青少年SFファン活動小史(2)
宇宙塵 No.170
1972/12 (DEC/1972) 昭和47年12月20日発行



 第二章(上) 第二世代の登場

 前回は昭和四十一年五月までを記したが、この月に出た「SFM」七月号の「てれぽーと」欄に“SFM同好会”の会員募集が出され、それを見て入会した中学一年生がひとりいた。これがのちに筆者と中学生グループを作った大野輝之氏である。「第二世代」という言葉は、言うまでもなく、初めて青少年ファンを自称して登場した木村一平・佐藤昇氏よりさらに三〜四才下の世代という意味で、柴野拓美氏がC・R名義で「宇宙塵」一二二号(昭和四十三年四月号)のコラム「宇宙の眼」で初めて使った。大野君や僕の世代を指すわけで、黎明期の青少年ファン諸氏が現在もう二十才を越え、中には社会人となっているのに比べ、青少年ファン第二世代と呼ばれた僕らはまだ二十才以下でである。この三〜四才という年齢の差はSFへの入り方を明らかに変えてしまった。第一世代がSFというものに夢中になった頃は、ハヤカワSFシリーズは概ね名作や新しい話題作を中心に出版され、それが「SF」であった。それに比べると僕らの世代は、スペース・オペラ、ファンタジイ、いわゆるハードものやニュー・ウェーヴなど、あらゆる傾向の作品が出揃った時に出てきたのである。特に僕らは小学校三、四年のころ、空前とも言える「鉄腕アトム」ブームをくぐり抜けているわけであり、第一世代が手塚漫画に触れたのとはまた別な(恐らくそれ以上の)興奮でロボットや未来社会を知ったのである。僕も大野君も「アトム・クラブ」の熱心な会員であった。

 さて、この年あたりから青少年ファンの同人会は活発に動き始める。まず四月に小樽桜陽高校の“アステロイド”(高島邦幸氏)がスタート。創刊号に載った川又千秋氏の「冬が還ってきた」は好評でただちに「宇宙塵」一〇四号に転載された。川又氏は現在「バラードは何処へ行くか?」などの力作評論や創作を発表、注目を集めている。この「アステロイド」は川又氏がのちに「プラネトイド」と改名して続けている。
 五月には京都で高橋正則氏(当時十七才)の“SF創作クラブ超人類”がうぶ声をあげ、「SFマニア」創刊号が出された。会員募集は“コアセルベート”同様「ボーイズライフ」の告知板であった。
 ここで、当時「ボーイズライフ」がどれ程青少年ファンの役に立ったかを書いておかねばならない。当時、同誌には星新一氏が選者となって毎月ショートショートを募集する「千字コント」という名物があり、青少年ファンには絶好の腕試しの場であった。余談になるが、この「千字コント」は、星新一氏のデビューと共に始まった「SFイコールショート・ショート」という世間の妙な理解をさらに強め、青少年ファンジンを中心にアイデア一発勝負の作品が氾濫し、「安易な創作」としてしばしば指摘されるというマイナス面の効果もあった。むろん、本格的創作を発表する力量は年齢に応じて備わってくるものという好意的な見方もあったが、例えば前回とりあげた作家諸氏のように、いい加減なものしか書けぬわりに鼻息だけは荒い少年ファンの金切声のような「批評」など賜わりたくないという考えも強くあったことは否めない。ともあれ、「ボーイズライフ」の「千字コント」「告知板」が青少年ファンにとって便利であった事は確かで、みんなフルにこの二つを利用したのであった。
“超人類”はその半年後、一年後と計三回にわたって会員募集広告を「告知板」に出しているが、このグループがファンダムにデビューする迄には一年半を要した。その理由は会長をはじめ会員の誰もファンダムという横のつながりがあるのを知らなかったからで、所謂「ファンダム」の中央に顔を出さないと、どんなに活動していても存在を知られないという盲点があったのである。
