青少年SFファン活動小史(3)
宇宙塵 No.171
1972/13 (UNDEC/1972) 昭和48年1月20日発行
第二章(下) 第二世代の活動
一九六八年一月に開かれた〈プラコンIII〉では、刷り上がったばかりの「テルスタア」6号の他に、「ナルアイ」が2号、「STYX」6号が、そろって即売された。(大野君は年賀ハガキを「テルスタア」5号として出した)その他にも多数のファンジンが持ち寄られた事は言うまでもないが、この三冊は特に「宇宙塵」の「ファンジン・レビュー」で高く評価された。例えば筆者ら“S&3F”の「テルスタア」は『真剣さとパロディ精神というファン活動の楽しさの持つ奇妙な幅を見事に出して中学生クラスとしては出色』という評をうけている。
折から、のちに「ミニコミ」と呼ばれるようになった謄写印刷出版ブームが、新宿を中心とした若者の間から(俗に言うアングラ文化の中から)生まれ、流行のきざしを見せていた。青少年ファンジンがその先鞭をつけたと書くのはいささかオーバーかもしれないが、ジャズ・アートロック・映画・反戦・詩・演劇・前衛など様々な傾向を持った他のアングラ・ミニコミ誌と並べて、青少年SFファンジンをSFという傾向を持ったミニコミ誌とみなすこともできるだろう。第一世代が〈自我の目覚め→自己表現〉の手段としてSFを発見したのに対し、第二世代は、自分の周囲にあたり前のものとしてあったSFをごく当然のこととして手にした。また、筆者の世代が自己表現に何のてらいも恥も感じないのは、テレビの普及のせいもある。第一世代は自己表現の手段や、興味をひかれる対象――つまり〈場〉を探したり、作ったりしなければならなかったが、今のティーンエイジャーの前にはあまりにも多くの(それも安易な)手段や場がころがっている。今では若者の殆んどは自称詩人でありイラストレーターでありギタリストである。自我の目覚めとか自己表現などといった意識もまだはっきり形成されているとは思えないティーンのタレント達が、しごく当然な顔をしてテレビの画面上を闊歩しているのを見ると、いつもSFファンの若年化と重大な関係がありそうな気がしてくる。第一世代は「少年探偵団」「月光仮面」の次にはこってりした本格SFを発見していた。第二世代は「鉄腕アトム」からスペースオペラへ、そしてSFの名作やヒロイック・ファンタジー、さらには新しいSFを目指す作品群の中でゆっくりと鍛えられたのである。つまりおよそSFと名のつくものなら殆んど出揃った、一番いい時期にSFを読み始めた――ということがヒントになるだろう。
この年、青少年ファン第一世代・第二世代はともども最も精力的に出版活動を行なった。
まず二月、“S&3F”は「ファナティック」2号を出した。龍崎挙吾というペンネームで発表された大野輝之君の「嘔吐」が、『中二とは思えぬ力作』と話題を呼び、筒井康隆氏も『おれの上をいくグロだ』と言ってほめたという逸話が残っている。
同じ頃、“クラブ超人類”の高橋正則代表から〈大ファンジン計画〉のプランが出された。これは青少年ファングループがそれぞれ二十頁を担当して、年一回、各会の選りすぐった原稿で、青少年ファンの年間傑作集を出そうというものであった。しかし、これも第一回で述べた“プラネッツ”の規約と同様『二十才まで』という年令制限を(とくにローティーン中心だった“S&3F”の強い要求で――この理由については第二回を熟読されたい)設けたため、既に二十才台が現われ始めていた言い出しっぺの“超人類”が困ってしまったようだ。結局かなり具体的な計画が練られ、予約まで募っておきながら、立ち消えとなってしまった。この計画がだめになった原因は“S&3F”――とくに大野君及び筆者――にもある程度あるわけであり、今でも責任を感じている。
三月、“S&3F”新入会員で、大野君宅のすぐ近所に住む志村悟氏の“バクテリア・クラブ”が旗をあげ、「バクテリア」創刊号が出された。女子会員が半数以上を占め、他クラブにうらやましがられた。“S&3F”とは姉妹会の関係を結び、ガリ切り、印刷から製本まで大野君が面倒を見た。
