青少年SFファン活動小史(1)
宇宙塵 No.168
1972/10 (OCT/1972) 昭和47年10月20日発行



 〈はじめに〉

 この稿を起こすに当っては、随分と色々な疑問があった。日本に本格的にSFというものが紹介されるようになってたかだか十数年、ファン活動が始まったのもだいたいそれと時を同じくしているが、所謂青少年ファングループが名乗りをあげ活動し始めたのはそれよりもさらに遅く、まだ八年ちょっとしかたっていないのである。しかしこういうものは資料が散逸してしまいがちである為か、各方面から、その足跡は今のうちに記録に残しておいた方が良いという御忠告があり、客観性の欠如とかちょっとした脱落はもとより覚悟のうえで、なるべくわかり易くまとめるように努力したつもりである。(お気づきの点があれば是非御教示をお願いします。)
 なお便宜上、青少年ファン活動史を、次の三時期に分けて考えてゆく事にした。
  • 黎明期の青少年ファン
  • 第二世代の登場(第一世代とのずれ
  • 最近の動向(実質的な意味に於いても青少年・大人といった分類が無意味になってきたという傾向)
     なお、本稿を起こすに当って、柴野拓美・木村一弘・池田敏・高橋正則の各氏に多大の御指導をいただいたほか、佐藤昇・矢野純・大野輝之の諸氏の文献を参考にさせていただいた。また、特に、冒頭の部分は大野輝之氏の「今昔青少年ふぁん気質考」(「SFファンジン」53〜54号)、及び矢野純氏の「プラコンII・IIIレポート」(“プラネッツ”発行)に依る所大であった。厚く御礼申し上げたい。