 高橋氏は創立の目的を、『高校の社会系クラブのいい加減さに嫌気がさして退部し、今度は自分でクラブを作ろうと決心し、当時興味のあったSFを選んだ』と述べている。そして、『あまり発表の場のなかった年少のファンに発表の場を提供するつもり』で「SFマニア」を発行した。所謂ファンダム内で発足した青少年ファンのクラブと発足の動機は似ているものの、『ファン作品の発表の場は「千字コント」しか知らなかった』ため、一層その必要性を感じたそうである。
 初期からの会員の中には、先日京都三鈷寺で開かれた〈SFフェスティバル72――テラコン〉の「ショート・ショート・コンテスト」第一席入選の藤原竜一郎氏、のちにさまざまなファンジンで創作活動をした石田利夫氏(「宇宙塵」一五〇号にも「犬たちの神話」が載っている)らがいる。藤原氏などは「千字コント」の常連であったことから高橋会長が目をつけて入会を勧めたというケースである。
 六月、大阪で“銀河パトロールクラブ(SFGP)”誕生。“クラブ超人類”発足後わずか三ヶ月で新クラブ結成のため脱会した今坂晴幸氏が鈴木富博氏らと作ったもので、例によって「ボーイズライフ」の「告知板」で会員募集をして二十余名が集まった。この時に、今でもSF大会等では名物バトルロイヤルゲームの発案者として、また軽妙な司会ぶりでもおなじみの岡本安司氏が入会している。
“銀河パトロール”の会誌「SFGP」が三号まで出た同年十月、今度は同会会員堀政晶氏による“SFCC(科学と幻想の国のカーニバル)”が名乗りをあげた。この場合は今坂氏のように親グループを退会はせず、堀氏はそのまま“銀河パトロール”の会員にとどまるかたわら「SFCC」を出したので、両会は互いにGP、CCと呼びあう仲(姉妹会)を保っていった。
 またこの年には学内グループとしては最も長く続いている“麻布学園SF同好会”が会誌「リミット」をひっさげて登場。中・高を通じて六年制という利点もあってかバトンタッチも見事にいき河村利光→野村靖一・小泉博彦→山田英志→国領昭彦と現在に至っている。小泉氏は現在「宇宙気流」で活躍中、山田氏は高校SF連合創立の中心となった。
 その他では、惜しくも若くして先日亡くなった猪俣博和氏による“STYX(スティックス)”が登場して、同時に“プラネッツ”に加盟した。プラネッツ加盟グループの会員が作ったというケースである。
 九月二十五日。横浜の神奈川県青少年センターで〈プラネッツの運営方針についての会議〉がもたれ、ここで早くも“プラネッツ”の性質の変化が問題になったという。(発足後まだ一年ぐらいであった。)加盟クラブの会員の中にはすでに成人もおり、青少年というラベルは果して要るのかどうかとか、存続は無意味だ、プラはファンダムのミイラ的存在だとか、色々意見が出されたが、これからは加盟クラブへの影響を最少限度にし、プラコンを開く事のみを目的とする事で折合いがつき、存続が決定した。十一月には“プラネッツ”代表が、佐藤昇氏から木村一平氏に代わった。

 明けて一九六七(昭和四十二)年。一月五日に〈プラコンII〉が渋谷区青少館で開かれた。第一回のマジメ一点張りに比べて余裕が出てきたもので、内容も放送劇鑑賞、討論、クイズとバラエテイに富むものとなった。その時配られたパンフに佐藤昇氏の「これまでの活動報告」が載っている。以下はその全文である。
