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トップページ > 各種論文目次 > H19.08.05 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論1

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いはゆる「保守論壇」に問ふ<其の五>日韓の宿痾と本能論

崔基鎬教授との邂逅

去る7月23日、私は、韓国ソウルの某所において、現在は加耶大学校国際通商観光学部客員教授である崔基鎬(チェギホ)教授とお会ひした。これは、崔教授が祥伝社黄金文庫から『歴史再検証 日韓併合』を最新刊として上梓されたお祝ひのご挨拶をするためでもあつた。

ご存じの方も多いと思ふが、崔教授は、日本統治下の大正12年生まれで、日韓問題に関する日本語の著作も多く、自己の体験も踏まへて、日韓併合は韓国人にとつて正しい選択であつたとする立場である。

崔教授は、開口一番、「私は、今でも日韓併合は正しかつたと思つてゐます。もし、大東亜戦争がなかつたら、今頃は日韓、日台が一体となつて、満州まで共栄圏が確立してゐたはずなのに、誠に残念です。もう一度日韓併合をすれば、韓国病に蝕まれた今の韓国を正すことができます。このままでは忘恩の民族に将来はありません。」といふ趣旨のことを、はつきりとした口調で云はれた。

なぜ忘恩の民族なのか。それは、李氏朝鮮の末期の暗黒時代から救ひ出してくれた日本に対し、官民挙げて歴史を歪曲捏造してまで日本を加害者に仕立て上げ、その恩に報ひる恨みを以てする邪曲な忘恩の所業を続けてゐるからであるとされる。

韓国病

崔教授は、国民性の頽廃と民度の低さを意味するこのやうな韓国病の原因について、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致されて処刑されたとされる近代韓国文学の祖と云はれた李光洙が著した『民族改造論』に民族衰退の原因として挙げた点を次のとほり引用されてゐる。

一、虚言と騙し 韓国人の間では、嘘と騙しのために相互に信じられず、「外国人は信用していても、韓国人を信用しない」奇妙な現象がある。
二、空想と空論 韓国人は美辞麗句を連ねるが、実行が伴わない。他人の行動や話の揚げ足をとり、問題点を探すだけで空論に陥ることが多い。
三、裏不同 人の前ではへつらい、背後では批判し、悪口を言う。恥知らずの態度だ。
四、怯懦(臆病)、卑屈 物事に怖じけ恐れる、臆病である。他人のことを気にし、決断する意志が弱い。
五、利己主義(非社会的) 社会的公益には無関心だが、自己と家族、私党のためには極端なまでに利己的となる。・・・以下略。

崔教授は、これらこそ、現在の韓国を深く蝕む”韓国病”そのものにほかならない、とされた。現在では、これよりもさらに屈折してゐるやうだが、支那の属国であつた長い歴史が民族性を頽廃させたといふことであり、そのことを韓国において堂々と指摘して民族の再生を強く願つてゐる崔教授は、真の愛国者と云へる。

無頼漢が他民族(唐)の勢ひを借りて自分たちの民族国家(百済、高句麗)を打倒して唐の属国に成り下がつた「統一新羅」。そして、民族国家の高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の属国と成り下がつた「李氏朝鮮」。この統一新羅の259年間と、李氏朝鮮の518年間の、通算777年の属国時代によつて韓民族の民族性は歪められたとされる。ただし、私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へてゐる。

占領憲法と広島原爆慰霊碑

私も崔教授のご著書を愛読してきた一人であるが、今回のソウルでの邂逅は歴史問題といふよりも私の取り組む憲法問題について話し合ひたいといふ主たる目的があつた。といふのも、崔教授は、これまでの著作に加筆されたものを同じく祥伝社黄金文庫から今年6月に再度上梓された『韓国 堕落の2000年史』にも、占領憲法に関して興味深いことを書かれてゐたからである。

それは以下のとほりである。前後の脈絡との関係から、少し長くなるが引用してみたい(186頁以下)。

日本人は先の大戦に敗れてから、高度経済成長によってたしかに体は大きくなったが、それにつれて、日本人らしさを失ってきたのではないか、とも思う。

それにしても、姜汎は炯眼の持ち主だった。『看羊録』のなかで、日本人の「風俗といえば、小事に聴く大事に疎い。衆人が尊び誉れとすることは、内容もよく調べずにひたすら従い、いったん惑わされてしまったら、死ぬまで覚ることがない。これこそ、蛮夷の陋劣というものである」と述べている。

これは今日の日本人がアメリカによる保護を天与のものとして、それが未来永劫に続くものと錯覚して、アメリカが日本を属国とするために強要した”平和憲法”を崇めていることを見透かしているように思える。