兵庫県では宮地隆氏・謙氏兄弟による“SF実験室”(会誌名「SFミニ」)も登場、“S&3F”とすぐ交流を始めた。この頃から、“クラブ超人類”や“SFGP”“SFCC”のように、永く活動していながら、ファンダムに登場するのが遅れて知られないままというクラブは減った。お互いに新クラブが見つかると手紙を出して、「宇宙塵」に紹介するという横のつながりが確立し、「ファンジン・レビュー」にもれるものが少なくなったのである。ちっちゃなファンジンの中にも、例えば富士吉田市の滝本誠一氏の「ムジナ」のようにセンスのあふれる異色個人誌的なものなど、マンネリ化していた一般ファンジンにとって色々収穫もあったのである。
四月、東京で平井康介氏の“バグ集団”が「VAG」を創刊。平井氏はSFを知ると同時にグループを結成したという行動派で、その後色々な意味でファンダムの台風の目となった人である。その“バグ集団”は青少年ファンの間に「バグですねぇ」「バグバグしい」等の流行語まで生み、一貫した喧嘩調の他会批判で、これを冗談と受け流すもの、真剣に対峙するもの等々、周囲の反応はさまざまであったが、最初からひどく目立った存在だった。創刊号から切手を付録につけたり、古本屋案内地図、外国書頒布など新アイデアを盛り込み、人気を集めた。今考えてみると、これはむしろアングラミニコミ誌のアイデアを拝借したものとも言えるが、SFファンにとっては目新しかった。(例えば「古本屋案内」はSFファンのための「プレイマップ」のような感じだった。)もっとも、アイデアだけが売り物ではなく、二号にはもと“次元”会長の宮倉康三氏の「青少年ファンライター論」を掲載、討論を企画したりもしている。こうしたまじめな好企画やサービス性と、冗談か本気か迷うような他誌への強い風当たりの同居が、多くのファングループを振り回したのである。無論、ファンジンの面白味や楽しさが、こうしたものの奇妙な二面性にあることは言うまでもないのだが、やはり問題にされねばならぬのはその質であろう。
“バグ集団”と“S&3F”とのつきあいは、「VAG」創刊時に、平井康介氏から、「テルスタア」に広告を載せてくれるように依頼されたことに始まった。その時は印刷がハッキリ出ず、会員募集の役に立てず申し分けないことをしたと思っていたが、なんのなんのみるまに会員を増やしていった。もっとも一説によると一人の人物がいくつもの変名・筆名を持ち、あたかも会員数が多いようにみせかけていたそうで、平井康介、志賀時夫・晴夫各氏が同一人物であるとかないとか、怪説が各種入り乱れたが、こうした混乱ムードを楽しむお遊び精神が、ファンダムにデビューしたばかりの若さの中で躍動していた。“S&3F”もご多分に洩れず『大野とか難波とかいう生意気な中三のガキがやっている』といった調子で他クラブ同様の酷評を受けたが、いくらけなされても大野君は全く気にしない様子であった。口の悪さでは“SFGP”の久保田薫氏も定評があったが、氏は知能(天才に1足りないIQ一三九)、知識、筆力、読書量ともにティーンのSFファンの中では群を抜いていたので、さすがにまともに刃向かう者はいなかった。(兵庫県に小松左京氏が講演に行ったとき、いならぶ大人がポカンとする中で、若冠17才の彼だけが小松氏とまともに質疑応答をしたという逸話が残っている。)この“VAG”と“SFGP”それに前回述べた“グループ・アイ”は、この年の後半、頁数と悪口で競い合った。(出た順に並べると、「GALAXY」一六号が一六八頁、「VAG」七・八合併号が一七六頁、「ナルアイ」七号が二一二頁と、いずれもB5版謄写印刷である!)ひどいのになるとただ頁数を増やすために白紙の頁とか、ローラーをころがした頁などがあるのもあった。