 ――『日本青少年SFファングループ連合という名で“プラネッツ”が発足したのは昭和四十年夏、書面上では八月一日の事だった。最初に十一のグループが集まった。その目的は主に濫立状態にある青少年ファンダムの整理にあった。日本SFファンダムの表面に現われてこない小さな青少年グループが、その頃からいくつもあった。それらの間に連絡をつけて、互いに協力し合おうというものだった。その意味で、今までに実現できたものは、同年十二月二十六日に東京市ヶ谷で催された〈第一回青少年SFファン大会・プラコンI〉だけだったろう。「日本SF大会の真似ではないか?」との批判もあったが、「青少年の青少年による青少年のための大会」となったことは事実だ。その他にそれらしい活動は何もないが、“プラネッツ”を作ったという事だけで、そしてそれに参加したという事だけでも、各青少年グループの精神的支えになったようである。四十一年九月の会議においてその内容が少し変わった。まず愛称の“プラネッツ”がそのまま正式名となった。そして目的も、各グループの活動も本質的には「SFを楽しむ」ところにあるという理由で「弱い青少年グループ同志で互いに助け合う」といったものから、単に「プラコン等の共同活動のための機関」ということになった。又、役員等もはっきりと決定した。代表一名が本人の希望及び同意で決定され、任期は四月一日より翌年の三月三十一日迄。継続も可。他役員は活動に応じて代表が良識ある方法で選出ということになった。発足当時にあった年齢制限も廃止されて、青少年グループを名乗るSFグループならどんなグループでも参加できるようになった。(実際問題として、年齢制限は有って無いが同然だった――それだけの意味がなかった。)代表は四十一年十一月より佐藤昇から木村一平に交代した。』――
 ここに現われている諸問題は、あとで第二世代の主張と対立させて総括して触れる事にしよう。
 さて前述の通り“クラブ超人類”から枝別れして生まれた“SFGP”“SFCC”は、その後、母胎となった“超人類”とは没交渉で、またこの三つのクラブ共ファンダムにひしめく幾多のクラブの交流も知らないままであった(“超人類”だけは例外的に数回“コアセルベート”と文通があり、うすうすは知っていた由)。この年の一月、“SFGP”は初代の今坂・鈴木氏から“SFCC”の創始者堀氏の手に移り、“SFCC”は鶴井譲治氏に移った。鶴井氏はアイデアストーリイを得意とし、一時はかなりの多作をしていた。「宇宙塵」一二八号にも天野光一のペンネームで「殺し合い」が転載されている。
 二月。筆者が「宇宙塵」の読者となり、幼稚っぽいお便りを出していたところ、十三才という同年令のファンから「文通して欲しい」という手紙が、忘れもしない四月二十七日の午後、拙宅に舞い込んだ。これが冒頭に書いた大野輝之君であった。彼は神奈川県伊勢原に住んでいたが、文通の始まりの頃は速達でやりとりしたり、一日に二度も手紙が来たり、とにかく頻繁であった。僕はその頃本を読み始めたばかりで文学の事など殆んど知らなかったが、彼はかなりの早熟でしかも秀才で学業優秀スポーツ万能、SFと言わず何にでも詳しく、僕などリードされっ放しであった。それでも実に充実した楽しさがあった事は今でも忘れられない。それはやはり、お互いに同世代の仲間、それも話のわかる友人ができた喜びであり、日常の細々とした学校での事件などの怒りをぶつけあったりもした。僕が大野君に教える事ができたのは音楽とミステリと鉄道の事ぐらいのものであった。
 八月。SF大会〈TOKONIII〉が東京洋服会館で開かれた。この時、木村一平氏が「少年SFとSF漫画」という講演をした。青少年ファンが大人の大会で初めて対等に扱われたということで特筆に価する。ジュニアSF論を青少年ファンの手で……という異色のねらいで、多くの青少年ファンがこれに協力した。一方まだ子供だった筆者の目には、年長の青少年ファンが大人のファンと同化してしまい、そうした評価とは別に、何かたまらない疎外感も味わった。この大会で初めてペンフレンド大野君と顔を合わせ、SF大会の熱っぽい雰囲気に触れて大いに刺激されたが、一方僕ら二人は参加者中の最年少であったため、お互いにもっと同年代の仲間を見つけて一緒に遊びたいという気になったのである。