今日の日本が、アメリカ文化を競うようにして模倣して恥じることなく、アメリカに国家の安全と未来をすべて託しているのを見ると、李氏朝鮮の中国に対する事大主義を想起せざるをえない。中国に憧れ服属したことが、李朝時代を通じて韓民族を堕落させたという事実を、よもや日本人が知らないではあるまいに。

また、他の箇所では次のやうに記述されてゐる(201頁以下)。

「大清皇帝功徳碑」は、その後も韓民族の歴史のなかに登場する。

一八九五年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第二十六代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。

「大清皇帝功徳碑」は、一八九五年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は韓日併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。

一八九三年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟三十二号に指定されている。

しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。

日本にはその歴史を通じて、「大清皇帝功徳碑」も「迎恩門」もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。

しかし、そのかわりに今日の日本には、日本国憲法と、広島の市の中心にある平和公園に、「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑がある。

公平に見て、日本の対米戦争にはそれなりの言い分があったように思える。一九四〇年代のアメリカが、「寛温仁聖」を備えていたとは、とうてい言えまい。それなのに多くの日本国民が、アメリカに敗れたことによって、まるで冬が春に代わり、旱魃が慈雨によって潤されたと信じるようになっている。今も昔も大国に対する小国の罪は、重いものなのだろうか。

かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。今日の日本では、平和主義が李氏朝鮮の慕華思想に相当するようになっている。

もしかすると、李氏朝鮮の歴史から教訓を学ばねばならないのは、韓民族だけではなくて、今日の日本国民も同じなのではないかとも思う。

私がこれを読んだとき、崔教授は占領憲法の護憲や改憲といふやうな戦後体制保守の立場ではないし、しかも、戦前まで運命共同体であつた韓国の側から、占領憲法による戦後体制を根底から否定する見解が出てきたことに大いに感動したことを鮮明に覚えてゐたからである。

私は、これらの記述部分を指摘しながら、我が国のことに話を変へて、崔教授に私の思ひをいろいろとぶつけてみた。まづ、占領下で作られた占領憲法が無効であること、それがポツダム宣言、降伏文書及びサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)と同様に帝國憲法第13条の講和大権に基づく講和条約の限度で効力があることなどを説明してみた。すると、崔教授は、このことに大きく頷かれて、占領憲法などは、李氏朝鮮が西暦1637年1月30日に清の属国となつたときの和約に似てゐると思ふと話された。

恥辱碑と恥辱旗

この和約とは、前出の「大清皇帝功徳碑」(大韓民国史蹟第101号指定)の由来のとほり、朝鮮王の仁祖は、命乞ひをし、それまで軽蔑してゐた胡服を着て、今のソウルの松坡区石村洞三田渡の地に設けられた「受降壇」(降伏を受け入れる拝礼壇)において、清の太宗に向かつて、九回地面に頭をつけて叩頭する拝礼を行ひ、その後に清からの一方的な講和を結ばされたことを意味する。

ともあれ、通算777年間の属国時代で罹患した「韓国病」が「慢性疾患」の属国病であるとすれば、占領憲法と原爆慰霊碑で金縛りになつた我が国の「日本病」は、その100分の1にも満たない占領時代だけで罹患した「急性疾患」の占領病といふことにならう。

日韓併合前の李太王がヘーグの万国平和会議に密使を派遣した企て(ヘーグ密使事件)は失敗に終はつたが、これを夜郎自大と嘲るのであれば、占領憲法の強制がヘーグ条約や帝國憲法に違反することを国際世論に訴へることを民間団体だけでも働きかけることが当時できなかつたことは、怯懦卑屈であつたと自嘲せねばならないことになる。

また、この韓国病について云へば、韓国では、「大清皇帝功徳碑」を三田渡碑(サムジョンドビ)とか恥辱碑(チジョクビ)と呼ぶものの、同じく李氏朝鮮が宗主国である清(大清帝国)の従属国(属国)であることの証しとして清から下賜された「太極旗」(テグキ)を原型とする旗を、「属国旗」とか「恥辱旗」とせずに、未だに大韓民国の独立国旗として用ゐてゐることも、韓国病の重篤な症状に一つに他ならない。太極旗の意味するものは、宗主国の命ずるままに国家教学とされた朱子学の学祖である朱熹の理気説を易学的に顕したもので、韓民族の独自性などはどこにもない。そして、韓国が支那の属国旗を使用し続けることは、政治的に見ても、現在の中共が推し進める領土拡張政策に絶好の口実を与へることにもなる。にもかかはらず、韓国が新たに独立国の国旗を求めることをせずに、属国病からくる習性として太極旗を今でも国旗として掲げ続けることに、韓民族に染みついた慕華と受降によつて恥辱を名誉に倒錯してしまつた「刷り込み」の悲哀を感じざるを得ない。恥辱を名誉に倒錯させることによる怨恨の鬱積は、ニーチェのいふ「ルサンチマン」であり、これが韓国の「恨(ハン)」の正体である。

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