この年の前半、“S&3F”“バクテリア”“SFGP”“SFCC”は特に親密さを深めた。距離的には離れていたが、お互いを訪問しあうことにより、学校のクラブ活動の延長のような気楽な雰囲気でつきあうことができた。年令的に中・高生ばかりであったせいもある。
この四会の合併を最初に提案したのは筆者である。そろそろ受験を迎えるものが多く、孔版で続ける意欲も失せはじめていた。経験のある方なら御存知のように、誰でも最初は、インクの香も新しく刷りあがった自分の会の会誌を手にするのは喜びであり、つくる側もガリ切り等、結構楽しんでやるものである。ところが、これはそう長くは続かない。だんだん初めの興奮や感激はうすれ、読む方は汚ない字や印刷にイヤ気がさし、作る人間もガリ切りがきつくなる。当然、会員を増やして多少赤字が出てもタイプ化を……と思いはじめるのが普通である。筆者の考えた〈四クラブ合同〉というプランは、それをてっとりばやく実現するための最も安易な方法と思われた。(これ以前には木村一平氏の「ノヴァ」など、いくつかの単発タイプ出版の例があったが、青少年ファンにとっては高値の花であった。ただ一つ高橋正則氏の「SFマニア」だけが会員三十人という“クラブ超人類”の意外と少ない人数を克服して、デュプロタイプ→タイプ化して定期刊を守り続けた。この赤字は全部高橋氏が負担したそうである。)“S&3F”の若さと才気、“バクテリア”の会員数、“SFGP”の創作陣や久保田薫・西村知明両氏のコラム・イラストのセンス、“SFCC”の岡本安司のナンセンスのおかしさ……こうしたものを一つにすることを夢見たのである。既にこの四クラブにはだぶって所属している人も多かった。ちょうど“超人類”の方から〈大ファンジン計画〉が出ている折でもあり、乱立している青少年クラブが各々二十頁も担当したら頁数ばかりあって内容的には低いものになってしまうという懸念も、合同することによってスッキリ解消するのではないか――と楽天的に考えたわけである。(子供にとっては目の前にある疑似社会内の出来事も遊びではなく真剣なものであり、疑似社会を少しでも本当の社会の姿に近づけようとするのだ。その意味ではすこぶる体制的とも言えよう。)
この時既に“SFGP”が愛知の“文学会レア”(坂和恵悟氏)と交互発行方式で続行する等色々な試みがされていたが、筆者が合併案を出すやいなや、この計画は数日のうちに関係団体に行き渡り、承認を得たかたちになった。とりあえず『新クラブのデビューを印象的にしよう』というので、各クラブともラストスパートをかけた。目標は〈第七回日本SF大会・TOKONIV〉。ここで有終の美を飾り、ついでに新クラブのPRも……という狙いであった。
〈TOKONIV〉は八月三十一日から九月一日にかけてひらかれたが、この時のプログラムブックに記載されているSFクラブはざっと五十余。(柴野氏の調査による。)休会中のものを入れるともっと多く、その半分が青少年ファングループを名乗るかもしくは青少年が大多数を占めるクラブであった。SFファンの若年化はこの年あたりから激しくなった。反面、オールドファンの大会・会合参加が目立って減少した。(柴野氏もこの年は渡米のため不在。実行委員長は野田宏一郎氏が、事務局長は大宮信光氏がつとめ、全体的に委員の年令も若返っている。ちなみに最年少委員は筆者で当時十四才。)
さて、こうして誕生した我々の新クラブは会員百三十人を突破、「宇宙塵」「宇宙気流」に次ぐ大所帯となった。その“全日本青少年SFターミナル・(略称SFTL)”という名通りの、日本では空前の青少年グループであった。代表を置かず、数人の代議員の連合評議制により会を運営するという日本初の方式を採用、見事に初の失敗例を作ってしまった。(その次の失敗例は“バグ集団”である。)この時の評議員の顔ぶれを記しておこう。当時活躍していた代表的な青少年ファン第二世代がずらりと並んでいる。
中央評議委員長…………鶴井 譲治
編 集 長…………堀 政晶
