2010年 2月1日

覚醒=魂の記憶を取り戻すために

2010年も早一月過ぎた。
たった一月なのに実に様々な出来事があった。
政治的にも、気象的にも、人工災害らしきものも。

これらの事柄は怒りや不安や恐怖を抱かせるような事でもあるが、
同時に気づくチャンスでもある。

私たちは試されているのかもしれない。
これらのことでどのような想念を持つのか。
それとも一見ネガティブな事柄の羅列のような状況にいながら、
その中から気づきを得るのか?


さて、最近ご質問を頂くことがあった。
その方の魂は記憶を取り戻したくてウズウズしている状態なのかもしれない。

そこで、宇宙での魂の感覚と地球での人間の感覚との違いに焦点を当てたものも書いていこうと思う。
日本の話シリーズはあと2回くらいで終わる予定である。
その後は近世にはいるので、現在の状況と絡ませながら日本におけるマインドコントロールや日本の闇についてわかった事柄について書いていくことにする。


今回と次回は自分が魂の記憶を取り戻す過程を書く。

自らの魂の記憶を辿るヒントにしていただければ幸いである。


幼い頃の記憶はあまり幸せではない。
とくに貧乏だったわけでも、両親に面倒見てもらえなかったわけでもないが。
「どうしてここに(地球に)いるんだろう。ここはなんて不便で、意地悪で怖い人たちがいるところなんだろう」
等と感じていた。もちろん、それは心の奥底で。

東京近郊のベッドタウンで育った私は、その頃の誰もがそうであったように高度経済成長の世の中、子供たちは勉強することで競争させられていた。

小学生のころまではいつも誰かがそばで見守ってくれているのを感じていた。

ずっと母の影響でプロテスタントの教会に通っていたが、見守ってくれているのが、教会で教えてもらったイエス様のような感じはしていたが、どこか教会というものは全面的に信じられないとも感じていた。
母は熱心なクリスチャンであったが、教育ママでもあり、よい成績を目指して結構ハッパかけられた。
勉強やその他で人に勝つことと隣人を愛することはどこか矛盾すると思うのだが、その頃の私はその矛盾をそのまま受け入れるしかなかった。

中学、高校になると見守ってくれる人のことは意識にのぼらなくなった。
勉強・クラブ(バスケットボール)それだけの毎日。
この社会の常識全てに怒りや矛盾を感じるのだが、それをうまく表現できなかった。
(それを反抗期と地球ではいうのかもしれない。)

大学生になってから30代始めで身体を壊すまで地球の常識そのままに生きた。
地球の常識について疑うのをやめてしまった時期である。
社会の中の不公正・不平等についていは障害児教育に関わったこともあり、日常的に考えていた。
大学生活をエンジョイし、卒業、仕事、休暇を使っての海外旅行、これでもかというくらい時間を惜しんで働き、そして遊んだ。その間に結婚もした。

30代初期に体調を壊し、仕事を辞め、専業主婦になる。
3度の流産の後、急速に自然療法、アロマテラピ―、代替療法、気功、精神世界等にに引き込まれ、それに関係する本や雑誌をたくさん読む。
しかし、何か一つにのめりこむということはなかった。
その時は田舎に住んでいたので、簡単に勉強会などに参加できなかった。
(今ではそれがよかったと思っている。)
元気な時は畑で野菜やハーブを作ったり、薪ストーブでパンを焼いたりしていた。
毎日、充実した日々を送り始めたもののこれが本当に自分のすることなのかどうかはわからなかった。

体調が良くなってきたころに1週間くらい続けて同じ夢を見た。

辺り一面は火の海。倒壊した家が燃えているのだ。
その下敷きになって助けを求めている人もいる。
私は何故か水筒を一つ肩から提げてその中を逃げている。
その水筒には水か一口くらいしか入っていない。

家の下敷きになってもう生き延びるのは諦め、死ぬ前にせめて一口水を飲ませてほしいと懇願している人がいる。
私は自分が生きるために水を取っておくべきなのかどうか迷うが、飲ませてあげようと思う。
そして、自分のために水を取っておこうという考える自分を猛烈に恥じる。
それから必死に祈る。
「どうか、人のために進んで水を分け与える自分であれますように」と