 宇都宮の平出晴夫氏が自分の出しているファンニッシュなファンジン「ひらいでい」を配っていて、その近所では若い男女が漫画の話などで談笑しており、僕ら二人は指をくわえてうらやましがったものだ。京都から初めてSF大会に出席した“クラブ超人類”の高橋正則会長は、この時僕ら二人とは面識がなかったため口を利く機会がなかったが、コツコツと十七号まで出した「SFマニア」を持参して皆をうならせていた。ファンダム内でも一年半で十七号まで達したという月刊誌は稀であったためである。これが“超人類”のファンダムへのデビューとなった。
 この頃“STYX”同様“プラネッツ”の仲間うちから発足した“グループ・アイ”がA5版タイプオフ六十八頁という立派な「AI」創刊号を出してやはり皆を驚かせた。会長は蕨市の吉田徹氏。ファンダム内で注目を集めた“超人類”と“グループ・アイ”はやはりこの大会をきっかけにつきあいを始めた。
 青少年ファン、特にのちに「第二世代」と呼ばれるようになった新しいファン層にとって、この〈TOKONIII〉が果した役割は大きいものであった事がおわかりいただけるであろう。このエキサイティングなコンヴェンションは前々からクラブを作ろう作ろうとわめいていた相棒大野君をしてついに決心に至らしめた。
 そして九月初めに、文通友達だった大野輝之君は「会長」となったのである。僕がなかなか腰を上げないのがじれったかったらしく、『おれはとうとう我慢できなくなったぞ』という手紙と共に入会案内のガリ版刷り十枚を送ってきた。この行動力にはちょっと驚き、筆者もやっとその気になった。入会案内は大野君のはいっていた“SFコンパニイ”の真似であった。会名は“S&3F(SF&ファンタジイ・ファナティック――柴野氏曰く『すごい和製英語』)”。日本初の中学生グループというふれこみであったが、今まで誰も文句を言ってこないところを見ると、本当に日本初だったのだろう。
 大野君はすぐに「テルスタア」(名付け親は筆者)という怖ろしく汚ない一枚もののペラペラ、裏表ビッシリの通信誌を出した。この時、大野君も「千字コント」入選者に目をつけ、藤原竜一郎氏に入会を勧めたが、氏は『既に“超人類”というクラブに入っていますから』と断わってきた。これで僕らは“クラブ超人類”の存在を知り、一方、藤原氏も大野君の熱意に圧倒されて結局は入会してしまった。藤原氏が入会の際に言った次の言葉は何かファン活動の楽しさの本質的なところを突いているように思う。
 ――『だって、こんな楽しい会誌を送ってこられたら入会しないわけにはいかないじゃありませんか……』
 中学二年だった僕と大野君にとって、たとえミニコミとはいえ自分の表現が他人に伝わる面白さ、自分の書いたものが印刷されているというその妙にはにかみを感じる楽しさは、誰でも感じる熱中初期の情熱の所産と思われる。僕にとっては、世間でよく言われるところの「初心に還れ」という流行語は、後退的な意味ではなくて、むしろこうした楽しい思い出から逆に自分はなぜ表現行為をするのか、なぜSFファンになったのかという当時の原点とその後の志向をさぐるといった意味にとれる。たとえ青少年ファンの出版活動が、幼年期の〈なんとかごっこ〉の延長だとしても、その幼なさを克服して表現をしたいという自我の目覚めとして、もっと評価されるべきだと思う。
 その他のこの頃の各界の動きをまとめておこう。
 故、猪俣博和氏の「STYX」は、最も活発に出版され、一周年記念号(六号)を出している。半年後にはまた「宇宙塵」一二一号に猪俣氏の掌篇「おもちゃ工場」が掲載され、最もノッていた時期といえよう。