地方総括連絡人…………寺島 洋子
地方連絡人・副誌編集長…………岡本 安司
地方連絡人・編集人…………志村 悟
地方連絡人・レタージン編集…………西村 知明
会外交流担当・レタージン編集…………久保田 薫
会計・編集人…………大野 輝之
会外代表・連絡人…………難波弘之
先にも述べたが、〈TOKONIV〉前後の青少年ファンの出版の盛り上がりのようすを簡単にだが具体的にあげておこう。〔◎は合併四団体〕
○「SFコンパニイ」十四号(“SFコンパニイ”発行)代表が矢野純氏より池袋春次氏に交代。草分けとしての貫禄充分の一冊。
○「STYX」九・十号(“STYXクラブ”発行)故・猪俣博和代表のほか、宮倉康三・松永広・中村一孝の諸氏の力作をずらりと並べた。(中村氏は“サイレント・スター”においても創作で活躍、この程「科学魔界」にも参加。)
○「パラドックス」六号(“SFパラドックス”発行)飯沼文夫代表。一年半の沈黙を破り刊行。
○「貧ボウ神」四号(“貧ボウ神”発行)本谷正樹代表。本谷氏の「過ぎ去ったもの」などを掲載。この作品は「宇宙塵」に転載された(本谷氏もこのほど「科学魔界」同人となった)。
○「ナルアイ」五・六号(“グループ・アイ”発行)吉田徹代表。川又千秋・水谷幸子・猪俣正見・木野田功といったメンバー。
○「プラネトイド」四・五号(“プラネトイド”発行)川又千秋代表。川又氏はこの頃から翻訳を手がけている。現在も「N」と誌名を変えて続いている。
○「SFの朝」第一回参照。南裕介(宮倉康三)・和木明両氏の合作。単発。
○「SFマニア」二十五号(“超人類”発行)高橋正則代表。「T」「スペース埃」などの副会誌も出し始めた。
◎「ファナティック」三・四号(“S&3F”発行)大野輝之代表。終刊号四号はB5タイプ60頁。岡本安司・久保田薫・西村知明・柏谷雅一(現“ADO”会長)・藤原竜一郎・天野光一(鶴井譲治)といった諸氏に僕と大野君を加え、創作ばかりずらりと並べた。
◎「GALAXY」十六号終刊号(“SFGP”発行)久保田・西村代表。前述の厚さを競う流行の口火をきった一六八頁の大冊。「二〇〇一年」のシナリオを掲載。石田利夫・坂和恵悟・天野光一・寺島洋子の諸氏に両代表を加えた創作陣に連載が多いのも特徴であった。このグループ内の単発として堀政晶氏の「レンズマン」がB5版タイプで出ている。
◎「SFCC」十二号終刊号(“SFCC”発行)岡本安司氏代表。筆者が須賀川の岡本氏宅にとまりこんで二人で作ったもの。創作が一本もなく、二人の悪ふざけ文だけで実にB5孔版五十二頁をうめた。
◎「バクテリア」四号終刊号(“バクテリア”発行)志村悟代表。「宇宙塵」転載となった天野光一氏の「殺し合い」などを掲載。
○「VAG」四号(星際)・五号(スペイシー)・六号(DIW)(“バグ集団”発行)平井氏の発行で、四号から毎回誌名が変わるようになった。
○「立教ミステリ」七・八号(“立教ミステリクラブ”発行)加藤義行氏らが中心となって、ミステリばかりでなくSFに半分の頁をさいていた。(加藤氏は当時から“クラブ超人類”に所属していた。現SFファングループ連合会議々長)「宇宙塵」に転載された大貫満氏のショートショートなどを載せている。
○「第三惑星」三号(“松本深志高校タイムクリミナルズ”発行)飯沼敏史代表。前回書き忘れたが、六七年の夏に誕生している。その後二代目の三輪昌敬氏に受け継がれてますます盛んになったという学内グループとしては珍らしいケースで、最近まで続き、一時は長野県グループに発展する計画を持ったこともある。なお三輪氏は後に高校SF連合の提唱者となった。
○「機関4」3号(“こんぴゅう党”)京都紫野高内のグループでこの年の初めに創立さた。