その同じ夢を3回くらい続けてみた後、他は同じ状況なのだが、自分が何故か赤ん坊を抱いて逃げている。
(その時の私に子どもはいなかった。)
逃げている私は前と同じように水を欲しいと懇願される。
でもその時、どこからか声がする。
「その水は自分の赤ちゃんのために取っておきなさい」と。
それは気のせいかもしれない。
(夢の中で気のせいも何もないのだが・・・・)
そうして自分でも考える。
自分一人ならどうなってもいい。
でも自分には守るべき小さい命がある。
「どうする、どうする・・・」

迷い続けて夢から覚める。
こんなのが3日くらい続いたと思う。

そうして1995年1月17日の朝になった。
TVで地震があったことがわかった。

しばらくかかった。
私の見た夢が阪神・淡路大震災のことだとはっきり理解するのに・・・

今から思えばその時が、私の今回の人生で本当にやるべきことに向かって進んでいく転換点であった。
しかし、そこから一気に人生が展開したわけではなく、さらに時間が必要だった。



2010年2月2日   続き

阪神・淡路大震災のあった1995年から2001年までの7年間はひたすら子育てをする時期になった。

1995年10月に長女、1998年12月に長男を出産した。
長女の子育ては母親友達がいなかったので、育児ノイローゼに近い状態にもなったが、子供を授かった喜びが根底にあったので何とか乗り切った。
長女が友達を必要とするころには母親友達もたくさんでき、楽しく充実した日々を送ることになる。
この頃は徹底的に自然志向で、母乳育児、自然育児、自然食育、等、超自然児に育てた。
しかし、どんな田舎でもスナック菓子や清涼飲料水などはあるもので、友達づきあいともなれば避けられないこともある。その辺は頑固にならず、柔軟に対応した。
食べることは基本的に楽しみ、みんなで食べるときは分かち合う喜びの方が重要と思ったからである。

一方、精神世界系のことにも興味を失ったわけではなく、本や雑誌など手に入るものは読んだりしていたが、目の前にいる幼い命を毎日健やかに過ごせるようにすることが最優先課題であった。
子どもを預けて(気晴らしもかねて)それっぽい勉強会ものに参加することも数回あったが、そちらが自分の中で主になることは決してなかった。
また、母親友達の中にも新興宗教その他に関わっている人も少なくなかったが、友人としては仲良くしたがそれらのことに深入りすることもなかった。
振り返って考えると、知らず知らずのうちに何に対しても中立的立場=程よい距離に立っていたように思う。

私にとってより大切なものは毎日の育児の実践に役に立つ知恵みたいなもので、それらを求めていたし、自分でも子どもの目線に立とうと努力しながら何かをいつも考えていた。

この頃、長女がちらっと妖精の存在を言ったり、生まれる前のことを話してくれた。
「生まれる前に大きな天使さんと小さな天使さんがいてここからは一人で行きなさいっていったの。天使さんは胸にハートがついていた。それでシューっときて生まれたの。」

なんとも可愛らしい話である。
普通の人ならただそれだけで終わるかもしれないが、私はこれを聞いて「やっぱり地球以外の世界があるんだな〜」と思ったのである。
私自身、この地球世界、肉体、精神、魂、そういうものについてもっと知りたいと願い、この地球の今の状態・自分の存在も含めて納得できなかったからである。

自分が何故ここにいるのか?
何のために生まれたのか?
人間とは何なのか?
このことを知りたかった。


2001年9月11日、あの日に世界はまた大きく変わった。
その当時の私はどこがどのように変わったのかなどは皆目見当がつかなかった。

ただ、あの1995年1月17日の阪神・淡路大震災の時のように自分の中から何かを駆り立てるものがあるのは感じていた。
先ほど何に対しても中立的でのめり込むことはなかったと書いたが、シュタイナー教育にはかなり魅力を感じ、惹かれていた。
既存の教育にはもう飽き飽きしていたし、子どもたちをもっと違う環境で育てたいと望んでいた。
(その頃は神秘思想、シュタイナー思想がオカルトから発生したものだとは知る由もなかった。)


