三十・三十一日に予定したので、その効果をねらって〈KTプロジェクト〉による合併予定日は九月一日と決定された。

〈SFフェスティバル〉は“てんたくるず”主催の日本SF大会〈キューコン〉から一週間後の八月三十・三十一日、東京の若手ファンを中心として開かれた。はじめ、青少年大会ということで企画されたが、プロに依存する部分の多いプログラムの性質上、大人ファンダムをも含んだ形となった。
 三十日は会場・東京洋服会館。「キューコン・スライド・レポート」(加藤氏解説)と「メグコン・8ミリレポート」「ワンス・アポン・ア・タイムマシン」(柴野氏解説)で幕開きとなった。特に第一回日本SF大会の記録と、SF作家総出演という古典的アングラ映画という後者二本は初めて見る人も多く、人気を集めた。午後は「イラストショウ」(野田宏一郎氏解説)と虫プロのアニメ短篇三本立て。故・大伴昌司氏解説による未公開SFテレビ映画「ランド・オヴ・ジャイアンツ」はその後「巨人の惑星」として放映されたシリーズの第一回原語版。(この時、『最初直訳して「巨人の星」にしようとしたら、裏番組にマンガの「巨人の星」があったので、遠慮して「巨人の惑星」にした』という嘘のような本当のような大伴氏のジョークが妙に印象に残っている。)
 これでおわかりのように、視覚に訴えるものが殆んどという面白いプログラムだった。またSF大会以外の集会としては異例のSF作家大量来場があり(小松・星・筒井・豊田氏ら)、大サイン会の趣を呈した。
 三十一日には、前年の暮に〈プラコンIV〉が開かれた北区滝野川会館に会場を移しての即売・競売・宝クジ抽籤会。別室でスライドショウもあり、特撮物の裏話が話題を呼んだ。
 こうして、〈SFフェスティバル〉は新しい青少年ファンの交流という目的をある程度果たし、若手ファンの行動力をも認識させ、その後新しい大会シリーズとして今日に至っている。
 こうした華やかな青少年ファン活動の輪が、もうあまり青少年という意識に固執しないで広がってゆく中で、ひっそりと終刊号を出して閉会した伝統あるグループが一つ。“SFコンパニイ”である。(拙稿第一回参照)終刊号は「SFコンパニイ」13号で、池袋春次氏の編集。C・R氏の「宇宙塵」の「ファンジン・レビュー」の評を少し引用してみよう。
 ――『本誌よりも挟込ビラの池袋「僕はSFCYを裏切る」矢野純「青少年SFファン論」等、この伝統あるグループへの弔辞?が、ひたむきなまじめさで胸を打つ。私自身常に自問自答していることでもある。もう一歩踏み込んで言えば、SFファンがグループを作るのは一種の必然であり、その当否を問うてみてもはじまらないのだが、それは果して自然のままで意義を持ち得るのか、それとも何かのコントロール意志が必要なのだろうか? 例えば「宇宙塵」についても、この「レビュー」欄に対しても、問題は同じであろう。実際に、何が最良の道なのか、時間すらそれを解決してはくれない。』

 九月七日、その“SFコンパニイ”の重鎮の一人だった佐藤昇氏は「Beビラ」2号を発行。九月十日、“超人類”と合併した筈の“バグ”の平井氏が「革バグ」1というビラを発行。この二枚のビラは、いずれもファンダムの現状を批判し、翌年、安保と万博の年に開催される〈TOKON5〉と〈国際SFシンポジウム〉の犯罪性を告発し、その粉砕を叫んだものであった。
 この二枚のビラがファンダムに投げかけた波紋は大きかった。

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 補足I
 石原藤夫氏より、拙稿第二回の鶴井氏「SF地帯」への情報がよせられました。それによりますと、当時、鶴井氏より送られた「SF地帯」を読んで、年の割にうまいので驚かれたそうです。送られてきたのは九月二十五日だそうで、それからみてだいたい六七年の八・九月ごろの発行とみてよいと思われます。
 今後も読者の皆様方の資料提供をお願い致します。
 石原氏には厚く御礼申上げます。
 補足II
 前回紹介した紫野高校内グループ“こんぴゅう党”の代表者は越智吉生氏です。
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 註I
 この辺に“スペース・フォーカス”内部クラブ“FL自身社”の他、当会をパロった“家宅捜索クラブ”(代表は島野宅見となっている)など、名称だけと思われるグループがいくつもあった。“バグ”系の歴史がややこしいのは、こうした架空グループや架空人物、発行物が入り乱れているからである。また、“火星便”の中から窪川溥三枝(星野レナのペンネームで漫画家として活躍)女史の“品川SFファンクラブ”(会誌名「レスカ」)――かなり個人誌的なもの――が生まれている。
 註II
“革バグ”解散の折、多数が“ブルードリーム”“スペースフォーカス”に移籍、“マック”“UFO”が合併して“ショッカー”をつくった際にこの中の多くが“ショッカー”に流入した。矢印等はその動きを示す。
 註III
“ADO”“BAMU”“二十一世紀グループ”(佐藤富朗代表)“KKK”(樋口公滋代表)などが友好連合組織をつくり、その機関誌も出ているが、後二者の解散によりお流れになった。


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