     第一章  黎明期の青少年ファン

     ――『日本には今“科学創作クラブ”をはじめいくつものSFの会がある。それなのになんでこんな会員二人の小さな会が必要なのだろうか。正直言ってあってもなくても変わらない。しかしSFのためには何かをやらなくてはいられなかった。それがこの会をつくった動機である。』――
    「空間クラブ結成の意味」と題されたこの一文。これだけが、日本初の青少年ファングループ“空間クラブ”のファンジン「空間通信」創刊号(B6版一枚)の内容すべてである。一九六四(昭和三十九)年五月。発行者・執筆者・印刷者は木村一平(現在は改名して一弘)氏。島本光昭の筆名でその後日本SF史の研究でも著名となった。当時中学三年だった木村氏はこの創刊号の原紙を紙ヤスリの上にのせてコンパスの先でガリ切りをしたのだという。まさにミニコミの曙の伝説と言えよう。七月にはまったく同じ体裁の第二号が出された。
     当時は今日ごく日常的に用いられ、論議の的ともなる“ファンダム”といったほどのまとまったものはなく、また、SFファンを自認する人の数も少なく、今日では考えられぬ程にSFというものが世に知られていなかった。バラードなどのいわゆるニューウェーブ作品ですら未紹介のものが多かったのである。
     木村氏は当時を回想して“空間クラブ”の当初の目的として次の三つをあげている。
     (1)SFの普及
     (2)同世代の同好者の獲得
     (3)SF作品の創作・評論活動
     ちょっとものものしいので、今の若手ファンはびっくりされるかもしれない。しかし、当時にしてみればこの三点の強調は当然であったのである。
     当時のグループ結成の動機は、大人と青少年とを問わず孤独なファンがともかくも話し相手を求めるというのが第一であり、SFを読んでいる者同志というだけで話がはずんだのである。特に木村氏のように当時十四・五才のローティーンは大人の会には出席しにくかったし、いっそうその孤独が大きかったのである。(現在まで続いているSFファンが一つの殻の中に閉じこもりがちになる現象は、初期には必然的なことであったと言える。児童文学界のような単なるセクト主義(?)ではなくて、孤独→閉鎖→孤立という現象であったという気がする。)
     特にSF同人会の会合は殆んど大人で占められており、今日のように若者を意識したスナックや喫茶店なども少なく、木村氏らが出席しにくかったという事も充分うなずけるのである。されば、同年齢の仲間を!! と考えたのも当然であろう。
     当時はSFの会合では今と違って熱っぽい討論がされ、会えばSFの話だった。SF界全体をもりたてる為にという使命感があり、そのために嫌いな作家や作品にも公然と酷評を与える事がためらわれたそうである。まだ一般に知られていず、知られていても偏見を伴っていたりした「SF」という名前をひろめるための第一線という使命感のもとにファンクラブが作られたのである。今のファンに想像できるだろうか? 今日ではむしろSF好きという共通項だけで人間がなんとなく寄り集まり、マージャンやその他の遊びが会合の中心となってしまった。“ショッカー”などSF活動以外のレクリエーションを通じた青少年の親ぼくの会のようなクラブまで生まれている。そんな余裕は全く無かったのである。
     ご参考までに、ここで当時のファンダムを構成していたクラブをあげておこう。
     ・科学創作クラブ(宇宙塵)
     ・SFM同好会(宇宙気流)
     ・日本SFアート研究会(アート専門)
     ・ミュータンツ(中部で最古。メイコンI IIを主催)
     ・てんたくるず(一年後“九州SFクラブ”と改名)
     ・コア(北海道)
     ・タイム・パトロール(神戸)
     ・パラノイア(神戸)
     やっと群雄割拠の兆候を見せ始めていた頃のことであることが、これでおわかりになったと思う。
     さて、話をもどそう。もう一つ、青少年ファングループの鼻祖となったファンジンが、やはり木村氏の「空間通信」創刊と同月の五月に、横浜で出されている。現在「NW−SF」誌上で活動中の佐藤昇氏の「SFコンパニイ」(B5版八頁)がそれである。これは当時、高一だった(木村より一つ年上の)佐藤氏がつくった“浅野学園SF同好会”を学外団体に発展させた“SFコンパニイ(略称SFCY)”の会誌である。会員二十名の殆んどが同学園の中・高生で占められ、いわゆるSFファンは皆無だったそうだ。
     木村氏と佐藤氏は共に「宇宙塵」「宇宙気流」の読者であった事から知り合い、この二つのクラブの交流が始まった。同年内に木村一平氏発行の「空間通信」は三号まで、佐藤昇氏発行の「SFコンパニイ」は四号まで出ている。
     ところで、この年――一九六四年の前年、すなわち六三(昭和三十八)年にもう一つ書きもらせぬ重要なグループがスタートしている。このグループをもって初の青少年グループとしても良いのだが、発足の事情がちょっと変わっているのでそれを少し説明しておきたい。
     一九六三年五月。大阪の池田敏・楠田一美両氏(共に二十三才)によりSF&ミステリの“MASFクラブ”発足。会誌名「コアセルベート」。そして翌六四年一月、SFのみの“SFFC”として再発足。創始者は池田氏、大沢敏幸氏(当時十三才)ら数人。これが池田敏氏をリーダーとする高校生以下中心の“コアセルベート・クラブ”発足のいきさつである。従って時間的には「空間通信」よりも数ヶ月早いわけである。その後“コアセルベート”は「ボーイズライフ」読者欄での会員募集の先例を作るなどして、着実に全国に会員を増やし、後述する“プラネッツ加盟グループ”と並ぶ程の“コアセル系グループ”を持つに至るのである。こののち、あまりコアセル系グループには触れないと思うので、一応その傘下にできたグループを列挙しておこう。
     ・プリートニス     大沢敏幸  東京
     ・銀河         門井 勉  横浜
     ・TIME       五十嵐恵子 新潟(女性のみのグループ。“レディズ・オヴ・タイム”が正式名)
     ・MM         山本浩二  大阪
     ・恒星         森 道男  三重
     途中で関係を絶ったもの、もしくはコアセル傘下と誤認されていたもの
     ・ひらいでい      平出晴夫  宇都宮
     ・トレイターズクラブ  松下正巳  東京(*後註
     ・レタージン・コアセルベート(会計・構成はまったく別だった由)
                 池田 敏  大阪
     以上のべてきた“空間クラブ”“SFコンパニイ”そして“コアセルベート”の出現によって〈青少年ファンダム〉といった概念や呼び方ができてきたと考えていいだろう。