2002年から、私の人生は怒涛のごとく急展開することになる。
自分でそれを望み、行動した結果そうなった。

2002年家族で北海道に移住。
子ども達をそれぞれシュタイナー教育を実践する学校と幼稚園に通わせる。

2003年
シュタイナー思想を実践する共同体(集団)のあり方に疑問と矛盾と欺瞞を感じ、子供たちを地元の学校に転校させる。
この頃、娘は人のオーラの色を教えてくれるようになる。
聞いているうちに自分もある程度見えるようになった。
娘の方は中のチャクラの様子までしっかり見えているようだが、私は見えなかった。


2004年
一人で札幌暮らしを始める。
初めての一人暮らし、一人旅を数多くする。
厳格な父のもとで育ったために一人暮らしや一人旅がこの年になって初めて実現したのである。
自分で出てきたとはいえ、子供たちと離れた生活、金銭的不安、自分自身と向き合う日々。
人生の中で一番苦しかった時であるが充実したときでもある。
一人になって初めて自分というものに徹底的に向き合った日々であった。
この時期に自分の殆どの過去生を自分で思い出す、その過程で今回の人生は本当の自分を生きていなかったことに大いに気づく。


2005年 離婚
子どもたちとの生活が始まる。
この社会は一旦既定の路線を外れた者に対して冷たい社会であることを思い知る。
けれど、子、娘、嫁、奥さん、等いつも従属的な立場にいることよりはずっと幸福である。
そう思いつつ子どもたちを守りつつ、必死に過ごした一年。

2006年
5年生になった娘が、初めて宇宙のことを語り始めた時。
まずは母である私が本当は誰なのか、自分は誰なのか、弟は誰なのか、
何のために地球に来ているのか・・・
最初は本当に少しづつ。
少し話を聞くたびにその十倍以上の情報が頭の中を駆け巡り、10分ほどの会話なのにすごく疲れた。
これはきっと地球でほとんど使うことのなかったテレパシー能力だろう。


なぜ、自分の子どもの言うことをそのまま信じるのかと疑問を持つ人もいるだろう。
しかし、母と子の絆はとても深いものである。
自分の子供がデタラメを言っているのか、それとも真実を語っているのか、そんなことは多くの母親がすぐわかると言うだろう。


こうして娘との2人3脚がはじまった。

地球上の情報を整理して、質問をする。・・母

宇宙情報を検索して答える・・・・・・・娘

それを照合し、不明な部分を話し合いながら明らかにして整理する・・母


娘の年齢が上がってより地球社会のことを理解するにつれ、このキャッチボールはスムーズなる。
また、地球上の生活が長く、宇宙のことを忘れていた私もこれを繰り返すことで記憶がよみがえり始め、ある程度こんな感じという予測を描けるようなり、意志疎通が速くなる。
しかし、どうしても地球上の概念、常識が抜けきらないので確認している。

娘は今の地球の人生では私の娘だが、魂年齢でいうと私の倍以上あるらしい。
母はシワ、シミも気になるこの頃だが、娘はムチムチの中学生である。
「まったくずるいよ〜」なんて冗談言いながらも娘にはとても感謝している。

地球に生まれるには一度記憶を消してくる。
リスクを冒してきてくれたということだ。
そこで母である私が、大人の価値観、都合、地球の常識を押し付けるような育児をしていたら、娘の魂の記憶もこれほどクリアではなかっただろうし、最悪の場合は思い出せない場合もあっただろう。


以上がおおまかな私の魂の記憶を取り戻した過程だが、これは例えれば 山道の先頭を娘の言葉を頼りにやぶこぎして歩いた ということである。

やぶこぎ・・登山で、道のない藪の密生地をかきわけて進むこと(広辞苑より)

従って、皆さんもそれぞれ自分で山道は歩かなければいけないが、先頭が多少雑多なものを取りはらって通った後なので少し歩きやすくなっていると思う。
たくさんの人が通ればより歩きやすくなり、しっかりとした太い道になる可能性もある。


次回は過去生について


                 INDEX