この他、青少年誌とは言えないかもしれぬが名古屋の綜合同人誌「スーパー・ノバ」(清水義範氏)がファンダムにデビューして話題になった。いわゆる文芸同人誌なのだが、清水会長自身がSFやミステリのファンであり、大衆文芸もバカにしないサービス性豊かな誌面で話題を呼んだ。沖慶介氏の「冒険狂時代」は「宇宙塵」→「推理界」と転載された。(その後第二期の“飛行船の会”、そして現在の第三期“漠”と続いている。第二期の「飛行船」では沖氏らのSF、筆者の「江戸川乱歩少年物の世界」の評論連載などが、SFファンダムでは評価をされたようだ。)
〈TOKONIV〉は、第二世代の存在を大きくした大会として記憶に残るものであったが、年令低下に伴っていろいろ問題点も出てきた。この大会のパーティでは、破目をはずしっぱなしのファンが、テーブルの料理を奪い合うような大騒ぎを演じ、ボーイを唖然とさせた。
さて、話を新クラブ“全日本青少年SFターミナル”にもどそう。(前号〈図表1〉参照)
書き忘れたが、我々四クラブが合同案を練り始めた時に『合同計画に参加したい』旨の申し入れを“クラブ超人類”の高橋氏より受けたのだが、残念ながら我々はこれを断わった。まずクラブの性格が合同四グループと違い、堅実にして地味は創作誌である“超人類”は、その独特のカラーを守って続行したほうが良いように思われたからである。高橋氏もこの理由を気持ち良く理解してくれた。
“SFTL”の正会誌「SFファンジン」五十三号が出たのは十月である。実際は創刊号なのだが、今までの四クラブの歴史を強調するために、各会の会誌の号数を総計して続けたもので、これも筆者の珍案。
結果としては、「SFマガジン」そっくりの表紙、構成というパロディ面と、内容のまじめさがマッチして、大好評であった。原稿も厳選して力作だけを掲載した。「SFM」のパロディとしては表紙画、レタリング、日記、SFスキャナイ(好きでない作家の作品評)、SF失言室「今昔青少年ふぁん気質考」(大野君の筆になる野田宏一郎氏のパロディだが、内容は青少年ファンダム史で、拙稿を起こすにあたって大いに参照させてもらった)、人気買ウンダ、おまけに発禁刊・痴刊と称して広告頁まで入れるという凝り方であった。
十一月、筆者の「青銅色の死」という短篇が、第四回安倍能成文学賞に佳作第一席で入選。(受賞作なし)中学生の投稿・受賞は初めてであった。この作品は「学習院新聞」掲載ののち、「SFファンジン」五十四号に転載となった。また筆者が学習院中等科内に作ったグループ“ジ・アマテラス”による「太陽の神」(謄写B5二十二頁)が出た。
“SFTL”は結局、所帯を広げすぎて「SFファンジン」五十四号と、副会誌「ジュン」(岡本安司氏)や「レタージン」(おたより中心)などを出したのみで、あっけなく翌六九年二月に解散を決定した。赤字による代表の自腹切りが大きすぎたことと、百三十名という人数を管理しきれなかったことが直接の原因である。が、いわゆる「SF」にあきたり、ファンダムの現状に満足できなかったことも大きな原因とみられる。
三月に“SFTL”はより小規模な“新創作集団”を発足、それでも五十余名が残った。編集は大野輝之、堀政晶、鶴井譲治の三氏が担当、「新創作月報」が出された。しかしこのクラブも鶴井譲治氏の蒸発(*後註)、大野君や筆者の政治運動への興味によってゆらぎ、タイプ六十頁の「新創作」というかなり新左翼的傾向の濃厚なるSF創作誌を単発で出したのみで、翌々年(七〇年)三月に大野君が「今はSFなどやっている時ではない。SFを捨てて反戦に」という、「SF病からの全快」を宣言するビラを出したのを最後に解散してしまった。
*後註……鶴井氏失踪の真相は結局家出だったらしいが、一部誌には交通事故死と報道することになった。現在も氏のその後の消息を知る者はいない。
*
●第一回(一六八号)後註に、松下正己氏が「SFコンパニイ」の「コレクター入門」で人気を集めたと書きましたが、「コレクター入門」の筆者は松永広氏でした。訂正しておわび申し上げます。
青少年SFファン活動小史 (1) (2) (3) (4) (5) / 目次