     明けて一九六五(昭和四十)年。「SFM」テレポート欄に佐藤昇氏の投書が載り“SFコンパニイ”と“コアセルベート”、それに新発足の“貧ボウ神”(本谷正樹氏・東京)など関東と関西の青少年グループ同志のつきあいが始まった。
     二月二十七日。東京港区の赤坂図書館ホールで、科学創作クラブ主催の〈SF映画大会〉が開かれた。この頃からやたらと青少年グループが名乗りをあげ、中高生にSFファンが激増した。この大会において、“空間クラブ”“SFコンパニイ”“貧ボウ神”各代表の木村、佐藤、本谷諸氏の間に“全S連”結成の話し合いがなされた。(他にも鵜沢直人氏、石川律夫氏などがこの会に来ていて、それぞれのちに活動している。)これがこの年の内に“日本青少年SFファングループ連合・プラネッツ”として発足するのだが、この“プラネッツ”はあくまでも大人のファンダムのような横のつながりを持ち助け合おうという目的でつくられたいわゆる連合組織(日本SFファングループ連合会議の青少年版と考えていただくのが一番てっとり早い)であって、決して“プラネッツ”という名前のクラブがあった訳ではないので、念のため。
     この年の夏、佐藤昇氏が配ったパンフレットに“プラネッツ”の性格がはっきりとうち出されているので引用してみよう。
     ――『日本青少年SFファングループ連合を結成しようと思います。できてもすぐに解散しそうな力の弱い青少年グループ同志で互いに助け合おうという訳です。愛称をプラネッツ。各グループを一つの惑星に喩えた訳ですが、略してプラと呼ぶ事にしましょう。
     各グループの悩み事解決、ファンジン発行の援助、又は新グループ結成の際の手助け、その他バラバラでやるには大きすぎる仕事を一緒にやりましょう。みんなの連合ですからみんなのものにして下さい。プラネッツにはグループ単位で加盟して下さい。プラネッツには〈参加クラブの会員は原則として十八才以下とする〉という協定があります……(以下略)……』――
     勿論、文中にもみられる通り、原則としてという事は例外も認めるという事である。ファングループがかつて遊びの一種としてものものしい規約作りに熱中したのは事実で、その殆んどはあっても無きに等しかった。要するに凝った事を好むファン精神の現われの一つとして見て良いだろう。かのユダヤ人式に言わせれば、〈法外の法〉である。
     ところで、“プラネッツ”発足当時の加入グループは次の十一。代表は佐藤昇氏であった。
     ・空間クラブ    木村一平  東京
     ・SFコンパニイ  佐藤 昇  横浜
     ・貧ボウ神     本谷正樹  東京
     ・次元       宮倉康三  東京
     ・反世界      早川哲夫  岐阜
     ・ネプチューン   田代一男  東京
     ・パラドックス   飯沼丈夫  浦和
     ・SHクラブ    熊本 立  浦和
     ・ジュピター    中島俊明  横浜
     ・ホモスペリオール 亀和田武  東京
     ・プロミネンス   稲見雅晴  東京(会誌はとうとう一冊も出さなかったが、このクラブは青少年ファンダムに一時アマチュア無線ブームを起した。)
     のちに次の三つが加わり十四になった。
     ・SF愛好会    (詳細は不明)
     ・ムーンチャイルド 茂木 豊  東京
     ・SFレディーズ  伊関節子  東京(女高生数人による初の女性グループで「エンゼル・ヘア」など女性らしい繊細な感覚の会誌で評判となった。コアセル傘下にあげた“レディズ・オヴ・TIME”より一年程早い。)
     これらのグループが出たり入ったり、絶えず新グループが現われては消えしていた事は言うまでもあるまい。「宇宙塵」九十七号(一九六五年十一月号)には、“プラネッツ”に関する佐藤昇氏の次のような投書が載っている。
     ――『プラネッツの性格その他が色々皆様に御心配をかけているようなので、この欄を借りて説明させて頂きます。プラは、現在乱立状態にある青少年SFクラブの無形リストのようなものとして計画されているので、決してそれに加盟したクラブに積極的に影響を与える事はありません。十二月二十六日に、プラ主催で、第一回日本青少年SF大会(略称プラコンI)が開かれますが、これも今まで欠けていた青少年グループ間の横の連絡をつける事が最大の目的です。といっても青少年グループをファンダムから切り離して、大人のグループに対抗させるようにとられると困ります。必要なのは“プラネッツ”という名前だけなので、こうすれば日本ファンダムの構成はずいぶんスッキリした感じになると思います。いずれ、ハッキリした声明を出す予定です。』――
     文中「乱立状態」とあるが、“空間クラブ”の「NOVA」(「空間通信」は通信誌となり、「NOVA」が正式な会誌となった)三号によりと、一週間に一乃至二の割合で増え、しかも多くは三号雑誌にもならずにつぶれていったとある。これらの殆んどは現在のものとはやはり比較にならぬ程体裁・内容共に貧弱なもので、頁数も少ない。(もっとも今は頁数ばかりあって内容がおそまつといったものもあるようだが)“次元”をやっていた宮倉康三氏に言わせると、そのかわり今のファンにはない情熱があったそうで、これを裏からみれば、その情熱だけが支えという感じだったのだろう。
     さて十二月二十六日には文中にあるように〈プラコンI〉が開かれ、前記十一のグループのメンバーが一堂に会したのである。この時の会費がなんと五十円という安さ。会場は東京洋服会館。参加者四十八名。出席者の殆んど半数がそれぞれ自分のファンジンを出している一国一城の主。お互い名のみしか知らなかった青少年ファンが実際に顔をつき合わせて語り合ったその熱っぽさは、想像するに〈第一回日本SF大会・メグコン〉に似たものではなかったろうか。佐藤昇氏の言に依れば「この大会のために何もしなかった出席者は一人もいなかった」――ともかく記念すべき行事となったわけである。
     こののち第四回まで続くこの大会シリーズについては折々にふれていこう。

