「反韓流」デモを考える
「偏向放送をやめろ!」
「デモの『きっかけはフジテレビ』」
そんなシュプレヒコールが聞こえる東京・お台場。2011年8月21日、フジテレビ前に推定5000人が集まり、「反韓流デモ」が実施された。特定のテレビ局が偽りの「韓流ブーム」をつくりだし、公共の電波を使って韓流ドラマばかり放送するのは間違っている……。高岡蒼甫氏のツイートの一文が5000人規模のデモにまで発展していく様子を、筆者は興味深く観察している。
「反韓流」という主張をするのは自由なので、このようなデモが実施されることに筆者はとくに抵抗を感じない。ただし、同じ考えの人間が多数集まり、気が大きくなってしまい、差別的な発言をしたり相手を誹謗中傷するようなことは許されない。デモの目的が「何かに対して反対すること」ならば、反対される側に反対する側の声が届かなければデモの意味がないからだ。
ときに、反対される側から市民運動を眺めると、反対するために人が集まるのではなく、人が集まるために反対運動をしているように見えることがある。そうなると、「反対すべき事柄」は単なるきっかけとなり、大勢が集まってひとつのことを達成すること「自体」が重要になってくる。「反対する理由」を相手に理解したり訴えたりすることよりも、大勢が一体化して相手をなじることが運動の「目的」に変容するのである。
そうやって運動の目的が変容した集団を反対される側から眺めると、「これはデモではなく、エゴなのではないか」と感じたりもする。例えば、森達也監督の『A2』(2001年)という映画では、徹底して「反対される側」(オウム真理教=アレフ)の視点から見た「反対する側」(市民、警察、一部の右翼など)の様子が撮影されている。これを観た筆者は、「反対される側」にシンパシーを感じることはなかったが、一部の市民を除く「反対する側」にもほとんどシンパシーを感じなかった。
地域で暮らす信者たちのことも知らず、知ろうともせず、ただただ凶悪事件を起こした教団の人間だというレッテルを貼り信者たちを地域から追い出そうとする市民たち。相互理解をはかろうなどとは考えることなく、集まり、一体化し、信者たちを排除するその姿がただの言葉の暴力をふるう無秩序な集団にしか見えなかったのはおそらく筆者だけではなかろう。『A2』は、8月25日の深夜にニコニコ生放送で無料放送されたので、ご覧になった方も多いと思う。
けっして「反韓流」デモがそうだといっているわけではない。そうなってほしくはない、と思っているのである。加えて、テレビ局が韓流ドラマを流すことに関して一点だけ指摘しておきたいことがある。それは、テレビ番組というものは、基本的に視聴者の趣味や趣向、好みが反映された上で編成されているという点だ。だから、ドラマやCMのキャストに好感度の高い人物を起用する。また、制作した国は問わず、視聴者がよく観てくれそうな番組を放映するのだ。
つまり、韓流ドラマを求めている視聴者が存在するから、テレビ局はそれを放映するという事情も否定はできないと思う。これはフジテレビを擁護しているわけではなく、どのテレビ局もこの点では似たり寄ったりだということを言いたいのである。そういう意味では、フジテレビがやるべきことは、「これだけの視聴者に韓流ドラマは支持されている」というリサーチを徹底しておこない、公表することなのかもしれない。
仮に、韓流ドラマが多数の視聴者から支持されていることがあきらかになった場合、「反韓流」デモの対象は、韓流ドラマを支持する視聴者に移行する可能性がある。そうなると、「反韓流」の視聴者と「韓流」の視聴者がガチでぶつかることになる。ようは、「日本のテレビで韓流ドラマが放映されていること」について、スマートなかたちで是々非々の議論がなされるのだとすれば、それはなかなか楽しみな展開ではある。
(谷川 茂)
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