 本谷正樹・俊樹兄弟の「貧ボウ神」は詩誌の傾向の強い三号を出し、同号の本谷兄弟による「少年ファンダムへの疑問」は、グループ活動のマンネリを突き、個性を生かすことの必要を強調している。“プラネッツ”加盟への疑問や、ファン活動を問い直してみようといった傾向が色濃く、それまでのSF万才、ファン活動万才の一辺倒な安易さを批判しはじめた。こうした疑問が年少ファンのふとした反省から出てきたということは特筆しておきたい。それだけ妙な余裕を持ってSFやファンダムを批判できる世代が出現したということだろうと思う。
 最近「SFM」や、オールディス「虚構の大地」の翻訳などでおなじみの山田和子女史は、この頃中学を出たばかりで、仲間二人と「ミュー」という少女ファンのみの雑誌を出していた。山田女史は現在「NW−SF」編集長である。
 一方“SFGP”“SFCC”の姉妹会両方に所属していた鶴井譲治氏が、僕ら“S&3F”の例外会員のひとりとして(当時彼は十七才。この他中学生以外の会員としては美苑ふう女史などがいた)入会したのをきっかけに、“超人類”は“S&3F”を通じて“SFGP”“SFCC”を知り、実は“SFGP”は“超人類”から枝別れしてできた事がわかった。これに気づいたのは高橋正則氏の方であり、奇遇にびっくりしていた。
 書き忘れたが、別表でもおわかりの通り、この年の終りには“SFGP”は第三代、兵庫県竜野市の久保田薫・西村知明の両氏に移り、誌名も「SFGP」から「ギャラクシイ」に変わった。“SFCC”も福島県須賀川市の岡本安司氏に代表が交代している。いつ出たものか判然としなくて申し分けないが、少くともこの頃までに鶴井譲治氏が「SF地帯」というB6版孔版上下二冊の個人短篇集(全部新作)を出していて、筆者も現物を読んだ覚えがあるがどうしても見つからなかった。悪しからず。
 十月には僕らS&3Fも、月刊の「テルスタア」の他に「ファナティック」創刊号(創作中心、孔版B5四十頁)を出すことができた。
 こうした経緯で“プラネッツ”系の当時二十才を中心とする第一世代の次の層として、僕ら中学生、高校生を中心とする“第二世代”が一つのまとまった形としてファンダムの表面に浮かびあがってきたのであった。
“プラネッツ”系のひとたちは、どうやら僕らが学校のクラブのように“プラネッツ”を引き継いでくれるものと思っていたらしい。先輩から後輩へと続いてゆく、そういう新陳代謝をある程度期待していたようなのだが、そうは行かなかった。確かに学内団体ならばそれは可能であろう。一例をあげるなら、麻布学園の「リミット」がそうだ。しかし、一般のクラブでは、なかなかそれはやりにくく、代表者や会員が閉会をすればめったによみがえらない。一般のクラブでも世代交代をスムーズにやってのけたのは“中部SF同好会(ミュータンツ)”ぐらいのものだろう。
 わが友大野君も“S&3F”の“プラネッツ”加盟を勧められた。彼は“空間クラブ”“SFコンパニイ”など、当時“プラネッツ”連合の中核をなしていた会にいくつも所属していたので、これは当然の勧誘と見えた。しかし、大野君は『やはり子供は子供だけで楽しむ場所があってもいいと思うから、とくに加盟の意志はない』として断わった。“プラネッツ”のグループ群が大人のグループとは別の独自の存在を主張したように、大野君も兄貴分のグループとは違った少年としての独自の存在を主張した訳である。「青少年」といった概念は“プラネッツ”系の人々の幻想にすぎなかったように思える。それが彼らの誤算といえば誤算であったる