     さて、この年に日本SF史上に残るちょっとした事件が、青少年ファンの一投稿をきっかけに起こった。その原因となったのは、“空間クラブ”の木村一平会長が“SFM同好会”の「宇宙気流」七月号に投稿した「少年SFファンは訴える」という一文。当時、少年雑誌に載っていたSFが、『創作とは名ばかりで所謂名作SF小説の焼き直しが多い』として、『盗作』などのかなり強い表現で非難したものである。これについて「宇宙塵」九十四号(一九六五年八月号)のC・R氏の「月評」がとりあげているので、少し引用してみよう。
     ――『宇宙気流七月号は前号に続き評論主体の編集。木村一平「少年SFファンは訴える」が高一とは思えないしっかりした文章と論旨で読ませた。データをあげずに指名攻撃をかけた事や、過激な用語の端々など、大人のファンジンに載るには不適当な点も多いが、一応それに目をつぶってみれば、全体として彼の言いたかった事は良くわかる。確かに現在は少年SFが多すぎるし、それに便乗する少年雑誌の商業政策の一翼に、敬愛するSF界のスターが名を連らねていたとなると……むろん作家側にも色々事情はある訳だが、小松・光瀬・眉村といったあたりは少年ものも決して調子を落とさずに書いているし、妥協が不可欠のものとも思えないのだ。大きな目で見た場合、作家側がある程度SFの本質の線を通すことは、SF普及政策の上でも決してマイナスではなかろう。一方、少年諸君には、問題の雑誌の方へも働きかける事をすすめたい。自己のない編集者ほど読者の声には弱く、通葉の投書で編集会議の方向が大幅に変わる可能性もあるからだ……』――
    (この号の「ファンダム月報」には「SFコンパニイ」七号の好意的批評と並んで、“プラネッツ”結成のニュースも載っており、青少年によるファン活動がいよいよ盛んになりつつあった事がわかる。)
     ところが事はこれだけでは済まず、ファンダム全体、SF界全体へと波及していった。
    「SFマガジン」七十四号の福島正実氏の「日記」は、あのF氏調とも言うべき文体で、明らかに木村氏の一文を怒りをもってとりあげている。さらにその後福島氏は「SFの夜」という作品で、作中に登場するSF少年団長の名前を本村三平としたり、その他著名ファンの名をもじるなどしてSF至上主義のマニア(福島氏に言わせると『一握りのSFパラノイアたち』)を皮肉っている。ここに至って問題は深刻化し、ファンと作家、青少年ファンと大人ファンの複雑な感情的対立にまでなった。
     木村氏は当時を回想して、『今にして反省すれば、私がもう少し表現に注意すればあそこまで感情的対立は起こらなかったろうし、SF界全体の為にも良かったのだろうと思う。』と語っている。
     翌一九六六年(昭和四十一年)二月・六月・十一月と筒井康隆・平井和正両氏による「SF新聞」が三回にわたって出されたが、前年度のこの事件がかなり尾を引いている様子で、多くのSF作家が、「僕の仕事は僕がする」などの表題でSF作家としての自己の内面の独白、あるいは苦労話や宣言のようなものを載せている。別名「喧嘩新聞」の名の通り、SF同人誌やファンは『稚拙』『無神経』『思いあがり』『てにをはもろくに使えない』などとかなり手きびしく非難されている。かの小松左京氏ですら彼一流のあたりさわりのない表現ながらも、やはりSF狂にチクリと針を刺しているのである。
     確かに一部のファンの中には(今でもそうだろうが)SFとレッテルの貼ってある本しか読まない人種がいて、ここまでがSF、これはSFではないなどと、さしてSFの本質とはかかわりのなさそうな分類をして喜んだり、そういう固定化した概念でSFこそ最高のものと信じたりする傾向があった。そして無神経な文調の批評とも呼べないようなシロモノを書き散らしては、出版社へ送り込んだりする人間もいた。ここでファンだけを弁護するのは、従って、あるいは公平を欠くかもしれぬ。
