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衛星写真を利用した渤海都城プランの研究(要旨)

小方 登

本稿では,1960年代に米国が収集し近年公開された偵察衛星写真(CORONA衛星写真)を利用して,古代の渤海国の都市計画システムを検討する。最近の報告書における筆者による復原に基づき,これらの都市計画に共通する諸原則を明らかにすることを試みる。また,衛星画像が歴史地理学や考古学への応用に有効であることを立証することを目指す。
 渤海国は698年から926年にかけて今日の中国東北部に存在した王国である(第1図)。この国は,ツングース系民族と668年に滅亡した高句麗の遺民とによって建国され,中国の文化や制度を取り入れて,高い文化水準を誇った。渤海は,唐に朝貢する一方で,海を越えて日本にもたびたび使節を派遣した。渤海自身による記録は失われたため,中国の史書や使節にまつわる日本側の記録,また考古学的遺物によって,その繁栄をかいま見ることができるのみである。1060年に編集された『新唐書』は,渤海を「海東の盛国」と賞賛し,「五京」を有していると記した。
 『新唐書』に記された渤海の五京とは,上京竜泉府,中京顕徳府,東京龍原府,南京南海府,西京鴨緑府である。東京はまた日本への門戸とされた。これらの京のうち,上京(黒竜江省,寧安),中京(吉林省,和龍),東京(吉林省,琿春)は,1930年代から40年代前半にかけて,日本の考古学者によって調査・確認された。これらの調査の報告書から,上京が,方形の内々城・内城・外城からなる三重の構造と格子状の街路をもつ最も重要な遺跡であることが知られる。この都市計画の方式は,中国の首都,長安を模倣したもので,当時の朝鮮半島や日本にも取り入れられた。中京と東京については,方形の内城は明確だが,外城や格子状街路の存在には疑問がもたれていた。
 筆者による最近の報告に基づき,上京,中京,東京のプランの痕跡を衛星写真を利用して再検討した。上京は,最も長期間王都であったといわれてきた。上京の衛星写真(第3図)からは,方形の城壁と格子状街路が非常に明瞭であり,渤海の遺跡の中で最も重要なものであることを再確認できた。宮城の門から外城の南門へのメインストリートが抜きん出て道幅が広いことがわかる。横方向の街路の中では,宮城(内々城)の南面に接する街路が他よりも広い。これは,東アジア古代国家に共通する典型的な都市計画方式を示すものである。第2図は,衛星画像を用いた筆者による上京の復元図である。
 中京は,750年前後の短期間,王都であったといわれてきた。中京の衛星写真(第5図)を用いて,すでに知られている内城のまわりに外城と格子状街路が存在するか,検討した。農地のパターンや雪のマークが,メインストリートと,内城南面に接する横方向の街路の痕跡を示している。水路のパターンはまた,外郭の痕跡を示唆している。これらの痕跡から,都市全体の復原案を提案した(第4図)。
 東京は,日本への門戸であり,790年頃王都であったといわれてきた。しかし,日本に残る渤海からの使節の到着日と到着地の記録によれば,820年頃航海の出発地は南京に移ったことがわかる。東京の衛星写真(第7図)からは,すでに知られた内城の外側に,メインストリートと2本の横方向街路が明瞭に読みとれる。城壁は一度も構築されなかったらしい。このプランの最も顕著な特徴は,メインストリート(190m)と横方向街路の一つ(130m)の並はずれた広さである(第6図)。
 近年の中国の劉暁東と魏存成による研究では,上京のプランの三重構造は歴史的な拡張の段階を反映しているとの仮説が示された。彼らは上京の内々城が中京および東京のそれと同様の設計に基づいていると見られると指摘した。CORONA衛星写真からも,上京の内々城と中京の内城の設計が全く同一であることが明らかであった(第3図のIJKLと第5図のABCDを比較せよ)。都市計画のこの方式は,第三代の王,大欽茂(在位738-793)の時代のものと考えることができる。
 渤海の都城に共通する特徴の一つが,メインストリートと内城南面に沿う横方向街路の幅が非常に広いことである。このことは,これらのプランやその上の建物がある種の舞台装置であることにより部分的には説明できよう。大欽茂は日本の天皇としばしば使節を交換したが,どちらが臣下の礼をとるべきかについて対立があったようである。この時代の日本の首都(奈良)もまた格子状街路と幅の広いメインストリートをそなえていた。奈良を撮影した空中写真からの復原によれば,メインストリートに近い街区は特に丁寧に構築されていたことがわかる。外国からの訪問者に国力を見せつけるための舞台装置であるということは,この時代の東アジアの首都に共通する性質だったと考えられる。
 渤海は,高句麗の継承国といわれることもある。高句麗では,山城が都市の近くや主要地点に配置されたといわれる。第8図は,中国東北部に典型的な山城の事例であり,環状の稜線上に城壁があり,内部はすり鉢状になっている。この山城は,高句麗によって創建され,渤海やその後の王朝において継続使用されたと考えられている。中京の南西5kmにある別の山城も,衛星写真上で確認できた(第9図)。渤海の山城の立地と構造についての包括的な研究は,今後の課題である。
 渤海の都市計画は,同時代の他の東アジアの国家のそれと同様,「誇示的」な性格を帯びているといえる。中国の制度・文化の忠実な受容者であった一方で,渤海はまた山城のシステムのような中国東北部や朝鮮半島北部に固有の土着的な文化を保持していたと思われる。

キーワード:歴史的景観,衛星写真,古代東アジアの都市計画,渤海国,山城

人文地理,52巻2号,2000年,129〜148頁)


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