 特にその頃から、SF生えぬきの第一世代の最年長者の中には、SFに飽き、自分の志向するものとSFとの落差の大きさに失望し、次第にSFから離れていったり、自分の求めるSFの発見のためにファンダムから離れていく人が出てきた。詩を書き始めるもの、所謂「人生」や「文学」に目覚めるもの、芸術論をたたかわせるもの――とその方向は様々であったが、僕ら「少年」には理解できない「青年」としての彼らの存在が強まった。当時、柴野氏も『青年期一般の文学志向をSFまがいのスタイルで語る世代の出現に驚かされた』のである。しかし、「少年」期だった僕らにとってのSFの世界は、やはり見慣れた「アトム」の未来世界や、新鮮なアイデアによって価値がごろりと裏返るという面白さの世界にすぎず、僕らにはわからない活動を彼らが始めているぐらいにしか感じなかった。そして、僕らがSFに熱中しているのに、急に年上の青年ファンが僕らにはわからない方向へ足を踏み出した時、正直言ってとても「白けた気分」になってしまった。今になって考えれば、先に述べたSFへの入り方の差――それは言うまでもなく世代の差であった。筆者の仲間がひとり、ふたりとSFから離れていった今日になって、ようやくこれらの事が理解できた。そして僕自身はまだ何かわからないがSFに期待するものが大きく、SFを選んだという実感が湧いてくる。結局そういった青年期の自我の自覚に際した志向の選択ということがやはり子供だった僕らにはわからず、それに気づかないで僕らに同じようなものを求めた“プラネッツ”の人々の感違いとが、妙な溝を作ってしまった原因のようだ。

 明けて一九六八(昭和四十三)年。一月七日“プラネッツ”主催の〈プラコンIII〉が開かれ、僕と大野君は最年少参加者(共に十四才)で参加。しかも僕は「SFとその周辺」という講演(?!)を行なった。場所は、司会の佐藤昇氏宅近くの神奈川県社会福祉会館。この他“STYX”と“ABI”(放送研究会)共同製作のラジオドラマ「閉じ込められた男」(一九六七年十月二日午後十一時よりFM東海で放送)鑑賞、スライド映写、電子音楽、クイズ、討論、オークションなど、もり沢山な内容であった。が反面、この時の“プラネッツ”加盟グループは、“空間クラブ”“SFコンパニイ”“次元”“STYX”“ジュピター”“AI”の六つに減っており、そろそろ“プラネッツ”の危機が云々されていた。(この他にも“SHクラブ”“SFパラドックス”“NEPTUNE”“プロミネンス”“反世界”が参加していたが、いずれも休会中であった。)
 この〈プラコンIII〉には柴野拓美・野田宏一郎・大宮信光・美苑ふう諸氏の他に、藤原義久氏の異色の参加があった。藤原氏は野田氏の学習院大学時代の友人で、クラブ(音楽)も一緒、しかも互いにSFファンで、偶然僕の学習院中等科の音楽講師だった事から参加。(音楽の授業中に突然フィリップ・K・ディックやらブラッドベリの礼賛が始まった時の僕の驚きといったら……!)以前野田氏の筆で「SFM」にエスペラントの混声合唱曲「地球の緑の丘」の作曲者として紹介された事もあり、現在は電子音楽や、仏教典の音楽的具象化に取りくんでいる由。
 この大会で、「プラネッツ及び青少年ファンはいかにあるべきか」というパネル討論が行なわれた。木村一弘(改名直後)、宮倉康三、本谷正樹、鵜沢直人(ラディカルな評論中心の“ネプチューン”の会長)、平出晴夫の諸氏の他に、柴野氏も発言を求められ、「なるべくプラコンを続けて下さい」と語った。青少年ファンという呼び方自体が行き詰まりを呈しながらも、なおも活動せざるを得なかった模索者たちの集会であった。

 *後註
“AM(アマチュア作家同好会(オーサアセンブリ) )”の会長柴田成人氏は「千字コント」などにも投稿、その後SFからは離れたが、高校三年の時に書いた小説「火傷(やけど) 」が認められ、女性週刊誌などで“高校生が書いた性愛小説”として騒がれた。のちに大映が「高校生ブルース」として映画化しヒット、関根恵子というスターまで生まれた。


青少年SFファン活動小史 (1) (2) (3) (4) (5) / 目次