     しかし当の本人である木村氏について私見を述べれば、彼は非常に広範囲な読書家であり、決してSFしか読まぬといったSFパラノイアではない。(念のためお断わりしておくが、SFだけ読む人間を悪く言っているのではない。ただ、そういう非難を彼に向けた人に言っているのである。)また「宇宙塵」一〇一号より一一〇号まで連載された「概説日本SF史」に見られるように、すぐれた研究家としてその後活動している事などを考え合わせてみても、少くとも氏についてはあのような攻撃は当てはまらないと思う。多少の筆のすべりは、文章修業途上誰もが一度は通る道であって、むしろ必然的な過程だと言えるだろう。もしそこを通らずにいきなり論理的整合性を持つ冷静にして重厚なる文なぞを書き始めるティーンのライターがいたとしたら、それこそ天才かミュータントであろう。「SF新聞」が攻撃したようにファンダムがSF狂信者ばかりの集まりとも思えないし、またむしろ、広い視野を持った冷静なファンの方が実際には多い筈なのである。むしろ、手塚治虫氏の言葉を借りるなら、『一部のファンにもてはやされてあぐらをかいている作家』が、ちょっと子供につつかれたぐらいでおとな気なく怒る方が滑稽であって、むしろ批評不在だったSF界の体質の方こそ問題にされるべきであったろう。今振り返ってみても、どうもこれは作家と青少年ファンの泥試合であったというマイナス面の印象の方が強い。
     そういう騒ぎから意識的にか身を遠ざけていた山野浩一氏、星新一氏らは同紙にかなり興味深い文を載せている。山野氏は早くもこの頃から「別のSF論――狂気の文学へ突入せよ!」でスペキュレティヴ・フィクションとしてのSFの可能性への志向を垣間見せ、星氏は「ブラッドベリ私論」「マンネリについて」などユニークなエッセイを載せているのだが、なぜかそういうものはファンの間でもあまり話題にされなかった(例外的に“コア”の荒巻邦夫氏が反論を寄せて、山野――荒巻論争の発火点となった程度)。そういう所に(全体としてこの騒ぎ一つをとってみても)どうでもいい事に大騒ぎし、肝心な所は素通りするといった、妙に馴れ合い的ないいかげんさを、作家もファンも持っていたことがうかがわれる。SFが理解されなかったことの反動で、SF界自体が一つの閉鎖集団を形成してしまい、その中で何事も帰結させて、自己満足に浸っていたような所があった。
     どうもいささか私見を述べすぎて脱線してしまったようだ。その後も“次元”の宮倉康三氏らが「SFの朝」というパロディをタイプB5版で出版して応酬するなど小ぜりあいが絶えなかったが、この事件の結果、〈ファン嫌いのF氏〉という固定観念ができてしまったのは事実のようだ。この事件に双方が費したエネルギーをもっとSF作品そのものとかかわりのある本質的な問題に使い得ていたらと思うと、惜しい気がしてならない。

     一九六六年一月、横浜の“SFコンパニイ”は〈CYの集い〉で高三になる佐藤昇氏から高一になる矢野(あつし)氏に代表を交代した。矢野氏は本誌にブラッドベリの「キリマンジャロ・マシーン」の翻訳を発表しており、現在も翻訳を勉強中で、近々「SFM」にも登場の予定という事である。なお、矢野徹氏とは何の関係もない由。
     また二月には「宇宙塵」がプロ作家の作品をずらりと並べた百号記念号を出した。そして、この月、青少年ファンジンとしては恐らく初のタイプ印刷で、木村一平氏の“空間クラブ”会誌「ノヴァ」四号が出たのである。

     後註
     松下正巳氏は「SFコンパニイ」のエッセイ「コレクター入門」で人気を集め、「NW−SF」二号に「収束された時間、都会で」でデビューしている。


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